白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/07/31(木)   CATEGORY: 未分類
学者が切られ、セクハラ部長が残る怪
 教育・研究は、経営とか効率とかとは次元の違う世界である。良い人間を育てる、良い研究することは、いくらかかるとか、いつまでにとかいう金や期限できったりすることも、その「成果」をどう判断するかも難しい部分がある (今は気がつかなくても後で気づいたり、研究もその小さな発見が大きなうねりになったり)。もちろん今の時代に生きる以上、教育や研究も一般にたいする成果の還元や金銭の明朗な管理などがある程度は必要なことは認める。しかし、行き過ぎはいけない。

 ボタン一つおして何千万もうかる投資の世界からみると、研究・教育は何の利潤も生み出さないように見えるかもしれない。しかし、研究・教育は金や規則が基準の世界にはおこりえない献金術をおこすこともある。そして、それがおきると世界が一変するいわばメタレベルの錬金術。

 教育だったら、ダメ人間が真人間になるというミラクル、研究だったら、地味な基礎研究から未来をかえる発見がうまれることもある。株や不動産の上下動でいくばくかの金が得られても、金は金。金は人の心をダメから聖者にかえる力もないし、教養や発見を生み出す環境は提供できても、それらをうみだす主体にはなりえない。金で買えないものは世の中にはたくさんあり、世の中はむしろ金で買えないものによって成り立っている。

 とある研究機関とか教育機関とかにおいて、銀行(=金)とか総務(=規則)の論理が力をもちすぎ、研究者を見下しはじめると、研究者のインセンティブが悪化し、有能な人が離れていき、結局は教育も研究も何の目的もなしとげられない結果におわる。飛べない飛行機、まわらない風車、みたいなものしかできなくなるのだ。世の中には金の論理だけで動かすとダメになるものもあるのである。
 功成り名無し遂げて財をなした人が教育や福祉や研究に熱心になるのは、実は金で買えないものがあることを一番知っているのが彼らだからかも知れない。

 で、前置きはここまでにして、徳川美術館である。 この美術館では六月、セクハラを行った管理部長(銀行出身)を、副館長(研究者)がただしたところ、なぜか副館長の方がクビを言い渡された。

 逆だろ。

 今の大学では、教授がパワハラ・セクハラやったら解雇だよ。なんで管理部長がやめさせられないのかを推測すれば、この部長銀行からの天下りなので、財団側としてはお・か・ねを握られているから? 

被害にあった職員によると、この部長「セクハラ我慢したら、ボーナスアップ」とか脅していたというので、この管理部長、ものすごくわかりやすくいえば、お金をちらつかせて、女の人も徳川美術館自体も思いのままにしようとしていたふしがある。

 この手の話は実は小さな財団や研究機関や大学ではよくある話であり、本当に腹立たしい。

 人間の尊厳や研究や教育という金銭に換算できないものを 金の力で何とかしようとする人を腹立たしいと思う方、もしいらっしゃいましたら、 こちらで現場の学芸員一同が署名活動しております。→ http://chn.ge/1rFTPxt
 
 龍谷ミュージアムの館長さんも怒っています。

以下は署名サイトにある、クビをきられた副館長さんお二人の美術館に対する貢献を述べたくだりです。

 徳川美術館 副館長 四辻秀紀氏、また管理部係長大田智恵氏が2014年5月29日に公益財団法人徳川黎明会(以下財団とする)より退職勧奨を受けました。退職勧奨の理由は、「内部情報の漏洩と、それにより財団の名誉と信用をおとしめたこと」であると口頭で伝えられました。しかし、現在に至るまで両名への十分な事情聴取、および説明はなされておらず、両名は退職に値するような重大な問題行動は身に覚えがないとしてこれを拒否しました。その後7月14日に、財団は本人に説明なく四辻氏の副館長職を解き、館の代表の座を取り上げ、両名への退職勧奨は取り下げず現在に至っています。

 四辻秀紀氏の勤続年数は30年を数え、企画情報部長・学芸部長を経て、2007年より副館長(学芸部長兼務)を務めています。高い評価を得た展覧会を数々担当し、論文も多数執筆するなど、研究者としての実績は美術史関係の学会でも大いに認められるところであり、後進の指導にも熱心にあたっています。

 大田智恵氏は勤続25年で、2013年からは管理部係長として職務を全うしてきました。また、自身で茶道裏千家に入門し、2011年5月には専任講師(茶名)の免状をとり、徳川美術館で行う徳川茶会では茶道の知識に裏付けられた円滑な運営に尽力してきました。

 両名ともに、徳川美術館のみならず地域の文化活動に多大な貢献をしてきたことは美術館内外で認められるところであり、四辻氏は徳川美術館の学芸代表として余人をもって代え難く、大田氏もまた、徳川美術館にとって欠かすことのできない人材です。

 美術館の業務は多種多様であり、さまざまな職種のスタッフが全員一丸となって運営にあたってはじめて、貴重な美術品を適切に管理し、皆様に楽しんでいただける展覧会を開催することができます。この徳川美術館と美術品を守っていくためにも、一日も早く両名の退職勧奨の取り消しが叶うよう、一人でも多くの方のご署名を公益財団法人 徳川黎明会 会長 徳川義崇氏に提出したいと思います。

