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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/02/13(水)   CATEGORY: 未分類
高松・徳島弾丸ツアー
初日 高松で菊池寛

二月例によって一泊二日の弾丸ツアーで四国行ってきました。初日は菊池寛記念館で石濱金作の史料を探し、二日目は徳島県立文書館で館長さんより江戸期の庄屋文書の解説を伺い、かつ岡田鴨里文書の扱いについてアドバイスを戴く予定である。
 
 一泊二日なのでできるだけ早く移動するために徳島空港往復で予約したのだが、出発日が雪の予報となり前日に「キャンセル料タダにしてあげるから、考え直すなら今よ」という案内がANAからきた。時間きっちきちで動くので空港で何時間も足止めされたら何もできないので、意を決してキャンセルし新幹線をとる。しかし、岡山までいく「のぞみ」は便がすくなく予約は一杯で、グリーン車しかあいてない。ホテルも取り直すがただのビジネスホテルの素泊まりで15000円。贅沢いってらんないのでこれで手を打つ。

 岡山発高松行きの快速は瀬戸大橋を渡る。知らなかったが、マリンライナーは特急券はいらないが、パノラマ仕様になっている一号車だけは座席指定券がいる。乗ってからわかったので、普通車両だった。発車サイン音は「瀬戸の花嫁」(笑)。源平合戦の瀬戸内の海は超曇天であったが、飛行機では見られない風情は楽しめた。
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 高松につくと直ぐに菊池寛記念館にいき、学芸員のKさんのご案内を伺いながら展示をみせていただく。やろうと思っていた史料集めは事前にKさんがやってくださっていたので、恐縮した。ありがとうございます。
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 菊池寛の家は儒者の家で江戸時代には菊池五山という有名な漢学者もだした家であり、最近その江戸期の文書の整理が終わって太田剛先生が講演され、カタログもできあがっている。
 高松藩と阿波藩はお隣同志で、大正期に菊池寛が文藝春秋を創刊した際に石濱金作も同人となり、初期の頃から寄稿しているため、大正末期の文壇の雰囲気がわかる展示は面白かった。

菊池寛といえば芥川賞・直木賞を創設したことで有名だが、直木賞のもとになったのは直木三十五。

「三十五ってこれまんまさんじゅうごって読むんですね。もちろんペンネームですよね」
Kさん「そうです。30才の時に直木三十と名乗り、年をとるこどに直木三十一、三十二・・・とふやしていったのですが、ある時菊池寛がいい加減フラフラせずに名前を固定しなさいというので、三十五でとまりました」
「直木さんは永遠の三十五歳なんですね。」

また、菊池寛の作品が全部おいてあるコーナーをみると『満鉄外史』とか、四国らしく『十住心論 弘法大師とその宗教』とか、今まで知らなかったけど読んでみたくなる作品が結構ある。

 史料探索の時間がういたので、昔私の授業をとっててくれたMくんが小豆島から会いに来てくれていたので、彼の案内で高松市内にある菊池寛の史蹟をめぐる。

 生家に面した通りは「菊池寛通り」と名付けられ、中央公園には彼の文学碑と立像がある。彼の通っていた小学校や中学は名前が変わったり、別の公共施設になったりしているが、生家をはじめとして高松市の中心部に固まっていたことがわかる。
 
 中でも印象に残ったのは中央公園近くの道バタにある、「父帰る」の一シーンを銅像にしたもの。
 短編なので青空文庫でネットですぐ読めます。読んでからみると像がいっそう味わい深いです。

 あらすじは一言で言えば、借金こさえて子供の学費まで盗んで女と逐電したクズ父親が、事業にも失敗して年を取ってにっちもさっちもいかなくなって、妻と子供たちがくらしている家にズーズーしく戻ってくるという身も蓋もない話だ。

 長男はわずか八歳で父親代わりに弟や妹の世話をすることとなり、苦学して公務員になっている。弟も勉強ができて、妹も働き者で美人なのでいろいろなところから嫁入りの口がかかっているが、母親は「人柄が大事」と自分が結婚相手を大失敗したから慎重になっている。

 そんなところにクズな父親が戻ってくるのである。
こんな顔して。父

当然長男は「おまえぇぇぇぇ~どのツラ下げてもどってこられるんじゃ」(意訳)と怒る。
クズ父「生みの親になんてこというんだ」
長兄「私は母親が築港の海に親子心中しようと飛び込んだ時に死んでいます。」(意訳)
 とまあ、こんな感じに修羅場である。妹と母は兄ちゃんの気持ちはわかるし、さりとて父親もしょぼくれまくっていてかわいそうになってくるしで、どうしていいかわかんないので二人で泣いている。

 とうとう父親は空気を読んでスゴスゴでていくことになるが、それを弟はとめようとしている。
家族6

こんな修羅場を市内の真ん中につくっちゃうなんて、高松の人は人生勉強が物心つく前からできるわね。
 
 それからMくんに見送られつつ徳島行きの特急に見事にのりそこね、高速バスで徳島に向かう。東京でも郊外と郊外を結ぶ線は不便なように、高松・徳島間も不便。高松から岡山、徳島から神戸とかは結構便があるのに。

●二日目 徳島文書館

 翌日は徳島県立文書館の館長先生から江戸期の庄屋坂上家文書の解説を益習の集いの方々とともに伺う。この文書は益習の集いの会員のご家庭から発見されたものである。
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 文書館は元県庁だった建物で、去年長春でみた1930年代のスタイルで建てられている。館長さんにこの建物30年代ですよね、と伺ったらやはり1930年のものだった。最初の徳島県庁は徳島藩の家老屋敷(賀島さんち)を再利用していたそうで、洋風に立て直すために積み立てていたお金が第一次世界大戦でふっとんで、やっと1930年にたったのだという。元々は今の県庁のある場所にたっていたが、老朽化したため、玄関部分を中心に1990年にみかん畑の中につくられたこの文化の森に移築されたのだそうな。
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 館長さん「県庁全部移築してくれてたら、収蔵品の置き場に困ることもなかったのですが」
 
 最初は館長室に通されたのだが、淡路島タマネギとかかいたダンボール箱がいくつも台車の上にのっていて、狭い。行き来につまづいたので

私「これちょっどかしていいですか」とか言ってたら、

始まってみたらその箱の中身が坂上文書だった(笑)。
まだ正式に寄贈していないから、会員の方の家からもってきた時の箱をそのままつかっていたのだ。

 館長さん「昔は文書を整理する時は帳面類と書簡類をまずわけるとかしていましたが、現在は現地秩序は保存ということになっています。たとえ乱雑につっこまれているようでもご先祖が何らかの意図があってそのような順番でいれた可能性もあるからです。」、

