白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/09/21(木)   CATEGORY: 未分類
2017年秋のチベット・イベント
ダライ・ラマ法王の来日日程とその前に行われるアジャ・リンポチェの出版来日講演についてまとめました。国技館で三日間にわたる法話・講演が中心です。アジャ・リンポチェはダライラマの一番上のお兄さんタクツェル・リンポチェが座主を勤めていたクンブム大僧院の僧院長をつとめられていた方で亡命された後はやはりタクツェル・リンポチェが開いた「チベット・モンゴル仏教文化センター」を継承されてモンゴル人チベット仏教徒の信仰を集めている方です。

●アジャ・リンポチェ 自伝出版記念講演会
アジャ・リンポチェ( Arjia Rinpoche / 阿嘉胡圖克圖)は 1950年、チベット東北部(現青海省)の遊牧民の家に生まれ、2歳でツォンカパ(ダライラマの宗派の創始者)の父の転生者アジャ・リンポチェに認定される。文化大革命で還俗を強要されるも、中国宗教委員会副委員長として地域の文化の保全に尽力し、モンゴル人・チベット人の信仰を集めた。しかし、パンチェンラマの認定を中国政府から強要されたため、1998年、米国に亡命した。このたびは彼の亡命に至るまでの中国での生活を描いた『龍の国で生き延びて』(Surviving the Dragon)の和訳が出版されることを記念しての来日講演です。著書の売り上げは、アジャ・リンポチェがウランバートルに開設した小児ガンの病院に寄付されるとのことです。

【日時】10月15日(日)
10:00 法話会 (通訳は平岡宏一 清風学園校長です)
12:00 休憩(併設する食堂でお弁当)
13:00 出版記念講演
【会場】清風学園 (大阪市天王寺区石ヶ辻町12-16) 中央館1階「ラカンホール」
・ 近鉄 阪神「大阪上本町駅」下車⑫⑬⑭出口(徒歩約3分)
【参加費】お一人様2,000円 (午前午後共通・昼食弁当付き)
【参加お申込み】osaka@arpc8.net
 ※ お問い合わせ 講演会実行委員会・事務局 TEL:050-5215-6040

●ダライラマ法王 東京講演 法話・灌頂 
【日時】11月11日(土)13:00〜15:00 『縁起讃』『修習次第(中篇)』法話
    11月12日(日)9:00〜12:00 『縁起讃』『修習次第(中篇)』法話
    11月13日(月)9:00〜12:00  聖観自在菩薩の許可灌頂
【会場】東京両国国技館(お相撲やっている所です)
【詳細は】ここ←
【テクストpdf】http://www.tibethouse.jp/news_release/2017/170831_donation.html

●ダライ・ラマ法王 福岡講演会 『生老病死〜般若心経を通じて』
【日時】 2017年11月14日(火)13時〜15時(受付 11時〜12時)
【会場】福岡サンパレスホテル&ホール
【主催】ダライ・ラマ法王仏教講演会福岡実行委員会
【詳細】ここ←

●ダライ・ラマ法王 熊本講演会 熊本地震復興祈念企画
【日時】 2017年11月15日(水)10時〜12時
【会場】熊本ホテルキャッスル 2階 キャッスルホール
【主催】ダライ・ラマ法王熊本仏教講演会実行委員会
【詳細】ここ←
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DATE: 2017/09/19(火)   CATEGORY: 未分類
ただの亀ではなかった(鴨里シリーズ6)
  会長の家で目を覚ますと、外は小雨である。台風18号は九州に上陸しているようで、本日の目的地のうち最初の天明志士の碑のみが露天なので、会長先生は参加者がぬれないように、急遽碑文下の大宮寺の位牌堂をあけてもらう交渉をされている。
 会長先生曰く、「自分が、自分が、という人がおらず、皆が自然に動いて協力してくれて本当に助かります。」。

 今回バス旅行は訪問先の三カ所でも近在の方にスポット参加していただける構成になっており、事務局の高田さんは、「町内会でチラシを配布しましたが、農繁期でもあるし、何人集まるのか本当に読めない」と心配しておられる。
わたしは会長先生のお車にのせていただいたので、最初のスポットである天明志士の碑に直接いく。今回「益習の集い」の役員の方たちは、そろいのハッピをあつらえており、何か本格的になってきている。 

