白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/05/25(月)   CATEGORY: 未分類
チベットの古典と現代小説の翻訳、続々刊行!
星泉先生 (東京外国語大学)と先生が主催する購読会から、古典『チベット仏教王伝』、チベット語現代小説『雪を待つ』、『ハバ犬を育てる話』の翻訳が立て続けに出版されたので、ご紹介(但し『チベット仏教王伝』は表紙にのる名前は監訳の今枝先生)。

 古典の方は歴史書なので比較的正確なコメントができるかと思うが、現代小説については専門外なので、単純に読んで見た「個人の感想」になります。
 そこのところよろしく!
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●ソナム・ゲルツェン著『チベット仏教王伝』(岩波文庫)
古事記・日本書紀に描かれる神話的な国の始まりと神々の子孫、すなわち天皇家のイメージが、日本史に歴史的な影響力を及ぼし続けてきたように、11世紀以後に成立したチベットの歴史書においても、チベットの国をひらいた観音菩薩のイメージはチベット史に大きな影響を与え続けてきた。具体的に言えば、チベット史に輩出した聖者や聖王は観音菩薩の化身とされ、現在チベット人の統合の要であるダライラマは観音の化身と崇められている。

本書は、14世紀にサキャ派のソナムゲルツェンによって著された『(原題)王統明示鏡』(rgyal rabs gsal ba'i me long)の翻訳である(全訳ではなく開国の王ソンツェンガムポ王の死のところまで)。本書のテーマは前出した「チベットを導くただ一つの神性 観音菩薩」をテーマにした、歴史物語であり、他の年代記とくらべても説話の部分が充実していて読ませてくれる。
 
あらすじについてざっくり話すと、このような感じである。太古の昔、観音菩薩は赤い丘(マルポリ)の上に出現し、そこから命あるものの苦しみをご覧になって、「私はすべての生き物、とくにチベットの人々を幸せにしよう。」と誓いを立てた。観音菩薩はチベットの岩猿とインドから修行にきた菩薩の猿の結婚を祝福し、この夫婦から生まれた小猿がチベット人の祖先となった。小猿は始めは毛深く尾もあったが、恐るべき早さで人に進化し、観音菩薩に文化を授けられた。そしてチベットの人々の精神が十分成熟してきたとみてとるや、観音菩薩は心臓と左右の目より光を放つと、心臓の光はチベット王妃の胎に入り、両目の一人はそれぞれネパールと唐の王妃の胎に入った。チベット王妃からは長じて後にソンツェンガムポ王と呼ばれる男児が生まれ、ネパールと唐の妃からは後に同王の妃に迎えられるティツゥン妃と文成公主が生まれた。男児は13才で即位すると、かつて観音が出現した赤い岡の上に宮殿を造営し、チベットを統一し、チベット文字を作り、ネパールと唐から妃を娶り、二人の妃はそれぞれの国からチベットへ仏教をもたらした。

早い話が、ソンツェンガムポ王は観音の化身、両妃はターラー菩薩の化身なのである。ここで描かれる、チベット人は観音によって祝福されて生まれ、観音によって文化を授けられ、観音によって導かれてきたという歴史観が観音菩薩の化身と崇められるダライラマの信仰へとつながっていく。
 本書に含まれる説話でとくに面白い箇所は、ソンツェンガムポ王がネパールと唐から妃を招く際に、舅から様々な謎かけをされて、それをといて他の求婚者たちを退けるシーンである。六字真言の由来、今もラサのチョカンやポタラ宮に祭られるさまざまな仏像の由来ももりだくさんなので、ラサ観光のお伴にもどうぞ。

 次に現代小説二冊の新刊をご案内。いずれも東北チベット(現青海省)出身の作家によって口語のチベット語で記されたものである。
 
タクプンジャ著『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会)
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 著者のタクプンジャ(1966-黄南チベット族自治州出身)はチベットの人気作家である。本書に含まれる短編一つ一つの作品を一行で紹介すると、
「ハバ犬を育てる話」(2006)、愛玩犬(ハバ)の話かと思って読んでいくと実は阿諛追従で人にとりいっていく浅ましい「権力の犬」の話だったよ(笑)。
「犬」(1996)、犬の死体を隠そうとする男が、被害妄想に陥っていく話。
「罵り」(1993) 、タクプンジャの最初の妻が夫婦げんかの際になげかけた罵りがそのまま小説になったのか。
「一日の幻」(1990) 、遊牧民の老人が臨死で一瞬の中に一生を追憶・走馬燈しているような作品。
「番犬」(1990)、忠犬が飼い主を搾取するものたち(徴税人・ラマ)に食いつき続けて、社会はそう簡単じゃないので、結果犬が死に至ってしまう痛ましい話。
「貨物列車」(1988)、走る列車をみて喜ぶチベット人の子供。だけどチベットに行く貨車は空で北京に戻る貨車は満杯だよ。中国によるチベットの資源収奪を静かに告発。
「犬と主人、さらに親戚たち」(2002)、文革の頃の犬殺し運動が、あるチベット人の一族に残した深刻なトラウマを描く。現在起きている問題について高僧が「過去のカルマだから受け入れよ」ということによって、村人が納得することに、なんとなくほっとした。
「村長」(1999) 、私利私欲に走る村の書記を村長が長老的な手腕で改心させる話。
「道具日記」、職場の力関係 (笑)。

 彼の三期に画期される作風については星先生の解説に詳しいので、ご覧あれ。どの作品も非常にわかりやすい言葉で語られていて、チベットの牧民や役所つとめのチベット人の生活や心象風景がリアルに活写されている。彼の小説では、しばしば犬が重要なモチーフとなって現れるのだが、これはおそらくアムドの遊牧民にとって、犬は番犬であり、羊の群を狼からまもる牧羊犬であり、家族であり、ようは身近な存在であり、観察者にさせても、人になぞらえても、狂言回しとして使っても違和感がないからであろう。

 個人的には「村長」が一番面白かった。
 舞台となるのは税金も払えない、役人も接待できない、ないない尽くしの極貧のチベット村。村長と書記が二頭立てで村を経営しているが、この二人が対照的な性格であり、村長は昼夜村のことを考えて自分のことは後回しにして働き続け、結果体をこわして血を吐いているけど周囲に隠しているような利他的な人で、15キロもはなれた役所にせっせと通っては村のために陳情を行う日々。

 一方の書記は樹木の違法伐採によって私腹を肥やしているが、公益のためには一銭もださないケチ。会議にはでてこないし、ウソも平気でつくし、真っ昼間から若いモンを集めて賭博を開くという、一言で言えば人間のクズ。村の顔役たちはそんな書記を苦々しく思い、罰そうと思っているが、村長は人々に「そんなやり方ではダメだ。根本的な解決にならない」と押しとどめている。では、村長にとっての根本的な解決は何かと言えば、これ以上話すとネタバレとなるので、「村長の神対応」、とだけ言っておく。

 この小説で描かれている貧乏村の姿は、中国政府支配下のチベットの田舎のリアルな描写であると言われており、つまり公式文書では決して見えてこない部分を示してくれる、歴史的なテクストであるので、私的には面白かった。

ラジャムジャ著の長編小説『雪を待つ』(2012年 勉誠出版 星泉訳)
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 チベットの半農半牧のマルナン村の子供達四人の人生を描いた長編小説である。作者のラジャムジャ(1977-)は海南チベット自治区に生まれ、北京の中央民族大学で仏教を学んでいる。主人公となる四人の子供は、村長の息子のボク、洟垂れタルベ、長老の孫娘セルドン、転生僧のニマトンドゥプである。第一部は彼らが中学にあがるまでの子供時代の話、第二部は30代になった彼らのその後である。前半の時代は文革が終わり僧院復興する80年代で、伝統が蘇ると同時に村に小学校が建設され、電気が引かれるなど急速に現代化が進む時代であった。作者はこの時代を貧しいけれど美しい時代として描き、さながらチベット版「三丁目の夕日」である。

 そして、第二部は現代である。子供たちはそろって残念な大人になっており、それに比例して村も残念な状態になっている。まず初の知識人なのだから、村長あたりをやってなければいけない「ボク」は、町で研究者になって、漢語しか話さないチベット女性と結婚している。故郷のことを案ずるのに帰れない「ボク」に、妻は容赦ない批判をあびせるが、ボクは「チベット語もしゃべれないくせに。お前には分からない」とかいうから、喧嘩が絶えない。故郷と向き合っていない自分の後ろめたさを、妻にぶつけているのが明かで、見るに堪えない(笑)。

 で、ボクと結婚するはずだった美しい長老の孫娘、セルドンは大学におちて「ボク」と一緒に進学できなくなると、失踪し、ラサで風俗嬢(!)になる。ボクがだらしないからセルドンがこうなるのじゃ!