 寄贈者
「そんなこと知らないですから、どんどんつめていきました」

 一同「・・・・・・」

 そして、館長先生が箱ごとに文書をだして解説してくださる。江戸期の文書なにぶん崩し字が読めないので、明治期の淡路新報関連の文書を写真にとりまくる。

 別の会員の方は江戸期の南海地震の研究をしているとのことで、それ関係の史料を中心に写真をとっていらっしゃる。

 徳島は実は太平洋岸に向いているので南海トラフ地震があると津波をかぶるのだそうな。徳島には吉野川という大河も流れており、これが暴れ川で収穫前の田んぼがよくやられたのだそう。その点同じ阿波藩でも淡路島は水害がないので、徳島本藩よりもゆたかだったんだそうな。
 
 あと、面白かったのはやはり勤王関係の資料。淡路島の庄屋クラスが勤王の志士の応援を独自にしていたので、京都にいったら長州は桂小五郎に話せばいいとかいう書き付けもあった。三条実美が徳島城下にいた形跡も裏がとれる史料があったという。幕末といえば六代前のご先祖がかいた草莽私記はいつかまじめに読んで見たいが、私の本筋キャリアにはかすりもしないので悩ましいところである。

 そのあと四国大学の太田剛先生を書道展の会場に訪問。昔は書道学科は東の大東文化大学、西の四国大学と二つしかなく、今も四国大学の書道学科には書道を究めようと全国から腕に覚えのある学生があつまってくるとのことで、沖縄の万国津梁の鐘の銘文を書いている沖縄の学生さんやらの作品が並んで見応えがある。

 そのあとは、徳島藩主蜂須賀家のお墓をみに興源寺へいく。太田先生が「入り口が、わかりにくい」とおっしゃっていたけど、ほっそい入り口を入ると、広大な藩主墓所がひろがっている。益習の集いのみなさんは「[淡路島にある]稲田のお殿様のお墓に比べると大きい。やはり藩主さまだねえ」と感心している。
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 興源寺の宗派は臨済宗妙心寺派であり、江戸の蜂須賀家の菩提寺上野にある海禅寺と同じである(私の曾祖父が改葬されるまでここに葬られていた)。江戸後期は墓は儒教形式になり、万年山の斜面に建てられるようになったという。時間がないのでここまでは無理。

 そのあと、県庁内にあるという徳島慶應義塾大学の碑文を探す。実は文書館の館長さんは慶應ボーイで、この碑文の由来に詳しく、もとたっていた場所にローソンができて、ローソンの看板の一部みたいなってこれはひどいということで、県庁に移設したとのこと。

 県庁のはす向かいには確かにローソンがあるけど、もしあのローソンの前にたっていたなら、確かにきっついなと思われる環境であった。なぜなら、碑文がこんな感じの現代芸術なのである。ローソンのロゴの前にあったら、環境彫刻にしかみえん。
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 最近の調査で金作のパパ鐵郎は慶應義塾大学に明治22年に入学していて卒業後のある時点で時事新報社に入社している。まだ福沢諭吉が在世の折である。早稲田をでた私にとってついこの間まで慶應は未知の世界であったが、最近はこうして慶應大学の歴史をたどっているのだから、人生は面白い。ちなみに鐵郎はその後、大隈重信が創刊した報知新聞(後の読売新聞)に移籍している。

そうこうするうちに、日も暮れてきたので、益習の集いの皆さまとは県庁で解散した。

 徳島から神戸まで通しで陸路で旅をするのは思えばこれが初めて。新大阪から新幹線にのったが、徳島藩の藩主は参勤交代の際には徳島から大阪まで船でいってそこから東海道を徒歩で動いたので、県庁前から大阪経由で江戸に戻るこの経路はほぼ一緒。

 昭和も大正も明治も江戸も遠くなり、さらに平成まで終わろうとしている今、かつてはなまなましい記憶であった事件も、客観的な観察対象となっていく。私もかつてなく一族の歴史を、落ち着かない気持ちではなく、穏やかな心で見つめていることに気付く。
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DATE: 2019/02/08(金)   CATEGORY: 未分類
「チベットにおきたことは、あなたの国にもおこりうる」
一月末締め切りの依頼論文が限りなく間に合わなかったため、センゲ首相の来日行事にまったく出られませんでした。しかし、Wくんに頼んでチベットハウスでの2019年1月26日のお話を録音してもらったので、それだけは聞くことができました。
私と同じく諸般の事情で聞けなかった方のために以下センゲ首相のお話を文字に起こしました(文章にする際に多少整理しています)。内輪のお話なのでかなり面白かったです。

みなさんにここ、チベット・ハウスでお話できることを嬉しく思います。今回SFTがこの場を準備して下さったとのことで、SFTの皆様に感謝いたします。日本では活動が始まって十年ということですね。

本日集まってくださったみなさんはチベットにかなり詳しい方達ばかりということで、チベットの現状やダラムサラの政策などについてはみなさんご存じかと思います。またご存じない方でも中央チベット政権のサイトでご覧になれます。そこで、今日は、外国での個人的な体験についてお話させて戴きたいと思います。

Index(国境なき記者団の報道の自由度ランキング)などで報道されていますように、ジャーナリストの方にとってチベットはシリアの次に状況が悪く、世界的にみれば北朝鮮よりもアクセスしにくい地域です。

 今中国の影響力が世界的に高まっており、中国政府は自らに向けられた批判には強硬に反応するようになっています。私は2011年に選挙で選ばれてから、亡命政権のシキョン(首席大臣)の地位についています。政治的な地位ですので、どこの国にいってもその国の要人にあおうとすると中国政府の横やりがはいります。

 私の父は自由を求めて戦った戦士で、私はインドに生まれました。95年以前にはチベット青年会議の一員であり、SFTのメンバーでもありました。その後アメリカで教育をうけました。中国政府はチベット青年会議を「テロリスト」と称し、私をテロリストの組織のメンバーときめつけます。このように、他とつながりを断って孤立させるのが、彼らのやり方です(註 言うまでもないことですが、チベット青年会議はぜんぜんテロなんてやってません)。私はアメリカで16年間くらしていた間に中国人の学者や研究者たちとチベット人たちの会議を七回主催しました。チベットに真の自治をもとめる「中道のアプローチ」を支持しているといっても、彼らは[うそだ、独立したいんだろと]信じようとしません。

