白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/12/09(火)   CATEGORY: 未分類
神在月の出雲にて
 出雲の峯寺にお呼ばれしたので、今年の夏、ギュメ大僧院を訪問して、ガワン先生の生まれ変わりと会ったお話をさせて頂いた。

 十二月の出雲、とくに海近くにある出雲大社は寒いと聞いていたので、暖かさを重視した色気のない服装で飛行機に乗った。

 飛行機で隣になった会社の経営者だという方は、「よく飛行機と宿がとれましたね」と言うので、なんでと聞けば、「今は神在月だから、宿も飛行機も予約をとるのが大変ですよ」とのこと。
 そういえば、旧暦の十月を神無月というのは、全国の八百万の神様が出雲に会議をするために集まり、全国のお社から神様が不在となるからだった。出雲だけは神様がいるので神在月といわれることは聞いたことがある。そうか、旧暦の十月は今年は十二月なのか。

 調べてみたら、今年は十二月一日に神迎祭をして八日までが神在祭であった。つまり私はまさに神在祭のまっただ中に出雲に向かっていたのである。その方のお話によるとこの期間は「夜神楽」といって、六時半以後の夜に出雲大社に入って祝詞を授かることができる。なぜ夜なのかというと八百万の神様のよりあいは夜行われるので、夜が最も御利益があるからだそうな。

 出雲縁結び空港につくと峯寺の住職快遍さんが迎えに来て下さっていて、そのまま出雲大社に向かう。天気は悪く、途中から雹がふりだした。傘をもってきておらず、「この中お参りするのはきついな」と思っていると、お社に着く頃に雹は上がって、雲がきれて空が見えだした。しかし、雲が近い。チベット高原でも雲が近いと感じるが、出雲は高地でもないのになぜこんなに雲を近く感じるのだろう。やはり雲の湧き出るところ「出雲」だからなのか。

 明治の頭の神仏分離以来、お寺と神社は犬猿の仲となっているが、ここ出雲では和解が進んでおり、神社とお寺を両方結んで∞の形になる神仏霊場の巡礼を提唱している。峯寺のご住職もこの霊場に属しているので出雲大社についても詳しく、いろいろな話を聞かせて下さった。
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 ご住職「出雲大社は現在60年に一度の遷宮の最中で、ご祭神の遷宮は2008年に始まって去年終了しました。本殿は国宝に指定されているので伊勢神宮のように建て替えはせずに、屋根だけ新しくしました。ご祭神は神職の担ぐ神輿にのって本殿にお戻りになりました。その時担ぎ手の一人から聞いたのですが、ご祭神は重くて、「こんなに重くて神社の階段を上がれるのか」と心配していたら、本殿にあがる前に一度神輿をおいて、再び担ぎ上げた時はすっと軽くなっていたとのことです。

 私「この前ゼミ生と京都いったんですが、六角堂にいった時、ご本尊の如意輪観音様はあの地にきた時、動かなくなったので、あそこに六角堂が作られて祀られたとのことです。チベットの都ラサの中心にある釈迦殿のお釈迦様もあそこまで荷車にのってきたものの、あの位置に来たところで車がスタックして動かなくなったので、あそこにお寺が建ったので、どこも同じですね。本尊・祭神が自ら場所を選ぶんですね」

 ご住職「私たち今本殿にむかって北面していますけど、ご祭神はじつはこちらを向いていないんですよ

 私「どちらの方角を向いているのですか」

 ご住職「西です」
 なので、私は西面で一番気合いをいれて拝んだ。

 ダンナから「今日は満月に近い月がみえるはずだよ」というメッセージがきたので、空をみるが、まだ明るくて月は見えない。それから峯寺の向かう車の中で、ご住職は出雲大社にまつわる不思議な話を始めた。

ご住職「この前行われた高円宮の次女の典子様と出雲大社の宮司の息子さん千家国麿さんのご婚儀の際、直前まで嵐の予報だったのに、行列が始まる時にはぴたっと雨がやみました。

 私「あの時の天気図はすごかったですよね。全国が荒天だったのに出雲だけ晴れていた。」

 ご住職「遷宮が終わる日にも不思議なことがあったんですよ。朝からすごい雨なのに午後七時に儀式がはじまると雨があがり、本殿の扉を閉めた瞬間に突風がふき、九時に司会の人が「以上で終了します」といった瞬間に風がやんで大雨が降り始めたんです。

 私「昔、秩父の夜祭りの際に、お水をとる井戸のある神社で同じような話を聞きました。本殿を新しくして、祭神をお戻しする時やはり突風がふいたそうです。どこも同じですねえ。直前まで荒れて、肝腎な時には雨があがるんですねえ」

