白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2018/05/01(火)   CATEGORY: 未分類
長野聖火リレー十周年で善光寺に行ってきた
4月最後の日、善光寺のW住職の発議で長野で「北京オリンピック聖火リレー10周年記念会合」が開かれた。前夜祭はまず焼き肉屋アリランではじまった。

 焼き肉の煙と複数の方のタバコによりあっというまに髪の毛や服が燻製状態。私はこのあと宿坊にかえったが、残りの方たちは雪っこという酒を飲み続け大変なことになったらしい。被災地支援とかを行われた立派な方々であるが、肝臓と肺のためにももう少し健康的な生活を心がけた方が持続可能な社会貢献ができるのではないかと思った。
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今回宿泊させて戴いたのは善光寺の宿坊の一つである徳行坊さん。同坊のご住職は今年は12年に一度めぐってくる堂童子(春を迎える善光寺様の神仏混淆の行事)の役があたっており、檀家総代としてそのサポート役をつとめたKくんに坊の案内をしていただく。

 Kくん「今年は堂童子だったのでた畳とかは全部新しくしています。先生方がとまられる部屋はぼくが堂童子をつとめた時とまった一番よい部屋です」と通された部屋はたしかに阿弥陀様の掛け軸がかかったありがたい雰囲気をかもした和室。お風呂を案内していただいた時、
 Kくん「ボクが堂童子で滞在している間、大寒波がきて水道管が破裂して、水がでなくて、外湯の温泉に三日に一篇かよってました。」と当時を思い出したのかものすごく悲しい顔をした。そのあと気を取り直したのか「その時水道管をかえたので、蛇口とかも新しいですよ」と。風呂に水をはるのは面倒くさかったのでシャワーのみにしたが、微妙に40度以上でず温かい夜であったとはいえ冷えた。
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 そして翌日10時から長野生涯学習センターで、「56年前からはじまった長野とチベットの縁 副題: 奥田正造から聖火リレーまで」というお話をさせていただく。演題の私の名前が由美子になっていたのでその場で裕美子になおした。

 要約すると、著名な教育者奥田正造(成蹊大学の前身成蹊高等女学校の校長を30年つとめた方。禅と茶道による教育で有名)が、1940年に法隆寺の貫首佐伯定胤の仲介で多田等観(真宗の僧、1913年から1922年までチベットのセラ大僧院に滞在し、帰国後は東大、東北大、慶大、東洋文庫などでチベット語文献の整理・研究を行う)と出会い、交流をもち、1943年頃からは二人して信州公演旅行や、関西高野山・法隆寺参籠の旅などを行い交流を深めた。

 奥田正造の葬儀ならびに年忌法要は善光寺本堂で行われたが1962年に行われた奥田の13回忌法要には多田等観は来日したばかりのチベット人三人(ソナムギャムツォ、ケツンサンポ、ツェリンドルマ三人とも1959年にインドに亡命)をつれて参加した。
 奥田正三は戦局が深刻になるに伴い、長野や関西の聖地に仏教が盛んになることを祈願した宝篋印塔を建立していたが、三人のチベット人は奥田が1934年に戸隠神社にたてた宝篋印塔をみて、世界平和を祈願して同じものをたてたいと希望した。
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 当時、チベットは中国に占領されたばかり、中ソ対立、米ソ冷戦、先の見えない世界情勢に彼らは一刻も早く世界平和が実現してチベットに戻りたいとの思いをこめたとものと思われる。
 これに応えた長野の人々は早速資金集めにかかり、長野の小学生が千曲川の小石を拾い、東洋文庫にいる三人のチベット人におくり、彼らはそれらの石に一文字づつチベットの経典を写して、トラックでまた長野におくり、1964年に長野市の花岡平に宝篋印塔は完成した。
 面白いのが、この塔の発起人には当時の善光寺のナンバーワンナンバーツーの若麻績の方が名前を連ねているのだが、これが2008年の聖火リレーの際チベットの側にたって動いてくれた人のご先祖であったのである(当事者はもちろんそれを知らなかった)。発起人と現在の支援者との関係で分かったものだけでも以下のものがある。

若麻績貫保→善光寺・正信坊の当代住職若麻績春実さんの祖父
若麻績芳雄→善光寺・白蓮坊の当代住職若麻績敏隆さんの祖父
早川利雄→善光寺・徳行坊の当代住職若麻績敬史さんの大伯父
岡澤慶隆→現長谷寺住職岡澤慶澄さんの祖父

みな、2008年にこれを知った時、不思議な因縁に震えたという。それもあり2010年にダライラマ14世が長野に講演におとずれた際、この宝篋印塔を訪問し発起人の一人である中村秀次さんと会見している。この日のレジュメは最後にはっておくので興味のある方はご覧ください。

 余談だが、私の話が終わったあとご高齢の男性が突然「仏教の話なんか誰も聞きたくない。聖火リレーの話をしろ。もっと一般の人にもわかる話をしろ。時間の無駄だ」(正確に書き取ってます笑)と叫びだした。私は「聖火リレーの話をして過激に中国批判をしたいのに私の話が穏やかすぎて気にくわなかったのか」と思い、「次の方は聖火リレーのお話をしますから、その時お話を聞かせてください」といったのに、わめきつづけ、その中で「わたしは聖火リレーの最高齢かつ最終走者であった」というのを聞いて、みな「この人この会を十年前の聖火リレーを顕彰する会と思ってきている」と理解し、本人も帰るというのでお引き取りいただいた。
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 後で調べてみたところ、若い頃は関東軍で後は日中友好協会で活動し組合活動をバリバリやっていた方であり、あの聖火リレーのランナーにふさわしい方であった。まあまさに間違った場所に間違った時にいた人ということになるが、彼を多少なりとも擁護すれば、さすがにチベットをぼろくそに言うことはできず、苦し紛れに「仏教の話で一般に分からない話」と批判したところは、チベット問題はマイノリティの人権弾圧の問題であることを多少は理解しているのだと思う。また、あの大声も組合活動で執行部を怒鳴り飛ばしていた時のなごりだと思えば、、ある意味絶滅危惧種な方である(そのあと新聞社の方には我々がマイノリティと言われたが 爆笑)。
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 さて、そのあとSFTのKさんとTリンドルジェさんが当時の写真をみながらお話をし、そのあと14:00から善光寺の内内陣でこの十年で弾圧や焼身抗議でなくなられたチベット人ならびにチベット蜂起の犠牲になった漢人たちの法要。口上は若麻績敬史住職の文作。祈願者の冒頭に私の名前があったのには恐縮した。

