白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/01/23(月)   CATEGORY: 未分類
「真を写す」
神戸在住の写真家の緒方秀美さんが上京してこられたにあわせて、ポートレート写真をとって頂くために、船橋にいってきた。
 緒方さんは20歳で80年代のニューヨークに留学し、数々のアーティストの写真週やジャケットをてがけ、最近ではフィギュアの小塚崇彦、横綱白鴎の写真集をだされている。
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ブログはこちらです。
http://ameblo.jp/photographer-hidemi

 実は私は写真写りが悪く、とくに講演中の写真は「悪の枢軸」みたいな表情にとれてみるのもいや。くつろいでとった時のスナップ写真では自然な表情になるのだが、集合写真の一部をきりとったものはでは画素がたりずに公式のポートレートには使えない。
 
 そのように困っていたある日、チベサポの杏里さんが緒方秀美カメラマンとお知り合いであることを知り、今回の「緒方さんが上京してこられるので、とってもらいたい方、集まりましょう」イベントにのった。

 私の前はアーティストの坂東静さん。何でもオーディションに添付する写真だそうで、髪はきちんと美容院でセットし、撮影用のお召し物もカートでもちこまれて気合いがはいっていた。

 私も撮影日前、「美容院に行った方がいい」とK嬢にさとされたものの、前日一枚100円のアロエパックをしたのみで、眉毛も髪もいつものまま(ていうか生まれてこの方、ナチュラルなまま 笑)。服も普段使いのスーツ。学者のポートレートだからこれでいいのだ。

 「性格が良く見えるように」撮してください。と頼み込む。 

 ここでなぜ私が良い人に見えるようにこだわったのかは、やはりダライ・ラマ法王が関係している。

 来日の際にダライ・ラマ法王の写真をとった某カメラマンの方がこうおっしゃっていた。

「私はいろいな方のポートレートをとってきましたが、人によっては百枚とっても一枚くらいしか感じのよい写真がとれない場合もあります。しかし、ダライラマ法王は何枚とってもどの写真もきまっている。もちろん目をつぶったりとかはあるけれど、いわゆるヘンな顔とか、悪い顔とかが一枚もないのがすごい」

とおっしゃられていた。

 これを聞いた時、私の写真写りがわるいのは、法王のようにオープン・マインドでないからだと気づいた。そして、いつでもどこでもどのようなカメラでとられようとも、慈母のような表情になるように心を綺麗にせねばと思った。

 そうして何十枚かとったうちの三枚を選んで、顔のてかりとか、髪の毛のほつれとかをフォトショップで修正していただいた。これがその一枚です。
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 いつか、何枚とっても捨てる写真がない境地に達してみたい。オープン・ハートでコンパッションが鍵なんだろうな。

 写真をとったあと、そのまま曙橋のチベット・レストラン、タシテレに向かい、三年有志とチベット鍋(ギャコク)を囲んだ。
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チベット鍋は羊肉・鶏肉・豚肉・豆腐、見えないけどこの下に野菜がたくさん入っています。限定一日一食なので、みな予約してから行こう。

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DATE: 2017/01/04(水)   CATEGORY: 未分類
「ジャヤバルマン7世の寺」(カンボジア後編)
●バンテアイ・チュマル遺蹟

 午後、タイ国境から22キロのバンテアイ・チュマル遺跡に到着する。入り口に記帳所があり、みながトイレにいってしまったので私が代表して記帳するが、日付が5日なので驚く。カンボジアに来てから時間がたつのが早い。これから帰る日までジャヤバルマン7世 (1181-1218) の遺構めぐりである。

 ジャヤバルマン7世はクメール帝国最盛期の王であり、アンコール・ワットを占領するチャンパ軍(ベトナム)を追い出して56才で王位に就き、その領土をインドシナ半島全域に広げた。ジャヤバルマンは建築王であり、即位とともに、国家鎮護の僧院バイヨンをつくり、王宮を建設し、父を祀るブレア・カーン僧院、母を祀るタ・プローム僧院を建てた。ガイドさんによると、国家鎮護の寺はスメール山世界を模した立体的なプランに作るが、父母を祀る寺は平らな構造なんだそうな。このバンテアイ・チュマルはチャンパとの戦場でなくなった息子と四人の将軍に捧げられたものであるので比較的平らなのだそうな。

 大乗仏教徒であった王は、慈善事業に熱心であり、王道を建設してその沿道に無料の宿舎や施薬院をつくって民生に尽くした。ここバンテアイ・チュマルもかつての王道沿いにある、北部の拠点都市である。

 ベトナムを追い出して領土を拡大したこと、民生に尽くした慈悲深いイメージ、これが功を奏して、現在のカンボジア人はジャヤバルマン7世を最も愛している。しかしその死の様子は謎に包まれているため、ハンセン氏病にかかって顔をみせなくなったという伝説が生まれ、それが三島由紀夫にインスピレーションを与え『ライ王のテラス』(1969)という戯曲が生まれた。