 ご住職「不思議ですねえ
折しも雲の中から十四夜の月が顔をだし、斐伊川の川面に青白い月影をおとす。しかし、峯寺に近づくと再び天気が変わり、雨がぽつぽつふりだす。峯寺は160mの山の上にぽつんと鎮座しているため、山道を昇る。山道に入ると雨は雪に変わり、高度がますにつれ次第に雪の量も多くなっていった。

ご住職「明日万が一雪が積もって山道が通れなかったら除雪車を頼みます。積雪が15cmまでならスタッドレスタイヤがあれば上れますが

 大雪が降ったらチベフェス以前に、寺が孤立して我々は救援の対象となると思う。

 峯寺につくと、チベット・フェスティバル実行委員会という名の渡部秀樹さんの同窓会メンバーがすでに同窓会を始めている。

 私は「雪の峯寺」は初めてだったので、雪見キャンドルをしてみたくて、準備してきた。紙コップにアロマキャンドルをいれ、コップにはチベット旗、Long Live Dalai Lama、私利私欲に基づくMy bird forever!(笑)などを貼り付けると即席キャンドルのできあがり(ただ紙なので炎上に注意してね!)。
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 夜はみなで峯寺自慢の精進料理を戴きながらキャンドル鑑賞をした。雪の中のキャンドルは、思った通りに幻想的で、暖かい光を放ち、綺麗だった。

●12月7日

 明けて7日。雪はふっていないどころか、気温が上がって降った雪が溶け始めている。今日は満月である。ご住職は全く意図していなかったらしいが、神在月の出雲の満月で神仏霊場の一角をなす峯寺でお話をするとは実にもったいないシチュエーションである。
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 朝は本堂でお護摩が焚かれた。峯寺は大峯修験の寺なので、導師の周りを、先達と呼ばれる四人の山伏が取り囲んで護摩を焚く。法螺貝がプォプォーと吹かれ、山伏が斧をかかげたり、剣をぬいたりして口上を述べ、パフォーマンスが面白い。今は廃れた神仏混交・修験道の伝統が残っている。

 お護摩の最後には参拝者もお護摩の煙を頂戴して、山伏の方がわれわれの背中を錫杖で叩いてお祓いをしてくれる。咳が止まらないのでとまるかな~と期待したが、加持のあとも止まらなかった(笑)。

 そのあと、みなで精進料理とチベットのテントゥク(すいとん)をいただき、会場準備がはじまる。人出は足りているみたいなので、厨房に行くとチベット茶の準備をしている。咳の止まらない私がここにいてみなに風邪が蔓延するのもどうかと思い、邪魔にならない場所を探すうちに、良い場所を見つけた。庫裡の受付である。

 そこは一言でいえば玄関脇にある四畳半の事務所であるが、新聞が載ったこたつがある。こたつに手を入れると暖かい! 私はお寺に断ることもなく、迷わずこたつに入り、新聞の書評欄とかを読み始めた。時折、山門の雪が、下にとまったスタッフの車のボンネットの上にどかどか落ちていく。なごむ。客観的に考えてみると、皆が忙しく働く中、勝手に暖かいところを探して休んでいる私は、猫以外の何者でもない。

 しばらくすると、私を捜していたご住職が「あ、ここか」とやってきて、「能海寛研究会の岡崎さんがお見えになって、先生にお会いしたいとおっしゃっているのですが」

私「私の家ではありませんが、どうぞどうぞ」と岡崎さんにコタツをすすめる。猫よりずうずうしいかも。
 
 能海寛は1903年、チベットに潜入しようとして雲南で失踪した僧である。江本嘉伸氏の『能海寛チベットに消えた旅人』が最も手に入れやすい評伝であろう。彼の生地であるここ島根には能海寛研究会も存在している。私は最近ダライラマ13世の時代、すなわち能見が潜入しようとしていた時代のチベットの研究を行っているので、折があったらそちらの資料館にお邪魔させて頂きますと申し上げる。

 岡崎さんは「先生はいける口ですか」と聞かれたので、「たまに飲みますが」と言うと、アゴ(トビウオ)の燻製をお土産に下さった。キョーレツな臭いのする干物をいただくと、さらに猫のような気分になってきた。

 そして、来年私のゼミにやってくる島根のお寺出身のWくんのお父さんが来て下さった。お父さんの大学時代の同級生が私の知っている方だったりして、不思議なご縁を感じる。お父さんのお土産は「アゴのかまぼこ」。さらに猫気分がもりあがる(笑)。

 チベフェスの最初のプログラムはドキュメンタリージクデル。詳しい内容は過去のエントリーを見てね。

 次が探検家・写真家の渡部秀樹さんのスライドトーク「山から見てきたチベット」。チベットでは山は神そのものなので、西洋のスポーツである登山は土地の方にとっては不敬な行為となる。渡部さんは東チベットの無名峯の調査をする中で得た、土地の人々が山に対してよせる思いや、山の名前を決定するに際して調べた山の神の名前などについてお話をされた。