 で、私が最も期待していた、転生僧のニマトンドゥプは衆僧に傅かれていたのに、修行に行った先の西寧のクンブム大僧院で世俗に接触して、僧院長の座をすててこれまた行方不明。クンブムはダメなんだよ、あそこに送るくらいなら、ラサの大僧院の学堂に留学させたら、彼の人生も多少は変わっていただろうに。

 私が最初から全く期待していなかった洟垂れタルベは、なんと村長になっている。しかし、小学校に通っても一文字も覚えられなかった素晴らしい頭脳であるため、近視眼で、隣村(遊牧村)との境界争いに明け暮れており、村の状況はどんどん悪化していく。

 このあたりまで読んでくると破滅の予感が満載で、巻をおくことができない(笑)。 仮に、知識人のボクが村にもどっていれば、「チベット人は同じ民族なんだから仲間割れをせず、団結しよう」とか言って事を収められるのに、洟垂れが村長だから、「土地を取られた」とか、「女を取られた」とかいう実に感情的な動機で、粗暴な争いを始めよとしている。
 もしニマトンドゥプがマルナン僧院でちゃんと僧院長を続けていれば、地域の争いなんがラマの一声で調停できる。なのに、ニマトンドゥプは失踪の後、還俗し、骨董品ブローカーになってチベット人の家々から古いものを二束三文で買いたたいては大もうけをしている。精神的に仏教を捨てたばかりか、その捨てたもので、商売をしている。爽やかなまでのクズっぷりである。

 ボクと結婚して村長夫人になるはずだったセルドンは、ラサで風俗嬢からバーのママに昇格している。思えばセルドンが一番可哀想。ボクが好きだったのに、ボクが優柔不断だから、この娘はこうなっちゃったんだよ。三人がこんなだから、器でないタルベが村長になって村はダメになっているんだよ!!!!

 村が隣村と一触即発の状態であるというのに、、ボクは相変わらず、故郷に戻る決心がつかずウジウジしている。このボクの心性はなんなとく、亡命チベット人が内地のチベット人に向ける複雑な思いに似ている。故郷から離れて、町中で異邦人と長く暮らしすぎた結果、大地と密着したアイデンティティを失い、何者でもなくなっていく。しかし、村の外にでたことによって、民族とか国家とかの広い視野から自分たちの故郷の生活や文化を見ることににより、そのがかけがえのなさも分かっている。故郷は恋しい。しかし、もはや故郷の一員ではない。ボクは複雑である。
 一方、一度も村からでたことのないチベット人たちは、確かにチベット人性を生きてはいるが、あまりにもローカルであるために、目の前のものしか見えておらず、チベット人同士で争っている。

 ラストは三人が故郷の村に帰るシーンで終わる。しかし、この三人が帰ってきたからといって、村に明るい未来はあるのだろうか。だって三人には紛争調停能力は皆無である。村長の息子なのに町にでた優柔不断男、美人なのにラサで春をひさいでいた長老の孫娘、僧院長の座を捨てた骨董品ブローカーってこの悪夢のトリオに何ができるだろう。できないでしょう。

 とくに腹が立ったのは、ラストのラストで元転生僧のニマトンドゥプが村に小学校を建てようとしたこと。これ、もし作者が明るい未来を暗示して入れた挿話なら、成功していない。だって小学校を建てるお金、ニマトンドゥプが村に伝わる古代の鐘を夜陰に乗じて盗み出し、売り飛ばして手に入れたものですよ。また、ニマトンドゥプは元僧侶なのに、寺院をたてるか、小学校をたてるかって時に、小学校を選んだのも、彼が二度チベットの伝統を踏みにじったことになり、不愉快。

 この三人には少し反省してもらいたい。三人とも、村からでた後、何者でもないものになって漂流して決して幸福ではなかったのだから、そこから少しは学びなさい。まず、ボクは村に戻って村長に就任し、セルドンと結婚しなさい。ニマトンドゥプはもう罪深い仕事はやめて速やかに次の生に向かいなさい。で、ボクとセルドンの間の子供として再生して、今度こそマルナン僧院の僧院長の座を全うしなさい(留学はできたらラサのゴマン学堂に入れ!)。こうすればすべてが丸く収まるんだよ、と叫んで本を閉じたのであった。

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DATE: 2015/05/06(水)   CATEGORY: 未分類
吉祥寺のチベフェスに行ってみた
 連休最後の日、本駒込の吉祥寺で開かれたチベット・フェスティバル2015に行ってきた。吉祥寺というと中央線の駅と間違えている人が多いが、中央線の方がこのお寺にちなんだ名称で、こっちがオリジナル(笑)。ついでにいえば駒澤大学の前身の栴檀林のあったところで、二宮尊德のお墓とかもあるよ。

 二年前の護国寺で開催されたチベフェス2013はかなり大がかりであった。しかし、ボランティアの人出がたりず、開店できないブースとかもあったのに、ホームページの訂正も更新できず、さらに初日の低温と途中からの超高温ときて、それはもう大変だったと聞く。ボランティアさんはへろへろ、とくにラクパ代表は一人で通訳・講演・コーディネートetcと一人何役もやったため、疲労困憊でそういえば、目が死んでいた。

 今回はアットホームなサイズになったので少しは状況が改善するかと思いきや、
「瞑想堂30人しか入れないのにチケットはそれ以上売れちゃったよ。?」
「瞑想会場を本堂にすれば?」
「じゃあ砂マンダラのお客さんとの兼ね合いは? お金はどうするの?」
など、初日はいろいろあった模様。

「それでも何とかなっちゃうんですよねえ。不思議です」とはSFTのボランティアさんの弁。そう、「最終的には何とかなっちゃう」はチベット七不思議の一つである (笑)。

 砂マンダラは阿弥陀如来を本尊としている。略式・フルセット・その中間の三つの描き方があるうち、今回は中間だという。略式だと本尊は種字で表され、フルセットだと本尊のお姿が人型に描かれ、中間の今回はそれぞれの仏のシンボルで表している。マンダラの基調色の五色は地水火風空(ちすいかふうくう)の五大と五仏と五智を同じに表現している。以下、写真はクリックすると大きくなります。

砂マンダラ

 チャムは私の見た日の演目は下記のようなものであった。かなり怪しい解説を以下いきますす。

1. 「入場」(phebs 'chams)
おそらくは場を清めて舞手を迎える吹奏。
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2. 「鹿舞」(sha 'cham)
ヤマーンタカの舞で16人でまうのだが、今回は2人。一人は鹿のお面で、一人は牛のお面をかぶっていた。ルントク代表によるとこれは魔を払う踊りであり、女尊を表している。
シャモ

3. 「大日如来」(kun rig)
 ルントク代表によるとタシルンポのお家芸だそうで、印契(ムドラー)で37の仏を表現する儀式。
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4. 「四仮面」('bag bzhi)
 2は仏の女性的性質を表しているが、これは仏の男性的な性質を表している。五仏が五色の仮面をかぶって舞う。
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5. 「祈祷」(bkang gso)
 護法尊(日本の神様にあたる願いを聞いてくれる存在)を召喚して、病気を治してください、などのお願いをする際の儀式。
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6. 「墓場の主」(dur bdag)
 ルントク代表は子供の頃、この舞が一番楽しく見られたそう。しかし、大人になってみると、この骸骨が、男も女も、金持ちも貧乏人もみな死ぬという、無常を示したものだと分かったとのこと。そう、みんな最後はガイコツになるんだよ。
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7. 「黒帽」(zhwa nag)
 8世紀にチベット王家にボン教を支持し、仏教を弾圧したダルマ王が現れた。僧ラルンペルキドルジェはボン教の僧に変装し黒い服を着て黒い帽子をかぶって墨を塗った黒い馬にのってダルマ王に近づき、矢で射殺した。その後、黒い服を裏返して白くし、馬を洗って白くして、まんまと逃げおおせたのである。この舞はその故事にちなんだものだ。
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8. 「祝詞」 (shis brjod)
 無事に法要が終わったことを言祝ぐ祝詞。
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 このあと、16時からタシルンポの僧院長さまの法話が始まった。テーマは「七つの因果の秘訣」。仏教を志す時の動機は、「多くの人を助けるために、それを可能とする仏の境地を得たい」と志すこと。あくまでも利他の精神に基づかねばならない。そのような他者のために仏教を志す心を菩提心という。
 それをどうやって育むかを説いたのが、アティシャ由来の「七つの因果の秘訣」である。

