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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2018/12/03(月)   CATEGORY: 未分類
拷問の証言者パルデン・ギャツォ師逝去
年末に近づくにつれ多くの訃報が立て続けに入ってきた。

10月29日 ダライラマの特使として中国との交渉にあたったロディ・ギャリ氏死去。
11月26日 ベルナルド・ベルトリッチ死去。大乗仏教保護財団(FPMT)の創始者トゥプテン・イェーシェーがスペイン人に転生した事件を翻案した『リトル・ブッダ』の監督。清朝最期の皇帝溥儀を扱った『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞受賞。
11月30日パルデン・ギャムツォ氏、ダラムサラで死去。中国の監獄での33年間の体験をワールド・ツァーで語った僧である。
11月30日 ジョージ・ブッシュ大統領逝去。1991年、ダライラマがはじめて会見がかなったアメリカ大統領である。冷戦後の混乱期の舵取りをしたアメリカ大統領として知られる。

この中で、本エントリでは、中国の監獄に33年間とじこめられたパルデンギャムツォ師の訃報を、難民社会のニュース・メディア『パユル』から二つ和訳してみました。

元政治囚パルデンギャツォ、死す (ソース: 『パユル』phayul 2018/11/30)
Palden Gyatso at his reisdence, Phayul Photo: Kunsang Gashon, Nov. 15, 2018

元政治囚であり、占領されたチベットにおける中国の拷問についての有名な証言者パルデンギャムツォは、現地時間の今朝7:10 にデレク病院でなくなった。

キルティ・チェパ僧院(パルデン師が最後の七年をすごした僧院)からきた老僧は、「ダライラマ猊下のお名前を口にしつつ安らかに逝った」という。彼はさらに数ヶ月前のダライラマ法王との謁見の際には、長年にわたり人々に勤勉に仕えたことを賞賛され、感謝されたという。

パルデン氏は33年にわたり中国の監獄と強制収容所に入れられており、ここ数ヶ月は虚弱体質と肝臓関連の病に苦しんでいるといっていたが、パユルが調べたところでは肝臓癌におかされていた。
11月15日にねたきりとなった僧はパユルに病院と治療について述べた後、こう付け加えた。「私は医者にたとえ死ぬことになっても、手術は受けないといった。」

 「私はこのように長く生きられるように祝福されて、幸せだ。私は監獄でも祝福されていた。私は餓死する寸前で生き延びた。多くの私の友人は私の目の前で死んでいったのに。」

氏は1959年に逮捕され、釈放のち、チベットから1992年に脱出した。亡命の後、氏はチベットにおける中国の文化虐殺とチベット人に対する抑圧を告発する顔となり、中国によって用いられた拷問道具を展示しつつ世界中をまわった。その拷問道具は、数十年にわたる拷問、尋問、思想改造の際に彼自身に用いられたものであった。

彼は1995年にジュネーブで行われた国連人権委員会の公聴会でも自分の体験、また直接見聞きした中国による非人道的な扱いについてスピーチし、また、2009年にオスロで行われた自由フォーラムの開会式でもスピーチを行っている。1998年にはジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) をカナダ人の人権結社・人権と民主主義から授与されている。

彼の逝去の噂がひろがるにつれ、多くの人々がチベット・ムーブメントの傑出した人物への弔意と感謝を表明した。彼と同様に政治囚だった僧パクドはフェイスブックに「元政治囚パルデンギャムツォ師の逝去を知り衝撃をうけ悲しみに沈んでいます。私はタプチ刑務所で三年彼と同房でした。最近彼が息を引き取る前に、別れの挨拶をすることができました。一時間以上会話して、彼は中国の監獄の中での闘争と障害にわたる自己犠牲について詳細を描写しました。」

活動家グループ、チベット青年会議は、「彼は真のチベットの英雄だった」、「真のチベット人戦士だった」といい、彼とともにおおくのキャンペーンをはったステューデンツ・フォー・フリーチベットは「人間精神の回復力と文化虐殺にあっているチベットの誇り高い文明を証言した」と述べた。

チベット人のネット民テンジン・クンレーは「彼はあのような過酷な体験をした後にも非常に謙虚で平和を愛する人であった。チベットにとって大きな損失である。我々は決して忘れない。」

不屈のペルデンギャムツォ師を偲ぶ(ソース: pha yul, 著者: Bhuchung D Sonam2018/11/30)

2005年の夏、インドの作家パンカジ・ミシュラ (Pankaj Mishra) と我々数人でダラムサラのキルティ僧院の近くにある、ペルテンギャツォ師の部屋を訪れた。パンカジはニューヨーク・タイムズに掲載するチベットに関する原稿を準備しており、中国の監獄に33年にわたってとらわれていた元政治囚へのインタビューを希望していた。私は師の人生を師のツェリンシャキャ教授との共著『雪の下の炎: チベット人政治囚の証言』(ブッキング)を読んでしっていた。

二時間近い会話の中でパルデン氏は我々に優雅にお茶とカプセ (お菓子) を供してくれながら、監獄での恐ろしい体験について語ってくれた。氏は私がすべてをちゃんと翻訳しているかと確認し、重要な出来事については繰り返し語った。氏の話しぶりには中国人に対する憎しみや敵意はなく、実際、毛沢東による大躍進政策によって飢餓の極限状態にあった時代 (1658-62)----フランク・ディコッターが、中国全土で四千万人を殺した毛の大飢饉と呼んだ時代----、氏に一口の食べものをこっそり与えてくれた色白の若い中国人についてあえて詳細に語るのであった。

パンデンギャムツォ氏は無限の慈悲と恐ろしい意志の力をもちつつも、非常に謙虚である。監獄の〔飢えの中で〕鼠や芋虫や草を食べたり、革の靴をしゃぶったりする話を立て続けにした後に、氏は私をみては、「ブチュンさん、私は正しいですか?」 と聴くのである。監獄で一日だって過ごしたことがない私の方がよく知っているかのように。

パルデン氏自身の言葉
「私は1975年に刑期を終えましたが、家に帰ることは許されませんでした。私は労働改造所に送られ、そこからまた刑期が再開しました。1979年、私は逃げ出して、チベットの独立をうったえるポスターをはりました。私は捕まり、さらに九年の刑が加算されました。」

「私たちは野菜を育てるために下肥をこねるなどの汚れ仕事もしなければなりませんでした。看守は私たちを電気棒でつつき、熱湯をかけました。24年間一回も親戚すら訪問することをゆるされませんでした」

1992年8月25日、パルデンギャムツォ氏は33年の刑期をへて釈放され、その二週間後、亡命した。ダラムサラについて一週間経ったとき、氏はダライラマ猊下と謁見し、一生の願いを叶えた。パルデン氏はその時の情景を思い出し、「チベットを離れられた時よりずっと年を取られていました。私はこらえきれずにすすり泣きました」

