白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/04/21(月)   CATEGORY: 未分類
如月の望月の頃(法王高野山灌頂)
 4月14日 高野山大学において、ダライラマ法王による胎蔵界灌頂が行われた。法王灌頂が行われると高野山の宿坊は満室となるのだが、平岡先生の口利きで普賢院に宿をとることができた。朝ごはんは平岡先生ご一行とともに同じお座敷でいただく。

 平岡先生の奥様が法王お下がりのフルーツとかもってきてくださり、とてもありがたい。平岡先生は先生で、三日前の種智院大学で、ダライラマ法王が弘法大師について一聴衆の質問に答えたことを興奮気味に話してくださる。

 「高野山奥の院では弘法大師空海がいまなお即身成仏して生きている」という信仰があるが、それはありうることか、という質問に対して、ダライラマ法王は「ヨーガタントラ(『金剛頂経』の属するジャンル)の修行で、長い寿命を得てそのような状態になることはありうる。しかし、その姿は境地に至っていない人には見えないだろう。」とお答えになったんですわ。
 私はそれ聞いてね『今昔物語』の中で観賢僧都が御大師様の廟を開いた時の話を思い出しました。観賢には御大師様の髪もひげものびて、衣もぼろぼろになっていたのが見えたので、綺麗にして差し上げるんですが、御大師様のその姿は弟子たちには見えなかったんですよ。


 高野山にふさわしい内容ではあるけど、朝からトークが濃い。

 朝ご飯がおわると灌頂が始まるまで少し時間があるので、私は壇上伽藍へとお参りにいく。入り口のところで、お坊さんが対の勝利旙を掲揚するのに丁度いきあった。聞けばお花祭り(釈尊の誕生日4/8)から一ヶ月は、金剛峯寺や壇上伽藍入り口に、八時に勝利旙をかかげ、五時にしまうということを繰り返しているという。
bann.jpg

 言われてみればお花祭りからまだ十日くらいしかたっていない。平地より寒い高野山の上ではつい一週間前も雪が降ったとかで、北向きのひさし下には雪が残っていたが、その日は暖かく、金剛峯寺の桜は丁度三分咲きくらいで美しかった。

 去年の9月以来半年ぶりの高野山である。前は学生たちと賑やかに歩いたので、一人の今はちょっと寂しい。一山をマンダラに喩えた場合、その中心となる根本大塔にお参りにいく。すると前回来たときには気がつかなかった「西行桜」という桜の木があった。

 西行は歌人として名高いが、とくに桜の花を詠んだ歌に名歌が多いとされている。よくあるなんちゃって文学碑かと思えば、そこにたつ解説を見ると、西行は本当に高野山に30年住んでいたのだという。西行桜は他の桜に比べて遅咲きなのか、まだ蕾みであった(この桜の木は江戸時代くらいからのものらしい)。
saigyosakura.jpg

 根本大塔にお参りしてから、灌頂の舞台となる高野山大学の講堂に向かう。この講堂は本日は灌頂の道場となるため、清められ、ホールに入る際には口漱がねばならない。法王は早くから道場に入って本尊ヨーガの瞑想を行われている。
 壇上は鉢植えの花で飾られており、左手に胎蔵界マンダラの砂マンダラがあり、仏画とマンダラと法王座の位置関係はこんな感じであった。

meditation.jpg

法王は本尊、おつきの僧たちは本尊から流出する仏の役を行いながら、本尊ヨーガを行っている。聴衆はモンゴル、韓国、シンガポールの仏教徒など多国籍で、同時通訳ブースも英語、韓国語、モンゴル語、中国語がある。有名人としては高須クリニックの院長先生がお見えで、なぜかモンゴルからきたIさん(去年の夏モンゴルでバーベキューパーティに招いてくださった方)と灌頂終了後精進料理を食べていた。二人はメル友とか。
 Iさんによると院長先生は「天使のような方」なのだそう。にしても世界狭い(笑)。

 エントリーの最後に今回の法話の全容が分かるURLをはるので、灌頂の内容は前行法話も含めてすべてYoutubeでご覧頂きたい。ちなみに、密教は秘密の教えなのに中継していいのかと平岡先生に伺ったところ、平岡先生はロサンテレ先生に質問してくださり「胎蔵界の儀軌には秘密の誓いがないのでいいんじゃないんですか。でも道場にいないでネット中継みただけでは、灌頂受けたことにはなりません」とのこと。

 胎蔵界マンダラはチベットの密教経典の分類法からいうと、下から二番目の行タントラにあたる。この行タントラは身体で行う所作に大きな意味を付与するので、動画の見所は法王が手で結ぶ印契と、傘をさしかけたりするお手伝いのお坊さんの所作である。

 舞台の上は花とマンダラと所作であふれて何というかカラフルで華やかな春にふさわしい儀式であった。灌頂は早々に終わり、混むのを裂けるため速やかにお山を下りる。大阪の環状線につく頃にはあたりが暗くなりはじめ、車窓に月が浮かぶ。

motizuki.jpg
満月に近い。
そうか。法王はちゃんと灌頂の日を儀軌通り満月の日に設定していたのだ。

 後で平岡先生に伺った所、法王は15日の灌頂執行を主張しておられ、「土曜日から三日かけてやってもいい」とおっしゃっていたという。15日は月食、つまり満月の日だからだろう。しかし、高野山大学は15日を講演の日とアナウンスしていたので、結局14日に行うことになったのだという。法王はあくまでも満月の日に灌頂を終えたかったのだと思う。