1 一切の命あるものを前世の母であると知る(知母)。
2 その恩を思う(念恩)。
3 その恩を返そうと思う(報恩)。
4 一切の命あるものに良いことが起きるように思い(慈)、
5 一切の命あるものから悪いことが起きないように思い(悲)
6 一切の命あるものを救うことのできる仏の体を得ようと思うと(増上意楽)
7 菩提心が生まれる(菩提心)。

 1 仏教の転生思想では、我々は無限回の生を生きてきたので、すべての命あるものは必ず母だったことがある。
 2  お母さんは、お腹に子供ができると食べるものに注意し好きなものも控えて体を大事にする。生まれた後も、自分の命を捨てても子供を護ろうとするものだ。子供が川に落ちたなら、母親は川に飛び込んでも助けようとするだろう。子供が火の中に落ちたら、関係ない人は「可哀想に」と思うだけだろうが、母親は火に飛びこんでも助けようとするだろう。母に受けた恩は計り知れないのだ。
 3 だからその恩を返そうと思わねばならない。
 4 一切の命あるものはかつて母だったことがあるものだから、すべてを母と慈しまねばならない。我々は好き嫌い、どちらでもない、の三種類に人をわけるが、全ての命はかつて母だったことがあるのだから、すべてのものを平等に愛さねばならない。これが慈である。
 5 同様にすべての命あるものが苦しみから逃れるように願わねばならない。あいつは嫌いだから不幸になればいいとかいうのは良くない心である。すべての命あるものが災いから逃れて安楽になるように願わねばならない。
6 では、自分に命あるものすべてを救う力があるかといえば、ないので、その力がある仏になろうと決意する。
7 かくして、菩提心(他者のために仏の境地を目指す心)が生まれるのである。我々の心はもともと綺麗なものだ。煩悩はあとからついたもので、それは月や太陽が雲に隠れても、その輝きはそこにあるのと同じだ。毎日瞑想して心をコントロールしていけば、かならずその清浄な心は実現できる。

 僧院長さまは以上のお話をとても楽しそうに立ったままお話された。
 チャムの前にはお坊さん達は声明、僧院長さんは瞑想指導も行われていた。
 
 今回のチベフェスは、瞑想とか法話を通じて、チベット文化の内容に触れることのできるのがとてもよかったと思う。

 砂マンダラは最終日には破壇して砂はお下がりでいただけるので、ご縁のある方どうぞ。正式な儀式だとお坊さんたちが川まで流しにいくのだが、今回はそこまで徹底するのかな。

 関係各位は大変かと思うが、ゴールデンウイークにチベットフェスティバルがあるとやはり楽しい。過労死がでない程度に続いていくといいなと思った。
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DATE: 2015/05/04(月)   CATEGORY: 未分類
あれから七年(チベフェス余聞)
ごてごてで恐縮ですが、チベット・フェスティバルが開催されます。タシルンポ大僧院のお坊さんたちがきて、法要、砂マンダラ、声明、法話、瞑想、チャム(チベットの仮面舞踊)を披露します。
チャムも砂マンダラも華麗でカラフルで非常に人気があります。砂マンダラは期間中に順次作成され最後の日に破壇します。場所によってメニューの順番がことなりますので、詳しくは以下、NPO法人チベットハウス・ジャパンのホームページで。
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パンフレットはここです。

長野の会場となる西方寺は、善光寺の門前にある。善光寺様はことし七年に1回の前立本尊のご開帳の年なので、関東近辺の方は長野でご覧になるのも良いかと思う。

 ここで前回のご開帳の年の思い出を語りたい。
2008年は北京のオリンピックの年であった。
2001年に北京でのオリンピック開催が決まった時、国際社会は中国政府に、報道の自由度をますこと、人権状況の改善、チベットについては亡命政府との対話などを申し入れた。しかし、それらがまったく改善をみないまま、時間だけが過ぎていった。そこで、2007年に、ドイツ、カナダ、オーストラリアの首相がダライラマと公式に会見し、とくにアメリカはダライラマにゴールドメダルを贈呈するなどして、中国政府に亡命チベット政府と実質的な話し合いをするように圧力をかけた。

しかし、これらを中国政府はスルーし、さらに少数民族、カトリック教徒、ジャーナリストたちをより厳しく取り締まった。そして、聖火リレーを世界中の主要都市で行い、さらにはヒマラヤの頂上にまで聖火をあげる計画をぶちあげたのである。ようは、中国にとってこのオリンピックは、国威発揚の場でしかなく、人権改善とかの普遍的な価値を実現する契機にはならなかったのである。

 このような状況の中で、3月のチベット蜂起記念日がきた。この日行われた僧侶たちの平和的な抗議デモが、中国政府によって暴力的に弾圧され、それに怒ったラサの市民が暴徒化し(3/17)、それが東チベットの各都市に飛び火し、いわゆる2008年チベット蜂起が起きた。

 中国政府はチベットの成人男性を予備拘束し、検問をはりめぐらすなどして、情け容赦なく取り締まったため、世界中から非難の声があがった。結果、ロンドン、パリ、サンフランシスコで行われた聖火リレーは中国政府へ抗議を行う人々で騒然となった。このリレーは中国国内に中継されていたので、中国政府の面子は丸つぶれになった。日本においては当初善光寺様が聖火リレーの出発場所になっていたが、辞退したため、リレーの出発地点はただの空き地となった。リレーのスポンサーも次々と降りてナシとなった。

 危機感を感じた中国人たちは、聖火リレーの当日バスをしたてて長野に集結し、リレー当日、普段は静かな市内は大量の中国人と五星紅旗で真っ赤に染まったのであった。この際、留学生組織が長野へ集結するようによびかけを行い、華僑のお金持ちがかなりの寄付をしてバス代を支援し、さらに、中国大使館は旗などを寄付した。

『朝日新聞』2008年05月12日
「中国人留学生大量動員は華僑の寄付 本誌記者が見た実録・長野聖火リレー」

(前略) 動員目標は2千人だったが、当日は5千人近くが集まったという。国内に登録された中国人留学生は7万人強。単純計算で14人に1人の割合だが、入国後、所在不明になる留学生もいるから、実際の動員の割合はもっと高くなるだろう。
 なぜ、ここまで大量動員できたのか。関東地区の留学生なら参加費が2千円で済んだのが大きい。東京-長野間の夜行バスは通常、片道でも3千円前後。李会長によると、差額分は華僑系企業による寄付金で賄われたといい、中には今回の聖火応援ツアーのために100万円を寄付した企業もあった。中国当局が資金援助したという報道もあったが、大使館側はこれを強く否定。代わりに「応援の意味を込めて」(中国大使館)と、中国国旗や五輪旗を提供したという。(後略)


中国大使館は資金援助については強く否定したというが、大使館は留学生組織を掌握しているため、ここから勧誘がきた時点で、政府の支持ありとみて留学生は動いているわけだから、政府の関与がまったくないわけではない。また、留学生以外でも手弁当でかけつけた愛国者もいたであろう。愛国は自分と自分の国家しか見えなくなる麻薬なのだ。

 ついでに言えば、組織もなにもなく自然意志で自腹でやってきた数少ないチベット支援者たちは、季節外れの寒さにふるえつつ小さな公園に集められてそこから出るなと日本の警察にいわれたのであった(笑)。

あれから七年。時のたつのは早い。

チベットの状況は微塵も改善しないどころか、悪化の一途である。国境の取り締まりがきつくなって亡命者は激減しており、行き場をなくしたチベット人の抗議の意は焼身抗議という形になって現在まで続いている。

 話をチベット・フェスティバルに戻そう。

今回チベフェスの長野会場となる西方寺は、チベット研究者の金子英一先生がご住職をしていらっしゃる。そのため寺内にはチベット式の金銅仏が祀られ、その背後にはチベット様式の極楽が描かれている。善光寺様もこの西方寺さまももちろんダライラマ法王が巡錫している。
西方寺廻向柱15

