白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/08/24(水)   CATEGORY: 未分類
初歩の瞑想(ギュメ法話2)
ギュメ寺法話パート2。帰依の仕方と初歩の瞑想です。
写真はお勉強をするお坊さんたち、前世僧だったと思われる境内でなごむ犬、雨天の時の論理学道場です。

講師: セルナン・ロティ先生 日時 8月13日

本日は、帰依の仕方、そして、「瞑想のやり方」についてお話します。

●三宝に帰依する

 まず仏教徒であるか否かの境目は、「三宝(仏・法・僧)」に帰依しているか否かにかかっています。たとえば、建物の内側と外側の境目は門にありますが、仏教とそれ以外の思想(外教)の境目は三宝に帰依するかどうかにあります。

 仏教に「帰依」するには、二つの原因が必要です。我々は仏教によって心を陶冶しなければ永遠に輪廻をさまよい続けることになります。まず、この輪廻の苦しみを知らねばなりません(一つ目の因)。その苦しみを知って輪廻から逃れたいと思い、その手段を提示しているのが仏教であることを知り(二つ目の因)、その結果、仏教に帰依します。たとえば水の中に落ちて死にそうになったら(一つ目の因)、水の表面に出たいという願いが生じて、そこから出る方法を考えます(二つ目の因)。
 我々の生は短く、来世はどんな生が待ち受けているかわかりません。もし悪いことばかりしていれば、その悪い行いの結果として地獄や餓鬼や畜生といった悪い境遇(悪趣)に陥ります。
 憎しみとか、怒りを抱き、喧嘩とかばかりしていると、地獄に落ちることになります。地獄においては死んでも、そこで終わりではありません。虚空から声がするとふたたび蘇り苦しみを味わい続けねばなりません。このような苦しい状況下では善い行いをすることもできないので、地獄にいる期間は果てしなく長くなります。イメージとしては、仕事で大失敗してしまい、夜寝ているときにそのことを思い出してうなされる時のような感じが永遠に続くのです。
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 このような地獄の苦しみを知れば、「地獄に生まれたくない」と、心から三宝に対する帰依の気持ちが生まれてきます。また、ケチな人は餓鬼になります。餓鬼はお腹がすいて食べ物が目の前にあっても、それを食べることができません。また、動物に生まれてしまったら自分の人生を思うように操ることができません。畑で働かされたり、明日には食肉になって食卓に並ぶことになるかもしれません。
 我々はいつも人間に生まれることができるわけではありません。善い行いをしなければ、地獄、餓鬼、畜生といったこのような悪い境遇(悪趣)に陥ることになるのです。

 人はうまくいっている時には神様を忘れていますが、困ったときには神頼みをします。だから、悪い境遇(悪趣)に陥る苦しみを想像して、それを救う力が三宝にあると考える、これが帰依の因です。

 この繰り返される生の中で、人間に生まれることは非常にまれなことなのです。地獄や餓鬼や畜生に生まれてしまったら、善行もできませんから、なかなかこの境遇から出られません。犬は賢い動物ですが、犬ですら長いスパンでものを考えることはできません。人間のみが先のことを考えて善行を積み重ねることができます。

 悪い境遇に陥ってしまった自分を想像する時、人ごとのように考えるのではなく、具体的に自分の身におきたと具体的に考えることが大切です。そうしてはじめてこの悪趣から離れたいと思い、そこから離れる方法を示す三宝の価値がわかってくるのです。

 あなた方が普段抱えている一つ一つの具体的な苦しみについては、三宝に帰依する必要はありません。もっと大きな視点からみた、輪廻というこの苦しみから逃れる方法は、仏教しか説いていません。

●我々は病人、三宝は病人を癒やす医師・薬・看護師のようなもの

 病人を助けるには三つのものが必要となります。診断をくだす医者、医者が処方する薬、その薬を用いて病人を世話する看護師の三つです。良い医者にかかり、良い薬をもらい、親切な看護師さんに面倒を見てもらえば、病気は速く治ります。
 煩悩という病に苦しむ我々の場合には、良い医者は仏、良い薬は仏法、良い看護師が僧にあたります。そう三宝(仏・法・僧)です。

 このうち、仏様についてのみ詳しく説明すると、仏様には四つの美質(功徳)があります。

(1) 仏は自身、苦しみから解放されている。
 キリスト教は神という絶対者(造物主)を信仰します。しかし、仏教における仏はキリスト教の神のような絶対的存在ではなく、もとは我々と同じ人間でした。仏様も覚りを開く前は我々と同じように輪廻の中で苦しんでいましたが、あるとき真理を体得して仏の境地を得ました。この事実は我々も仏になることができる可能性を示しています。
 仏様が輪廻の苦しみから解放されていることがなぜ重要かといえば、穴に落ちたことのない人は穴から出る方法を知りませんが、仏様はかつて我々と同じように穴に落ちていたものの、そこから出ることができたので、その穴からでる出る方法を知っているからなのです。

(2) 仏は他者を苦しみから救う手段(方便)が巧みである。
 人々の様々な能力や状況にあわせて、仏様は巧みに法を説くことができます。頭が痛い人には頭痛薬、肝臓が悪い人には肝臓の薬をあげるよにう、仏様はそれぞれの人の苦しみに応じた導きを行うことができます。

(3) 仏はすべての命あるもの(衆生)に対して分け隔て無い哀れみをもっている。

(4) 仏は自分にとって役に立つ人も役に立たない人に対しても役に立つことができる。

 太陽が地上にあるものに分け隔て無く光を注ぐように、虚空の月が地上の水面に無限に姿を映すように、私たちが仏様に心を向ければ、仏様は分け隔て無くその慈悲を与えてくれます。ただ、地上にある水が濁っていたら虚空の月がぼんやりしか映りません。これは月の問題ではなく、それを映す側、すなわち我々の心の側の問題です。

 みなさんは自分のことを大切に思っていますが、仏様は母親が一人子を大事に思うように全ての人を大事に思っています。したがって、どんな生き物に対しても同じ慈しみの心を持っているというのが仏様の美質なのです。
 このような仏様の美質を知った上で、三宝(仏・法・僧)に帰依するならば、その福徳は尽きることがありません。朝起きてすぐ5分間、心の中で三宝への帰依を行うだけで魔が入る余地がなくなります。毎朝、仏様に完全に帰依していれば、魔の入る余地はなく、自分の持っている問題は自然と解決していきます。
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●帰依の仕方