 渡部さんはここ松江の出身で、高校生の夏休みに担任の先生に峯寺の観音堂につっこまれて合宿をしていた。その後、県外にでた渡部さんは、仕事の傍らチベットの山々を登っていたが、2008年にチベット蜂起がおきた。チベットに多少なりとも関わっている人はみな心を痛めていたあの時、渡部さんはいろいろ調べているうちに私のこのブログにいきついた。

そこで、峯寺とチベットの関係を知り、懐かしくなった渡部さんは、30年ぶりに峯寺の門を叩いた。紅顔の美少年がアフガンゲリラに変貌していたので、峯寺のご住職も奥様も当初誰か分からなかったそうだが、すぐに「ああ、あの・・・」となり、思い出話に花が咲いた。

 その中で衝撃の事実が明らかになる。先代の住職は三人の女の子に恵まれたのだが、寺を嗣ぐ予定の第三ご息女妃女さんが、大阪の平岡家に嫁いでしまったため、現在のご住職快遍さんをお迎えした。この快遍さんのお父上が高校生の頃の渡部さんを峯寺の観音堂にたたき込んで自分は海外旅行にでかけた担任だったのである(笑)。

 つまり私のブログが峯寺と渡部さんを30年ぶりに結びつけたのだ。渡部さんが松江のかつての同級生に声をかけてこのチベフェスが始まった。不思議なご縁である。私は両親も兄弟もいないが、何かよく分からないご縁でいろいろな方とつながっているのが感じられて、とても不思議であった。全く孤独な存在なんてこの世にはいないのだなあとしみじみ思う。

 そして、14:20分くらいから、私がガワン先生の晩年のご様子、亡くなられた際のエピソード、4才になった生まれ変わりが今回、前世の弟子である平岡先生と再会した時の様子などをとてつもなく濃いエピソードととも話す。この講演をするために日記を検索して時系列にまとめていく作業を行う内に自分でも面白いと思っていた内容だったので、やはり、来場者にもうけた。まあこの峯寺のお嬢さんが主人公の一人なんだからリアリティがあるよな。
 
 こうして、無事出雲チベフェスは終わった。飛行場の出発ロビーにはしまねっこという島根のゆるきゃらの像が置かれていた。出雲のお社を頭にかぶった猫で、名前はただの親父ギャグである。しかし何か親近感を感じ、ご住職に頼んでツーショット写真をとって頂く。島根といえば、出雲大社、竹島、ラフカディオハーン、能海寛、中村元記念館、古事記、と文化の香りが漂うイメージだが、このしまねっこはその全てを無力化する脱力キャラである。
 
 私もしまねっこのように、脱力キャラであると同時に文化の香り発信する高度な技を磨いていこうと出雲の空に誓ったのであった。
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DATE: 2014/12/07(日)   CATEGORY: 未分類
ダラムサラ報告会で感じたこと
※ 出雲の話はこの次のエントリーで。

 11月30日に、都内某会議室でSFTによるダラムサラ報告会が開かれた。最近のダラムサラ事情がわかるかなーと思って軽い気持ちで参加して、何というかいろいろ考えさせられた。

 最初の報告者は比較的チベットについて知識がある方で、どことどこに行き、このような人と会って話を聞きました、という全体像を提起し、一つ一つの話の内容については客観的に簡潔に要約しているもので、聞いていてもあまり違和感は感じなかった。

 しかし、次の同じツアーに参加したチベットほぼ初心者という方の話に入ると違和感はいやましていく。あらかじめお断りしておくが、この方自身にはまったく問題はない。自分が感じたことを感じたままに話すので、こんな食事を食べましたとか、町の様子とかを聞かせていただく分には、ガイドブックのカラフルなコラム欄を見ているようで楽しい。

 しかし、「こういう人とあって話を聞きました」という件になると、TYC(チベット青年会議)の通称赤鉢巻テンジン・ツォンドゥーの「アツイ話」とか政治囚の語る悲惨な体験とかが中心になっていき、そこからは、チベット社会の大勢が目指している理念が見えてくることはなかった。

 赤鉢巻氏は遠路はるばるやってきた日本人に対して、「自分の気持ちにウソはつけないから中国に対する抗議活動をやっている。ダライラマも本音では独立を望んでいるが、国際社会の手前、自治だといっている。今、中国はインドの国境を侵していて、インドにも脅威となっている。インドと協力して中国と闘うのだ。これは民族と民族の戦いだ」みたいなことを言った。そりゃ初めての人が聞けば印象に残るだろう。
 しかし、この発言は良識あるチベット人にとって非常に違和感のある発言なのである。。