以下レジュメをはります。
56年前からはじまった長野とチベットの縁 奥田正造から聖火リレーまで

                       
                         2018年4月30日 於長野生涯学習センター

1884/3/3 奥田正造、岐阜県高山市に生まれる。
1890 多田等観、秋田県の浄土真宗本願寺派西船寺の住職の三男として誕生。
1905 奥田正造、東京帝国大学文科入学。
1911 多田等観、二楽荘(六甲山の麓にある大谷光瑞の別荘)で来日中のチベット僧ツァワティトゥルと共同生活
1912 多田等観、帰国するツァワティトゥルに随行してインドでダライラマ13世と謁見。
1913 多田等観、チベットに凱旋するダライラマ13世とともにラサ入り。1922年まで約十年間ラサのセラ大僧院にて学僧として学ぶ。
1917 奥田正造、成蹊女学校職員となり、数学・作法・お茶を教える。茶室不言庵をたてる。
1919 奥田正造、代表作『茶味』を書く。成蹊女学校主事になる。鶴見の総持寺に出講。
1920 奥田正造、成蹊女学校の校長となり修身・数学・教育・茶道を教える(〜1950)。
1921 奥田正造、成蹊高等女学校の校長に就任。
1923 多田等観、チベット文大蔵経を持ち帰って帰国。チベットに戻ろうかと迷っている際、法隆寺管主佐伯定胤(肉食をたち、妻帯もしない日本最後の僧侶として評判)にあい日本に留まることを決心。
1924 多田等観、東京帝国大学文学部嘱託。
1925 多田等観、東北帝国大学法文学部研究補助嘱託。以後東北大には、30年お世話になる。
1928 奥田正造、佐久に出講。以後毎年長野に出講し、各郡に不言会が生まれる。
1929 多田等観、東北帝国大学法文学部授業嘱託に昇格。
1930 奥田正造、成蹊高等女学校内に茶室法母庵を設立。
1933 ダライラマ13世、死去。10/4多田等観、蒙古に。
1934 奥田正造、戸隠奥社に仏教興隆を祈願して臨済宗法燈国師の母公の霊跡に宝篋印塔を建立。このほかも全国各地に宝篋印塔を建立(当時仏教は日本の大陸進出の際のツールとしてまた、鎮護国家のナショナリズムと結びつき隆盛していた)。多田等観、満州へ。
1939 ダライラマ14世即位。
1940 10/13 法隆寺管主、佐伯定胤猊下により奥田と多田等観がであう。
1942 多田等観、再度満州へ。
1943/4月多田等観、東京帝国大学文学部講師。4/8 佐伯定胤喜寿祝。奥田年譜によると祝いの席の参加者に多田等観の名が見え、多田年譜にも「成蹊女学校において佐伯定胤と会う」とある。
1944/9/30 多田等観、慶応大亜細亜研究所にて釈尊絵伝の展示。小泉塾長、辻直四郎、宇井伯寿などが観覧。多田年譜に、「奥田正造より天津に贈る地蔵印判四個をもらう」。
1945/3/13 空襲により奥田正造は自宅・学校を焼失。5/1 多田等観、成蹊女学校焼け跡に奥田校長を見舞う。多田年譜に「5/24 慶応大本館、研究所、普通部消失。5/29 横浜大空襲、小泉塾長重傷。」8/15 日本敗戦
1946 多田等観、東京帝国大学文学部講師。奥田正造、長野を経由して法隆寺、高野山・大徳寺参籠への旅。これに多田等観も同行。3/1〜3/2 「多田等観氏と二人で松本市松本高等女学校にて講話。」3/5 法隆寺金堂の掃除に多田等観の名がみえる(2/23〜3/11)。 11/20 奥田正造より多田等観に法隆寺管主短冊「南無仏」が贈られる。信濃の不言会が連合し信濃不言会となる。
1947 4/24 多田等観、成蹊女学校へいく。7/23 奥田正造、多田等観の花巻の住所である観音山にご詠歌を贈る。
1948 2/4 奥田正造、多田等観に法隆寺古材三点を受け取る。
1949 5/26 多田等観、成蹊女学校にて佐伯定胤より「等」の一字を戴く。10/21 多田等観の下に、法隆寺より印仏孝養太子像二百本届く。内150本を成蹊女学校へ。
1950/3/9 奥田正造、逝去。 5/16 多田等観、成蹊女学校で石田茂作の話を聞く。10月、人民解放軍がチベットに侵攻。以後、チベットの事実上の独立は失われ、中国の支配下に。
1951〜52 多田等観、スタンフォード大学アジア研究所の招聘により渡米。
1953 多田等観、『西蔵撰述仏典目録』刊行(これにより1955/3/12に学士院賞受賞)。
1954/4/26 多田等観、本願寺でダライラマの長兄、タクツェルリンポチェと合う。
1955/2/4 多田等観、東洋文庫でイギリスのチベット学者リチャードソン、タクツェルと合う。8/22 タクツェルとのお別れ会。
1956/4/1 多田等観、東洋文庫研究員になる。8/3 善光寺大勧進において行われた奥田正造七回忌法要に参列。
1958 中国、大躍進政策で餓死者累々
1959  ダライラマ、インドに亡命。その後を追って大量のチベット人がインドへ脱出。ケツンサンポ、ソナムギャムツォ、ツェリンドルマ三氏もこの年難民となって亡命。
1961/2/7 多田等観、39年ぶりにインドに2/29 ダライラマ14世に謁見。6/9 上述のチベット人三氏が来日。8/15 アメリカのモンゴル学研究者レッシング教授の弟子ポールハイヤー(日蔵関係史の研究者に)来日。8/17 三氏の日本滞在・東洋文庫勤務にロックフェラー財団の資金がつく。9/31 ツァロン夫妻来日
1962 8/3 善光寺において行われた奥田正造の13回忌に多田等観、上述チベット人三氏が参加。多田等観は「西藏と仏教」という演題で講演。三氏は奥田正造が戸隠神社にたてた経石をおさめた宝篋印塔を見学し、同じものを作りたいと所望。
1964 中国初の核実験に成功。文化大革命始まる。4/5 長野の人々によって宝篋印塔建立。記念講演はソナムギャムツォ「チベットの仏教」、ケツンサンポ「喇嘛教の秘密」、多田等観「阿弥陀如来の信仰」
1966  中国、弾道ミサイル東風3号の試験に成功。
1967/2/18 多田等観、死去。告別式は東洋文庫で行われる。
   5/7 宝篋印塔建立三周年記念で、ソナムギャムツォとケツンサンポがチベット仏教式で勤行。記念講演はソナムギャムツォ「20世紀の仏教」、ケツンサンポ「世界平和への祈願」。
  6/17  中国、初の水爆実験に成功。
1969  中ソ対立。
1972  米中国交正常化。
1974 毛沢東死去。
1988 -89 チベット蜂起。東欧において社会主義政権が倒れ、中国では天安門事件。東西冷戦の終結。ダライラマ14世ノーベル平和賞受賞
2008 ※ 北京オリンピック(8/8〜8/24)に先行する聖火リレー(3/31〜8/8)は中国のみならず22か国において30日間に渡り行われ、リレー距離は13万7000kmに及んだ。距離も期間も史上最長であったがチベット蜂起に対する中国政府の弾圧に抗議する人々と愛国中国人の対立によって混乱した。※この後聖火リレーはオリンピック開催国の国内に限定されることになった。
  3/17ラサの僧侶による蜂起記念日の平和的デモ隊を中国公安が武力鎮圧。抗議したラサ市民が蜂起。抗議行動はチベット人居住域全体に広がる。
3/24 オリンピックの聖火の採火式に国境なき記者団のロベール・メナール氏が五輪旗を手錠にかたどった旗(中国の人権抑圧を告発する意図)をかかげて乱入。
4/6 ロンドンでの聖火リレーは人権団体のカウンターデモに遮られ、聖火は消化器をあび、ルート変更、バス移動などを余儀なくされた。
4/7 パリでは市庁舎に人権擁護の旗がかかげられ、カウンターにパリ市長が参加。聖火は消されランタンでバス移動するはめに。※4/8 にはフランスのサルコジ大統領が開会式への参加条件にダライ・ラマとの対話再開をあげた。4/12頃 から中国全土でフランスの小売り大手カルフールへの不買運動が起きる。
4/9 サンフランシスコのゴールデンゲイトにフリー・チベット旗が掲げられる。
4/18 善光寺が、聖火リレーの出発地点を辞退。
4/20 善光寺の本堂六カ所に何者かが白いスプレーで落書きをする。
4/26 長野での聖火リレーが全国から集まった在日中国人の赤旗で埋まる。
2009 6/7 パリはダライラマ14世に名誉市民号を贈る。
2010 6/20 ダライラマ14世の長野のビッグハットで講演。翌6/21 に宝篋印塔(1964年の項参照) を参拝。