ヒマラヤを越えて亡命して以来、師はチベット人の自由を求める戦いに国際的な支持を得るべく、獄中体験をかたる世界ツアーを行った。この中には1995年の国連の人権委員会での公聴会、2009年のオスロ・自由フォーラムでの開会スピーチを含んでいる。彼はこの疲れを知らない活動の中で、1998年にカナダ人権グループ、「人権と民主主義」からジョンハンフリー自由賞 (John Humphrey Freedom Award) を授与されている。

ここ数年、私たちは大部分はダラムサラで、時にはデリーのチベット人キャンプ、マジュヌカティラで氏とばったり出会った。彼は私の手をしっかり握ってふり、立ったままで、いつも自分の旅について話し、いかに疲れたかについて話した。彼はこういった。
「お前達若い世代が自由のための戦いを遂行しなければならない」

昨年10月、私と友人は賑わうマクロードガンジ'(ダラムサラのメインストリート)でパルデンギャムツォ師とばったりであった。氏は一人で歩いており、かなり痩せて見えた。いつものように氏は私の手を暖かく握り、「私にはもう残された時間が少ない。たぶんあと数ヶ月だろう。会いに来い」と言った。我々の背後でタクシーのクラクションがなり、おしゃれなパンジャブっ子が自撮りをしていた。巨大なゴミ回収車がメインストリートをふさいでいた。広場は満杯だった。しかし、氏に一緒に写真を撮ろうと提案すると、氏はこの上なく優雅に、カメラのフラッシュにあわせて、やせこけた腕をつきあげて、「チベット自治!」と叫んだ。そして再び「会いに来い。キルティ僧院に部屋がある」と言った。

私は僧院の中にある氏の部屋を数回訪れた。しかし、そのたびにチベットについての証言会にでかけており、氏は留守であった。最期の証言会は何と今年九月のアメリカで行われている。先週、前日にパルデンギャムツォ氏とであったチベット青年会議(TYC)のジクメとあった時、氏に会いにいっても大丈夫かと尋ねると、ジクメは「肉体的には弱っていたが、精神的には非常に鋭敏だった」といった。しかし、無駄に忙しかったことと、なんやかやで私はパルデンギャムツォ氏に会いに行くことは叶わなかった。死んでしまったことは取り返しがつかない。私は後悔の念を懐き続けるだろう。

我々ができること、いやしなければならない重要なことは、われらがヒーローが、自由のための戦いを続けることである。ツェリンシャキャ(国際チベット学会会長)はパルデンギャムツォの獄中体験を記した『雪の下の炎』の序文でこう辛辣に述べている。

 「宗主国の支配者にとって、発電所や新しいスタジアムやきらめくディスコの電飾や五つ星のホテルが、人々の尊厳を恢復し、その遺産を再生することにはならない、と理解することは難しい。若い運動家たちは両親たちの苦難と生活苦を忘れていない。」

 バトンは世代をこえて受け継がれ、自由へ向かう道へと運ばれていかねばならない。最近、[ダライラマ特使として中国との交渉にあたっていた]ロディギャリ氏がなくなり、今回はパルデンギャムツォ師が逝去されたことは、一つの時代の終わりを告げている。彼らの体験と智慧は誰かに代行できるものではないが、創造的な非暴力の抵抗運動のための革新的な思想へと引き継いでいくことは出来る。」

チベット高原に住む人々の苦しみは、我々がこの抵抗運動を、最大限に執拗かつ緊急に、遂行することによってのみ癒されるのである。

さようなら、パルデン・ギャムツォ師。我々はあなたがすぐにまた、世界の屋根の上に住む赤い顔のチベット人に生まれ変わるように祈っています。戦いは続いている。あなたは戻って来なければならない! (この見解は著者のものであり、必ずしも当ウェブサイト=パユルのものではありません。)
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DATE: 2018/11/05(月)   CATEGORY: 未分類
日本メディアが来日前のダライラマ法王にインタビュー
インド担当の記者さんがみなでスクラムくんでインタビューしたみたい。「二年前にガンがみつかったけど今はなおった」って、なるほどだから去年はいろいろセーブしていたんだ。
以下、各社の記事をはりっぱなしで、いきます。

●「転生制度」廃止に言及…ダライ・ラマ14世 11/5(月) 21:25配信 読売新聞

 【ダラムサラ(インド北部)=田尾茂樹】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(83)は5日、チベット亡命政府があるダラムサラで読売新聞などと会見し、自身の後継について「高僧の間で選べばよい」と述べ、生まれ変わりとされる人物を探し出して後継者とする伝統的な「転生(生まれ変わり)制度」の廃止の可能性に言及した。後継者を選ぶ制度のあり方に関する決定権は中国政府のみにあるとする同政府をけん制する狙いだ。

 ダライ・ラマは代々、「転生」によって地位が継承されてきた。ただこの方法では、1959年の「チベット動乱」でインドに亡命したダライ・ラマを「国家分裂主義者」とみなす中国政府が、中国側に都合のよい後継者を独自に選定してチベット統治に利用する可能性が指摘されている。

●ダライ・ラマ「後継者は民主的に決める」 中国を牽制か 11/5(月) 20:11配信 朝日新聞デジタル

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(83)は5日、今月来日するのを前に亡命政府のあるインド北部ダラムサラで朝日新聞などと会見し、自身の後継者についてはチベットの人々が民主的に選ぶべきだとの考えを示した。早ければ今月末にダラムサラで始まる高僧らによる会議で議論が始まると明らかにした。

【写真】インタビューに応じるダライ・ラマ14世=2018年11月5日、ダラムサラ、奈良部健撮影

 チベット仏教には、すべての生き物は輪廻(りんね)転生するという考えがある。観音菩薩(ぼさつ)の化身とされるダライ・ラマは、その死去後に生まれ変わりの少年を捜して後継者にする伝統が数百年続いてきた。ただ、この方法だとチベット亡命政府を敵視する中国政府が都合の良い後継者を選び、チベット統治に利用する懸念がある。

 ダライ・ラマは「ダライ・ラマ制度は古い制度」と指摘。「私は民主主義の信奉者だ」と述べた上で、「制度を存続させるか否かは、チベットの人々が決めるべきだ」と語った。さらに、「多数の人々が存続したいとなれば、次の問題は後継者をどう選ぶかだ」とし、「ローマ法王が枢機卿らによって選ばれるような制度も可能だ」と話した。

 ダライ・ラマが後継者選びに「民主主義」を強調するのには、中国政府を牽制(けんせい)する意図もあるとみられる。一方、自身が後継者を選ぶ方法や現行の輪廻転生を続ける選択肢も否定せず、決めるのは「チベットの人々次第だ」とした。