 また、西方寺様の境内には、今回のフェスティバルにあわせて、チベット廻向柱がたてられているのもみどころ。オリジナル記念品としてミニチュアの「幸せの仏塔」、「経輪ストラップ」などが販売されているのでマニアの方どうぞ。
http://saihouji.blogspot.jp/
 七年に一度の善光寺様のご開帳は5月31日まで。善光寺の裏山の麓にはチベットがこの世から消えた直後の1960年代に日本にやってきた三人の有名なチベット人たちの記念の仏塔もたっております。あわせてご覧ください。
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■ 4/28- 5/2 札幌 新栄寺
■ 5/4-5/7 東京 駒込の吉祥寺 (最寄り駅: 南北線 本駒込)
■ 5/8-5/11 仙台 藤崎デパート
■ 5/13-5/16長野県 西方寺

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DATE: 2015/04/27(月)   CATEGORY: 未分類
ネパール大地震にみる法王のアガペー
TCPよりの最新のお知らせが来ました。目標をうわまわる金額が集まり、事務対応がおいつかないのであまり拡散しないでくださいとのことです。

(以下引用)*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
ネパ―ル大震災の被災者支援について
先ほど別メールで、ご案内をさせて頂きました。

予想を超える反響を頂き、既にご入金を頂いており
本当にありがとうございます。
EyeAssociation For the Himalayanでも募金が開始され
当初の目標額を超える金額が、集まりそうな予感です。

つきましては、資金の使途について
下記の項目を追加させて頂きます。

「万が一、現在の想定を超える金額が集まった場合は、
 緊急の医薬品、食料支援の終了後、
 順次、下記の様な必要な活動に支援金を回します。

・EyeAssociation For the Himalayanが6年間かけて作った村人のためのクリニックが損壊
しているため、この再建費用。
・孤児院、ヒマヤラの子ども達の学校などの被災部分の修理費用。
・ネパール眼科病院、ルンビニ医科大学教育病院の修復。
・ゴルカ地方の小学校の修理費用」
など

*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
ここからはその前のエントリー。

4月25日にネパールでM7.9の地震がおきた。ここ十数年来、ネパール政局は混迷を究め、国民は疲弊しきっていた。そこにきてこの地震だから、死傷者数はおそらくかなりの数にのぼることと思う(政府に支援力がないし、国民も貧しいから)。

 窮したネパールは最近中国に近づいていたが、その結果、中国からの要請に従わざるをえなくなり、ここ数年、チベット難民(ネパール国籍をとったものも無国籍のままの方も両方いる)にさまざまな圧力を加えてきた。
 かつては、亡命チベット人は、まずネパールのカトマンドゥで難民認定をうけて世界中に散っていたのが、カトマンドゥの事務所は閉鎖され、国境で見つかったものはネパールにより中国に強制送還されるようになった。また、ネパールに定着していたチベット難民たちも、その住みづらさから動けるものからネパール国外へと生活の場をうつしつつある。

 こんなネパール政府なのであるが、ダライラマ法王のアガペー(敵・味方関係なく発せられる神の愛W)は変わりなく降り注がれる。法王は今回の犠牲者に哀悼の意を表し、支援の表明を行われた。ちなみに、東日本大震災の時にもすぐに哀悼の意を表し、日本に義援金を送ってくださった。あの時は嬉しいのと情けないので泣いた。だって、彼は難民である。自分のことだけでもせいいっぱいなのに、日本に支援をしてくれたのである。日本以外でも法王は世界中の紛争に対して発言し、災害においては援助を申し出てきた。彼の慈悲は普遍的・人道的なのである。

 法王のようになるのは無理でも、できる範囲内で支援をしたいという方はたくさんいらっしゃると思う。そこで、おすすめの支援先を一つ。

 日本発の支援団体で、カトマンドゥで貧しいチベット人の子供を養育しているチベタン・チルドレンズ・プロジェクト(TCP)です(公式サイトはこちらです。)。TCPがとりまとめた支援金は、TCPの里親さんの一人である眼科医の松山先生が直接現地に届けますので、100パーセント間違いなく現地の必要な方に届く、とのことです。松山先生はネパールで山岳部にキャラバンくんで医療支援を行ってきた方です。

 ここの東京事務局のIさんを私は個人的に知っていますが、ほんとうにお仕事のできる、きちんとした信頼できる方です。
大きな組織にした寄付は大きなところにしか届きませんが、こちらは「支援の届かない末端」にいきます。

 TCPからの告知文(pdf)をここにあげました。

また、法王の声明は以下のようなものです。

ダライ・ラマ法王、ネパール大地震の被災者に哀悼の意を表明
2015年4月26日 インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ

ダライ・ラマ法王は、昨日ネパールを襲った大地震によって多くの尊い命が失われ、被害が拡大していることに深い悲しみを表明されるとともに、ネパールのスシル・コイララ首相に宛てて次のようなメッセージを送られた。
「ネパールの皆様とチベット人は、古来より隣人として暮らし、現在も多くのチベット人難民がネパールで暮らしています。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご家族やご友人、家財一切を失われたすべての皆様に心からの哀悼の意を捧げます。」

また法王は、次の言葉を添えられた。
「ネパールの皆様との団結の証として、ダライ・ラマ基金より義援金を送るよう手配いたしました。一刻も早い救済をお祈りしています。」(ソース: http://dalailamajapanese.com/news/post/1210-)

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DATE: 2015/04/19(日)   CATEGORY: 未分類
哲学・修道・結果(法王法話)
 今回の灌頂チケットは発売とほぼ同時に売り切れた。その理由が会場にきてみて分かった。席のかなりの部分が韓国人・モンゴル人・台湾/中国人の団体に占められていたのである(翻訳機械は1300台貸し出されたとか)。これらの国の人たちの故郷がダライラマ法王にビザをだせる政治力がないから日本にくるしかないとはいえ、希望してもチケットが手に入らない日本人が数多くでたのは残念な話であった。

 今回の法話においては四つのテクストが準備されており、ざっと流れをさらうと、第一テクスト『般若心経』と第二テクストのナーガールジュナ著の『菩提心釋』で、空(智慧)の哲学を理解し、第三テクストのカマラシーラ『修習次第』(ゴムリム)において、理解した内容を瞑想(止・観)によって実現することを説き、第四テクストのミトラゾキの『三つの心髄』では瞑想を効果的に行うべく、密教の成就法を解説し、密教の入門儀礼である灌頂が授けられることとなっていた。これはチベットの修道を顕教から密教までを段階的にたどる非常に総括的な内容といえる。

 ここ数年、法王は智慧(般若思想)について学ぶように随所で強調され、中観帰謬論証派の解釈に基づく空の哲学についてあちこちで語られてきた。かつては準備していたテクストが最初の三行で終わることも頻繁であったが今回は、テクストが長い上に四つもあったにもかかわらず、とにかく全体に言及し、「今回言及できなかった部分については、テクストを家にもってかえり、自分で学習すること」と今後の指示まで出されていた。つまり、今後のことを考えてとにかくこれだけは理解して欲しい、実践して欲しい、ということを、まとめておっしゃられたかのような法話であった。

 まず、法王は『般若心経』を韓国人には韓国語で唱えるように、そのあと中国人に中国語で唱えさせた。最後にダライラマご自身が、『般若心経』の真言と、『中論』の帰敬偈と弥勒の『現観荘厳論』の開経偈をチベット語で唱え、「モンゴル人は私と一緒にチベット語で唱えろ」とおっしゃられた。以下が法王法話の内容である。

ちなみに、配布されたテクストはこちらでダウンロードできます。表紙と見開きの誤植はなおしてからpdfにすればよかったのに(笑)。あと、ここで「ロシア語」とあるのは、「モンゴル語」のマチガイです。文字が同じキリルなので間違える人多いんですよね。


 『般若心経』は「智慧(サンスクリット語の音写だと般若)の心髄」であり、仏母と言われる※(法王が直前によんだ『現観荘厳論』の開経偈にも般若を仏の母と称えている)。お父さんではなくお母さんだ。父=方便(利他)が母=智慧(自利)を完成して、現在・過去・未来の仏は生まれた。