[参考資料]
高本康子(2012)『チベット学問僧として生きた日本人 : 多田等観の生涯』芙蓉書房出版
西蔵経宝篋印塔奉賛会編「建立二十五周年記念西蔵経宝篋印塔由来記」
多田明子, 山口瑞鳳 編(2005)『チベット大蔵経にかけた生涯』 春秋社
法母庵友の会編 (1981) 『奥田正造選集』

●奥田正造(1884-1950) 
 岐阜出身の教育者。成蹊高等女学校(現成蹊大学)の校長として、30年にわたり茶道と仏教(座禅)を用いた良妻賢母教育によって戦中の女子教育をリード。信州各地における講義に力を入れた。多田等観との交流は1943年大戦末期から1950年の死の直前まで続く。彼の精神をつぐ団体としては彼のたてた茶室の名にちなんだ不言会、法母庵の会がある。

● 多田等観 (1890-1967 チベット名 トゥプテン・ゲルツェン)
 秋田県出身の信州本願寺派の僧。真宗の法主、大谷光瑞の命により来日中のチベットの高僧ツァワティトゥルの世話役につき、その縁で1913年のダライラマ13世のチベット帰還とともにラサ入りし、1922年まで約十年間ラサのセラ大僧院にて学僧として学ぶ。帰国後は東大、慶大、東北大においてチベット語教授、チベット書籍の整理にあたり1956年、東洋文庫の研究員となり、1961年、同文庫に三人のチベット人を招聘する。人選にあたっては「自分はゲルク派の僧院で10年学んで同宗派のことはよくわかっているので、他の宗派がいい」とダライラマ法王庁に希望し、ニンマ派のケツゥンサンポ師、サキャ派のソナムギャムツォ師、貴族の娘ツェリンドルマ氏が来日した。この三人が1962年に多田等観氏に率いられて長野を訪れた三人のチベット人である。

○ケツン・サンポ・リンポチェ(1920-2009)
 ニンマ派修験僧。チベット、ヤムドク出身。1959年インドに亡命。離日後インド・ダラムサラのチベット文献図書館長などを歴任。多数の弟子を育成する。日本では中沢新一氏の師として名高い。
著書に『チベット仏教人名事典』、『初期チベット王朝史』等。

○ソナムギャムツォ(1933-1988 日本名: 祖南洋)。ツァンのサキャ派の支派であるゴル寺の転生僧。チベット、ラサ出身。1959年インドに亡命。離日後アメリカ、カリフォルニアに移住し、死去まで研究を続ける。
著書に『Tibetan Mandalas: The Ngor Collection』『西蔵曼荼羅集成 図版編』講談社 1983
等。