最初の訪問ポイントは「縄騒動」と呼ばれる1782(天明二年)におきた淡路最大の百姓一揆の蜂起のあった場所。四国大学の太田剛先生によると、当時悪徳役人が税として収めさせていた縄の品質管理をいやがらせに細かくしたため、百姓たちが蜂起したのだが、役人の方が悪かったので、一揆を呼びかけた百姓(才蔵、清左衛門)たちは罪を問われないと決まった。にもかかわらず、徳島藩からの連絡が遅れたため、二人は処刑されてしまった。人々は自分たちのために命をおとした才蔵たちを忘れないため、人形浄瑠璃で語り継いでいたが、さすがに幕末にはみな忘れかけていたところ、明治の世になり自由民権運動が勃興すると、地域の百姓一揆は民主主義精神の萌芽として再評価されるようになり、ここ淡路の縄騒動の才蔵たちを顕彰する碑文が、板垣退助ならびに蜂須賀最期の殿様茂韶公によって建設されるとなったという。
天明志士子孫

 何と才蔵の直系の子孫鯉森さんがお見えになられていた。人々のために命をなげうった方のご子孫だけあって穏やかで性格のよさそうな方であった。写真は碑文の前の太田先生と鯉森さん。

 次の目的地である延命寺においては、再び太田先生から沼田存庵(1825-99)の書「死人口上」についての解説を伺う。存庵は鴨里の実兄砂川藍谷の弟子で、華岡青洲に西洋医術も学び、彼の四男ならびに門下生11人は新政府の私費留学生となって明治維新に貢献した。
死人口上

 存庵の弟、苔堂はイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の日本語教師で、アーネスト・サトウの記した『一外交官の見た明治維新』にも登場する人。その関係でサトウは徳島藩主にも謁見している。沼田存庵のパパ丈庵は漢方医であったが、ご先祖、鴨里が伝を書いている。

 で三番目のポイントがいよいよご先祖の眠る栄福寺である。まず、鴨里、真、文平の岡田家三代のお墓のある山にあがる。三年前はじめて太田先生とこのお墓をおとずれた時は、墓は竹林の中にうもれていて、文平の墓石は真っ二つにおれて地面に落ちていた。しかし、ご住職はその後、このお墓を整備してくださったため、今回は見違えるように美しく生まれ変わっていた。ふもとのため池と掃部の地が見渡せるように、周辺の竹も刈られていた。
鴨里真文平墓

 ここで鴨里の孫、真の墓誌を見ていた太田先生が「よくみたら真の墓誌は存庵の書です」とおっしゃる。存庵の書をみたあとでここにきたので結びついたのであろう。云われてみれば筆跡が同じだ。

 続いて本堂で賴山陽と岡田鴨里の歴史的意義と、ご先祖お導きネタについて私が話す。高田さんの懸念にも関わらず、本堂は人で一杯。台風で農作業できないもんな。
 
 ご先祖パワーネタについてのみ要約すると、曾祖父終焉の地は東京浅草の海禅寺である。このお寺は振袖火事で焼けたあと、徳島藩主の蜂須賀公が再建資金をだしたことから、阿波様寺と呼ばれていた。しかし、関東大震災で焼け、東京大空襲でさらに焼けもう何も残ってないだろうと放置していたのだが、今年に入ってふと訪問しようという気になった。五月、アポイントも何もとらずふらっとお寺にはいると、丁度ご住職が禅堂に風をいれていたので、突撃取材をした。すると、江戸時代の過去帳は燃えたものの写しがあるので調べてみますと暖かいお言葉を頂戴し、この経緯は前のエントリーで話した。これからあとは書いてなかったが、数日後に、本当に曾祖父真の過去帳の記録をその部分だけコピーして送って下さったのである。
そこには、明治九年