仏教に帰依するには、動機の上中下によって三種類の仕方があります。

(1) 良い来世(お金持ちに生まれたい・美人に生まれたい)を得たいいという動機から仏教に帰依すること。
(2) 二番目は輪廻それ自体から逃れたいという動機から帰依すること。
(3) 三番目は全ての衆生を苦しみから救いたいと思って帰依すること。

 最初の二つは自分のために仏教に帰依していますが、三番目の帰依の仕方は他人のために行っているので、その功徳は量り知れません。

 命あるものは我々にとって大切なものです。我々の食べ物、寝場所、着るもの、教養、すべてたくさんの命あるものたちのお世話になっています。私たちの快適さは全て命あるものによってもたらされています。どこかに行くにしても、一人ではどこにく行くことができず、他者の助けがあってはじめて行くことができます。一粒のお米にも命あるものの力が結集されています。大乗仏教の六つの究極の行い(六波羅蜜)のうち、布施、持戒、忍耐、精進はみな命あるものがなくては実践することができません。他者のために仏教をめざすためにも他者がいて初めて可能となるのです。したがって、命あるものとは我々がそこから利益(りやく)を得ることができる田圃のようなものである。意識すれば他者から多くの利益を得ることができます。

 子どもができたら大切に愛情をかけ、一人前の人にする。子どもは小さいときに受けた慈しみの気持ちを大人になってから子どもに対して持つようになります。無限の輪廻を繰り返す中で、すべての衆生はかつて母親だったことがあります。だから母親から受けた愛情を、全ての衆生から受けたと思いましょう。母親が困っているときに母親を放っておく人はいません。それと同じように困っている衆生を放置することはできないのです。したがって仏教ではたった一つの生き物でも苦しめてはいけないと説きます。慈しみの心は、このように想像力を働かせて少しずつ育てていくものです。
 慈しみの心が平和の元です。何度も反芻して心の中に育てていかねばなりません。慈しみの心を育てると心の苦しみはなくなります。心の中に上手に慈しみを育てられたら、素晴らしい音楽や風景の力を借りずとも心を平和な状態に保つことができます。

 怒りや憎しみを抱いていては苦しみの連鎖は果てることがありません。慈しみの気持ちを育てて、敵愾心や怒りを制御していかねばなりません。
 家族でもグループでも、慈しみの気持ちを大きくしていけば、そこに属する者みなが幸せになれます。

●瞑想の仕方

 瞑想には一時的な美徳と究極の美徳の二つがあります。まず、一時的な瞑想でも心が安定し、健康になります。お坊さんにならなくとも瞑想することはできます。
 まず、初心者は心を安定(奢摩他)させる必要があります。身の危険のないところ、静かなところで観想する必要があります。
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 まず、あぐらをかいて足の甲を太股の上にのせてください(結跏趺坐)。目は鼻の先を見て、半眼にし、頭を少し下に向け、背骨を伸ばします。左手は上、右を下にして膝の上におき、脇は締めません。こうすると身体エネルギー(ルン)の活動が緩やかになります。観想の対象はそれぞれの好みで決めていいのですが、お釈迦様のお姿を瞑想するのが最もよいので、仏様を例にすると、5cmくらいの大きさの仏様が眉間より少し高い位置にあると観想します。仏様の質感は少し重くて輝きがある感じで。重いと心が散漫になることを防ぎ、輝きは眠気を覚ます効果があります。

 心は日々移り変わる花の色のように安定していません。怒りが強い時には慈しみの心を観想し、執着が強い時には執着の悪徳を観想します。無知が強ければ十二縁起を観想して無知を消していきます。慢心の心が起こってきたら自分はまだまだ知らないことがあると考えます。いろいろと考えすぎて心が不安定になっているとき、眠れない時は、吸う息はく息を数えるのが有効です。

 仏教徒でなくとも悩んでいたり、心が迷っている時にはこの数息観(すそくかん)が効果があります。悩んでいる時はじつは悩みの対象について考えない方がよいのです。だから悩んでいる時は数息観をしましょう。

 仏像を瞑想するとき、目でものを見ようとすると、心はころころかわっていくので、その状態を保つことは難しいです。仏様をずっと見るのではなく、見た後には視点を落とします。瞑想することは目で同じ場所を見ることではなく心を一点に集中することです。なので目をつぶった方が集中できるという人はつぶった方がいいです。心は躁状態とうつ状態の二つの方向にふれて対象から離れようとします。うつ状態の場合は意識は黒い布をかけたように沈み、眠り込んでしまいます。なので、心がうつっぽい時には朝日を想像しましょう。逆に躁状態になったら、この世の苦しみを考えて、心を静めましょう。人は苦しい時には一つのことしか考えられないため集中できるからです。心を躁状態にもうつ状態にもならないようにして、一点に集中させる、まずこの基礎を身に付けましょう。同じ対象を用いて毎日行うことが重要です。
 以上は阿闍梨様からいただいた初心者のための奢摩他の口伝です。

以下瞑想に関する一問一答

問い「心を安定させる瞑想(奢摩他/ シネー)が必要な理由は?」
答え 心を安定させる瞑想(奢摩他)は他の瞑想の土台です。その土台がなければ、顕教の修行も密教の修行も進みません。基礎がしっかりしていないと、仕事がうまくいかないのと同じです。心は躁状態になったりうつ状態になったりしますが、その両方を避け一点に集中することが大切なのです。これがきちんとできたら、それだけでも結構ハッピーになります。朝起きた時から、心が散漫であったらろくなことはありません。朝、起きたとき心が集中していれば、一日もうまくいきます。私たちの苦しみの多くは心が原因で起きていてます。そういう意味で心をコントロールすることは大切です。

問い「分析的瞑想(毘鉢舎那 /ハクトン)は?」
答え 心を安定させる瞑想も分析的瞑想もどちらも大切です。心を安定させた上で分析を行うので、心を安定させる瞑想は分析的瞑想の基礎となります。この二つの瞑想を交互に行うことが大切です。

問い「瞑想は子どもの時から始めるのですか?」
答え 子どものころには理解できないので、瞑想は25歳くらいから始めます。

問い「瞑想はいつするのがよいでしょうか?」
答え 朝がベストです。朝は意識は活発に働いているけれど、夜は疲れており、一日の雑事が心に浮かんで集中できません。最初は1分からはじめて、2分、3分と集中できる時間をどんどん増やしていきましょう。

問い「呼吸の仕方は?」
答え 舌を上あごにつけると喉が渇きません。息の音がしないように、鼻からゆっくりと息をすって出します。
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DATE: 2016/08/13(土)   CATEGORY: 未分類
仕事をしながら仏教を実践するには(ギュメ法話)
 お盆になりましたので、つい二日前にギュメ密教大学で日本人が施主となって行われた法話会から、ぴちぴちとれたての説法をお届けします。
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 講師は セルナン=ロティ師。デプン大僧院ロセルリン学堂から数年前にギュメ密教大学に留学。通常留学は一年の期限で所属する僧院にもどりますが、講義がうまいということで期限をすぎてもギュメにとどまっている方です。