 ジャヤバルマン7世の死後に現れたジャヤバルマン8世(1243-1295)はヒンドゥー教徒であり、おそらくは政治的意図もあり、7世が残した仏教的なものを病的なまでに破壊した(石澤良昭『アンコール・王たちの物語』)。仏像の首をはね、壁から仏像を削り取り、残す場合もヒンドゥー神か、装飾模様に変えた。この文化大革命まがいの仏像破壊は、王都バイヨンにおいては徹底していたが、ここバンテアイ・チュマルは都から距離があるせいか、仏さまの姿はまだそこここに残っている。とくに西側の壁に残る巨大な千手観音像は圧巻である。境内を囲む回廊も、壁も、宇宙山を模した中央にある五つの塔も今はがたがたに崩れているものの、往事の盛んなる時の余威が十分伝わってくる。
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 大きな僧院はかならずその東西南北の四面に衛星寺院をもつので、時間の制約もあるので南側の寺だけを回ることにする。これらは小さな遺跡でジャングルに埋もれているため近所の村の子がヤブをかきわけて案内してくれる。「タータラッター、タタター♫」とインディー・ジョーンズのテーマを脳天気に唄って歩いていると、誰かがハーブをふんだのかいい香りがするなと思った瞬間に、指の間に痛みが走る。前から順番に三人が蜂に刺されたのである。私はすぐに毒を吸い出したが、ふくらはぎをさされた人は誰も目を合わさなかったので、翌日患部が腫れていた。K先生はフィールド・ノートに「蜂に刺される三人」と記録。かつては木の根を踏み抜いて足を怪我した学生もいたそうな。この半分自然に埋もれた遺跡のたたずまいは世界遺産として整備された中央部分よりもずっとロマンに満ちていた。ヤブをかきわけていく価値はある。蛇やムカデや蜂を気にせず後に続いて下さい。
バンテアイ衛生

 このあと、ジャヤバルマンが建設した王道にそった国道六号線を走って、ひたすらクメール朝の王都(現シェムリアップ)に向かう。途中ジャヤバルマン7世の時代からの石橋がいくつも目にできる。

●バイヨンを巡る学説への疑問


9月6日 本日からはシェムリアップ周辺のジャヤバルマン7世関連遺跡をまわる。写真入りのパスをつくると遺跡ごとにいちいちお金を払わずに観光することができるが、このパスはカンボジア人の給料水準を考えるとものすごく高価。聞けば二月からはさらに値上がりするといい、ガイドさんによると、入場料はベトナム系のSochaグループに吸い上げられているという。カンボジア人の誇りであり、外貨収入の目玉であるアンコールワットが、宿敵ベトナムに牛耳られているのである。しかしそれが本当だとしても、カンボジアの資本家とか知識人を皆殺しにして、ベトナム人につけいる隙を作ったのはカンボジア人自身である。カンボジアの今の状況を見ていると、「知識人を殺すことは、亡国の始まり」としみじみ体感できる。

 パスを作って遺跡ゾーンに入り、まず日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JASA Project)の拠点であるバイヨン・インフォメーション・センターにいく。ここではクメール王朝の歴史と遺跡発掘・保存の国際プロジェクトの紹介ととくに日本がメインで修復に携わっているバイヨン遺跡の詳細を知ることができる。バイヨンの修復チームは早稲田の建築科出身の方々を中心としており、Jasaに常駐している建築家の石塚さんも、カンボジア側スタッフで修復の専門家のチヤさんの日本人のおくさんも早稲田出身で、すべてのラスボスが早稲田大学創造理工学部建築学科の中川武教授であるという。確かに読売オンラインの記事にこのセンターが開店した時の中川先生の名前が見える。

 しかし、センターで提示されていた学説は微妙なものであった。まず、「バイヨンの東西南北の各パーツは南が仏、北がシヴァ神、東がジャバルマン王家、西がビシュヌ神に捧げられており、この他にも地方神、祖先神の名前が碑文に列挙され万神殿の様相を呈している」、という旨の解説については、すべての塔の東西南北に観音様の顔が彫り込まれ、中央の塔の上にも仏陀が祀られていること、現在は削り取られてその姿を消しているものの東西南北どの面にも仏龕があること、とくに唯一削り残した四臂の世自在王仏(王形の観音菩薩)が北側破風にあることを考えると、ヒンドゥー教の神々を統括しているのは明らかに仏教の仏たちである。この寺から後期大乗仏教のマンダラ的思考を導きだすならまだしも、あらゆる宗教が互いを尊重しあって共存している現代的なイメージでまとめるのは何かずれているというか、表層的にすぎる気がする。
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 また、バイヨンの内部にある石像の顔を専門家が顔認証ソフトでスキャンしたところ、三種類の顔が抽出できる、それは阿修羅と神と天女である」というのだが、この三つをセットにする既存の思想とは何なのだろう。阿修羅と天人と人なら三善趣でセットにもなるけれど、文献的な裏付けはあるのだろうか。と疑問を懐きつつ、センターをでてから南側からバイヨン遺跡に入る。昨日のバンテアイ・チュマルと同じ人が作ったので構造がそっくりであるが、仏像は見事なまでに削り取られている。バイヨンを見終わった後は1053年建造の美しいパプーオンにいく。この寺院は裏から見ると涅槃仏になっている。この趣向はカンボジアが上座部仏教に染まった後に付け加えられたものである。その後、象のテラス、ガルーダのテラス、ライ王のテラスをよぎって再び車上の人となる。

 午前中、付け焼き刃の勉強で、地上にある仏はヒンドゥー教徒のジャヤバルマン8世とカンボジアの庶民たちによってぶち壊されるか消されるかしていることが分かったので、お昼ご飯の後には、出土品を収蔵しているシアヌーク・イオン博物館(Sihanouk-Angkor Museum)に向かう。ちなみに、王の名前とスーパーの名前を並べるのが不遜とかで、近いうちに名前がかわるらしい。この博物館はジャヤバルマン7世がたてたバンテアイ・クディ寺の正門脇から上智大が発掘した首や胴体だけの仏陀像を展示している。「この首と胴体はつながらないんですか? 」と聞くと、首と胴体をわざわざ別の場所に埋めたのかセットにならないのだという。廃仏のヒンドゥー王は徹底して粘着である。