覺心院尚古顒斎(ぎょうさい)居士 十一月一日死
岡田真殿事元阿州旧臣
朱引内ニ付智光院エ埋葬佛×
之義者当山ニ而可致事


と書いてあったため、智光院(昔は海禅寺の境内にあったが、現在は高円寺の方へ移転)にうかがつた所、こちらは戦災に遭わなかったため、当時の過去帳がそのまま残っていた。
 智光院のご住職によると「院号がついているということは高い格式で葬られた」とのことなので、真は若干30才でなくなったにもかかわらず、大学者鴨里の孫ということで、大事に送られであろうことが分かった。

 そして、6月11日、益習の集いの会長先生が所用で上京された。上野の林光院に蜂須賀家の江戸屋敷からうつしした唐門があるので、それをご覧になりたいというので、「笹乃雪」で昼ご飯した後、海禅寺も上野から歩いて15分なので、蜂須賀ゆかりのお寺だから参拝してみませんか?とお誘いしてみた。
 ご住職によると海禅寺の境内は江戸の頃よりもはるかに狭小になっており、墓地もみな整理して蜂須賀家のお墓は昔は大きな納骨堂があったが今は老朽化したのでそれも取り壊したとのこと。
 前のエントリーでも書いたように、このお寺には梅田雲濵のお墓と、亀にのった享和二年(1802)の碑文があったので「会長、会長、この亀古いんですよ」とご案内する。

亀の碑文はかなり損傷が激しく、戦災や震災に何度も焼かれた感じであり、後ろの方は剥落がはじまっている。会長は「村井道明さんが亀趺のついた碑文を研究されているので、喜ぶわ」と写真をとりまくっていた。すると翌日、会長から
「村井さんによるとその亀碑文は10代目徳島藩主重喜の奥立花氏の墓ですよ。屋代弘賢(1758-1847)の著した『白金荘記』(蜂須賀家家の白銀台の屋敷の様子について記した書)という稀覯本に、この碑文がで出てくるそうです」とのメールがきた。村井先生は「かつては蜂須賀家の屋敷内にあったその碑文は、今どこにあるのか探していた」とのことで、そんな亀であったとは。相変わらずご先祖様が絶好調である。

 私の次は奈良の仏師の松永忠興さんの講演。栄福寺様が所有のお釈迦様をこの方の工房に修理にだされたところ、顔と胴体は平安仏であることが分かった。そこで、平安仏の部分は白木のままにして、朽ちた手足の部分は補いきれいに彩色し、光背、台座ももちろんきれいに色つきで新調し、古い姿を残すと同時に信仰の対象としても痛々しくない姿に復元した、というありがたいお話。

 さらに面白いのは、その過程で本尊様の脇士となつていた十二神将もすす払いをしてみたら鎌倉時代のものであることが判明したという。栄福寺の歴史よりも古い仏像があるということは、過去の栄福寺のご住職が近所で廃寺になったお寺の仏様をひきとって、その時代時代の修理をほどこして代々お祀りしていたとしか解釈しようがない。それは竹藪にうもれていた鴨里三代のお墓を整備してくださった当代のご住職の精神にも通いあう。

 何度もやけた海禅寺とは異なり、戦災のなかった(1995年の震災はあったけど)淡路島には、まだまだ古いものが埋もれている可能性がある。ご住職は修復なったお釈迦様のご真影と、境内にあったヤマモモの木からつくった念珠を参加者に下賜してくださった。
念珠平安仏

 このあと、洲本でうちあげがあったのだが、時間があったので海をみにいったら、サーファーが五人ほど波をまっていた。瀬戸内海だし防波堤内なのでまともな波はきていなかったが、翌日NHKつけたら洲本港で台風中継をやっていた。本当に一日ずれたらこの企画は悲惨なことになっていた。会長先生が「何かに護られている」というのも宜なるかなである。

 うちあげ後、太田先生に徳島空港まで送っていただき、一時間前に空港についたものの、台風で徳島にくる飛行機が羽田にも戻っていないというふざけたアナウンスがある。「ちょっと待て、これ最終便だよ。これが神戸空港なら新幹線で帰ることもできるけど、徳島空港だよ、どうするんだよ、ご先祖様、何とかしてください」とお願いしたら、とりあえず一時間半以上おくれて飛んでくれて、零時ちょっと過ぎに家にたどりついた。

