猊下は日本で仏法を説きたい
文化の日の深夜いきなり電話がなった。
でると平岡さん。
その日の午前中、愛媛でダライ・ラマ法王と謁見された時の話を一気に話し始めた。
要約すると「ダライ・ラマ法王は日本で空(くう)についての話をしたがっている。」ということ。
謁見の冒頭、平岡先生はガワン先生に教わっていた『秘密集会タントラ』の注釈書を日本語に翻訳している旨を話した。すると、ダライ・ラマ法王は「〔秘密集会タントラに説かれる〕幻身もいいけど、これは遠い未来に心のレベルが上がっていく話であり、限られた人しか救えない。幻身は体内をめぐるエネルギーの流れ(風)を質料因とし、光明を協働する縁として、生まれるが、この光明とは空(くう)を理解する智慧だ。これは欲望や怒りに苦しむ意識に即効性がある。苦しんでいる人の心に即効性があるのは空(くう)の正しい理解なのだ」
とおっしゃった。さらに
「日本人は般若心経を読んで喜ぶような環境にある。しかし残念ながら今はもう輪廻を信じている人は少なく、般若心経の内容をきちんと理解している人も少ない。読経という行為も形骸化しているようだが、形が残っていればそこに心を戻すことは難しいことではない。
仏教を真剣に考えている人を非公開の場に200名くらい集めて、三日間空についての講義をしたい。大学者が凡愚な人に教えるようなそのような場ではなく、みなが空について考えるきっかけとなるような場にしたい。」と熱く語られたという。
そして三十分くらいの謁見が終わり、平岡一家が猊下の部屋を退出しようとすると、猊下は再び平岡さんを呼び止めて、〔ダライ・ラマの属する宗派ゲルク派が大切にする聖典〕『現観荘厳論』には仏には四つの体があると説く。その四つとは自性法身(空)、智法身(空を理解する智慧)、受用身、変化身である。『現観荘厳論』は仏の四つの体を説いても、それがどのように得られるかは書いていない。しかし『秘密集会タントラ』はその四つの体を得るための方法が説得力ある形で説かれている。だから、『秘密集会タントラ』は確かに重要だ。
しかし、われわれが粗大な意識(日常的な意識)を修業によって変化させ、微細な意識(根源的な意識)にしていくのは遠い未来のこととして、それを目指していくことは重要なことであるが、 いますぐ、多くのものが怒りや執着から救われるには、空を理解する智慧が大切である。そして幻身を獲得する前提も空の理解だ。
ここ数年何度も日本にきていて感じることは、以前日本人は私にスピリチュアルなものを求めていたが、ここのところは私に仏教を求めてきているような気がする。」
とおっしゃったという。
居合わせた平岡さんの奥さんや弟さんも、「法王は政治よりも何よりも仏教について語りたがっている」と同じ感想をもったそうだ。
以上が平岡さんと猊下との謁見記録。わたしも10月31日の国技館での猊下の法話を伺っていて、日本人ならだいたいは聞いたことがある般若心経とからめたら、空(くう)の哲学が日本でも理解しやすい形で普及するのではないか、と強く感じた。もし猊下が望むような場が実現するようであったなら、ぜひその200名に潜り込んで(しかしこの200名には自ずと日本における仏教哲学の興隆に粉骨砕身するという義務がセットでつく)、猊下の法話を拝聴したいと思った次第。
縁起を整えるため、お釈迦様が覚りを開いた時に体得した四つの聖なる真実(四聖諦)のクンサンコルロー(ティクセ寺)の読み方を以下に特別解説。チベット語が単語だけでも分かるという方は写真をクリックして拡大して詠んでみて。

縁取りの黄色で線を引いた部分
1, 2, 3, 4 と 1, 8, 15, 22
この世の存在は全て苦しみであるという真実(苦諦)
7, 6, 5, 4, と7, 14, 21, 28
苦しみの原因は我執であるという真実(集諦)
43, 36, 29, 22 と43, 44, 45, 46
我執をなくせば苦しみがなくなるという真実(滅諦)
49, 48, 47, 46 と49, 42, 35, 28,
苦しみをなくすための修業の道という真実(道諦)
渦巻き状のピンク色の部分
1→2,8→3,9,15→4,10,16,22 (苦諦)
7→6,14→5,13,21→4,12,20,28 (集諦)
43→36,44→29,37,45→22,30,38,46 (滅諦)
49→42,48→35,41,47→28,34, 40, 46 (道諦)
11→19→27→33→39→31→23→17 この、生存の輪(輪廻)を見よ!
18→26→32→24→25 つねに平和でありますように!
でると平岡さん。
その日の午前中、愛媛でダライ・ラマ法王と謁見された時の話を一気に話し始めた。
要約すると「ダライ・ラマ法王は日本で空(くう)についての話をしたがっている。」ということ。
謁見の冒頭、平岡先生はガワン先生に教わっていた『秘密集会タントラ』の注釈書を日本語に翻訳している旨を話した。すると、ダライ・ラマ法王は「〔秘密集会タントラに説かれる〕幻身もいいけど、これは遠い未来に心のレベルが上がっていく話であり、限られた人しか救えない。幻身は体内をめぐるエネルギーの流れ(風)を質料因とし、光明を協働する縁として、生まれるが、この光明とは空(くう)を理解する智慧だ。これは欲望や怒りに苦しむ意識に即効性がある。苦しんでいる人の心に即効性があるのは空(くう)の正しい理解なのだ」
とおっしゃった。さらに
「日本人は般若心経を読んで喜ぶような環境にある。しかし残念ながら今はもう輪廻を信じている人は少なく、般若心経の内容をきちんと理解している人も少ない。読経という行為も形骸化しているようだが、形が残っていればそこに心を戻すことは難しいことではない。
仏教を真剣に考えている人を非公開の場に200名くらい集めて、三日間空についての講義をしたい。大学者が凡愚な人に教えるようなそのような場ではなく、みなが空について考えるきっかけとなるような場にしたい。」と熱く語られたという。
そして三十分くらいの謁見が終わり、平岡一家が猊下の部屋を退出しようとすると、猊下は再び平岡さんを呼び止めて、〔ダライ・ラマの属する宗派ゲルク派が大切にする聖典〕『現観荘厳論』には仏には四つの体があると説く。その四つとは自性法身(空)、智法身(空を理解する智慧)、受用身、変化身である。『現観荘厳論』は仏の四つの体を説いても、それがどのように得られるかは書いていない。しかし『秘密集会タントラ』はその四つの体を得るための方法が説得力ある形で説かれている。だから、『秘密集会タントラ』は確かに重要だ。
しかし、われわれが粗大な意識(日常的な意識)を修業によって変化させ、微細な意識(根源的な意識)にしていくのは遠い未来のこととして、それを目指していくことは重要なことであるが、 いますぐ、多くのものが怒りや執着から救われるには、空を理解する智慧が大切である。そして幻身を獲得する前提も空の理解だ。
ここ数年何度も日本にきていて感じることは、以前日本人は私にスピリチュアルなものを求めていたが、ここのところは私に仏教を求めてきているような気がする。」
とおっしゃったという。
居合わせた平岡さんの奥さんや弟さんも、「法王は政治よりも何よりも仏教について語りたがっている」と同じ感想をもったそうだ。
以上が平岡さんと猊下との謁見記録。わたしも10月31日の国技館での猊下の法話を伺っていて、日本人ならだいたいは聞いたことがある般若心経とからめたら、空(くう)の哲学が日本でも理解しやすい形で普及するのではないか、と強く感じた。もし猊下が望むような場が実現するようであったなら、ぜひその200名に潜り込んで(しかしこの200名には自ずと日本における仏教哲学の興隆に粉骨砕身するという義務がセットでつく)、猊下の法話を拝聴したいと思った次第。
縁起を整えるため、お釈迦様が覚りを開いた時に体得した四つの聖なる真実(四聖諦)のクンサンコルロー(ティクセ寺)の読み方を以下に特別解説。チベット語が単語だけでも分かるという方は写真をクリックして拡大して詠んでみて。

縁取りの黄色で線を引いた部分
1, 2, 3, 4 と 1, 8, 15, 22
この世の存在は全て苦しみであるという真実(苦諦)
7, 6, 5, 4, と7, 14, 21, 28
苦しみの原因は我執であるという真実(集諦)
43, 36, 29, 22 と43, 44, 45, 46
我執をなくせば苦しみがなくなるという真実(滅諦)
49, 48, 47, 46 と49, 42, 35, 28,
苦しみをなくすための修業の道という真実(道諦)
渦巻き状のピンク色の部分
1→2,8→3,9,15→4,10,16,22 (苦諦)
7→6,14→5,13,21→4,12,20,28 (集諦)
43→36,44→29,37,45→22,30,38,46 (滅諦)
49→42,48→35,41,47→28,34, 40, 46 (道諦)
11→19→27→33→39→31→23→17 この、生存の輪(輪廻)を見よ!
