白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/07/22(水)   CATEGORY: 未分類
教科書内のチベット関連記事の変化
 自分、教育学部で教鞭をとっているため、そこいらに高校の歴史の教科書やら用語集がころがっている。で、先週、「そういえば、2013年の新学習指導要領にのっとって、ゆとり教育が若干緩和されたんだよな。チベットに関する記事はどうなったかな」と、山川出版社の世界史Bと世界史用語集を手にとってみた。
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 この二冊は言わずと知れた受験生必携の教科書と参考書である。

 で、めくってみてびっくり。2008年のあの北京オリンピックの年のチベット蜂起、翌年のウイグル蜂起のような、ついこないだの事件がのっている。それに、20世紀初頭の中華民国の成立の部分では、中華民国が、各民族の統合に成功していなかったことも明記している。

 以下メモもかねて、山川出版社と東京書籍のチベットの近現代史関連の項目を抜き書き対照させる。 
 
●山川出版社 世界史B「辛亥革命」の項

中華民国は、清朝の領有していた漢・滿・モンゴル・チベット・ウイグルなどの諸民族が居住する地域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きがおこり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、13年にはチベットでダライラマ13世が独立を主張する布告をだした。・・・しかし、チベット・新疆・内モンゴルなどの地域では、住民の民族運動、外国の干渉、および漢人軍閥の割拠などの動きが錯綜し、中華民国への統合は強固なものとはならなかった(太字の部分が新しく付け加わっている)
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▲東京書籍 世界史B「辛亥革命と中華民国の成立」の項

中華民国は清の版図を継承した。清末の光緒新政から中華民国の時期にかけては、かつての藩部が国土の辺境として再定義され、また、従来は漢族と上下関係にあったわけではないモンゴルやチベットの人々が、漢族主導の近代国家建設のもとに位置づけられる少数民族とみなされていくことにもつながった。そのため外モンゴル(ハルハ)では清末から自立・独立路線が強まり、チベットでも自立の傾向が強まった


▲山川出版社 世界史B「アジア社会主義国家の変容」の項
他方、中国国内のチベット自治区や新疆ウイグル自治区では、経済発展につれて漢族の流入が増加した結果、民族対立が激化し、チベットでは2008年、新疆では09年に暴動が発生した。

▲東京書籍 「中国の台頭と新興国」
対外政策では中国は主権・安全・発展を国益の根幹とし、・・・・・チベットやウイグルなどの民族運動をおさえ、台湾との統一を目指している。

 ちなみに、古代チベットやモンゴル帝国、清帝国におけるチベット仏教についての言及は旧教科書とほぼ同じで削られていない。参考までに清朝とチベット仏教の項目をあげるとこんなかんじ。

●山川出版社 世界史B「清朝支配の拡大」の項

清朝はその広大な領土すべてを直接統治したわけではない。直轄領とされたのは、中国内地・東北地方・台湾であり、モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統轄された。モンゴルではモンゴル王侯が、チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライラマらが、新疆ではウイグル人有力者が現地の支配者として存続し、清朝の派遣する監督官とともにそれぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず、とくにチベット仏教は手あつく保護して、モンゴル人やチベット人の支持を得ようとした。


私が高校の頃に使っていた世界史の教科書(帝国書院)をひっばりだして見てみると、チベット仏教は17世紀のモンゴルとの関係でちらっとダライラマがでてくる以外まったくなし。辛亥革命は漢族の視点のみで論じられており、ついでにいえばホーチーミンとかレーニンとかナセルの写真ばかりがめだち、当時の社会主義、第三世界マンセーの学会状況が見事に教科書にも反映している。

そいえば、若き日の私が山川の歴史散歩辞典の仕事をした時、世界史Bの教科書を記念にもらって、なにげにダライラマの項をひいてみたら、正確には覚えていないけど、「ツォンカパの弟子がダライラマ」とか明らかに間違った記述があったので、「あ、これいくらなんでもひどいのでなおしてね」といったのも懐かしい。

 当時、私は「教科書は、専門書でないのだから、学会の成果が反映するのはずっと先なんだろう。新聞なんかと同じできっと政治的な産物なんだろうな」と思っていた。しかし、今の山川の世界史Bの清朝とチベットの記述は、明らかにどこかの誰か(笑)が言い続けている「チベット仏教世界」の影響力を表現してくれている。事実がプロパガンダに勝利しはじめている。涙で前が見えません。

 この新しい教科書で育つ世代は、中国革命を賛美し、彼らが粉砕したさまざまな民族は、「解放」されたんだから感謝しているなんて教え込まれた世代よりも、もっと現実的に東アジア世界を見ることができるであろう。

  以下、メモかわりに、新旧の「世界史用語集」の項目ごとの比較をあげる。全時代を通じてチベットに関する項目は増えてはいても削られることはなく、とくに近現代の記述が充実していることをみてとれよう。斜線の左が新用語集の扱い点数。右が旧用語集の扱い点数。もともとの分母が新『世界史用語集』 2014年10月20日(1版1刷) 7冊中、旧『世界史用語集』 2013年1月31日(1版6刷) 11冊中と異なることに注意。

●唐と隣接諸国 (旧 東アジア文化圏の国々)
1. ソンツェン=ガムポ 6/9 (-649)
2. 吐番 7/11 (7世紀~9世紀)
3. ラサ 1/3
4. チベット文字 5/8
5. チベット仏教(ラマ教) 7/10