 わかりやすく説明しよう。

もし「天皇陛下は政治に介入できないお立場であるけど、本音では中国に対して不信感をもっていらっしゃる。だから代わりに私たちが声をあげねば」という人がいた場合、この人は本当に天皇陛下のことを思ってこういう発言をしていると思う人はいないだろう。「なんであなたに陛下の心内が分かるの。あなだか自分がやりたいことを天皇陛下の威を借りていってるだけだろう」、と普通は思うだろう。これと同じ。

 十字軍を始めた時、教皇ウルバヌスは「エルサレムの奪還を神が望んでいる、十字軍の先頭には神が立つ」と演説して人々を動員したが、「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ。上着を取られたら下着もあげろ」といった神様が果たして本当に十字軍を望んでいたかどうか、誰でも胸に手を当てれば分かるだろう。神の意志を叫んでいるのは、あくまでもある立場にある人間だ。 なので、「ダライラマが本当はこう思っている」とかいう言い回しを使う時点でアウトなのは分かるだろう。

 ダライラマはそもそも慈悲の菩薩観音様である。彼は亡命以後、一貫してこう繰り返し述べてきた(もちろん87年までは当然の権利として独立とも言っていた)。

 敵を憎み、友を愛したとしても、一瞬後には友が敵になり憎む対象になり、敵が友になるのが世の常である。それなのに人はエゴにとらわれて、あるものに敵のレッテルをはり憎み、友のレッテルを貼り執着し、心の安定を欠いている。敵にも友にも永遠に変わらない実体はない。
 それなのに、人は自分、自分の家族、自分の宗教、自分の国など、自分(エゴ)の延長にあるものにこだわり、全体をみなくることから、あらゆる問題(民族紛争、戦争、環境破壊etc.)を起こしている。
 すべての敵が未来の自分の友であると考えなさい。あなたの最大の敵は外にあるものではなくあなた自身のエゴである。
 この世界から争いをなくすのはエゴを押さえる教育が一番大切である。


 以上のようなことを説いてきたダライラマが、敵の敵は味方、中国の敵はインドだからインドと共闘すべしとかいう考え方を推奨するかどうか考えたら、簡単に答えはでる。もちろん否である。ダライラマ法王はチベット難民を受け入れたインドをはじめとする諸外国には心からの感謝を捧げはするけど、それらの国に国益をおかしてまで中国と闘えと要請したことは一度もない。そんなことをしても根本的な問題の解決にはならないからである。

 今回のツァーではもちろんチベット亡命議会の議長さんのお話も聞いていて、彼はもちろん亡命社会のとる中道路線についての解説を行い、「中国に対して間違ったメッセージを送ってはならない」と何度もいって、最後に「それぞれの国にはそれぞれの事情があるのだから国益に反してまでチベットを支援してくれなくてもいい」とおっしゃっており、最初の報告者の方はこの言葉に一番感銘を受けていた。

 チベット人は難民だから、亡命者だから、もちろんどんなところからでも支援は欲しい。なのに、議長さんのような発言がでるのは、もちろん世界平和と長期的にみたチベットの未来のためにあえてこのように発言しているのだ。このような言動に感動して、チベット文化をこの世界からなくしてはいけないと感じる人がでてきて、結果、チベット文化は国際社会で存在感をもち、ここまで存続してきたのである。
 
 しかし、チベット初心者が赤鉢巻と議長さんの言葉を両方聞いた場合、何のレクチャーも受けていなければ、当然前者の言葉の方が印象に残る。今の日本人大多数にとってこちらの考え方が理解しやすいからである。しかし、翻ってダライラマ法王のおっしゃていることにどんな矛盾があるのかと考えてみると、まったく矛盾がないのである。彼が偉いから受け入れられてきた見解ではなく、この同じことをホームレスがいったって正論である。発言内容が妥当だから世界中で受け入れられてきたのである。

 と思ったこの違和感を、この旅行の企画者の一人に電話してぶつけてみた。すると、このような答えが返ってきた。

企画者「確かに、チベット初心者の方はそういうところしか印象に残らないかもしれません。」

私「ツアー内容見て気になったのだけど、どうしてチベット文化の中心である僧院や僧侶の訪問時間がないの?」

企画者「尼僧院には行ってますよ」

私「でも僧侶から話を聞く時間はとっていないじゃない。一般の僧でもいいのよ。チベット文化に通底する伝統的な考え方を無視して外国人が理解しやすい抗議運動だけみせても、広い意味でのチベット理解や支援にはつながらないよ」