 ダライ・ラマは「数年前にインドの病院で前立腺がんが見つかった」とも明らかにした。「放射線治療をして完治した」と述べたが、健康面での状況も後継者選びの議論を始める背景にあるとみられる。(ダラムサラ=奈良部健)

●<ダライ・ラマ14世>後継者、高僧らによる選出も選択肢 11/5(月) 18:18配信 毎日新聞
毎日新聞など日本メディアと会見したダライ・ラマ14世=インド北部ダラムサラで5日、松井聡撮影

 【ダラムサラ(インド北部)松井聡】チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(83)は5日、インド北部ダラムサラで毎日新聞などと会見した。後継者の選出方法について「ローマ法王のようなシステムも可能だ」と述べ、バチカン(ローマ法王庁)をモデルに、高僧らによる選出も選択肢となると述べた。自身による「生前指名」や、現行の輪廻転生(りんねてんしょう)を継続する可能性も否定せず、「チベット人が方法を決めるべきだ」とも語った。

 高僧や学者らによる後継者選出を選択肢にした理由について「(輪廻転生を含めた)ダライ・ラマ法王制度自体が古いと感じている。(多数決で決める)民主主義を尊敬している」と説明した。輪廻転生では、伝統的に少年が後継者に選ばれてきたが、「(人生経験を積んだ)20代程度の成人が好ましい」との認識も示した。

 「2年前にがんが見つかったが、放射線治療を受けて完治した」と健康状態は良好だと強調し、後継者選出方法を決定する時期について「私がとても年をとった時にダライ・ラマ制度の存廃を含めてチベットの人々に尋ねる」と述べた。選出方法については今月29日から予定される高僧の定例会議でも議題の一つになるとみられる。

 中国との関係に関連し「我々は自分たちを『政府』と呼んだことは一度もない。あくまでも『組織』だ」と述べ、独立を目指さない姿勢を強調。中国指導部とも連絡を取っているとし「中国の指導部は過去の抑圧的な政策は間違いだったと感じ、現実的な対応を考えている最中だ」と語った。インドと中国が関係を改善している現状についても歓迎した。

 また、ミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャが仏教徒が多数を占める国軍から迫害された問題の解決を促すため、ダライ・ラマがアウンサンスーチー国家顧問兼外相と会談や手紙のやりとりをしたことを明かした。「彼女は『軍が問題だ』と言っていた」と述べ、解決が容易ではないとした。

●ダライ・ラマ、台湾訪問に意欲 時期は「北京から前向きなサイン出たら」 11/4(日) 18:55配信 中央社フォーカス台湾

(ダラムサラ 台北 4日)インド亡命中のチベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世は3日、台湾を再度訪問する意欲を示し、時期については「北京から前向きなサインが出たときだ」とした。インド北部のダラムサラで、台湾の科学者らとの量子効果に関する意見交換を終えた際に述べた。

1日から3日間の日程で開催された同イベントには、ノーベル化学賞受賞者の李遠哲氏をはじめ、計9人が参加。ダライ・ラマは閉幕のあいさつで、今回のイベントは終了したものの、ただの序章に過ぎず、今後も継続すべきだと指摘。だが、現在の中国大陸には自由がないことから、台湾の科学者らを招くことしかできず、最終的には台湾での開催になるだろうとの見解を示した。

開催のきっかけについては、米国で北京清華大の教授と出会い、同大の科学者との対話の場を設けるため、同教授が科学者として自身を招請するという約束を交わしたことだったと明かした。

ダライ・ラマは過去に3度訪台している。最後に訪台したのは2009年で、台風で大きな被害を受けた南部・高雄の被害者に祈りを捧げた。それ以降は馬英九政権の対中融和路線や蔡英文政権が慎重な姿勢を示していることから、訪台は実現できていない。

(康世人/編集:荘麗玲)
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DATE: 2018/10/30(火)   CATEGORY: 未分類
純太郎没後50年シンポジウムレジメ
先週末、おかげ様でシンポジウムが無事行われました。別件の論文が終わらないまま行ったのですぐ帰らざるを得ずいろいろ不義理をしてしまいました。今週末には何とか終わらせて、とにかく日常に戻りたいです。
ちなみに、当日くばった拙レジメ文字飾りないですが、以下にはっときます。写真はシンポジウムの行われた以文館、ならびに、当日配布された発表原稿、資料類、記念刊行本、図書館で行われていた純太郎記念展示のカタログ諸々です。

最後に主宰者の関西大学の吾妻先生が「没後50周年をやらないかと言われ、最初はこりゃあ大変だと思いましたが、こうやって終わってみると、やってみるもんだな」というお言葉がちょっと笑いました。

 足を運んで下さったすべての方に御礼もうしあげます。家にかえってスーツをぬぐときに名札がつきっばなしなのに気づく。新大阪まで荷物もってくれたOくん、新横浜から迎えにきたF、気付いてほしかった。
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明治・大正・昭和初期の石濵家 ----漢学・文学・帝大人脈---- 
                    石濵裕美子(早稲田大学教育学部教授)

エピソード1 :
私の裏町好みの共犯者は、石濵金作氏であった。一高に入学すると直ぐから結ばれた石濵氏との交友は、全く共犯者といふ言葉しかないような深入りであった。書くこと多過ぎて書く気にもなれぬ。二身一体の因果者のやうに、相手が鼻につくことが自己嫌悪と同じに近い友人だった(川端康成「文学的自叙伝」『新潮』1934.5)

エピソード2:
石濵恒夫は、三浦とはちがったタイプの男だが、彼もまた二代目の文化人である点では共通していた。父親は京大の文学部の教授で、その教え子には作家や文学者がたくさんいるし、叔父に当る藤沢桓夫氏も同じ家に住んでいた関係で、三浦の話では石濵の家そのものが関西文壇の一角になっているような印象をうけた(安岡章太郎『良友・悪友』1966)。


I. 幕末から明治初年の石濵家

代々石濵徳右衞門を名乗る。
職業:洲本の奉行所の町手代
屋敷所在地: 津名郡洲本町(現洲本市)常盤町字居屋敷乙四
菩提寺: 真言宗高野山派青蓮寺(現 遍照院)
→ 1886(明19)年に編纂された青蓮寺の墓石簿によると、石濵鐵郎は士族、純太郎先生の祖父勝蔵は石濵屋の屋号で記録され、石濵姓の墓石を2分して管理。後者は家督をつがなかった石濵が商人身分になったものか(大正末年に青蓮寺が焼けているため過去帳はなく、徳右衞門家伝来の家系図も東京大空襲で焼けたので文献の裏付けはない)。明治維新以後、徳右衞門系石濵は九等士族となり、大阪、明治33年頃(1900)に東京へ移住。勝蔵の子豊蔵も大阪において丸石製薬を起こす。両家系は戦前までは交流あり。
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II.徳右衞門系・石濵家、関連人物リスト