18→26→32→24→25 つねに平和でありますように!
猊下の法話「覚りに至る道」
例によってぎりぎりに国技館につく。法王事務所から送られてきた切符をはじめてまじまじとみるが、A列32、Aということは最前列か。たしか去年は正面席ではあったが、二列目であった。みな着席している前を中腰で移動すると在日チベット人の方達が多い。で、いきすぎたらしく、もう一度もどって自分の席を発見してびっくり。
左手は通路だが右手は●野聖修先生。うわ。●野先生の右隣は龍村監督。こゆい。
猊下がどこにおかけになるのかは舞台の花でよく見えない。猊下が入場して着席されると、猊下わたしのほぼ目の前の壇上。中央は通路なので、その通路の猊下からみて左側の最前列に自分がいるわけ。
し・か・も、猊下はお話になる際に若干左側に顔をむけて話されたため(たぶん通訳の方の方に無意識に向かわれるため)、ほぼ常に自分の方をむいて法話をしてくださっているように見える。
ちなみに自分は妄想癖があるわけでもなく、単純に客観的な事実を語っているのである。猊下の顔はこちらに向いているが視線はもっと遠い何かを見ていらっしゃるし。
で、こんなベストポジションにいたので、内容を逐一記録してみなさんにお伝えせねばと気合いをいれてノートとりまくった。で、以下にそれを公開(ただし、手書きのノートなので、完璧ではない。もし内容が間違っていてもそれは自分の聞き間違えであり、猊下とは無関係なことをここにお断りしておきます)。
-------------------------------------------------------------------
中央にかかっているタンカ(仏画)は釈迦とむかって右に龍樹、左にアサンガ。
猊下「みなさん般若心経読んでください。」と。韓国からきたグループがチベット語で読みはじめたので、日本勢が中国語の書き下し般若心経をなんとなく気後れして読めない。
で、般若心経の最後の一文「ガテー、ガテー、パラサンガテー」は「ゆけゆけ覚りの境地へ」という意味だといい、
五道(資糧道、加行道、見道、修道、無学道=仏陀の境地)の説明をし、種を花にそだてていくように菩薩の十地、修道の智慧を育て、空を直接知覚する智慧をそだてなさいという。
覚りにいたる三つの要因 (ラムツォナムスム)とは、1.「出離の心」、2.「菩提心」、3.「空性を理解する智慧」である。
そのうち、最初の「出離の心」は煩悩障(煩悩という障害)をとってくれる。
最後の「空を直接知覚する意識」、すなわち「智慧」には、二つ目の要因である「菩提心」が大事である。
その「菩提心」、すなわち他人を救う様々な手段を基礎にして、三つ目の要因「空を直接知覚する意識」が所知障(一切知に対する障害)を滅ぼし、完全なる仏となることができる(正等覚)。
まず、一般論からはじめましょう。苦しみは私たち自身が作り出しているものです。日本は物質的には発展してるけど、苦しみに出会うと無知と煩悩(怒り・執着)にまどわされて、さらに自分を苦しめている。
英文わかる人はいるか? ああすごく少ないな。わたしもチベット語の方がらくだ。
煩悩には怒りと執着などがある。これは五大(肉体を構成する諸要素)をみだし健康を損なう。免疫能力もさがる。宗教のある人、ない人に関わらず、みな幸せを求めている。みなが心の平安を望んでいる。しかし、幸せは快楽からは得られない。アメリカやカナダで心の平和についての研究が行われ、強欲、嫉妬、怒り、不安を少なくすると心が平安になるという。なので、その平安になるための原因をふやしていけばいい。それは概念にたよってできるものではない。
心の平安は自分と他人の間に線引きをしている間は見つけることはできない。他人を遠く感じるから、嫉妬や怒りがある。他人を自分と近いものと思えば怒りも不安もない。慈悲によってなくすのだ。
自分、自分、と自分を主張して生きてきたことが、自分に苦しみをもたらしてきたのではないか。誰もがみな幸せをもとめ、不幸をのぞんでいない。みな同じなのだ。
さまざまな宗教があるがそれはみな人の心には愛や慈悲を育む可能性があることを示している。
宗教がなくても、〔親が子を愛するような〕世俗的な愛情だってそれが大切なことは広く知られている。愛情がある家庭で育つとその子は安定した情緒をもち幸せになれる。
アメリカの研究者が毎日二〜三時間の瞑想をして、注意深さや愛や慈悲について瞑想すると血圧やストレスが下がるといっている。ポールイクランという研究者だ。
●世俗的な倫理観 アメリカやカナダで科学者と対話してきたが、近代的な教育システムの中でも、幼い頃から全ての人に心の平安をえるためには他人を愛すべきことを教えた方がいい。日本の若い人も自殺が多いというではないか。知識や教養を教えるだけでは足りないんだよ。
●仏教の倫理観
(1) 私(エゴ)とは何であるか
(2) 私に始まりはあるか
(3) 私に終わりはあるか。
まず、(1)である。私とは何であろうか。心であろうか。心といっても粗いレベルと微細なレベルがある。仏教以外の宗教は「心と体の所有者」である単一かつ永遠不変なものを「私」だという。たとえばキリスト教だと魂(soul)、バラモン教だとアートマンだ。
しかし、仏教だと「私はない」(無我)。心と精神の集合体(五蘊)しかないと考える。
『般若心経』では「五蘊もみな空」(無自性=それ自体の力でなりたっていない)というだろう。「私」とはただ五蘊のあつまりに名前を付けただけのものなのだ。
(2) 私に始まりはあるか。キリスト教などの宗教では造物主たる神が人をつくったので始まりはある。(つまり始まりはあると考える)。
しかし、仏教では「私」はそうは考えない。ある意識の前にはその意識の原因となる意識があり、その意識の前にもその前の前にも意識があるわけであり、無から有が生まれるわけはないので、始まりはない。意識の流れに私という名前をつけただけのものである。
(3) 「私」に終わりはあるか
神のある宗教では魂は終わりに地獄や極楽に行くという。
仏教の説一切有部では五蘊がとぎれて涅槃にいくという(つまり私が終わるといっている)しかし、〔ダライ・ラマの則っている仏教の中観帰謬論証派の学説によると〕私には終わりはない。〔覚りを開いて〕涅槃になると、苦しみはなくなるが、私がなくなるわけではない。龍樹は『六十頌如理論』で「私には終わりはない」と説いている。(なぜなら、私はそもそも実体的に存在しているわけではないので、どこかで無くなるということもないのである。)
以上をまとめると、
(1) 私は何であるか → 体と心の集まりに私という名前をつけただけのもの。つまりない。
(2) 私に始まりはあるか → 始まりはない
(3) 私に終わりはあるか。 → 終わりもない
15:35分からやっとテクストの話になる。
はいテクストを手にして。
______________________________________
【序】
ここで著者のツォンカパが約束と決意を示している。
著者のツォンカパ・ロサンタクペーペルはカダム派からゲルク派をつくり、顕教の後、密教も学び、サキャ、カギュ、あらゆる宗派の伝統を受け継いでいる。
(1)【出離の心を起こす】
★この苦しみから離れたいと思いなさい。今生に対する執着、来世に対する執着をなくし、輪廻からでようとしなさい。
★開かれた心で対象を調べること。アーリヤデーヴァは『四百論』の中で、「自分の学派の教えだけでなく、他にも心を開け」といっている。現実に即したものの考え方をし、知性をもって偏見のない心で分析しなさい。
★釈尊は金を焼いたりこすったりしてその真贋を確かめるように、仏の教えも知性によって吟味すべしといっている。懐疑的であれ。正しい分析を行い、疑惑を晴らしていけ。
(2) 【菩提心を起こす】
★利他の心を起こすためには(1) 自他を入れ替える瞑想 (2) 因果に関する七つの口伝がある。
★出離の心→菩提心という展開は、まず最初は自分の安楽を求めて、輪廻が苦しみであることを認識し、そこから逃れたいという気持ちを起こすけれども、そうすると、他人も同じ苦しみを味わっていることを知り、他人を救うために覚りを求めるようとする心をおこすのである。
(3)【空を直接知覚する意識に対する正しい理解】