 そこで、もう一つの事実に気がついて神秘的な気持ちになった。それは西行が高野山にいる時「お釈迦様と同じように桜の花の下で春に死にたい」って詠んで、本当に後にその時期に死んだので、預言の歌として有名なこの歌。

 願はくば花の下にて春死なむその望月の如月の頃

 この望月は言うまでもなく満月のこと。日本仏教ではお釈迦様がなくなられた日を旧暦の如月(二月)十五日(満月)とする。西行の頃の如月は新暦では、三月から四月初旬にあたるらしい(ネットがそういっている笑)。この句を詠んだ当時、西行は高野山にいた。新古今和歌集は脳内で詠んだイメージの歌が多いが、この歌に含まれる、桜、満月、春、お釈迦様、高野山などのイメージは、今回の高野山での体験にまさにシンクロしている。

 そういうわけで華やいだ気分になって東京に帰ったのであった。

以下は、今回の法王来日灌頂の記録サイトです。良い時代になりました。

●4月7日(月)13:30~15:30(開場12:30)
「東日本大震災神道祈りの会主催 ダライ・ラマ法王14世の講演と法話
東京エレクトロンホール宮城

●4月10日(木)9:30~12:00
演題「密教と即身成仏
京都種智院大学 

●4月13(日)•14日(月) ダライ•ラマ法王を導師とした「胎蔵曼荼羅の灌頂」
4月13 (日)
胎蔵界灌頂前行法話『ラムリムドゥトン
4月14日(月)
午前 前行法話続き「心を訓練する八つの教え」(ゲシェ・ランリ・タンパ)

午後胎蔵曼荼羅灌頂

●4月15日 ダライ•ラマ特別記念講演
高野山大学特別記念講演

●4月17日(木)来日法話「空と慈悲の教え」
午前の部「般若心経について」
午後の部「三十七の菩提の実践」
場所 ホテルオークラ東京
[ TB*0 | CO*2 ] page top
DATE: 2014/04/08(火)   CATEGORY: 未分類
メルケル首相の意味深な贈り物
● お知らせ
 明治大学でチベットの各ジャンルの専門家を集めたオムニバス講座(全5回)が行われます。私は鳥好きなだけあってトリをつとめさせていただきます。最低催行人数が10人で、前回このコマで行われた別の地域をテーマにした講座は流れたとのことで、あせって宣伝。
 「チベットの歴史と文化」火15:00~16:30
1 2014/05/13 聖なる都・ラサとその歴史 小松原ゆり
2 2014/05/27 チベット仏教と僧院文化 野村正次郎
3 2014/06/10 朝鮮知識人が見たチベット仏教世界 寺内威太郎
4 2014/06/24 チベットの言語と文学 海老原志穂
5 2014/07/08 清朝皇帝とチベット仏教 石濱裕美子

各回の詳細についてはこちらをご覧ください。
----------------------------------------------------------------
melkelmap.jpg

 さて本題です。三月末から四月初め、中国の習近平主席が就任後、初のドイツ訪問を行った。ドイツと中国の間では次々と大きな商談がまとめられたものの、メルケル首相もガウク大統領も中国に人権がないことについて言及した。このニュースは以下のようなもの。

●中独首脳会談:ドイツ首相、中国の人権改善要求 首脳会談後会見「言論の自由重要」 商談優先批判に配慮 毎日新聞 2014年03月29日 東京夕刊

 【ベルリン篠田航一】中国の習近平国家主席は28日、昨年の就任後初めてドイツを公式訪問し、メルケル 首相と会談した。両首脳は、独自動車大手ダイムラーと中国自動車メーカー「北京汽車」による10億ユーロ(約1400億円)規模の投資協定について合意するなど、経済関係の強化で一致した。だが会談後の会見ではメルケル首相が「言論の自由は、研究分野や市民社会において創造性を促進する重要な要素だ」と述べるなど、中国に人権問題の改善を求める場面もあった。
 両首脳はウクライナ問題についても協議し、習主席は「関係各国は政治的・外交的解決を目指し、協力すべきだ」との認識を示した。
 独メディアによると、同日午前に習主席と会談したドイツのガウク大統領も人権問題に言及し、自由な意見 表明が刑事罰の対象となる状況への懸念を伝えたという。牧師出身のガウク大統領は旧東独で民主化運動を進めた人権活動家でもあり、予定時間を超えて会談を続行。「友好的だが距離を維持」(南ドイツ新聞)との雰囲気だったという。ドイツでは近年、人権問題を棚上げして中国との「商談」を優先することへの批判 が高まっており、ドイツ側は今回、改めて人権重視の姿勢を内外に示した格好だ。
 安倍晋三首相の歴史認識を巡る対応への批判を続けている中国は習主席の訪独に際し、ナチス・ドイツによ るホロコースト(ユダヤ人大虐殺)関連施設の視察を打診。戦後、近隣国との和解を進めたドイツの姿勢を引き合いに出し、日本を批判する狙いもあったとみられるが、ドイツ側はこの申し出を拒否し、日中の対立に巻き込まれる事態を避けた。習主席は28日付の独紙フランクフルター・アルゲマイネに寄稿し、中独両国の経済協力の重要性を強調したが、ここでは日本への言及はなかった。


そして、晩餐会の席でメルケル首相から習近平へと意味深な贈り物がなされた。それは1735年、ドイツで出版された中国地図だ。以下にその記事を引用する(ちなみに原文はここ)。


