白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2009/07/01(水)   CATEGORY: 未分類
丑三つ時の怪奇現象
★傷ついたハトが社会復帰?するまでの物語をアップしました。ごろう様のとさか写真もあります。
http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/pigeon.html

 明け方、チャイムの鳴る音で目が覚めた。何度も何度もしつこく鳴る。時間をみたら午前三時。雨戸をあけて「なんですかー」と怒鳴るが、門の前には誰もいない。門扉は二十センチほどあいていた。

 しばらくするとまたチャイムが鳴り始めた。

 業を煮やすが、午前三時、雨がシトシトふっており、とても外にでて確認する気にはなれない。

 だって、この場合考えられることは、

1.チャイムが梅雨の湿気で異常接触状態になってなりつづけている。
2.誰かがが死にかけてて幽体で私に会いに来た。
3.誰かが死角に隠れて棒か、手だけのばしてチャイムを押している。

 
 しかしうるさいのでほっておくわけにもいかず、今度は一階におりて、玄関正面の窓をあけてチャイムのある位置を確認してみる。するとさっきは二十センチほどあいていた門扉が閉まっている!

 これで3.の可能性がぐっと高くなった。だって、1.の場合、なぜ午前三時にチャイムが突然毀れるのか、また、どうして間歇的に連続してなったり、とまったりするのか説明がつかない。また、2.の場合にしても、ユーレイにしては上田秋成的な謙虚さとか、小泉八雲的なはかなさがまったく感じられない。

 とにかくこんな夜中にウルサイんだよ。

で、3.の場合。体をかくしてチャイムだけをつついてならしているような人と午前三時に対面したくもない。結局三時二十九分にチャイムのコンセントをみつけて抜いて静かになった。

 しかし、問題が根本的に解決したわけでないので、夜が明けるまで寝ずに警戒。

 ケーサツに電話をして不審者を捜してもらおうかとも思ったが、不審者の姿を確認したわけでもないし、万一うちのチャイムの内部がシロアリにでもくわれていて、毀れて鳴っている場合、恥をかくだけなので見送った。

 今晩はチャイムの電源をきって、戸締まりきちんとして重武装して寝ることとする。

後日談、その二日後、チャイムがなった晩と同じように雨がふった。そしたらやはり雨がふりだして数時間後、チャイムが突然連続してなりだしました。
結論としては、古くなったチャイムが湿気で異常をおこしたもののようです。
 おさわがせして、すいませーん。

ダン・ブラウン原作で『ダヴィンチ・コード』の続編『天使と悪魔』を例によって川崎のシネコンに見に行く。

 ダン・ブラウンの作品てなにげに、記号学者ウンベルト・エーコのミステリーの大衆版。
ウンベルト・エーコは学者さんらしく、犯罪現場は中世の修道院、謎解きは修道士、ラテン語やら象徴やら記号やらを小説の随所に効果的にだしまくって、スコラ哲学までえんえんとやりまくり「理解できないやつはついてこなくていーぞー」の重い濃い、そしておもしろい作品であるが、 ダン・ブラウンの作品はひたすらアメリカンに軽く、ポップで、舞台は誰でも知っている名所旧跡、謎解きの主人公はハーバート教授のロバート・ラングドン(トム・ハンクスがやってます。ロバートが象徴学者で大学教授ってあたりで、ウンベルト・エーコがモデルかあ?)。テーマもいつもとってもわかりやすい。


 そのテーマとは狂信と背信の間にあるホンマの信仰、科学と宗教はじつは対立していなくて、同じ世界を別の言葉でかたっているのだ、みたいな中道のものの見方である。

 だから、登場するキャラは善玉と悪玉などというわかりやすい区別はなく、以下、ネタバレになりますが、後半カメルレンゴに扮したユアン・マクレガーが、反物質の大爆破からバチカンをまもるため、一人爆発物もってヘリで上昇していくシーンにはその犠牲的精神(SACRIFICE)に涙しますがが、あの時流した自分の涙にものすごくハラがたちますよ。あとで。