 ご先祖様ありがとうございました。そして、関係者のみなさまお疲れ様でした。
 
 
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DATE: 2017/09/18(月)   CATEGORY: 未分類
「香りの館」と高田屋嘉兵衛
 「益習の集い」さんから、「淡路島偉人探訪」というバス旅行を計画したので、ご先祖岡田鴨里のねむる栄福寺でお話してくれないか、との依頼があり、気軽にひき受けた。しかし、その時は前後に淡路島でゆっくり過ごす気でいたが、ごろう様が他界され、その後、里子にでていた二羽の雛オカメを育てることとなったため、二日間の弾丸ツアーとなった。
濃い二日間だった。

 バスは朝9:30洲本港出発なので、前の日に淡路島に入っていなければいけない。そこで前日、15日に羽田空港につくと、空港ロビーのテレビはNHKの北朝鮮のミサイル発射のニュースを報じている。確か「東京上空に飛ばす」とかぬかしていたが、すわ飛行機遅れるかとおもいきや、北海道の上空を飛んだため私の便には影響なかった。いい加減にしてほしい。

 飛行機が神戸に近づくと上空から、淡路島、紀伊半島、神戸などが一望できる。この風景を見る度、海上交通が主流だった江戸時代淡路島の港は今でいうハブ空港だった地政学的な理由が体感できる。

 飛行機から降りてバスに乗り込み、まずは、淡路島の北にある「パルシェ香りの館」に向かう。オカメインコ友達のYさんからカイヴァリヤダム・ヨーガ研究所(KaivalyaDham Yoga Institute)のジャガディッシュ医師(jagdish bhutada)が来日講義のためにここに滞在されているので、本場のアーユルヴェーダの脈診をしていただいてはとお誘い戴いたためである。

 香りの館のアクセスは異常に悪い。高速バスでつく場合、遠田というバス停から車で五分と書いてあったので、歩けば30分くらいかと気軽に歩き出してみたら、意外に遠い。時速何キロで五分なんだよ。しかし、GPSで自分のいる場所を確かめてみて気づく。「ここ、うちのご先祖のうまれた地(岡田鴨里は養子でもとは津名郡王子の庄屋砂川の四男)の近くだよ。」ということは今私がみている風景、遠目にみえる郡家の街も淡路島の西海岸もご先祖が日々目にしていた風景ではないか。そう思うと、うねうねした農道を歩くのもまた一興である。

 「パルシェ香りの館」は香りをテーマにした体験型テーマパークである。『日本書紀』推古天皇3年(595年)夏4月の条に淡路のこの地に香木が漂着し、それが日本におけるお香の起源とされていることにちなんだもので、日本の田舎に突然ドイツやオランダの町並みを作ろうとすることよりは条理にかなっている。しかし、アロマキャンドルとか、ポプリとかの洋風なノリなところが残念である。ここは一つ香道でもやって和風に徹した方が観光客も喜ぶ。

 パルシェにつくとジャガディッシュ医師が観光から帰るのをまちつつYさんとお話しする。Y さんは幼い頃から魚釣りをする父親につられてこの淡路島のサンタモニカ(笑)にきていたそうで、四歳の頃を皮切りにこのビーチで不思議なビジョンをみていたそうである。香木が流れ着いたとの伝のある地にたつ枯木神社で昼寝をすると、海の中からいー男があがってくる夢をみるのだそうである。Yさんによるとこの「香りの館」のあるあたりが淡路島で一番気がいいのだという(写真は一人10本までお持ち帰り無料の百日紅)。そこで、なんとついこの間この香りの館に接した土地を購入されたそうで、いずれアーユルヴェーダとヨーガを体験できる宿泊施設を作るとのこと。巫女(女シャーマン)ついに拠点をもつ。

百日紅jpg

 そこで、せっかくきたので、「香りの湯」にもつかってみる。お風呂からは西海岸が一望にみわたせる。ここには日本最古の神社といわれる伊弉諾神宮もあり、ご先祖の歴史意識はこういう土地柄もあって培われたのかとも思う。それにしても、、いー湯である(写真は香りの館から郡家方面をのぞむ風景)。