 この数年間私に対する対抗策がより強力になってきています。去年南アフリカのある大学の法学部で講演を行おうとしたところ、その会場に中国人の学生が何百人もおしかけて、私の行動の自由を奪い演壇に身あがれないようにし、会場にいた学生も教員も追い出してしまいました。主催者たちはそのあとすぐに別の会場を手配してくださり、出席を予定した七十五%の人は私の話を聞くことができました。

 私が講演を終えたあとも、構内では30人から40人の中国人のかたたちが抗議を続けており、「一つの中国」とか「南アフリカからでていけ」と叫んでいました。すぐそこで抗議をされるという状況でした。そして今みなさんがしているようにカメラで私を撮影している人もたくさんいました。私はそこで「ここで撮られている写真は中国政府に使われるだろう。なるほど中国政府は私の逃げていく様子をとりたいに違いない」と思ったので、ピースサインをしてポーズをきめました。車までおいかけてきた人達にも30秒間ずっとピースしていましたから、あそこで取られた写真はすべてピースサインのはずです。次の日、中国政府は「分離主義者が南アフリカにきた」と報道しましたが、写真はなしでした。

私がピース(勝利のサイン)をしたのには意味があります。これからそれをお話しましょう。

私が昨年11月にカナダのトロントにおいてSFTの主催で大学で講義した時にも中国人学生が5-60人集まって抗議をしました。その時、抗議している人をどうしようかということになり、室内にいれて対話しようということになり、20人くらいが室内にはいってきました。彼らは「自分たちはすべてを知っていて、私が間違っている」と考えていました。私はアメリカにいた16年間、中国人の学生や学者との対話で場数を踏んでいたので、聴衆に中国人がいるととても興奮して嬉しくなります。一人から四つから五つの質問がでてくる状態で一時間以上すばらしい議論ができました。そして議論をしつくした後で中国人の学生も最後は拍手をしてくれました。「チベットでは実はこういうことがおきています」「中道のアプローチというのはこういうものです」としっかりと話せば、中国の人たちはもそれを支持してくれることがよくあります。

 大学で中国人たちが抗議できるということ、それを室内に招いて議論ができるということ、これは言論の自由という点では勝利しているわけです。北京では中国人が政府に抗議することはできませんし、私が北京でチベットのことを話すこともできません。しかし、カナダでは中国人は私に抗議することもできますし、私もチベットのことを話すことができます。お互いに議論ができるということが言論の自由ということであり、民主主義が確立しているという証拠なのです。

 南アフリカで私がピースサインをしたのはそういうことです。彼らが抗議でき、私が話をできたから、それは勝利なのです。私が首席大臣に就任して以来、中国政府は国内ではチベット人を圧迫し、それだけでは十分ではないと思ったのか、国外にいるチベット人にも圧力をかけてきています。逆にいえば中国はナーバスになっています。

中国政府のかける圧力は成功する場合としない場合があります。

私がスイスでとある方と9:30に逢う予定でしたが、9:00に電話が入り、「中国政府から外務省に圧力がかかってお会いできなくなりました」といってきました。しかし、また別の時には10:30に逢う予定だった国会議員が直前になって10:45分に来て下さいといい、後ほどわかったのですが、その方のところには中国の代理人が私に合わないようにと説得に行っていたそうです。結局、結果的にお二人の方は予定通りあうことができ、偶然そこにいた人と計三名とお会いできました。スイスでは23名の国会議員の方がチベット支援に登録してくださっていますが、実際にあうことができたのは3名でした。カナダのオタワでもオーストラリアの首都もそうでしたが、私が訪問すると中国の代理人が行く先々でそれをさせないように訪問するという状況です。

しかし、それが最近成功しなくなってきています。チェコでは大統領執務室に中国人がアドバイザーとして入る程、直接中国政府の圧力が政府にかかっていますが、51人の国会議員がチベット・サポートに登録するという動きがでています(これはヨーロッパ最大規模です)。ワシントンを訪問すると、ホワイトハウスで国務大臣とお会いするのですが、就任してから七年、そのような会合があっても報道はされないし、会談の場所も秘密にされるといった具合でした。しかし、昨年11月ワシントンを訪問した時には、私と大臣の会談は報道され、一緒にランチもとり写真もたくさんとられました。

 また、アメリカの議会は相互入国法案を通過させ、アメリカ人のジャーナリストがチベットに自由に入境できない現状を告発しました。大統領が署名するアメリカ政府の予算の中にもチベット人のための基金が正式に含まれています。

 トランプ政権が中国に対する対抗措置としてうちだした「インド太平洋戦略」は日本やインド、オーストラリアと連携して「自由で開かれたインド太平洋」を目指すものです。この法案の中でも「チベット」が銘記されています。アメリカの副大統領や国務長官もスピーチの中でチベットに明確に言及しており、アメリカの正式な政策の一部にチベットが含まれています。

 中国政府はこれまでと同じようにチベットの動きや声を抑えこもうとしていますが、このように必ずしもすべてが成功しているわけではありません。

 アメリカは[強いから]当然だろうと思うのでしたら、[中国からの圧力に屈しやすい] 小さな国についても話しましょう。オーストラリアでは国会議員23名がチベット支援を表明し、私が訪問している間に17 名が会いにきてくれました。内訳は六つの党の議員からなり、党首も二人、また大臣もいました。カナダでも、オーストラリアもチェコも中国の圧力に屈せず大臣クラスの人が私のところにきています。

 私が主席大臣に就任した2011年当時は中国の圧力が非常に強く、ほとんどの国がそれに屈していました。しかし、最近は圧力が強すぎるということで、その反作用から、各国からチベットやウイグルへの支援の動きがでています。
 日本はもっとも多い91名の議員がチベット・サポートを表明してくれています。みなさんはそれを誇りにおもっていてください。ですから私も2012年の4月以来日本を定期的に訪問しており、今回は五回目です。

 可能であれば、日本政府に中道のアプローチを支持すると表明して欲しいし、アメリカの相互入国法案のような法案を通してほしい。また、ダライラマ法王の代表団と中国の代表団との間の対話が実現するように日本政府がよびかけてほしいです。中国が日本にあれこれいうのと同じく、日本から中国に対してもいうことができると思います。