 日本人は欧米の映画作品をみると「単純な善悪の二項対立」とか、「宗教は争いのもと」みたいなイメージをもちがちだが、たとえばこの「天使と悪魔」にしても、作品をよく見てみると、そういうアホな両極におちいったサブキャラを描きつつも、主人公、この場合はラングドン教授は非常に理性的でありつつも信仰のある人物として描かれ、そのことから作者もこの中道をめざしていることが分かる。

 「欧米流」を批判的に語る人々は、「欧米とは善悪の二項対立のもとにすべてを二分し、世の中にローラーをかけてのしていくメイワクな存在」と規定し、「アジアはもっと曖昧なの。自分たちの好きなようにやらせて」、みたいな考え方をよくするが、じつはこの考え方こそまったくもって自分では気がつかないうちに西洋と東洋をそれぞれにレッテルはってきめつける二分法におちている。

 欧米だって、じつはつねに二項対立をこえた中道をめざしているんだけど、往々にしてうまくいかないだけ。ことの善悪の判断をまったくせず、銭勘定だけを考えて動き、自己をまったく省みないアジア的な我々がほめられたもんでも、中道でもないことは言うまでもない。

 科学も宗教も同じものを別の言葉で語っているのであり、対立するものではない、これはダライ・ラマのよくおっしゃっていること。

 ハリウッド映画にしろ、オバマ大統領の発言にしろ、アメリカというだけで、批判しまくる人たちはまず、彼らがいわんとほっしていることをきちんと理解してうけとめてから、その批判に値するかを考えてもらいたいと思う。

 ホンモノとはじつは情熱、激情、とは離れた、静かでクールで知的なものなのである。
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DATE: 2009/06/26(金)   CATEGORY: 未分類
ご負担の軽減
火曜日に、ダライラマがチベット難民向けにだしたビデオクリップが、ヤフーニュース(産経新聞配信)にのり、それを見た学生が、一大事のように騒ぐ。

 しかし、この記事、いまだに「活仏」とかいう中国メイドな表現を用語解説までつけてのせているし、チベット事情にうとい人によって書かれた記事であることが一目瞭然である。そこで、元ネタとなったロイターを読んでみた。

 そしたら、内容は別に目新しいものでなかった。

 ダライ・ラマがおっしゃりたいことは、チベット政府を率いていく代表を早く決めろ。それについては、ダライ・ラマ一人が政治と宗教の全責任をもつ今の制度は、過去はうまく機能していたとしても、これからは厳しい。民主主義は小さな欠点はあるものの今のところベストな制度であることは明らかだ。高僧達の中からでも、チベット政府の中からでも適当な代表者を民主的に選んでチベット政府を統率させよう。

つまり、ダライラマ一人がチベットの政治と宗教の全責任を担う「ダライ・ラマ体制」について考え直そうよ、といっているだけ。

 これは普通にいいことだと思う。

 政治についてはいまもサムドン・リンポチェ(2001年に選挙で首相に選ばれて二期目)ががんばって下さっているから、彼に引き続きがんばっていただくとして、宗教については諸宗派に数多いる高僧たちに世界中でガンガン仏教を広めてもらうこととする。

 政治と仏教を一人の人間が司るなんてのは確かにもう、猊下のようなスーパーマンでなければムリ。
 高僧のみなさま、政府職員のみなさま、もっと前面にでて、猊下のご負担の肩代わりをしてください(どっかの国でも同じようなことが問題になっとるな 笑)。


 木曜日は厄日だった。駅についてふと気づくとiPodのイヤホンがない。もう一度家までの道をたどって探すがない。

 時間が迫っていたので泣く泣く駅に戻って電車にのる。原宿まできたところで、列車に乗り込んできた人がワタシの本を読む手に軽くぶつかり、本を取り落とした。

 わたしは乗車口付近にいたので、落ちた本は列車とホームの隙間をすりぬけて線路に落ちた。

 人はあせった時に何語が口をつくかによってその本質が分かると言う。私のクチをついたのは、ゲッでも、アイヨー、でも、アイゴーでもなく、

 オーマイガッ!(嘘)

 だって、図書館から借りた本なんだよ! 