 博物館の次には、首なし仏陀の出土地点であるバンテアイ・クディにいく。この寺はミニ・バイヨンともいうべき構造で、現存する建物には仏の姿はまったく確認できない。この時点で空が俄にかき曇り雷がゴーロゴロとなりはじめ嵐の前の不穏な風が吹きはじめた。バンテアイ・クディの門前にはこれまたジャヤバルマンの造成した広大な貯水池があり、この岸辺にたつとスコールの到来が全身で感じられる。そのあとは豪雨となり道路が冠水した。

 そこで室内のアンコール国立博物館(Angkor National Museum)に向かう(パスを作ったのに別に入館料かかるとこばかりよっている笑)。最近新装開店した、大画面デジタル画像を多用した最新鋭の博物館である。ここには思った通り、四臂の世自在王仏像が山ほどあった。

●ジャヤバルマン7世の時代は「世自在王祭り」


9月7日 午前中はトンレサップ湖でクルージング。蛇をもった男の子が父親が操るボートで観光客ののる船をひたすらストーキングして写真をとらないかとついてくるのがうっとうしい。湖にはこの蛇親子以外にもたくさんの船が浮かび、水上集落をなしている。店も学校も倉庫も教会もみな船の上だ。

 ガイドさんによると、「この水上生活者はみなベトナム人なんだ(また笑)。今ベトナムは景気がいいんだから、国に帰ればいいのに、ここに居座っているのはいずれこの地をベトナム化するための計画があるからだ」とすっかり陰謀論者となっている。とにかくベトナム人とくれば財閥から物乞いまですべて嫌いらしい。

 船から下りると、湖の辺の山上にある10世紀のヒンドゥー寺院プノム・クロム(Phnom Krom)にいく。K先生は山上で地図をひろげて、この線が乾期の時の水辺で、雨期の今は山の麓まで水がきていると説明される。
 それから昼食をとったあと、ひたすらジャヤバルマン7世の時代の建築物を回りつづける。まず、お堀の西に向かい、ジャヤバルマンの病院タプローム・ケルを見る、次にプラサート・ブレイ、そこから徒歩ですぐのバンテアイ・プレイにいく。
 それから車にのってジャヤタターカ貯水池の中にたつ診療所、須弥山世界をかたどった寺、ニュック・ポアンへ。主尊は世自在王仏であり、ヴィシュヌに改変されたものの元は明らかに世自在王仏の像も随所に残っている。次に、クロルコ(Krol Ko)。ここも世自在王仏がたくさん。次にジャヤタタカー貯水池の東側にたつタソムに行く。ここはアメリカによって修復されかつては塔の上に蓮華座の上に座る仏陀がいたことを明らかにしている。ここにもヴィシュヌにするために二本手が削られた世自在王仏がどかどか現存していた。

 この旅で最期に訪れた寺は、1191年にジャヤバルマン7世の父を祀るために作られたプリア・カーンである。その心は前述したようにこの寺の本尊は世自在王仏が王の父と習合したものだからである。ジャヤバルマン七世の時代は「世自在王仏祭り」状態であったのだ。
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 ジャヤバルマンの時代の主な信仰対象は明らかにシヴァとかヴィシュヌとかのヒンドゥー神ではなく、慈悲の象徴である世自在王仏と智慧(般若)の象徴である般若波羅蜜母であった。この二尊は仏になるために必要不可欠な二つの要素に慈悲と智慧の二資糧の仏格化である。また、寺の構造はマンダラの中央に描かれる仏の宮殿形そのままであることを考えると、やはりバイヨンは「万神殿」というよりは「マンダラ」のような後期大乗仏教すなわち密教的な解釈を施した方がしっくりくる。碑文よめないけど、時間があったらこのテーマを深掘りしてみたい。密教オタクの視点から言えることは必ず何かあるはず。
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DATE: 2017/01/03(火)   CATEGORY: 未分類
教育は世界を変える(カンボジア紀行前編)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
三が日は大晦日にBSプレミアムで流していたホビット三部作の録画していたのをみて、そのあと下町ロケットをみたら無為に終わった。大晦日から新年にかけてヒット作をまとめて流すのはやめてほしい。そこで、こちらも対抗してネタ一挙公開、去年九月のカンボジア旅行(ただの観光ではない)を前後編で初公開。

●プノンペン直行便初就


 まずなぜ旅だったのか。昨年八月、新書『ダライ・ラマと転生』の入校をし疲れ果てていた私は、とにかくパァーッとした気分転換を求めており、同僚のK先生から「九月一日にANAのプノンペン直行便が初就航するので大人旅はいかがですか」とのお誘いがあった瞬間にそれにのっていた。
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9月2日 我々の機体がプノンペン上空にさしかかると、CAさんも乗客と一緒に眼下に広がる光景を見下ろした。初就航二日目なのでCAさんにとっても初めて見る光景なのである。プノンペンにつくと、現地テレビ局のキャスターが、われわれの乗ってきた機体が視界に入る場所で中継をしている。プノンペンでは直行便の就航は大きなニュースとして扱われているらしい。K先生は「〔観光地でもない〕プノンペンにはそんなに需要がないから、すぐにもっと小さい機体になり、いずれ不定期になりますよ」と冷めたコメント。