本日は仏教を勉強することにどういうメリットがあり、勉強しないとどういうデメリットがあるかについてお話しましょう。
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仏教では今生でどのような心の状態であるかによって来世が決まるとされます。今生、善業を積んで善い心をもつようになれば安楽な来世がありますし、悪業を積み悪い心になれば苦しい来世があります。

 仏教の研究は哲学(顕教)とその哲学を身につけるための実践行(密教)の二つからなりますが、その二つを兼ね備えているのがこのギュメ密教大学です。釈尊の説いた法の流れは大学者(パンディタ)や大行者(成就者)たちによって途切れることなく現在にまで伝わってきました。私たちが仏教に関心を持つことができたことは前世からの良い因縁があったからです。仏教に出会えた自分は非常に幸せだと思いましょう。

世俗にあって仕事をしながらでも仏教を活かしていくことはできます。たとえば、お医者さんの場合、ただ仕事として医療行為を行うのではなく、患者さんに対して慈悲の心をもてば、おなじ治療を行っても効果が違ってきます。死と病は苦しみの代表的なものですが、そのようなものに直面している患者さんに対して、慈悲の心をもって治療に臨むならば、もたない時よりもよい治療結果がでるはずです。

 もし教師であったなら、仏教で心をトレーニングした先生とそうでない先生とでは、生徒に現れる効果も変わります。子どもの心は真っ白なので、教える人によってよくも悪くもなります。慈悲の心や人の役に立ちたいという気持ちをもって生徒に接するならば、生徒にもその心が伝わっていき、親切な大人になり、彼らによって救われる人もふえます。
 仏教によって心を整えて仕事をする人は、長期的な視野をもち、ぶれない態度で仕事を行うことができるようになります。
 たとえば、レストランを経営している人が目先の儲けを考えるのではなく、レストランで過ごすお客さんのことを第一に考えて仕事をすれば、お客さんも幸せに感じられるし、レストランの経営者も善業が積めて、レストランも流行りいいことずくめです。仕事をしながらも仏教を実践することは非常に大切であるし、それができるのが仏教です。

 次に忍耐について話します。
 泥棒でないのに泥棒だと言われたとき、そこでカッとなるのではなく忍耐し、堂々としていれば、その人の信用も高まり、評価もよくなります。忍耐を修行すると、来世に美しい姿に生まれることができます。しかし、泥棒と言われて忍耐せずに怒ってしまったら、後で泥棒でないとわかっても、カッとなった時にさらした醜態に対する不信感は人々の中から消えないでしょう。腹をたてることを繰り返していると、憎しみが心の中でくせになって固定してしまいます。
腹が立てると、何度もそれを思い出してそのたびに腹が立ち、夜も寝られず、表情も醜くなり、悪い言葉を使うようになります。

 したがって、怒りはもっとも悪いものです。役に全く立たないし、マイナスにしかなりません。どんな仕事でも怒りを動機にして行えば、ろくな事にはなりません。怒りは全ての罪の中で最も悪いものです。怒りは大切なことを忘れさせ、大事なものを壊します。怒りを発散すれば後悔することになります。怒りは近視眼で長期的な思考に基づいていません。だから、怒りが心の中に生まれたら、その反対である忍耐の心を養いなさい

生きていれば思い通りにならないことはたくさん起きます。しかし忍耐を育むようになると量り知れないメリットが生まれます。怒っている人の周りには人は集まってこないので不幸になりますが、忍耐をもってやさしい心で人に接する人の周りには人が集まってきて幸福になります。

 地球上のすべての70億の人は幸せを求めて、苦しみから逃れようと思っています。その幸せは外側にあるものよりも自分の心の状態によって決まるのです。五官を楽しませるもの(目で美しいものを見て、耳で綺麗な音を聞いて、鼻で善い匂いをかいで、舌で美味しいものを味わって、体でなめらかなものを触って)をいくら外側に集めても、これらによって我々が幸せに感じるのは一時のことです。旅に出てきれいな風景を見ても、帰ってきたらすぐにその感動や幸福感はなくなってしまうでしょう? 五官の楽しみは永続するものではありません。

しかし、内側において、心をやさしくしていき、忍耐を育くんでいけば、常に自分の心を幸せにすることができます。 臓器は移植できますが、慈悲心と忍耐力は外から移植することはできません。自分の中に育てていかなくてはなりません。しかし、慈悲心や忍耐力を育くむことができると、外側にある財産のように、人から取られる心配もなく、失う心配もありません。常に自分の心は安楽です。経典に書いてある通りに思考し実践すれば心は安楽になります。仏教は古いものを壊して新しいものをつくる刹那的なものではありません。よいものを積みあげ続けていくものです

 人の役に立ちたい気持ち(菩提心)と忍耐力の二つをまず心に育むことが幸せの入り口となります。あなたたちがどのような仕事をしていても、人の役に立ちたいと思って行えば、それを応援する人も集まってきます。人の役に立ちたいという気持ちと忍耐力は習慣化しないと育むことはできません。

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多くの人は幸せとは外からもたらされる何かだとと思っています。しかし、外からもたらされるもので五官を楽しませても、永続する安楽にたどりつくことはありません。そのようなものを追求しても、やがては苦しみに陥るだけです。自分の心を統御することを生活の中心に据えれば、永続する安楽を得ることができます。

 21世紀になって科学は発達し、経済は豊かになり、そのことによって人の生活はずいぶん楽になりました。しかし、人の苦しみはへるどころか、かえって大きくなっているのは、五官を通じてえられる安楽を楽だととらえているからです。大事なのは心の安楽であり、それは自分の心を統御してはじめて得ることのできるものです。
 
 科学の発展も、経済の発展も、それ自体が悪いのではなく、それをすすめる人の動機がよければよくなるし悪ければ悪い結果がでます。科学の発展により70億の人たちを一瞬に殺してしまう爆弾が開発されましたが、これは怒りという煩悩の発露によって生まれたものです。人の役立つことを考える科学者がそのようなものを作ることを思いつくはずがありません。
 科学の進歩は悪いことではありませんが、それ行うときの心構えが大事なのです。正しい動機をもって科学を発展させれば人に役に立つものが生み出されるはずです。これから先の未来を明るくしていけるかどうかは我々の心の持ちようによっています。なので仏教は21世紀の人々の役に立てる宗教です。