○ツェリンドルマ(1935-)
ダライラマ13世の側近であり、開明派として知られたツァロン(1959年に死亡)の第六女。日本からインドに戻った後はデリー、チベットハウスの代表をつとめる。ツァロン家に生まれ、後にシッキムの公子ジクメ・タリンに嫁いだリンチェン・タリン・ドルマの自伝『チベットの娘』(中公新書)にツァロン一家の家族構成、チベットでの暮らし、亡命の有様が詳述されている。

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DATE: 2018/04/08(日)   CATEGORY: 未分類
矢島保次郎の親族かもしれない元ゼミ生の結婚式(長)
今日は元ゼミ生矢島くんの結婚式。

開宴20分前についたにもかかわらず、受付は長蛇の列。新婦側は誰も並んでいないのに新郎のがわのみが行列なのである。彼は在学中からバックパッカーでシルクロードを陸路で踏破したり、外国人留学生寮にすんで友達たくさんつくったり、仕事についてからもバングラディシユ勤務とかしていて、現在もインドネシア関連の仕事についているので、とにかく世界中から友達が集まってきたらしい。
ゆびわ2

中国、韓国とかならまだわかるけど、南アフリカ、イランとかからも友達がきていた。
結婚式では新郎側と新婦側がだいたい半々になるようにテーブルを並べる伝統があるが、圧倒的に新郎の席がおおく、受付がパンクしている。そのため開宴は30分遅れた。

私「チェックインに時間がかかって、離陸が遅れた飛行機みたい」

そして、やっと始まったかと思うと、会場側の司会者が進行をはやくしなければとあせったのかナレーションが早口。

私「競馬中継みたい」
知らない人もいる集合写真

最近の結婚式らしく仲人なし、お二人の開会宣言のようなもので式ははじまり、転職したばかりの新郎側からは会社の人がきていないので、新婦の会社の上司が乾杯の発声、来賓のご挨拶を行うという変則的な形。

乾杯が終わり料理もでないうちから、みな席をたってかってに高砂の席にいって新郎・新婦と歓談したりしてアナーキーな雰囲気になる。外国人が多く日本の結婚式の雰囲気が分からないためこうなっているものと思われる。

そこで、わたしも「チベット服きてるから外人よ~」みたいな顔をしてズイズイと新郎親戚席にうかがい、ご挨拶をさせていただく。じつは新郎の矢島くんは百年前に日本人として四人目にチベットにはいった矢島保次郎の親戚だ、と聞いていたので、ご親族があつまる結婚式の席なら近い方がいらっしゃるかもしれないとふんでのことである。

 しかし、お父上から伺った話によると「矢島家のルーツは〔矢島保次郎と同じ〕群馬なのでどっかで関係あるかもね」という程度の曖昧な話で、ご先祖を調べて菩提寺までいった私としては「もっと一族の歴史をふかぼりしてよ」と心の中で叫んだのであった。
たしかに、ものすごく近い親戚だったらゼミに在籍している時に私にいってるよな。もし矢島保次郎の係累の方にお会いできたらイギリス外交官の史料にでているYajima Yasujiroの名前とかをおみせして、盛り上がろうと思っていたのに。

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 そこで気を取り直して席に戻る(当たり前だ)。おそらくは新郎が若干国士様であることから、全体に和風。窓からは皇居がみえ、式は神前、お料理は和風。ケーキカットでなく鏡割り。いろいろな国からお客さんがきているから、ジャパンな空気感をだして「おもてなし」なのだろう。
みながかってに席をたって旧交を温めるので、お色直しで新婦が席をたつときも新婦が注目されずに、司会者が席についてくださいと絶叫する。
 天ぷらがでてきたが、あまりに焦って給仕されたので、てんぷらがさらからすべってざざーっと盆の上にこぼれた。しかも、ウエイター、気づいてない。相当きている。

私「学級崩壊みたい」

 新郎はインドネシアでとれるトパーズ(石言葉は幸福と博愛)で自分でデザインしたネックレスを新婦につけてあげたりしている。イスラム圏の人もいることを考えるとこのくらいの接近が穏当な演出であろう。

 印象深かったのは、去年二人が婚約した時に、新郎は富山、新婦はオーストラリアで働く遠距離恋愛で一年後、どうなるかわからないままで式場を予約していたこと。その後、二人の努力もあって、新婦は何とか日本にかえり、新郎も転職して東京にすめるようになり、めでたく夫婦は新生活を一緒に始めることがかなった。

 式の終盤に新郎が男泣きにないているのをみて、ここにたどりつくまでいろいろあったのだろうと思う。
 国をこえた超遠距離恋愛から、一緒に暮らすことになった二人は、きっとこれからも仲良くいろいろなことを乗り越えていくのだろう。
 末永くお幸せに。
  
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DATE: 2018/03/18(日)   CATEGORY: 未分類
蜂起から十年 〜チベットに関する報道や世論はどう変化したか〜
長野において北京オリンピックの聖火リレーが行われて十年を記念した会を長野でやります。私もスピーカーになります。これを機会に善光寺様にお参りして、1960年に亡命チベット人第一世代が善光寺にたてた宝篋印塔もあり、善光寺様とチベットの関係は結構古いのです。

●北京オリンピック長野聖火リレー10周年記念集会
日時: 2018年4月30日(月) 10:00 - 12:00
場所 : 長野市生涯学習センター(〒380-0834 長野県長野市鶴賀問御所町1271−3 TOiGO West)
FBのイベント頁はここ