●ベルリンでドイツのアンジェラ・メルケル首相が中国の習近平主席に18世紀の中国地図をプレゼントした


2014年4月2日  by Rachel Lu sydney morning Herald

香港 先週、ドイツのアンジェラ・メルケル首相はドイツを訪問中の中国の習近平主席を晩餐会でもてなし、その席で贈り物を交換した。メルケルは1735年に、多作なフランスの地図製作者ジャン・バプチスト・ブルゴーニュ・ダンビル (Jean-Baptiste Bourguignon d'Anville) の手になり、ドイツの出版社で印刷された中国の地図をプレゼントした。

古地図のサイトによると、ダンビルの地図はイエズス会の中国布教使の地理学的な研究に基づいて作られており、18世紀における中国に関するヨーロッパの知識の到達点を示しているという。

オリジナルのラテン語のト書きによると、この地図は中国の「本土」すなわち、主に漢人が住む地域を示しており、チベット、新疆、モンゴル、満洲、台湾島、海南島は含まれていない。前者の漢人の住む地については明らかに近代中国の一部となっているが、後者は議論紛々であり、異なる色の国境線に囲まれている。

古地図は中国では敏感な問題である。中国の全ての学童は「チベット、新疆、台湾と釣魚島(日本では尖閣諸島として知られる)は古代から中国の不可分の一部である」と学ぶ。

ダンビルの地図は少なくとも視覚的にこの物語を否定している。驚くことではないが、中国の国営メディアの支局はメルケルの贈り物に感謝していないようである。人民日報は。習近平の旅の詳細を報道していたが、この不愉快な地図についてはまったくスルーした。

さらに興味深いことには、地図のニュースが中国本土に到達した時、地図は完全に違ったものにすげかわっていた。中国語の多くのメディアは「メルケルの贈り物は中華帝国の最盛期の領土(チベット、新疆、モンゴル、シベリアの広大な帯状の領域)を示している」と報道したのである。この地図は、イギリス人の地図制作者John Dower によって製作され、1844年にロンドンのHenry Teesdale & Coで出版されたもので、メルケルから習近平へ贈られたものではない。しかし、この誤りは中国の記事の中では何ら注意も払われず、説明もされなかった。


中国のソーシャルメディアにはメルケルの贈ったとされる2バージョンの地図が登場し、異なった解釈がひきおこされた。ダンビルの地図を見た者は、その限られた領土にショックを受けたようである。

ファイナンス・レポーターのHao Qianは「地図はまったく場違いな贈り物だ」とのべ、ライターのxiao Zhengは「メルケルはチベット、新疆独立運動を正当化しようとしている」と激しく非難した。建築家のLiu KUnは「ドイツには隠れた動機がある」と書き、あるインターネットの住人は「こんなことはありうるのか。どこにチベット、新疆、東北地方があるのか? 習近平はどう反応したのか?」と書いた。

ある者はメルケルは習近平にこの地図を贈ることにより以下のことを静かに思い出させようとしたのかと疑った。それは、ロシアは20世紀の中頃、モンゴルが中国から独立を宣言する際の後ろ盾となったこと、それは2014年の3月にクリミアに対して行ったことと似ているということを。

確かに、ダンビルの地図は中国政府が世に広めたい歴史認識と完璧に対立するわけではない。1735年は、乾隆帝の60年の治世が始まった年であり、清帝国の軍事力は上昇していた。乾隆帝は新疆西部地域におきたムスリムの反乱を平定し、モンゴルを非常に身近に統治し、ダライラマの選定といったチベット事務を監督するために官僚を派遣した。

言い換えれば、乾隆帝はこれらの辺疆の領域に象徴的な皇帝支配を打ち立てたのである。この時代の領域が、後の政府、中華民国、続いて中華人民共和国にこれらの地域の主権を主張させたのである。19世紀と20世紀初頭の西洋の国々で出版された地図類では、チベットと新疆の描き方は地図によって変わる。しかし、ダウアーの地図は清朝とチベットを中華帝国の一部として示す唯一の地図ではない。

これらの地図についての沸騰する議論はいずれも深読みのしすぎかもしれない。あるインターネットの住人はダンビルの地図をチベットや新疆についてのメッセージと拡大解釈することはないという。

「テキサスやカリフォルニアがアメリカ合衆国の領域にはないことを示すために、1776年に作られたアメリカ合衆国の13植民地の地図を今は使わないだろう。」


この記事の見所は、メルケル首相の贈った地図を自分の都合の良い地図とさしかえて、それをメルケル氏の贈ったものと嘘をいって報道する中国マスコミの情けなさ、そしてそれを信じてしまう中国人の悲しさであろう。13億人の多くがそれを信じた時、「事実」は無力となり、「ねつ造された現実」が彼らの中での事実となる。おとろしい話である。

また、乾隆帝(満洲人)の時代清朝とチベットの関係(宗教的な指導者と信徒の関係)は近代に入ってからの中国とチベットの関係とは全く異なるものなので、これを根拠に今の中国のチベット支配を正当化するのも問題。