 心の苦しみを取り除くことができたら、体の苦しみも漸次解決していきます。法王様がかつて病気になって手術を受ける直前、病院の窓の外にいるかわいそうな動物を見て心を痛めていたら、自分の苦しみは忘れてしまったとおっしゃっていました〔これは人の苦しみを引き受けるトンレンのレンという修行〕。人に限らず動物を含めたすべての命あるものが苦しみから逃れるよう導くために、仏の境地をめざすのが、仏教を学び実践する際の正しい動機です。すべての命を対象としているので壮大な仕事です。

 経済を中心にものごとを考えてしまうと、家族なんかもたない方が好きに使えるお金はふえます。しかし、それでは家族の幸福はありえません。我々は動物よりは明晰な意識をもっていますが、心がけ一つで動物よりも愚かなことをしてしまいます。動物は一度に殺せるのは一匹ですが、人間は一人でも一度にものすごくたくさんの人を殺すことができます。煩悩(執着、怒り、愚かさなどの心の悪い性質)があるとこのようなことをしてしまいますから、怪我や病気を治すときに病院に行くように、この煩悩を仏教という薬で治していかねばなりません。
 教育がある人でも、煩悩のままにふるまっていれば、学んだことは人の迷惑になるものしか生み出し得ません。法王様(ダライ・ラマ)がたった一人で多くの人を幸せにできるのは、法王様が心に育くんできた慈悲の心によります。

 仏教を求めることは幸せを求めることです。五官の楽しみは刹那的な快楽をもたらしてくれても、煩悩があればそれも苦しみに変わります。怒ると寿命のルン(体質を構成する要素、ルン、ティーパ、ペーケンの三つのうちのルン)を使ってしまい、短命になります。怒ってばかりいる人は来世は醜い姿になると言われています。

 今生、あなたたちが幸せであるのは、長い前世の間に積んだ善業の結果です。あなたたちの前世の善行に感謝して、今生も来世のことを思い、心のありようを整えていかねばなりません。

 大乗仏教の普遍的道徳律である十善戒のもたらすメリットは来世に幸せになることです。動物とは異なり人間なのですから、今生のことだけを考えるのではなく、来世、来来世のことを考えて長期的にものをみて生きましょう。人生は短いですが、来世は長い。その先の生を考えることができるかどうかを仏教は求めています。

一つ例を挙げましょう。何を食べるか吟味せずに、ただ好きなものを毎日食べ続ければその人には100年の長寿はありませんが、これを食べていいかどうかを吟味して食べる人は長寿になります。これと同じように来世、来来世の心を考えて毎日の行いを正していくことは大事なことです。体は今生限りのものであっても、心は来世、來來世へとつながっていきます。健康に気をつけるのなら心にも気をつけるのは当然でしょう?
今日は最初なので、仏教を勉強する功徳のお話をしました。

聴衆からの質問。前世があるということはどう証明できますか?
師の応え: 以下の四つの根拠があります。
1. 前世を覚えている子どもがいます。
2. 生まれたばかりの子牛が母牛の乳をすうのは本能の力と言いますが、前世からの記憶によります。
3. 物質的なものからは心は生まれません。心は心からしか生まれません。
4. 生まれた時点で人に個性があるのは心が前世から続いており、前世の行為のいかんで多様な個性が生まれているからです。同じ親から生まれ、同じように育てられても、違う個性があるのは前世から引き継いだ心のくせ(習気)の結果です。勉強できる親から勉強できない子どもが生まれたり、その逆もあるのは前世からの結果です。心は前世から続いているのです。ですから、今から上手に心を整えて準備をしていけば、来世はもっと素晴らしい人生になります。今生全然勉強しなければ、来世は悲惨になりますよ。
 今日はこのくらいでお話を終わらせていただきます。
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DATE: 2016/07/24(日)   CATEGORY: 未分類
「祈りの2400km」でトークします!
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 渋谷のイメージフォーラムで。チベットの巡礼をテーマにした映画「ラサへの歩き方 祈りの2400km」が封切られる(公式サイト)。

 この映画では、チベット仏教における最高の礼拝様式、「五体投地」による巡礼をテーマにしている。
 五体投地とは、合掌した手を頭上心臓の3カ所にあてたのち、体を地面になげだし、再び立ち上がり、体の長さだけすすんで、また同じことを繰り返す礼である。この礼拝の仕方では一回の礼拝で身長の長さしかすすまない。しかも、空気のうすいチベット高原でこの礼拝を行うのは平地で行う以上の重労働である。それでもチベット人は朝夕、お寺や仏塔のまわりをこの五体投地でまわり、ある場合にはこの五体投地礼で何百キロも先の聖地をめざmap.jpg
したりする。
 この映画は、東チベットのマルカムの村人が中央チベットのラサを拝み、その後さらに西のカイラスまで五体投地礼で2400kmを踏破する巡礼の旅をドキュメンタリータッチで描いている。

 村人が巡礼を思い立つ動機、巡礼の準備、集団巡礼の開始、野営、旅のトラブル、 88カ所巡礼の「お接待」を思わせる道中でのチベット人同志の助け合い、情報交換、など、実際に巡礼を行っている人々がとおりぬける様々な情景がうまくつなぎあわされており、それがチベットの雄大な自然を背景としているため映像人類学の記録を見ているようである。
 もちろん中国映画であるから、ラサのポタラ宮の前でチベット人たちが感動のあまり呆然としていても、そこがダライ・ラマの宮殿だからとかいう解説はつかないし、海外にみせるためか巡礼団の新生児が紙おむつていたりとか、微妙な部分もあるのだけど、全体としてはチベット人の視点からそしてチベット人の文脈で「巡礼」をとらえている。

 キリスト教のサンチアゴ巡礼であれ、カイラス巡礼であれ、徒歩の巡礼を行う人たちの体験は万国共通である。それはどんなにゆっくりとしたペースであっても目的地にむかって意思をもって毎日進めば、どんなに時間がかかろうともかならずめざす地にたどりつくということである。そしてかりに途中で死んだとしても、それは巡礼にでなかった人よりも百万倍も善い死に方とされている。

 なぜかといえば、そもそも我々の人生もこの巡礼のようなものだからだ。毎日行う少しずつの積み重ねが我々を良い方にも悪い方にも形作っていく。しかし、良い方に向かって進み出していれば、たとえそれが道半ばで終わったとしても、良い方向へ勢いのついた心のベクトルは必ず来世においてもよい方へいこうとする。
 巡礼とは少しずつでも自分を向上させていけば、あそこまではむりと思ったような遠いあこがれの目的地にも、いつかはつける自信をつけてくれる旅なのである。

「幸福とは、あなたの思考と言葉と行動の三つが調和している時。」マハートマ・ガンディー
Happiness is when what you think, what you say, and what you do are in harmony.
 