この間の10年の変化について3月10日の蜂起記念日にチベット料理やタシテレでお話した内容を以下に記録のために転載します。

まずは

(1) 蜂起のもっとも詳細な推移ここでダウンロードできます。 

(2) 次に当日のレジュメの内容をはっあおきます。2008年の蜂起にともなう国内外の動きについて、SNSの力、また、報道の変化などについてふれています。


2007年12月〜2008年1月 中国製冷凍ギョーザ事件により、日本の対中イメージ悪化。
2月13日 ユダヤ人映画監督スピルバーグ氏、ダルフール紛争に対する中国政府の対応を批判して、北京オリンピックの芸術顧問を辞退。
3月2日 アイスランドの歌手ビョークが上海公演で、Independenceという曲を歌い、Tibet, Tibet.......Raise your flag! Higher, higher! を叫ぶ。
3月17日 ラサの僧侶による蜂起記念日の平和的デモ隊を中国公安が武力鎮圧。それに抗議したラサ市民が蜂起。数日後、抗議行動はチベット人居住域(四川・甘粛・青海)全体に広がる。チベット報道は連日新聞の一面を飾る。
3月22 日1500名からなる六本木のフリー・チベット・デモ(以後、mixiや2ちゃんねるを通じてオフ会のような形で普通の人がチベット国旗掲揚、デモ、護国寺の大師堂でのお祈りなどに集まり始める。)
3月25日 ギリシアで行われた聖火リレーの採火式に国境なき記者団のベルナール氏が、五輪旗をかたどった抗議旗を掲げて乱入。以後、ロンドン(4月6日)、パリ(4月7日)、サンフランシスコの聖火リレー(4月9日)はチベット問題に抗議する西洋人たちによって混乱。舞台がアジアに移ってからは、中国大使館による在外中国人の動員により聖火リレーは中国国旗に埋まる。
4月8日 牧野聖修(民主党国会議員: 当時)がチベット支援団体に呼びかけセーブ・チベット・ネットワークを立ち上げる。
4月21日 パリはダライラマ14世と中国の人権活動家胡佳氏をパリの名誉市民に。
4月26日 善光寺が北京オリンピック聖火リレーの出発地点を返上しフリー・チベットの象徴に。長野は愛国中国人のふる圧倒的な数の中国国旗とわずかな数チベット・ウイグル・南モンゴル旗に埋まる。
5月6-5月10日 胡錦涛国家主席来日。5月9日には主席が夕食を食べる中国料理屋に接した日比谷公園がチベットサポーター8000人で埋まる。
5月9日 胡錦涛国家主席、早稲田大学で講演。早稲田大学ではじめてのフリー・チベットデモ。
5月12日 四川省、羌族・チベット族自治州を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生。フリー・チベットは哀悼の意を表し活動を自粛。
8月8日 北京オリンピックの開会式にあわせて、Candel4Tibet、護国寺、常圓寺などでチベット蜂起による死者を追悼。開会式で漢族の子供に少数民族の衣装を着せて中国の旗の下に集まるべたな演出が話題となる。
★北京オリンピック開催期間中、東中野のポレポレ座で「チベットを知る夏」、善光寺でもチベット百人展などが行われる。
★『タイム誌』恒例の2008年「世界で最も影響力のある100人」の第一位にダライラマが選ばれる。
9月15日 リーマン・ブラザースが破産し、世界金融恐慌。
★10月17日-11月9日 ダライラマとチベットに捧げた「失われた平和展」(Missing Peace)東京で開催。
11月17日 亡命政府と中国との間の三回目(2002年から数えると八回目)の「対話」が決裂したため、ダライラマは「自らの中道路線(対話による自治要求)は国際社会からの評価は受けても、中国との対話においてはまったく助けにならず、障害となっている」(前月10月11月26日TCV創立記念スピーチ)との認識のもと、亡命者代表会議を招集し、自治か独立かを話し合わせる。
11月29日 デリーで国際チベット支援団体特別会議はじまる。参加30カ国、総勢105人。
12月1日 亡命者代表会議は「自治路線」でいくことを確認して閉会。
12月10日 世界人権デーにあわせて、中国の知識人(劉暁波、チベット人のウーセルさんも含む)が中国の民主化を訴える08憲章を発表。18条には連邦制が提唱されており、チベットの自治を求める主張に答えている。これはチェコの憲章77にちなんだもの。

●【参考資料① 当時のデモ日程と参加心得】大規模OFF板【胡錦濤来日時に東京をチベット旗だらけにするOFF 】@ wiki

〔解説〕以下は当時mixiや2ちゃんねるに流れていたデモ情報と参加心得(懐かしい・・・)の一例である。ダライラマはチベットの高度自治をガンジーやキング牧師以来の非暴力の政治手法によって実現しようとしていたため、在日チベット人、KIKU、セーブチベット・ネットワークの牧野氏はチベット人の状況を伝えることをメインにし、暴力的な要素を排除したデモを心がけた。この姿勢は日本のリベラル層の目をチベット問題に向けることに一役かった。一方、チベットのことを知ってというよりは、中国に対する、または、その中国に配慮をしつづけるマスコミ(テレビ、新聞、知識人)に対する反感からデモに参加した人のの中には、過激な言動をとる者もいた。これに本人たちの憂さ晴らし以外の効果があったどうかは永遠の謎である。


オフ日程まとめ(04月11版)
間違いや抜けの指摘よろしくお願いします。
4月10(木)─【ダライ・ラマ14世 来日】
.      東京 07:00頃 成田空港
.      東京 13:00~ 国会前
4月12(土)  奈良 10:00~13:00 奈良自転車道
4月13(日)  東京 13:00~ 国会前
4月17(木)─【楊潔褫 来日】
.      埼玉 15:00~19:00 大徳寺
4月19(土)  愛知 13:00~ 名古屋 若宮大通公園
       広島 15:00~16:00 原爆ドーム
4月20(日)  千葉 12:00~ 成田山新勝寺
4月25(金)─【五輪聖火 出迎え】
4月26(土)─【五輪聖火リレー in 長野】
.      長野 8:00~13:00 善光寺→若里公園
.      奈良 詳細未定
4月27(日)  大阪 調整中
.      千葉 12:00~ JR千葉駅東口→千葉神社 5月03(日)  京都 17:00~ 鴨川東岸
5月06(火)─【胡錦濤 来日】
.      東京 午後 羽田空港
.      千葉 11:00~JR船橋駅交番前→船橋大神宮(希望者はその後千駄ヶ谷デモに合流)
5月07(水)─【皇居(予定)】
5月08(木)─【早大】
      大隈講堂前13:00集合(早大生以外・学生以外もOK)
      http:月月sports11.2ch.net月test月read.cgi月offmatrix月1210078276月
5月09(金)─【横浜、大阪(予定)】
5月10(土)─【奈良】
       15時30分からデモ
5月25(日)─【渋谷】
      集まってはいけない
      千葉 11:00~  JR成田駅前→成田山新勝
(中略)