(1)岡田鴨里(1806-1880)
 名は僑、周輔。号の鴨里は岡田家の所在地である掃部村にちなんだもの。賴山陽高弟。

1806(文化3) 津名郡王子村庄屋砂川佐一郎4男に生まれる。
1826(文政9) 賴山陽の『日本外史』が上梓する。
1828(文政11) 京都において賴山陽に師事する。
1831(天保2) 山陽は鴨里に『日本外史』の補編を書くことを託し(『日本外史補』序)、翌年没す。
1850(嘉永3)8月 『日本外史補』ならびに『名節録』を著す。
1861(文久元年)9月 中小姓格にとりたてられ、徳島藩の学問処である洲本学問処の御儒者に任ぜられる。
1863(文久3) 門弟で女婿の古東領左衛門が藤本鉄石、松本奎堂らとともに天誅組の大和挙兵に参画し、獄死する。6月、「五倫の説」(未刊)を記す。
1868(明元)閏4月 徳島藩の参政に任ぜられる。
1869(明2)正月 参政、学校懸准物頭席に任ぜられる。
1870(明3) 辞職。庚午事変の折には大村純安の父である大村純道とともに調停にあたるも事変を防げず。
1872(明5) 10月 徳島藩の藩主蜂須賀家代々の事蹟・系譜を記した編年体の歴史書『蜂須賀家記』を脱稿。
1874(明7)冬10月『草莽私記』の序文を記す。
1878(明11) 9月 掃守村に帰郷する。
1880(明13) 9月5日 舌がんで死去。享年75才。掃部の木戸市池上山に葬られる。
1915(大正4年)11月10日 大正天皇即位にあたり従五位を追贈される。

(2) 岡田真(1846-76)年譜
 鴨里の嫡孫。真は字は真太郞とし、顒(ぎょう)斎と号した。岡田真の年譜は主に墓誌と「岡田鴨里関連文書」に基づく。

1868(明元) 洲本文学教授となる。
1870(明3) 庚午事変に際し大村純安とともに檄文を記す。後、東京に遊学する(No.763)。
1871(明4)8月 徳島県の権大属に任ぜられる。
1872(明5)9月 名東県の権典事に任ぜられる。
1873(明6)8月 県制改革で権大属に転じた後、辞職し、東京に遊学する。
1874(明7)8月 士族の生活を支えるため新聞の発行を目指す阿波自助社が設立され、眞は発起人の一人に。
1875(明8)2月 阿波自助社、板垣退助を徳島に招き政府批判。6月に民権運動の宣伝のため「通諭書」を出版。
1876(明9)9月、「通諭書」が大審院において朝憲紊乱の罪とみなされ、井上高格ら四人が処罰される。11月 東京において客死。「阿波様寺」と呼ばれた上野の海禅寺において葬儀。戒名:覺心院尚古顒斎居士。享年30才。
1881(明14)12月10日 掃部の木戸市池上山に改葬。

(3) 岡田文平(1860-1900)年譜
 岡田家に養子に入り鴨里のひ孫の岡田アイと結婚。岡田家から古東家に養子にはいった古東又五郎とともに奥井寒泉(1826-86)門下の双璧と謳われた(片山嘉一郎:473)。年譜は「岡田鴨里関連文書」No.764 に基づく。

1880(明13)7月 鴨里の死を受けて帰郷する。9月、奥井庄一のもとで漢学を修める。
1883(明16)9月 帝国文科大学(現東京大学)の開設したばかりの古典講習科漢書課乙部へ入学。1887(明20)卒。
1888(明21)1月 東京市ヶ谷都立成城学校教員に勤務。2月 成城学校教員を辞職、12月第二高等中学校助教諭。漢文学と国文学の教授を兼任する。
1890(明23)10月 第二高等中学校(現東北大学)助教授に任ぜられる(1891年6月 教授に昇任)。
1897(明30)7月 病により辞職する。
1900(明33) 死去。掃部の木戸市池上山に葬られる。

(4) 岡田秀夫(1884-1923)の年譜

 岡田家に生まれ、鴨里の玄孫の古東静子と結婚。履歴は「岡田秀夫葬儀諸控帳」(「岡田鴨里関連文書」No.764 )に基づく。

1909(明42) 東京帝国大学文科(漢文学・文法を専攻)を卒業する。
1914(大3)9月 札幌帝国農科大学(現北海道大学)の講師に任ぜられる。
1916(大5)12月 廣島高等師範學校(現広島大学)の講師に任ぜられる(1918年教授に昇進)。
1922(大11)3月 父の和三郎の死亡に伴い家督を相続する。
1923(大12)8月27日 支那文学研究のため帝国学士院在外研究員として北京に留学する。
同年10月2日 北京にて大腸カタルで客死。石濵鐵郎、石濵純太郎、大内兵衛らが香典をよせる。

(5) 石濵 鐵郎 (1870-1932)
1894年に岡田眞の娘イマを娶り、知行、金作、三男、秀雄(以下⑧~⑩)をなす。報知新聞販売部長。→ 岡田眞は新聞発行をめざす自助社の発起人。淡路は報知新聞社の社主となった三木善八を始めとし新聞人を輩出。

(6) 石濵 純太郎(1888-1968)
1908年、東京帝国大学文科大学支那文学科入学、1911年卒業。事績については関係年表参照。

(7) 大内 兵衛 (1888-1980)
岡田家の故郷掃部村に隣接した松帆に生まれる。1909年、東京帝国大学法学士経済學科入学、1913年 7月卒。労農派のマルクス経済学者。東京大学名誉教授、法政大学総長。

(8)石濵 知行 (1895-1950)
鐵郎・イマの長子。1920年、東京帝国大学法学士政治学科卒。ドイツ留学を経て九州帝国大学教授。労農派のマルクス経済学者。1928年三・一五事件で辞職して後は読売新聞論説委員。戦後1946年九州帝大に復帰するも肺病死。

(9)石濵 金作 (1899-1968)
鐵郎・イマの次子。1920年、東京帝国大学英文學科入学、1924年卒。新感覚派の小説家。cf. 川端 康成 (1899-1972)と同年、同学。在学中より川端康成と共に第六次「新思潮」を創刊。

