白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/10/10(金)   CATEGORY: 未分類
映画『オールド・ドッグ』とチベットの今
早稲田祭でチベット人ペマツェテン監督がとった『オールド・ドッグ』を上映します。
「チベットの今」という演題で私も解説します。詳細はこんなカンジです。

映画『オールド・ドッグ』とチベットの今
*日時:11月1日
*場所: 早稲田大学本部キャンパス15号館101
*料金: 学生: 無料 一般: 500円
*プログラム
14:00 開場  14:15 開演: 司会挨拶
14:30〜16:00 『オールド・ドッグ』上映開始
16:00〜17:00 石濱裕美子解説「チベットの今」

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※主催: オールド・ドッグ上映委員会 
  共催: 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
言語の動態と多様性に関する国際研究ネットワークの新展開(LingDy2) プロジェクト

 チベットをテーマにした映画は、マーティンスコセッシ監督『クンドゥン』(1997) ジャンジャック・アノー監督『セブンイヤーズ・インチベット』(1997)など数多く作られてきたが、ハリウッドのメジャーで公開されたため、若き日のダライラマが直面する亡国の悲劇の描写には素晴らしいものがあったものの、ダライラマ14世をはじめとするチベット人がみな英語をしゃべる違和感と闘わねばならなかった(笑)。

 しかし、この『オールド・ドッグ』は主人公はチベットの庶民であり、使用言語はむろんチベット語で、監督も本土チベット人。そこで描かれるテーマは、漢人の支配下において、急速に失われていくチベットの民族性である。本土チベットで映画制作を行うという制約がある中で、監督はよくここまで踏み込んだ描写を行ったものと思う。
 
 そこでは二種類のチベット人が描かれている。一方は、民族衣装をまとい、昔ながらの遊牧生活を営むチベット人、もう一方は漢人の社会に溶け込んで漢人と同化して生きるチベット人である。前者の代表は主人公の老人である。彼は遊牧生活を営んでおり、一人息子のゴンポとその嫁ルンツォが同居している。息子のゴンポは二種類のチベット人の境界に存在しており、馬ではなくバイクにのるがその胸中は父に共感する部分もある。

 一方のチベット人は町にすむチベット人で、老人の甥で町で公安の職についているドルジや小学校教師をやっているルンツォの姉である。中国政府は漢人の数の力でチベット人の同化を勧めているので、後者は生きるためにもっとも適した職業選択をおこなったにすぎない。彼らはもちろん普通にいい人たちで、牧地にすむ老人一家のためにいろいろと力になってやっている。
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 主人公の老人はチベッタン・マスチフの老犬を飼っている。チベットの遊牧民は狼や盗賊から家や家畜をまもるため、昔から巨大な犬を飼う習慣があった。チベタン・マスチフは世界最大の犬であり、チベットでもドム(熊)と呼ばれている。この世界一というフレーズが経済力をつけた漢人の富裕層の虚栄心にマッチし、多額の現金をもつ彼らは、「国産」(漢人からみるとチベットは中国)の世界最大の犬を手にすることに奔走した。そのためチベッタン・マスチフの市場価格はつり上がり、チベットの遊牧民の家庭からチベット犬が盗まれ続けた。その泥棒の中には中国人もいれば、金に目のくらんだ若い世代のチベット人たちもいた。

 そんな悲しい状況の中で老人は孤高である。どうせ盗まれるくらいならお金に換えようと息子のゴンポが中国人の王(ワン)に犬を売りに行くと、それを取り返しにいく。

 なぜなら、その純潔種の老犬こそ、伝統的な遊牧民の生活スタイルと価値観の象徴だからだ。この犬を金に換えるということは、老人にとってチベット人の魂を捨てて漢化(=金)を受け入れることにほかならない。

 漢人と漢化したチベット人はお金以外の尺度がないので、老人が犬を売らないのは、もっと値をつり上げようとしているのだと邪推し、さらに犬の値段はつりあがっていく。もちろん、老人は決して売ろうとしない。
 犬泥棒は常時そのあたりをウロウロしている。

 さあ、老人が最後に下した決断は・・・・。

 て、もちろんめちゃめちゃに暗い話にしかなりません。

 学生はこういう。「センセー、早稲田祭っていうのはね。AKBとかアイドルの公演がとっても安く身近なキャンパスで見られることで皆もりあがるんですよ。こんな渋い映画に誰もきませんよ」という。

 私「でも学生無料にしたし、ミニシアターや文芸ファンには共感してもらえると思うし。香港国際映画祭や東京フィルメックス映画祭で金賞もとっているよ。学園祭でこういう硬派の企画するのは王道だよ」

 学生「でも友達誘っても誰一人応じてくれないんですよ」

 え、学園祭っていつからアイドルの公演と屋台の集まりになったわけ?  私いつのまにか主人公の老人状態?