 お風呂からあがって、観光から戻ってこられたジャガディット医師に脈診をしていただく。主訴は喘息。私はヴァータ、ピッタ体質であり、午後七時以後に食事をするなとか、運動しろとか、オイル水をのんで翌日吐くとか食事療法とかいろいろなアドバイスを賜る。
香りの館17

 16:00に益習の集いのKさん(元街の職員さん)がお迎えにきてくださり、五色町にある高田屋嘉兵衛公園に向かう。Kさんは現役の頃、この公園の整備のために奔走されたそうで、スポットを案内してくださる。実は阿久悠はこの地の出身で、公園内には彼の「あの鐘をならすのはあなた」にちなんだ鐘がある。私がとりあえずならして喜んでいると、K さん曰く「6000万円かかった」とのこと。

 そして野球少年たちのブロンズ像のところまでくると、
 Kさん「これ何だか分かりますか?」
 「『24の瞳』ですか? あれは、小豆島か。」
 Kさん「瀬戸内少年野球団(阿久悠の自伝小説)ですよ。」
 「じゃあこの真ん中の女の人夏目雅子ですか?  に、似てませんね。」
 Kさん「でもって後ろの男の人は郷ひろみです」
 「(ノーコメント) その隣の像はわかります。隣に時代がかったロシア人がいるから高田屋嘉兵衛ですね」
 Kさん「あちらの建物は、菜の花ホールです。この公園の整備には20億かかっています」

  ここで一句。「ふるさとや〔創生金〕バブルは遠くなりにけり」
          (本歌: 降る雪や 明治は遠くなりにけり)
 
そして、われわれは閉館時間間際の高田屋嘉兵衛記念館にすべりこむ。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』で一躍有名になった、淡路の一漁民から船もち豪商にへと成功し、それだけでも十分すごいのに、ロシアに拉致られたことを契機に民間外交官をかってでて、日露の外交紛争を解決に導いた人。当時の鎖国下の身分制度のかっちりした日本においては、ありえないくらい数奇な運命を歩んだ人で、司馬遼太郎好みである。

 岡田鴨里はこの高田屋嘉兵衛の最古の伝を書いており、高田家に所蔵される嘉兵衛像には藤沢東畡(石濱純太郎先生の姉君がこの方の孫に嫁入りしている)が賛をつけている。ていうか、この賛の解読、四国大学の太田先生がしてらっしゃる(笑)。
嘉兵衛記念館

 館長さんと益習の集いの会長さんが昵懇だとのことで、むりくりに館長さんを休日・時間外出勤させてしまっていた。ごめんなさい。
 館長の斉藤さんは嘉兵衛とロシア側との交渉を欧文文献で追跡しており、仏文出身でであるにもかかわらず、ロシア語を一生懸命習得してゴローニンの日本幽囚記を全訳をだし、ゴローニンの子孫との交流も行われていて、非常に熱心に館の運営を行っておられ、学究的で尊敬できる方。
http://www.takataya.jp/nanohana/miyage/kahe_book.htm
どこの資料館とはいわないけど、自治体がハコモノつくっても中にいる人にやる気がないと、特別展はおろか、常設展示品ですら万年同じもの、研究会も開かれず、出版物もでず、だから人も入らず、はては閉館なんて流れはザラである。この記念館はその逆である。
 私たちがホールで映像をみてでてくると、館長さんとんできて、私がさしあげた拙稿をご覧になり

 「稲田騒動の檄文とかありますね」と言われたので、
 「すいません、私の曾祖父が徳島藩側で、ちょっと大村純安さんとやらかしちゃったので、あっでも現場にはいってません。」
 益習の集いの会長さん「うちの祖先は稲田のやられた側です」
 というと、びっくりされていた。
 その晩は会長先生のお宅にとめていただき、暖かいおもてなしをしていただいた。私が愛鳥がなくなって菜食になっていますともうしあげれば、日本旅館で野菜料理を注文してくださり、朝はぐーすか寝ている間に朝ご飯の準備もしていただくなど、本当に尊敬できる心の広い方である。