日本政府がもう少し何かできるはずだと私がいった時、みなさんうなずいていましたね。頷くことで頭を動かしていますので、次は手と足をうごかして行動にうつしませんか。議員の方たちはサポートをしてくださっており、それに対しては非常に感謝していますが、その上で行動をお願いできればと思います。
 私は通常は一つの国を再度訪問するのに二年から五年の間隔を空けますが、日本には毎年来ています。「ここでだからできることがある」と思いつつ、私は時間とエネルギーをかけて日本にきています。

  みなさんは友人であり家族であるので、今日は個人的な旅の話をしました。みなさんの心に響けばと思います。こんな話を聞きに来たのではなかったと思った方がいらしたらごめんなさい。


 〇以下質問者に対してセンゲ首相が答える時間(質問者とセンゲ首相の声が録音の中では遠いのでだいたいこんなかんじだろな〜と言う感じで文字起こししました)

質問「東南アジア諸国のチベットの支援は?」
センゲ首相「東南アジアに限らず仏教国はチベットの同盟国と考えています。しかし中国政府の圧力によってダライラマ法王といえどもこれらの仏教国に入国すらできない状態が続いています。[毎年ダライラマにビザをだしている]日本は例外です。
 ただベトナム、ラオス、タイ、スリランカの仏教国は中国がチベットの98%の僧院を破壊し僧侶を還俗させたということを知っています。仏教文明を破壊しようとしていることは知っています。ただ、たとえば韓国の要人や仏教寺院がダライラマ法王を招聘したいと思ってきましたが、いまだ成功していません。

質問「アメリカのチベット問題へのコミットメントについて教えてください」
センゲ首相「オバマ大統領は計四回ダライラマと会見しており、中道のアプローチを支持するとアメリカで初めて表明した方です。それ以前の大統領をみても徐々に段階的にチベットのサポートが深化してきたのが分かります。トランプ政権になってから、前述したように国務省の方とおあいしたのが初めて報道され、それから、相互入国法案(http://www.tibethouse.jp/news_release/2018/181203_US_Senate_20181129.html)とかインド太平洋法案に大統領が署名したのも初めてです。アメリカのチベット支援は以前と同じか、よりよくなっていると言えます。」

質問 「チベット支援について個人でできることは何があるでしょうか。」
センゲ首相「小さなステップと大きなステップがあります。[小さなステップとしては]まずダライラマ法王事務所がだしているニュースレターを受け取っていただく。そこでチベットに実際に何がおきているかを知って戴く。また私たちが主催するさまざまなイベントにも是非足を運んで戴きたいと思います。今年3月の[チベット動乱]60周年にも是非きてください。10人や30人で支援しても変化はおきるのかと思うでしょうが、確実に変化はおきます。
 また、メディアに働きかけるということもできると思います。昨日NHKに私のインタビユーが流れましたし、ラジオにも流れました。その際にテレビ局に視聴者から「放映してくれてありがとうございます」という感謝の言葉をおくるのは重要です。そしたら局の幹部がまた[チベットを]とりあげくれるからです。
 小さなステップを積み上げていけばいつかは結果がでるといえば、私は今回の五回目の来日にして、はじめてNHKがとりあげてくれました。今までももちろん新聞での報道はありましたが、それがようやく今年テレビとラジオにつながったのです。
 また、私たち国民がチベットの議連の人たちにメッセージを送ることができます。「中道のアプローチを支持して下さい、アメリカのように、相互入国訪問とおしてください、アメリカのようにと、対話を再開して下さい」と働きかけることができます。
 その場合、チベット人と同じように常に礼儀正しくやさしく行うことが重要かと思います。
 また、漢人とNHKのインタビューをシェアすることもできます。中国の学者と対話することもできます。彼らは表面的には反発すると思いますが、頭の中では何かを考え始めます。」

質問者「身もふたもない言い方ですが、我々ができることは少ないと思います。でも、続けたいと思います。」
センゲ首相「いまおっしゃってくださったように、続けることが重要です。この七年5-6回ドイツを訪問しました。話している毎回内容はかわっていませんが、ドイツの側の受け取り方は変わってきています。かつてドイツ人は中国をよきビジネスパートナーとみなしてきましたが、現在は政治的にも複雑な定義をはじめています。歳月をへれば環境の変化でものごとは変わるので、とにかく続けていくことが重要です。
 2017年に私は休暇は一日半しかとっていません。移動移動の毎日です。ですが、そうしているうちに展望が開けてきます。」

質問「中国国内でイスラム人にかんして虐殺を行っていることに対して声明をお願いします。」
センゲ首相「NHKですでに昨日話しました。ジュネーブ・フォーラムでは声明を出す以上のことができたと思います。新疆では100万人以上の兄弟姉妹が強制収容時にいれられ同じ問題で苦しんでいます。私たちは連帯意識をもっています。」

質問(チベット人)「一番多い漢人の質問は何ですか」
センゲ首相「トロントでの中国人学生との対話はyoutubeでも公開されています。中央チベット政権のサイトにも「よくある質問とチベットからの回答例の20」があがっています。90%の質問はこの20に含まれています。
漢人からでる一番多い質問とは「中国はこれだけチベットにいろいろしてあげたのに、チベット人は不平を言うのか、どうしてそれを幸せに思わないのか。」というものです。漢人は「農奴制に苦しんで洞窟にすんで不潔なチベット人を中国が清潔にしてやって食べ物も与えてやって助けてやった」というドキュメンタリーをみて育ちます。なので漢人の方は実際そう信じ切っています。
ハーバートのロースクールにいたとき、学内で道に迷った中国人夫婦がいたので道案内をかってでました。私は自分のことを話したら相手がどう反応するかわかっていたので最初は黙っていたのですが、何をしているんですかと聴かれたので、「私はチベット人でハーバートで仕事をしています」というと、その夫婦は非常に失礼なことを質問し、信じられないといった感じでした。彼らは、チベット人は何も知らないと思っています。彼らは私に「チベットにいったことがあるのか? 行ったことがないからチベット人が幸せなのを知らないのだろう? 」と決めつけます。

「チベット本土でチベット人のかたにハッピーかと聞けばそれはハッピーだと答えます。だって聴いてきた人は軍関係者かもしれないし、警察かもしれない、[不満をいったらどのような報復があるかしれないからチベット人は]そう答えるしかないのです。」