 仕方なく原宿で降りて、駅員さんを探すが、無人化のあおりで誰もいねえ。
 しかたないので、有人改札のありそうな原宿口に急ぎ、駅員さんに訴えると、駅員さんはお茶の間ショッピングで売ってる高枝切りばさみの先をマジックハンドにかえたようなもので、本をとってくれた。

 長い人生、線路にものを落としたのはコレがはじめて、トホホである。
 ゼミ生にこれを話すと「そういう日は何もしないで家で寝ていた方がいい」と言われる。

 私も「なんかただ立っているだけでも、上から金ダライがおちてきそう」なので、大学が終わったらまっすぐ帰る。地元駅をでたら、駅からすぐの交差点の上に、あれだけ探してもなかったイヤホンがおちていた。

 一日車にひかれてぺちゃんこになっていた。アップル製品を心の底から愛する旦那がみたらさぞ胸をいためることだろう。供養のため拾って家にもってかえる。

 ダンナに電話をしたら、アマゾンで新しいイヤホンをかえ、とURLをはってきた、三千ナンボもする。

 イヤホンって結構高いのね。まあいいけど。
 たまには日本の消費に貢献しないとね。と自分を慰める。
 
 そしたら、金曜日、起きるなりテレビがマイケル・ジャクソンが死んだといってる。マイケルの全盛期に青春を送った身としては、ファンであるとかないとかいう以前に彼は「一つの時代」であった。

 そのため、授業の準備をせにゃならんのに、Youtube で Thriller とか Beat itとかのPVに見いる。必然的に現代史研究の授業は今、アフリカをやっているのをいいことに、
独断と偏見により、最初の十分をマイケルに捧げます」とWe are the Worldの映像などをみせて、彼の利他的な側面を説き「彼はただのヘンタイでない(笑)」ことを強調する。

 そう、レイ・チャールズ、ビリー・ジョエル、ボブ・ディラン、スティービーワンダー、ポール・サイモン、ティナ・ターナー、シンディー・ローパーなど大御所アーチストを力ワザで40人もあつめて、歌われたあの名曲はマイケルが作ったものなのである。

 しかし、七十年代、八十年代はいい音楽が流れた時代であったのう。
 この時代のBand Aidなどのチャリティ映像は見ているだけで、明るい前向きな気分になれる。まだ、チャリティを偽善とか無意味とかいうような人たちもいなかった。

 埋めたビデオクリップ見てね。明るい気持ちになれるよ!
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DATE: 2009/06/22(月)   CATEGORY: 未分類
DVふたたび
日曜午前零時頃、ネットのニュースに「テヘランのデモ隊が武力制圧され少なくとも十一人が射殺された」という一報が流れた。

 昨日からイラン政府は外国マスコミの取材を禁じ、なにかヤラカシそうな感じ満載だったが、ついに、市民に発砲したのである。

 坊さんのデモに発砲したビルマもチベット人に発砲した中国も、今回のイランも、非武装のデモ隊に発砲した時点で、何と言い訳しようとも彼らは人類共通の敵。

 それにしてもテレ朝のサンデープロジェクトはテキトーなことをいっていた。

 曰く「石油の富を貧困層にばらまいたアフマディネジャドが選挙に勝ったのは当然である」(これは暗に選挙結果を受け入れない勢力を非難しているね)。
「ムサビも首相までつとめた体制派なので、最高指導者のデモ禁止令をやぶってまで行うデモには引くだろう」
 「アメリカ大統領のオバマさんは対話路線を打ち出しているから、アフマドを非難するなど強いことはいえまい。それに、強硬派におさえのきくアフマディネジャド氏と話し合った方が実質的な対話ができる」みたいな、解説をしてた。

でも、今流れているニュースによると、ムサビさんは殉教覚悟でデモを支持するといっているし、オバマ氏もイラン政府を非難した。サンプロの予測、一日もたたないうちに全部外れてるやんけ。

 サンプロが予測を思い切りはずした背景には「アフマディネジャドはすくなくとも貧困層に支持されてるんだし、いいじゃん」みたいな予断があったからと思われる。

 しかし、これこそまさに日本人の識者の多くが囚われている宿痾である。

 それは、食い詰まった貧民の暴力には「造反有理」と暖かい視線を送るが、都市民や知識人の自由を求める非暴力闘争には「欧米カブレ」と冷たい反応をとるという宿痾が。

 両者ともに命を捨てて政府に対して蜂起したという事情にはかわりないのに、後者にのみ冷たい態度をとるのはまったく非論理的。ましてや後者の場合については政府は非暴力デモに発砲しているわけだから、より弾圧側の責任が問われるというのに。