 空港のゲートをでるとまずは牛丼の吉野屋が迎えてくれる。三年前にはなかったよなあ、これ。とりあえずついた日はホテル周辺のお寺や街並みをひやかす。本屋さんには偉人伝コーナーがあり、表紙の色彩感覚が素晴らしいのでダライ・ラマ伝を買う。しかし、カンボジア人の考える偉人のラインナップはようわからん。釈迦、孔子、オバマ大統領、ガンジーとかの聖人路線は分かるが、スターリン、毛沢東、そして、ソニーの盛田昭夫が入っているのがよく分からん。この筋からいえば今はトランプとか入ってそう。
クメールダライラマ

 到着した日はホテル近くのKhmer Surinという宮廷風のレストランでテラスにすわり、木琴演奏を聞きながら食事をする。このレストランはカンボジアの六本木と言われる地域にあり、かつては隠れ家風の場所であったのに、周辺に巨大マンションがたつなど再開発の波に洗われたため、このレストランも売りに出されしょっちゅう持ち主が変わっているとのこと。N先生によると何年か前までプノンペンには多くの韓国人がおり、カンボジア人が韓国へ労働力として送られていたが、最近は韓国の景気が悪いのか、韓国人の数がめっきり減ったという。韓国人はカンボジア人を見下し、きつい使い方をするため、カンボジア人には嫌われているとのこと(現地の人に聞いた情報)。

 K先生とN先生は食べたいクメール料理のリストをもっており、まだ食べていないものを「未履修」、それが美味しいと「合格」、想像したものと異なると「再履」などと大学の先生らしい評をしながら、ひたすら料理に舌鼓をうつ。

 プノンペンの見所はカンボジアを支援するために世界中から集まったあらゆるNGOのショーウインドーがあること。たとえばイタリア人の経営する蚊帳やゴミ袋をリサイクルして作った小物やバッグの店、また、売り上げが路上生活者の支援にあてられる店、路上生活の子供達などをスタッフにしたホテルやカフェが数かぎりなくある。

 そのようなショップの一つ「フレンド」には、「路上で物乞いをしている子供たちを救おうと思うのなら、お金をあげないでください。お金をだすなら、彼らの親を支援して子供たちを路上生活からぬけさせるプログラムをもつNGOにしてください。ホテルやタクシーやカフェを選ぶ時にもNGOのマークがついているものを遣って」という注意書きが置かれている。

●クメール・ルージュ虐殺史跡

9月3日〜4日 朝一で王宮前広場を経由して国立博物館に向かう。三年前には意識が低かったので気付かなかったが、クメール帝国の最盛期であるジャヤバルマン七世の時代は大乗仏教が流行しており、刻まれる石像もほとんどが大乗仏教の仏である、世自在王仏、般若波羅蜜仏母であった(現在カンボジアは上座部仏教の国)。あさっていくことになっているバンテアイ・チュマール遺跡の一部も展示されている。確かに観音様の姿が彫られている。

 博物館をでた後は、クメール・ルージュ虐殺のあとをたどり、トゥールスレン収容所やキリング・フィールドをまわる(詳しくは以下の三エントリーをどうぞ)。
2013年3月2日「キリングフィールド
2013年3月20日(水) 「カンボジアのポルポト史跡
2013年3月26日(火)カンボジアとチベットに通底するインド文化

1975年の4月17日にクメール・ルージュ(共産党)がプノンペンに入城してから、四年後にベトナムと反クメール・ルージュの連合軍がカンボジアの政治を取り戻すまで、カンボジアでは虐殺・餓死を含めて少なく見積もって100万人が死んでおり、この二つの史跡は虐殺博物館となっている。トゥールスレン収容所の内部には、この収容所をしきっていた幹部の写真が展示されている。驚いたことにこれらがほとんど十代の子供たちで、年長者でも22歳であった。あどけない殺人者たちは紅衛兵と同じファッションに身を包んでいる。そして泣けたのが、そこに収監され殺されたアメリカ人の若者の話である。彼はたまたまヨットでカンボジアを訪れた時クメール・ルージュがプノンペンを制圧したため、スパイとして捕まりここに送られた。彼は何をいってもスパイと決めつけるクメール・ルージュを前にして死を覚悟し、両親や兄弟へ愛を伝えようと思った。そこで彼はクメール・ルージュの質問に対し全てジョークとユーモアで返すことにした。
「お前にスパイ活動を命じた上官の名前は」といわれたら
「カーネル・サンダースだ」と答え、秘書の名前を聞かれれば、自分の母親の名前を答えた。こうしておけば自分の死後家族が自分の痕跡をたどった時、間接的にであれ「愛している」という思いが伝わる。彼の弟は後にこの供述書を手に入れ、トゥールスレンの所長を裁く法廷で証人に立った。彼のような理不尽な死に方をした人が100万人もいるのである。

 クメール・ルージュの虐殺史跡をめぐったあと、5日に訪れるバンテアイ・チュマル史跡の50万分の1の地図を買うために中央市場に向かう。市場の建物は社会主義時代にたてられたため、巨大ながらんどう建築であるが、資本主義となった今は貴金属から生きた虫や魚までが売られるカオスな空間である。地図屋さんはちょっと見にはただの土産物であり観光地図しか置いてないように見えるが、K先生が来意を告げると奥の方から精密な地図を次々と取り出してきた。他の店もそれぞれ奥の方にオタクなものを隠しているのであろう。