 というわけで、このページをご覧になっている方にお願い。
 みなさんの周りでミニシアターとか、マイノリティとか、民族問題とかに興味のある方に、この企画の詳細をお伝え頂けないでしょうか。
 映画は暗いです。ラストは見るにたえません。
 しかし、これは今現在進行している一つの現実で、深奥の部分ではじつは私たちともかかわっている問題なのです。

 私たちも、グローバリゼーションに巻き込まれていく中で、合理性・経済性の名の下にいろいろなものを失ってきました。
 一方でマジョリティの一員として異なる他者に自分の考え方を押しつけることもあります。
 この孤高の老人と老犬(オールド・ドッグ)は私たちの認めたくないこの状況を思い起こさせてくれます。

 みなさま、ぜひぜひ早稲田祭の見学もかねておこしください。ゼミのOB の方、私が空気にしゃべることにならないようにご協力お願いいたします。
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DATE: 2014/10/04(土)   CATEGORY: 未分類
出雲・雲南チベット・フェスティバル2014
 出雲の峯寺で、12月7日、第二回となるチベット・フェスティバルが行われます。
私も講師として参加予定であり、今回のガワン先生の生まれ変わりを訪問した際に見聞した不思議なお話しを中心に、チベットのお話をさせて戴きます。いっぱい写真とってきましたのでご覧ください。

 奇しくも、明日は出雲大社の権宮司の千家国麿さんと高円宮典子様の婚儀が出雲大社で執り行われる。出雲大社の宮司の家系は天皇家と同じくらい古く、この二家が結びつくことはなんだかとっても歴史家魂がざわざわする。
 今年はこの婚儀と遷宮効果により、出雲への観光客は例年になく多いとのこと。
 みなさんも、聖地出雲の観光もかねて、出雲チベット・フェスティバル14年にお越しくださいませ。
 
チベットのみならず世界中の山々を制覇してきた、出雲出身の登山家、渡部秀樹さんのお話しはおもしろいですよ~。私はアフガニスタンのゲリラとの遭遇の話とか印象に残っています。
 では、出雲でお会いしましょう。

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 日時: 平成26年12月7日
場所::出雲大峯 峯寺(島根県雲南市三刀屋町給下1381)
TEL0854‐45‐2245
FAX0854-45-5105
E-mail k.matsuura@mineji.jp
参加費: 前売り1,500円 、 当日2,000円
お申込み:このイベント欄にお申込みください。或いはTEL・FAX・E-mailで峯寺、または実行委員メンバーまでお知らせください。後日チケットの受け渡し方法などを連絡させていただきます。

日程
10:00~11:00 護摩供養(諸願成就の祈願会)
11:00~ お斎(おとき)のお接待 テントゥクもあります。
13:00~13:30 ドキュメンタリー映画「ジグデル~恐怖を乗り越えて」上映
13:30~14:00 スライド・トーク「山から見てきたチベット」 講師 渡部秀樹氏
休憩(10分)
14:10~15:40 講演会
演題「チベットの僧院にトゥルク(高僧の生まれ変わり)を訪ねて」
講師 石濱裕美子先生

※午前中、峯寺で毎月第1日曜日に行われる護摩供養の行事があります。良い機会ですのでこちらにも是非ご参加下さい。なお、護摩供養は紅白の金封に「御供」とし、祈願料(1000~2000円程度)を納められるのが通例のようです。護摩供養参加者には峯寺より昼食としてお斎(簡単な食事)や、今回は特別にチベット軽食・テントゥク(チベット式すいとん)も用意していただく予定です。

◎映画「ジグデルー恐怖を乗り越えて」
2008年トンドゥプ・ワンチェンがチベット本土で極秘に取材したドキュメンタリー。100人以上がチベットの状況についてどのように考えているのか顔を隠さずインタビューに応えています。

◎渡部秀樹氏
チベット世界を歩いて30年以上の登山・探検家

◎石濱裕美子氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 文学博士。早稲田大学大学院博士課程修了。同大学教育学部専任講師、准教授を経て現職。専門はチベット仏教世界(チベット・モンゴル・満州)の歴史と文化。
編著書に『世界を魅了するチベット「少年キムからリチャード・ギアまで」』(三和書籍)、『チベット仏教世界の歴史的研究』(東方書店、2001)、『チベットを知るための50章』(明石書店、2004)、訳書に『聖ツォンカパ伝』(大東出版社、2008)、『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社)、『ダライ・ラマの密教入門』(光文社、2001)などの他、最近では早稲田大学学術叢書「清朝とチベット仏教」を刊行。
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DATE: 2014/09/29(月)   CATEGORY: 未分類
研究者の非リアな夏
 本当はギュメの最終回をアップする順番であるが、明日で九月も終わるため、この夏をまるまるつぶして行ったチベット医学の薬材研究についてのグチあらましを先にアップする。