(10)石濵 秀雄 (1906-1962)
鐵郎・イマの四子。1931年、東京帝国大学経済学部経済学科卒。1952年八幡製鐵(株)取締役

(11)藤澤 桓夫 (1904-1989) 
藤澤黄坡の子息。1927年、東京帝国大学文学部国文科入学、1931年卒業。新感覚派でデビュー。

(12)石濵 恒夫 (1923-2004)
東京帝国大学文学部美術史学科。作詞家。安岡章太郎(高知)、三浦朱門(高知)と交友関係。司馬遼太郎(1923-1996)と陸軍戦車学校で同期。

III. 関係年表

1873 (明6) 藤澤南岳、泊園書院を大阪に再興。
1877 (明10) 4月12日、東京大学創設。
1880 (明13) 岡田鴨里死す。
1882 (明15) 東京大学古典講習科設置される。この科はわずか二期の募集の後廃止。
1883 (明16) 岡田文平、東京大学文学部古典講習科乙部へ入学。
1886 (明19) 帝国大学令公布(工部大学校を統合して帝国大学に改組)。
1887 (明20) 岡田文平、文科大学古典講習科漢書課を卒業。8/27石濵純太郎、北区堂島中二丁目に、生誕。
1888 (明21) 石濵豊蔵が東区淡路町二丁目で丸石商会創業。
1894 (明27) 岡田眞の次女イマが石濵鐵郎に嫁す。
1895 (明28) 鐵郎とイマの間に石濵知行生まれる。
1896 (明29) 純太郎の生母なくなる。草柳燕石の孫娘が後母となる。
1897 (明30) 石濵豊蔵、純太郎を泊園書院に入学させる。京都帝国大学の創設。これに伴い、帝国大学を東京帝国大学と改称し、文学部は文化大学(〜1919) と呼ばれる。
1899 (明32) 川端康成、開業医の息子に生まれる。
1900 (明33) 岡田文平死す。
1902 (明35) 純太郎の姉カツが藤澤黄坡(章次郎)に嫁す。
1904 (明37) 専門学校令により関西法律学校が専門学校となる。
1905 (明38) 私立関西大学と改称
1907 (明40) 6月22日、東北帝国大学を設置し、9月1日、札幌農学校を東北帝国大学農科大学に改称。
1908 (明41) 純太郎、東京帝大文化大学支那文学科入学。岡田正之(1864-1927)教授に師事。
1909 (明42) 7月 岡田秀夫(兵庫)、東京帝国大学文科支那文学専修卒業。大内兵衛、東京大学法学士経済科入学。
1911 (明44) 7月 純太郎(大阪)、東京帝大文科支那文学専修卒業。前年父が没し家業を継ぐ。
1913 (大2) 7月大内兵衛、東京大学法学士経済科卒、大蔵官僚に。
1914 (大3) 9月 岡田秀夫、札幌帝国農科大学講師に。
1916 (大5) 12月 岡田秀夫、廣島高等師範學校講師に転ずる。
1917 (大6) 川端康成、石濵金作、ともに一高へ。
1919 (大8) 文化大学、文学部へと改称。大内兵衛、東大経済学部が新設され助教授に迎えられる。
1920 (大9) 川端康成、石濵金作、東京帝大英文科に入学。石濵知行東京帝学法学士政治学科卒。大内兵衛、森戸事件に連座して大学を免官。
1921 (大10) 石濵金作、川端康成(23才)らと第六次『新思潮』を創刊。『文藝春秋』の編集同人に。川端康成、伊藤初代にプロポーズするも、一ヶ月後に破綻。
1922 (大11) 純太郎、大阪外国語学校蒙古語部へ選科委託生として入学。3月 岡田秀夫、父の死に伴い家督を相続。大学令に基づき関西法律大学が旧制大学となる。
1923 (大12) 大内兵衛、復職。10/20 岡田秀夫、北京にて死す。
1924 (大13) 石濵金作、帝大卒業。『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍する。川端康成、初代との破局を描いた『非常』を発表。7/6-翌2/2純太郎、内藤湖南と生涯唯一の外遊。鴛渕一も随員。
1925 (大14) 藤澤桓夫、新感覚派としてデビュー
1926 (大15) 藤澤桓夫、東京帝国大学文学部英文科入学。
1928 (昭3) 石濵知行、三・一五事件で九州大学を辞職。戦後の復職まで読売新聞論説委員となる。
1931 (昭6) 藤澤桓夫、東京帝国大学文学部卒。肺病に罹患し帰阪し、石濵純太郎の家に寄宿する。石濵秀雄、東京帝国大学経済学部卒。
1936 (昭11) 丸石製薬株式会社設立、資本金25万円。川端康成、文化公論社より「文学界」を創刊。のちに、横光利一、藤沢桓夫、里見淳らが同人に加わる。石濵金作、戦後まで創作活動から遠ざかる。
1940 (昭15) 純太郎『富永仲基』創元社。12月 石濵恒夫が川端康成と初対面。
1941 (昭16) 藤澤桓夫、石濵家をモデルにした『新雪』発表。
1942 (昭17) 純太郎『浪華儒林伝』
1943 (昭18) 純太郎『東洋学の話』
1946 (昭21) 石濵知行、九州大学に復職。
1949 (昭24) 純太郎、関西大学文学部史学科教授就任。泊園文庫の寄贈、文学部東洋文学科開設。
1950 (昭25) 石濵金作、文作再開。
1953 (昭28) 純太郎、日本チベット学会初代会長に。
1959 (昭34) 純太郎、関西大学教授を定年、名誉教授に就任。ニコライ・ネフスキーと共に西夏語を研究。
1968 (昭43) 明治百年。川端康成ノーベル文学賞受賞。受賞旅行に石濵恒夫同行。11/21 石濵金作、脳溢血死。
1972 (昭47) 川端康成自殺。