★龍樹は『中論』で「すべては仮説(仮構)」といっている。あらゆるものは依存しながら、存在しているように見えている(縁起)が故に、実体がない(空)。私を捜しても名実の名の方しかない。
★覚りをジャマするのは煩悩障と所知障の二つの障りである。われわれの意識には、主客の二元論的な姿が現れている。それが実体的に存在しているかのように把握するのが、我執、すなわち対象を実体であると捉える思い込みである。対象を実体的に存在していると把握している意識、あるいはそのように思わせているものが無明(=煩悩障)である。煩悩は出離の心によって消すことができ、そうすれば物事に実体はないと思えるようになるが、所知障(二元論的戯論)は残っているので、世界はまだ主観・客観という二つに分かれて現れている。これは世界を二元論的に見てきたこれまでの経験によって意識の中に植え付けられた「煩悩の遺したもの」(習気)があるからである。これか所知障である。つまり、仏の智慧を得ることをジャマするものである。
★その所知障は「その反対のもの」(対治)である「空を直接知覚した意識=智慧」によって消すことができる。
★「真実(=諦)」には以下の二つの側面がある(二諦)。
(1)世俗の真実(世俗諦) とは、ものごとは依存関係によって、そこに存在しているように見えている(縁起)。般若心経でいえば空即是色(実体はないけど、存在するものとして現れている)の部分。
(2) 究極の真実(勝義諦)とは、「あらゆるものには、それ自身で存在しているような実体や本質は存在しない(空)」ということ。般若心経で言えば色即是空(存在していても、本当のところは実体がない)の部分である。
このように全てのものが、現れに過ぎない、と知ることで実在論を否定し
本当の空性は何もないことではなく、縁起している存在であると知ることで虚無論を否定することができる。
つまり、虚無論・実在論という二つの極端を排するために、すべての存在は、空(くう)でありながら、同時に原因と結果に依存して存在しているものであると知れ。
以上の教えを論理的に考察し、この空の思想を吟味して、心をこの空になじむように訓練していくがいい。(2009年10月31日 両国国技館 ダライラマ法王講演)。
左手は通路だが右手は●野聖修先生。うわ。●野先生の右隣は龍村監督。こゆい。
猊下がどこにおかけになるのかは舞台の花でよく見えない。猊下が入場して着席されると、猊下わたしのほぼ目の前の壇上。中央は通路なので、その通路の猊下からみて左側の最前列に自分がいるわけ。
し・か・も、猊下はお話になる際に若干左側に顔をむけて話されたため(たぶん通訳の方の方に無意識に向かわれるため)、ほぼ常に自分の方をむいて法話をしてくださっているように見える。
ちなみに自分は妄想癖があるわけでもなく、単純に客観的な事実を語っているのである。猊下の顔はこちらに向いているが視線はもっと遠い何かを見ていらっしゃるし。
で、こんなベストポジションにいたので、内容を逐一記録してみなさんにお伝えせねばと気合いをいれてノートとりまくった。で、以下にそれを公開(ただし、手書きのノートなので、完璧ではない。もし内容が間違っていてもそれは自分の聞き間違えであり、猊下とは無関係なことをここにお断りしておきます)。
-------------------------------------------------------------------
中央にかかっているタンカ(仏画)は釈迦とむかって右に龍樹、左にアサンガ。
猊下「みなさん般若心経読んでください。」と。韓国からきたグループがチベット語で読みはじめたので、日本勢が中国語の書き下し般若心経をなんとなく気後れして読めない。
で、般若心経の最後の一文「ガテー、ガテー、パラサンガテー」は「ゆけゆけ覚りの境地へ」という意味だといい、
五道(資糧道、加行道、見道、修道、無学道=仏陀の境地)の説明をし、種を花にそだてていくように菩薩の十地、修道の智慧を育て、空を直接知覚する智慧をそだてなさいという。
覚りにいたる三つの要因 (ラムツォナムスム)とは、1.「出離の心」、2.「菩提心」、3.「空性を理解する智慧」である。
そのうち、最初の「出離の心」は煩悩障(煩悩という障害)をとってくれる。
最後の「空を直接知覚する意識」、すなわち「智慧」には、二つ目の要因である「菩提心」が大事である。
その「菩提心」、すなわち他人を救う様々な手段を基礎にして、三つ目の要因「空を直接知覚する意識」が所知障(一切知に対する障害)を滅ぼし、完全なる仏となることができる(正等覚)。
まず、一般論からはじめましょう。苦しみは私たち自身が作り出しているものです。日本は物質的には発展してるけど、苦しみに出会うと無知と煩悩(怒り・執着)にまどわされて、さらに自分を苦しめている。
英文わかる人はいるか? ああすごく少ないな。わたしもチベット語の方がらくだ。
煩悩には怒りと執着などがある。これは五大(肉体を構成する諸要素)をみだし健康を損なう。免疫能力もさがる。宗教のある人、ない人に関わらず、みな幸せを求めている。みなが心の平安を望んでいる。しかし、幸せは快楽からは得られない。アメリカやカナダで心の平和についての研究が行われ、強欲、嫉妬、怒り、不安を少なくすると心が平安になるという。なので、その平安になるための原因をふやしていけばいい。それは概念にたよってできるものではない。
心の平安は自分と他人の間に線引きをしている間は見つけることはできない。他人を遠く感じるから、嫉妬や怒りがある。他人を自分と近いものと思えば怒りも不安もない。慈悲によってなくすのだ。
自分、自分、と自分を主張して生きてきたことが、自分に苦しみをもたらしてきたのではないか。誰もがみな幸せをもとめ、不幸をのぞんでいない。みな同じなのだ。
さまざまな宗教があるがそれはみな人の心には愛や慈悲を育む可能性があることを示している。
宗教がなくても、〔親が子を愛するような〕世俗的な愛情だってそれが大切なことは広く知られている。愛情がある家庭で育つとその子は安定した情緒をもち幸せになれる。
アメリカの研究者が毎日二〜三時間の瞑想をして、注意深さや愛や慈悲について瞑想すると血圧やストレスが下がるといっている。ポールイクランという研究者だ。
●世俗的な倫理観 アメリカやカナダで科学者と対話してきたが、近代的な教育システムの中でも、幼い頃から全ての人に心の平安をえるためには他人を愛すべきことを教えた方がいい。日本の若い人も自殺が多いというではないか。知識や教養を教えるだけでは足りないんだよ。
●仏教の倫理観
(1) 私(エゴ)とは何であるか
(2) 私に始まりはあるか
(3) 私に終わりはあるか。
まず、(1)である。私とは何であろうか。心であろうか。心といっても粗いレベルと微細なレベルがある。仏教以外の宗教は「心と体の所有者」である単一かつ永遠不変なものを「私」だという。たとえばキリスト教だと魂(soul)、バラモン教だとアートマンだ。
しかし、仏教だと「私はない」(無我)。心と精神の集合体(五蘊)しかないと考える。
『般若心経』では「五蘊もみな空」(無自性=それ自体の力でなりたっていない)というだろう。「私」とはただ五蘊のあつまりに名前を付けただけのものなのだ。
(2) 私に始まりはあるか。キリスト教などの宗教では造物主たる神が人をつくったので始まりはある。(つまり始まりはあると考える)。
しかし、仏教では「私」はそうは考えない。ある意識の前にはその意識の原因となる意識があり、その意識の前にもその前の前にも意識があるわけであり、無から有が生まれるわけはないので、始まりはない。意識の流れに私という名前をつけただけのものである。
(3) 「私」に終わりはあるか
神のある宗教では魂は終わりに地獄や極楽に行くという。
仏教の説一切有部では五蘊がとぎれて涅槃にいくという(つまり私が終わるといっている)しかし、〔ダライ・ラマの則っている仏教の中観帰謬論証派の学説によると〕私には終わりはない。〔覚りを開いて〕涅槃になると、苦しみはなくなるが、私がなくなるわけではない。龍樹は『六十頌如理論』で「私には終わりはない」と説いている。(なぜなら、私はそもそも実体的に存在しているわけではないので、どこかで無くなるということもないのである。)
以上をまとめると、
(1) 私は何であるか → 体と心の集まりに私という名前をつけただけのもの。つまりない。