 チベット医学はインドのアーユルヴェーダ医学に仏教をブレンドした理論をもち、臨床で用いられる薬は、熱帯から寒帯まで存在するチベット高原の豊かな動植物・鉱物を背景に、他に例を見ない豊かな種類と効能を誇っている。

 チベット医は山野を跋渉して薬草の採取を行い、それを乾燥させたり抽出したりして丸薬を作り、地域の人を治療する。この夏、たまたまダンナがアムドの大学に集中講義にいったところ、学生のオジサンがチベット医だったので、ケータイでお話させて戴いた。彼は牧民地域で小さな診療所を開業しており、中国から輸入した西洋薬や漢方を販売する傍ら、ちゃんと山にはいって薬草を採取し伝統的な治療も行っているという。

 「インド医学も中国医学もチベット医学を自らの一部と考えるきらいがありますが、それについてどう思いますか」

 チベット医それぞれの医学にはそれぞれの体系をもつのだから、それぞれでがんばればいい」。
 
 チベットの医学はもちろんインドとも中国とも独立した医学ジャンルであるというわけね。

 「チベット医学のここは素晴らしいというところは」
 チベット医西洋の薬は毎年新しい薬がでてくるが、チベットの薬は千年かわらぬ処方である。

 効くから伝統の処方が継続してきたという誇りを述べられた。

 で、この夏は来年二月にでるチベット医学の専門書の準備にあけくれた。

 この本は第一章で先行研究を扱い、第二章でチベット医学のバイブル『四部医典』の中の、薬材とその効能について述べる箇所の訳註を行い、第三章でチベット語で「トゥンペ」('khrungs dpe)と呼ばれる本草書(薬材事典)の翻訳を行い、第四章で薬材の臨床での実物用例を一覧表にする。

 本書発行の大きな目的は、チベット薬に興味をもち植物学や薬学の知識をもっているけど、チベット語が読めない方に、裨益すること。具体的には『四部医典』を訳註する場合には、チベット人が『四部医典』を読む際に用いる伝統的な二大注釈書『祖先の教え』、『青瑠璃』を用いて解釈する。

 『四部医典』のテクストはいくつもの版があるものの、その内容はほとんど同じで、相違点は字句の綴りくらいのささいなものである。開版された場所が、ブータン、北京、ラサ、デルゲなど距離的にも遠く、また、時間的にも様々な場所で彫られているにもかかわらず、テクストがほとんど同文ということは、チベット人がいかに、聖典の字句をゆるがせにせず受け継いできたかを示している。

 なので、まずはチベット人の理解にもとづく、薬材とその効能の理解を示すことには意味があろう。

 『四部医典』の当該箇所の翻訳はすでに雑誌で発表済みであったとはいえ、十年かけてちんたらやっていたので、訳語の統一とか、文献参照を行っている場所があったりなかったりと一貫性がなく、とてもそのまま使えるようなしろものではなかった。ここでメンバーの一人西脇さんが苦労して注釈をつけなおしてくれ、私がそれを泣く泣く編集した。

 次に、ある薬材の名の下に臨床でどのような学名の動植物・鉱物が実際に用いられているかを扱う第四章の作業は殺人的であった。我々が収集しえた限りの学名の記載のあるチベット薬材の研究書は14冊。初めはこの14冊にみえる学名をまずデータベースに入力し、その情報を総合した結果を出版しようと思っていたのだが、そううまくはいかなかった。

 まず、入力過程で、先行研究に記される学名のラテン語のミススペルがえらい多いこと、また英語の綴りをラテン語風の語尾にした、さまざまなバリエーションの謎の英語名が多いことに気づいた。また中国の植物分類は何か微妙によそと違う。

 ラテン語のミススペルはさすがに訂正するとしても、なんちゃって英語ラテンのバリエーションを統合するかしないかでメンバーはもめた。結局、もう語尾違うならそのまま別項目ってことでのせちゃえ。文献同士の参照関係もわかるから、ということになった。

 そして、運命の9月14日である。ダンナがアムドの某ホテルでデータベースの更新中に、うっかりそれまでの入力情報を消してしまい、バックアップをとっていた8/23日の情報にデータベースは戻ってしまった。

 もうデータベースをとおして情報を訂正したり、たしたりして、それを処理した結果を発表するなどという手順はふんでいる暇はない。そこで、とりあえず、手元にある9/13日時点の処理結果に手作業で必要最低元の情報をたしていくことにした。ローテク・・・。