 で、突然、現実に引き戻して恐縮なのですが、映画のトークイベントにでます。8月3日の最終回(18:30〜) の上映終了後、チベット人視点からみた聖地としてのラサやカイラスについて語ります。もし映画にいってもいいよ、という方はぜひ8月3日の最終回トークのある日におこしください。

『ラサへの歩き方〜祈りの2400km』
◆7月23日〜、シアター・イメージフォーラムでの上映時間
 連日: 10:50 13:20 16:00 18:30


◆上映後トークイベント
7月26日(火)18:30の回 辻信一さん(文化人類学者・明治学院大学国際学部教授)
7月27日(水)18:30の回 ロディ・ギャツォさん(在日チベット人/『ラサへの歩き方〜』字幕監修協力)
7月30日(土)16:00の回 星泉さん(東京外語大学教授/『ラサへの歩き方〜』字幕監修)
7月31日(日)16:00の回 池谷薫さん(映画監督『ルンタ』)
8月3日(水)18:30の回 石濱裕美子さん(早稲田大学教授)
8月11日(木・祝)13:20の回 渡辺一枝さん(作家)
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DATE: 2016/07/03(日)   CATEGORY: 未分類
歴史的な灌頂の募集始まる
 7月2日、ホテル・オークラで恒例のダライ・ラマ法王の誕生会が行われた。今回は亡命政府の内務大臣ソナム・トプギャル(1954-)氏が、来賓として来日した。

 乾杯の発声はその年ダライ・ラマ法王をお招きする方が務めることがなんとなく決まっているのだが、今年は清風学園の平岡校長がその役にあたった。11月にダライ・ラマ法王は清風学園において秘密集会の灌頂会を行われるからである。フライヤーは↓クリックすると大きくなります。

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 秘密集会タントラはダライ・ラマの属する宗派において最も広く研究・修行されているタントラ(密教経典)で、平岡校長は20代の頃ギュメ大僧院に留学してこの秘密集会タントラを学んで以来、ずっとこのタントラの研究と行を続けている。

 私が平岡先生に「せっかくですから、先生の修行のこととかお話しては」と耳打ちすると
 平岡校長「〔法王のお誕生日なのに〕あまり自分のことは話すのはね。それにマニアックすぎてみんな引くでしょう
 私「みなが引くか引かないかではなく、私が聞きたいんです」(強引 笑)
 そして、内務大臣のお話のあと、先生が演壇に立たれた。

平岡宏一(清風学園校長)スピーチ
 今日はどうしてもお話しさせて戴きたいことがあります。私たちは「秘密集会灌頂実行委員会」をつくりまして、11月11日から13日に清風学園講堂で、ダライ・ラマ法王を導師にお迎えして秘密集会の灌頂をやらせて戴く事になりました。実行委員長は弘法大師がお生まれになったお寺、大本山善通寺の宗務総長の菅智潤師です。 ここにいらっしゃるほんどの方は関係ないかもしれないですが、私のこの話を聞いたことでご縁ができる人がいるのでないかと思い、少しだけ私のお話をさせていただきます。

 私は今回の灌頂を単なるイベントに終わらせることはあってはならないと考えています。

 少しだけ私の話をさせていただきます。私たちの学校の理事長の平岡英信、私の父ですが、1985年から当時経済的に苦しい状態にあった密教の学問寺ギュメの応援をさせていただきました。このお寺の由来を話しましょう。〔ダライ・ラマの宗派の宗祖〕ツォンカパがなくなる前年に、弟子たちを前にして、自分がずっと修行してきた密教である秘密集会タントラの本を手にし、「このタントラの伝統をつぐものはだれかいないか」と呼びかけました。
 その時に〔後にツォンカパの二大弟子と呼ばれる高弟の〕ケドゥプ・ジェもゲルツァプ・ジェもどちらも手をあげませんでしたが、若いシェーラプセンゲが三礼をして、「継ぎたい」といったので、ツォンカパはとても喜ばれて、自分のもつ秘密集会の伝統を、この若いシェーラプセンゲにあたえました。彼が秘密集会の伝統をつぐために作ったお寺がギュメです。

 私はこのお寺に1988年から1989年の二年間留学させて戴いて、そのお寺の再興をお手伝いした功徳で、当代第一の秘密集会の行者にして学者のガンデン大僧院のロプサン・ガワン先生について131日かけて秘密集会を勉強させていただきました。ロプサン・ガワン先生は後に99代のギュメの管長になられました。2005年にガワン先生に大阪で秘密集会の灌頂を主宰していただきますが、その年〔ダライ・ラマ〕法王様に謁見させていただいた時、「お前、秘密集会の勉強もいいが、行(成就法)もちゃんとやりなさい」とおっしゃられたので、毎朝の成就法を始めました。以来2005年の5月9日から今日にいたるまで一日も欠かさず、秘密集会の成就法を続けてまいりました。その間、〔2008年には〕ガワン先生はなくなってしまいましたが、それから法王様に謁見の機会を戴くたびに一年の間に行をやっている間で疑問に思った点、たとえば〔成就法の〕最後ヨガシュド〜ハムというマントラの後に仏様を体にしみこませる際、「仏様をしみこますのは、行者の胸の奥底なのか、皮膚なのか」などの細かい質問をさせて戴くことを続けて参りました(おお、いい感じにマニアックだ!)。

 〔また、毎年欠かさずギュメ寺に詣でておりますが〕昨年、ギュメ寺に行った時に、一般の大衆に対する教化がはじまっていることを感じました。これはどういうことかと申しますと、密教の伝統はお坊さんが継いできましたが、それがどこかで途切れるのではないか、という危機感をもち始めているからなのです。ギュメで修行しているゲシェ(博士)がこうおっしゃいました。「今は〔ギュメに〕たくさんのお坊さんがいる。でも30年後、40年後これだけの数の僧侶がいるかどうかはわからない」そういう風な危機感をもっていらっしゃるんですね。だから一般の人にも密教の伝統を伝え始めたのです。