●サンボー・プレイクック遺跡

9月5日 国道六号線を北西に向かいK先生が発掘に関わったサンボー・プレイクック遺蹟を経由して、バンテアイ・チュマル遺跡に向かう。両遺跡とも世界遺産であり、クメール朝五大遠隔地遺跡に含まれる。
 K先生とN先生は「川の作る地形」を研究対象にしていらっしゃるので、メコン川が見えるポイントでは車をおりて川を見に行く。その間、私は背中にただPolicesと書いたTシャツを来た警察官と記念撮影をする。これと同じTシャツ作れば誰でも警察官になれるよな。

 K先生は遺跡では崩れた角石の上を歩くので「運動靴をもってきなさい」と告知して下さっていたのだが、メールをきちんと読まない私は靴をもっていかなかった。そこで昼食に停車したコンポンソムの町で運動靴を探すが、こんな田舎町では正規品は買えず、粗悪なコピー商品を六ドルで買う。その結果はかなり最悪であり、普段Asicsの運動靴を愛用し外反母趾一つない私の足は、このコピー商品をほんの一・五日履いただけで、大変なことに。左足の親指が痛い痛いと思っていたら、一月くらいたって爪の色が何ともいえない死んだ色になり、三ヶ月たった数日前ばかっとはがれたのである。その下に新しい爪は生えていたものの、長さは足りないし、新しい爪も古い爪に圧迫されてへんな段がついていた。遺跡をめぐる人はちゃんとした靴を日本から持って行きましょう。

 昼ご飯のあと七世紀のヒンドゥー教のサンボー・プレイクック遺蹟につく。この遺跡は『隨書』では伊奢那城の名で記されている。遺跡にたつカンバンには、発掘調査に資金援助をした中島平和財団、住友財団、早稲田大学などのマークが描かれている。K先生が初めて1999年にこの遺跡を見た時には、多くの遺構が地中に埋まっていた。土に覆われた遺跡は一見すると蟻塚か木の根っこのようであり、それらを一つ一つ確認してから発掘するのである。K先生は発掘された遺構の間をGPSをもって歩き回り遺跡の分布圖を作り、さらに空撮を判読して、3D化して遺跡がどのような地形の上に立てられているのかを調べられた。今私たちの踏んでいる敷石も、階段の下にある蓮の花びらの形をした飾りもかつては地表になかったものである。
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 しかし、発掘は破壊の始まりでもある。遺構の上に根を張った熱帯の樹木の根は成長とともに遺跡を崩す。が、石積みを支えている側面もあるため、遺跡にからまった木を切るのではなく、枝をおとして遺構が倒れないようにバランスをとる、崩れそうな石積みについては針金でしばる、屋根の草をまめにぬくなどのメンテが必要となる。このような細やかな修復技術は日本が最高であるという。

●教育は世界を変える

 サンボープレイクック遺跡の近くにはAtu村があり、この村の子供たちが通う中学校にAtu中学校がある。このAtu=アツとはこの地で1993年になくなった中田厚仁(あつひと)さん(1968-93)の名前の一部である。厚仁さんはクメール・ルージュ(共産党)が追い出され、1993年にカンボジアで初の民主選挙が行われた時、選挙の監視を行うために国際連合のボランティアとして現地入りし、選挙をつぶそうとする勢力に見せしめに殺された。このカンボジアの選挙支援においては日本の自衛隊がはじめて海外にでたことでも知られる。

 中田さんのご遺体は現在Atu中学校がたつこの場所にうち捨てられていた。中田さんの父親はポルポト派の無知・無教養がカンボジアの混乱や息子の死を招いたと考え、この小中学校を寄贈したのである。学校は午前のみとのことで子供の姿はなかったが、図書館の札が下がった建物に「この世界を変えるのは教育を受けた子供たちだ」(world change starts with educated children)という言葉が掲げられていた。正門脇には花に囲まれた厚仁さんのお墓がある。
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 中田さんの父親の言葉が意味を持つのは、あれだけの混乱と死をもたらしたポルポトが現在もカンボジアでは「愛国者」であることを理由に否定されていないことである。そもそもポルポトの幹部を裁く法廷はぐだぐだである。ある人はこういった。

 私の父親は私が二歳の時に殺されました。独身の叔父がベトナムに逃げて生き延びただけで、親の代はみな殺されました。同級生もお父さんがいない人ばかりです。〔ポルポトの統治下で〕母親が私の生まれた日を特定できたのは、共同食堂にカレンダーがはってあったからです。でもこのカレンダーは逆さに貼られていました。それは「逆さですよ」と言った人を見分けて殺すためです。母は殺されないように文字が読めないふりをしていました。
 でも私はポル・ポトは悪くないと思います。彼は愛国者で、ベトナムのスパイをあぶりだそうとして結果としてやり過ぎてしまっただけなんです。フンセンは1979年ベトナム軍とともにカンボジアに攻め込みポルポトを失脚させましたが、その時ベトナムは20万の兵士を送り込みカンボジアの領地をたくさん奪い取りました。今、そこにはベトナム風の地名がつけられ、カンボジア語は禁止されています。タイもカンボジアから領土を奪いました。フンセンのせいでカンボジアは多くの領土を奪われました。ベトナムは50年100年計画でカンボジアの土地を奪い領土を広げ、過去のチャンパ朝の地を取り戻そうとしています。
 このままフンセン政権が続けばラオスとおなじくベトナムにやられっぱなしです。フン・センは選挙の前にカネをばらまくくせに、国民の教育には力をいれず、自分たちの子弟はみなヨーロッパで教育を受けさせています。カンボジアが貧しいのは人々に教育がないことと、灌漑を行わないからです。ポルポトは用水路をたくさん作りましたが、フンセンはポルポト時代の用水路を嫌って使いませんでした。アメリカは人権とかうるさいことを言いますが、中国は無条件で600億ドルくれるので好きです。