Q:旭日旗を一緒に振りたいんだけど
A:旭日旗を民間人があげるのは、本来なら官位詐称。
旭日旗は陛下より国と国民のため命を捧げる軍に対して授けられた軍の神聖なものであり、
自衛官でも私服では取り扱わない。タダの制服でも最低限、略礼装をする。
むろん、隊として旗を扱い、私用には絶対に使わない。

日本が嫌いな人がその本来の意味を軽視するなら兎も角、
日本文化を尊重しようとする人間が旭日旗を私用するのは激しい違和感を感じる

Q:中国国旗(五星紅旗)を燃やしちゃ駄目?
A:日本の刑法には外国国章損壊等(第92条)という法律があり、外国旗を損壊や汚損等した時は処罰される可能性があります。
  他国の国旗を破ったり、燃やしたりするのは、著しく品位を欠いた行為です。絶対に止めてください。

Q:(ギョーザ、トマト、石etc...)を投げつけたい
A:このオフは、今チベットで横暴を働いている中国への批判も込めて、平和裏に行うべきです。
  あなた自身傷害罪で罪に問われる可能性もありますし、暴力的行為も辞さない他のデモと同じ一線を画すことで、コキントウに与える精神的効果も大きくなるでしょう。「また乱暴なデモか・・・」と思わせない新鮮さが重要です。
  何より、あなたがその行為をとることで、他のオフ参加者が多大な迷惑を被ることになります。物を投げるのはやめてください。
(中略)

Q:参加者を装い、中国国旗を燃やしたり、暴力行為に訴えようとする奴を見た時は?
A:口頭で、あるいは力ずくでも自分でやめさせようとするのはよくありません。
  例えば、近くにいた、チベット国旗を持った人が、おもむろに生卵を投げようとした、とします。
  そこでそいつの腕をつかんで投げられないようにした場合、後で傷害を負ったなどと難癖をつけられるかもしれません。
  当日はそういった行為から海外要人を守るべく、厳戒態勢が敷かれているはずです。すぐに近くの警察官に知らせましょう。当日は参加者を装い、貶めるような行為をする輩が確実に混じると思われます。冷静かつ迅速に対処しましょう。

Q:なぜ「とにかく世界中で日本だけが虐殺国家を歓迎してるなんて思われないようにしないといかん 」なの?
  外国からのイメージ重視なの?消極的じゃないの?チベットのことは二の次?
A:この問題提起から「それじゃいかん!」といううねりが沸き起こったOFFです。
  もちろんチベット問題に憤りを感じているのが発端なのは間違いありませんが、   これは外国へという対外的な意味ではなく、   日本の報道や政府の姿勢に憤りを感じて対内的に抗議という意味があります。

Q:なぜ・紳士的な無言の抗議(大声で抗議したりしない)なのですか?
A:このOFFのコンセプトはデモだシュプレヒコールだ大声だというのに躊躇敬遠してしまう層でも、「ただ旗を振るだけでいい」ことで比較的容易に参加でき、いわゆる初心者にとって敷居を低く設定しています。
  無関心層や敬遠していた人たちに、容易に最初の一歩を踏みだし易いことを重視しています。
  一般的な抗議活動でない形式というのは魅力的だし効果的だと考えています。
  また、非参加者が見たときの嫌悪感をやわらげる、賛同を得やすいという意味もあります。
  そのために「無言」という言葉を使用しています。
  大きく行動できる人たちにとっては不十分だと思えるOFF(大がかりに激しい波も必要ですが)でしょうが、
  問題意識を抱えながらも躊躇している層を掘り起こし、
  見た目は穏やかだけど実際は大きなうねりのようなOFFになるように進めています。
     [デモ]      シュプレヒコール 熱い抗議の意思表示
      ↑↓
    [このオフ]     まずはチベット国旗を振ってみる      
      ↓↑
 [行動できないあなた]   憤る

●【参考資料② 蜂起以前の朝日新聞記事】
中国、ダライ・ラマ帰国呼びかけ チベット自治区きょう成立20周年( 1985年09月01日朝日新聞朝刊)→チベット関連の記事のソースが中国政府のみに偏っていた

 【北京31日=加藤特派員】中国は1日、チベット自治区成立20周年を盛大に祝うが、これを機にインドに亡命中の最高位の「生き仏」、ダライ・ラマ14世に対し「帰国を歓迎する」との呼びかけを再び強め始めた。これには、今なおチベット仏教の教主として幅広い信仰を集めるダライ・ラマの帰国実現によって、漢民族とチベット民族の団結をうたい、祖国統一やチベットの近代化建設のテコにしようとの中国側の思惑がのぞく。
 チベットは59年にダライ・ラマが反乱に失敗してインドに亡命後、貴族や寺院の封建勢力による農民支配が「民主改革」を経て解消され、65年に中国の省や特別市と並ぶ1級行政区の1つである「自治区」として成立した。しかし、すぐさま文革期に突入、自立性や民族、宗教を無視した政策によって、全国でも最も貧しい地区として取り残されて来た。
 新たな「チベットの目覚め」は、やっと80年代に入ってから。80年春、党中央のチベット開発に関する重要会議が開かれ、続いて胡耀邦党総書記ら中央指導者らが相次いで現地入りし、民族政策が本格化した。
 チベットの指導幹部はこれまで漢民族が大半を占めていたが、チベット族をどしどし登用するなどの方向転換が行われた。これと並行してダライ・ラマへの帰国の呼びかけが始まり「亡命政府」特使の北京入りも実現した。
 1日、ラサを中心に繰り広げられる記念式典に、党中央は胡啓立中央書記処書記と李鵬副首相の次代を担うニューリーダー2人を送り込んだ。また、代表団の一員としてダライ・ラマに次ぐ生き仏のパンチェン・ラマ全国人民代表大会常務副委員長を参加させた。パンチェン・ラマ氏は82年に、およそ20年ぶりにチベットに里帰りを許されたが、現在でもチベット族の精神的指導者としてダライ・ラマと並び人気が高い。
 そのパンチェン・ラマ氏はラサで30日記者会見し、中国のチベット政策やダライ・ラマ帰国問題について語ったが、この中で同氏は「79年以後、ダライ・ラマは代表を北京に派遣し、中央と接触を保っている。以前のような敵視の態度から関係改善を望む態度に変わってきたように思う」と指摘。帰国問題については「温かく迎えるという中国政府の政策は一貫しており変わっていない」と強調した。