 この趣旨にご賛同いただき、ご署名いただければ幸甚に存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

                                    徳川美術館学芸員一同


 申し立てをしなかったのか、というコメントがついたので、参考までに以下の記事もあげておきます。セクハラについては被害者が申し立てをしています。


徳川美術館の管理部長がセクハラか 女性職員2人、労働審判申し立て
2014.6.12 15:49 [事件・トラブル]

 徳川家康の遺品などを収蔵、展示する徳川美術館(名古屋市東区)の女性職員2人が、男性管理部長(60)からセクハラやパワハラを受けたとして、美術館を運営する財団法人「徳川黎明会」に対し、計400万円の損害賠償を求める労働審判を名古屋地裁に申し立てていたことが12日、関係者への取材で分かった。

 関係者によると、女性職員2人は管理部長が2人の体に触ったり、デートに誘って断られると「業務命令だ」と威圧したりしたと主張。徳川黎明会が職場環境の改善に取り組まなかったと指摘している。

 徳川黎明会は「申立書が届いていないので詳細を把握できていない。今後、対応を検討していきたい」としている。管理部長は「やっていない」と否定している。2人がセクハラやパワハラを受けていたという内部通報はなかったという。

 徳川美術館は1935年開館。尾張徳川家に伝わる国宝9件、重要文化財59件などを収蔵している。
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DATE: 2014/07/12(土)   CATEGORY: 未分類
スパーリンク氏中国に入国を拒否さる
※ この投稿は編集しました。最初の投稿では東京大学の院生だった時に逮捕されたトフティ・テュニアスとイリハム・トフティさんを同一人物としていましたが別人です。


 アメリカの著名なチベット学者、インディアナ大学のエリオット・スパーリンク氏が北京空港で入国を拒否された。以下の写真の右側が彼である。彼は歴史学者なので自分が二十代の頃から彼を知っているが、その頃からこんなかんじのカッパ風x貌であった。
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 その頃も今も彼は精力的にフリー・チベット運動をやっている。2008年の北京オリンピックを控えた三月、チベット人が蜂起した。中国がオリンピック開催と引き替えに行うはずだったダライラマとの対話は骨抜きになり、弾圧は改善するどころか悪化したことにチベット人がきれたのである。中国政府はチベット人を武力で押さえ込んだため、世界中から中国に非難が集中した(日本のマスコミはオリンピックを前にしていたため北京に気を遣ってマスコミその他の中国に対する批判は抑制的だった 怒)。この時、チベット学者をまとめて、中国政府に対して抗議を行うアクションの先頭にたっていたのがスパーリンク氏であった。

 チベットを愛していてチベット問題に個人的に憤りを感じていても人類学や言語学や登山家などフィールド系の方は、チベット問題についてはっきり意見を言わない。なぜなら、もし彼のように中国政府のイヤガラセにあってチベット人居住域に入れなくなると、とたんに研究やライフワークや商売が頓挫してしまうから。

 その点歴史学者は現地調査が必要不可欠というわけではない。研究対象が遙か昔で、古いものはあらかた共産党が壊してしまったから。われわれは歴史資料さえあれば、それでOK。スパーリンク氏も以下の記事中で述べるように、研究が頓挫まですることはない。それに今の中国は入ってもね、いろいろ制約があって不愉快なんだよね。中国が民主化して、チベット各地にある史料館に外国人が自由にアクセスできるようになったならば、もちろん何度でも喜んで訪れたいけど。

 スパーリンク氏の入国拒否の原因となったのは、この記事によるとイリハム・トフティ氏(写真左)と彼の交友関係によるものだという。
 以下にスパーリンク氏の入国拒否を伝えるニューズ・ウイークの記事を和訳しました(ソースはここ)。例によっていい加減なので、許してね。
 
News Week 2014年7月7日 By EDWARD WONG

ウイグル学者のために発言したアメリカの学者を中国は入国拒否した

北京。先週末、アメリカ人教授エリオット・スパーリンクはニューヨークから12時間のフライトの後、北京に着陸した。しかし、空港内にある小部屋に辺防官吏によって連行され尋問された。教授は一年間有効期限のある観光ビザを持っていたにも拘わらず、たった今乗ってきた同じユナイテッド航空便に乗せられて、アメリカに戻された。

 スパーリンク氏は「ウイグル人の経済学者イリハム・トフティ氏は中国政府に分離主義者の罪をきせられ、その逮捕は全世界の怒りを招いた。彼を口頭で支持したことに対する、イヤガラセだと思う」と述べた。

イリハム・トフティは中国国内で追い詰められていくウイグル人たちの擁護者であり学者である。彼は水曜日(6月25日)に逮捕された。

 スパーリンク氏の強制送還とビザの無効化は、中国が穏健な学者トフティ氏を擁護しようという国際的な動きをつぶそうと必死なことを明白に示している。トフティ氏の逮捕をアメリカ国務省も人権擁護団体その他も非難している。五月に言論の自由をうたうPENアメリカ・センターはトフティ氏に賞を授けたが、氏が不在なため、娘のJewher Ilham氏が代わりに受け取った。

 イリハム・トフティ(左)とスパーリンク (2012年8月)。 チベットの歴史を教えるスパーリンク氏は〔入国拒否の理由を〕「中国は自分をトフティ氏を支援したからだ」と思っている。