 日本では麻生太郎をアホ呼ばわりしようが、自民党を批判しようが、だれも逮捕されることはない。デモに参加しても終われば家にかえってあったかいゴハンが食べられる。

 でも、言論の自由のない国家では、デモにでることは、監獄にぶちこまれること、サイアクの場合死ぬことを意味する。ましてや宗教国家イランにおいて、その最高指導者が「デモをやめろ」といった中でおきた事件である。この状況下で街頭にでた人たちは、悲しいことだがある種の覚悟を決めており、彼らは自分の命とひきかえにしても自由を叫びたかったのである。

 彼らはバラマキ金ほしさにアフマディネジャドに投票した人たちとはまったく異なるレベルの人たちなのである。

 文化や伝統を尊重しながら、国際社会と対話するような穏健な政府がイランにもし生まれることがあるとするなら、それはバラマキ金をあてにするような人々の中からではなく、今テヘランの路上で血を流している人々、その報に接して胸を痛めている人々の中からこそ生まれてくるものであろう。

 非武装の市民や知識人に発砲する政府には、もはや何の正当性もない。フランス、アメリカ、イギリスはみな政府に自重を求めた。日本もいい加減、人権とか欧米とかアホなレッテルはって判断停止するのはやめて、現イラン政府をきちんと批判したれ。

 で、余談ですが、

 6月22日の朝日朝刊の「ひと」コーナーにこの前長野でチベット・スピリチュアル・フェスティバルを主催し、かつチベット仏教の研究者である、長野西方寺の金子英一住職がとりあげられました。

 ほめてのばそう『朝日新聞』
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DATE: 2009/06/18(木)   CATEGORY: 未分類
ウーセル君の肉声
駅から自転車にのると、最初はぽつぽつだった雨が、急に激しくなり、雷はなるわで土砂降りに。家にたどりつく頃にはびちょぬれ。

 着ていたジャケットもうだめかも。今年にはいってからこのびちょぬれもう三回目くらいだけど、普通、雷って春雷とか夕立の時限定だろう。梅雨の最中にふるもんじゃない。これも日米中がCo2をたれながした結果か。

 さて、大乗仏教保護財団(FPMT)の日本トップOさんがリンクはってくださったので、記録までにウーセル君の肉声を和訳しました。例によっていい加減です。

 2009年6月 

親愛なる皆様

 人生の何たるかについて経験を積むことはよいことです。わたしは西洋と東洋の文化を両方体験することができて本当に幸わせでした。この二つの文化において私を助けてくれた全ての人に感謝を捧げたいと思います。インドと西洋の両方において暮らしたことにより、東西両文化を吸収させていただく良い体験となりました。

 インドにおいては運命を受け入れがたかったこともありました。他の人と異なった扱いを受けたり、他の人と距離を感じていましたので。しかし、その体験は本当に良いもので、わたしは今ではこの体験に感謝しています。

しかし、あるメディアがおかしな話をセンセーショナルにでっちあげ、また騒ぎ立てました。このようなニュースに書かれていることは読まないように、文字通りに受け取らないようにしてください。書かれていることすべてを信じないでください。
 
 インタヴューに際して、いかに真摯に誠実に重要な情報を伝えようと試みても、印刷されたものは、大衆の興味をひくためにセンセーショナルなものになっていることはみなも知っているでしょう。

大乗仏教保護財団は偉大な仕事をなしてきました。ソパ・リンポチェ(現在のFPMTの看板ラマ)は非常にすばらしい、人に刺激を与える力をもった方であり、偉大なるヨーガ行者でもあります。

個人的に、私はこれから、人間存在の本質を見つける新しい道を見つけていきたいと思っています。わたしと財団の間には何の対立もありません。いまもあらゆる点、あらゆる領域で一緒に活動しています。人間愛こそわれらの任務です。また、わたしは本当は仏教の研究をする資格がありません。というのもわたしは仏教研究の課程を終えることがなかったからです。なので、一緒に活動すること、これが鍵になると思います。