 最盛期の清朝皇帝乾隆帝は「俗をもって、治す」をモットーに他民族の習俗・風俗をそのままにし、手をつっこまなかった。乾隆帝ほど、全力でチベット仏教を支え信じていた皇帝はいないのである(「平和のための戦争」をずいぶんやってるので果たして仏教の実践者として優秀かは謎だが笑)。
[ TB*0 | CO*0 ] page top
DATE: 2014/03/31(月)   CATEGORY: 未分類
淡路にご先祖のお墓を訪ねて
 我が父方の家系のルーツは淡路島にある。私が生まれた時には祖父母はおろか、父も父の兄弟もみんな亡くなっていたため、若い頃は父方の家系について意識することはなかった。しかし、成人して歴史を研究する身となり、何となく自分の家系に興味をもって戸籍をとってルーツをたどってみたところ、父方の祖母の曾祖父が岡田鴨里という淡路の儒者であったこと、祖母の父で鴨里の孫である真も庚午事変にかかわっていたりして、父の兄弟もとっくの昔に死んでいるが経済学者や小説家として研究対象となるような結構な有名人であることがわかった。まあそんなわけで、「淡路に一度は行ってみないと」と、完成した翌年の明石海峡大橋をわたり、はじめて淡路の地を踏んだ。この時期はいわば「第一次淡路マイブーム期」であった。

 その後、専門の研究(チベット・モンゴル・満洲史)に忙しかったりして、すっかりご先祖関係の探索はおろそかになっていた。しかし、昨年、再び父祖の地から、いや正確に言えばあの世からのコールがあった(笑)。

 きっかけは去年の11月、高松歴史資料館で開催された「知の巨人 藤澤東畡展~没後150年記念~」(11月9日~12月23日)のオープニングに呼ばれて、それを機会に四国・淡路の儒者ネットワークを研究されている四国大学の太田剛先生と知遇を得たことである。太田先生は私の話を聞いてさっそく鴨里のお墓を訪れて拓本をとってくださった。そして、「私は今までたくさんの儒者の墓の拓本をとってきた。拓本をとるためにお墓を磨いているとその墓主の気持ちがわかる。鴨里は子孫にあいたがっている。半年以内に鴨里のお墓にお参りしなさい。」とお叱りをうけた。

 「私は仏教徒なので、もう鴨里はどこかに転生しているような気がするのですが」と言い訳しようかと思ったが、「鴨里は神道式で土葬されている」と分かり観念した。

 というわけで、再び淡路に渡ることになり、現在第二次淡路マイブーム期が幕を開けたところである。3月24日の朝、太田先生が洲本まで迎えにきてくださり、まずは、東洋學の泰斗石濱純太郎 (1888-1968) 先生のお墓(遍照院)に詣でる。

 境内にはひっくりかえったままの石碑や、欠けた墓石が多く、ご住職の奥様のお話によると、1995年の阪神淡路大震災、2013年4月13日の淡路島を震源とする震度5強、さらに、つい先日の3月14日におきた愛媛を震源とする震度5強にゆさぶられ、墓石が倒れては積み直しているのだという。 純太郎先生のお墓の近くには純太郎先生の父上豊蔵、祖父君勝蔵の墓があり、純太郎先生のご長男で、小説家の恒夫 (1923-2004) さんも合葬されていた。

 ここで私の直接の祖先のお墓(俗名 徳右衛門)のお墓を探すが、これまた奥様によると、境内の子孫のお参りなくなった江戸末期の墓石はもうどこぞに処分してしまったとかで、確認はできなかった。本寺では過去帳も整理していないとのこと。くすん。

 次に、淡路の殿様であった稲田家の江国寺の墓所に参拝する。稲田家の墓所の目立つ所に私の祖母の曾祖父鴨里の手になる稲田家の顕彰碑?がある。
104.jpg
門前の庚午事変 (1870年) の慰霊碑に手を合わせる。庚午事変に興味のある方は小説『お登勢』、吉永小百合が主演した映画『北の零年』とかを見るといっぱつで分かる。これだけ小説やら映画になっていることからも分かるように明治3年のこの事件は悲惨にドラマチック。ひらたくいうと明治維新のあと淡路の稲田家(徳島藩の陪臣)が阿波から独立しようとし、徳島藩側の蜂須賀家の家臣が怒って、洲本にある稲田屋敷を大砲うちまくって襲った事件。事後、明治政府は稲田の家中を北海道の静内へと送りこみ、壮絶な開拓サバイバルを繰り広げることに。うちの家系は蜂須賀側だったので、北海道には行かず、大阪にでて、祖母の代に東京へと移った。というわけで、江国寺で稲田の殿様に手を合わせる。

 次は鴨里の生家である砂川家を訪れる。鴨里は養子で、もとは王子村の庄屋の砂川さん家の子。生家は子孫によって町に寄付されたが、現在は時代劇のロケ地として貸し出しをまつ身。一時レトロ体験村として機能していたこともあるが、平成の大合併により閉園に追い込まれたよう。
120.jpg
見れば、敷地中に雑草が生い茂り、昨今の大地震でしっくいはあちこちがはげてひびが入り、修繕された気配もない。一言で言えば廃墟。淡路島歴史文化資料館で手に入れた「砂川家文書」の説明文には以下のような一文があった。