 中国の官僚が政治的に不快と感じるような執筆や発言を行う学者やジャーナリストらを、中国は最近とみに入国拒否し続けている。このような中国政府の戦術によって、知識人が中国から入国を拒否されないように発言や執筆を自主規制するのでなはいかという懸念が増している。一部のアメリカ人たちはアメリカ合衆国に対して中国に圧力をかけるように要求している。スパーリンク氏の入国拒否は、じつはアメリカの高級官僚が北京において米中戦略・経済・対話の一部分として様々な問題を中国と協議するべく北京についた時に起きた。

 スパーリンク氏はこういう。「私にとっての問題は、入国拒否されたことではない。私は中国に行かずとも研究も学究生活も続けることができる。問題はイリハムを支援する人々に圧力をかけて黙らせたり、孤立させようとしていることである

 スパーリンク氏(63才)はインディアナ大学でチベット史を教えており、かつてトフティ氏に同大学の中央ユーラシア研究所の客員研究員として一年間すごせるように計らった。2012年に出会っ以来二人は友達であった。しかし、アメリカにむけて飛び立つべくトフティ氏が北京首都国際空港についた2013年2月に、トフティ氏は警察官に拘留された。同伴していたトフティ氏の娘はそのフライトにのって、今はインディアナ大学で学んでいる。

 トフティ氏はもともと二月に分離主義の罪状をきせられていた。支配者である漢人とウイグル人との間で民族的・政治的緊張が近年先鋭化し、ウイグル人の故郷である新疆西部においては今も尚暴力的な衝突が再燃している。「トフティ氏はウイグル人と漢人の間における対話を促進しており、ウイグル独立を提唱したことは一度もない」とスパーリンク氏はいう。

 土曜日にスパーリンク氏がトラブルに巻き込まれた飛行場は2013年にトフティ氏が拘留されたのと同じ飛行場である。スパーリンク氏は最近シカゴの中国領事館から一年の観光ビザを取得していたが、空港の辺防官吏は入国を許さず、小さな部屋で一時間にもわたって彼を尋問した。ある時点で、官吏は高さ測定のチャートの前でスパーリンク氏の写真をとった。そう、警察が容疑者を拘留する際にとるあの顔写真である。

 スパーリンク氏の観光ビザは2015年の6月15日まで有効であったが、「キャンセル」の言葉が青いインクでスタンプされ、ビザの上には黒いインクでバッテンがつけられた。
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スパーリンク氏は「私はこのビザを中国共産党人権賞と呼んでいます

「明らかに中国のデータベースに私に関する命令が入っています」続けて「議論の余地はありません。なぜ私が入国を拒否されたのかといえば、それは明らかにイリハムの件であることは極めて明白です。」

 スパーリンク氏のケースについて月曜に問い合わせがきた時、公安のビザ担当部署の電話にでたチャンという姓の警察官は、「聞いてない」といった。外務省のプレス・センターにつとめる職員もまた「何の情報もない」と言った。北京のアメリカ大使館はコメントを拒否した

 スパーリンク氏は彼のチベットに関する研究や中国政府にとって「敏感な問題」が今回の入国拒否の主因ではないという。これまでスパーリンク氏はしばしば観光ビザで中国を旅してきた。2010年には漢人学者が主宰するチベットに関する私的な学会の招待に応えて中国に渡っている。2011年にもスパーリンク氏はワーキングビザで訪問研究員として北京大学に四ヶ月滞在した。この間、氏は北京周辺の人民大学や中国社会科学院などでチベットに関する専門的な講義を行った。

 スパーリンク氏は中国に入国を拒否された西側の学者のリストに新しく連なることとなった。1989年の天安門事件を内部見た「天安門ペーパーズ」を編集した合衆国の二人の教授Perry Link と Andrew J. Nathanはビザを得ることができず、やはりこの本のために働いたOrville Schellは短期のビザしか取得できていない。

このリストの中で最も有名なのは、2004年新疆選集に寄稿した13人の学者であろう。彼らは中国のビザのブラックリストに載せられている。このうち四人から五人は近年中国のビザをやっと取得できるようになってきた。

作家としてはGardner Bovingdonがいる。彼はインディアナ大学の中央ユーラシア学科のスパーリンク氏の同僚である。友人達が彼のために中国当局に働きかけた結果、2013年5月彼はビザを取得した。彼は一月後北京に着陸したが、スパーリンク氏が土曜日に受けたようなしうちとともに、空港から辺防官吏によって送還された。Bovingdon氏はカザフスタンからの電話インタビューでこういった (彼は中国から入国を拒否されたためその間カザフスタンで研究をしているのだ)。

Bovingdon氏は「私の入国の拒否はインディアナ大学とトフティ氏の結びつきとは直接には関係しておらず、新疆選集に端を発するブラックリストが関係したのだと思う」

 中国は最近、「敏感な問題」の報道を押さえるために、ジャーナリストやニュース組織のメンバーをビザ非発給のブラックリストにアグレッシブにのせている。辺防官僚は最近ロイターのPaul Mooney とアルジャジーラのMelissa Chanの長期滞在ビザを拒否し、彼らを北京から去らせた。中国はニューヨーク・タイムズとブルームバーグ・ニュースにもまた二年間のビザ発給を拒否した。ブルームバーグは温家宝の家族の隠し財産について2012年に報道している。