●清朝支配の拡大 (旧 清朝と東アジア)
6. 活仏 2/2
7. チベット仏教(ラマ教) 7/8
8. ダライラマ 6/9
9. ツォンカパ 5/6
10. 黄帽派 7/5
11. ラサ 5/3
12. ポタラ宮殿 6/3
13. パスパ 6/2 (1235-80)

●辛亥革命(旧 辛亥革命)
14. 外モンゴル独立宣言 6/なし (1911年12月)
15. チベット独立の布告 5/なし (1913年3月)
16. ダライ=ラマ13世 4/2 (1876-1933)

●中ソ対立と中国の動揺 (旧 動揺する中国)

17. チベット自治区準備委員会 1 (1956年発足)
18. チベット反乱 6/8 (1959年)
19. ダライラマ14世 5/4  (1935-)
20. チベット自治区  3/なし (1965年成立)
21. 新疆ウイグル自治区 3/なし (1955年成立)
22. 内モンゴル自治区 3/なし (1947年成立)

●アジア社会主義国家の変容(旧 アジア・アフリカ社会主義国の変動)

23. チベット、反中国運動 2/なし (2008年)
24. ウイグル、反中国運動 2/なし (2009年)
25. モンゴル、社会主義体制離脱 5/なし (1992年)
26. モンゴル国 3/なし (1992年成立)

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DATE: 2015/07/21(火)   CATEGORY: 未分類
テンジン・デレク・リンポチェ遷化
 テンジン・デレクリンポチェのご冥福をお祈りします。
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リンポチェは、ナクチュカの出身で、地域に僧院やベット人のための小学校をたてチベット人に愛されていた。しかし、それが当局のかんに障り2002年に身に覚えのない罪(爆弾テロ!)によって逮捕され同年12月に死刑判決を受けた。
 しかし国際的な批判が高まり、当局はリンポチェの刑期を終身刑、さらに20年に減刑した。国際社会のリンポチェ解放の働きかけはずっと行われていたが、なんと7月13日、テンジン・デレク・リンポチェの突然の訃報が発表された。 家族ですら面会を許された最期が2013年であり、遺体も返還されないことから、正確な死期も死因も不明である。当局はリンポチェが医者を自分から拒否してい死んだという。
 この当局の一方的な発表を聞いて、アパルトヘイトが盛んなりし頃、警察に連れて行かれた活動家スティーブ・ビコ(1946-77)が死んだ事件を思い出した。南ア政府はビコがハンガー・ストライキで死んだと発表したが、南アデイリーの編集長がビコの妻とともに遺体を検死したところ、全身、とくに頭部に殴られた傷があり、本当の死因は警察署内でのリンチであったことが明るみにでた。それを明らかにしたら、デイリーの編集長、白人だったけど相次ぐ脅迫をうけてイギリスに亡命した。
 こんなことを思い出すのも、中国当局が16日にリンポチェの遺体を火葬にして死因を明らかにしなかったことによる。ちなみに、リンポチェの作った貧しいチベット人のための小学校は今では養鶏場となり、移民の漢人が住みつき子育てをしている。

 先週末はリンポチェの死を悼み、中国政府に抗議する集会が世界中で行われた。

 英語が読める方はHuman Rights Watch, Student for Free Tibet, Amnestyなど人権団体のキーワードとTenzin Delekで検索してみてください。以下に英語が読めない方のために日本語で読めるサイトをはります。BBCは適当な拙訳です。

訃報をつたえるBBC
チベット僧テンジン・デレク・リンポチェが中国の監獄で獄中死 
 BBC 2015年7月13日

家族や人権団体によると、著名なチベット僧が13年の服役の後に獄中死した。
テンジン・デレク・リンポチェ(65)は国家分裂罪と2002年成都でおきた爆弾テロの容疑で20年の刑期に服していた。
テンジン・デレクは国策逮捕であるとして一貫して無実を主張していた。アメリカとEUと人権団体は当時リンポチェの刑期を批判し、即時解放を求めた。

自由チベット学生運動(Student for Free Tibet)によると、テンジン・デレク氏が収監されていた成都の南西にある警察署が、日曜日リンポチェの親族に彼の死を告げたという。インドに住むリンポチェの従兄弟ゲシェ・ニマはロイターに彼の死因は不明であると言っている。フリー・チベット人権団体によると、リンポチェの家族は遺体の返還を求めたが、看守によって拒否されたという。四川のDazhu地域の公安警察はテンジン・デレクの死をAP通信に対して認めたが、詳細を話すことは拒絶した。

リンポチェはもともと2002年に死刑判決をうけており、後に終身刑に減刑され、それから20年の刑期になっていた。テンジン・デレクとともに爆弾テロの容疑でつかまったロサン・トンドゥプはすでに2003年に死刑に処されている。

人権団体は中国をチベットの文化と表現の自由を抑圧し、亡命中のチベット仏教の精神的な指導者ダライラマを支持した僧を拘束していると糾弾している。しかし、中国政府はチベット経済は彼らの支配の下で飛躍的に発展し、チベット社会は十分に権限を与えられて自治を享受していると主張している。