津名町志筑から一宮町尾崎へ通ずる県道が町境の峠坂にかかる手前の集落が江戸時代の王子村である、この村の庄屋は砂川家であったが現在は子孫もなく、最後の子孫砂川幸子さんは、昭和四十九年先祖から伝えられて来た、宅地と残存していた長屋を津名町に寄贈した。津名町はこれを活用して「レトロ村」と称し、子供達に祖先の生活を体験させる施設に利用している。
 砂川家は幕末期の碩学であった[岡田鴨里]が生まれ育った処というので、それにちなんだ施設として、子供達に勉学を勧めるという有意義な施設となっている。
 次に同家に残された文書・什器類であるが、幸子さんの生前重要なものは甥の羽田功一氏(志筑在住)に譲り、残余の処置については親族の五色町鮎原の歯科医師砂川癸巳夫氏が当り、文書整理については砂川氏と懇意な鮎原出身の洲本の歯科医高津全雄氏が当たり、残余の書冊等を収容した模様である。しかしその間相当の日時が経過しており、屋根裏や納戸の奥の残存物などは、無住で町の管理粗雑であった時季に、近村の野次馬や阿波の業者などが勝手に侵入して運び出したり、処分をしたといわれているので、散逸したものも相当あると考えられる。
 平成七年一月十七日の大震災によって、主要な保管先である志筑の羽田功一氏邸は全壊し、文書箱等は戸外に野積みにされた。目の早い阿波の業者はこれを見付け、二束三文で買い取ろうとして箱をかかえて車に積み込もうとしたのを羽田氏が制止し、間一髪で保護した模様で、その後早速史料館に寄託を依頼されて来た。震災による被災文書の第一号として受け入れ、更にこの機会に高津全雄氏保管の砂川家関係文書と一体化して整理登録するのが望ましいと考えて、高津氏に交渉、快諾を得て、その分の文書を運び込んだのは同年四月の事であった。
 

つまり、町の管理がずさんであったため早くからこの家には勝手に業者が不法侵入して文書や什器を持ち出しており、、さらに阪神淡路大震災のどさくさにまぎれて、子孫の所有する文書すら「業者」に持ち逃げされるところだったのだ。今、鴨里の墨書は二万円とか三万円とかで取引されているが、この時流出したものも一部にはあるのだろうな。

 砂川家に来る前に、建物を管理する淡路市教育委員会に、『建物の鍵あげて中見せてください」と電話をしたところ、「閉園したのでダメ」といわれたが、「これはきっと子孫にこの様を見せたくないからだな」と邪推する。コレでは子孫は何のために公共機関に寄付したんだかわかんない。

 使わないなら、私にくれ。老後にすむ。と思ったのであった。

さて、次は鴨里のお墓を守ってくださっている栄福寺に行く。ご住職のおじい様は早稲田大学卒ということで、非常によくしてくださった。そのおじい様の代に旧岡田家の敷地に岡田鴨里の巨大な頌徳碑をたてており、その時の史料をコピーして待ってくださっていた。
228.jpg

 さて、いよいよご先祖様のお墓詣でである。鴨里のお墓は栄福寺に隣接する向かいの小山の頂上近くにあり、かつては地域を見下ろしていたという(今は竹林が目隠しになっている)。鴨里、鴨里の孫の真、養子の文平の墓石が並び、文平の墓のみが上部が欠けて下に落ちていた。おそらく昨今の地震の被害と思われる。養子の墓石だけが割れたのがもの悲しい。ご住職と二人でお経を唱えて、作業に入る。
224.jpg

 太田先生は「前回来た時は鴨里のお墓の拓本をとったので、今日とる鴨里の拓本はあなたにお土産としてあげる。私は孫の岡田真の拓本をとる。」とおっしゃって、まず、お墓についたコケやカビをおとす作業に入る。こうやって墓石を磨いていると何かご先祖様に孝養を尽くした気になるから不思議だ。「ご先祖様。もし転生していなかったら良い転生を、そのまま神道でいたかったら、穏やかにここにいらしてください」とお祈りする。

 鴨里は賴山陽の高弟で、山陽を継いで『日本外史補』を書いたことで著名であり、太田先生によるとその書も賴山陽に似ているという。鴨里の他の著作は『名節録』『草莽私記』『蜂須賀家記』『山道遊記』『西遊記』『五倫の辧』『抄善録』『抄録詩文』などである。最初の二つの題名をみてピンとくる方もあるだろうが、ようは勤王思想をお持ちであり、娘の一人は天誅組のメンバーに嫁いでいる。ひ孫の私の祖母はこの岡田家からでているので、ものすごいスパルタママで、四人の息子を三人まで東大にいれ一人は東工大というすさまじさであった。私は父の死の直後に生まれて母に育てられたので学者になるような環境は全くなかったにも関わらず、今こうして歴史の研究者になっているのは遺伝なのだろうか。そんな限定した遺伝ってあるのだろうか。

 お墓の拓本をとったあと、太田先生に徳島空港まで送っていただく。鳴門の渦潮は夕方時とあってほんとうにハデに渦巻いていて、奥村土牛(1889-1990)の名画「鳴門」を彷彿とさせた。太田先生によると月の引力がこの渦を作っているそうで、我々がたっていた淡路島側の岬は、江戸時代から渦潮観光のスポットだったそう。このたびは太田先生にはお手数おかけしてしまった。また、江戸末期から明治初期にかけての阿波=徳島藩についての知識をご教示賜り、勉強になりました。ありがとうございました。
258.jpg

こうして、第二次淡路島マイブームが再び始まりそうなのだが、日本近代史研究も漢学のスキルもない私にどこまでご先祖のナゾが解き明かせるのか、彼らの思想を理解できるのか、まったくもって未知数なのである。そう同僚の日本中世史の先生に訴えたら「チベットなんてやめて、日本史をやったらいいじゃないですか、こっちの方がおもしろいですよ」と謂われて複雑な気持ちになった。