ので、私は未来の世代のために別の道を見つけようとしています。その道とは、音楽、映画、AV技術を通じてのものです。映画には多くの物語を凝縮することができます。音楽には様々な状況やメッセージを入れることができます。沈んでいく夕日は、ただそれだけで見る者を平和な気もちにさせ、自己を内省する瞬間を与えてくれます。映画にはさらに無限の可能性があります。

 こういうことができるのは映画に限りません。いろいろなところに現実に足を運び、平和を求める道をきわめた人々にインタヴューするドキュメンタリー何かも作ってみたいです。やってみたいことはたくさんあります。

 これが私が今計画していることです。しかし、計画することと、将来現実にどうなるのかはまた別のことです。心の中での将来予測ですが、今のところはこうしたいと思っています。

大きな愛をこめて

ウーセル

 
 この文章を読む限りでは、ウーセル君は「勉強はできないけど、他人に気遣いのできるやさしい大人」に育ってる(笑)。そういえばウセル君の前世とみなされているトゥプテン・イェーシェー師もいわゆる博士号は保持してなかった。そのうえ、僧衣をぬいでジーパンはいて野球帽かぶって外の世界を闊歩するのが好きな人だった。まあこの人の生まれ変わりならウセル君の現状も妥当かも。

 カルムキアで仏教復興にあたっているテロリンポチェも勉強は途中でやめて、結婚して、アメリカン・ロックばっか聞いてるけど、仏教を広める活動は続けているし。

 彼も同じような道を歩むのだろうか。

 というわけで、21世紀チベット仏教界は新種の転生僧を生み出しつつ、発展してんだか、衰退してんだか分からない道を歩んでいるのであったった。
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DATE: 2009/06/13(土)   CATEGORY: 未分類
破天荒
 教育実習にいく学生が今年は非常に多いため、ゼミの参加者が少なくわびしい。ゼミ生は基本、授業を受けるというよりは友達に会いに来るから、参加人数がへると、暇な人まで来なくなる。

 大学生に勉強をさせることは「ラクダを針の穴に通す」より難しいね。

 でも、掲示板に「教育実習でチベットが今どんなに大変かみたいなことを伝えました」なんて学生が二〜三人いるのをみると、ああ、学校にはきてなくても、うちのゼミ生なのね、と単純に嬉しい。

 私は中学校の頃、サヨク教育で有名な私立学園に通っていて、友達とか学校生活は好きだったのだけど、何としてもその人民教育になじめなかった。この学園では行事やホームルームばかりに時間を使い、教育のコンセプトはとにかく「みんな一緒」の悪平等。

 できない子にあわせて授業が行われるため、当然生徒の学力はメタメタ。ナイロンザイルの神経をもつ私でもさすがに耐え難く、ほぼ全員が系列校に進級する中、別の高校に逃げた。

 そういう体験があるため、同じ思いを学生にさせたくなく、自分の思想信条を学生に押しつけないようにしている。でも、年に一人〜二人はすごく反応のいい学生がいて、そういう子はやはりカワイイし、こうして教育実修でフリー・チベットを教えてます、とか言ってくれたりすると、本当にカワイく感じる。

 ということは、私の中学校の先生は私が可愛くなかっただろうな、と今にして思いいたる(笑)。つか、その後の人生をかけて、あそこで受けた教育に反論しているようなものだし、可愛げないどころではないですな。

 はい、本題。インドにおいて仏教復興運動に取り組んでいる佐々井秀嶺氏が43年?ぶりに帰国していることもあり、彼の伝記『破天』を読んだ。この佐々井氏の人生、題名そのまんま破天荒。小学生の頃から異常に強い性欲とウツに悩まされ、性(笑)と死の間で七転八倒したあげく、流れ流れてインドにたどり着き、カーストにすら入れてもらえない最底辺の人々と出会う。

 このアウト・カーストのひとたちの貧しさは昔からインドの大きな問題で、ガンディーも彼らに対する差別をなくすよう生涯何度も断食を行っている。しかし、この人たちはガンディーはきらいで、アンベードカルを彼らの英雄として尊んでいる。アンベードカルはアウト・カースト出身でコロンビア大学に学び法学博士になって、独立インドの法務大臣になった。