というか私が変人で適当すぎるのかもしれない。関係各位、すみません。
高田屋嘉兵衛管長さんと

 長くなったので二日目は後編に。
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DATE: 2017/08/23(水)   CATEGORY: 未分類
インドへ行ってきました
私は人間ができていないので、自分の幸せがゆらぐと、とたんに人の幸せを祈る気持ちがなえる。
従って、一刻も早く、愛を取り戻すべく、具体的にいえばなくなった愛鳥の生まれ変わりをわが手に取り戻すべく、、愛鳥の菩提を弔い、愛鳥の生まれ変わりについて伺うため、ギュメ大僧院(南インド、カルナタカ州にあるチベット密教二大本山のうちの一)に向かった。
副館長

 到着した翌日、副僧院長さん(僧院長がイタリアにいっていて不在のため彼がトップ)のお部屋を訪れて、ごろう様の写真と生まれ変わりの候補となる三羽の写真をおみせし、先代と心相続が同じ鳥はと伺ったところ、やはり私がおもっていた雛が私と縁があるとのお答えを戴いた。従って、その結果に基づき、帰国してすぐに、兄弟(姉妹?)も含めて三羽のひなをお迎えすることとなった。この三羽に私がたどり着いた経緯は長くなるのでまた別エントリーで。

 この三羽のヒナの親鳥は彼らの羽をむしり、ヒナの皮膚は火傷のようになってしまったため、親鳥とひきはなされて里子にだされていた、ようは虐待児童で保護された鳥たちであった。三羽ともに骨格は小さく、一羽(ルチノー)はうまれつき足がなえ、もう一羽(ノーマル)は一本足の爪がなく、もう一羽のノーマルは肺炎の疑いでまだ治療中である。とにかく哀れであった。
ひなひな

 最初は一羽しかひきとるつもりはなかったのだが、病院の先生が「兄弟そろっている方がごはんもつられて食べるし、成長が早い」というので、たしかに19年前にごろう様をお育てした時は、雛ごはんから大人ごはんへの切り替えがうまくいかずに一年間がりがりのまま過ごさせてしまった苦い経験もあるため、三羽ごとひきとることにした。

 ダライラマ14世猊下がダライラマに認定された後、その両親、兄弟たちもラサに移住し、ダライラマがさびしくなればすぐに両親兄弟とあえるようにポタラ宮の直下に住んだ。このことと同じで、一羽よりは兄弟がいたほうが寂しくなかろう。ダライラマのすぐ上のお兄さんはダライラマと一緒に机を並べて勉強したため、彼は勉強三昧な日々が乗り切れたというのも有名な話。

 三羽をひきとるについては、さらにダライラマ14世猊下の故事を思い出す事件があった。ダライラマがうまれた東北チベットは当時、イスラム軍閥の馬歩青将軍に占領されており、馬将軍はダライラマの候補者のラサへの出境とひきかえに膨大な身代金をチベット政府に請求したのだ。この故事と同じく、ヒナ三羽は前の飼い主さんが病院に預けていたものだが、うちでひきとるからには入院費はこちらですることにしたら、50万円を軽くこえていて仰天した。

 しかし、お金で生き物の命を売買する後ろ暗さとは異なるので、よしとすることとする。

 今思うことはただ一つとにかく最初の一年をのりきって、強健なオカメインコに育って欲しい。虐待児童だったので骨格はどうにもならないけど、その中身の充実はこれからの筈なのでとにかく丈夫に末永く生きてほしい。

 最後に、平岡宏一先生より聞いた笑い話。

ダライラマ14世猊下が幼児だった頃、いたずらをすると、教育係の大人たちは、三礼して兄弟を叩いたそうな(爆笑)。たとえ幼児であってもダライラマには誰も手が挙げられないという話です。
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DATE: 2017/07/28(金)   CATEGORY: 未分類
劉暁波氏の死を悼む
6月6日の私の誕生日の日、愛鳥(オカメインコごろう様19才)が突然逝った。
 以来喪に服して、ベジタリアンを続けており、ツイッターもFBも自分に関する更新は控えていたところ、スポンサーサイトから「一ヶ月以上更新のないサイトには広告のせます」みたいなことになり、無人の地に勝手に看板がたっているような状態になったので、喪には服しつつ更新したい。