 智慧とは「物事は見えているようには存在せず、実体がない」ということだ。この法話は全国の会場でライブ・ビューイング(LV)で見られているとのことだが、LV会場に私は実際にはいないが、いるように見えている。仏典でいうガンダルヴァの城(幻の喩え)のようなものだ。それを思い起こさせてくれるから、ライブ・ビューイングもいいだろう。

 今回は四つのテクストを準備した。
(1) 第一のテクストは『般若心経』である。
(2) 第二のテクストはナーガールジュナ(龍樹)著『菩提心釈』である。
 このテクストは、最初に仏教の立場から、非仏教徒(外道)の主張する「実体的な自我」を否定し、次に、仏教の四つの学派(説一切有部・経量部・唯識・中観)の思想を順番に説明している。その際、後のものが前のものを批判するというように、より優れた思想を順に示していく構造になっている。この四学派のうち、かつては前二者を小乗、後二者を大乗と言ったが、大小が優劣を表しているかのように見えるので、パーリ哲学とサンスクリット哲学と言うことにする。
 パーリ哲学では人無我を説く。「人無我」とは、「私」(人)とは五蘊(色・想・受・行・識)の上に仮に措定されただけの、実体ないものである、という見解である。一方、サンスクリット哲学では「人無我」に加えて「法無我」すなわち、「存在するもの(法)に実体はない」も説く。このように、すべてのものに実体はないので、囚われてはならない。利他心(菩提心)を培うことによって、智慧に対する障り(所知障)をなくさねばならない。

(3)第三のテクストは、カマラシーラの著した『修習次第(中篇)』(ゴムリム)である。カマラシーラはチベットに顕教をもたらしたシャーンタラクシタの高弟で、ナーランダ大僧院の俊英であり、師弟ともどもチベットに来てわれわれチベット人に法を伝えてくれた。

 本著作を、一切智者の智慧を獲得するための土台・修道・結果(シ・ラム・デプ)の三つの観点から解説することができる。シ・ラム・デプの「土台」(シ)は、修道の基盤となる「物事の真実のあり方」についての見解(哲学)であり、「修行の道」(ラム)は、一切知を獲得するための修行の順序や方法である。「結果」(デプ)とは、その修行道の結果得られる仏の境地(仏果)である。『修習次第』では土台(シ)は、人無我、法無我という哲学が説かれ、道(ラム)では、二つの瞑想修行(止・観)のやり方が詳しく説かれ、その結果得られるもの(デプ)として、仏の意識=一切智が説かれる。本書はこの道の部分にあたる瞑想修行が中心的な主題である。

(4) 四番目のテクストは、ミトラゾキの『三つの心髄』である。明日は千手観音の灌頂(dbang)と、カサルパニ観音の許可灌頂を行う(灌頂は二日目の午前、すなわち、テクスト(2)と(3)の間になされた。

◎さあ、まず総論(spyi bshad)からはじめよう。この地球には70億の人が住んでいる。全ての人が幸せを求め、苦しみを望んでいない。それなのに多くの人は望まぬ苦しみを味わっている。そして、その苦しみの多くは自分で作り出したものなのだ。自分さえよければいい、自分が、自分が、という気持ちが、結局は自分を苦しめているのだ。
 人は、「存在が実体的に、つまりそれ自身の力で成り立っている」(rang bzhin gyis grub pa)と思うところから問題が生まれる。
 テロリストだって母親から生まれた人だ。その意識の中には愛の種が植え付けられている。人を思いやる心は必ず存在している。科学も愛が健康を促進し、怒りや憎しみが健康を損なうことを証明している。だから、自分ではなく全体をみる考え方をしなければならない。

 台湾、韓国、モンゴルの方々、私の言葉は翻訳されて聞こえているか? そうかよかった。

 現在の普通教育は知識偏重で、物質志向である。しかし、心の中にある欠点や自らの苦しみの原因を客観的に考えさせるような、精神的な教育を行わねばならない。

 多くの人は肉体が安楽であれば幸せになれると思っている。しかし、世界の金持ちは、その富を得るために争い、だましあい、心の平安を一つも得られていない。彼らはもっと、もっと、もっとと求めて不幸になっている。世界の主な宗教は足るを知れ、と共通して説いている。全ての宗教は異なる見解を持ちつつも、最終的には愛と慈悲を推奨するという点で共通している。無宗教の人々も、宗教を信じていないからといって、放置するのではなく、世俗の倫理によって導かねばならない。アメリカやカナダではすでにこのような教育を始めており、効果が出ているという。

 諸宗教の見解の相違について言えば、たとえば、キリスト教は神の存在を受け入れており、人間の自我は神によって作られたものとする。一方、サーンキヤ学派やジャイナ教、仏教は神を措定せず、人の自我は始まりのない昔から存在していると考える。
 
 しかし、キリスト教の神は愛を本質としているし、仏教も人には如来蔵(仏になる能力)が元々備わっているとするので、まったく異なっているわけではない。

 仏教では、「私」「人間」とかは、五蘊という構成要素が集まったものに仮に名前をつけたものであって、単一永遠の我はないと「無我」を説く。

 仏教にもさまざまな学派がある。それらには共通点もあれば相違点もある。共通点を挙げれば、パーリ仏教もサンスクリット仏教も戒律を大事にし、瞑想を重視する。しかし法の分類とか定義(阿毘達磨)は異なっている。たとえば、パーリ仏教では四諦十六行相を説き、サンスクリット仏教では三転法輪を説く。またパーリ仏教では「人無我」のみを説くが、サンスクリット仏教では、それに加えて「法無我」を説く。

 法の解釈について具体的に述べよう。パーリ仏教の所説であり、サンスクリット仏教では三転法輪の第一法輪で説かれたとされるのが「聖者〔にとって〕の四つの真実」(四聖諦)である。

◎聖者の四つの真実(四聖諦)
1.苦しみという真実(苦諦)
2.苦しみの真の起源(集諦) 
3.苦しみの真の消滅(滅諦)
4.苦しみを消滅させるための真の道 (道諦)

 この四聖諦は、二つの因果関係からなっている。まず2が原因となり1が結果として生まれ、4が原因となり3がその結果として生まれる。四聖諦を正しく理解するために、それぞれの真実に4つずつの性質 (四諦十六行相) があることを、順番に詳しく考察する必要がある。

◎四諦十六行相
1. 苦諦四相:無常*1、苦、空、無我
2. 集諦四相:因(原因)、集(起源)、緣(条件)、生(生気)
3. 滅諦四相:滅(消滅)、静(平静)、妙(吉相)、離(出離)
4. 道諦四相:道(修道)、如(理に適っていること)、行(達成)、出(解脱)

*1無常には二つのレベルがある。粗なレベルの無常とは、全ては変化していくということであり、微細なレベルの無常では刹那滅、つまり全て存在するものは、必ず生じると同時に消滅することである。すべてのものは刹那に生滅しているにもかかわらず、無明のために物事を正しく認識できないので、ものがずっと続いて存在していると思い込み、それに執着し苦しみを感じるのである。全てが刹那滅であり空であることを意識し、四聖諦を正しく理解して、「単一・永遠・実体をもった存在」があると思ってはいけない。

※ 語句の説明はややとばしぎみだったので、仏教語辞典を引いて確認してください。四聖諦については『ダライ・ラマの仏教哲学講義』(大東出版社)などが参考になります。

 サンスクリット仏教(厳密にいうと唯識思想を説く経典『解深密経』)の哲学では仏の教えを三種類に分類(三転法輪)する。

◎三転法輪
1.第一法輪 四聖諦・十二支縁起の思想
2.第二法輪 般若思想 → 無我と空の哲学。四聖諦の滅諦にあたる。
3.最終法輪 唯識・如来蔵思想 → 心の本性は光である

 ※ここで、パーリの四諦十六行相の話が長すぎたため、時間切れになり、三転法輪どころか、第二のテクストに入れないことに法王は気づき、道諦の説明が終わると同時に、いきなり、『般若心経』のマントラ、ギャーテー、ギャーテーハーラーギャーテー、ハラサンギャーテー、ボーティーソワカに話を飛ばし、これが唯識のとく五道と対応関係にあると説かれた。

◎『般若心経』のマントラ部分と五道の関係
(1)ギャテー (gate)、資糧道
(2)ギャテー (gate)、加行道
(3)ハラギャテー (pāragate)、見道
(4)ハラソウギャテー (pārasaṃgate)、修道
(5)ボウジソワカ (bodhi svāhā)、 無学道