1959年、反中国蜂起が失敗に終わった後、ダライラマ14世はチベットから逃れ、インドに亡命政権を樹立している。


チベットnowルンタ このサイトはこれまでの経緯が日本人の視点からまとめられている。

●リンポチェ解放をめぐる亡命社会の働きかけと挫折の繰り返しはダライラマ日本代表事務所のサイトによくまとまっている。以下の記事はみな←にリンク先あり。

• 2015/07/17英国政府が獄中で逝去したテンジン・デレク・リンポチェを哀悼
• 2015/07/17中国当局の発砲で負傷したチベット人の痛ましい画像
• 2015/07/17EUが獄中で亡くなったテンジン・デレク・リンポチェに哀悼の意を表明
• 2015/07/15中国の刑務所にて、テンジン・デレック・リンポチェ死去
• 2009/12/17中国に郡曲地区での行動に自制を促すよう、人権団体に要請
• 2009/12/12中国が郡曲地区における事態の封じ込めに向けて軍を増派
• 2007/07/31チベット人ら、テンジン・デレク・リンポチェ監禁に抗議し抑留される
• 2005/01/27トゥルク・テンジン・デレクの死刑判決が終身刑に減刑
• 2004/12/07速報! 米国上院 満場一致でトゥルク・テンジン・デレク決議を通過
• 2004/12/03ロンドン 徹夜のキャンドル行進  写真&追記
• 2004/12/02ダライ・ラマ トゥルク・テンジン・デレクの死刑赦免を中国に強く要求
• 2004/12/02カナダ政府 トゥルク・テンジン・デレクの処刑を止めるよう中国に求める
• 2004/12/02チベット青年会議 カトマンズでキャンドル行進
• 2004/12/01チベット問題を考える議員連盟 緊急プレスリリース
• 2004/12/01SFTイギリス支部&在英チベット人 ロンドンで徹夜のキャンドル行進
• 2004/11/30カナダ・バンクーバー 中国領事館前にチベット人&チベットサポーターが座り込み
• 2004/11/30トゥルク・テンジン・デレク解放を呼びかけるために ゲシェー・ロプサン・テンパ、スコットランド国会へ
• 2004/11/29トゥルク・テンジン・デレク問題 カナダ国会が声明
• 2004/11/27フランス共産党 死刑執行猶予中のチベット人僧侶の釈放を求める
• 2004/11/27チベット青年会議デリー支部メンバー 中国大使館前に突進
• 2004/11/25『デレクフィケーション』 2カ月間リレーハンガーストライキがダラムサラからスタート
• 2004/11/21【写真特集】フランスのチベット人&チベットサポーター トゥルク・テンジン・デレクの釈放へと立ち上がる
• 2004/11/20チベット青年会議地方部もハンガーストライキ決行  アナン国連事務総長に血判の署名状提出へ
• 2004/11/19ンガワン・サンドル 米国議会委員会で証言 トゥルク・テンジン・デレク釈放にアメリカ介入の必要性を主張
• 2004/11/18インドのセレブ チベット青年会議のハンガーストライキを応援
• 2004/11/18米国務省 トゥルク・テンジン・デレクの裁判に懸念を表明
• 2004/11/18イギリス 在英チベット人がトゥルク・テンジン・デレクの早期釈放を要求
• 2004/11/16フランス トゥルク・テンジン・デレクの釈放を求める
• 2004/11/12ドイツ トゥルク・テンジン・デレクのための平和行進「希望の壁」 中間地点に届く
• 2004/11/10チベット青年会議ハンガーストライキへ トゥルク・テンジン・デレクの死刑判決差し戻しを要求
• 2004/11/08モンパ族 トゥルク・テンジン・デレクの釈放を要求
• 2004/04/02イタリア国会、 トゥルク・テンジン・デレクの死刑執行ストップ要求を決議
• 2003/05/13危機にさらされているチベット人囚人たちの健康状態
• 2003/03/13中国、トゥルク・テンジン・デレク関連で次々と縁故者たちを逮捕
• 2003/02/27胡錦涛宛のロプサン・トントゥプ処刑を非難する書簡にアメリカ連邦議会の79名が署名
• 2003/02/05ロプサン・トントゥプの死刑執行に対する欧州連合(EU )の宣言
• 2003/01/31ロプサン・トントゥプ死刑関連:欧州議会が欧州連合に強く要請、第59回国連人権委員会で「中国に対する非難決議案」提出を!
• 2003/01/30 ロプサン・トントゥプ 拷問の痕跡
• 2003/01/29ロプサン・トントゥプ死刑 国連人権委員会委員長 中国に書簡
• 2003/01/29ロプサン・トントゥプ死刑 民主活動家 魏京生氏 中国を非難
• 2003/01/27ロプサン・トントゥプの死刑に対する各国の反応
• 2003/01/27チベット亡命政権緊急声明 チベット亡命政権は、ロプサン・トントゥプの死刑執行に深く遺憾の意を表し、トゥルク・テンジン・デレクが同じような目に遭わないよう要求する
• 2003/01/26トゥルク・テンジン・デレクの侍従ロプサン・トントゥプ 中国が死刑執行
• 2003/01/21トゥルク・テンジン・デレクの肉声入手 RFAが放送
• 2003/01/10拘留中のトゥルク・テンジン・デレクがハンガーストライキ
• 2002/12/19欧州議会可決 チベットの人権問題および中国により死刑判決を受けた二人のチベット人に関する決議案
• 2002/12/05中国、2人のチベット人に死刑判決
• 2002/08/03トゥルク・テンジン・デレク ダルツェンド(康定)で拘置



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DATE: 2015/07/05(日)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ80才のHBD点描
法王のお誕生日はチベット暦の6月5日、西暦では7月6日にお祝いすることが定例化している。今回は80才ということもあり、この期間、台北、ニューデリー、メキシコ、ブラジルなどで法王の生涯を提示する写真展が行われている。