 何度もいうが入力元の先行研究は14冊。

 メンバーの一人は昼の仕事以外にも老人介護をしており、もう一人は自営業で土日も仕事で夜しか時間はとれず、ダンナはアムドで手元に史料がないため、動けるのは私だけ。決して勤勉ではないこの私だけ。、しかもその14冊の大半は何となく私の研究室に集まってきている。

 関係ないけど、この時、20代の頃、仏教語彙集Mahavyutpattiを作った時を思い出した。あの時も、9565項目を北京版、デルゲ版、チョネ版、ナルタン版、モンゴル大蔵経二版の計6版で校訂する作業を来る日も来る日も続け、廃人になりそうだった。しかも私はもう二十代でない。

こうして昨日、苦労の結果の薬材・属名比定表がとりあえず完成。チラ見せするとこんな感じ。

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本当はいろいろ注記をつけた方が丁寧なのだが、紙幅の関係もあり、やりだしたらキリがないので、これはデータベースにいずれ入力することとして、以下のような見ようによっちゃかなり言い訳っぽい凡例によって、全力で逃げた(笑)。

(1) 学名は属名のみ挙げた(語頭を大文字表記)。ただし、鉱物類や他に学名がない場合は英語名を採録した(語頭を小文字表記)。
(2) 文献番号は第4章第1節にあげた文献リストの番号に対応する。
(3) 植物の分泌物、動物の体の一部、化石などが薬材として用いられることにより、基原生物の名称とその分泌物や一部分の名前が併存する場合もある。
(4) 代用品の存在などにより、一つの薬材名の名の下に有機物と無機物が混在している場合もある。
(5) ある薬材名称に、花の色、産出地域名称などの修飾語が附された下位名称が存在する場合、下位名称に対応する属名も採択した。ただし、ティクタなど数多くの下位名称をもつ薬材の場合、網羅的な属名の採択は行っていない。

 ちなみに、まだ三章の本草書の訳註は入稿していない。授業は始まるし、論文の締め切りはあるし、別件での訳註の締め切りはあるし、こんな状況なのである。

 すべてを放擲して温泉に行ってしまいたい。
 
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DATE: 2014/09/10(水)   CATEGORY: 未分類
ギュメ滞在記 (4) インタビュー点描
滞在記も四回目となりました。最後は灌頂編で終わる予定なので、今回は僧院内で行ったインタビューについて語りたいと思います。歴史学者なので例によって時系列順です。

 僧院学校を訪問

 ギュメの正門でて右手には、Gyumed Monastic School For Higher Studies and Practice in Sutra and Tantraという看板を掲げた近代的な建築物がある。直訳すれば「顕教・密教のより高度な哲学と修行のためのギュメ僧院学校」である。
 案内人のIさんが「ここは小僧さんの学校だ」とおっしゃるので、秘書官のニマさんにこの学校を取材させてくれないか御願いしてみた。
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 周知の事実であるが、中国政府は僧侶が尊敬を集めていた旧チベット社会を破壊して今のチベットを作った。従って、僧院や僧侶に対する警戒心は非常に強く、出家を妨害し、俗人の参加する法要も制限し、インドから名のあるリンポチェがチベット本土に入国することも阻止して、一言でいえば本土の僧院では正常な修行や研究ができない状況となっている。

 中でも、伝統的に行われていた幼年期の出家は気合いを入れて妨害しており「子供の人権を奪うものだ」というプロパガンダを流布している。チベット仏教は高度に論理的であるため、勉強は幼いうちにはじめるにこしたことはない。もちろん、一族の希望を担っての晴れがましい出家ばかりではなく、中には貧しい家の口減らしの場合もあろう。しかし、いったん僧院に入れば三度の食事も食べられ教育も受けられ、かつ還俗の自由もあるため、人権蹂躙の批判はあたらない。
  私が中国政府の批判をこのように話すと

 アリヤさん「チベット人にとって僧侶はあこがれの職業です。親から言い出すのではなく子供からなりたがるのです。私は男ばかりの三人兄弟で、お兄さんが僧侶になるといってなって、次のお兄さんも僧侶になるといってなって、私が僧侶になりたいといったら、両親が許してくれませんでした。本当は僧侶になりたかったんです」

 平岡校長「還俗の自由がありますから、人権蹂躙にはなりません。大体チベット本土では共産主義教育以外は受けられないんでしょう? そっちの方がよほど人権蹂躙でしょうが」

 「私に怒らないでくださいよ。言ってるのは×国政府です。」

 というわけで、8月14日学校を訪問することになった。
 学校の入り口でユンテンという名の僧侶の先生とばったり会う。このユンテンさん平岡先生が二十代の時ギュメに留学していた折、最初にチベット語を教わった方であり、今はこの学校で教師をしているという。毎年ギュメを訪問している平岡先生もずっと会っていなかったらしく楽しそうに旧交を温めていた。
 