ご先祖様安らかに眠ってください。
[ TB*0 | CO*2 ] page top
DATE: 2014/03/26(水)   CATEGORY: 未分類
14年春のディープなチベット情報
 3月23日は大阪の清風学園において行われたロサン・テレ先生のチッタマニ・ターラーの灌頂に参加しました。まず、平岡理事長のご挨拶の中にでてきたお話の中から、このブログをご覧になっている方が興味もたれそうな情報を簡単に述べます(もうご存じの方も多いかもしれませんが)。

(1) 法王事務所の代表が6月よりラクパ代表からルントクさんへと交代。ルントクさんは日本の大学を卒業されて日本の代表事務所において長年勤められていたので日本語ぺらぺら。平岡理事長いはく「日本語のしゃべれるラクパ代表が就任してから、日本人と代表事務所のコミニュケーションが格段によくなり、ダライラマ法王が何度も来日され、日本人の多くの方とふれあえるようになった。今度も日本語の通じる方が代表となってよかった」という旨のお話。

 その後、ラクパさんとルントクさんが交互にご挨拶。ラクパ代表は次はオーストラリアに駐在されて、マレーシア、シンガポール、ニュージーランド地域の代表に就任されるとのことです。

(2) ロサン・テレ先生の灌頂が急遽今週土曜日3/29に開催されるとのこと。以下詳細。

導師: ロサン・テレ先生
本尊: 薬師如来
時日: 平成26年3月29日
場所 学校法人清風学園 南館7階ホール
問い合わせ先: 06-6771-5757
お志: おいくらでも結構です。

平岡校長によると「ロサン・テレ先生の薬師灌頂はあまりに功徳があるので異教徒のインド人も受けにくる」とのことです。

(3) ガンワン先生の生まれかわりの童子が無事にインドのガンデン大僧院へと迎えられました。ガンワン先生はガンデン大僧院ファラ地域寮出身、ギュメ大僧院の僧院長をつとめられた大学僧で、平岡校長のラマであった関係上、何回も来日され日本とご縁の深い方。私も先生を通じてチベット仏教の奥深さを学ばせて戴いた。先生は2009年の1月29日に遷化され、去年のエントリーでも紹介したように、生まれ代わりが公式に認定されましたが、去年の時点ではまだ彼がネパールにいたため、安全上の理由から顔写真その他を公開できませんでした。しかし、今回、童子が無事にガンデンに到着したことから、晴れて顔写真を初公開(クリックすると大きくなります)。
ガワン先生童子

平岡理事長曰く「上品で男前」。たしかに。

●さて、灌頂です。密教の教えは秘密の教えなので、中身は口外できないため、最初と最後の導師の法話を以下に再録いたします。

〔灌頂前〕

 我々はお釈迦様という同じ先生をもつ同窓生です。国は違ってもこうやって集まれることをとても嬉しく思います。みなさんも良い機会を得ることができたと喜んでください。今日お授けする灌頂の本尊はチッタマニターラー尊という無上ヨーガの母タントラの女性の仏様です。お釈迦様に始まる教えは現在に至るまで多くの人をへて伝わっていますが、このチッタマニの教えは、チッタマニ・ターラー尊が200年前のチベット人カルキワンポの前に直接現れて授けたものなので、お加持が近くて、功徳が早いと言われています。
 チッタマニの教えは仏教の中でも大乗の教え(他者を救うために仏の境地を目指す教え)であり、さらに密教です。大乗は上根(勝れた器)の者に説くものであり、大乗の教えのないところで器でないものに説いても相手にされないこともありますが、日本は幸いなことに大乗仏教の国で、大乗を説く環境がととのっています。

 経典によると、覚りを開く仏は1022人出現すると説かれています。しかし、このうち密教を説く仏は釈迦と1022人目の仏だけと言われています。つまり長大な時間の中で、密教の教えを受けることができる者はごくわずかなのです。密教の教えに出会うことは、太陽の出ている昼間に星を見つけるくらい難しいことなのです。

 だから今日という日に密教の教えを受けることができることを喜んでください。「こんな機会を得られるなんて、何て自分は徳が高いのか」と喜んでください。

 灌頂を受けることは密教に入門することを意味します。灌頂はチベット語でワン=権利という意味で、灌頂をうけると、以後は密教の実践を行う権利を得られることを指しています。

 灌頂を始めるにあたり、道場から魔を払うことは重要です。魔とは牙を剥いた鬼のようなものをイメージするかもしれませんが、それは違います。魔とは仏教の実践を行おうとする際に、邪魔になるものです。仏法を実践しようと思っても、体調が悪くなった、友達が遊びに誘ってきた、仕事が入ったなどで、できなくなることがあります。このようなことを魔がさすというのです。

 だから、魔は牙を剥いた鬼ではなく、笑いながらこちらにやってくる友人の顔をしています。仏法の実践をさえぎるという意味では、魔は母であることも、父であることもありうるのです。私は今から忿怒尊を召喚してこの道場にいる魔に供物をあげて、これから行われる灌頂を邪魔しないように外に追い出します。

〔灌頂後〕

 あなたたちが灌頂を受けに来た動機は、仕事ではなく、仏法を求めるためです。私は仏法を授けることによって人の役に立ちたいと考え、あなたたちは私に仏法を求めてやってきました。私とあなた方がともに同じ気持ちをもって協力したため、魔が入ることなく灌頂は無事に終わりました。

 この灌頂によってあなたたちの意識には習気すなわち「仏(チッタマニターラー尊)になるための種」を授けました。これは種ですからほっておいたら何もおきません。水をあげ肥やしをあげなければ芽を吹きません。肥やしは他者に資する良い行いをすることです。これは今生だけではなく来世も続けなさい。