参考史料『岡田秀夫葬儀帳』中「死亡通知先」より抜粋(事績はドラフト)
賀集新九郎 (1871-1942) 淡路鉄道初代社長。
仲野理一郎 (1850-1936) 伊加利村庄屋。三原郡水産組合長。
馬詰秀三 (1909)「羅馬に於ける基督教の先駆」東京大学宗教学研究室
大内宗次郎 大内兵衛の長兄。三原郡主席郡書記。
東京 内田泉之助 (1892-1979) 漢学者。二松学舎名誉教授。
東京市 後藤俊瑞 (1893-1961) 朱子学者。
新潟市 手塚良道(1889-1961) 著書『支那思想史略』(1943)
横浜市 長崎次郎 (1895-1954) 1921 東北帝国大学農科大学卒、新教出版社の初代社長。
東京市 藤井黙恵 『智山學報』(1916)によると、慶應義塾で印度哲学を担当
東京市 佐伯常麿 (1880-1952)。1906年に東京帝国大学文学部国文科卒、東京女子高等師範学校教授。
札幌市 玄地誠輔 予科教授
東京市本郷区駒込千駄木町 岡田正之(1864-1927) 純太郎の指導教授。
東京都 宇野哲人 (1875-1974) 儒学者。東京大学名誉教授。
東京市 服部宇之吉(1867-1939) 東京帝国大学教授。中国哲学者。
松山市 今村完道 松山高校教授
仙台第二高等学校 安藤圓秀 (1885-1948)  
東京市本郷区駒込東片町97 磯江潤 (1866-1897) 白山に京華学園創立。漢学者。
東京市小石川区 賴成一 頼山陽全書の編纂者。
東京 藤岡勝二 (1872-1935) 1897年帝国大学博言学科を卒業。1907年にモンゴル語の調査。
東京 春山作樹 (1876-1935) 東京帝国大学文学部教授。教育学者。
台湾市 武者主計 1920 北海道農芸化学科卒。台湾に渡る。
東京市小石川区 塩谷温 (1878-1962) 東京帝国大学名誉教授。漢学者。
北京 竹田復 (1891-1986) 中国文学者。大東文化大学名誉教授。
東京赤坂丹後町 石濱鐵郎 → II.徳右衞門系・石濵家、関連人物リスト(5)
東京市本郷区駒込千駄木 塚原政次(1871-1946) 東大哲学科広島高等師範学校
東京市小石川区円山町 幣原坦(1870-1953)東大中国史学
大阪市 中目覚 (1874-1959) 言語学者・教育行政官、第二高等中学校、帝国大学文文化大学ドイツ文学科言語学
東京市小石川区小日向 後藤朝太郎(1881-1945)東京大学言語学。
東京市第一高等学校 佐久節 (1882-1961)
大阪府 松山直藏 (1871-1927) 1916 重建懐徳堂初代専任教授。広島高等師範学校
京都市第三高等学校 湯浅廉孫 夏目漱石の愛弟子
大阪市天王寺大阪外国語学校 渡辺良法
右上 斯波六郎 (1894-1959) 広島高等師範学校 漢学
山形 吹田順助 (1883-1963) ドイツ文学者、北海道帝国大学
東京市 高田保馬 (1883-1972) 京大経済学部
熊本 財津愛象 (1885-1931)広島高等師範、懐徳堂の主任教授
東京市 芳野幹一 (1885-1970)成蹊中学教諭。成蹊高校教諭。大正14年(1925)より学習院大学教授。
東京 藤村作 (1875-1953) 1901第五高等学校(熊本)でて東大卒、国文学1922年教授
東京高等師範学校 中村久四郎 (1874-1961) 東大史学科。広島高等師範学校、東京高等師範学校
東京 保科孝一 東京高等師範学校卒、東京第二師範学校赴任。
朝鮮京城高等商業学校 (1922年創立) 古東章
広島市高等師範学校 吉田賢 (1870-1943)

エピソード3:
 また、兵隊に行く時、今、文学館にあるでしょ、日章旗に寄せ書きの。あれをもって川端さんのとこへお訪ねしたんです。
 「ごめんください。石濵です」と言ったら、石濵金作さんとま違うてね、
「金作さーん」と川端さんがパッと出てきてね
「ああ、君ですか」と言ったのを覚えています。
石濵金作さんのご先祖は、淡路島の洲本で、僕とこもそうです。系図みたいなもん残ってませんが、きっとだったらご先祖が一緒で、遠い親戚なんでしょう。そういう親しみもあったんと違いますか(石濵恒夫『川端康成 : その人・その故郷』1974)


●おわりに
・1894年に石濵鐵郎が漢学者岡田鴨里のひ孫岡田イマを娶り、96年に豊蔵が草柳燕石の孫娘を娶り、1902年に、純太郎先生の姉カツが漢学者藤澤黄坡に嫁いでいる。漢学の家との閨閥形成が相似。
・鴨里の養子岡田文平(1887)、その後をついだ岡田秀夫(1909)、石濵純太郎 (1911)、大内兵衛 (1913)、鐵郎・イマの子である石濵知行 (1920)、金作 (1924)、秀雄 (1931)三兄弟、甥の藤澤桓夫(1931)、子息恒夫はこの順番で東京帝国大学を卒業。
・大内兵衛は岡田家の住む掃部村に隣接する松帆村出身であり、純太郎と同年であり、知行の葬儀委員長もつとめていた。また、岡田秀夫と純太郎は四人しか在籍者のいない帝大支那文学科に二年違いで在籍していた。秀夫の葬儀には鐵郎、大内兵衛、純太郎が香典をよせている。→ 関西の関学・文壇につくした純太郎は京大閥のイメージが強いが、純太郎周辺の淡路知識人は東京帝大閥である。
・鐵郎とイマの三子知行、金作、秀雄は大学の教員、小説家、実業家。→ 川端康成と一高より同期で新感覚派の小説家であった金作の存在が、純太郎先生ご一家が関西文壇の一角を形成する一因となった。

●参考文献
石濵金作(1950)「無常迅速――青春修行記」『文藝読物』9(5): 62-85
..............(1950)「青春行状記--人間・菊池寛」『改造文芸』2(5):52-66
石濵恒夫ほか(1974)『川端康成: その人・その故郷』 婦人と暮しの会出版局
「石濱金作年譜」『新覺感派文學集 日本現代文學全集67』講談社: 442-443
石濵裕美子(2016) 「神奈川県立歴史博物館蔵「岡田鴨里関連文書」『史観』175:116-143
茨木市立川端康成文学館 (1989)『川端康成その人と故郷』茨木市教育委員会
東京帝国大学編(1933)『東京帝国大学卒業生氏名録』
東京大学三学部編(1884)『東京大学法理文三学部一覧』丸屋善七
藤沢桓夫(1972-73)『大阪自叙伝』中公文庫
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DATE: 2018/10/17(水)   CATEGORY: 未分類
石濱純太郎先生シンポのプログラム詳細
今月26・27日に行われます、石濱純太郎先生シンポのプログラム詳細がきまりました。
私は某T先生の陰謀によりいつのまにか二日目大トリになってました。
調べれば調べるほど、我が家の家系には個性的な方が多く(もちろん私のパパはクリーンよ)、どこまでしゃべっていいやら困っております。
第58回泊園記念講座プログラム-2

シンポ初日は授業なので大阪につくのは夜八時くらいになると思います。翌日土曜日27日は朝から会場にいます。
明治・大正をかけぬけた強烈な個性についてお聞きになりたい方、おこしくださいませ。