●【参考資料③蜂起以前の朝日新聞記事】
数百人の部隊展開 住民「漢族は嫌い」 騒乱の中国・アバ・チベット族自治州説(2008年03月19日朝日新聞夕刊) →ソースを中国以外からも求めるようになった

 中【ミヤロ(中国四川省北部)=古谷浩一】チベット族による騒乱が相次いで伝えられる中国四川省のアバ・チベット族チャン族自治州に18日、入った。確認できただけで数百人の人民解放軍の部隊や大量の武装警察が展開。解放軍兵士によるチベット族の住居への家宅捜索と見られる行為も目撃した。
 四川省の省都、成都から北に約300キロ。白い桃の花が一面に咲き、山にへばりつくように石造りのチベット風住居が並んでいる。
 ナンバープレートのない迷彩色のトラック1台と四輪駆動車2台が止まっていた。約30人の兵士が黒い銃を横に構えて整列。真向かいの家から兵士が厳しい口調で叫ぶのが聞こえた。家の前では青と黄の民族衣装姿の年配女性が緊張した表情で兵士の方を見ていた。 「どうしたのか」と、車の窓を開けて尋ねると、銃口がこちらを向いた。童顔の兵士は「早く行け」というように首を振った。 騒乱のあった同自治州アバ県に車列を組んで向かう100台以上の武装警察の車体には、「社会の安定を断固として維持せよ」と書かれている。路上で警備をしていた警官は「ここは軍事管制下にある」と話した。 アバ県に向かう道では複数の検問もあった。住民の一人は「(騒乱を起こして)逃亡したチベット僧を捜しているそうだ」とささやいた。 なぜこのような事態になったのか。道を歩いていたチベット族の若い女性に尋ねると、「あなたたちには決して理解できないことだ」。その女性は「私は(漢族が)嫌いだ」と、吐き捨てるように言った。同自治州の州都マルカンまで約100キロのミヤロの警察派出所前で車を止められた。警官は記者だと分かると、「すぐに成都に戻れ」と迫った。理由について警官は「この先で自然災害が起きているためだ」と言ってにやりと笑った。 ◇
 アバ県では16日、約200人が警察署に火炎瓶を投げ、建物が焼失する騒乱があった。ロイター通信が伝えた。インドに拠点を置くNGOチベット人権民主化センターは、アバ県での治安部隊との衝突による死者は計15人としている。
 アバ・チベット族チャン族自治州は多数のチベット人が住み、甘粛省に接する地域などでは住民の8割以上を占める。

 ・警察隊発砲で3人死亡情報
 【北京=坂尻信義】インドに拠点を置く非政府組織(NGO)チベット人権民主化センターは19日、中国四川省甘孜チベット族自治州甘孜県で18日午後、反政府デモ中の群衆数百人に向けて中国の武装警察部隊が無差別に発砲し、3人が死亡、15人が負傷したとの情報を発表した。米政府系放送局のラジオ自由アジアは、少なくとも2人が死亡したと伝えた。
 ・最新の装甲車、軍の印隠す? ラサで撮影の映像
 【台北=林望】中国に詳しいカナダの軍事評論家、平可夫氏は18日、香港のテレビ局がチベット自治区ラサ市内で撮った映像に中国軍の最新鋭装甲車が写っている、と指摘した。
 15、16日に香港の複数テレビ局が撮影。同氏によると軍機械化歩兵師団の精鋭部隊に配備されている90式と92式の重装甲車で、映像では軍の所属を示す赤い星印を白い布で覆っていた。
 ・騒乱参加の100人が出頭
 中国中央テレビによると、チベット自治区政府の常務副主席は18日までに、ラサの騒乱に加わった約100人が警察当局などに出頭したことを明らかにした。商店などから奪った現金を持って出頭した者もいるという。中国当局は17日までに出頭すれば処分を軽減すると呼びかけていた。(北京)
 ・「ダライ・ラマ策動の証拠ない」 クリステンセン米国務省高官
 【ワシントン=鵜飼啓】中国の温家宝(ウェンチアパオ)首相が18日の記者会見でチベット人と治安当局の衝突を「ダライ・ラマ14世一派の組織的策動」と断じたことについて、米国務省東アジア太平洋局のクリステンセン次官補代理は18日、「(策動に関する)証拠は持ち合わせていない」と述べた。

【まとめ】2008年を境に何が変わったか
 
(1) フリー・チベット運動がネット(mixi 2ちゃんねる)経由で広がったことが示すように、テレビ、新聞といった既存のメディアが人々を操作する時代が終わり、ネット経由の情報(デマも含む)が人々の行動に対して力を持つようになった。

(2) 批判に押される形で、中国に対する配慮からチベット人の実情を報道していなかったメディアもチベットに関する事実を報道しはじめた。中国への"忖度"がもっともある朝日新聞ですら、2008年以後は平和解放、ラマ教、活仏といった中国よりの言葉を避け、亡命政府の言い分やチベット人の抗議を記事化するようになった。2008年3月22日の六本木デモの解説に際して、読売テレビで「チベットは独立国であったが・・・」という映像が流れた時は我が耳を疑った(それ以前は中国の一部という中国の公式見解をそのまま流していた)。チベットに関する書籍の点数も飛躍的にのびた(それ以前は大半はダライラマの法話、チベット死者の書などの仏教書)。

(3) 結果として、メディアが沈黙していたため日本人一般にほとんど知られることなかったチベット人の現状が2008年以後は広く知られるようになった。今や、中国の言い分を全面的に信じる日本人は存在しなくなった。
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DATE: 2018/03/17(土)   CATEGORY: 未分類
チベット・フェスティバル 2018
4月下旬から5月にかけて、3年ぶりにダライ・ラマ法王日本代表部事務所主宰によるチベットフェスティバル 2018(平和の祈り・観音砂曼荼羅の世界)が行われます。
18チベットフェスティバル