 この秘密集会は密教の奥義です。〔チベット仏教がこのように危急存亡の折〕インドからチベットに伝わってきたこのタントラを日本の人々に伝えたいのです。私一人が学んでいても。私が死んだら終わりです。「あの人は特別変わったシュミをもっていた」で終わりです。法王がアメリカでカーラチャクラ(時輪)・タントラの灌頂を授けられた時にこうおっしゃっていました。自分は仏教の伝統を受け継いでいかねばならないからカーラチャクラの灌頂を授けるけど(カーラチャクラ・タントラは仏教存亡の折に一人でも多くの人に仏縁を結ばせるために行われている)、自分の行の中心は秘密集会タントラだ。」
 秘密集会タントラは法王様の密教の奥義なのです。この秘密集会の行をはじめるためには秘密集会の灌頂を必ず受けねばなりません(灌頂とは修行の許可のための儀式)。
 法王様がこの秘密集会の灌頂をインド以外で行うのは実はこれが初めてのことです。〔法王様が平岡家の要請を受けた背景には〕「もともと日本には仏教の伝統があるし、秘密集会が根ざす可能性がある」とお考えになっているのではないかと思います。

 「千人も集めてどうするのか」とおっしゃるかもわかりませんが、千人くらい受けないとその中から秘密集会を受け継いでくれる方もでないと思うんですね。10人や20人ならいなくなってしまう可能性もありますが、千人うければ必ずその中から修行し、秘密集会の伝統を受け継ぐ人間がでてくると思います。そしたら法王様がずっとまもってきた密教の真髄を日本に根付かせることができます。日本にはずっと真言宗や天台宗の密教の伝統がありますから、その密教の伝統にとっても、失礼な言い方ですが、さらに息を吹き返させるようなそういう動きになると思います。
 インド以外の外国で行われる、法王様81歳になられての灌頂です。これはたった一回、最初で最後のチャンスになることでしょう。是非ご縁のある方はこの灌頂に参加して戴ければと思います。

 すみません。個人的な話ばかりさせていただいて。それでは乾杯にうつりたいと思います。

 法王様が一日でも長生きされることは世界に一日でも長く仏教が止まることです。ダライラマ法王はチベット人であるけどチベット人ではありません。我々仏教徒の宝だと思っていますので、この法王様の法が一日でも長くこの世に止まりますように。そして我々がそれを応援できますように。そして法王様の一日でも長いご長寿を祈念致しまして、杯をあげさせていただきます。 乾杯!


 というわけで、清風学園でダライ・ラマ法王主催の歴史的な秘密集会の灌頂が行われます。無上ヨーガタントラ、父タントラで法王様が毎日修行されている法です。20年秘密集会を学び行じて内容に通達した平岡先生が通訳を行い、会場は清風です。こんな縁起がととのった灌頂は、もう二度とないでしょう。
 私は二年前から予約リストに連なっております(笑)。

こちらのサイトから予約ができます。
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DATE: 2016/06/27(月)   CATEGORY: 未分類
自分は何のコレクションも残せんことに気付く
25日は片山章雄先生が「マンネルヘイムのアジア旅行」に関する著作類を学内展示するというので、東海大学湘南キャンパスにいく。「東海」「湘南」という言葉から海でも見えるかと思いきやキャンパスから海は見えず、しかし、富士山がかなり近いところにみえる。

 展示はすべて片山先生の「私物」で、マンネルヘイムの日記もスエーデン語版・フィンランド語版・英語版の新旧版が全部揃って展示されている。片山センセは古本収集家なので、本にかける思いがアツイ。私より上の世代の東洋史学者はサザビーズで古地図や古物を購入したりする人などがわりといたが、片山先生もそのタイプである。
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 片山センセ「この本はね。古本だと一万円くらいだけど、箱にはいって、紙カバーがついて、美本であると百万するんですよ。大学の図書館に買わせましたよ」とか「〜は娘の学費より高くて、持ち主の教授が退官する際に、ファミレスで取引したんですよ」とか「〜堂のオヤジは私の顔をみると『今夜は飲みに行くので遅くなる』と家に電話をいれるんですよ。」とマニアな話が繰り広げられる。

 私は自慢じゃないけど史料はすべてリプリントかpdfでしかもっておらず、かつ、必要に迫られて古本を買うときでも底値のものをかう。なぜなら我が家にくると同時に私と愛鳥と愛猫に破壊されるため、美本を買っても意味がないからである。箱なんてついた初日に踏み壊す。

 片山センセ「大谷探検隊の隊員である、藤井宣正は、エドワード七世の即位式とお葬式の時両方ロンドンにいたんですよ。だから当時の空気をしるために、これを買ったんです」とエドワード七世の即位や葬儀の当時のポスターをみせてくださった。当初1902年に6/12に戴冠式が挙行されるはずが盲腸になって八月にのびたので、古い方の日付の部分が飾り模様で消されていることなどを解説してくださる。

 私は「早稲田のY先生は今在外研究期間でロンドンにいて、イギリスのEU離脱を目の当たりにしましたが、隔世の感がありますねえ」としょうもないコメントをする。

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 翌26日はゲン・ゲレク先生がインドにお帰りになる前の最後の東京法話ということで、ゴマンハウスをWくんとともに訪れる。法話のテーマは、14世紀の前半に活躍したカダム派のトクメ・サンポという人の書いた精神の修養法に関するテクストである。

 簡単にいうと、「悪いことを習慣化してはならない」。中毒化して自分の意志ではやめられなくなる。そして、悪い行いを習慣化しないためには、自分の心を客観的に監視し、悪徳のもたらすものについて常に思考せよ、悪が習慣化しないうちにとめなさい、習慣化したらもうとめられません、という話。非常に有り難く、家に帰ってダンナに読み聞かせた。

先生は最後にこのように結ばれた。
 今日は日曜日です。お休みの日に楽しいことがたくさんあるのに遊びにいかず、仏教の勉強しにこられてとても有り難いことです。みなさんのおかげでこのテクストを紹介することができました。私はこのテクストを法王から伝授されているので、全部でられた方には全部の、一回の人には一回その伝統につらなったことになります。この伝統は著者である菩薩トクメサンポから続くものです。
 あなたがたが、可能であれば今生でなく来世もこの教えのように菩薩行を実践できますように。それができなくとも少なくとも今生でこのテクストの内容を活用できますように祈願します。