企画者「我々は俗人の世界とやっていくので、仏教について語るのは荷が重すぎます」

私「荷が重いとかでなくて、チベットの社会と仏教文化から生まれるモラルは切り離すことができないんだよ。」

 何で分からないかなと思いつつ説明するが、伝わらない。

 そういえばこの企画者前に私が質問を受けた時、私の書いた~を読んで見て、と言ったら「ああ、あれは仏教の本だと思って読んでいませんでした」と言ってたので、チベット社会の根源にある文化を理解する気はあまりないようだ。この分だとこのブログのエントリーも仏教認定されてスルーされているかも。

 実はこの企画者の方は、在日チベット人の支援に熱心である。それ自体は良いことなのだが、チベット人にもいろいろな方がいて、たとえばお金の管理のできないチベット人が借金まみれになっていると、この方はお金を貸す。しかし、チベット人の借金は増え続ける。自分ももう貸せないところまで貸して、それでもそのチベット人の行いは改まらず、結局当事者以外の方達にも迷惑をかけることになった。また、とあるチベット人が日本人の誰が聞いても問題と感じる発言をした時にも、この方は問題発言をしたチベット人を庇い続けた。モラルもへったくれもなくチベット人の側にたつこの方の言動には多くの人々は違和感を感じていたが、被害を受けているのが主に本人であることと、チベット人のために何かしたいという気持ちは純粋なものなので沈黙していた (ちなみに、私は直言してきたが、無視されてきた 笑)。
 
 トータルにみれば分かるように、この方の問題点は仏教やチベット文化に根ざしていない、活動中心のものの考え方にある。
 どうしてこうなってしまうのか考えて見て、以下の考えに行き着いた。
 チベット人といっても一言でくくれるものではない。
 インドで再建された僧院で僧侶になりチベット文化を日々継承している人、俗人でも外の世界で成功している人つまり、自分の才能や生き方がチベット社会に貢献しており、周りからも尊敬を得られている人は、比較的安定した生活と精神を保っている。しかし、僧院から脱落した人、外の世界で成功できなかったり、あるいは思いが熱すぎて普通の生活を送ることができなくなり、活動に活路を見いだしたチベット人も数多くいる。後者のチベット人も大多数は善良で日々を正しく生きているが、その中のごく一部には中国や、自分がいま身を寄せている社会に対して、複雑な感情を醸成し、それを口にする者もいる。「どうしてこの国の人達は私たちチベットに対してもっといろいろ行動してくれないのか」と。

 もちろん彼らがそう感じるのは彼らの自由である。彼らの心は彼らのものだからだ。彼らが自分の感じたことを感じたままに話す権利を阻害する権利は誰にもない。日本人にいろいろな人がいて、いろいろなことを言っているように、チベット人はそれ以上にいろいろな人がいるのだから。

 私たちが脳内で考えるダライラマのような理想的なチベット人はもちろん沢山おり、彼らは社会の手本となっているけど、そうなりたいと思ってもなれないところにいる人も現実には沢山いる。

 この企画者の方はどちらかというと後者の方々によりそっていることから、いろいろと物議を醸しているのだと思い至る。
 
 私は経験則で、自分の感情に囚われて生きている人よりも、道徳的・利他的な生活を送っている人の方が幸せそうな顔をしている人が多いことを知っている。従って、できれば後者の中にいる怒れる方たちも、ダライラマの真意を勝手に推し量るなどして怒りをつのらせていくのではなく、ダライラマの言動そのままに模範的な人間になってその姿によって支援が集まるような行動をとってもらいたいと思う。

 前にギュルメワンダー氏が来日された際に、「私も若い頃には中国と闘おうと思っていたけど、あれは間違っていた。今は亡命社会に潜入するスパイが、私たちの生き方やダライラマ法王の話を聞いて、心を入れ替えてくれればいいと思う。とおっしゃって、亡命社会の養老院の建設に励んでおられた。議長の言葉ももワンダー氏の言葉も平和な社会で安穏として生きる我々には想像もつかないいろいろな感情をへた上でいきついたとても重いものである。だから我々はできるだけその考え方を理解した上で、自分の理解しやすいところだけつみとってつっぱしってはいけないと思う。

 最後に誤解なきように一言付け加えると、あの赤鉢巻も政治囚の方々もみななんであれ非暴力なので、「闘う」といったところで、インドやネパールの政府がここでデモやらないでください、というところで平和的なデモをするくらいの温和しい抗議しかしていない。別にテロに走るとかそういう話でないので、くれぐれも勘違いなきように。

 これは、ものすごく平和的なレベルでのささいな、しかし、非常に深い葛藤の話なのである(笑)。
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DATE: 2014/11/29(土)   CATEGORY: 未分類
最新チベット・イベント情報
出雲・峯寺チベット・フェスティバルまであと一週間!