つまり、「ポルポトは父やたくさんのカンボジア人を殺したけど、ベトナムと戦ったから素晴らしい、人権に注文をつけずにお金をくれる中国は素晴らしい」というご意見なのである。そもそもベトナムに攻め込まれた原因はポルポトの極端な原始共産制の導入とベトナムに対する挑発であるし、ポルポトの作った用水路は使い物にならなかったし、人権がどうでもいいというのなら、明日身に覚えのない罪で逮捕され拷問されて処刑されてもそれを受け入れるのかとか、ツッコミどころは満載な発言であるが、彼らは大まじめにそういうのである。

 彼らがポルポトを否定できないのは、日本人の知識人が毛沢東を否定できないことにも似ており、格差などの現状への不満がポルポトや毛沢東の美化に向かわせていると思われる。しかし、ポルポトや毛沢東が現実に行ったことは格差の解消どころの騒ぎではなかったわけで、それを直視せずにただ美化する人々の姿を目の当たりにすると、不満が極端に達した時、またあの悲劇が繰り返されるのではないかと心配になる。

(後篇に続く)
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DATE: 2016/12/29(木)   CATEGORY: 未分類
「祖国の土が子供たちのもとに届く」
クリスマスの夜、目黒川のイルミネーションを尻目に、非リア充は亡命チベット人監督テンジン・チョクレーによるドキュメンタリー bringing Tibet home (原題 pha sa bu thug「祖国の土が子供たちのもとに届く」2014年)を見に行く。

 途中、平成24年に目黒川のほとりに閉館となつた「川の資料館」を発見して暗澹たる気持ちになる。都内ですらこの手の資料館が閉館しているなら、淡路島歴史資料館のてこ入れなんて夢のまた夢である。

 監督は韓国で映画の勉強した人であるという。何かそのような話を聞いた気がするのでメールを検索すると、Kくんのニューヨークからのメールで、この監督が日本にくるのでその時、この作品を日本で上映できないかという問い合わせがあった。しかし、その日程があまりにビジーだったので日本語字幕をつけるのが間に合わないだろうと答えたような気がする。そうか、あのドキュメンタリーか。

 あらすじはこうである(盛大なネタバレをします)。

 詩人で現代芸術家のテンジン・リクドル(1982-)は亡命チベット人二世だ。両親は1959年にヒマラヤをこえて亡命し、ネパールでリクドルら兄弟を生み、アメリカに移住した。しかし、父親が癌宣告をうけ、「チベットに還りたい」といいながら死んでいく。リクドルは父親と同じく、チベットへの帰還をねがいながらも果たせない亡命チベット人たちのために、一つのパフォーマンスを思いつく。

 それはチベットの土を20トンネパール経由でインドに運び出し、亡命チベット人たちにそれを踏んでもらい、その反応をみようというものである。

 で、リクドルは少年期をすごしたネパールに向かい、幼なじみのトゥプテン(ネパール在住)をコーディネーターとしてプロジェクトを始動する。しかし、当初「簡単だ、四日でつく」と言われた土はえんえんと到着しない。

 聞けば、国境外に土を運び出す許可がとれず、さらに、中国がチベットを併合した17ヶ条条約締結60周年のせいで国境警備が厳しくなっているからだという。

 リクドルは「四日ですむといっておきながら、なんでこんなに時間がかかるんだ!」と苛立つが、たしかに仲介業者もいー加減だが、土の輸出入の可否とか、検疫とか関税とか何も調べていないリクドルもいー加減ではないか(少なくとも日本は外国の土はもちこめないとのこと)。

 そして結局、土を小分けにして、密輸業者にワイロをはらって国境の川をまたぐ密輸ワイヤーをつかってネパール側にもちこむことに成功する。私はこれを見て、「こんな苦労するくらいなら、土はあくまでも象徴なのだから、日本のお砂踏みみたいに少量でよくて、みなで行列になって順々にふめばいいのではないか」と思った。

 しかし、そのようなつっこみをすべて覆す展開がラストにまっていた。

 トラックにつんだ " チベットの土"はネパールに入ってから、別の袋につめかえられ、増水した川に足止めされたりとしつつも、50の検問を突破してようやくダラムサラについた。そこは亡命チベット人の政府機能の中心地であり、ダライ・ラマのいる場所である。

 リクドルたちは「Our Land Our People」という横断幕を町に貼り、翌日のイベントを告知し、会場となるチベット子供村のバスケットボール会場に20トンの土をひろげる。

 Our Land Our People! これはダライラマ14世が亡命直後の1963年に血の涙を流しながらつづった自伝My Land My peopleチベット我が祖国へのオマージュではないか!