 スパーリンク氏は昨年観光ビザで中国を訪れた。しかし、彼はいつ中国に戻れるかは分からないといっている。

「ブラックリストからはずれる手段があるのかはわからないが、私は自分の行動を変える理由をみいだせない。」「私は声高に異議を唱えたことは認めるが、それ以外、何も悪いことはしていない。そして、ビザを得るために北京の権威主義に従う意志もない

 。いつになったら中国政府はウイグルやチベットの人々に対する態度をまっとうなものにかえるのだろうか。歴史学者がチベットやウイグルの史料を自由に見られるようになる日はいつくるのだろうか。
 私は予言者じゃないから未来のことは分からない。希望としては早くその日がきてほしい。
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DATE: 2014/07/03(木)   CATEGORY: 未分類
シムラ条約調印百年 
本日7月3日はシムラ条約が締結されて百年目である。ちなみに、今日が百年目なのに気づいたのは夕方になってからで、どうしても今日アップしたくて急いで書いたこのエントリーにはマチガイがあるかも。マチガイに気づいた方は、ふるってご指摘ください。さて本文です。
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 20世紀初頭、清朝はチベットやモンゴルにかつてない実効支配を開始した結果、チベットもモンゴルは猛反発した。
 1909年にダライラマ13世は清朝皇帝に由来する称号の使用をやめ(というか1904年には中国はダライラマ13世から一方的にダライラマ号剥奪してるけど爆笑)、1913年には亡命先のインドから帰国して、自立を宣言した。モンゴルにいたっては辛亥革命の一ヶ月後の1911年にはジェブツンダンパ8世を首班にした独立国家を宣言。1913年にはチベットとモンゴルが互いの独立を承認しあうチベット・モンゴル条約を結んだ。

 チベット人とモンゴル人はこのようにともに強く独立国家としての承認を強く望んでいたが、帝国主義の時代、両者の国際的地位はご当地でのグレート・ゲームの二大プレーヤー、イギリスとロシアの意向で決まることとなった(当事者の頭こなしは今から考えるとヒドイ話)。

 1913年11月5日、中国とロシアの間で、ロシアが外モンゴルに対する中国の宗主権を承認し、中国は外モンゴルの自治を承認する、露中宣言を行い、1914年7月3には、イギリスとチベットと中国の間で、イギリスが外チベットに対する中国の宗主権を承認し、中国は外チベットの自治を承認するシムラ条約を締結した。

 チベットは20世紀に入るまで清朝の支配を受けたことがなかったので、この中国の宗主権を認める条は耐え難いものがあったが、イギリスに説得され、国際的地位のために涙をのんだ。中国もこの条約に不満であった。それはここで述べられている外チベットと内チベットのラインが彼らから考えると「チベットより」で受け入れがたかったからである。
 内チベットとはチベットから見れば東チベットのことであり、内・外表記は中国からみた表現である。東=内チベットはむろんチベット人の居住地域であるが、1906年以後この地域の広範な部分に中国軍が侵攻・占領した。中国側はこの地域=内チベットを広くとろうとし、ダライラマ政権は1906年以前の状態にできるだけ戻そうとして、会議は紛糾したのである。

 結局、中国の全権大使は草稿にイニシャルでサインをしたのみで、最終的に中国は条約の批准を拒み、シムラ条約はイギリスとチベット二国間で締結された。
 その後、モンゴルはロシアの支援の下自治を獲得し、現在も独立国である一方、チベットの方は、国際的な地位を曖昧にしていたため、1913年から1950年までの間、事実上独立国として機能したものの、1951年、中華人民共和国軍に滅ぼされた。
 その因縁のシムラ条約の英文からの和訳は以下の通りである。

 大ブリテン、中国、チベット条約 シムラ 1914年7月3日

英国・アイルランド連合王国と海を越えたイギリス領土の国王陛下にしてインド皇帝、
中華民国の大総統閣下、そして
チベットのダライラマ猊下
 〔この三元首〕は、双方の合意によってアジア大陸にある数々の国々の利益についての様々な問題を解決することを望み、かつさらに、それら政府の関係を規制することを心より望むため、この問題について条約を締結することを決意し、かつ、この目的のためにそれぞれの政府の全権大使、すなわち〔以下の三人〕を任命した。
 英国・アイルランド連合王国と海を越えたイギリス領土の国王陛下にしてインド皇帝〔の全権大使として〕、アーサー・ヘンリー・マクマホン卿、ロイヤル・ビクトリアン・勲章の等勲爵士(Knight Grand Cross)、インドの星二等勲爵士(Knight Commander of the Most Exalted Order of the Star of India)、インド政治外交局の長官
 中華民国の大総統閣下〔の全権大使として〕、陳貽範氏、〔二等〕嘉禾章Chia ho勲章将校
 チベットのダライラマ猊下〔の全権大使として〕、大臣ガデン・シェーダ・ペルジョル・ドルジェである。
 この三人は互いに全権を伝え合ったのち、よくかつ適性な形にあることを確認して、以下の十一条項の条約に同意し、これを締結したのである。