 法王は何度も日本にいらして、日本において説法しているのは、日本において仏教の哲学と実践(顕密)の教えを学ばれることが重要だと思っているからです。日本は生活環境がよく、人々は衣食に困っていないし、社会も安定しています。仏教を学ぶだけの条件がととのっているのです。チベット人は亡命社会にいるので、その両方がありません。今チベット本土でもふたたび、セタのラルンガロ僧院が破壊されるという告知がされています。つい最近まで文革があって仏教を学ぶことも困難な状況でした。
 なので、仏教を学ぶ環境がある日本において仏教の教えがきちんと残ることは意味のあることです。日本人が是非仏教の教えを学んで欲しいと法王も我々も考えています。
 また日本にくる機会もありますし、また来たいと思っています。
 現在、アメリカでチベット語の大蔵経を英語に翻訳する計画が進行しています。これはアメリカ人にチベット仏教徒にするためではありません。チベット仏教をになってきたチベット語危うい状況にあり、本土も漢人社会が優勢となりチベット語をまもっていける状況ではないため、仏教を後世に残すために行っているのです。
 まだ仏教のテクストがナーランダーの解釈にそって正しく理解できる人々が存命の間に他の言語にうつしておけば、20年30年後、チベット語が今のままとは言えない状況になった時にも仏教が存続することができます。
 仏教は民族とか言語をこえて内容が伝わることが重要なのです。


 法話の間中、ゲン・ゲレクはiPadにはいった仏典を参照したりしていた。Nくんによると今デプン大僧院の僧侶はみなiPadで仏典を読んでいるそうで、「内容がわかれば媒体は紙媒体でなくてもいい」という感じなのだという。

 そういえば私が所有しているチベット語の史料やテクストはみな新装本か写本だったらpdfでまったく現物志向ではない。私も知らず知らずのうちに内容さえ分かれば、コピーでも電子情報でも媒体はどうでもいいという姿勢で研究していたんだなあと改めて思う。片山センセは20世紀初頭の探検家関連のコレクションを残せるが、私はチベットに関して何のコレクションも形成してこなかった。
以下に「菩薩行の37の実践」の最終部分の法話をあげる。全文は文殊師利のサイトにある。私がきいたのは最終回なのでそれ以前の解説はサイトでご覧ください。

智慧がなければ五波羅蜜によってさえ
正等覚を得ることなど不可能である
それ故 方便を具え三輪無分別の
智慧を修習する これが勝子の行である

*智慧とは分析的な智慧の中でも最高のものであり、空性を理解する智慧である。この智慧がなければ他の五波羅蜜があっても仏陀にはなれない。たとえば、車を作りたいと思っても、材料を集めたり、作り方を知らなければ作れないのと同じように、車よりもっと重要な仏陀になるためには、空性を理解する智慧によって煩悩障と所知障の二つを断たねばならない。
*智慧と方便が二つあわさって仏陀となれるが、方便は六波羅蜜のうちの智慧を除いた残りの五波羅蜜である。
*三輪とは対象と、行為主と行為の三つである。布施波羅蜜を例にすれば、布施を授ける対象、布施する人、布施という行為という三輪、忍耐波羅蜜であれば忍耐の対象である敵、忍耐する自分、忍耐する行為の三輪。精進波羅蜜であれば精進の対象である善と善を行う我々という主体と、善に精進するというという行為の三輪であり、これら三つを区別して実体視しない無分別の智慧を持つことが大切である。どんな仕事をする上でも対象を分析してただしく見た上で、五波羅蜜を三輪を区別せずに行いなさい。

自らの迷乱を自らが検証しなければ
法師の姿をしても非法を為し得てしまう
それ故 常に自らの迷乱を
検証し断ち捨てる これが勝子の行である


*本説ではなぜ智慧(般若)が必要かについて説いている。たとえば仕事を例にとると、自分はなぜ仕事をするのか。仕事にどういうメリットとデメリットがあるのか、などと智慧によって分析すること、自分の行いを検証する知性が必要である。貪嗔痴に動機づけられて、行動すれば、たとえ僧侶や行者の格好をしていても、法でない行為をしていることになる。だから自ら自分の間違いをよく検証し、「違うな」「正しい方向ではないな」と少しでも思うような行為は、最初からやらないこと。菩薩は常に絶えず、自分の心を観察している。

*自分が「間違っていること」(迷乱)を認識することはとても重要である。間違っていると悪業(十不善)を犯してしまう。十不善の一つである殺生を例にとれば、アメリカで銃の乱射事件がおきた。犯人は「悪い人を殺したら社会がよくなる。悪い人を殺したら楽しい」と思っていたかもしれないが、殺す前にこう考えなければならない。「殺人を犯したら監獄に入ることになるし、友達も家族もつらい思いをする」と。こう考えれば「あいつを殺したら楽しいだろう」と最初思っていたとしても、その考え方が間違っていることが分かるだろう。
 十不善の一つ邪淫(邪なセックス)も同じである。邪なセックスは家族を崩壊させる最大の因であり、離婚ともなれば互いの財産もへる。よく考えたら何一ついいことがないのに、そういう不善な行為をする瞬間には、だいたいは間違った考え方に支配されているのでやってはならないことが分からない。平気でウソをついてまで実行してしまう。なぜ十不善がよくないのかは考えたらすぐ分かることである。自分が「間違っている」ことを理解することが重要である。

煩悩に支配され他の勝子たちの
過失を語れば自らが堕落するだろう
大乗に入っている人たちの
過失を語るまい これが勝子の行である

*三大煩悩とは執着(貪)、怒り(嗔)、愚かさ(痴)である。たとえば怒りを例にとる。嫌いな人がいるとその人の欠点を数え上げて、その人の間違っているところを訴えようとする。しかしそんなこといくらしても相手は傷つかず、自分が堕落するだけである。相手は悪くなく、無知から悪口を言っていることもあるだろう。悪口をいっても何も利益はない。自らが堕落するだけだ。
*ここでは「大乗に入っている人」と書いているが、大乗に入っていない人の悪口を言うのはいいというわけではない。
*菩薩行をなぜ学ぶのか。菩薩の生き方はそれを実行できるとは限らなくとも、菩薩のようになるといいことがある。そしてその逆は不幸になる。ある時、夫婦が仲違いし、互いに別の愛人をつくったとする。別れた夫婦は新しい相手に元のパートナーの悪口をいうだろうが、その時自分の欠点を含めて相手との関係を公平に話す人は少ない。また、怒りという煩悩に支配されているから相手を正しく語ることもできない。新しいパートナーはそんなあなたをみて「この人は人と仲良くしても、いったん喧嘩したら掌を返したようにこんなに悪く言うのか。性格が悪いんだな、この人と仲良くするのはやめよう」と思われるだけだ。本来別れた人の悪口は慎むべきなのである。人の悪口をいう人を褒める人は世の中にいない。悪口は言わない方がいい。
 執着という煩悩に支配されている場合は、今度は過剰に相手を美化する。