 日本は大乗仏教の国です。あなたたちが生まれた時からこの伝統の中で過ごすことができているのは素晴らしいことです。この仏教は先人が維持してきたことにより今みなさんの前にあるのです。みなさんも先人の築いた財産を空費せず、次代につないでいかねばなりません。そのためにはあなたたちが自覚をもって注意深く仏教を実践しなければなりません。

 かつて中国は仏教大国でしたが、今はあの通りでの状況です。チベットの仏教も危機に瀕しています。日本の仏教も注意深く継承していかねばなりません。最後にみなさん今日灌頂を授かることによって積んだ膨大な功徳を、自分のためにではなく他者のためにさしあげま(廻向)しょう。

(1)仏教がこの世に残ってくれますように
(2) ラマが長生きして仏法を長く説いてくれますように
(3) 一切の衆生が苦しみから逃れますように

この三つにあなたたちの積んだ徳を廻向しましょう。


というわけで、めでたく灌頂が終わり、私も久しぶりに真っ白な菩提心に包まれたのでありました。

2010年に一緒にチッタマニを受けた青年僧Sくんと久しぶりに再会したので、灌頂の後ドミニク・ルトランジェ氏の作品の飾られたオサレななかたに亭で青年僧Sくんと出雲峯寺の快遍副住職とお茶して、仏教についてこれ以上ないディープな談義をした。

 私はこのお茶のあと、淡路島にご先祖の墓参兼調査に向かった。帰ってから、FBをみてびっくりした。同じ淡路にご先祖をもつ遠縁のEさんがこの前日、Sくんのお寺に参禅していたのである。
 私はEさんが禅に興味があることも、彼が関西に向かうことも知らなかった。彼が三連休に参禅すること自体は不思議ではないが、京都にある多くの禅寺の中からSくんのお寺にいったのがとても不思議であった。Sくんと私が再会するのも四年ふりくらいなのに。

 一族の血のなせるわざか、仏縁か、わけわかんないが、不思議な偶然の一致であった。
[ TB*0 | CO*2 ] page top
DATE: 2014/03/22(土)   CATEGORY: 未分類
北京ミニ滞在記パート2 (「あの寺は今」篇)
 清朝皇室はチベット仏教を大変重んじていたため、北京の大寺院はほとんどチベット系である。清末、北京に滞在した寺本婉雅は「チベット仏教は清朝の国教」というほど、かつてチベット仏教は北京で殷賑を極めていた(興味ある方は拙著『清朝とチベット仏教』を読んでくださいね!)。

 清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代、チベット仏教の転生僧チャンキャ三世は、乾隆帝の側近くに仕え、清朝の立場を代弁して、チベット、モンゴルの仏教界と交渉を行った。まあ、いろいろ違う要素もあるが徳川家康と天海大僧正の関係みたいなものか。その清代、歴代のチャンキャが駐在した寺が故宮の北にある嵩祝寺である。

このお寺は中国国内の他の宗教施設同様、20世紀に入り荒れ果てていた。2005年8月、嵩祝寺の名を残した道路に囲まれた一角をぐるっと回ってみたが、店舗と民家になっており、嘗ての山門から境内をのぞきこむと、元東配殿・西配殿らしき建物は内装を壊して改装中であった。当時、北京城内は三年後の北京オリンピックに向けて乱開発が行われていたため、これもその一環と思われた。

 その後、2013年の1月に「嵩祝寺が高級レストランに変わるが、これは文化財保護法に違反するのではないか」とする以下の記事があがった。私の中国語力はかなりトホホなので原文を確認できる方はこちらをどうぞ。

「嵩祝寺と智珠寺がレストランに変わった。これが法に抵触するか否かは解釈が待たれる」 北京晨报 2013年01月29日 09:52:41  
 
 新華社電によると、近日、高級レストランに改装された北京の嵩祝寺と智珠寺の件について、北京の文物局 (文化財担当部局)が28日、文物執法隊による現地調査を入れた。両寺内の一部がレストランに利用され、古建築内にはテーブルなどが放置されていたものの、露出した火は使用されていなかったことが確認された。当該の行為が規則に違反しているか、そして事後処理について北京市文物局はさらなる説明を行っていない。記者は現場でこの両寺が営業中であることを確認している。

 嵩祝寺は北京市東城区景山後街嵩祝院23号、1984年に西側の智珠寺とともに北京市の文化財となった。嵩祝寺と智珠寺はかつては境内を連ねる三座の大寺東に法淵寺、真ん中に嵩祝寺、西に智珠寺があった。このうちもっとも古い寺が、永楽年間に建造された智珠寺で、明代には漢文とチベット文の経典を印刷する工房であった。

 智珠寺と塀一つ隔てた嵩祝寺は、清朝の雍正帝の11年(1733年)に建築が始まり、かつてはモンゴルの活仏チャンキャ・フトクトが活動した場所である*(私注: チャンキャはアムドの出でチベット仏教徒なので、モンゴル僧というイメージで果たしていいかはナゾ。また、仏は転生しないので、チャンキャを活仏というのも不適切)。
 
近日メディアが、この二つの古寺が改築されて高級レストランになることを伝えると、熱い議論が巻き起こった。
 北京市の文物局によると、嵩祝寺と智珠寺は,1950年代から牡丹枝貿発展公司、北京大地科技実業有限公司(牡丹園アパート)、北京市装潢設計研究所、北京文体百科工業聯合公司などが管理使用していた。1980年代に宗教政策が実行されるようになってからは、この建築の財産権は北京市仏教協会へと移された。しかし、上述のこの協会が多くの理由から、両寺を賃貸にだし、北京市仏教協会は賃貸料をとりつつ、両寺を借り手とともに協同管理している。