質問「この一年くらいでアメリカと中国の関係が大きく変わってきています。それがチベットにどう影響すると思いますか。」
センゲ首相「アメリカと中国、日本中国とは貿易でつながっているので複雑な状況です。その貿易が良かろうが悪かろうが、人権問題は常に問題としては最優先に提起する必要があります。トランプ大統領がなにしようが、安倍晋三首相がどうしようがすまいが、常に提起しつづけます。私はこの七年「チベットにおきたことは、あなたの国でもおこりうることです」といい続けてきました。

 しかし「チベットは例外でしょう」と反論されます。アメリカや南米など中国から遠く離れた国の人たちはチベットでおきたことは遠い対岸の火事だと思っています。たしかに中国は遠いところは物理的に占領することはしないかもしれないですが、経済的、社会的、政治的、文化的には占領することは可能です。今になってみな「あなたのいうことは正しかった」と言い始めています。なぜなら彼らの議会。政府、大学、官僚機構にまですみずみにまで中国の影響が及ぶようになってきているからです。

 ですから全世界で足並みを揃える必要があると思います。
今日はみなさんにとって休日ですね。世界でも一番働くのが日本の方だと思いますが、貴重な休日には温泉にでもはいりたいところでしょう。私も温泉好きです。それなにの貴重な休日をここにきてくださってありがとうございました。
 [拍手]

センゲ首相が南米の方が今になって気づいてきた、といいうことにいついて、2019年2月7日の毎日新聞の記事を参考までにあげておきます。

デジタル統治の輸出=坂東賢治
2019.02.07 東京朝刊 3頁 三面 (全998字) 
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 新幹線に似た中国の高速鉄道だが、飛行機と同様に実名で切符を購入しなければならない点が日本とは異なる。5日に春節(旧正月)を迎えた中国では1月から3月にかけ、億単位の乗客が帰省や旅行で高速鉄道を利用する。
 膨大なデータ処理を可能にするのが、16歳以上に取得が義務付けられたICチップ入り身分証明書(ID)だ。自動販売機上の読み取り装置に証明書をかざして切符を購入すれば、姓名、ID番号が印刷される。
 ICチップに個人情報を記録したIDは2004年から配布され、13年からは指紋も記録されるようになった。世界最大の人口大国をコンピューター管理し、国民の動向を監視する「デジタル統治」の基礎ともいえる存在なのだ。
 その手法をそっくり取り入れたのが「2人の大統領」をめぐる混乱で国際政治の焦点となっているベネズエラだ。13年に大統領に就任したマドゥロ氏は17年から「祖国カード」と名付けたIDの配布を始めた。中国のIDより先進的でQRコードが印刷され、電子マネー機能を併せ持つ。
 システム作りを請け負ったのが中興通訊(ZTE)だ。ロイター通信によると、IDを通じて収入や医療情報、政治傾向などのビッグデータを収集するデータベースの構築も支援しているという。米国は中国の動きに神経をとがらせている。マドゥロ体制をITの力で支えるシステムの構築は中国型の政治モデルの輸出にも映るからだ。
 ZTEは昨年、北朝鮮やイランに対する禁輸措置に違反したと米国の制裁を受け、法令順守を約束し、10億ドルの罰金を支払って制裁を解除された。米共和党の上院議員らはZTEがこの時の約束やベネズエラに対する制裁措置に違反しているのではないかと商務省に調査を求めている。
 米国はZTEや華為技術(ファーウェイ)の通信機器を政府機関などから排除する方針を決め、日本など同盟国にも同調を働きかけている。ベネズエラもまた、次世代技術をめぐる米中の覇権争いの最前線といえるのだ。
 中国は石油確保を目的にベネズエラの反米左派政権を支援し、総額5兆円を超える巨額融資を行ってきた。ベネズエラが中国に輸出する石油の半分近くが返済に充てられている。経済危機が深刻化するベネズエラが債務不履行に陥ることは悪夢だろう。
 同時に米国の影響が強まり、ZTE排除の動きにつながるような事態を警戒していることは疑いない。(専門編集委員)
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DATE: 2019/01/23(水)   CATEGORY: 未分類
19年センゲ首相来日日程
チベット亡命政府の代表センゲ首相がチベット新年(ロサル)の休暇にあわせて来日される。チベット社会は17世紀後半より歴代ダライラマが政教一致の権威を有していたが、そのチベットに選挙で選ばれた「首相」が生まれるまでにはもちろん長い時間がかかった。

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ダライラマは1959年の亡命直後より難民社会の先頭にたって、民主化に取り組んだ。その理由は、こうである。転生によってその座をうけつぐダライラマ制に基づく限り、前のダライラマがなくなってから、次のダライラマが成人に至るまで長大な権力の空白期間が生まれる。平和な時期ならまだしも亡国の局面において、政治的な空白は亡国決定に等しい。つまり、ダライラマ一人にチベットのすべてがかかるという今の状態はかなりまずい。

「ダライラマの代替わりとともにチベット社会が心中しなくて済むようにしよう。民主主義にはむろんいろいろな問題があるが、他の諸制度に比べればまし。人々が自ら選んだ代表によってチベット社会を運営できるようにしよう」とこう、ダライラマは考えたのである。

 しかし、仏教がすみずみにまで浸透した社会で生きてきたチベット難民は、「ふるさとを失った上に、観音菩薩(ダライラマ)の加護まで失うなんて、ありえない!」 と激しく拒否し、長い間ダライラマの引退を押しとどめていた。しかし、2011年、ダライラマの高齢という事実を前についにチベット人は決意し、ダライラマは政教一致のチベットの元首から退き、政治の座を選挙でえらばれたセンゲ首相に託したのである。

 センゲ首相は貧しい難民社会に生をうけ、奨学金で進学し、最終学歴はアメリカの名門ハーバート大学のロースクルをでた秀才である。ダライラマの次だから何をやっても何かいわれてしまうつらい立場であったが、けなげにがんばった結果、最近はみなから受け入れられ再選も果たした。

 平岡先生がセンゲ首相から聴いた話であるが、首相といっても一国の首相ではなく、難民社会の首相であり、かつ、ここまで世界中に中国の影響力がすみずみにまで及んでいると何かと辛いめにあう。そのような時にセンゲ首相はダライラマ14世にアドバイスを求めにいくのだという。すると、気持ちが切り替わり、「ダライラマにアドバイスを得られる環境にいる自分は何て幸せなんだろうと思える」とおっしゃっていたという。
 