(2) 私に始まりはあるか → 始まりはない
(3) 私に終わりはあるか。 → 終わりもない
15:35分からやっとテクストの話になる。
はいテクストを手にして。
______________________________________
【序】
ここで著者のツォンカパが約束と決意を示している。
著者のツォンカパ・ロサンタクペーペルはカダム派からゲルク派をつくり、顕教の後、密教も学び、サキャ、カギュ、あらゆる宗派の伝統を受け継いでいる。
(1)【出離の心を起こす】
★この苦しみから離れたいと思いなさい。今生に対する執着、来世に対する執着をなくし、輪廻からでようとしなさい。
★開かれた心で対象を調べること。アーリヤデーヴァは『四百論』の中で、「自分の学派の教えだけでなく、他にも心を開け」といっている。現実に即したものの考え方をし、知性をもって偏見のない心で分析しなさい。
★釈尊は金を焼いたりこすったりしてその真贋を確かめるように、仏の教えも知性によって吟味すべしといっている。懐疑的であれ。正しい分析を行い、疑惑を晴らしていけ。
(2) 【菩提心を起こす】
★利他の心を起こすためには(1) 自他を入れ替える瞑想 (2) 因果に関する七つの口伝がある。
★出離の心→菩提心という展開は、まず最初は自分の安楽を求めて、輪廻が苦しみであることを認識し、そこから逃れたいという気持ちを起こすけれども、そうすると、他人も同じ苦しみを味わっていることを知り、他人を救うために覚りを求めるようとする心をおこすのである。
(3)【空を直接知覚する意識に対する正しい理解】
★龍樹は『中論』で「すべては仮説(仮構)」といっている。あらゆるものは依存しながら、存在しているように見えている(縁起)が故に、実体がない(空)。私を捜しても名実の名の方しかない。
★覚りをジャマするのは煩悩障と所知障の二つの障りである。われわれの意識には、主客の二元論的な姿が現れている。それが実体的に存在しているかのように把握するのが、我執、すなわち対象を実体であると捉える思い込みである。対象を実体的に存在していると把握している意識、あるいはそのように思わせているものが無明(=煩悩障)である。煩悩は出離の心によって消すことができ、そうすれば物事に実体はないと思えるようになるが、所知障(二元論的戯論)は残っているので、世界はまだ主観・客観という二つに分かれて現れている。これは世界を二元論的に見てきたこれまでの経験によって意識の中に植え付けられた「煩悩の遺したもの」(習気)があるからである。これか所知障である。つまり、仏の智慧を得ることをジャマするものである。
★その所知障は「その反対のもの」(対治)である「空を直接知覚した意識=智慧」によって消すことができる。
★「真実(=諦)」には以下の二つの側面がある(二諦)。
(1)世俗の真実(世俗諦) とは、ものごとは依存関係によって、そこに存在しているように見えている(縁起)。般若心経でいえば空即是色(実体はないけど、存在するものとして現れている)の部分。
(2) 究極の真実(勝義諦)とは、「あらゆるものには、それ自身で存在しているような実体や本質は存在しない(空)」ということ。般若心経で言えば色即是空(存在していても、本当のところは実体がない)の部分である。
このように全てのものが、現れに過ぎない、と知ることで実在論を否定し
本当の空性は何もないことではなく、縁起している存在であると知ることで虚無論を否定することができる。
つまり、虚無論・実在論という二つの極端を排するために、すべての存在は、空(くう)でありながら、同時に原因と結果に依存して存在しているものであると知れ。
以上の教えを論理的に考察し、この空の思想を吟味して、心をこの空になじむように訓練していくがいい。(2009年10月31日 両国国技館 ダライラマ法王講演)。
長田さんとトーク
しかし、よく考えてみたらヘンな学者である、自分。
講演とかは普通の学者でもやるだろうが、ミニシアターでのトークって、普通文化人がやるもんじゃない?
相方の長田さん(I Love Tibet主宰)とはもはやいつが初対面かも覚えていない昔からのおつきあい。こんな二人のダラダラ内輪話を聞きたがる人がいるというのも時代が変わったのか、チベットが悲惨ということか。
まあ、コアなチベットファンが増えたのだろうと好意的に考えることとする。
客席にはコアなフリー・チベットさんたちに、キム・スンヨン監督に、可愛い卒業生たちの顔が並ぶ。夜遅いのにありがとう、みなさん来てくれて。
このアップリンク、この春からずっとチベットに力を入れてくださっている。アップリンクは話題作を扱うので新聞とかにもよくとりあげられていて、映像を選ぶ目は確かである。しかし、ここの社長がとにかくすごい。
何がすごいかって、もう巨漢で身なりにかまわなくてサンダル履きで、私の知り合いは上映中に彼が入ってきたら、
「この人何かテロでもするんじゃないか」と気になって仕方がなかったとか。
私が「社長さんだよ」というと呆れかえっていた。
その社長さんに会うのが楽しみだったのだが、いない。で、アップリンクのKさんに
「社長さんどちらですか」と聞くと
kさん「社長いまヤクザ役で映画にでるためウクライナにいってます」
ヤクザ役ですか(笑)。
今回のイベントは1998年制作のポールワーグナー監督風の馬のdvd化記念。権利買い取るのに結構お金かかったとか。たしかになんかお金なさそうな監督だったもんな。だってこの映画、セブンイヤーズインチベットとかクンドゥンとかと同じ頃撮影されていて、前者はアルゼンチン、後者はモロッコにセット作ったのに、ポールワーグナーは中国共産党治下のラサでゲリラ撮影だもんね。ははは。
このトークショーがDVD化のさいに要した資金の穴埋めに多少は貢献できるといいけど。
長田さんはまず、この風の馬の主人公ドルカをつとめたダドゥンの話からはじめる。本土ではやるチベット語の歌は、チベット語の修辞学でよく解釈すると抵抗歌だったりするけど、ダドゥンは恋人の名前をいれて歌う歌に、テンジンギャムツォ(ダライ・ラマの名前)をいれて、恋人を思う歌にことよせて、ダライ・ラマを思う歌を歌ったりしていたので、チベットにいられなくなってしまい、亡命して、本編の主人公さながらの人生を送っているという。
それから、映画の中で拷問で死にかかっている尼僧の証言をビデオにとってアメリカ人旅行客が国外に持ちだそうとして失敗する。現実はあそこまで悲惨な映像ではないにせよ、たとえば去年の蜂起映像などもさまざまな形で本土チベットから持ち出されている。成都のネットカフェとか、出張にかこつけてとか、とにかく本土チベットからでて海外に送信するのだ。昔はフィルム没収されたらアウトだったけど、今はネットで瞬時に海外に送信できるので、画像の流出が比較的楽になった。
トークのあとに流したTHRCD(たぶん綴り違う 笑)が作成した2008年チベット蜂起の時系列の記録映像(uprising in 2008 50分ネットで見られます)も、そうして送られた映像とBBC(イギリス国営放送)の流した映像から構成したものである。
で、言論の自由のない国(中国)でチベット人にどんなインタヴューしたって返ってくる答えはホンネでもないし、無難なものになるに決まっているのに、日本のマスコミってそれを文字通りとらえて「チベットの今」とかいって流すよねー、あれって結局中国政府の政策を追認しているようなもので、あれ〔海外のジャーナリストが命はって取材しているのに〕ぬるいよねー、という話をする。
「聖地チベット展」だってあれ、チベット問題について何も国際的な見識のない業界人がお金もうかりそーっとその場ののりではじめたものだし、それがどういう波紋をよぶかについてまったく思い至らない。危機探知能力ゼロ。悪意がない分始末におえないよねー、てなノリで話した後、人間掲示板と化し、今後のチベット・イベントの予定をしゃべりまくる。
みなそれぞれの分野でがんばっている。
チベット支援は、いろいろな人が行っている。ここは自由の国なのだから、いろいろな政治的な立場からなされていいし、文化を維持することに興味がある人はお寺支援してもいいし、教育に興味のある人は学校支援してもいいし、基本的にそれぞれの立場から興味のある分野で活動をしていけばいいと思う。
どの行動も尊いし頭がさがる。