6月21日にはインドにあるチベット亡命政府の拠点ダラムサラでチベット人たちによるバースデーパーティが開かれた。この日はチベット暦の誕生日の一日前にあたるかな。

 そして、6月28日には世界最大級の音楽祭、イギリスのグラストンベリー・フェスティバルにおいて、ダライラマのお誕生日がお祝いされた。これについてはCTAの記事を後にはります。
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 日本では7月4日に恒例のホテル・オークラでのレセプション(大使館の国王誕生日のような位置づけ)で盛会であった。ここでは来賓の方々の祝辞と、亡命政府謹製のHBDショート映像が流された。iPhoneの動画で一生懸命とっていたら、最期に亡命政府のサイトにあるので、みなでシェアしてね! みたいな表示がでてがっくり。帰ってネットで見てみるとYotubeに各国語に翻訳されてあがっていた。日本語のものはまだないので、とりあえず英語のものをつないでおく。



平岡先生によると、80才となる今年、法王の長寿儀礼はチベット僧院の至る所で行われており、どの僧院もできたら法王に臨席してもらいたがっている。そして、南インドのフンスールのギュメ大僧院では、12月の8日から10日まで法王をお迎えしてテンシュク(長寿儀礼)を行うそうである。あのギュメの最上階にあった法王ルームのランニングマシーンが、三年ぶりかに埃をはらわれるのかと思うと喜ばしい限りである。

グラストンベリーフェスティバルでのダライラマ猊下 2015年6月29日(CTA)

ダライラマ猊下ののったヘリコプターがロンドンからグラストンベリーのピルトン村の近郊の高地に着陸した時は雨模様であった。猊下はフェスティバルの創設者であり、開催地Worthy Farmの地主でもあるマイケル・イーヴィス、リズ夫妻に出迎えられた。マイケルもダライラマ猊下も今年80才である。フェスティバルの責任者であるロバート・リチャードが猊下を車にのせて、フェスティバルのメイン・ステージ---ピラミッド型のステージを含む---とキャンプ・サイトを見渡すことができる見晴らし台に先導した。今年のフェスティバルには20,3000人が参加した。

猊下一行は会場中心部をぬけて、キングス・メドウまで車でいった。そこには近代にはいって作られたストーン・サークルがあり、それらは今はチベットの仏塔のようにデコられていた。BBCのアラン・イェントフはダライラマとそこでおちあい、木のステージにまでつれていき5000人の聴衆の前で、猊下を紹介した。

 猊下はこう口火を切った。

「兄弟姉妹達よ、みながこのフェスティバル楽しんでいることをここに来るまでに目にしてきた。みんなが喜びに満ちあふれていた。このフェスティバルに招かれて非常に幸せである。私がいつもいっているように、人生の目的は幸せになることだ。明日がどうなるのか誰にも分からない。しかし私たちは希望の中に生きている。希望がなければ私たちの人生は方向を失ってしまう。今ここにいる私たちと同様な70億の人類がすべて幸福になる権利をもっている。あなたたちがここで楽しんでいる間にも、シリア、イラク、ナイジェリアのような世界の他の地域では人々は互いに殺し合っている。だから、我々はすべてがみな兄弟姉妹である、我々は人類という一つの家族の一員であるというより大きな意識をもつことを推進する必要がある。」

 猊下は過去にイギリスの人々が孤立に甘んじ、後には国益によって支配された帝国主義の時代に乗り出したことに触れた。

「しかし今は、私たちはグローバル化した世界に住んでいる。われわれはグローバル経済の中に存在している。地球規模の気候変動は我々すべてに影響する。だから、我々は全人類の幸福を考えなければならない。自然は、世界を守るための道を模索せねばならないことを警告している。」

「我々が直面しているものはすべて我々が創り出したものだ。その中でも最低のものは宗教の名の下で起きている殺し合いだ。なぜこんなことがおきるのか? 人々が道徳的な原則を欠いているからだ。我々はみな人間として同じであるとの感覚を無視しているのだ。」

「他人もあなたと同じ人間だ。わたしだって落ち込むこともあるし、あなたたちと同じように人生を愛している。実は全ての人間は自分の人生を愛し、もみなが幸せな生活おくる権利があるのだ。しかし、我々は自分で問題を作ってしまいがちだ。我々がなすべき事は、より大きな人類愛を育むことである。殺人、詐欺、搾取のような問題は人が近視眼になる時のみに生じることだ。我々の教育システムは物質的な豊かさをえることこそが幸せと教え込んでいる。我々はこれを変えて、より長期的な視野をもち、心を陶冶すること、世俗的な倫理の重要性を教えなければならない。そうすることにより、素朴で暖かい心をもった本当の意味での友愛が生まれるのだ。このような基礎の下に、我々は世界を武装解除し、貧富の格差を解消するためにお金を使うことができるのだ。」

「私の生きている間にその変化を見ることは期待していない。しかしあなたがた若い人々、21世紀に属する人々は今から努力をすることができる。21世紀後半はより幸福でより平和な時代となるだろう。今いったことを真面目に考えてなさい。これが私が生涯を捧げてきたことだ。私がそうしてきたように、仏教僧は宗教的な調和を推進し、チベット人はチベットの言語と文化を守るように献身してきた。チベット文化は平和と慈悲によって特徴付けられ、これによってチベット文化が保存されるにふさわしいものとなっている。

アラン・ヤントフは聴衆からの質問として、「猊下がユーモアにあふれている秘密は?」と問うた。すると、
猊下「困難に直面すると、私はシャーンティデーヴァ(八世紀のインドの僧)のアドバイスを採用することにしている。それは『あなたの直面している困難についてよく考えなさい。もしそれを乗り越えることができるのなら、心配する必要はなにもない。あなたは努力すればいいだけだ。もし乗り越えることができないのなら、心配しても無駄である』。これは私が実践している非常に実用的なアドバイスである。あとの秘密は九時間睡眠かな。」