富や名声に支配されれば互いに諍い合い
聞思修という為すべきことが失われる
それ故 友 親族 家族 施主の家にて
執着を断ち捨てる これが勝子の行である

*この世のほとんどは財産・名声を得るための生存競争に費やされている。ある人が洋服を売っているとする、別の人がもっとよい服を売るよになると、その人の洋服はうれなくなる。だから、新しい商品を開発しなければならなくなる。政治家が世に出ようとすると、いろいろなところで人の機嫌をとらければならないけど、このような競争をしていたら、いつまでたっても仏典を学ぶ時間は生まれない。だから菩薩は財産・名声への執着を断たねばならない。

言葉の暴力は他人の心を混乱させ
勝子の作法を失落させてしまう
それ故 他者の意にそぐわない
悪口を断ち捨てる これが勝子の行である

*十善の中に粗い言葉(悪口)を言わないというものがある。粗い言葉とは、布に喩えればトゲトゲざらざらした、さわるだけで痛いようなものである。荒っぽい言葉は耳障りで、その言葉を吐いた人をみれば表情がゆがんでおり、その言葉の意味を理解しようとするといやな気持ちになる。だから、そんな言葉は言わないこと。
*六波羅蜜は自分の心を成熟させる。他人の心を成熟させるのは四攝事である。四攝事の一つに「優しい言葉」(愛語)とは、聞いただけでもここちよい、心にも心地よい言葉のことで悪口の反対である。
*忍耐をどういう場面でするかは特に重要である。怒りがおきている時は忍耐はしようと思ってもできない。だから、忍耐が有効なのは、怒りとか嫌悪感がおきる前の段階なのである。ある人を嫌いになりはじめる時、最初はそんなに嫌いでなかったものが、いろいろなことをへて、ある時、そういえばあの人とはあんなことも、こんなこともあったと相手の欠点を数え上げるうちに必要以上のその人が嫌いになり、果ては殴ってやろうとか思うようになる。だから、忍耐とは相手の欠点を数え上げている時におこすべきである。
 執着の場合は対象に意識が過剰に依存していく段階において、それをとめるべく起こすべきだ。

煩悩が習慣化すれば対治によっても退け難くなる
正知正念こそが人の武器として手にし
貪りなどの煩悩が起こったその瞬間に
直ちに破壊する これが勝子の行である

*1行目は重要なことを言っている。本来は善を習慣化するべきなのに、多くの者は煩悩を習慣化しており、煩悩は習慣化すると退け難くなる。たとえば、麻薬中毒とかアルコール中毒はアルコールやドラッグに対する執着が習慣化すると、ドラックやアルコーをやめようと思ってもやめられなくなる。麻薬中毒の対治とは麻薬の欠点、たとえば「違法なのでみつかると監獄にはいる」とか、「人格が破壊される」と考えることであるが中毒者はそのような対治があってもやってしまう。
 また、いつも怒っていて、人のせい、政府のせいといっている人に、「落ち着け」といっても聞くことはない。このように、よくないと思っても習慣化してしまうとやめられなくなってしまう。
*2行目の正知とは「心を外側から監視すること」である。たとえばアルコールをとる時「今のみすぎている」と気づけば飲み過ぎることはない。また、「正念」とは「アルコールはよくない」と思い出すこと。正念と正知を我々の武器として、たとえばアルコールに依存している場合、アルコール飲もうとした瞬間に、飲み過ぎていると心を監視し、飲んだらまずいことがおきると思い出す。こうして心を客観的にみるのが煩悩に支配されないコツなのである。

つまりはどこでどのような作法で何を為すとも
自らの心の状態はいまどのようななのかを
常に正念し 正知するということにより
利他を成就する これが勝子の行である
*どのようなものを得たり、何をしても、誰とあっても、常に菩薩行をわすれないで自分の心がどういう方向にいっているか監視することによって利他行を行うことができる、それが菩薩である。長期的なビジョンをもって活動しなさい。

〔廻向〕
そのように励むことで成就した諸善を
無辺の衆生の苦しみを取り除くため
三輪清浄なる智慧により
菩提に廻向する これが勝子の行である
*この前で文章は終わり、本節は廻向文である。菩薩はこれまで積んできた自分の善によって他の命あるものの苦しみがなくなるようにと祈る。行為の対象と行為者と行為は真実としてないことを理解して、どのような時も利他の活動を思いなさい。救うべき命あるものは、空間に果てがないのと同じく無限にているのである。

顕密の経論で説かれている意図を
勝れた者たちが説かれているのに随順し
勝子の実践の三十七よりなるものは
勝子の道を学びたい者のために示した
*ここからこの著作の執筆の事情を示すコロフォンとなる

智慧が弱く学びも小さいがため
賢者を歓喜させる韻律もないけれど
経と正法に説かれるものに依っているから
誤ることのない勝子の実践の善なるものと思う
*なぜこのように謙遜しているのかというと、仏教はインドにはじまって、チベットに伝わった。インドの仏教大学ナーランダーやヴィクラマシーラでは学者が新しい著書を書くと査読委員会のようなものが作られて、みなで吟味し、その本が世の役に立つかどうか、韻律がまちがっていないか。出典を間違えていないか、内容に間違いが無いかを検証する。
 その委員会をとおると、テクストを旙にくくりつけ、僧院のいただきにかざって、その本を世の中に広めることを許可する。吟味の結果却下されると、犬のしっぽにくくりつけて人間以外の動物に役に立つようにする。
 このような史実をもとに、本書の著者トクメサンポはチベットの人であるため、インドの人の著作のように美文ではないと謙遜しているのである。しかし、インドの聖典を勝手に解釈したのではなく正法に基づいているから内容に間違いはないと断っているのである。

しかし勝子行は広大なるものにして
私のように劣った知性では計り難いため
矛盾や無関係などの過失の集まりを
勝れた者たちは忍んでいただけるよう願わん

ここから生じた善により一切衆生が
勝義 世俗の最勝なる菩提心により
有辺と寂静辺に住することもなく
主観自在に等しきものたらんことを


*このテクストの最初と最後に観音菩薩がでてくるのは、二説ある。菩提心をおこすには慈悲が必要なので、慈悲の仏である観音菩薩をここで称えるというのが一つ。
もう一説には、ツォンカパは人生の最後は文殊菩薩と会話しながら著作をしていたように、この著作の著者であるトクメサンポが観音を本尊としていたからという説。

*「勝義の菩提心」は「空を認識する智慧」。「世俗の菩提心」は「一切有情を救おうという心。有辺とは六道輪廻にいる人。寂静辺とは声聞・独覚・阿羅漢果をえた涅槃にいる人。大乗では輪廻も涅槃もこの二つのどちらにも住せず、人々を救い続けねばならないことを説いている。

以上は自他を利益するために経典の言葉と正しい論理を語る僧侶トクメーがグルチュー・リンチェン窟で記したものである
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