 非仏教徒と仏教徒の違いは仏教徒は三宝に帰依し、非仏教徒はしないことだ。

 まずテーパ(dad pa)とは、崇拝対象に集中する信心だ。仏教徒なら三宝、キリスト教徒なら神に対して一心に信仰する、あの信心だ。
 それに対してムーパ(mos pa)は、教えの内容に確信を得た上での信心である。仏はこうおっしゃった。「私の教えであっても金の真贋を確かめるように吟味し、その結果正しいと思ったら初めて信じろ。私が言ったからという理由で信じてはならない。」と。

 四聖諦を十六行相に分けて考察することは理解を深める。瞑想の方法についてはパーリ仏教は37菩提分法を説く。このパーリ仏教の37菩提分法を五つの修行道と対応させると以下のようになる。

◎37菩提分法とは
(1) 四念處 → 資糧道
(2) 四正勤 → 資糧道
(3) 四神足→ 資糧道
(4) 五根→ 加行道
(5) 五力 → 加行道
(6) 七覚支 → 見道
(7) 八正道 → 修道

 ナーガールジュナの『中論』によると、仏は生涯に12の行いをした。悟りを開いた後には、空の教えを説いた。しかし、空の教えは簡単なものでなかったため、一時的に四聖諦と十二支縁起を説いたという。
 十二支縁起は無明から行が生じ、次に識が生じ、というように次々に因果が連なり、最終的には、老衰と死に至る苦しみの生じる因果関係である。このように原因が結果を生じていく過程を観察することを順観という。これに対して、無明が滅すれば、行が滅し、行が滅すれば識が滅するというように、原因を無くすことによって結果がなくなり、最終的には苦しみがなくなると観察することを逆観と言う。
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4月12日 午後の部

 般若系の経典には大中小のものがあり、そのそれぞれの中にも大中小がある。
 大般若の大とは漢訳にしか残されていない『大般若経』である。昨日総持寺に伺ったとき、そこではこの大般若を今でも少しずつ読誦していると聞いた。大般若の小は 『十万頌般若経』である。中般若の大は 『二万五千頌般若経』 、中般若の中は 『八千頌般若経』である。最後に小般若の大は 『金剛般若経』、小般若の中は 『般若心経』、小般若の小はたった一文字の、Ahである。

・第二法輪においては、空の哲学(般若思想)が説かれた。これは四聖諦では滅諦にあたる。『中論』の第18章第5偈に「行為(業)と煩悩を滅ぼすことによって解脱することができる。行為と煩悩は誤った判断(妄分別)から生じる。そして誤った判断は戯論(けろん。物事を区別しレッテルを貼っていくこと)から生じる。その戯論は空性によって消滅させられる。」とある。この解釈には二つの説があり、一つは、「空性を悟ることによって戯論は消滅する」という解釈。もう一つは私のラマ(クヌ・ラマ)の「戯論が空性という法界の中に溶け込んでなくなる」という解釈である。クヌ・ラマから「心の本質である空性を悟ると、心が本来は光り輝く本性をもつので、心の汚れは本来存在しないものであることが分かる。したがって、空性という法界と一体になるのだ」と教えられた。

 心の本質は光であり、汚れは一時的なものであり、心の汚れを対抗手段(対治)によってなくしていくと、本来の光明としての心が現れるのだ。

・第三法輪では、認識対象である外界の存在が空であるので、それを把握している認識主体もまた空であることになる。しかし、唯識思想は、このような認識の主客の現れは、「根源的な意識」(アーラヤ識)によって生み出されたものであり、その現象的な意識が再びアーラヤ識に結果を残すという因果関係を説き、この「根源的な意識」は「真実に存在する」と説いた。しかし、中観派の見解では、このような「根源的な意識」の実体的な因果関係は認めず、認識の主体も客体も、全て真実には存在しない空なるものであると説く。

「土台→修道→結果」という伝統的な分類に基づいて説明すると、土台は人間を構成する五蘊、十二処、十八界などの法であり、修道は六波羅蜜行であり、その修行によって得られるものが仏陀の境地となる。これを仏の身体の分類にあてはめると、順に「化身→報身→法身」となる。

 『般若心経』は直接的には「空」を説くが、その行間で間接的に「方便」も説いている。『般若経』の注釈書である『現観荘厳論』はそのことを「菩提心を持ち五道を修行すると仏になる」と説いている。「方便」は、菩提心に支えられて初めて仏陀の境地という結果に至るのだ。空の哲学(中観思想)を理解し、六波羅蜜を修行し(方便=菩提心)、仏の境地に至るのだ。智慧を極めると仏の法身が、方便を究めると仏の色身(報身と化身)が得られる。

 説一切有部と経量部の見解では、「人」は、五蘊・十二処・十八界の上に仮に名付けられただけで、その実体は存在しないという「人無我」を説く。

 唯識の見解では「人」ばかりか「存在するもの」(法)すべてに実体がないという「法無我」を説くが、「根源的な意識」(アーラヤ識)の因果関係は実体として存在すると説く。
 しかし、〔これはさらに中観の見解によって否定される。〕青をみると「青」という意識が生まれる、しかし、意識の対象である「青」がなくなるとその意識も消えるので、〔対象の青も意識も相互関係の中で名付けられただけのもので〕実体・本質がないのである。

 『般若心経』にある「五蘊もまた空なり」という句の「もまた」の語句は(漢訳には訳出されていない)、何かに何かが加えられたことを意味するが、それが何であるかについては二通りの解釈がある。一つ目の解釈は第一法輪で説かれた「人無我」に加えて、第二法輪では、「法無我」を説いているという解釈である。この場合は、人と名付けられる元となっている五蘊という存在(法)「もまた」空である、という意味になる。

 もう一つの解釈は、五蘊という存在は、人が存在することによって存在しているので、最終的には五蘊もまた人に依存していると考えられる。相互に依存しているということは、一方が空であれば、他方も空であることになる。つまり人が無我なのだから、五蘊「もまた」無我である、という解釈である。

 『般若心経』は、「すべてのものは何かの集積物に名前をつけただけのものであって、その実体を探しても、どこにも見つけることが出来ない」と説く。これは量子力学によって存在を構成する本当の物質を探して、いくら物質を分割していっても、どこにも最終的な物質を探し出すことが出来ないのと似ている。インドの量子力学の科学者ラージャナンダというものが、仏教徒の考え方と量子力学の考え方は同じであると言った。ナーガールジュナは科学が成立するはるか以前に「存在するものがそれ自身の性質によって成り立っていない」と説いた。ちなみに、このことは世間的な意味で「ある」ということを否定していない。何ものかに依存して存在すること(縁起)を空といっているのだ。

 色即是空、空即是色の解釈は以下のようである。すべてのものは何かに依存して存在しているが故に、たとえば、部分は全体に、全体は部分に依存しているが故に、それ自体として成立しているものではない。これが「色即是空」である。それに対し「空即是色」とは、「それ自体で存在していない、空なるものであるが故に、全てのものは存在することができる」という意味である。存在と空とは一つのコインの裏表のように、表裏一体であり、一つの真実のあり方を二つの側面から述べているのである。

 ところが我々は、無明のせいで、この空である存在を実体視して、それ自体で存在していると思い込んでいる。この無明は「物事が真実に存在すると執着する」根本煩悩である。

 中国語の祈願文の中に、「〔対象を実体視することによっておきる心の中の悪い性質〕三毒(三大煩悩=貪・嗔・痴)をなくすことができますように。智慧が増えますように」とあるように、業と煩悩を滅することによって解脱することができる。業と煩悩は誤った判断から生じ、誤った判断は戯論から生じ、戯論は空性によって消滅させることができる。

 ナーガールジュナは『中論』第18章第5偈で、「戯論→誤った判断(妄分別)→煩悩→業→輪廻」という因果関係を説く。従って、空性を理解することによって戯論を止滅させると、この連鎖は断ち切られ、輪廻からの解脱が可能となる。

 業と煩悩によって人はこの世に何度でも生まれてきてしまう。97才になるアメリカ人の心理学者が怒りの強い患者をみていた。彼は強い怒りが心の中におきた人は、90%対象を見誤ると説くが、ナーガールジュナははるか昔に同じことをいっている。