 確かに、60年前にダライラマ14世がチベットからインドに亡命した時はわずか24才であった。一国の王からいきなり一難民となり、環境が激変したばかりか、外遊をすれば心ないことをいう人も沢山いた。しかし、ダライラマもダライラマに従う10万人のチベット難民も一つ一つなすべきことをなし、今自分たちの文化と言葉をまもるためにとにもかくにも持続可能な社会をつくりあげてきた。そのダライラマ14世のアドバイスなのだから、たしかに重みがあるであろう。

 そんなセンゲ首相の話を聞いてみたいという方、以下に来日日程をあげるので、チベット・ハウスや大阪の銭屋本舗などで親しく接することができます。

その後に続くリンク先はセンゲ首相との中国人との対話などからのクリップ映像である。よろしかったらご覧ください。


●2019年1月26日(土) 13時~14時
在日チベット人とチベット支援者の皆様に『主席大臣ロブサン・センゲによる講演会と意見交換会』開催のご案内
◆ 会費:無料【参加自由】
◆ 会場:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス・ジャパン)
◆ 主催:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(NPO チベットハウス・ジャパン)
◆ 協力:在日チベット人コミュニティ・スチューデンツ・フォー・フリーチベット

●2019年1月26日(土) 18時30分~20時
チベット亡命政権 主席大臣ロブサン・センゲ 来日歓迎レセプションパーティーの御案内
◆ 会場:ホテルオークラ東京別館地下2階(アスコットホール)
◆ 参加費:お一人様 7,000円(立食形式)
◆ 申込締切日:2019年1月23日(木)【必着】
◆ 主催:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(NPO チベットハウス・ジャパン)

●2019年1月27日(日) 18時~19時30分
チベット亡命政権ロブサン・センゲ主席大臣来日特別企画「リーダーシップとこれからの社会に必要な人材とは」開催のお知らせ
◆ 会場:東京都・飯田橋 Think Lab
◆ 研修費:一般:5,000円(税込) 学生:1,500円(税込)
◆ 講師:Dr. ロブサン・センゲ氏(チベット亡命政権主席大臣)
◆ ファシリテーター:島田由香氏(ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス株式会社取締役人事総務本部長)
◆ 主催:ロブサン・センゲ氏来日講演企画委員会

●2019年1月29日(火) 17時~18時30分
シンポジウム『知っておかなければならないチベットの今 7』(ロブサン・センゲ主席大臣講演)開催のご案内
◆ 会場:大阪・銭屋本舗南館6階(銭屋ホール)
◆ 会費:無料
◆ 主催:雪の下の炎の会

センゲ首相のビデオクリップ
https://twitter.com/tibethousejapan/status/1085848916166246401
https://twitter.com/tibethousejapan/status/1085835341578170369
https://twitter.com/tibethousejapan/status/1085521332635295746
https://twitter.com/tibethousejapan/status/1085135138340495360
https://twitter.com/tibethousejapan/status/1084679587592732673
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DATE: 2018/12/27(木)   CATEGORY: 未分類
怒濤の18年を総括
●チベット・カレンダーで今年もチベットをおそばに

 今年もチベットをあなたのおそばに。SFTJapanのチベット・カレンダーがでました。 今年のカレンダーの表紙は中国共産党が入ってくる前に存在したラサの仏塔ゲート(パルゴカリン)の古写真を現在のポタラ宮と合成したもの。
 この今・昔の写真シリーズ、これからもやってほしい。三月は蜂起記念日がある月なので難民社会で行われるいろいろな抗議活動の写真、七月はダライラマの誕生日なのでダライラマの写真といった具合にこっている。また、最終ページにはチベットの主要なお祭りの西暦日程、SFTJapanの昨年の活動実績をまとめて報告されている。
 以下のページで注文できます。

 わがやの愛鳥ごろう様もカレンダーを袋からだすと駆け寄ってきました。オススメのようです。

●チベット関連の世界情勢について

今年は北京オリンピックの年におきたチベット人蜂起から十周年である。同年におきたリーマン・ショックの後、経済力をました中国は一帯一路、中国製造2025などと、中国標準を世界標準にせんと経済、軍事、政治の世界でごりごりごり押して世界がドンビキ。中国国内の人権派の弁護士はどこかに拉致られ、ウイグル人は100万人単位で収容所にいれられ、チベットをめぐる情勢も日に日に厳しくなり、人権に敏感な先進各国もチベット、台湾、天安門の3Tに言及しづらくなっていった。

 すわ、中国様が世界を支配する日も近いかと思った矢先、七月にアメリカ・ファーストのトランプ大統領が、知的財産権を侵害し続てきた中国に対して、関税引き上げを要求し、米中貿易戦争が勃発。10月8日にはペンス副大統領がハドソン研究所で、雑にまとめると「一向に民主化が進展しないどころか、人権状況はどんどん悪化している。反則技もばしばし決めるし(ハッカーによる攻撃)、中国とは価値観が根本的に違う。もうやっていけない」というスピーチを行い、もう米中はっきりと袂を分かってきたので、チベット問題も少しは動いてくれると祈りたい。

 そんな平成最後の年末、チベット関係者と新宿駅近くの路上で立ち飲みしたので、そこで聴いたチベット関連のお話をまとめます。

・国際連合人権理事会の(UPR)中国審査(11/6)

 国連には2006年に人権理事会が設置されており、国際連合の加盟国は4年に一度、人権状況を評価(UPR)される。理事国はアフリカ、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカ、西ヨーロッパ地域の47ヵ国からなり、理事国には日本も入っているが、人権状況ではアレな中国も入っている。そしてアメリカはトランプ大統領が衝動的に脱退したとかで、国際政治は経済同様自己中と協調の狭間で翻弄されまくっている。

 話をもどすと、今年は通算三回目の中国の評価年にあたり、47理事国は持ち時間二~三分ながら、中国の人権状況についてレビューを行った。自分自身が人権をまもれていないアフリカ諸国は当然のことながら中国様にやさしく、先進国はむろんのこと厳しいレビューをつきつけたのであった。

 チベットにおける人権状況に懸念を表明したのは、十三ヵ国、すなわち、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スウェーデン、スイス、イギリス、そしてアメリカである。
 2013年と2018年の場合を比べると、
一貫してチベットを支持したのが、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スイス、イギリス、アメリカで、言及がなくなったのが、チェコ、アイルランド、ポーランド、新たに言及してくれたのが、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スエーデンである。
日本がこの中に入っているのにはチベット・ロビーのお力が大きい。関係者各位の努力に深く敬意を表したい。