 イベントの行われた2011年10月26日の朝、リクドルは「チベットの土」を手に捧げて、ダライ・ラマを表敬訪問した。ダライ・ラマは「中国の知識人は真実を知れば私たちの味方になってくれる。中国人の協力なしにはチベット問題は解決しない」といいながら、土の上にチベット文字で「bod(チベット)」と記した。
テンジンリクドル少女

 イベント会場においてはダライラマのご真影が中央に飾られ、チベットの旗がひるがえり、ロプサン・センゲ首相の挨拶などがなされ、BBCもきて(テンジン・リクドルはロンドンのLossi Lossi 美術館と協力してこのイベントを行っている)なかなか盛大なことになっている。

 しきつめられたチベットの土のまわりで、チベット子供村の子供たちがお遊戯を始める。その歌詞は
「私たちは一生懸命勉強して、一生懸命勉強して、チベットの地にかえります。チベットの地に還ります」この時点で涙腺がゆるんでくる。まずい。

 それからみなが次々とチベットの土をふみ、その感想をマイクを通じて集まった人々に届ける。
 小学校低学年くらいの小さな女の子がしゃくりあげながら「すべての亡命チベット人がいつかチベットの地に還れますように」というと、マイクをもっていた若い女性もいっしょにもらい泣きをし、みな感極まる。
テンジンリクドルダライラマ

 リクドル「チベットから土をもってくる時、あんまり大変だったので、もしこれが最初からわかっていたらいろいろ考えすぎてしまったかもしれません。この土は私たちチベット人と同じ。中国人に追われて国境をこえるまで転々としながら、時には違法な仲介業者にお金をはらって国境を越えねばならない。祖国が植民地化された私たちには居場所がありません。祖国にも亡命先にも世界のどこにも安住できる場所はありません」

 実際、ここ数年ネパールは、経済的に膨脹した中国によって完全にコントロール下にいれられ、亡命チベット人が暮らしづらい社会となっている。

 このドキュメンタリーでもリクドルは「自分が住んでいた子供の頃よりもネパールがギスギスしている。チベット人街への警察の監視が厳しい。」「中国人はネパール国境30キロ圏内ではチベット人を逮捕できるらしい」「国境近辺にはチベット語をしゃべる中国のスパイがたくさんいる。やつらは非常にソフトににこやかに接してくるが、こちらの情報をとりにきているから注意しろ」みたいな話がそこここにでてくる(今はさらにギスギスしている)。実際、ネパール在住のチベット人は動ける若い世代からカナダ、アメリカへの移住を続けている。

 リクドルの手足となって国境での交渉に当たった幼なじみのトゥプテンはネパールに住んでいるのによく顔出しできるなあと感心していたら、後でSFT Japanの人に伺うと、そのまま彼は亡命したそうな。

 話をイベント当日に戻すと、「祖国の土」は三日間展示されたあと、自由に持ち帰れることになった。チベット人たちは、甲子園の球児たちのように土をペットボトルや袋にいれて、各自自分の家に持ち帰った。20トンの土はまもなく跡形もなく消えた。

 「お砂踏み」程度の土の量ではこの需要にこたえることはできず、この光景を見られなかったことを考えると、リクドルの無計画さも意味をもつ。合理的な判断が必ずしも正しいわけではないのだ。

 リクドルは「このプロジェクトは、亡命チベット人がいつかは故郷に帰ることができるという吉祥の証である」とあつく未来を語っていた。中国がきめた国境とか、関税とか、権益とか、規制とか、それらをこえてもちだされた祖国の土はたしかにプライスレスなものとなっていた。

 このドキュメンタリーのサイトと、当時のBBC記事をつないでおきます。
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DATE: 2016/12/21(水)   CATEGORY: 未分類
2016年のチベット三大ニュース
 来年もチベットをあなたのお側に。そうです2017年のチベット・カレンダーのサムネイルならびに購入サイトはこちらです。このたびは写真家の野田雅也さん、ルンタ・プロジェクトの中原一博さん撮影の写真、並びに、フォトコンテストの応募作品により、構成されています。もちろん、チベットの祝祭日もはいってます。 

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 来年は「チベット大僧院のトイレ・シリーズ」というテーマ・カレンダーを作ってはどうかと一部で盛り上がっているが、「トイレ」はともかく、チベット高原の花鳥風月(特に、鳥、鳥、鳥!)」「チベットのシャーマン」みたいなおとなしい統一テーマであったら意外といけるかもしれまん。

 今年はヨーロッパのイスラムテロで幕を開けたかと思うと、あれよあれよという間に、理想を語る言葉が他者をののしる言葉にとってかわられ、人々が融和から排除へと向いはじめた。イギリスはEU離脱を決議し、アメリカに移民排斥を唱えるアレな大統領が誕生し、ロシアと欧米はシリアで代理戦争を行い結果アサドが勝ち、世界中でガハハな指導者が「他人のことなんてどうだっていい、自分の利益だけ考えるぜ」「死ね」とか醜いホンネを主張したのであった。みなが自分のことだけ考えれば、万人の万人に対する闘争がはじまり、結果、全体としては破滅に向かう。もう人類全体が滅びの道を自主的に選択しはじめたかのようである。間違いなく歴史に残る一年であった。

 しかし、オーストリアの大統領選だけはかろうじて踏みとどまった。これはおそらくはオーストリアが敗戦国であることと無縁ではあるまい。先の大戦で、敗戦国は国土を焼かれ、70年間戦争責任についてののしられ続けてきた。戦のむなしさを骨身にしみてわかっている敗戦国は、軽々にパワーゲームにのめり込まない。