エントフ「いつ起床されるのですか」

ダライラマ「午前三時だ。わたしは約五時間瞑想する。おもに分析的な瞑想だ(観)。私とは、世界とは、縁起とはというテーマについて瞑想する。ジハードの本当の意味は他者を害することではない。自分の間違った感情と闘うことだ。毎日、私は自分と闘っている。誰かに対して怒りを感じたり、魅力を感じたりすることはいずれも誇張された感情だ。アメリカの精神科医が私にこういった。『わたしたちの感情は90%は自分の願望の反映だ』」

ヤントフ「猊下は宗教よりも基本的な人間の性質に信頼をおいているのですか」

ダライラマ「社会はわたしたちの幸福な未来の基礎だ。自分たちのためになんやかや考えるよりも、他人のためを考えた方がいい。幸せな社会では友情こそが重要である。友情は信頼を基礎にしている。そして信用を築くに際しては、国連や政府などをあてにすることはできない。信用を築くことは、我々が個人として行うことなのだ。」

(中略)

ピラミッド・ステージにつくと、ロバート・リチャードが猊下にフェスティバルの収益はウォーターエイド、オックスフォード飢餓救済委員会、グリーンピースなどのチャリティにまわることを説明した。

 16年間にわたりチベット問題の支援を行ってきたパティ・スミスは楽屋で猊下と会い、チベットが蜂起しダライラマが亡命した、1959年にパティは12才の少女だったこと、猊下の安全と幸福こそが一番の願いであることを伝えた。パティはステージにでると、そのすぐあとに猊下もそれを聞くためにやってきた。

 パティは歌の合間に、60,000人の聴衆に猊下の降臨をアナウンスし、みなに歓迎と80才の誕生日のお祝いをするために歌うように提案した。

パティは猊下のために詩を読み、万雷の拍手の中、法王をステージにあげた。群衆はハッピバースデー!を歌い、果物とローソクでかざられた豪華なケーキがプレゼントされた。猊下は次のようにスピーチした。

「兄弟姉妹たちよ。私はこんなにたくさんの人々が暖かい感情を表してくれてとても感謝している。毎日私は体と言葉と心を通じて他者の利益になるようにしている。あなた方が私のこのような暖かい感情を示してくれる時、私の感情も強化される。

私はここにいるミュージシャンをみて、白髪ではあるけれども、あなたの声も動きも非常に若いと思った。それによって私はかえって励まされたよ。わたしは80才になったけど、あなたのように活動的になるだろう。

私たちは同じ人間だ。みな幸せな生活をのぞんでいる。私たちは毎日を新しい日、誕生日だと思う事ができる。私たちが目覚めたときに、こう思う事もできる。私たちは幸福でなければならない。わたしたちは他者に対して暖かい感情を持たねばならない。これによって、自信と正直さと透明性が育まれる。そして、それらは私たちの信用につながっていく。信用というのは友情の基礎だ。私たちは社会的な動物で、友達を必要としている。これがあなたたちと共有したい幸せの根源なのだ。ありがとう。」

 大きな拍手がわきおこった。パティ・スミスはふたたび歌いはじめ、猊下はステージを離れ、ヘリポートに戻った。(後略)
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DATE: 2015/06/30(火)   CATEGORY: 未分類
マンネルヘイムとダライラマ13世
今、マンネルヘイム(1867-1951とダライラマ13世の1908年の五台山での会見について調べている。世界史の教科書で引いても彼はのっていないので簡単に解説するとこんな感じ。
 マンネルヘイムは若い頃はロシア軍人をやっておりました。日露戦争にも従軍していて、戦は負けたけどなかなかがんばったので出世した。しかし、ロマノフ王朝があえなく革命でなくなったため、祖国フィンランドへ帰還。独立をめぐる内戦をかちぬき、お向かいのバルト三国がソ連に売り飛ばされていく中、ソ連からフィンランドを守り抜いた(しかもマンネルヘイム線という謎の防御線で 笑)。そのため彼はフィンランドの英雄として国民から愛され、フィンランドでもっとも有名な人と言われている。この人はユーゴスラビアのチトーとともに世界史で教えないとあかん人です。

 このマンネルヘイムは実はロシア軍人時代、1906-08年まで中央アジアから北京(北平)までつっきって、極東の情勢をスパイしていた。その途上、イギリス軍に追われてチベットから逃亡中のダライラマ13世と五台山で会見。その時の記録はAcross the Asiaにあるので、以下、そのハイライトをエリック・エンノ・タムの要約(ここにつないでます)から訳出しました。

ダライラマへの死を招くが、実用的な贈り物

グスタフ・マンネルヘイム男爵は1908年7月の日記にこう書いた。
「中国当局はダライラマをしっかり監視しているようにみえる」大尉マンネルヘイムはロシア皇帝の命をうけて中国における秘密情報収集にあたっており、丁度五台山(中国における仏教徒の四聖山の中でも最も聖なる山)に到着した。彼は五台山を「仏教徒のローマ教皇、ダライラマの牢獄とはいわないが、現在のすみかだ」と書いた。
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ワンという名の中国の軍人はマンネルヘイムに「軍人が警戒線をはって北東山西県へと向かってくるものを防いでいる」といった。ダライラマが逃げようとするなら、「必要とあらば、軍隊によって阻まれるだろう」しかし、マンネルヘイムは五台山を歩き回りながら、非常線はないことに気づいた。「しかし、ワンが私の一挙手一投足を非常な感心をはらって監視していることに気づかざるを得なかった」