 しかし、学校は何か閑散としている。聞けばその日はヤマンタカの法要の最中なので休校であった。しかし、学校の事務室に招き入れてくださり、時間表、教科書などを拝見させて戴く。小僧さんは15才にならないとギュメの本堂に入る資格がないので、それまではここで仏教や一般教養を学ぶ。事務室にはもちろん仏壇があり法王の写真もかかげられている。

 生徒のクラス分けは僧院内での仏教の勉強の習熟度で分かれており、時間割表には「般若 英語」とかあるのは、般若思想を学んでいるクラスの英語の時間という意味(笑)。
 そしてなんと、中国語のクラスまであった。英語の教科書はインドの英語教育で用いられているもので、中国語については、中国人がチベット人に漢語を教える教科書でイラストに中国の国旗とか入ってて吹いた。チベットの歴史・仏教の教科書(邦題『チベットの歴史と宗教』明石書店)も当然使われていた。先生は英語以外はお坊さんが担当しているそうな。生徒はもちろんギュメの若いお坊さんたち。
たくせる

 学校の校庭は、平日の夕方はディベート会場となる。博士を得る前の僧侶が集まって、二人一組でチベット仏教名物ディベートを行うのである。緑の芝にサフラン色の僧衣がはえて美しい。秘書官のニマさんは私たちをひっぱっていって、三歳くらいの子供が二人でディベートをしているところに連れて行ってくれた。かあいい。高僧になって寺を支えてくれよと祈る。

 雨の日はディベートができなくなるため、現在本堂の右手に屋根付きのディベート会場を建設中であるが、インド人作業員は三人くらしかいなくて、私の滞在中工事はまったく進んでいなかった。

 この学校の隣にある近代的な建造物は外国人向けに英語で密教を教える「密教学校」らしい。ダラムサラの図書館で行われている講座の密教版である。在籍しているのは台湾人三人のみで、彼らは瞑想ばかりしているという。みなさーんギュメに留学しませんかあ?

リンポチェ・インタビュー

 8月15日 秘書官のニマさんとアリヤさんとともに、クンデリン・リンポチェのお部屋を訪ねる (男性同伴者がいれば女が僧坊訪れても戒律違反にはなりません)。滞在記の1でも述べたように彼はダライラマにつぐ摂政位格式の転生僧である。しかし、そのような彼でも厳しいギュメでは特別扱いされず、午前二時からの法要でも問答無用で参加である(ただし部屋だけは一般の僧侶より少しいい)。

 「リンポチェの初代はパンチェンラマ一世ゲレクペルサンの弟で、第六代ガンデン座主のバソ・チューキゲルツェン(1402-73) ですよね。ダライラマ法王は苦労されたお若い頃は自分が観音の化身だと言われてもぴんと来ないと書いていらっしゃったけど、1989年頃になると「自分は祝福されたものの系譜につらなる」とはっきりおっしゃるようになりました。リンポチェも自分は生まれ変わり(トゥルク)だ、とか前世を感じることがありますか」

リンポチェ「小さい頃はよく分からなかったけど、法王が認定してくださっていますし、今から考えると、特別なのだと思えるので、責任を感じて今までがんばってきました。先代のやったことを続けてやっていきたいと思います。」

「ゲシェ(博士号)をとられたのはいつですか。僧侶は博士号をとると教育や布教にあたることが奨励されていますが、リンポチェはどこかに教えにでられる予定はありますか」

 リンポチェ「ゲシェになったのは2013年です。ダライラマ法王のご指示によって動くことが重要です。法王がセラ大僧院で『ラムリム』の教えを説かれた時、英語の勉強をしなさいと勧められました。また、時間のある時は中国語も勉強しています。昔仏教国であったところには行ってみたいと思います。」

 「日本仏教は廃仏毀釈以来衰退の一途をたどっています。正式な僧伽は、250戒(独身戒を含む)を守った僧が五人いてはじめて発足しますが、今の日本にはこの僧伽がありません。仏法僧の僧がいない状態なのです。可能であれば日本にお出ましください。先頃遷化したジェブツンダンパ9世 (1932-2012) についてお伺いしてもよろしいでょうか。」

 ※説明しよう。この前なくなった9世の先代ジェブツンダンパ8世は1911年にモンゴルが独立した時、モンゴル政教のトップの座に就任した。ようはジェブツンダンパはモンゴルもっとも権威ある転生の系譜である。初代と二代目はいずれもチンギス・ハンの子孫からでたが、権力の集中を恐れた清朝が、3世以後をチベットから選ばせていた。だから独立時の王様であるジェブツンダンパ8世もチベット人である。