 また、任期最終年のオバマ大統領も駆け込みレガシー作りでアメリカが戦場とした国、対立していた国々をまわり和解を演出した。ベトナム戦の跡地をまわり、原爆投下地点で献花し、キューバと国交を回復し、安倍総理大臣をパール・ハーバーへ招いた。そして、ダライ・ラマである。これまでオバマ大統領は中国に対する配慮から、ダライ・ラマと会見してもそのツーショット写真をメディアに公開しなかったが、本年6月15日に行われた4回目のダライ・ラマとの会見はその禁を破り、ツーショット写真を披露した。
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 ちなみに、12日後の6月27日にはレディー・ガガがダライラマ14世のツーショットをインスタグラムに投稿すると、中国のネット民はガガに「中国人はあなたがビン・ラディンと握手しているように見える」と罵詈雑言をとばした。あの温厚な平和主義者のダライ・ラマをテロリストと国民に教えこまなければもたないのだから、中国も哀れな国である。そういえば、アパルトヘイトまっさかりの南アフリカでは、無学な白人たちは、非暴力路線で人種の平等を訴えていたANCをテロリストと呼ばわっていた。

 そして、長年軍事政権に軟禁されていたアウンサン・スーチー氏は、今年したたかにミャンマーの政治の中枢にくいこむことに成功した。これによって、非暴力をもって戦う人々は、ダライ・ラマをのぞきすべて政敵を倒すことに成功したことになる。複雑である・・・。

 今年の訃報としては4月29日にサキャ派のトップであるダクチェン・リンポチェ=ガワン・クンガー・ソナムがシアトルにおいて88才でなくなった(ソースはここ)

 また、5月7日には日本に何度も来日されていたゲン・ロサン先生が肝炎によって逝去された。ゲン・ロサンはインドのチベット文化圏ラダックに生まれ、ダライ・ラマの摂政をだす四転生僧のうちの一つクンデリン・リンポチェの師をつとめ、かつ、次期ギュメ管長である副管長に就任中であった(詳しくはここ)。

●以下、チベット社会全体にかかわる三大ニュースを選んでみた。

(1) ラチェン・ガロの弾圧が再開する

アムド(東チベット)のニンマ派の僧院、ラチェンガロ(Larung Gar) は、チベット人ばかりか漢人の修行者を集めて巨大化した結果、江沢民政権の終了時に迫害にあい、大きな海外ニュースとなった。その後、胡錦涛政権においては宗教のもつ道徳的な側面を社会秩序の維持に利用しため、ラチェンガロも再び巨大化が加速していたが(『東チベットの宗教空間』参照)、本年7月21日、定員までに僧の人数を減らすとの名目で、中国当局は再びラチェンガロの僧坊破壊に着手している(ニュースはここ http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=37843
)。
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 BBC などの欧米のマスコミはこれを宗教弾圧として奉じてきたが、日本の某テレビの人は欧米の逆張りをしなければならないと思ったのか、「お坊さん達が特段の抵抗をしていないのは、僧坊が壊されて更地になれば、地上げができて坊さんが儲かるからではないか。」「北京の高級ホテルはチベット僧の衣をまとった偽坊主でいっぱいだ。あなたはこれについてどう思いますか」と私に聞いてきた。

 私はこう答えた。「お坊さんが抵抗しないといいますが、デモの自由のある日本じゃないんですから簡単に言わないでください。ダライ・ラマはチベット人に『中国人がダライ・ラマを批判しろ、と命令してきたら、その通りにしなさい。彼らに逆らって投獄されたり、僧侶をやめさせられたりするよりはいいです。私は全然気にしませんから、中国人の言う通りにして身を保ちなさい」と常々いっています。

 偽坊主については、そもそも人々が信服するような徳のあるお坊さん、その多くはインドの僧院で育った人々ですが、彼らは入国禁止です。それに当局は僧院の教育課程や修行を妨害し徳のあるお坊さんが育つのを阻止する一方、偽坊主は大勢に影響がないので放置しているんですよ。チベット仏教の評判が下がっても当局にとっては痛くもかゆくないですから。

 それに、偽坊主にチベット人が含まれていたとしても、漢人に支配され二級市民の扱いを受けているチベット人が文化を捨てずに生きていく道がすくない以上、坊さんのコスプレをその一つとして選んだとしても、安全圏にいる我々が、それを非難する権利があるでしょうか。正確にチベット仏教を報道したいのであれば、中国支配下のチベットの偽坊主ではなく、南インドに再建されたゲルク派の僧侶をみてからにしてください
」。

といいつつ気づいたのは、この記者は、長い中国駐在の間に、漢人知識人視点に同化してチベット人をみていたこと(仏教に向かう漢人は彼らから見るとちょっとおかしい人なのかもしれない)。この漢人知識人の視点はかつての日本の知識人の視線とも似ている。彼らはチベット仏教を自分たちの先入観でみており、その哲学の真髄については無知であり、無知であることすら自覚がない。

(2) 11月、ダライラマ14世はモンゴルのジェブツンダンパ9世の生まれ変わり、すなわちジェブツンダンパ10世を認定。

 その歴史的意義については直前のエントリーで解説しました。

(3) メンツィーカン(医学暦学堂)が創立100周年(3月23日)
 チベット医学はチベット高原の多様な動植物を薬材とインドのアーユル・ヴェーダ医学の理論を特色とする非常にユニークなものであり、メンツィーカンでは薬の製造、医療行為とならんで、暦の出版も行っている。ラサにはすでにダライ・ラマ5世やその摂政サンゲギャムツォによってチャクポリ山の上に医学堂があったが、なぜ、1916年にメンツィーカンが創設されるにいたった背景については、日本で最初のチベット医小川康さんがここで考察している。

●個人的な三大ニュース

(1) 9月『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)の出版。
(2) 11月清風学園でダライ・ラマ14世が導師となったチッタマニ尊の灌頂を受けたこと。
(3) 全体ニュースとかぶるが、ジェブツンダンパ10世がダライラマ14世によって認定されたこと。
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