 第一条項
 現条約の附則に記入されている条約は、これより以後修正されたり、現条項と矛盾したり不一致があったりする場合を除いては、条約締結国を拘束し続ける。

 第二条項
 英国と中国の政府はチベットは中国の宗主権のもとにあることを承認し、かつ、外チベットの自治を承認しつつつ、チベットの領土の全体性を尊重し、外チベットの行政に干渉しないこと(ダライラマの選定権・任命権を含む)を約束する。これらはすべてラサにあるチベット政府の手の中にある。
 中国政府はチベットを中国の一省に編入しないことを約束する。英国政府はチベットやその一部を併合しないことを約束する。

 第三条項
 中国政府は、チベットの地理的な位置の利点、および、実効的なチベット政府が存在すること、インドの国境と隣接する国々の平和と秩序を維持することについて、英国の特別な関心を承認して、本条約の第四条項に述べられている以外の場合において、外チベットに軍隊をおくらないこと、また、軍民の役人を駐留させないこと、また、チベット内に中国人の入植地をつくらないことを約束する。この条約に署名した時点で、もしこのような軍隊や役人が外チベットに残留しているならば、三ヶ月の期間を超えずに撤退をすること。
 英国政府はチベットに軍民の役人(1904年の7月に、英国とチベットの間で結ばれた条約で規定されたた場合を除く)あるいは、軍隊(外交官の護衛を除く)、を駐留させず、また、チベットに入植地を建設しないことを約束する。

 第四条項
適当な数の護衛をともなった中国の高官がラサに留まることを認める過去の協約の継続性を、先述の条項は排除しない。ただし、この護衛はいかなる場合においても(in no circumstances)300人を超えてはならないことを、ここに規定する。

 第五条項
中国とチベットの政府は、チベットに関するいかなる交渉であれ、協約であれ、互いの国あるいはそれ以外の国ともおこなってはならない。ただし、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約、あるいは1906年4月27日に英国と中国の間で結ばれた条約に規定されたような、英国とチベットの間の交渉および協約を除く。

 第六条項
1906年4月27日に英国と中国の間で結ばれた条約の第三条項はここに無効となる。そして、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約の第九条項のdに記されている"外国"には中国は含まないことが理解された。
 イギリス交易に対して、中国交易あるいは中国以外の友好国との交易とも同じ好意的な待遇が与えられるべきである。

 第七条項
(a) 1893年と1908年に〔イギリスと〕チベット〔の間で結ばれた〕通商条約はここに無効となる。
(b) 中国政府の同意がある場合を除き、このような〔通商〕規則が決して条約に改変をもたらさないという条件で、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約の、第二、第四、第五条項を施行するべく、チベット政府はイギリス政府とともに外チベットに関する新たなる通商条約を遅滞なく取り決めること。

 第八条項
ギャンツェに駐留するイギリス外交員は、1904年9月7日に英国とチベットの間で結ばれた条約から生じた諸問題で、手紙の交換あるいはその他の手段を用いてもギャンツェにいては解決が不可能であることが判明したものについて、ラサのチベット政府と相談する必要がある時はいつでも、護衛とともにラサを訪れることができる。

 第九条項
 現条約のために、チベットの国境、外チベットと内チベットの境をここに添付した地図の赤と青のラインで示した。
 現条約のなにものをも、内チベットに対してチベット政府が有している現有の権利を損なうことはない。そしてその権利の中には、僧院の高僧の選定・任命権、宗教的な組織に影響するすべての事柄に対する全権を保持する権利を含んでいる。

 第十条項
 現条約の英語、中国語、チベット語の版はそれぞれ注意深く検討されて、一致することが確認されている。しかし、もしこれら三語の間に相違があるようであれば、英語版を優先する。

 第十一条項
 現条約は署名の時点から発効する。
 各全権大使がこの条約に署名・捺印した証拠として、英語で三部、中国語で三部、チベット語で三部〔を作成する〕ある。
 1914年7月3日、中国暦では中華民国三年の7月3日、チベット暦では木の虎の年の五月十日ににシムラで締結された。

大臣シェーダのイニシャル
A.H.M.のイニシャル
大臣シェーダの判子
イギリス全権大使の判子
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DATE: 2014/06/11(水)   CATEGORY: 未分類
14バースデー・エピソード
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 今年は梅雨入りが早く、私の誕生日の6/6より四日も前に梅雨入りし、誕生日当日も災害レベルのどしゃぶりであった。人間が増えすぎたことにより生じた地球環境のアンバランスはもう明らかにやばいレベルになっている。

 ちなみに、毎年誕生日になるといやがらせに年齢の入ったケーキをかってくる院生Mが休学してしまったので、今年は誰も気づかずやりすごしてくれるかなーと思ったら、TAのIくんとSちゃんが前日、研究室にきてくれて、お祝いしてくれた。
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プレゼントがホワイトボードの黒板消しに、コロコロって、私が面倒くさいからタオルでホワイトボードを消していたのが、きっとみるにたえなかったのね。ケーキには数字も生えていないし(笑)、いい子たちだ。