今回は南インドのセラ寺から12名の僧侶がいらして、砂マンダラ作成、声明、瞑想セッション、仮面舞踏などをご披露してくださいます。詳細は法王事務所のホームページをご覧戴くとして、要所をまとめると以下のようになります。

毎日行われるもの (砂マンダラ制作→完成→破壇 ・日替説法 ・声明 ・瞑想セッション ・仮面舞踏(チャム)
 大本山護国寺 :2018年4月20日(金)〜22日(日) 
相田みつを美術館 : 2018年4月28日(土)〜5月6日(日)

馬頭観音の許可灌頂
導師:チャド・リンポチェ
日時: 4月22日(日)13:00から16:00
場所: 大本山 護国寺

あいだみつを美術館の講演日程

4月29日(日)19:00〜20:00「セラ寺の僧院生活について」
セラ寺高僧トゥプテン・ソナム
4月30日(月)19:00〜20:00「日本・チベット仏教の交流について」
平岡宏一(清風高等・中学校長)
5月1日(火)19:00〜20:00「日本で生きるチベット医師」
西蔵ツェワン武蔵台病院院長
5月2日(水)19:00〜20:00「ダライ・ラマ法王とチベット」
石濱裕美子(早稲田大学教授)
5月3日(木)19:00〜20:00「なぜモンゴル人はチベット仏教徒になったのか」
宮脇淳子(モンゴル史家・学術博士)
5月4日(金)19:00〜20:00「にんげんだもの 父・相田みつを語る」
相田みつを美術館館長 相田一人
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DATE: 2018/02/22(木)   CATEGORY: 未分類
トゥルナン寺炎上
今年のチベットの新年は二月の十六日だった。その翌日、聖地チベットの中心ともいえる釈迦像をまつるトゥルナン寺(ジョカン=釈迦堂 / ツクラクカン / 大昭寺)の火事のニュースが飛び込んできた。
 この釈迦像は教科書にもでてくるソンツェンガムポ王が中国からめとった文成公主妃がもってきた仏と言われ、寺自体も同王がネバールからめとったティツゥン妃によってたてられた年代ものの、もちろん世界遺産である。
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 ラサの町はこのトゥルナン寺を中心に発展し、この釈迦像を巡拝する三重の巡礼路(ナンコル・パルコル・リンコル)の中に発展してきた(今はその周囲に漢人がはいってきて作った近代都市が広がるけど)。
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火災は寺が閉鎖されていた17日の午後六時に発生し、今時なのでケータイでとられた悲鳴入りの画像がネットにでまわったが中国当局はこれを迅速に削除していった。トゥルナンは巨大な寺であり、炎につつまれた屋根とそっくりの屋根がいくつもある。中国のメディアは、釈迦堂の向かいのソンツェン王堂が焼けたと発表した。しかし、しばらくして、屋根の形状からやはり焼けたのは釈迦堂ではないかという噂がでまわり始めた。すると、今度は翌日朝に撮影された釈迦像の写真が発表される。

 しかしこの写真も釈迦像の冠(出家前なので冠をかぶっている姿)が前と違うということで、また、18日に一般公開されると東側のセクションが入場禁止になっていたため、いまだ疑惑がチベット界をめぐっている。
 
 某チベット人情報によると、チョカンは上階部分が燃えただけで、仏殿もお釈迦様もセーフであるという。冠が違っている点については、デプン、セラ、ガンデンのゲシェ(博士)たち50人くらいが、ツォンカパにならって仏像の光背とか冠とかの装飾品を新しくした、その直後に火事がでたので、チベット人たちは土地神が怒ったのだとゲシェたちを非難している、しかし、ゲシェたちは「迷信だ」と反論しているそうな。なんかこの話リアリティある。

 このような話がとびかう背景には周知の通り中国当局がメディアを強力にコントロールしているため、中国政府にとって都合の悪い物は消されるという事実があるからである。
 チベットのお正月、そしてもうすぐくる3月10日の蜂起記念日においてチベット人の民族意識はもっともつよくなる。こんな状況なので、中国もチベット人が浮き足立つようなニュースを極力排除したいであろうことを考えると、チベット人はどうしても悪い方へと想像を膨らませてしまう。
仏像破壊

 文革の時、トゥルナン寺の仏像はこの釈迦像をのぞいて破壊され、中庭に積み上げられ、寺は事務所にされた(写真は唯色『殺劫』より)。なぜこの釈迦像が助かったのかというと、チベット人が崇拝する仏様なので裸にしてさらしものにするために残し、奇跡的に生き延びたものである。燃えた仏殿はもちろん年代ものである。

 新年早々こんな凶事がおきればチベット人も気持ちが暗くなるであろう。この件、続報が入ったらまたとりあげるかも。参考までに、ロビー・バーネットの ツィッターが、ウーセルさんのツイッターとも連動して時々刻々の情報を流している。

 トークイベントのお知らせです。 2月25日の日曜日には博多のあいれふで「石濱裕美子先生が約70年前のチベットの貴重な映像を見ながら語る会」(私がつけたタイトルではない)、3月10日の土曜日には、チベット・レストランタシテレでトークイベント「蜂起から十年 〜チベットに関する報道や世論はどう変化したか〜」、まだ詳細は未定ですが4月21日、22日に信州の善光寺様で「2008年のチベット人蜂起から十年」イベントが行われます。

 あの年から十年である。

「石濱裕美子先生が約70年前のチベットの貴重な映像を見ながら語る会」
日時: 2月25日(日)14:00 - 16:00
場所: あいれふ(〒810-0073 福岡市, 福岡県中央区舞鶴2丁目5-1 博多の中心部です!)
詳細はここ

●トークイベント「蜂起から十年 〜チベットに関する報道や世論はどう変化したか〜」
日時: 3月10日(土)16:00 - 17:30
場所: チベット・レストラン タシテレ(〒160-0002 東京都 新宿区四谷坂町12-18-102 防衛省の真ん前です!)
詳細はここ

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