 この両寺の建築は長年にわたり作業場や倉庫として使用されていたため、文化財の痛みは激しく、安全上も大きな問題がある。2005年、北京市文物局は北京市仏教協会と寺の使用者に対して改善を命じる厳しい通達を行い、協議の結果「資金を集めて文化財を修繕し、修繕の後にはその出資者が使用する」こととなった。

 記者の取材では、北京市文物局は出資者についてはっきりした情報は出さなかったが、すでに両寺はレストランになることは確認されており、商業施設となる。『中華人民共和国文物保護法』第23条によれば、「査定をへて文化財となったものは国家に属し、すべての古建築は博物館、〔文物の〕保管所、参観施設以外の用途に用いる場合は、人民政府の文物行政部門の認証をへた上で、一級文物行政部門の同意を得た後、当該の文化財の人民政府の批准を公布する」とある。

 寺院内においてレストランを開設することについての是非は、この批准をまつことになり、北京市文物局執法体調趙建明はさらに一歩進んだ調査が必要だと明言した。

 2011年8月国家文物局が発布した『国家文物保護単位経営性活動管理規定』には、「国有文化財の経営生活動は公共文化に属さないものを禁止する。文化財を賃貸、請負、譲渡、担保にだすことを禁止する。営利目的の商業開発; 公共の安全を妨害すること、文化財保護にとって害を及ぼすことを禁止する。」両寺の内部でレストランを作ることが上述の規定に反するか否かは、なお北京市文物局のさらなる解釈を待ちたい。


というわけで、2014年の嵩祝寺である。

 北京に来た私はK嬢にこのように誘われた。

 K嬢「センセー、前門の洋館をかいしめてオサレに再開発したあの集団が、嵩祝寺を買い取って、オサレな高級フレンチレストランにしたらしいですよ。中に入って建築がみられるから、行ってみましょうよ。ランチならそんなに値段ははりませんよ、きっと」

 確かに、客になれば内部を正当に見学できるので、行ってみることとする。

 地下鉄を降りて歩くこと約十分。嵩祝寺街に入る。この通りの外観は2005年当時とあまり変わっていない。しかし、山門前に黒服の男がたっている。高級レストランの関係者とみたK嬢が「予約がなくても大丈夫ですか」と話しかけると、少し待てばOKという。

 そこで、山門をくぐってかつての境内で待つこととする。山門内部の棟や梁は塗料はハゲハゲで木質が剥き出し。壁には直接薄型液晶ビジョンが四枚かかっていて映像を流している。

 境内に入ると、境内をはさんで東側はテンプル・ホテル、西側はTRB(テンプル・レストラン・ペーチン)の建物になっていることが分かった。かつての智珠寺の本堂はテンプル・ホテルの講堂になっている。
 本堂は裏からみると塗料はげはげで昔のままのたたずまいで、天井の天板もぬけたまま。少なくとも現状は維持しているが明らかに修復はしていない。
DSC02790.jpg
DSC02795.jpg

 そして、驚いたことに講堂内部ではナイキの新作発表会をやっていた。本堂の中には液晶ビジョンとパイプ椅子が並んでいる。
DSC02789.jpg

 さらに本堂前には人工的な池と煉瓦作りの別棟の新設されておりテンプル・ホテルの客室となっている。どこから見てもこのお寺、商業施設である(はあと)。
DSC02798.jpg

 さらにテンプル・ホテルは近代アートの展示場になっているらしく、境内には清朝時代の扮装のアートな人形があり、弁髪男が座っていたり、正装したチベット僧が蛍光灯しょっていたりするし、なんかいろいろパフォーマンスをやっている(爆笑)。
DSC02797.jpg
DSC02785.jpg

 もうどこからつっこんでいいのか分からないので、「テーブルのご用意ができました」と言われるまま、レストランに入る。

 入り口はかつての寺の建物をそのまま用いており、自動ドアの向こうには洋酒がならんでいる。
DSC02782.jpg

 で、これが店内。
DSC02788.jpg

この建物は新造部分で、日本のフランス料理屋さんとなんら変わらない内装である。私たちが席に着くと、三人くらいのウェイターが素早くかしづいてくれて、そのうち一人は白人。
023.jpg

 雰囲気がリッチなので、ついほいほいグラスワインをたのみ、コーヒーまで飲んでしまう。お料理はフレンチなのに八角の味がして中華風味になっていて、とびきり美味しいというほどではない。客層は当然白人か北京の富裕僧であり、われわれもなぜかウエイターと英語で会話する(笑)。

 そして、お楽しみの会計タイム。サービス料15%加算されて、全部で310元でした。この値段差を体感するために、その前の晩の夕ご飯代を申し上げますと、中央民族大学の裏手にある雲南うどんやたべたうどんの値段が11元。雲南うどんを吉野屋並盛り280円とすると、テンプル・レストラン・ペーシンのお昼は7890円くらいの感覚か。

 て、高っ。
 
よく途上国で先進国のサービスを受けようとすると日本より高くなるというけど、これがそれか。

 かつてのチベット寺ですごしたゴージャスなひとときは、チベット仏教がいかに北京で壊滅しているか、「上に政策あれば、下に対策あり」「法律は空文化」を体感できた貴重なひとときだったのでした。

[ TB*0 | CO*2 ] page top
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