 そういうわけで個人的に劇ウツな中、7月15日に劉暁波の獄死の報は効いた。病院で死んだことになっているが、これは独裁国家がよくやることで獄死のカウントを減らすために瀕死になると釈放するのだ。アバルトヘイト下の黒人活動家や、チベットの政治犯もよくリンチで瀕死になると家族の下にかえされたので、「ああまたか」と思った。このような非人道的なことをやっている時点で中国政府はかなり問題がある。

 80年代は劉暁波の生き方が世界史を動かす原動力たりえていたが、現在彼の獄死は何も影響を与えていないかにみえる。だからこそ、彼の生きていたこと、彼が考えていたことを言論の自由をもつ国の人間は一人でも多く書き残しておかねばならないと思う。

  劉暁波が一般に知られるようになったのは1989年の天安門事件である。この年にベルリンの壁が崩れ、実質社会主義圏が崩壊をはじめたことが示すように、天安門での学生の動きは世界的な社会主義世界の民主化の流れの中にあった。アメリカのコロンビア大学に在籍していた劉暁波氏は急遽帰国しその歴史的な意味をもつ学生デモの一員となった。

 しかし、この丸腰の学生デモは6月4日に中国軍によって暴力的に鎮圧され、学生指導者や民主化の指導者たちは逮捕・投獄された。このうち、海外に亡命することを条件に自由を得た人々もいたが、劉暁波氏はあくまでも中国国内にとどまって民主化を訴え続ける道を選んだ。しかし、彼は出版も、ネットもできないので発信はできない。

 劉暁波氏の名前を一躍有名にしたのは2008年の北京のオリンピックの年の世界人権デーに零八憲章を発表したことであろう。これは社会主義体制下のチェコで、バーツラフ・ハヴェル(ダライラマ14世のお友達)が1977年に発表した77憲章にちなんだもので、ハヴェルは投獄されるも、1989年のビロードによってチェコの共産党が倒れると大統領に就任した。
劉暁波はこの08憲章で中国共産党の一党独裁を批判し三権分立、少数民族の権利の保護などを訴え、2009年に投獄された。

 08憲章が発表された日の拙ブログは↓である。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-330.html

 1989年の天安門事件は現在中国では報道規制がしかれており、若い世代の中国人はこの事件について知らないか、知っていても「政治家に踊らされた」と距離をとる人ばかり。劉暁波の死について中国の電脳事情に詳しい方がツイッターで「何の影響もなし」とひとくくりにしたのを見て、2008年にチベット蜂起があった時、某新聞者の元記者の方に「これだけ毎日大騒ぎしていても一ヶ月もたてばみな忘れますよ」と言われてイラッときたことを思い出した。

 毎日のニュースをおいかける記者とか、新聞紙面的な方々にとってはそのような実感しかわかないのだろうが、劉暁波の存在はもっと長いスパンで、死後の影響力も考慮すべきものである。彼の言葉は普遍的であり、彼の生きている間、その言論が奪われていたとしても、必ずその言葉は時代をこえて影響する。なぜなら彼の言葉は個人の生死をこえた内容を持つからだ。

 以下のNHKのサイトに2009年の有名な辯論「私に敵はいない」の全文和訳がある。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/luixiaobo_fulltext.html

彼は声高に政権を批判するのではなく、言論の自由や三権分立は国にとって必要なものだと穏やかに訴えている。、人々の道徳性を目覚めさせる言葉は道徳的にアレな独裁国家にとってはもっとも忌避すべきことであるため、中国当局は普遍的価値観を語ることを禁止した。

 2013年5月13日香港の新聞に「中国当局はこのほど、北京や上海の大学に対し、「報道の自由」や「公民権」、民主や人権の尊重を意味する「普遍的価値」など7項目について授業で教えてはならないとする指示を出した」という記事がでた。いわゆる「七不講」である。