「東西学術研究と文化交渉-石濱純太郎没後50年記念国際シンポジウム」

●日時:2018年10月26日(金) 13:00~17:00
     2018年10月27日(土) 10:00~17:00
●会 場:千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース
●聴講無料・事前申込要
●申込・問い合わせ先
 〒564-8680 吹田市山手町3-3-35
 関西大学東西学術研究所内 泊園記念会
 TEL:06-6368-0653(ダイヤルイン) FAX:06-6339-7721 
 E-mail:hakuen@ml.kandai.jp

プログラム
第1日 10/26(金)
13:30~14:30 <石濱純太郎と泊園書院・関西大学
吾妻重二(関西大学文学部教授・泊園記念会会長)
「シンポジウム開催にあたって -石濱純太郎と泊園書院・関西大学」

14:30~15:00<父純太郎の思い出
石濱俊造

15:00~17:00<石濱純太郎とアジア学1

高田時雄(京都大学名誉教授、復旦大学歴史学系特聘教授)「石濱純太郎とアレクセーエフ」
キリル・ソローニン(中国人民大学国学院教授)「早期對西夏佛教的研究:聶歴山與石濵純太郎」(講演言語:中国語)
劉 進宝(浙江大学歴史系教授兼主任)「石濵純太郎的東方学研究」(講演言語:中国語)
池尻陽子(関西大学文学部准教授)「石濵純太郎と関西大学吉田文庫」

第2日 10/27(土)
10:00~11:50<石濱純太郎とアジア学2
中見立夫(東京外国語大学名誉教授)「石濵純太郎のめざした「東洋学」―その学術活動と収書―」
生田美智子(大阪大学名誉教授)「石濵純太郎とロシアの東洋学者たちとの日露文化交渉―ネフスキーを中心に―」
玄 幸子(関西大学外国語学部教授)「内藤湖南との交流に見る石濱純太郎」
内田慶市(関西大学外国語学部教授)「石濵文庫蔵満漢関係文献資料について」

12:50~14:40<石濱純太郎と大阪の学知・文芸
湯浅邦弘(大阪大学文学研究科教授)「石濵純太郎・石濱恒夫と懐徳堂」
堤 一昭(大阪大学文学研究科教授)「大阪大学図書館石濵文庫の調査・研究の現況」
中谷伸生(関西大学文学部教授)「パリ・ソンムラールからの葉書-石濵純太郎宛の小出楢重による便り-」
増田周子(関西大学文学部教授)「石濵純太郎と文学者」

15:00~17:00<石濱純太郎のルーツをめぐって
太田 剛(四国大学文学部教授)「近世末期の淡路における儒学者の系譜-石濱家の学問的環境を探る-」
三宅玉峰(「益習の集い」会長)「淡路島の歴史を探る益習の集いの活動紹介」
田山泰三(英明高等学校教諭)「石濵家と讃岐」
石濱裕美子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)「明治・大正・昭和初期の石濵家 ~漢学・文学・帝大人脈~」←ココ

主催:関西大学東西学術研究所
共催:泊園記念会、KU-ORCAS、大阪府



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DATE: 2018/09/17(月)   CATEGORY: 未分類
 最果てのキャフタで学会
Y先生から、国境の町キャフタ(ブリヤート共和国)で学会(国際シンポジウム)が開かれるという話をきき、最近ブリヤートづいている私は参加してみることにした。キャフタ、それはロシアとモンゴルの国境の町であり、1728年、1921年と二度も重要な国際条約が結ばれている場であるばかりか、チベット・ロシア・モンゴル・清間の貿易の要地として繁栄を極めた町でもあった。

 郷土資料館の説明によると十九世紀、当時のロシアの十大財閥の八人までがここキャフタに住んでいた。清はロシアに対しキャフタでしか貿易をみとめなかったため、キャフタにはロシアで扱われる茶のすべてが集中し、東西冷戦期の香港みたいに栄えたのである。しかしシベリア鉄道の開通により輸送路が激変するとキャフタは急速に衰退し、1906年にこの地を訪れたイタリアのジャーナリストのルイジ・パルツィーニが税関役人の「七、八年前まではぎっしりと人があふれていた通りが今では誰一人とおらない」という言葉を伝えている。

 で、それから112年後に私たちはキャフタに行くわけである。

まず「学会が行われるくらいだから、何らかの交通手段はあるでしょ」と思った私は甘かった。飛行場も鉄道駅もない。

Y 先生「うーん、現実的には日本からの直行便のあるウランバートルから車かりて北上して国境を越えることになるけど、モンゴルで借りた車は国境で乗り捨てなきゃいけないから、国境を越えてから徒歩でキャフタの町に向かうことになるんじゃないかな。まあキャフタの町はモンゴル側の町(アルタンボラク)から見える距離だから大したことないよ

しばらくするとY先生から
Y先生「ウランバートルからウランウデ(ブリヤート共和国の首都)まで定期バスが通っているからそれにのればいいらしい」と連絡が来たものの出発二日前に

Y先生「ノンストップバスなので、ウランバートルからウランウデまでの切符をかい、国境を越えてキャフタに入ったところで、運転手に話しをつけて無理矢理降りるしかない。問題は帰りで、ノンストップバスはとまってくれないから、帰りの交通手段がない

そこで、私はキャフタ近郊で養蜂を営まれている日本人Iさんに問い合わせてみると、「キャフタで通関のために並んでいる車の一番前のに60000トゥグルグ提示してセレンゲ県までいってもらうように交渉すればいいんですよ。セレンゲまでいけば車も列車もウランバートルまででています。先生なら大丈夫ですよ」

それって有料ヒッチハイク? 私の語学力ではロシア語でもモンゴル語でも無理。

Y先生も、それはAプランにはできない、Bプランだ。と言われたが、ウラン・ウデまで北上してウランバートル行きのバスにのるとつくのが翌朝になるので私の朝の7:45分発の帰国便に間に合わないことが判明。帰りの手段が未定のままキャフタに旅立つ。

ウランウデにむけて出発する長距離バスは、朝7:30にウランバートルの長距離バス乗り場ドラゴンからでる。いやしくも一国の首都と首都を結ぶ一日たった一本の定期便だというのに、西洋人の観光客数人と我々と若干のモンゴル人で満席にもなってない。キャフタ以前にウランウデもさびれてるのかもしれない。かつては、お茶を積んだ荷駄が踵をつらね、ダライラマ13世が1904 年にここモンゴルの地にきた時は南下してくる巡礼であふれていたというのに、いまはこの体たらく。

 短い休憩以外はバスは確かにノンストップだったが、速度が遅いのでキャフタの向かいのモンゴル側の町、アルタンボラクについたのは六時間後。しかも、めざすキャフタはすぐそこに見えているのに、これからウラン・ウデにいくバスの乗客はアルタン・プラザとかいうレストランで食事をし出す。折りしも風が吹き雨がふりだし、急速に気温が低下する。大体この時点で四度くらい。成田では半袖だったのがウランバートルにきてセーターきて、今はコートはおる。