前提として、支援者は、よき社会人であることが望ましいと思う。よき社会人とは定職をもち自立し、家族や友人となごやかに暮らし、その人自身が何らかの形で社会に貢献していることを意味する。そうでないと、いくら正論いっても「自分の不安感や不満をチベット人の弾圧されていることに重ねて、ぶつけているだけじゃない」と言われてハイ終わりだから。
よく言われる話だけど、日の丸が問題なのではなく、日の丸をもつ人の品格が問題だという、あれと同じ。
よき社会人は、様々な考え方をもつ人々に取り囲まれながら安定的に暮らしているわけだから、他人の意見をきき、自分も意見をいい、それを調整していくという問題処理能力があり、支援の場においても非常に有能なのである。感情に左右されず、異論を尊重し集団を運営していく、これはやっぱよき社会人でないとムリです。
何か支援をするということは自分がいかなるものであるかを問われているということでもある。自分のことも始末できない人が、他人にあれしろこれしろいっても説得力ないでしょ。
ちなみに、歴史はあらゆる社会運動はすべからく消滅する運命にあることを教えてくれる。運動の末路はつねに外部からではなく、内部対立からくる自滅である。彼らが批判している対象によってではなく、自分自身の病弊によって倒れるのだ。
その中で、チベット支援は五十年、消滅どころか、徐々に支援の輪を広げて現在に至っている。これは、支援者の質が総じて高く、かつチベット文化が「守るべきものである」という認識が広がってきている証拠である。
普段は静かにこういう地道な交流会、勉強会を続け、いざという時(笑)にはじければいいのであって、組織防衛とか運動を続けることを自己目的化しない方がかえって運動自体は存続する。
私のことを「見て、知って」という女(男)がまったくもてないのには理由があるのだ。
講演とかは普通の学者でもやるだろうが、ミニシアターでのトークって、普通文化人がやるもんじゃない?
相方の長田さん(I Love Tibet主宰)とはもはやいつが初対面かも覚えていない昔からのおつきあい。こんな二人のダラダラ内輪話を聞きたがる人がいるというのも時代が変わったのか、チベットが悲惨ということか。
まあ、コアなチベットファンが増えたのだろうと好意的に考えることとする。
客席にはコアなフリー・チベットさんたちに、キム・スンヨン監督に、可愛い卒業生たちの顔が並ぶ。夜遅いのにありがとう、みなさん来てくれて。
このアップリンク、この春からずっとチベットに力を入れてくださっている。アップリンクは話題作を扱うので新聞とかにもよくとりあげられていて、映像を選ぶ目は確かである。しかし、ここの社長がとにかくすごい。
何がすごいかって、もう巨漢で身なりにかまわなくてサンダル履きで、私の知り合いは上映中に彼が入ってきたら、
「この人何かテロでもするんじゃないか」と気になって仕方がなかったとか。
私が「社長さんだよ」というと呆れかえっていた。
その社長さんに会うのが楽しみだったのだが、いない。で、アップリンクのKさんに
「社長さんどちらですか」と聞くと
kさん「社長いまヤクザ役で映画にでるためウクライナにいってます」
ヤクザ役ですか(笑)。
今回のイベントは1998年制作のポールワーグナー監督風の馬のdvd化記念。権利買い取るのに結構お金かかったとか。たしかになんかお金なさそうな監督だったもんな。だってこの映画、セブンイヤーズインチベットとかクンドゥンとかと同じ頃撮影されていて、前者はアルゼンチン、後者はモロッコにセット作ったのに、ポールワーグナーは中国共産党治下のラサでゲリラ撮影だもんね。ははは。
このトークショーがDVD化のさいに要した資金の穴埋めに多少は貢献できるといいけど。
長田さんはまず、この風の馬の主人公ドルカをつとめたダドゥンの話からはじめる。本土ではやるチベット語の歌は、チベット語の修辞学でよく解釈すると抵抗歌だったりするけど、ダドゥンは恋人の名前をいれて歌う歌に、テンジンギャムツォ(ダライ・ラマの名前)をいれて、恋人を思う歌にことよせて、ダライ・ラマを思う歌を歌ったりしていたので、チベットにいられなくなってしまい、亡命して、本編の主人公さながらの人生を送っているという。
それから、映画の中で拷問で死にかかっている尼僧の証言をビデオにとってアメリカ人旅行客が国外に持ちだそうとして失敗する。現実はあそこまで悲惨な映像ではないにせよ、たとえば去年の蜂起映像などもさまざまな形で本土チベットから持ち出されている。成都のネットカフェとか、出張にかこつけてとか、とにかく本土チベットからでて海外に送信するのだ。昔はフィルム没収されたらアウトだったけど、今はネットで瞬時に海外に送信できるので、画像の流出が比較的楽になった。
トークのあとに流したTHRCD(たぶん綴り違う 笑)が作成した2008年チベット蜂起の時系列の記録映像(uprising in 2008 50分ネットで見られます)も、そうして送られた映像とBBC(イギリス国営放送)の流した映像から構成したものである。
で、言論の自由のない国(中国)でチベット人にどんなインタヴューしたって返ってくる答えはホンネでもないし、無難なものになるに決まっているのに、日本のマスコミってそれを文字通りとらえて「チベットの今」とかいって流すよねー、あれって結局中国政府の政策を追認しているようなもので、あれ〔海外のジャーナリストが命はって取材しているのに〕ぬるいよねー、という話をする。
「聖地チベット展」だってあれ、チベット問題について何も国際的な見識のない業界人がお金もうかりそーっとその場ののりではじめたものだし、それがどういう波紋をよぶかについてまったく思い至らない。危機探知能力ゼロ。悪意がない分始末におえないよねー、てなノリで話した後、人間掲示板と化し、今後のチベット・イベントの予定をしゃべりまくる。
みなそれぞれの分野でがんばっている。
チベット支援は、いろいろな人が行っている。ここは自由の国なのだから、いろいろな政治的な立場からなされていいし、文化を維持することに興味がある人はお寺支援してもいいし、教育に興味のある人は学校支援してもいいし、基本的にそれぞれの立場から興味のある分野で活動をしていけばいいと思う。
どの行動も尊いし頭がさがる。
前提として、支援者は、よき社会人であることが望ましいと思う。よき社会人とは定職をもち自立し、家族や友人となごやかに暮らし、その人自身が何らかの形で社会に貢献していることを意味する。そうでないと、いくら正論いっても「自分の不安感や不満をチベット人の弾圧されていることに重ねて、ぶつけているだけじゃない」と言われてハイ終わりだから。
よく言われる話だけど、日の丸が問題なのではなく、日の丸をもつ人の品格が問題だという、あれと同じ。
よき社会人は、様々な考え方をもつ人々に取り囲まれながら安定的に暮らしているわけだから、他人の意見をきき、自分も意見をいい、それを調整していくという問題処理能力があり、支援の場においても非常に有能なのである。感情に左右されず、異論を尊重し集団を運営していく、これはやっぱよき社会人でないとムリです。
何か支援をするということは自分がいかなるものであるかを問われているということでもある。自分のことも始末できない人が、他人にあれしろこれしろいっても説得力ないでしょ。
ちなみに、歴史はあらゆる社会運動はすべからく消滅する運命にあることを教えてくれる。運動の末路はつねに外部からではなく、内部対立からくる自滅である。彼らが批判している対象によってではなく、自分自身の病弊によって倒れるのだ。
その中で、チベット支援は五十年、消滅どころか、徐々に支援の輪を広げて現在に至っている。これは、支援者の質が総じて高く、かつチベット文化が「守るべきものである」という認識が広がってきている証拠である。
普段は静かにこういう地道な交流会、勉強会を続け、いざという時(笑)にはじければいいのであって、組織防衛とか運動を続けることを自己目的化しない方がかえって運動自体は存続する。
私のことを「見て、知って」という女(男)がまったくもてないのには理由があるのだ。
愛国教育テクスト
あと三日になりました。10月28日(水)
渋谷のアップリンクで長田さんとトークショーやりまーす。
◆19:00 上映『風の馬』(97分)