 「ジェブツンダンパ8世がなくなる時、リンポチェがお側にいて『後を頼む』と言われたという話をもれ聞いているのですが、次代のジェブツンダンパはずばり聞きますがモンゴル人ですか?」

 リンポチェ「頼むといってもモンゴルやチベットの仏教を頼むという全般的な意味でです。法王は『ジェブツンダンパは今度はモンゴル人になる。でも〔生まれ変わりの〕探索にでるのは早い』とおっしゃっています。転生者の探索はガンデン大僧院が担当します。
 ジェブツンダンパ9世は1959年にダライラマ法王とともにラサからインドに亡命して、モンゴル民主化の直後の1991年に法王が話をつけてモンゴルに戻ることができました。2011年にはモンゴル国籍をとってモンゴル人になりました。」

 ということは、デプン大僧院ゴマン学堂のリンポチェが探索に加わることはないのか。でも先代は摂政レティンが認定したとおっしゃっていたし、それはやはり摂政位につく格式の僧が認定することもあるということだよね。
 
「去年モンゴルの首都ウランバートルのガンデンを訪れたところ、境内に集会殿が建設中でした。案内してくださった方によると、ダライラマ14世の寄付によるものだというのですが、モンゴル布教についてお聞かせください」

リンポチェ「ダライラマ法王は『モンゴルには戒律を護る僧がいないので、戒律を守る僧が集団生活する場が必要だ』ということで、集会殿を建てています。歴代ゴマンの管長の中にはモンゴル/ブリヤト人が8人います。モンゴルが社会主義だった頃はチベットとモンゴルの関係は途絶えていましたが、モンゴルが民主化した20年前からゴマン学堂への留学生の受け入れを再開しました。2013年までにモンゴル、カルムキア、内モンゴル、トゥバから300人は受け入れています。現管長も最近モンゴルに行きました。」
 
※ 取材メモに基づいて文を起こしていて録音にまでもどっていないので年号とか確認した方がいいかも。

ウムゼの亡命体験

 ウムゼは僧院の中で副管長につぐ重職である。現在33才のウムゼのAさんは11才で本土からインドに亡命した体験をもつというので、8月16日に彼にお話を伺った。
 Aさんは東チベットの某地区出身である。なぜ伏せ字にするかというと言えば、もちろん本土の家族が迫害されないようにである。
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ウムゼ「私の家は三人兄弟でした。上の二人は中国の上級学校に入ったのですが、祖母は末の子供である私を僧侶にしたいと思っていました。私はおばあちゃん子だったので、私も僧侶になりたいと思っていました。

「11才というのはとても幼いですが、その年齢で両親と別れてインドにくるのは大変な決断だったでしょうね」

ウムゼ「両親は私の出家に乗り気ではありませんでした。しかし、我が家でおばあちゃんの言葉は絶対でした。そこで両親は『どうしても僧侶になりたいのなら、17か18才になってからにしなさい。もし今したいのなら地元の僧院で出家をすればいい』といいました。しかし、地元の僧院は活気がなく、ここに入っても仕方ないとおもいました。両親は最後は私の意志にまかせるといったので、私は『ダライラマ法王も尊敬する先生もみなインドにいる、だからインドに行きたい』といいました。チベット人は六歳くらいになるとダライラマに憧れるんです。両親は『インドは遠いし道は悪いし、病気になっても病院もないよ」と現実的な話をしましたが、自分は『インドは素晴らしいところだ』と思っていたので聞きませんでした。こうして亡命がきまりました。」

「わかるわあ。私もインドには素晴らしい僧侶がたくさんいると思ってやってきたけど、正直ここにつくまで大変だった」

平岡校長「何しみじみいっているんですか。苦しい思いをして到達するほど功徳があるんです」

「東チベットから南インドまで11才の子供が一人で踏破するのは不可能ですよね。「ヒマラヤを越える子供たち」で有名になった子供ばかりの一行をインド側のチベット人が手引きするというあのスタイルで亡命したのですか」

ウムゼ「私が加わった一行は全部で25人でした。子供が5-6人、18才と19才が二人。あとは法王様にあいにインドに巡礼にいく人とかで構成されていました。車でラサまで行って、ネパールの国境からはみなでお金を払ってやとったガイドのあとをついて一ヶ月半かけて歩きました。