 そのあといよいよ通関である。定期バスでの通関手続きは約一時間ですみ、荷物検査も事実上されず、これは早いほうらしい。ここで同じバスにのっている韓国人のバックパッカーの方が日本語で話しかけてこられる。彼はウランバートルでお寺をみたあと、ウランウデからイチゲロフ(1852〜1927)のミイラをみにいくんだそうな。通関がおわって禁止区域をでたところで、モンゴルのB先生が迎えに来て下さっていたため、二キロ歩かなくてすむ。彼は二時間以上寒い外に立って下さっていた。ありがとうございます。

 キャフタは世界遺産になってもいいくらい史跡がのこった歴史ある町であるが、まったく観光開発されていないためネットで予約できるホテルはない。学会の主催者が予約してくださった現地のホテルはこんな感じ
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日本でいえば民宿。しかし、意外にも快適で、その晩マイナス二度までさがったけど、暖房があり、かつお湯がでたので、ウランバートルの高級ホテルよりも暖かくねむれた。ごはんも美味しかった。キャフタは高層のたてものは市役所と学校と軍隊の宿舎くらいで一般家屋はロシア文学にでてくる革命前の木造建築ばかり。この町は世界遺産にしてもいいと思う。
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 次の日は学会である。ロシアにおける日本年、日本におけるロシア年の共催事業の一環であるというが、11日から17日までロシア・中国がアメリカと韓国と日本を牽制するために極東で軍事演習を行っており、直前までChitaを調査していたF先生はセレンゲ川の写真をとろうとしたらヘリコプターが舞い降りてきて、しっしっと追い払われたとかで、全然友好的でない。しかし政治とはうらはらに、学会は友好的にとりおこなわれる。
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午後のお茶タイムはキャフタ最盛期の商人のお茶会を、学芸員の方がコスプレをして当時の雰囲気を再現してくださっていた。あっぱれ。
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夜は向かいのレストランでブリヤートの伝統音楽やコサックの歌をごちそうとともにいただく。ロシア料理は意外にいける。
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 学会二日目は18世紀にブリヤートにはじめてたてられたチベット仏教寺院、ツンゴルスキー寺への遠足。同寺には今6人の正式な僧が所属しているとのことで、ゴマン学堂への留学経験のあるものもいるらしい。守護尊堂にも、本堂にもダライラマ14世の写真が飾られていた。
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ロシア帝国にチベット仏教の信仰をみとめさせたザヤエフやダライラマ13世の側近だったドルジエフは普通に学校で民族の歴史として教えられるとのことで、チベット仏教がブリヤート人のアイデンティティの重要な構成部分になっていることがわかる。

 あらかじめいただいていたプログラムではこの遠足は午前中でおわり12:00に解散だったのに、途中、コサックのおばあさんたちの宴会にもてなされたりして(主催者の余興の一つ)、モンゴル帰郷くみが国境にむけて出発する頃には15:30になっていた。

 通関に二時間かかった上で行きと同じスピードでウランバートルにもどるとすると、ウランバートルにつくのは午前二時とかになり、私の飛行機は翌朝7:45分にウランバートルをたつので、二時間前にホテルをでるとすると、ホテルには二時間しかいられない。そもそも午前二時とかにチェツクインできるのか。万が一寝過ごすことを考えたら、もう飛行場で夜明かししようかと思うが、私はバックパッカーでもフィールド学者でもない軟弱者なので、無理。この時点で私の不安はピークに達していた。
 
 国境を越えてモンゴルに帰る参加者は博物館のバスで一気に通関する手はずであったが、ぎりぎりなってそれができないことが判明。そこで、B先生が通関でまっている車三台と話しをつけ、我々を二人から三人のグループにわけて押し込んでいった。これってIさんが提唱した方式で、却下されたプランである。結局現地の人の言うことに従うことになるのか。

 私たちがつっこまれた車はものすごく古く、すべてのとってがとれており一度ドアをしめられると窓もドアも中からあかない誘拐にぴったりの車である。

通関以前に、車検に通らないんじゃないのこの車?

Y先生この人たち通関屋じゃない?

言われてみればこの車、トランクに何も入っておらず、我々の荷物だけをいれてくれた。国境は徒歩で越えられないので、国境を越える時だけ旅人を手助けする謎タクシー、通関屋Aなのか。

一般車で国境を越える場合は定期便のバスよりも大変。まず「登録」の駐車場でいつくるともしれないロシア側の検査官を延々とまつ。たくさん仕事をしたらお金をたくさんくれるわけではないので、みな仕事をしたくないらしく、とにかく検査官がこない。やっときたと思ったら形式的なチェックのみで、いやがらせとしか思えない

 そして登録がすむと、こんどは高速の料金所みたいなところで一人一人パスポートチェック。これで出国完了。このあと、例の謎車にのって無人地帯を移動すると、モンゴル側の入国審査がはじまり、ここでも荷物チェックとパスポートコントロールがあり、また車にのってバーをこえるとやっとモンゴル側のアルタン・ボラクにでる。夕方であまり車が混んでなかったこともあり、一時間半くらいですむ。通関屋だからなれていたのかもしれない。

 Iさんの話では「セレンゲ県の中心であるスフバートルまで送ってもらえ」とのことであったが、通関屋は国境からはなれない、とのことで、B先生がそこいらにたまたま買い物にきていたおばちゃんと交渉してスフバートルまでつれていってもらうことに。そのおばちゃんは人を待っていたため、えんえんと発車しない。郷に入っては郷に従えと唱えながら忍従する。

 そしてスフバートルついてみると、ウランバートルにいく車のたまり場はただの駐車場であった。しかし、いっせいに運転手がよってきて、B先生との値段交渉がはじまる。そのうちの一人と話しがつき、やっとウランバートルに向けて動き出したのが五時半。途中休憩を挟みつつも22時半にウランバートルの長距離バスターミナル「ドラゴン」についた。あと少しでホテルなのにこの人はすぐにスフバートルに戻るとのことで(!)、またそこから新たなタクシーを拾いホテルについたのが23時。
地図

あとで通算したら、その日は郷土資料館のバスで国境まで→通関屋Aの車で国境を越える→おばちゃんの車で国境からスフバートルまで→スフバートルからドラゴンまでの長距離タクシー→ドラゴンからホテルまでと、タクシー六回車を乗り継いだのであった。

駅伝かよ!


しかも、これはモンゴル人のB先生がいらっしゃらってはじめて可能であった移動であり、一般の人にはぜんぜん推奨できない。キャフタが世界遺産になってバス停ができるまで、私がキャフタに行くことは二度とないであろう。
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