 そして6/6、ゼミである。この席で、早稲田祭でペマツェテン監督の映画の上映をやらないかと学生に呼びかけてみる。すると、

Nちゃん「先生、早稲田祭参加申し込みは明日までですよ」

私「確かMくん運営スタッフだったよね。どこで書類受け取ってどこにだせばいいの?」

Mくん「土砂降りで今日は屋外のブースは閉まっているそうです。どこに移ったか聞いてみます」

そして、四年の時間になり、この上映会の話しをもちかけると、四年生

Sくん「バイト料いくらくれますか」

Oくん「映画なんてもうかりませんよ」

Mちゃん「大隈講堂でセデックバレやった時はタダだから来たんですよ。お金とったら誰もきませんよ」

と、やる気ナッシング。

 彼らの話しを聞いていて分かってきたが、学生にとって早稲田祭とは露天で大もうけして、一年の部活費を稼ぐ日であり、来場者にアカデミックな情報発信をするなんて発想がそもそもないのだ。せちがらいのう。

 なので、「チベットのことを何も知らない人に、チベットの今を発信する場であって、別にお金儲けが目的でないこと」を説明する。でも反応悪い。なので思わず「今日は私の誕生日なの。御願い協力して」と叫ぶと、
 SくんとMちゃんが参加のための申し込み書をもらってきてくれるという。面倒くさがりではあるが、基本はやさしい子たちなのだ。

 しばらくして、Sくんから電話があり、「屋内に移動した受付は行列で、書類受け取りに1時間かかるそうです」

私「交代要員をおくる。とりあえず帰ってきなさい」と電話をきったのに、えんえん二人は帰ってこない。
しばらくすると、ずぶぬれになって戻ってきた彼らの手にはアニバーサリーのケーキがあった。
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私「ありがとう。こんな雨の中、気を遣わせてごめんなさい。で申し込みの書類は?」

Sくん「もう明日にしようかって」

とにかく、ありがとう・・・。

そしてその晩はダンナとバースデーディナーに目黒にいったが、あまりの土砂降りに店につくまでずぶ濡れ。あははははは。冒頭の写真はオカメインコ友達のあくび母さまからの2009年のイル・ボッロとダンナからの花束。ならびにそれを物色するうちの愛ネコ。

 そして、FB友達のすてきなおじさまたちから美しい写真が。秋に出雲でイベントを一緒にやることにる山男Wさんからはヒマラヤのブルーポピー。
渡辺さん

 7月26日に奈良の古刹、元興寺でサマー・コンサート (https://www.facebook.com/oikawa.gangoze) を企画しているI先生からは、先生撮影のボタンの花カード。
石居先生

 繊維関係の研究者で、27才まで愛鳥を長生きさせたYさんからも美しいカードが。
八木さん

 そのほか、FB、LINEで暖かい言葉をかけてくださったみなさま、ありがとうございました。全力でみなさまのお幸せをお祈りいたします。

 最後に不思議なエピソードを一つ。誕生日が近くなると、女性=占い好きというバイアスがあるのが、様々なところから、「あなたの運勢を無料で占います」というメールがくる。このうちツタヤカードからきたメールで、無料オーラ診断があるので、シャレでうけてみた。ちなみに、その日はげきうつで、不幸せな気分でいっぱいであった。

 まず、その鑑定士から送られてきた私のオーラ写真。もちろん、世界初公開(て誰がみたがるんや。人のオーラなんて 笑)。
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 鑑定士さんによるとこの緑オーラはなんか利他的な人にでるらしく、私の人生ははっぴっぴで、幸せまんさーいなのだそう。で、右足首の紫色のオーラだけはストレスをあらわしているので、がまんしちゃだめよ、とのご託宣であった。そのときの私の気分とめっちゃへだたっていて笑った。

 しかし、右足首である。右足首は単純に5月3日、松濤博物館の階段からおっこって捻挫した箇所ではないかと。これがストレスを表しているのであれば、精神的なものではなく外傷のストレスではないかと(笑)。不思議なのは、足をくじいたとはいろいろなところでいったが、右足首とまでは FBにも書いてないし、ツタヤにも報告していない。 世の中にはいろいろ不思議なことがあるんですね。

 ともかく、みなさん、ありがとうございました。
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DATE: 2014/06/05(木)   CATEGORY: 未分類
ラリーキングのダライ・ラマ、インタビュー
 6月6日は自分の誕生日なので、日頃お世話になっている皆様へ御礼をかねて、今年二月に法王が訪米した際に、ラリー・キング(Larry King アメリカの池上さんみたいな人) が行ったインタビューを以下和訳。昨今のいろいろなテーマについてダライラマ法王のぶれないかつすかっとする回答をお楽しみ下さい。

ラリー・キング「私は最近世界で最も偉大な精神的な指導者の一人にしてノーベル平和賞の受賞者ダライラマ猊下に光栄にもインタビューすることができました。私は猊下にオバマ大統領との会談についてと、彼の存命中にチベットに自治が実現するかについて、さらに、ウクライナ問題などの今日の世界における不安について伺いました。」

 ラリー「あなたは世界を見て、ベネズエラ、ウクライナ、シリアを見て、それでも人々は互いに殺し合いをやめるだろうと考えますか?」

 ダライ・ラマ「そうですね。とても悲しいです。この人たちはみな自己中心的な態度で近視眼です。人間にもともと備わっている良識を正しく用いようとしていません。そして感情的です。いったん破壊的な衝動がコントロールを失ったら、普通に考える余裕はなくなってしまいます。 私は20世紀は『暴力の世紀』であったと思います。軍事力を大々的に用いても問題は解決しません。ご存じでしょう。暴力は誰も望まない結果をもたらします。従って、今日21世紀には私はいつも『対話の世紀』となるべきだといっています。いかなる問題も対話を通じて解決されねばなりません。これが唯一の道です。」