ワンはマンネルヘイムに、「ダライラマ13世と謁見をする間には自分の通訳をつれていけ」といった。しかし、チベットの王侯は秘かにマンネルヘイムにこう言った「ワンは歓迎されていない」。チベット人はワンをスパイとみなして軽蔑しており、ワンやその軍隊が寺の近くにいることを禁じていた。

五台山はダライラマにとって牢獄というよりは司令塔であった。1908年の春に五台山につくや、ダライラマは北京の公使館に使いを送り、大使たちを招待した。駐中アメリカ大使ウィリアム・ロックヒルが最初の招待客だった。彼は急いでウオーキング・シューズをはき、五台山に向けて徒歩で出発した。北京から五日のトレッキングだった。

ロックヒルは1890年代に内陸アジアを探検した学者にして外交官であった。彼はチベット語をしゃべることもできた。ロックヒルはマンネルヘイムが五台山に到着する僅か一日前に五台山を離れた。
ロックヒルはセオドア・ルーズベルト大統領に「ダライラマは疑いもなく知性の人であり、偏見のない心を持ち、非常に、愛想が良い、優しい、思慮深い主人で、威厳のある人だ。」とこう報告した。ダライラマはロックヒルに、中国との闘争について語り、「チベットが遠地にあるが故に外国の友人がいない」と語った。それに対しロックヒルは「あなたは間違っている。チベット人が栄えて幸せであることを願うあなたたちに好意をよせる外国の人はたくさんいる」と請け合った。

1908年の夏、ダライラマは大使たちの行列を接待した。それは北京の公使館からきたドイツ人の医師、クリストファー・アーヴィングという名のイギリスの探検家、植民地省のイギリス人外交官RF ジョンソン、フランス軍の少佐で子爵のアンリ・オロネであった。ダライラマは1904年のイギリス軍によるラサ侵攻で生じたイギリス・チベット関係のほころびを修復し、自らの国際的な立場を増強することを希望していた。神秘のヴェールにつつまれた仏教のローマ教皇とのはじめての謁見は、みなにとって非常に楽しみなものであった。

マンネルヘイムは五台山到着の二日目、大院寺にあるマンネルヘイムの部屋に使いが駆け込んできて、「ダライラマがあなたを接待する準備ができている」と身振りで伝えた。マンネルヘイムは入念に支度した。ひげをそり、服を着替えている間、別の急ぎの使者が「ダライラマが待ちわびている」と告げにきた。「私も同程度にイラチだが、これ以上早くは着替えられない」と彼は書いている。二~三分後、チベットの王侯が現れ、「お前は教皇猊下をお待たせすることによって何を意図しているのか」と尋ねた。急いでマンネルヘイム男爵と王侯はダライラマのいる菩薩頂に向かう急な階段を登った。

正装したワンは中国人の衛兵とともに頂上で待っていた。中国人はマンネルヘイムの訪問について懸念していた。モンゴルを中国から分裂させ、ロシアの属国にしようとはかった、ロシア人の軍人を、中国当局は二人逮捕したばかりだったのだ。ダライラマがフレー(今のウランバートル)に滞在していた間、様々なちゃんねるを通じてロシア皇帝にメッセージを送っていた。ダライラマ猊下はロシア人情報将校に「チベットとモンゴルは完全に中国から別れて独立した同盟国家を形成すべきだ。この計画はロシアの保護と支援とともに、無血で完遂する」と語っていた。「もしロシア人が支援しないのなら、ダライラマは以前の敵イギリスに救いを求める」と主張した。ダライラマを訪問した後、マンネルヘイムは実は内モンゴルを縦断し、モンゴル人たちの不穏な空気を肌で感じた。

マンネルヘイムがチベットの教皇と謁見する際にワンに「つきそわなくていい」というと、ワンは敵意をほとんど隠そうとしなかった。この中国人の軍人はダライラマの助手二人と言い争った。マンネルヘイム男爵が小さな応接室に入るとき、彼はワンが自分の後をついて入ろうとして遮られたのを見た。

ダライラマは小さな部屋の後ろ壁にそっておかれた台の上におかれた金細工の施された肘掛け椅子に座っていた。ひげを生やした白髪交じりの二人の年配のチベット人が背後にたっていた。ダライラマは薄い青の裏地のついた"皇帝色黄色"のフロックと伝統的な赤の外套を着ていた。33才の仏教徒の教皇は剃髪し、口ひげを生やし、日に焼けた顔をしていた。目は大きく歯は輝いていた。マンネルヘイムは教皇の顔にうっすらと天然痘のあととみられるあばたがあるのに気づいた。教皇は少し神経質で、それを隠そうとしているようだった。それ以外はマンネルヘイムは「教皇は肉体的・精神的な能力を完全に備えた陽気な男だ」と思った。

マンネルヘイムが深いお辞儀をすると、ダライラマはかるくそれに頷いて答えた。絹のスカーフ(カター)を交換した。ダライラマ教皇猊下はマンネルヘイムの国籍、年、旅などの軽い話しから始めた。そして一呼吸おくと、こわばった表情で「ツァーリは密書を送ってきてはいないか」と訪ねた。教皇は私の返事を通訳が翻訳するのを明らかに興味をもって待っていた。マンネルヘイムが教皇に「出発前に、個人的にツァーリニコライ二世と話す機会は持てませんでした」と告げると、ダライラマは身振りで美しい白い絹のスカーフとチベット語の書簡をもってくるようにといった。それはニコライ二世への個人的な贈り物であった。