ギュメ大僧院の館長先生が何度も灌頂を行った、出雲の峯寺で、チベットの自然と文化を紹介するフェスティバルをやります。島根といえぱチベット入りをめざして雲南にきえて能海寛の故郷、また、皇室と並ぶ古い家系によって支えられる出雲大社があります。この機会に是非、出雲入りをして、出雲大社に手をあわせ能海寛の古蹟をたどりましょう。

私は今年夏インドで実見した、チベット僧の生まれ変わりの探索・即位、チベットの僧院生活について写真を豊富につかってお話します。

立て、中国地方のチベット・ファンたちよ!

1、日   時 H26年12月7日(日)13:00~16:00
2、場   所 出雲大峯 峯寺
3、内   容
   13:00 ドキュメンタリー映画 「ジグデル~恐怖を乗り越えて」上映
   13:30  渡部秀樹さんスライド・トーク「山から見てきたチベット」 
           チベットを歩いて30年の登山・探検家)がチベットの魅力と現状を語ります
   14:10 石浜裕美子先生(早稲田大学教授・文学博士)の講演会
          演題 「チベットの僧院にトゥルク(高僧の生まれ変わり)を訪ねて」                
4、参 加 費  前売り 1500円 当 日 2000円
5、問合・申込  出雲大峯 峯寺 TEL0854-45-2245
詳細は峯寺のFacebookへどうぞ


2015年もチベットをあなたのおそばに!

SFT Japanオリジナルカレンダーができました
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フォトジャーナリストの野田雅也さん、ルンタ・プロジェクトの中原一博さんはじめとするチベットファンの皆様、映画『オロ』制作委員会のご協力により、素敵な写真カレンダーになりました。暦にはチベットの祝祭日も記載されています。

ご購入は、SFT Japanのサイトから!!

緊急 最新ダラムサラ事情を報告! スタディーツアー2014 報告会(東京・大阪)

10月にダラムサラを訪問したSFT Japanスタディーツアーの報告会が明日あります

【東京】2014年11月30日(日)13:30〜15:30
場所:JICA地球ひろば(東京都新宿区市谷本村町10-5)地図
報告者:ツェリン・ドルジェ(SFT Japan代表)、関東圏からのツアー参加者
参加費(会場使用料に充当):300円 予約不要

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DATE: 2014/11/19(水)   CATEGORY: 未分類
京都ゼミ旅行(2) 日本文化の源を訪ねて
 龍谷ミュージアムから出ると、我々は薫玉堂に向かった。
この店は西本願寺前で16世紀から商いしている老舗で、香道を伝えている。日本に初めてお香が伝わったのは、推古天皇の御代と言われ、淡路島に流れ着いた香木を火にくべてみたらいい香がするので、仏の嗅覚を供養するべく香の使用がはじまった。後に聞香が貴族のエンターテイメントとして盛んになり、お寺から離れて香道が成立するに至った。
 日本文化というと、華道、茶道、香道、武士道などがあるが、これらの起源はたいがいお寺や仏教思想の中から始まっている。香道が仏の嗅覚を楽しませることを起源とするように、華道も仏様に花を供養したことに始まり、茶の飲用も中国の禅寺の中で精神集中のために飲用されていたものである。
電動印

 西洋において、音楽・絵画・哲学などが神を称える所作の中からはじまったのと等しく、日本においても仏の五官を供養するための所作一つ一つが芸術へと昇華していったのだ。

 薫玉堂の一階は伽羅、沈香といった高価な香木を原材料で販売し、二階はお土産用の匂い袋やインセンスを販売している。学生たちは五種類のお香を好きなように配合して自分専用の匂い袋にしたてるサービスを体験しつつ、桂皮の香をかいで、「シナモンみたいだ」という。
シナモンと桂皮は同じもんだよ・・・。

 香木の故郷はインドネシアなどの熱帯で、熱帯雨林の中で倒れた香木が微生物によって分解されて化石かして伽羅ができる。正倉院御物の薬物棚にも「蘭奢待」の雅名で呼ばれる有名な香木があり、この天下の香木をきくことができたのは織田信長などの天下人だけである。
 ところで蘭奢待の漢字は文字の中に東大寺の言葉が含まれているをご存じでした? 正倉院はもともと東大寺の倉だから。
 とかウンチク傾けているうちに、昼ご飯の時間もとおに過ぎたため、京都御所近くの宿に一瞬よって荷物をおき、南下して昼ご飯を食べる場所を探す。そして昼ご飯を食べ終わったらもう三時。予定がまったく消化できていない。
 そのまま歩いて茶道の祖、栄西が開いた建仁寺に向かう。オンシーズンの四条大橋と八坂神社前はすごい人混みで、早稲田祭のよう。橋をわたる時、O君が「あのかっこいい木の橋どこですか」というので、よく聞いてみると、嵐山の渡月橋のことだった。
ここは鴨川だよ。渡月橋は嵐山で桂川(笑)。
 なぜか場外馬券売り場のあるギオンを通って建仁寺についたら、もう四時半になっていた。五時に閉門なので三十分で俵屋宗達の「風神雷神」、本堂の天井の小泉惇の双龍、北野茶会の副席を駆け足でみる。ああ、拝観料がもったいない。