 ラリー「あなたは最近オバマ大統領と会われました。何を議論されました?」

 ダライ・ラマ「今回は彼と三度目の面会でした。最初の時は彼は上院議員でした。なので、私たちは知り合いで、再会といった感覚でした。私は彼に私が全精力を傾けている三つのことについて伝えました。
 一つ目は、人類の人間性を向上させること
 二つ目は、あらゆる宗教が〔宗教間の優劣の争いをやめて〕調和するようにさせること。
 三つ目は、チベット問題について。これについては〔チベット人に対して持つ〕政治的な責任に関しては、私はすでに政界から引退しています。我々が以前にあった時は、私にはチベットの政治について責任がありました。しかし、2011年に私は完全に政治的な責任から退きました。これは私個人の引退というだけでなく、400年続いた古い伝統の終焉です。」

 ラリー「なぜですか」

 ダライ・ラマ「歴代のダライラマは自動的にチベットの聖俗のトップをつとめていました。私はこれを自分の意志で終了させました。なので、私はハッピーかつ、誇らしくこのシステムを終了しました。 

 ラリー「なぜですか」

 ダライ・ラマ「私は民主主義を信じています。そこここに欠点があったとしても、基本的には一番よい政治体制だと思います。私はいつも人々にこういっています。世界は七十億人の人間性に属しており、各国家はその国の人々に属している。私はこの国(アメリカ)でかつてこう言いました『アメリカはアメリカ人三億人に属しているのであり、共和党に属しているのでも民主党に属しているのでない』と。」

 ラリー「中国はなぜチベットにあんなに関心をもつのでしょうか。中国に比べれば世界の中では本当に小さな一部です。なぜ彼らは一緒にやっていけないのでしょうか」

 ダライ・ラマ「はじまりは、初期段階は1950年代でした。あの頃のとくに毛沢東やスターリンのような指導者たちの頭の中では、世界革命論が非常に力をもっていました。私が1954年から1955年にかけて北京に滞在していた時、私もこのグローバルな思潮に非常に引きつけられました。少くとも世界中の労働者階級が立ち上がること、これはとてもいいことだと思います。通常、労働者階級には特権がありません。
 その後、中国人はチベットにたくさんの鉱物資源を見つけました。中国の専門家はある時チベットを「宝の蔵」といったふうに言及しました。これが〔中国がチベットにこだわる〕一因だと思います。」

ラリー「率直に伺いますが、あなたの存命中に〔チベットと中国が〕和解を見ることができると思いますか」

ダライ・ラマ「ええ。中国は変化しています。」

ラリー「あなたは新教皇に会いましたか、また会いたいですか?」

ダライ・ラマ「ええ。とてもお会いしたいです」

ラリー「彼をどう思いますか。」

ダライ・ラマ「素晴らしい方です。彼はキリストの教えを体現しています。私が彼を尊敬する理由の一つに、ドイツのたしか司教だったかを解任したことです。彼はいい人かもしれませんが、生活スタイルはとても贅沢でした。」

ラリー「禁欲しなければいけないのに」。

ダライ・ラマ「そう。だから教皇は彼を解任したのです。私は正しい判断だったと思います。」

ラリー「昨年、フランシス教皇は資本主義を批判しました。資本主義は貧者を排斥し、あらたな独裁を作り出すと。あなたは『もし慈悲の心がそこに込められているのなら、自由市場は有効だ』とおっしゃっているが、あなたのおっしゃることと教皇のおっしゃることは逆ではありませんか。資本主義は有効ですか?  資本主義と慈悲は同時に存在することは不可能ではありませんか?」

ダライ・ラマ「何事もにも異なる側面があります。ある角度からは、そう、資本主義は利潤だけを追求するだけの一方マルクス主義は平等な配分を説いています。しかし、自由な国での資本主義は法律や規則が状況をよくしています。つまるところ、どのような体制でも、その体制を運営する人に責任感、他者の複利を考える感覚が備わっていれば、どのような体制だって有効です。」

ラリー・キング 「私たちは未来に女性のダライラマを見ることはありますか」

ダライ・ラマ「ありえます。随分昔パリで女性誌のインタビューを受け同じ質問をうけました。今から20年前くらいだったかな。私は即答しました。『ええ、ありえます』と。そもそもチベットの伝統では、高位の転生僧のうちの何人かは女性です。たしか、600年から700年の伝統をもつ転生者です。別に新しいことではありません。そこで私はインタビューアーにいいました。『もし女性のダライラマが現れたなら、その人はとても魅力的に違いない。より影響力があるだろう』と」

ラリー・キング「醜くはないと」

ダライ・ラマ「いや、美醜に大きな意味はない」

ラリー「もう誰になるか決めていますか。後継者についてはお考えがありますか」

ダライ・ラマ「すでに1969年には私の公式の声明の中で、私はこう述べていています『ダライラマ制度を継続させるか否かはチベット人にゆだねる』と。来たるべき時にチベット人の大多数が『この体制はもはや意味が無い』と感じれば、ダライラマ体制は自動的に消滅します。私の問題ではありません」