ダライラマはマンネルヘイムに「私はモンゴルと中国の旅を楽しんだ。しかし、心はチベットにある」といった。多くのチベット人が教皇にラサに戻るようにと促していた。彼の官僚は毎月2000人の巡礼がダライラマを訪問したと主張したが、マンネルヘイムは「疑いもなく誇張である」と考えた。チベットの教皇は、ダライラマを北京にこさせて叩頭させようとする慈禧皇太后の決着の場にひきだされつつあった。マンネルヘイムは「ダライラマは中国政府が望むような役をひきうけるとは思えない男のようだ。教皇は彼の置かれている逆境を煙にまく機会をまっているようであった」と書いている。策略かのチベットの教皇は何度も旅を遅延させてきたので、北京ではダライラマのことを遅れ(ディレイ)ラマというダジャレがはやっていた。

マンネルヘイムはダライラマにチベットの中国との戦いに対するロシアの同情を伝えて励ました。ロシアの問題は終わった。男爵はダライラマにこう請け合った。「ロシア軍は前より強くなっています。いまや全てのロシア人が猊下の歩みを大いなる関心をもって見つめています。」ダライラマは私の丁寧な言葉に耳を傾け、満足げにしていた。

ダライラマは二度、護衛官にワンが彼らの会話を立ち聞きしていないかを チェックさせた。ダライラマにとって危険な時代であった。ラサに戻ればすぐに自分の命が危なくなることを知っていた。中国人はチベットに対するしめつけを強化しており、ラマ達は暗殺され続け、僧院は掠奪され、チベット人は放牧地から追い出されていた。

北京はダライラマをよるべない信者たちをなだめ、中華帝国へのチベットの併合を和らげることのできる忠実な臣下にしておきたかった。しかし、ダライラマは素直ではなかった。彼は北京を九月に訪れ、すぐに清廷と喧嘩し、清廷はダライラマに誠順賛化という誠に屈辱的な称号を授けるという詔勅をだした。官報ではダライラマを「傲慢で無知な男」と酷評した。チベットではダライラマは暗殺されたという噂が広まった。様々な改革に怒って、ラマたちは中国にたいする聖戦を呼び掛けた。1908年の終わり、反乱が起き、中国軍は敗退した。ダライラマは結果として1909年にラサに戻り、イギリスとあらゆるヨーロッパ諸国に北京のチベットに対する野望を攻撃する電信を送った。

1910年2月中国軍がラサを侵略した。ダライラマはインドに逃げた。中国皇帝の勅書は猊下を「専制的でチベット人ももてあます、不愉快で、非宗教的で、度し難い、放蕩家だ」と非難した。清朝の崩壊後、猊下は1913,年にチベットに戻り、独立を宣言した。彼は1933年に亡くなった。

マンネルヘイム男爵は〔五台山でダライラマと別れる時、〕もはや誰の目にも明かな眼前にある危機を認識しつつ、ダライラマに実用的ではあるが異例の贈り物、すなわちブローニングの回転式銃を送っていた。男爵は「二年に及ぶ旅の後では価値るものはもうこれしか残っていないので」と説明をした。マンネルヘイムが猊下にいかにして七つの弾をすばやく銃に装填するかを実演してみせると、ダライラマは「歯を見せて」笑った。ダライラマはその実演を楽しんでいた。「時局がこうだから、たとえ彼のような聖者であっても、このリボルバーはマニ車よりは時には非常に役立つだろう。」とマンネルヘイムは記している。


 文中で、アメリカ大使ロックヒルやフィンランド人のマンネルヘイムはダライラマを好意的に記しているのに、中国があいもかわらず、根拠のない罵倒を投げつけているのが、何かもう百年前から何も変わっていない感じで脱力いたします。人民解放軍が入る前のチベットに入った欧米人はだいたい、ダライラマやチベット文化に対してリスペクトをしているのに、同じように入った中国人や日本人の大半は後進的で迷妄みたいな罵声を投げつけがちなのは、やはりアジアって異文化を理解し消化し評価する能力が低いからであろう。

予断であるが、マンネルヘイムの名言はフィンランド同様、隣に問題のある隣人を抱えているチベットにも日本にもいろいろ示唆的である。以下に引用するけど、別に他意はないですからね、今は時代も違うし(笑)。

「かつて我々は自らの手で独立を果たし、自由な未来を守ると誓った。自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」
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DATE: 2015/06/16(火)   CATEGORY: 未分類
富岡コレクションの近世の禅画
早稲田大学でミュージアム・ウイークやっているので、三年ゼミ生とともに学内の会津八一記念館を訪れた。ミュージアム・ウイークとはぶっちゃけ「みなさん学内の博物館を利用してください」強化月間である。記念館の内部には大隈重信侯に捧げた部屋とか、特別展の部屋とかいろいろあるが、我々が目指すのは「近世の禅画」展をやっている富岡重憲コレクション展示室である。
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富岡コレクションとは日本重化学工業の初代社長である富岡重憲氏のコレクショであり、かつては大田区山王の富岡美術館の所蔵品であった。しかし、どういう事情か分からないけど2004年にここが閉館し、コレクションと富岡美術館学芸課長である浅井京子先生がそっくりそのまま早稲田に移籍した。早稲田にきたのは富岡重憲氏のお孫さんが早稲田卒だったことによるご縁らしい。
 浅井先生は現在早稲田大学會津八一記念博物館特任教授であり、禅画がご専門だというので、。今回ずうずうしい私が交渉してお話を聞かせていただけることになった。