◆20:45 トークショー (ゲスト:長田幸康氏、石濱裕美子氏)
◆21:20上映『Uprising in Tibet 2008〜チベット騒乱の真実〜』
(くわしく知りたい方はここクリック)
渋谷のアップリンクで長田さんとトークショーやりまーす。
◆19:00 上映『風の馬』(97分)
◆20:45 トークショー (ゲスト:長田幸康氏、石濱裕美子氏)
◆21:20上映『Uprising in Tibet 2008〜チベット騒乱の真実〜』
(くわしく知りたい方はここクリック)
突然、11月9日まで英文の論文を出せ、という急な命令がデリーからくだりました。学会は18日だから、それまでていいと思っていたのに、突然9日までと。要旨だしたんだから、それでいいだろうが。なんでペーパーまで要求するの。ムリだよ。
チベット人はTCVでヒンドゥー語と英語とチベット語やるから英作文なれているだろうけど、島国でまったり生きてきた東洋史の学者に突然英作文出せ、いうてもできることとできないことが世の中にはあります。
一応努力はしてみるけど、そうしてできあがった英語論文が果たして私以外の人の読めるものに仕上がっているかどうかは永遠の謎である。
そういうわけで、毎晩英語の夢にうなされ、日本語の合間に「ウープス」とか入ってしまう毎日なので、おのずとあまり高度な更新はできません。
数日前某ムック本の原稿を提出したのだけど、その際参考資料に用いた資料を、以下にはっときます。
去年チベットが蜂起した後で中国政府は僧侶に対する愛国教育をいっそう劇化させました。僧侶が音読を強制されている学習テクストを某カメラマンのN氏が青海からゲットしてきました。
目次をチベット語から翻訳しておきますね。でも忙しいのでフィーリングで訳しました。内容が読みたいからオマエ訳せとか言わないでね。このテクストのチベット語は漢語の直訳で普段仏教・歴史文献しか読んでいない自分にはあまりにも面倒くさい内容なので。
〔表紙〕
祖国統一と民族団結、社会安定などを守護することについての学習テクスト集
中共青海省委員会宣伝部
2008年4月
〔目次〕
●暴力事件がダライ集団の「非暴力」の嘘をさらけ出した。
● ダライ集団はチベット仏教(藏伝仏教)の平常の規律に損害を与える主要な人物である。
□中国チベット学研究センター(中国藏学研究中心)宗教研究所の学者ドゥンカルツェリンとダワツェリンに対するインタヴュー
●ダライ集団の実像を知ることのできる生きた反面教材である。
□中国チベット学研究センターの総長ラクパプンツォクがラサの暴力事件を分析する。
●暴力事件からダライ集団の非暴力の巧詐と野蛮の本質が暴露された。
□中国チベット学研究センターの歴史研究所の研究者陳慶英に対するインタヴュー
●歴史より世界に対してチベットを確認する。
●仏教に反して、人々に苦しみを与える。
□チベット仏教会の指導者ダライ14世集団を叱る。
●ダライ分離集団が自分の頭を自分で切った可能性。
□チベットの党委の副書記人民会議常任委員会の主任レクチョクに対する特別インタヴュー
●チベット仏教の指導者ダライ14世に対し、祖国統一と民族団結を破壊することが不可能であることを勧告する。
●ダライ集団の「中道」の真の目的はチベット独立である。
●仏教と同様に国を愛する会の代表が固い決意により、分離主義者と決別する。
□中国チベット文学単位高等仏教学院の助教授アラク・ナクツアン・チャムバ・ガワンに対するインタヴュー
●ダライ集団がラサの破壊略奪暴力事件を計画し教唆したのである。
●ダライ集団が祖国から分離しようとする本質は不変である。
□チベット学の専門家がダライ集団の分離論に厳しい批判を加える
●1959年のチベットの暴力反乱はどのように起きたか。
●チベット地域はつねに中国の不可分の一部である。
●チベット平和解放と自治区設立
●ダライ集団がチベット人民の大抗議行動を操っている事情
●警察がチベット地域などのいくつかの寺から反乱のための武器を大量に押収したこと。
□3月14日事件はダライ集団が組織したチベット人民の大抗議運動の一部である。
●民族区域自治はチベットの繁栄と安定の根本である。
□チベットの民族区域自治制度を実施した本当の事情。
●チベット文化が根絶した絶という説は全ての人を騙す嘘である。
□チベットの専門家がチベット文化の今と昔を語る。
●チベット学の専門家が国内外のニュースを集めたインタヴューと解説?。
●チベット人民の望みは国の安定と民族団結を尊重することである。
●インドの専門家が論文を発表したこと。ラサ事件は計画的な暴力行動である。
●アパの破壊略奪事件はダライ集団が緻密に計画した暴力破壊運動性が大きいものである。
●チベットは昔から中国の領土の一部である。
●青海省全土の眼前の社会の安定を守護するための行動を組織する時が切に示されていること。前よりも堅く意志を統一し、手段を明らかにし、全力を挙げて地域の安定を護るつとめを果たさねばならない。
●青海省青海民族大学と青海師範大学から教授陣と事務代表に対して連絡する際に示されるべき事。真正面から宣伝教育を行い、前より力をいれて大学内部の安定を徹底して護らねばならない。
●青海省の黄南地域における安定を護り、捜査と指示を行う時に示されるべきこと。
●断固とした決意で分離主義を批判し、安定を護る。団結をいっそう強固なものとして全力を上げて安定を護ることに全面的な勝利をうることに努力せねばならない。
●ラオフーニンがチベット仏教の各宗派の代表と座談会をした時に望んだこと。広大なチベット仏教の各宗派の代表が社会の安定を護ることに貢献せねばならない。
●慈しみの心から生まれた心からの願い。
□ラオ・フー・ニンとチュー・チン・シェン二人が地域の高等学校の師弟の代表と座談されたこと。
●発展と安定の状況を前より大事にせねばならない。
●地域を団結させ進歩させる仕事に一層励みとりわけ奨励せねばならない。
●発展をより迅速にすることが青海の第一の使命である。
●公民は必ず憲法と規律を遵守しなければならない。
●大火中から生まれた純粋な慈しみの心
□チベット族ションヌ・ソナム・トンドゥプが己を捨てて他を救った事情。
●黄河が民族の慈しみの心の証人となった。
●西安から届いた愛の使者。
□命をチベットに捧げた「西安の美女シューニン」を追憶して。
10月31日への道
今朝の朝日の朝刊の秋のイベント紹介に「聖地チベット展」についての紹介がのっていた。笑った。なぜなら、何か微妙に批判者を意識した内容になっているから。
まず、今回の展覧会がチベット好きからウケてない、ポイントを整理してみよう。
(1) 無意識のうちに"中国"を美化。
展覧会の興行主が中国からの批判を怖れて自主規制したため、近代以後の歴史がすっぽりぬけおちている。しかし、共産党政府以前の中国王朝(元・明・清)はみなチベット仏教を大切にしていたため、歴史リテラシーのない人が見ると「中国って昔からチベットを大事にしているのね。」と見えるようになっている。
事実は逆。中国共産党は1950年のチベットへの軍事侵攻以後、僧院を完全破壊し、僧侶をすべて還俗させ、チベット文化を否定しつくした。80年代以後は観光政策のために形だけの僧院復興を許しているが、僧侶に社会主義愛国教育を強制しーの、僧院の活動にありとあらゆる制限をかしてじゃましまくりーので、まったくチベット仏教界の尊敬を受けていない。そして一番の問題は過去の問題ではなく、今現在それをやっているということ。
(2) チベット文化の説明が不完全。
大半の展示物が、ポタラ宮とノルブリンカ、すなわち歴代ダライ・ラマの宮殿であったところから供出されているにもかかわらず、それについての説明がむわったくない。ダライ・ラマのいないチベット史って、誰かがいってたけど、「チャーシューののってないチャーシューメン」なのに。
一方、数的には供出数の少ないサキャやミンドゥルリンや熱河の外八廟(この表現古い 笑)の説明はコラムまでつくってある。何かすごくバランスがとれていない。展示品も日本人が選んだということになっているけど、それにしては、中国との関係を示すものが多く、チベット自体のそれぞれの宗派の歴史や地方色などを表す展示品がない。
(3) 仏像を美術品として展示する違和感。