 つまり、大学では普遍的な価値を語ることが禁止され、当座・実務的な知識・技術のみを扱うように指示したわけである。なんか文学部の廃止を臭わせたどこぞの国の文科省を思い出す指示である。理由は簡単、普遍的な価値観にふれると、みながなぜ自分たちには選挙権がないのか、法治ではなく人治なのか、大気や水が汚染されていてもなすすべがないのか、以上のことを訴える言論の自由がないのかということに気付いてしまい、独裁体制が揺らぐからだ。

 ためしに中国国内では絶対読めないダライラマが1989年にノーベル平和賞を受賞した時の「普遍的な責任感」が説かれるスピーチを以下に引用する。皆が自分のエゴを追求していたら全体としては破滅に向かうという趣旨は独裁中国の価値観の中で生きる人たちにはもっとも耳が痛いことであろう。

私たちは同じ人間であって、苦しみを逃れ、安楽を求めるものであることを理解することは、人類愛、つまり他人に対する愛情のこもった暖かい思いやり、すなわち慈悲の心を育てる助けとなります。このことは、ゆれ動く現在の世界に生きていくためには、なくてはならぬものです。そうでなければ、私たちは自分の利益になると思い込んでいるものを、他人のことを意に介さずにがむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく自分自身をも傷つけてしまうことになります。この事実は今世紀に入ってよりはっきりとしてきました。たとえば、核戦争を今起こしたら、それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて大気や海を汚染すれば、それは私たちの生存の基盤を破壊していることになります。個人や国家の相互依存(縁起)の度合いが増加しつつある現在、私が「普遍的責任感」(増上意楽)と呼ぶものを育てていく他、残された道はありません。
 今日では、私たちは本当に地球家族なのです。世界の一地域で起きたことが、私たち全員に影響を及ぼします。もちろん否定的なことばかりでなく、肯定的なことについても同じことがいえます。現代の非常に進歩した通信技術のお陰で、遠くで起きた事件を知ることができるばかりてはなく、その影響をも直接受けます。・・・・大陸を隔てて敵対する国々の間に平和がもたらされれば、私たち自身の安全もより確かなものになります。



 中国に生まれると、ネットでも、大学でも、普遍的な価値観に触れることなく、このダライラマ14世の言葉も、劉暁波の言葉にも、接することはできない。大学でも普遍的な価値観を教わることはできない。従って、中国国内で育った人は自らの精神をせいぜい社会常識で調整する程度であり、。全体を省みることなく自分の利益のみを追求し、結果、汚れた大気の中で咳き込みながら、選挙権がないことも、明日突然財産を奪われたり、逮捕されたり、自分の特許が他人に勝手にパクられても相手が役人となかよしだったら泣き寝入りしても当然、みたいな生を生きていく。

 国レベルでも普遍的価値観を無視して道徳感ゼロの自国ファーストで行動するために南シナ海とかで問題を起こす。
 行き着く先は個人レベルでも国レベルでも、最も恐ろしいのは地球レベルでも決して幸せなゴールは見えないことである。普遍的な価値観を受け入れられない時点でその政府も人もやんでいる。

 最後に、ダライラマ14世が劉暁波の死を悼んだコメントをのせる。

ダライ・ラマ法王、劉暁波氏の逝去に深い哀悼の意を表明(ソースhttp://www.tibethouse.jp/news_release/2017/170718_Liu_Xiaobo_20170714.html
)
2017年7月14日

ノーベル平和賞受賞者の同胞である劉暁波氏の逝去の報に接し、私は深い悲しみに打ちのめされています。劉氏は長期にわたる拘禁後、逝去されました。劉氏のために祈りを捧げるとともに、夫人の劉霞氏とご遺族の皆様にお悔やみを申し上げます。

劉氏はこの世を去られましたが、劉氏が長く体現されていた基本原則を残された私たちが引き継ぎ、中国がより調和し、安定し、繁栄する国となることが、劉氏に対する最高の敬意の表明となるでしょう。

ノーベル平和賞受賞者の劉暁波氏は自由のために絶え間なく努力を重ねられました。その努力は遠からず実を結ぶ、と私は信じています。

ダライ・ラマ

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