・チベット議員連盟初決議(11/20)

ダライラマ法王が来日された11月にあわせて、チベット議員連盟(90名から構成。名前は非公開。だって中国が脅迫するから 爆笑) が、ダライラマの非暴力の訴えに共感し、各国議会で決議された共同アクションを支持し、チベット問題にコミットメントしていくという決議を行った(詳細はここ)。


・ 世界人権デーデモ(12/8)

12月8日の世界人権デー(12/10)にあわせたデモには、顔を隠したウイグルの方がたくさん参加されたという。 中国政府はこれまでもウイグル人を強制収容所へと送り込んでいたが、10月15日に この「再教育」を法制化したことを受け、10/12から二日間、BBCがこの「ウイグル人100万人収容所送り込み問題」をとりあげた。

 私も録画して授業の教材としたが、ここ数年で、数万人単位を収容できる収容所があちこちに建設され、100万人のウイグル人が送り込まれている。過激思想に汚染されないように中国語や中国政府を愛国するように「再教育」することが目的であるという。 ある日突然お父さんやお兄さんが収容所につれていかれて、その家の前には当局が貼った「教育を受けているから安心して」みたいなビラが翻る。一言でまとめると「いつの時代だよ」という状況。

 こんな事態であるため、ウイグル人が人権デーのデモにくるわけだが、沿道からは「中国でやれ」とヤジる高齢男性がいたという。統合失調症の妄想でもなんでもなく現代の中国はリアルなオーエルの『1984年』社会である。ネットもケータイも当局の管理下におかれ、政府を批判すれば即ムショ入り。中国政府を動かすことができるのは外圧だけだから、ウイグル人もチベット人も日本で声をあげているのであり、そのあたりをご理解いただくのもデモの目的である。

 まとめ。
 チベット仏教によって育まれた高僧の人格は、世界中の多くの人々に気づきを与えており、チベット仏教の思想とそれによって作り出される人材は人類の共通の無形文化遺産である。元、清の皇帝の傍らにおいてモラルを説いてきたのはチベット仏教である。チベット仏教は不完全な人類にとって他の世界宗教同様必要な教えであり、いつの時代でも決して古びることはない。問題山積の世界情勢をみてもそれは明らかである。
 来年は少しでも状況が改善しますように。

 関係各位、お疲れ様でした。

 
 
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DATE: 2018/12/03(月)   CATEGORY: 未分類
拷問の証言者パルデン・ギャツォ師逝去
年末に近づくにつれ多くの訃報が立て続けに入ってきた。

10月29日 ダライラマの特使として中国との交渉にあたったロディ・ギャリ氏死去。
11月26日 ベルナルド・ベルトリッチ死去。大乗仏教保護財団(FPMT)の創始者トゥプテン・イェーシェーがスペイン人に転生した事件を翻案した『リトル・ブッダ』の監督。清朝最期の皇帝溥儀を扱った『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞受賞。
11月30日パルデン・ギャムツォ氏、ダラムサラで死去。中国の監獄での33年間の体験をワールド・ツァーで語った僧である。
11月30日 ジョージ・ブッシュ大統領逝去。1991年、ダライラマがはじめて会見がかなったアメリカ大統領である。冷戦後の混乱期の舵取りをしたアメリカ大統領として知られる。

この中で、本エントリでは、中国の監獄に33年間とじこめられたパルデンギャムツォ師の訃報を、難民社会のニュース・メディア『パユル』から二つ和訳してみました。

元政治囚パルデンギャツォ、死す (ソース: 『パユル』phayul 2018/11/30)
Palden Gyatso at his reisdence, Phayul Photo: Kunsang Gashon, Nov. 15, 2018

元政治囚であり、占領されたチベットにおける中国の拷問についての有名な証言者パルデンギャムツォは、現地時間の今朝7:10 にデレク病院でなくなった。

キルティ・チェパ僧院(パルデン師が最後の七年をすごした僧院)からきた老僧は、「ダライラマ猊下のお名前を口にしつつ安らかに逝った」という。彼はさらに数ヶ月前のダライラマ法王との謁見の際には、長年にわたり人々に勤勉に仕えたことを賞賛され、感謝されたという。

パルデン氏は33年にわたり中国の監獄と強制収容所に入れられており、ここ数ヶ月は虚弱体質と肝臓関連の病に苦しんでいるといっていたが、パユルが調べたところでは肝臓癌におかされていた。
11月15日にねたきりとなった僧はパユルに病院と治療について述べた後、こう付け加えた。「私は医者にたとえ死ぬことになっても、手術は受けないといった。」

 「私はこのように長く生きられるように祝福されて、幸せだ。私は監獄でも祝福されていた。私は餓死する寸前で生き延びた。多くの私の友人は私の目の前で死んでいったのに。」

氏は1959年に逮捕され、釈放のち、チベットから1992年に脱出した。亡命の後、氏はチベットにおける中国の文化虐殺とチベット人に対する抑圧を告発する顔となり、中国によって用いられた拷問道具を展示しつつ世界中をまわった。その拷問道具は、数十年にわたる拷問、尋問、思想改造の際に彼自身に用いられたものであった。

彼は1995年にジュネーブで行われた国連人権委員会の公聴会でも自分の体験、また直接見聞きした中国による非人道的な扱いについてスピーチし、また、2009年にオスロで行われた自由フォーラムの開会式でもスピーチを行っている。1998年にはジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) をカナダ人の人権結社・人権と民主主義から授与されている。

彼の逝去の噂がひろがるにつれ、多くの人々がチベット・ムーブメントの傑出した人物への弔意と感謝を表明した。彼と同様に政治囚だった僧パクドはフェイスブックに「元政治囚パルデンギャムツォ師の逝去を知り衝撃をうけ悲しみに沈んでいます。私はタプチ刑務所で三年彼と同房でした。最近彼が息を引き取る前に、別れの挨拶をすることができました。一時間以上会話して、彼は中国の監獄の中での闘争と生涯をかけて行った自己犠牲について詳細を描写しました。」

活動家グループ、チベット青年会議は、「彼は真のチベットの英雄だった」、「真のチベット人戦士だった」といい、彼とともにおおくのキャンペーンをはったステューデンツ・フォー・フリーチベットは「人間精神の回復力と文化虐殺にあっているチベットの誇り高い文明を証言した」と述べた。

チベット人のネット民テンジン・クンレーは「彼はあのような過酷な体験をした後にも非常に謙虚で平和を愛する人であった。チベットにとって大きな損失である。我々は決して忘れない。」