チベットにいったら、みな必ずお寺に入っても、お寺自体を参拝する場合でも、時計まわりの巡礼路にそって歩く。そして仏様にはカター(スカーフ状の絹の白い布)が捧げられ、由緒ある仏様はカターに埋まる。しかし、今回の展覧会は〔まだいってないけど〕これらの仏様たちに供養の対象としての敬意は払われていない。巡礼路もない。展示品はただ「美術品」になっている。宗教心を失って久しい日本人のレベルにあわせて展示しているのかもしれないが、美術品として仏様を見ても「チベット文化を知る」ことにはならないんじゃない。
で、今日の朝日新聞はこんなこと書いてました。
ポタラ宮の秘蔵品も 聖地チベット展
よく耳にするのに、意外と知らないチベット。その文化を紹介する「聖地チベット展」が東京・上野の森美術館で開かれている。インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地で独自の発展をとげたチベット仏教。展示されているのはその精華を伝える約120点で、世界遺産ポタラ宮の秘蔵品も数多い。
チベットのシンボルといえるポタラ宮は17世紀、ダライ・ラマ5世がかつての王宮跡地「マルポリの丘」に建造した。以後、歴代のダライ・ラマは宮殿に居住し、宗教活動と政治の中心地となってきた。
宮殿内部には歴代ダライ・ラマをまつる霊塔があり、約7万点の仏像、仏画、工芸品などと6万点もの経典類が保管されている。一部は観光客に公開されているが、入場者数は厳しく制限されている。
宮殿に集められた作品群は、制作された時代も土地も様々だ。今回の出展品でも、5世紀に作られた「釈迦如来座像」は中国北魏のスタイル、11〜12世紀に作られた等身大の「弥勒菩薩立像」などは東北インドで作られている。チベット様式の仏画を刺繍した掛け軸「グヒヤサマージャ座像タンカ」は、明の永楽帝から贈られたものだ。
一方で展覧会には、ミンドゥリン寺やサキャ寺など由緒ある古寺からの出品も少なくない。チベットでは、仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。
まず、二行目でチベット文化が「インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地」と言うことで「中国が勝手にひいた自治区線より広大な文化圏があることを知ってます」アピール。
それからダライ・ラマ五世がポタラ宮を築いたこと、歴代ダライ・ラマが宮殿に居住したことを述べることによって、「ダライ・ラマを無視していない」ことをアピール。でもダライ・ラマがここから追われたこと、そのあとお寺や文化財が壊されたことを書く勇気はない。
作品紹介はこの人たちの仕事だから置いておくとして、最後の「仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。」にいたって大爆笑。「美術品」として展示したことをなんかいいわけしているみたい。専門家ならそういう細部もみたがろうけど一般の人はカターに埋まって仏壇にある姿をみた方がよほど感銘を受けると思うけど。この記事は一般向けだよね。
まあ、倫理や道徳がすっぽぬけ、ただひたすら自分のことばかりを追求する現代日本において、ダライ・ラマがすっぽぬけ、仏像が美術品になる展示会が開催されるのも考えてみたら、当然のことなのかもしれない。
この展覧会とリンクして銘記すべきは、11月はじめに来日されるダライ・ラマ法王の講演は、沖縄・四国ともにチケットは売り切れたのに、東京の10月31日のみ残りがあるという。なぜならその日はダライ・ラマ法王が仏教を講話されるから、日本人には難しすぎるみたい。日本にはコンビニよりも寺の数があると言われているのに、日本人はどちらかというと仏教徒が多いはずなのにこの惨状。
情けない。ダライ・ラマ法王のあの高潔な人格はチベットの僧院生活から生まれてきたものなのに。今更何を嘆いても仕方ないが、日本人本当に明治維新以後、経済的発展とバーターにいろいろなものを失ってきた。
私は阿修羅王を美術館でみるなんて情けなくてできなかったけど、大半の人は何も感じずそれができる。シカン展、インカ展、エジプト展、みな過去の文明ですよね、で、阿修羅展、聖地チベット展って、もう終わった文明のあつかいか。まだ生きとるわ。仏教わ。
さて、法王の仏教講話チケットを完売させるためにここから解説はじまります。10月31日の猊下の講義はここにあるテクストが解説されます。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
この短い文はチベット人が仏教に入門してから覚りにいたるまでの道をものすごく煮詰めて書いたもの。
チベット仏教において繰り返し述べられる教えは、「すべてのものは自分の自身の力ではなりたっておらず、必ずなにものかによっているため(縁起しているため)、本質、実体といったものはない(空である)。したがって、実体のないものにとらわれて怒ったり、執着したりしたらあかんで」ということ。
これはものごとが「ない」という虚無論でもなく、唯一絶対神を認めるような実在論でもない(テクストの中で否定されているでしょ)。
「生活感覚ではあるようにみえる」んだけど、「その実体を探し求めてもないじゃん」という意味での「ない」なのだ。そして、いの一番に否定されるべきは「自分」である。日々変化し続け、とらえがたい自我というものに、「自分」という実体を感じてしまうことから、怒りや執着が生まれ、周りとのトラブルを生む。しかし、自分を分析してみると、そこには何ら実体のないことに気づく。
自分の感じている苦しみが、誰かのせい、ではなく、自分自身の悪い心の性質であることに気づくとき、「自分」を抑えることが、幸せになるために必要であることに気づく。そのために「他者」の存在は重要である。鬱になってひきこもっている人の重大なカンチガイは、自分にひきこもればひきこもるほど、自分が肥大して苦しみが増していくという点だ。自分のことではなく、他者のことを思うことができるよにうになると、人は本当の意味で幸せを観じることができる。
そのような自我を解体し、他者を思う気持ちで満たされた意識が、大乗でいう覚りの境地(菩提)であり、仏様はその覚りの境地の具現者なのだ。
チベットの僧院ではこういう仏様のようなすんばらしい人格をつくるために、お坊さんたちは毎日さまざまな瞑想を行っている。この僧院生活をマスターした高僧はみなダライ・ラマみたいな人格になっていくのである。だから、人類に幸せをもたらしてくれるテクニックを実践する人々として僧侶は尊敬をうけ、そのような人々の修行の場として僧院は人々に守られてきたのだ。
仏教は迷信や狂信からもっとも遠い「賢者の宗教」としてここ百五十年間グローバルに高い評価をうけつづけている。チベット文化を理解した人はみなチベットの僧院社会の存続を強く願っている。そのような仏教のすばらしさは「聖地チベット展」よりは、10月31日のダライ・ラマ法王の仏教講話でよく分かると思うので、チベット仏教と縁を結びたい方、参加しましょう。
しつこいようだけど、当日までに↓を読んで勉強してね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
※注 ちなみに、仏教の理想とする人格とオマエはまったく逆ではないか、というツッコミが入るかと思いますが、そういう人には「わたくしはまだ修業ができておりません」とお答えすることにしています。
まず、今回の展覧会がチベット好きからウケてない、ポイントを整理してみよう。
(1) 無意識のうちに"中国"を美化。
展覧会の興行主が中国からの批判を怖れて自主規制したため、近代以後の歴史がすっぽりぬけおちている。しかし、共産党政府以前の中国王朝(元・明・清)はみなチベット仏教を大切にしていたため、歴史リテラシーのない人が見ると「中国って昔からチベットを大事にしているのね。」と見えるようになっている。
事実は逆。中国共産党は1950年のチベットへの軍事侵攻以後、僧院を完全破壊し、僧侶をすべて還俗させ、チベット文化を否定しつくした。80年代以後は観光政策のために形だけの僧院復興を許しているが、僧侶に社会主義愛国教育を強制しーの、僧院の活動にありとあらゆる制限をかしてじゃましまくりーので、まったくチベット仏教界の尊敬を受けていない。そして一番の問題は過去の問題ではなく、今現在それをやっているということ。