 空の哲学を心に繰り返しなじませて確信し、〔空そのものになりきるように〕心を変容させていけば、怒りや執着はだんだん減っていき、最後は輪廻から解脱できる。これは実在論でも虚無論でもない。この両者は空を理解していないのである。空を理解することで、「苦しみの原因は自らの煩悩である」と理解できるようになる。この考え方は、仏教徒にも他の宗教の信徒にも無宗教の徒にも役に立つものである。漢文の祈願文にあるように、智慧を育むことによって、全ての煩悩を消すことができるのである。

 「ものが実体をもって存在している」ととらわれている意識 (無明)は智慧によってしか消すことは出来ない。「無我」を理解することによって、「無明」という根本煩悩を無くせば仏の境地(涅槃)にいたる。

 これは瞑想(禅定)の力のみではできることではない。「無我」の意味をきちんと理解し、心になじませなければいけない。「人無我」にも粗いレベル(全ての仏教の学派に共通の人無我の理解)と微細なレベル(中観帰謬論証派の人無我の理解; 微細なレベルでは、人無我と法無我は単に対象が人か法かの違いであって、無我の本質は同じである)があり、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ著の『入中論』も、「仏教の修業者なら、無我の哲学を学ばねばならない、人無我だけでなく、法無我も学ばねばならない」と説いている。空の意味を理解すれば煩悩を克服できる。

(2)第二テクスト『菩提心釈』

 テクストの冒頭にある七行は『秘密集会タントラ』第二章の菩提心句である。冒頭の句の二行目と三行目で説一切有部と経量部の説を唯識思想によって論破し、三行目と四行目は中観によって唯識の意識の実在を論破している。

 〔密教の見解について言えば四タントラのうち最上位の〕無上ヨーガタントラでは、大楽と空が一体(楽空無別)となることを目指す。大楽とは「空性を理解する智慧」であり、空はその対象だが、楽空無別とは、その智慧と空とが一体となって区別されない境地を意味する。このとき、心は真理としての光明そのものになる。これは最も微細なレベルである。

 これを悟るプロセスは、睡眠のプロセスと似ている。覚醒時の意識は粗いものであるが、段々と深い睡眠に入っていくと意識は微細になってゆき、死ぬときに一瞬意識がいたる境地はもっとも微細なものである。誰にでもおこる死のプロセスは、修行の中で覚りに向かうプロセスと極めて似たものである。

 だから、死ぬときに微細な光明の意識を持てるように、平時から覚醒した意識で空を理解しなければならない。

 秘密集会タントラは、〔仏になるための二つの資糧である方便と智慧のうち〕方便である幻身を重視することを特徴とする。幻身は、衆生を救うための仏の色身の元になる。幻身は世俗の世界で衆生を救うために目に見える姿をしているが、我々の肉体とは異なり、幻のような清浄な物質で出来ている。幻というのは、空のことに他ならない。一方、空性を悟る智慧は、楽空無別の意識となって、仏の真理の体(法身)となる。〔そして仏の境地はこの仏の色身と法身がそろって完成するのである〕

『菩提心釈』の構造を簡単に述べよう。
1聯目から3聯目はナーガールジュナの思想をまとめている。
4聯目から9聯目は説一切有部と経量部に基づいて非仏教徒を論破している。
10聯目から24聯目までは唯識に基づいて説一切有部と経量部を論破する。
25聯目から42聯目までは中観によつて唯識を論破する。
45聯目から中観帰謬論証派によってそれ以外の立場を論破する。
存在するものは、他のものとの相対的な関係の中で、たまたま名付けられただけのものにすぎず、それ自体で存在するものではない。
73聯目以降は、利他をなそうとする菩提心が大事だという話。
才能ある者(利根)は空の哲学から菩提心をはぐくみ、才能がない人 (鈍根)は苦しみから逃れたいという思いから空を理解しようとする。
煩悩を除き、煩悩の残した習気を滅することによって所知障を無くすことができる。
心の資質が大事である。悪業を積んではならない。大悲を育んで行かねばならない。
86聯目では、他者の身になって考え、利他心を培うべきことを説いている。
それ以下は菩提心を修行して得られる良いこと(ごりやく)である。

4月13日 午前の部 

日本語で『般若心経』 法王は昨日に引き続き『現観荘厳論』の開経偈を読誦。
午前に観音菩薩の灌頂が行われたあと、午後は第三のテクストと第四のテクスト。

(3) 第三テクスト『修習次第』(ゴムリム)

 ゴムとは瞑想(修習)、リムとはその階梯なので、題名の通り、テクストは瞑想修行についての書である。カマラシーラの著作である。

 仏道修行をしていく段階を述べると、まず仏法を聴聞し(聞)、次にその内容について自ら思索をし(思)、理解しただけでは身に付かないので、繰り返し心になじませる(修)必要がある。「修習」とはこの三つの段階(三学)の最後にあたる「瞑想修行」のことである。

 瞑想修行には二種類がある。一つ目は心を瞑想の対象に同化させていくもので、たとえば、慈悲や菩提心を瞑想するとき、自分の心を慈悲や菩提心に馴染ませ、それになりきるように心をトレーニングすることがこれにあたる。

 それ対して、無常や無我といった、物事の真のあり方を対象に瞑想するときには、心はすでに無常で無我なものだから、それになりきる瞑想を行う必要はない。しかしだからといって私たちは自分の心が無常であることや無我であることを理解していないので、心を集中してその意味を繰り返し考えていかなければならない。二種類目はこのような対象について分析的に考察する瞑想である。

 どちらの種類の瞑想をするとしても、まず最初にそのような瞑想修行をするメリットとデメリットを知っておく必要がある。瞑想修行のメリットを知ることによって、それを何としても自分の心で実現したいという意欲・意志が生まれてくるからである。そのような意欲があることによって、継続して、あるいは精進して瞑想修行を実践して自分の心を慈悲や菩提心に同化させたり、無常や無我の微細な(深遠な)意味を正しく理解したりすることができる。

 このような瞑想修行は、普通の意識で分かるようなことではなく、微細なレベルの対象について瞑想する必要がある。普通の意識で分かるようなことは、心を集中し、持続的な努力をして瞑想する必要はないからである。たとえば、四諦十六形相の最初の項目である、苦諦の無常という性質を瞑想するとき、その無常には粗いレベルの理解と微細なレベルの理解がある。粗いレベルでの無常の理解は「物事が移り変わっていく」ということでしかないが、微細なレベルの無常の理解とは、「正しい論証因に基づいてあらゆる事物が生じると同時に消滅するという刹那滅をしている」と理解することである。そしてそのように論理的に理解したことについて、意識を集中して繰り返し心をトレーニングすることによって、頭で理解するのではなく、全てのものが刹那滅しているということを直接的に目の当たりにするまで行かなければならない。

 また例えば心を慈悲深くさせていく瞑想修行では、好ましいものだけに向ける慈悲や部分的な慈悲ではなく、仏の無縁の大悲(敵・味方関係なくすべてに向けられる慈悲)を分析的に理解し、その上で意識を集中して無縁の大悲を心に思い描き、最終的に完全に自らの心を無縁の大悲そのものへと変えていかねばならない。

 サーンキャ哲学、ジャイナ教、仏教は神を認めないが、このうち、サーンキャ哲学とジャイナ教は「自我というものが実体として存在する」と主張するのに対し、仏教は「全てが何かに依存して(縁起)存在しており、確固とした実体的なものは何も存在しない」と主張する点で、他とは異なる独自の哲学を持ち、それは全ての仏教徒が認めている。縁起の理解については、「原因から結果が生じる」というような因果関係の粗いレベルの理解もあるが、より微細なレベルの理解としては、「原因と結果は、それぞれお互いに依存している。結果があるから原因というものがあり、原因もまた結果を生み出すから原因といわれる。原因と結果は相互依存の関係の中で相対的に名付けられた存在である。これのみならず全ての存在は相互に依存して相対的に名付けられた存在である」というものである。この微細な縁起の理解は、中観派に独自の考え方である。

 瞑想修行を昨日話した土台(シ)・修道(ラム)・結果(デプ)という三つの段階と関連づけて説明することもできる。

◎土台(シ)においては、物事の真のあり方を「分析的な瞑想」(観)によって詳しく考察し、正しく理解する必要がある。たとえば、全ての存在は、「原因によって生じたものでない普遍的なもの」 (無為法)と、「原因によって生じたもので、それが同時に次には他のものの生じる原因となるもの」(有為法)に分けられ、後者はさらに「心」と「物質」と「心でも物質でもなく原因によって生じてきたもの」(色心不相応行 ※たとえば人がこれにあたる。人は心でも物質でもないが、しかし原因によって生じているから。)に分けられる。