 「茶の飲用を庶民にまで広めた千利休は栄西を茶祖と仰いでいます。栄西は臨済宗の宗祖で、二回、宋にわたって禅を日本に導入しました。禅って一言でいえば瞑想です。中国の禅寺では、この座禅中眠気を防ぐために覚醒作用のある茶が飲用されていましたが、その習慣を栄西は禅寺の規則(清規)とともに日本に持ち帰ったのです。
 そして、茶の飲用を茶室、茶器、掛け物、振る舞いなどが一体となった総合芸術にまで高めたのは日本人です。」
建仁寺双劉
 
 そして、境内の茶碑と平成の茶苑で記念撮影。この時点で五時をとおにすぎ、すべての寺は拝観時間が終わっていた。そこでレンタカー屋に車を借りにいくことにする。ゼミ長がみつけた底値のレンタカー屋は羅城門をでた京都の外の十条にあり返すのもここまでこなければいけない。
 再び駅近くに戻り、有機京野菜のバイキングに夕食に入る。食べ放題・時間無制限であったため、学生はひたすら食べ続けた。明らかにこの子たちはもとをとりすぎている。来年この店はなくなっているかもしれない。

 レストランをでた後、紅葉のライトアップに行こうという話になり、折しも満月だったのでO君にモノホンの渡月橋を見せて、二度と世迷い言を言わせないという私の強い意志で、嵐山に向かう。
 ところが、ついてみると渡月橋は闇の中に沈んでおり、微塵もライトアップされていない。しかし、観光客がまったくいないので、河の音が耳に響き、嵐山から流れてくる気持ちのよい気を楽しむことができた。久しぶりにどす黒い心が洗われた(笑)。
ライトアップ嵐山
これを期待していったら・・・・
嵐山
こうだった(笑)。

 夜、私が学問的なクイズをだし、それをあてた人がブリの刺身を食べることができるという、わけのわからんゲームが始まった。ブリがかかっているせいか正答率が高く、彼らが人の話を聞いていないようで聞いていることに驚く。あまりにうるさくしたので宿の人に叱られて、二時近くに就寝する。

11月9日 

 朝八時起床。九時に出発。昨日いくはずだった六角堂に向かう。ここはかつて聖徳太子が物部守屋との戦の際に必勝祈願をした観音菩薩が祀られている。この池の畔には小野妹子の坊があったとされ、仏様に花を毎日供養していたことから、ここがいけばな=華道発祥の地とされる。池坊の「池」とはこの六角堂の池を指すのである。
 現在六角堂の北には池坊関連の高層建築がどばーんとたち、池はビルの一部でプールのようなコンクリート構造物になっている。どうみても自然の水ではない。聖徳太子ゆかりの古蹟がこんなになってていいのかい。

 この六角堂は親鸞聖人のエピソードでも名高い。彼が比叡山をおりて妻帯するか否か迷っていた際、この堂に参籠して聖徳太子様の夢のお告げを得て妻帯を決意したのである。チベットや東南アジアや中国・韓国の仏教界では僧侶は独身をまもり、妻帯は破戒とみなされる(もちろん妻帯が可能な宗派も中にはあるけど少数)。日本仏教はまず親鸞聖人が僧侶として初めて妻帯を公言し、以後明治の廃仏毀釈でお寺を維持するために妻帯が加速し、現在に至っている。仏教オタの私にとって京都は話題に事欠かない町である。

 六角堂での参拝をおえた後、下鴨神社に向かう。この日は天気は悪く小雨が降り続いていた。下鴨神社にきた目的は建築物としての神社がたつまえの原始的な聖地のあり方を知るためである。

 後からくる車を待っていると、学生がスマホをいじりだす。ケータイは別行動しているグループとすぐに連絡がとれ、GPSで自分たちがいる場所もすぐにわかるので、グループ行動するには必需品。人と人との間を近づけているが、隣にいる人が別の時空につながっているという意味では距離をとっているとも言える。

O君「えーっ。今ラインで友達が自殺したかもって流れきた。先生この記事しっていますか?」

見るとTBSでパワハラがあって新入社員が死んだという記事。

私「これ死んだ社員の名前書いていないじゃない。」

Oくん「いやでもみんなコイツと連絡とれていないって」

で、しばらくたつと、「今本人と電話しています。大丈夫です」
てな感じで、そこにいる子がまったく実の時系列につながっている。ちょっと寂しい。
しかし、
A君「おおおお、これ家族ラインなんですけど、羽生君がリハで中国選手とぶつかって流血したそうです!!!」
「羽生くん、出場したそうですよ!!」とか、実況してくれると、つまり、内容をシェアしてくれると、互いの孤立感が弱まるかんじ。