 ガンディーはイギリスの分割統治の罠に陥らないように、特定の階層、特定の宗教、特定の民族にこだわらず、みながエゴを捨てて他者に対して寛容の気持ちをもち、差別なんしちゃいかんよ、と普遍的な立場から人々を諭した(ダライ・ラマ法王もこの立場)。

 しかし、アンベードカルは違った。彼は、とりあえず目の前にある最底辺の人たちの具体的な権利向上を行うため、最底辺の人たちに特価した政治を望んだ。さらにヒンドゥー教を差別の温床とみて、最底辺の人たちをヒンドゥー社会から分離し、仏教に改宗させた。このような行動がいわゆる特定の集団の利益にこだわってインドの団結を阻むようにも見えたため、まあほかの階層からあまりよく思われなかったんですね。

今も、ガンディーはインド独立の父としてインドの大半の国民ならびに世界中から尊敬されているが、アンベードカルはこの特定のカーストの人たちの英雄にとどまっている。普遍対ローカリズム、いつの世にもある対立の構図ですな。

 で、佐々井師はこのアンベードカルの立場にたつものだから、やっぱあらゆるものと対決し孤立する。当時インドにはまともな寺も僧団もなく、ただにわか仕立ての名ばかりの在家の仏教徒がいるばかり。そこで佐々井師はひたすら寺をたて、人々を仏教に改宗させ、ヒンドゥー教徒が管理する仏跡を仏教徒の手に取り戻す運動をはじめる。

 で、そのやり方なんですが、佐々井師は最底辺のひとたちを何万人も動員して、仏教遺跡や首相官邸におしよせて、デモをしたり、座り込んだりして、要求に対する返答がくるまでがんばり続ける。問題なのは、彼が動員する人々は最底辺の人々なので、あまり品格のある運動が展開できないこと。

 インドで仏教が滅びてからうすら千年近くたつため、仏教遺跡の上にはヒンドゥー教の寺院がたっていたりする。佐々井師の動員した人々は彼が制止しないと、このようなヒンドゥーの神様をぶっこわしたり、警察とぶつかったりする。また、みな貧乏なので移動の際に電車賃が払えず、確信犯的な無賃乗車を行う。非暴力運動とは元来、統治者が自分の保身のために作った悪法以外の法は決して破らず、それ以外の法を遵守することによってその悪法の存在を際だたせる戦法なので、無賃乗車や他人の尊重する神像の破壊を行うことがすでに非暴力運動の枠からはみでていることは言うまでもない。

 「永年にわたる差別の結果、彼らは暴力と貧困に囚われている。だからこれくらいは負けとけ」ということなのだろうが、それを言い出すと、彼らと彼らが批判する対象のどっちが被害者かわからなくなってくる。

 また、佐々井師の右腕のアーナンダ師はアグラ戦争をあおり立てたアジテーターだし、左腕の人はバラモンを三人殴り殺して、二丁拳銃を腰にぶち込んでいたガンマン坊主。これが示しているように、佐々井師は思想よりも瞑想よりも行動を重視し、社会運動に力をいれた。当然、上座部仏教とも日本仏教ともうまくいかず、最澄と奈良仏教界、日蓮と既成仏教界みたいな対立がばりばり始まる。

仏教の克己的かつ普遍的な教えは、お釈迦様が王子サマであったことからも明かなように、そもそも上流階級向け。チベット仏教が欧米の知識人と上流階級で理解され、人民中国で排斥されているのもじつはさもありなん。

 日本のような教育のいきとどいた社会もどちらかというとこの克己・禁欲のチベット型仏教が向いているだろう。知識人は人種、宗教、国家の枠を超えた普遍的な言葉を語るもの。でも、社会の最底辺にいる人々は自らの特殊事情を正面にたてて自分の権利のために戦う

 最低限の生活も保障されていないインドの人たちには、日蓮や親鸞や佐々井師のような存在が必要だった。まあ、ただ弱者救済のために、カネのためでも名誉のためでもなく、無欲に戦い続ける佐々井師の後半生の生き方は、僧侶としてとしては議論の分かれるところだと思うが、人としては立派だと思う。
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