 仏教は「心の科学」とも言える、心についての詳しい考察と理解の体系であるため、現代の科学も仏教の考え方に関心を寄せるようになっている。このような存在の様々なあり方や分類、その意味について、論理的に正しく理解していく必要がある。

 ◎次に修道(ラム)においては、慈悲や菩提心を方便と関連づけて瞑想修行し、自らの心を慈悲や菩提心そのものにしていく必要がある。智慧と方便の二つを踏まえて、結果の段階で仏の二つの体、すなわち智慧の体である法身と、方便を実現する色身という二つの仏の身体を獲得するのである。

 私たちが目指す一切知者の境地の原因は菩提心であり、その菩提心の原因は慈悲の心である。すべての衆生がこの輪廻の中で苦しんでいることを知れば、それらの衆生を憐れみ、その苦しみから救いたい、という慈悲の心が生まれる。そしてそのためには仏の身体を獲得しなければそれら苦しんでいる衆生を救済することはできないと考え、苦しんでいる一切の衆生を救うためには覚りを目指そうという菩提心が生まれてくる。

 「正しく理解する」と言うことは「論理的に証明できる」ということだ。たとえば、「我々は始まりのない過去からずっと輪廻している」ということについて、ダルマキールティという論理学者は、『量評釈』という著作において次のように論証している。

 「我々は心と肉体という二つのものから出来ている。肉体は物質的なものであり、心は非物質的なものである。いずれも一瞬一瞬生じては滅し、前の瞬間のものが原因となって次の瞬間のものが生じてくる。この原因と結果は、同種類のものでなければならない。物質的なものから精神的なものが生じることはなく、精神的なものから物質的なものが生じることもない。物質の因果の連鎖と、心の因果の連鎖は別個のものとして存在している。人間の肉体は死ぬときに消滅し、受胎したときには新たな物質として生じてくる。しかし、心はどうであろうか。心が新しく生じるためには、同じ心の連鎖が原因とならなければならないが、人間が生まれてくるときに心の原因になるものは心でなければならないのに、受胎したときに生じるのは物質的な肉体だけである。したがって、心は生と死の間で途切れることなく因果の連鎖を続けていると考えなければならない。死ぬというのは物質的な肉体が滅びて別の物質(たとえば焼かれて灰になる)になっていく。しかし、心は肉体が死んでも、因果の連鎖は途切れることがない。そして受胎したときに次の新たな肉体と一つになって、赤ん坊として生まれてくるのである。こうして我々の心には始まりも終わりもなくずっと一瞬一瞬生じては滅する心の因果の流れとして輪廻をしながら続いているのである。」
 『量評釈』の中では輪廻が以上のように証明されている。

 また、苦しみについて考えてみよう。釈尊は苦しみに三つの種類(三苦)があるとおっしゃっている。
 一番目は「苦痛に基づく苦しみである」(苦苦)。これは心身の苦痛を指すものであり、生きとし生けるもの、みなが直接的体験的に知っていることである。
 二番目は、「変化していくことの苦しみ」(壊苦)。どんなに幸福な状態にあっても、それは長続きしない。輪廻の中では幸福はいつでも不幸に転じてしまう。すべてのものが変化していくものだからである。苦痛だけではなく、幸福な状態も苦しみに変化するという、変化することが苦しみであると知ることができる。
 三番目は、「変化することだけではなく、我々が無明によって行為することによって全てのものが普遍的に苦しみの性質を持っている」ということである(一切行苦)。我々の行為は、善行を行ったつもりでも、無明を持っている限り必ずその行為は我々を輪廻に縛り付ける原因となり、苦しみの原因となる。この普遍的な苦しみは最も微細なレベルの苦しみである。このようなことを正しく論理的に理解していく必要がある。

 話を瞑想修行に戻そう。瞑想修行をする目的は、正しい理解に基づいて、それを自らに身に付けていくことであるが、そのとき、それを支える菩提心が必要である。菩提心がなけば、正しい知識は、ただの知識になり、仏教である必要はなくなる。その菩提心には、世俗の菩提心と勝義の菩提心の二つがある。世俗の菩提心は、一切衆生の苦しみを憐れみ、それを救おうと考えて覚りを目指す心である。それに対して勝義の菩提心は、そのよなう菩提心に支えられて、空についての正しい理解を持つことである。菩提心に支えられて空についての正しい理解を得るための瞑想修行をすることが勝義の菩提心である。

 前述したように、瞑想修行には精神を対象に集中させる瞑想(止)と分析的な瞑想(観)の二つがある。まず心を集中して、その上で空についての論理的な考察を行うが、このとき止と観は一体となった状態で、意識を集中して考察する必要がある。その方法がこの『修習次第』に説かれている。

 まず、自分の前に如来のお姿を瞑想し、それに意識を集中していくように訓練する。その際に集中が乱れる二つの要因がある。一つは「興奮状態になって意識の対象から注意が逸れてしまうこと」である。もう一つはその反対に「気持ちが沈み込んでしまい、瞑想の対象を見失ってしまうこと」である。そういうときは気分を変えて意識を明瞭にして、瞑想の対象に意識を集中できるようにしなければならない。たとえば、自分の前の目の高さよりも少し高いところに、3cmとか5cmの小さな如来を瞑想することが役に立つ。意識が沈み込んでいるときは、少し上を向くことがよく、またあまり大きい対象を考えると意識が集中しないので小さい方がいい。

 この心を集中させる瞑想修行が完成するまでには九つの段階がある(九種心住。一々の項目についてはツゥルティム・ケサン、小谷信千代『ツォカンパ著仏教瑜伽行思想の研究』を参照)。完成段階においては、努力しなくとも心を平静な状態に保て、心ばかりか体も柔軟で軽やかで安楽で自由になる。心の集中が実現したら、その状態のままで分析的な瞑想にうつり「全ての存在が無我である」ということを考察し理解せねばならない

 大乗仏教徒である我々は、菩提心を生じたときに資糧道に入り、菩提心に支えられて空について瞑想修行して、空を理解したときに加行道に入る。さらにその理解したことを繰り返し心になじませて、完全に習熟し直観的に空を体得したときに見道に入ることになる。そのとき同時に、菩薩の十地の初地に入ることができる。そして菩薩の初地から第七地までの修道の間に、煩悩という覚りの障害(煩悩障)を徐々に取り除いていく。そして菩薩の第八地から第十地にかけて、過去の煩悩が残した潜在的な煩悩の可能性である習気(じっけ)、これが所知障(一切知に対する障害)と言われるものだが、これを完全に消滅させることができて、晴れて仏の境地である一切知に到達することが出来るのである。

 以上が『修習次第』中篇に関連した止観の瞑想修行の要点である。


※最後に『修習次第』のテクストを理解するため簡単な用語解説。

 大前提に方便と智慧という概念があり、方便に支えられた智慧によって一切知が得られる。方便と智慧は一体でなければならない。それぞれのカテゴリーに属する者を整理すると↓

方便→ 慈悲 / 菩提心 /  六波羅蜜の最初の五つ(布施・戒律・忍辱・精進・禅定)
智慧→ 般若 / 六波羅蜜の最後の一つ「智慧」

・六波羅蜜の禅定の中に止(心を安定させる瞑想)・観(分析的瞑想)がある。この二つが備わってはじめて完璧な智慧に至れる。

・瞑想中には落ち込み(惛沈・こんじん)・昂ぶり(悼挙・じょうこ)という二つ邪魔が入るが、これらをなくしていくと止が完成する。禅定の中には密教の成就法などの瞑想もある。

※ 第四のテクスト、ミトラゾキの『三つの心髄』についても解説はあったが、これは密教の成就法で、実践を文字におこしてもしょうがないので割愛させて頂く。

 以上である。本エントリーは手書きメモをおこしてダンナにチェックしてもらって作成したが、誤解・不正確・遺漏は多々あると思うので、気づいた方はご指摘戴ければと思う。繰り返しになるが、今回の法話は明らかにかなり総括的なものである。一人でも多くの方が今回の法話で仏教に親しみ、日々の瞑想に入られんことを。その際にこのメモが少しでもお役にたてればと思う。
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