(2) チベット文化の説明が不完全。
大半の展示物が、ポタラ宮とノルブリンカ、すなわち歴代ダライ・ラマの宮殿であったところから供出されているにもかかわらず、それについての説明がむわったくない。ダライ・ラマのいないチベット史って、誰かがいってたけど、「チャーシューののってないチャーシューメン」なのに。
一方、数的には供出数の少ないサキャやミンドゥルリンや熱河の外八廟(この表現古い 笑)の説明はコラムまでつくってある。何かすごくバランスがとれていない。展示品も日本人が選んだということになっているけど、それにしては、中国との関係を示すものが多く、チベット自体のそれぞれの宗派の歴史や地方色などを表す展示品がない。
(3) 仏像を美術品として展示する違和感。
チベットにいったら、みな必ずお寺に入っても、お寺自体を参拝する場合でも、時計まわりの巡礼路にそって歩く。そして仏様にはカター(スカーフ状の絹の白い布)が捧げられ、由緒ある仏様はカターに埋まる。しかし、今回の展覧会は〔まだいってないけど〕これらの仏様たちに供養の対象としての敬意は払われていない。巡礼路もない。展示品はただ「美術品」になっている。宗教心を失って久しい日本人のレベルにあわせて展示しているのかもしれないが、美術品として仏様を見ても「チベット文化を知る」ことにはならないんじゃない。
で、今日の朝日新聞はこんなこと書いてました。
ポタラ宮の秘蔵品も 聖地チベット展
よく耳にするのに、意外と知らないチベット。その文化を紹介する「聖地チベット展」が東京・上野の森美術館で開かれている。インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地で独自の発展をとげたチベット仏教。展示されているのはその精華を伝える約120点で、世界遺産ポタラ宮の秘蔵品も数多い。
チベットのシンボルといえるポタラ宮は17世紀、ダライ・ラマ5世がかつての王宮跡地「マルポリの丘」に建造した。以後、歴代のダライ・ラマは宮殿に居住し、宗教活動と政治の中心地となってきた。
宮殿内部には歴代ダライ・ラマをまつる霊塔があり、約7万点の仏像、仏画、工芸品などと6万点もの経典類が保管されている。一部は観光客に公開されているが、入場者数は厳しく制限されている。
宮殿に集められた作品群は、制作された時代も土地も様々だ。今回の出展品でも、5世紀に作られた「釈迦如来座像」は中国北魏のスタイル、11〜12世紀に作られた等身大の「弥勒菩薩立像」などは東北インドで作られている。チベット様式の仏画を刺繍した掛け軸「グヒヤサマージャ座像タンカ」は、明の永楽帝から贈られたものだ。
一方で展覧会には、ミンドゥリン寺やサキャ寺など由緒ある古寺からの出品も少なくない。チベットでは、仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。
まず、二行目でチベット文化が「インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地」と言うことで「中国が勝手にひいた自治区線より広大な文化圏があることを知ってます」アピール。
それからダライ・ラマ五世がポタラ宮を築いたこと、歴代ダライ・ラマが宮殿に居住したことを述べることによって、「ダライ・ラマを無視していない」ことをアピール。でもダライ・ラマがここから追われたこと、そのあとお寺や文化財が壊されたことを書く勇気はない。
作品紹介はこの人たちの仕事だから置いておくとして、最後の「仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。」にいたって大爆笑。「美術品」として展示したことをなんかいいわけしているみたい。専門家ならそういう細部もみたがろうけど一般の人はカターに埋まって仏壇にある姿をみた方がよほど感銘を受けると思うけど。この記事は一般向けだよね。
まあ、倫理や道徳がすっぽぬけ、ただひたすら自分のことばかりを追求する現代日本において、ダライ・ラマがすっぽぬけ、仏像が美術品になる展示会が開催されるのも考えてみたら、当然のことなのかもしれない。
この展覧会とリンクして銘記すべきは、11月はじめに来日されるダライ・ラマ法王の講演は、沖縄・四国ともにチケットは売り切れたのに、東京の10月31日のみ残りがあるという。なぜならその日はダライ・ラマ法王が仏教を講話されるから、日本人には難しすぎるみたい。日本にはコンビニよりも寺の数があると言われているのに、日本人はどちらかというと仏教徒が多いはずなのにこの惨状。
情けない。ダライ・ラマ法王のあの高潔な人格はチベットの僧院生活から生まれてきたものなのに。今更何を嘆いても仕方ないが、日本人本当に明治維新以後、経済的発展とバーターにいろいろなものを失ってきた。
私は阿修羅王を美術館でみるなんて情けなくてできなかったけど、大半の人は何も感じずそれができる。シカン展、インカ展、エジプト展、みな過去の文明ですよね、で、阿修羅展、聖地チベット展って、もう終わった文明のあつかいか。まだ生きとるわ。仏教わ。
さて、法王の仏教講話チケットを完売させるためにここから解説はじまります。10月31日の猊下の講義はここにあるテクストが解説されます。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
この短い文はチベット人が仏教に入門してから覚りにいたるまでの道をものすごく煮詰めて書いたもの。
チベット仏教において繰り返し述べられる教えは、「すべてのものは自分の自身の力ではなりたっておらず、必ずなにものかによっているため(縁起しているため)、本質、実体といったものはない(空である)。したがって、実体のないものにとらわれて怒ったり、執着したりしたらあかんで」ということ。
これはものごとが「ない」という虚無論でもなく、唯一絶対神を認めるような実在論でもない(テクストの中で否定されているでしょ)。
「生活感覚ではあるようにみえる」んだけど、「その実体を探し求めてもないじゃん」という意味での「ない」なのだ。そして、いの一番に否定されるべきは「自分」である。日々変化し続け、とらえがたい自我というものに、「自分」という実体を感じてしまうことから、怒りや執着が生まれ、周りとのトラブルを生む。しかし、自分を分析してみると、そこには何ら実体のないことに気づく。
自分の感じている苦しみが、誰かのせい、ではなく、自分自身の悪い心の性質であることに気づくとき、「自分」を抑えることが、幸せになるために必要であることに気づく。そのために「他者」の存在は重要である。鬱になってひきこもっている人の重大なカンチガイは、自分にひきこもればひきこもるほど、自分が肥大して苦しみが増していくという点だ。自分のことではなく、他者のことを思うことができるよにうになると、人は本当の意味で幸せを観じることができる。
そのような自我を解体し、他者を思う気持ちで満たされた意識が、大乗でいう覚りの境地(菩提)であり、仏様はその覚りの境地の具現者なのだ。
チベットの僧院ではこういう仏様のようなすんばらしい人格をつくるために、お坊さんたちは毎日さまざまな瞑想を行っている。この僧院生活をマスターした高僧はみなダライ・ラマみたいな人格になっていくのである。だから、人類に幸せをもたらしてくれるテクニックを実践する人々として僧侶は尊敬をうけ、そのような人々の修行の場として僧院は人々に守られてきたのだ。
仏教は迷信や狂信からもっとも遠い「賢者の宗教」としてここ百五十年間グローバルに高い評価をうけつづけている。チベット文化を理解した人はみなチベットの僧院社会の存続を強く願っている。そのような仏教のすばらしさは「聖地チベット展」よりは、10月31日のダライ・ラマ法王の仏教講話でよく分かると思うので、チベット仏教と縁を結びたい方、参加しましょう。
しつこいようだけど、当日までに↓を読んで勉強してね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
※注 ちなみに、仏教の理想とする人格とオマエはまったく逆ではないか、というツッコミが入るかと思いますが、そういう人には「わたくしはまだ修業ができておりません」とお答えすることにしています。