ラリー「あなたはアメリカはチベット情勢について中国に対する圧力を弱めていると思いますか。それともかつてと同じようにアメリカは圧力をかけていると思いますか?」

ダライ・ラマ「基本的には、私の信念に基づけば、民主主義、開放性、自由は世界の主流です。中国はもっとも人口の多い国です。しかし世界の一部です。中国の未来は彼ら以外の世界に依存しています。従って、ある強硬論者がこの世界の主流となる考え方を好むと好まざるとに関わらず、彼らも世界の潮流には沿わねばなりません。そしてこの自由世界のリーダー国家であるアメリカは、道徳的な責任感、道徳的な義務感を持ち合わせています。そして、中国人もより大きな変化を期待しています。経済の領域だけの変革では不十分です。多くの中国人は非常に知的で、元官僚ですら彼らには見識があります。
彼らは『時は来た。より大きな政治面での変革が必要だ。中国自身の利益と自分の福利のためにも』と言っている。」

ラリー「最近しきりに喧伝されている同性愛者についてどう思われますか。ロシアは同性愛を禁止している一方、アメリカではいまや同姓間での結婚は増え続けています。どう思われますか?」

ダライ・ラマ「私はこれは個人的な問題だと思います。もちろん信仰をもっていたり、あるいは特定の精神的な系譜を持つ人々は彼らの伝統に従うべきだと思います〔その信仰や系譜が禁じているのであれば、禁じるということ〕。仏教の場合は、様々な種類の性的な不法行為を規定しています(注 同性愛は禁止)。仏教徒であればそれに適切に従うべきでしょう。何の信仰も持たない人であれば、どのような性的志向も本人の自由にゆだねられています。様々な種類のセックスがあっても、安全で両者に完全な同意があればいいんじゃないですか。いじめ、虐待、レイプ、これらは何であれ間違っています。これらは人権侵害です。」

ラリー「同性婚についてはどう思われますか」

ダライ・ラマ「それはその国の法律によります」

ラリー「個人的にはどう思われますか

ダライ・ラマ「オッケーです。各個人の問題です」

ラリー「余計なお世話ということですか。一理ありますね。」

ダライ・ラマ「もしカップルがそれが一番現実的でより満足度が高いと感じ、両者が完全に同意しているなら、オッケーです」

ラリー「視聴者からあなたへ質問があります。まずツイッターから『ベネズエラのようなところで、ひどい人権侵害が行われているのを見た時に、どうしたら心の平和を保つことができるのでしょうか。あなたは暴力を見た際にどうやって心の平和を保たれているのでしょうか』。」

ダライ・ラマ「我々は長期的な戦略を必要としています。私はいつも他者と分かち合うようにといっています。それには現行の教育システムが道徳教育を行うことも含んでいます。教育は世俗的な方法で心の平和を育むものです。インド人の考え方では世俗は宗教とかけはなれたものではなく、あらゆる宗教を尊重し、さらに無神論者も尊重することを説きます。状況は非常に深刻だと思いますが、」

ラリー「あなたは厭世的になることはありますか?」

ダライ・ラマ「ノー。我々は努力しなければなりません。」

ラリー「フェイスブックからの質問です。もしあなたが世界でたった一つでも糾すことができるとするなら、それは何でしょう。」

ダライ・ラマ「今も、そしてここ数年、私が一番精力を傾注しているのはいかに人々を心の中に精神的な価値を持たせるように教育するかです。公教育は人々が暖かい心を持つように教育すべきです。」

ラリー「ジョーがこう聞いています。精神的な価値は、ある人の中にはよく育つのに、全く育たない人もいます。それはなぜですか。」


ダライ・ラマ「もともと私たちは母親から生まれています。スターリンやヒトラーのような非情な人だって母親から生まれています。従って、我々全ては人間的な愛情をもつ潜在能力があります。しかし、様々な環境があのような人を作り上げてしまうのです。彼らは精神的な価値を全く軽んじており、また、誰も彼らに精神的な価値について説かなかったが故に、環境が非常に過酷で、かつ分断的で、「我々とやつら」「我々と敵」みたいな強い概念があると、彼らのような非情な人々ができあがってしまうのです。」

ラリー「メアリーがこう聞いています。あなたが若かった頃、あなたの夢は何でしたか」

ダライ・ラマ「遊ぶことです。勉強じゃないです。私が若かった時、勉強にはまったく興味がなかった。私はいつも自分をとっても怠けものの学生だったと言ってます。」

ラリー「最後にダライラマ、あなたは人によどのように記憶されたいですか」

ダライ・ラマ「何もないです。一仏教者として、名声やそのほかを考えるべきではありません。前にニューヨークでニューヨークタイムのコラムニストの女性が、そうだな十年か十五年前かな、私に『あなたはどのような遺産を残しますか』と尋ねられた。その時も私はこう応えた。私は仏教者だ。仏教修業者だ。遺産とか何とかそんなことを考えるべきではないと。それから議論をして、そのあと彼女はまた同じ質問をした。私は同じ答えをした。それから彼女はまた同じことを聞くので、私はキれました。」

ラリー「怒ったんですね。その場にいたかったな。」

ダライ・ラマ「翌年私たちは再会して、前の年の出来事を今みたいに笑い合いましたよ。」
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