浅井先生「富岡コレクションの中核をなすのは、近世の禅画と中国の磁器です。仙崖は出光美術館、白隠は永青文庫にまとまったコレクションがあるのは知られていますが、富岡コレクションにも白隠(1686-1769)と仙崖(1750-1837)が半々くらいあります。白隠については秋に展示をする予定なので、今回の展示品からは抜いてあります。一年に5回展示替えを行っていて、この展示が終わった後は、陶磁展を行います。私は今年で退職ですが、2004年から禅画を順に展示してきて、大体全部みせおわったかなと
 
浅井先生 「本コレクションには早稲田の四天王の一人市島春城の印章コレクションがあります。市島春城は四天王の中でももっとも知名度が低いのですが、初代図書館長の立派な方です。彼の書簡を研究することでどの印章が誰の号なのかどこで用いられていたのかをかなり同定できました。

 私「早稲田の四天王って誰でしたっけ? 大隈重信は入りますよね?
 浅井先生、失笑。
 私「あっそうか。四天王って仏様のガードマンだから、仏ははいりませんよね。じゃあ初代文学部長の坪内逍遙、小野梓、市島春城ときて、あと誰でしたっけ?

浅井先生「高田早苗です。どうしても市島春城が一番知名度が低くなりますが、大隈銅像後ろにある大正天皇お手植えの月桂樹の碑文は市島春城の弟子がたてたものですよ

学生「先生、あの○の形の絵は何ですか

浅井先生「円相です。円相は始めもなければ終わりもない、完全なこと、を示しています。毎日○を描いていると最期にはコンパスで描いたような綺麗な円が描けるようになるんですよ。円相と達磨は禅画のテーマとして人気があるので、今回は複数作品を並べて展示し、同じ画題を人によってどう異なった表現をするのかをみてもらえるようにしました。

私「この円をみて焼酎を思い浮かべた人は教養がないと思われるので、気をつけて

展示されていた禅画の意味をざっぱに紹介。

●「達磨図」
 南インドから海路中国にやってきて少林寺で壁に向かって三年座禅したことで有名な、中国の禅宗の祖。達磨はサンスクリット語でdharma(法)の音写だからインド人に見えるが、禅宗は中国にしかない仏教の流派であり、その教義もインド仏教と隔たっている。また、達磨さんがインドからきたことを裏付ける史料もないため、達磨さんが実在の人であるかどうかは分からない。しかし、少なくと禅宗の人々は自らの宗派の起源をインドに求めて、彼の肖像画を修行の一環としてよく描いた。

●「大燈国師が瓜を前に橋の下に寝ているの図」
 花園天皇が大燈国師を宮中に召し出そうとして使いを送った。五条の橋の下にいるというのだが、橋の下にはたくさんの乞食がいてどれか国師だか分からない。そこで使いは国師が瓜がすきだというのを知っていたので「この瓜を足なしでとりにこい」といったら、乞食の一人が「じゃあ手なしでわたせ」と答えたので、この方こそ大燈国師だと分かった。

●「慈明引錐図」 
 慈明が夜も寝ずにひたすら座禅修行をしている時、眠気を払うために自らの膝に錐をつきたて、コックリしたらぶすっと刺さるようにした図。
 
●「香厳(きょうげん)撃竹図」 
 香厳が庭の掃除をしていて、帚が石を飛ばして竹にあたった、そのスコーンという音を聞いて覚りを開いたその瞬間。

●「寒山拾得図」
 森鴎外や坪内逍遙の作品で取り上げられた寒山拾得である。鴎外の小説では、唐の時代天台国清寺にいたといわれる謎の二人組で、普賢(慈悲)と文殊(智慧)の化身とされている。寒山の詩は禅の世界ではよく愛読されている。。

 禅は中国で発達した仏教の流派で、日本でも臨済宗、黄檗宗、曹洞宗などが中国から法統をついでいる。禅の覚りとは、座禅を続けるうちに何かのきっかけでうまれる気づきである。その覚った瞬間が水墨画の様々な画題となっているのだ。
 ちなみに、チベット仏教の最大宗派のゲルク派はこれとまったく逆で、仏教思想を最低でも15年かけて習得して、その後その内容を密教によって徐々に意識に実現していくので、かなり禅とは対照的である。8世紀にチベットの初の大僧院サムエで、インド仏教の代表者と中国仏教の代表者がディベートして前者が勝ったことにより、インド仏教が優勢になったと言われているが、実際はチベット仏教のニンマ派などの行法は禅の影響があると言われている。

 浅井先生「禅画はみなそれぞれが感じるままに見ればいいと思います。私は長い間、仙崖の禅画は70代の時に描いたものが一番素晴らしいと思っていましたが、60を超えてみると、80代になって描いたものが良いと思えるようなりました。みなさんは今20代ですから、20代にしかない感性を持っています。だからその感性で一番良いと思うものを選んでください。
 作品の保護のために適温は20度です。この中はつねに20度に保たれていますが夏は寒すぎるので24度にしています。外は暑くてもここは涼しいので是非来館してください。


私「それって涼みに来て下さいってことですよね。本来の鑑賞の仕方があてにされていない・・・。

 浅井先生のお話を聞いていると、いかに富岡コレクションを愛し知り尽くしいるかが伝わってくる。美術館の中で、このコレクションとともにすごし、それらを研究し展示することが先生の天職であったのだ。ヨーロッパでは名門美術館のキュレーターは大学の教授なみかそれ以上の肩書きになるのもむべなるかな。

富岡コレクションと浅井先生についてはここに読売オンラインの記事があります。
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