 一行の中に地元からでたギュメ寺の僧侶が一人いました。この方は結核だったので途中で亡くなってしまいました。なくなったお坊さんは一人っ子でお坊さんの両親がとても悲しむと思ったので、私たちは死者の名前を口にしませんでした。その結果、『一行の中で死人が一人でた』ということだけが故郷に伝わりました。両親は誰が死んだのかわからないから私が死んだのではないかと心配しました。電話は中国政府が盗聴しているのでかけることはできません。そこで、インドのセラだったかデプンだったか思い出せないのですがそのどちらかで法王がナーガルジュナについて講義をなさる時、たくさんの人が集まるので、私を探すチャンスだと思い、両親は使いの者に私の写真を持たせて説法会にこさせたのです。両親は『私を見つけたら膝の上にのせて写真をとれ、そうしたら生きていることを信じることができる』とその人に言ったそうです。
 私の父は●×職についていましたが、私がインドに行ったことで、給料を下げられ、自己批判文をたくさん書かされました。もっと上までいける人でしたが、出世もしませんでした。私がインドに行ったからです。しかし、両親は私が一人前になるまでそのことについて一言も言いませんでした。」

アリヤさん「子供をインドから呼び戻さないと、給料をさげる、出世できないぞ、とかいろいろ圧力をかけるんですよ」

「数ある僧院からなぜギュメを選ばれたのですか。」

ウムゼ「我が家がB僧院の密教学堂の施主だったこと(ギュメは密教の総本山)、故郷からでてギュメで名を挙げていたC阿闍梨という方に憧れていたので、その方につくためにギュメに入門しました。ギュメには四つの地域寮があり、そのうちの一つテウ地域寮にはいりました。この四地域寮は今は形骸化していて年に一度の法要の時だけ復活します。C阿闍梨が素晴らしかったので、私の学業は順調で2006年には密教博士になり、今はウムゼです。」

「ウムゼはギュメに来た時、前にここにいたことがあると感じたといいますが、その時の体験を話してください」

ウムゼ「あの時私は12才の小坊主で、食事係になって食堂でごはんの準備をしていました。食堂の上には事務所があります。事務所は僧院の経理をあずかるチャンゾー(管財僧)などの役付きの僧が集う場所です。小僧が訪れる機会もありませんでしたが、食事係になってたまたま階段をあがって事務所を訪れ、ドアノブに手をかけた瞬間、『絶対ここに入ったことがある』と確信しました。その話をギュメの高僧のチメ・ドルジェに話したところ「12才で頭もはっきりしているので前世からの習気(じっけ)が現れたのだろう。」と言われました。

「今は何を目的に修行されていますか」

ウムゼ「もちろん一切智者(仏)になることです。」
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DATE: 2014/08/28(木)   CATEGORY: 未分類
ギュメ滞在記 (3) 自由時間
 滞在記のパート3はぐっと身近な、素の時間の我々についてお伝えしたいと思います。

 その一 コブラ

インドにたつ二日前、私はインドのネット事情を聞くために平岡校長に電話をした。すると

 平岡校長「あー、電話は通じますよ。事務局にはパソコンもありますしね。ネットもつながるんじゃないですか」

 「何か準備しておいた方がいいものありますか?」

 平岡校長
「特にないですねえ。あ、ただ、未明に法要に参加するために暗い場所を歩くことがあるので、懐中電灯をもってきてください。あと、コブラがでるので、サンダルではなく靴を履いてきてください。コブラは積極的に先生を襲ったりはしませんが、踏まれるとかみます。この居留地を開くとき、多くのチベット人がコブラの犠牲になりました。でも大丈夫。二時間以内に血清をうてば助かります。」

 これを聞いた私は、懐中電灯はiPhoneでいいな、コブラはどうせびびらせるためのネタだろうとおもい、でも靴は一応履いていくことにした。

 ギュメについてみると、ゲストハウスは意外に清潔で設備はよかったが、昼間は電気が落ちるので、iPhoneとかパソコンの充電がじつに心許なかった。とても「準備は特に必要ない」とは言えない状況。

 しかし彼はコブラについてはウソをついていなかった。

 ギュメについて何日目かに法話が終わり、本堂の裏手を歩いていると、本堂を逆コルラしながら高速で蛇がはっていくのを発見↓。喜んで写真にとって、平岡校長にみせると
cobra.jpg

 平岡校長「しばらくでていなかったのに、気色悪い。お坊さんたちに気をつけるように言ってきますわ。」と出て行った。で、しばらくして戻ってきて
 平岡校長「お坊さんたちはそこいら中にいっぱいいるから心配するなっていうんだけど、それめちゃめちゃ心配じゃないですか」

 聞けば、コブラがはいってこないように、ゲストハウスも本堂も入り口をかさ上げしているという。その点平屋の僧坊はコブラにとって敷居が低いので、よく被害がでるという。
 私は、靴をぬぐ機会があまりにも多いので、途中から靴を履くのが面倒臭くなって、結局ゲストハウスのビーサンで過ごした。