不屈のペルデンギャムツォ師を偲ぶ(ソース: pha yul, 著者: Bhuchung D Sonam2018/11/30)

2005年の夏、インドの作家パンカジ・ミシュラ (Pankaj Mishra) と我々数人でダラムサラのキルティ僧院の近くにある、ペルテンギャツォ師の部屋を訪れた。パンカジはニューヨーク・タイムズに掲載するチベットに関する原稿を準備しており、中国の監獄に33年にわたってとらわれていた元政治囚へのインタビューを希望していた。私は師の人生を師のツェリンシャキャ教授との共著『雪の下の炎: チベット人政治囚の証言』(ブッキング)を読んでしっていた。

二時間近い会話の中でパルデン氏は我々に優雅にお茶とカプセ (お菓子) を供してくれながら、監獄での恐ろしい体験について語ってくれた。氏は私がすべてをちゃんと翻訳しているかと確認し、重要な出来事については繰り返し語った。氏の話しぶりには中国人に対する憎しみや敵意はなく、実際、毛沢東による大躍進政策によって飢餓の極限状態にあった時代 (1658-62)----フランク・ディコッターが、中国全土で四千万人を殺した毛の大飢饉と呼んだ時代----、氏に一口の食べものをこっそり与えてくれた色白の若い中国人についてあえて詳細に語るのであった。

パンデンギャムツォ氏は無限の慈悲と恐ろしい意志の力をもちつつも、非常に謙虚である。監獄の〔飢えの中で〕鼠や芋虫や草を食べたり、革の靴をしゃぶったりする話を立て続けにした後に、氏は私をみては、「ブチュンさん、私は正しいですか?」 と聴くのである。監獄で一日だって過ごしたことがない私の方がよく知っているかのように。

パルデン氏自身の言葉
「私は1975年に刑期を終えましたが、家に帰ることは許されませんでした。私は労働改造所に送られ、そこからまた刑期が再開しました。1979年、私は逃げ出して、チベットの独立をうったえるポスターをはりました。私は捕まり、さらに九年の刑が加算されました。」

「私たちは野菜を育てるために下肥をこねるなどの汚れ仕事もしなければなりませんでした。看守は私たちを電気棒でつつき、熱湯をかけました。24年間一回も親戚すら訪問することをゆるされませんでした」

1992年8月25日、パルデンギャムツォ氏は33年の刑期をへて釈放され、その二週間後、亡命した。ダラムサラについて一週間経ったとき、氏はダライラマ猊下と謁見し、一生の願いを叶えた。パルデン氏はその時の情景を思い出し、「チベットを離れられた時よりずっと年を取られていました。私はこらえきれずにすすり泣きました」

ヒマラヤを越えて亡命して以来、師はチベット人の自由を求める戦いに国際的な支持を得るべく、獄中体験をかたる世界ツアーを行った。この中には1995年の国連の人権委員会での公聴会、2009年のオスロ・自由フォーラムでの開会スピーチを含んでいる。彼はこの疲れを知らない活動の中で、1998年にカナダ人権グループ、「人権と民主主義」からジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) を授与されている。

ここ数年、私たちは大部分はダラムサラで、時にはデリーのチベット人キャンプ、マジュヌカティラで氏とばったり出会った。彼は私の手をしっかり握ってふり、立ったままで、いつも自分の旅について話し、いかに疲れたかについて話した。彼はこういった。
「お前達若い世代が自由のための戦いを遂行しなければならない」

昨年10月、私と友人は賑わうマクロードガンジ'(ダラムサラのメインストリート)でパルデンギャムツォ師とばったりであった。氏は一人で歩いており、かなり痩せて見えた。いつものように氏は私の手を暖かく握り、「私にはもう残された時間が少ない。たぶんあと数ヶ月だろう。会いに来い」と言った。我々の背後でタクシーのクラクションがなり、おしゃれなパンジャブっ子が自撮りをしていた。巨大なゴミ回収車がメインストリートをふさいでいた。広場は満杯だった。しかし、氏に一緒に写真を撮ろうと提案すると、氏はこの上なく優雅に、カメラのフラッシュにあわせて、やせこけた腕をつきあげて、「チベット自治!」と叫んだ。そして再び「会いに来い。キルティ僧院に部屋がある」と言った。

私は僧院の中にある氏の部屋を数回訪れた。しかし、そのたびにチベットについての証言会にでかけており、氏は留守であった。最期の証言会は何と今年九月のアメリカで行われている。先週、前日にパルデンギャムツォ氏とであったチベット青年会議(TYC)のジクメとあった時、氏に会いにいっても大丈夫かと尋ねると、ジクメは「肉体的には弱っていたが、精神的には非常に鋭敏だった」といった。しかし、無駄に忙しかったことと、なんやかやで私はパルデンギャムツォ氏に会いに行くことは叶わなかった。死んでしまったことは取り返しがつかない。私は後悔の念を懐き続けるだろう。

我々ができること、いやしなければならない重要なことは、われらがヒーローが、自由のための戦いを続けることである。ツェリンシャキャ(国際チベット学会会長)はパルデンギャムツォの獄中体験を記した『雪の下の炎』の序文でこう辛辣に述べている。

 「宗主国の支配者にとって、発電所や新しいスタジアムやきらめくディスコの電飾や五つ星のホテルが、人々の尊厳を恢復し、その遺産を再生することにはならない、と理解することは難しい。若い運動家たちは両親たちの苦難と生活苦を忘れていない。」

 バトンは世代をこえて受け継がれ、自由へ向かう道へと運ばれていかねばならない。最近、[ダライラマ特使として中国との交渉にあたっていた]ロディギャリ氏がなくなり、今回はパルデンギャムツォ師が逝去されたことは、一つの時代の終わりを告げている。彼らの体験と智慧は誰かに代行できるものではないが、創造的な非暴力の抵抗運動のための革新的な思想へと引き継いでいくことは出来る。」

チベット高原に住む人々の苦しみは、我々がこの抵抗運動を、最大限に執拗かつ緊急に、遂行することによってのみ癒されるのである。

さようなら、パルデン・ギャムツォ師。我々はあなたがすぐにまた、世界の屋根の上に住む赤い顔のチベット人に生まれ変わるように祈っています。戦いは続いている。あなたは戻って来なければならない! (この見解は著者のものであり、必ずしも当ウェブサイト=パユルのものではありません。)
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