 その二 ミツバチ

 ギュメについたその日、本堂最上階にあるダライラマ法王の居室をみあげると窓とバルコニー全体が巨大な蚊帳に包まれていた。なぜかというと、法王室のバルコニーの下には巨大なミツバチ(スズメバチと聞いたのですがミツバチと訂正が入りました)の巣が最低6つはできているからである↓。
スズメバチ
 案内人のIさん「ダライラマ法王は『この蜂はチベットでなくなった人々が、お経を聞きにやってきているものだから、とってはならん』とおっしゃるので、そのままにしているそうです」

 泣ける話しや。〔刺されなければ〕

 ミツバチもコブラ同様、自分から人を襲うことはないが、うっかり踏んだり手を置いたりしたら刺す。巣はまだまだ増えていきそうな勢いである。
 本堂で法話を聞いていると、ときたま迷い込んできたミツバチが本堂内をとびまわり、蚊も常時入ってくる。ちなみに、南インドは今日本でも問題になっているデング熱の故郷である。しかし、コブラもミツチも蚊ももちろんみな「命あるもの」なので、「駆除」などという概念は我々にもチベット人にもない。
 
 最初は虫除けスプレーとかしていたが、コブラガーとかいってるうちに、蚊や蜂なんてどうでもよくなってきて、結局初日しか使わなかった。

その三、コンビニ

 大僧院の僧院長や学堂長のポストには、それにつくための伝統的な条件があるため、自ずと候補者は絞られる。そうやって作られた候補者のリストから、ダライラマ14世が次期座主などを任命する。しかし、管財僧などの事務方は僧院内の選挙で決まる。
僧侶は一般的にこのようなお偉いさんの人事について話すことが好きである。平岡校長は思考が日本よりもチベットよりなので、

 平岡校長「次期ギュメの僧院長の候補者にはゲン・ロサン先生も名前が挙がっているそうですよ。クンデリン・リンポチェ(ゲン・ロサン先生が家庭教師をつとめている)が法王様の命令で年限より早めにギュメに来られたのは、何か理由があるのかもしれません。私はゲン・ロサン先生がギュメの座主になるのは五割の確率じゃないかと思っています。」

 とかいう話をふってくる。なので

 「平岡先生は大僧院の人事について、凡人がAKB総選挙について語るようにアツイすねえ。」 と応える。

  こんなこともあった。

 「昨晩、胃が痛くて眠れなかったので外に出てみたら、本堂の前で五体投地をしている人がいましたよ。マントラを唱えている声も聞こえてくるし。夜に行をしている人がいるんですねえ」

平岡校長「ええとこに気づきましたな。ギュメは24時間営業のコンビニなんですよ。24時間誰かが必ず修行をしているんです。」

 これ普通ならまず、「お体の具合が悪くて大変でしたね」とかいう社交辞令から入るところだろう。
 はははは。
 
その四、おそろい

 ギュメ滞在二日目、平岡校長の弟君が日本で誂えたというギュメ・カレッジTシャツ(大学グッズのパロディだな)をプレゼントしてくださった。僧侶色のえび茶色で、なかなかステキなデザインである。私がそれを着て降りていくと、

 Aさん「先生のだけ、みんなとデザインが違いますね。あ、それ前後逆に着てませんか?」

 その通りでした。

 そして次の日。ゲストハウスの戸を叩く音がするので、出て行くと、教育者ブラザーズが四人でおそろいのI LOVE TIBETTシャツを着ていた。

 Bさん「先生、これそこのJ Villageで売っているお土産物なんですが、この赤いI LOVE TIBETTシャツをプレゼントしますので着て戴けませんか」

 「どっちかっつーと、私ブルーがいいんだけど」

 Cさん「汗のしみこんだこれでよければ」

 「赤で結構です」

 このI LOVE TIBETティーシャツを揃いで着ていると、秘書官のニマさんに受けていた。僧侶に受けていたかどうかは分からない。
 ちなみに、管長のお湯のみはFree Tibet 柄であり、副館長はエミレーツ航空のロゴの入った湯飲みを使っていた。館長はオーストラリア国籍で、副館長はイタリア国籍なので、僧侶たちからはハイカラとか思われているかもしれない。

 ちなみに、ギュメは窃盗を防ぐために高いカベに囲まれ、かつ境内に牛が入ってこないように、門扉は閉めてわきに人入り口がついているのに、↓誰かが門扉を閉め忘れると、こんな感じで牛がもーもー入ってきます。
境内の牛

後日談

 一行は帰国後体調を崩してみな寝込んだそうだが、それはバンガロールの空港にいく直前、超高級ホテルオベロイでとった夕食のデザートのスイカが原因ではないかとウワサされている。しかし、同じものを食べた私は何ともなかったので、本当にそれが理由かどうかは分からない。
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