 下鴨神社は「糾の森」という原生林に囲まれており、そこにはカラスの縄手という古代の道が復元されている。「烏の縄手」の「カラス」とはもちろん下鴨神社の祭神の三本足のカラスをさし、「縄手」とはその烏を参拝する聖地につながる「縄のように細い道」を意味する。今、烏の縄手をたどると発掘によって復元された古代の祭祀跡につく。白い玉石がしきつめられており、説明書きによると、水に関する祭祀が行われていたという。

「沖縄の御嶽(ウタキ)を見たことある人? 伝統的なウタキもこういう露天の、ただ白い石をしきつめた聖地空間ですよね。聖地自体は神道よりも仏教よりも古くからあり、外から新しい思想や文化がはいってくるたびに、聖地の上に祠がたったり、神社建築がたったりして新しい解釈が加わっていったのです」

 「聖地」についての私の高尚な演説をよそに、学生たちは下鴨神社の七不思議の一つ「連理の賢木」の恋占いとか、お汁粉や団子をたべてはしゃいでいる。

 トータルにみて、とにかく買い食い、食事、トイレに時間がかかる。彼らは美味しいものとみればとりあえず買い食いし、コンビニをみればとりあえずトイレと脱線するため、遅々として前に進まない。昼過ぎたこの時点でやっと初日の予定をクリア。予定では今日は一日琵琶湖を一周して観音のお寺をまわるはずだったのだが、それを決行すると間違いなくレンタカーの返却時間に間に合わない。

 そこで、とりあえず琵琶湖畔に車をとめて歩いていける範囲内で昼ご飯を食べる場所を探す。結局ステーキ・ハンバーグの普通のファミレスに入ると、そこはごはんとサラダバーが食べ放題で、そのごはんにはカレーもついているので、男子は肉がくる前に何皿もカレーを食べて、肉がきたらば「もう入らない」と。当たり前だ!

 あまつさえ、「センセー、ワッフルと綿菓子を自分で作って食べられるコーナーがあるんですよ」とワッフルとか焼きだして、綿菓子とかまきだして、結局その店で二時間以上、ひたすら炭水化物と油物とあまものを食べるのにつきあわされる。これ、わざわざ関西まできてやる意味があるだろうか。

 それから残された時間で行けるところについて協議(笑)。
K君が「去年は高野山いったから今年は比叡山に行きましょうよ」というので、私は「こんな短い時間で昇って降りても拝観料がもったいないんじゃないの?」と思いつつも、学生が行きたいいうならつきあうかと比叡山に登ることとする。

 しかし、これがまた微妙な判断だった。この日は雨が降ったりやんだりの生憎の天気で、高度があがるにつれ濃霧が立ちこめて、しまいには一寸先が見えなくなった
 まずい。
 事故とか起きたら大変なことになる。一応車もゼミ旅行自体も保険に入っているが、事故起こした学生に障害か何か残ったらお金の問題ではなくなる。何よりコワイのは対向車線に山内を走る大型バスが突然現れること。彼らの運転歴はまだ2年か3年なことを考えると、心底怖い。

 平地ではまだうっすら色づいていた紅葉が、高度があがると色濃くなっていくが、濃霧で近くのものしかみえない。琵琶湖が見渡せるはずの空間にもミルク色の濃霧が立ちこめている。昨日のライトアップなしの渡月橋につづき、印象に残る見えない紅葉狩りである。
 でも晴天の紅葉狩りより、こういう方が後々きっと思い出になる。

 山頂につくと少し霧が晴れ、若干紅葉が見えるようになった。そこで、天台宗の簡単な歴史と、織田信長の比叡山焼き討ち、天海上人による再興、江戸時代に皇族出身の輪王寺宮と呼ばれた天台座主が、日光、上野の寛永寺、この比叡山の三つの山をすべていたことを話す。

「じつは今あなたたちが目の前で見ている、この比叡の山の上にある、根本中堂、文殊樓、弁慶のにない堂などの建物は全部同じものが上野の寛永寺にもありました。嘘だと思ったら江戸名所図絵をみてください。輪王寺宮は皇室と幕府のツナギのようなポストだったから、戊申戦争の時、当時の輪王寺宮は官軍と幕府軍の間にたって調停したんだけど及びまんでした。上野はそういう理由で幕府軍が立てこもっていたから、やけちゃって今は見る影もなくなっているのです。今はその跡地に国立博物館とか美術館がたっています」。

 それにしても比叡山のぼったくりはひどい。東塔しか参拝できる時間しかないのに、全山拝観チケットしかおいてないし、普通車であの低い山をのぼっておりただけで1600円なにがしかの通行料を取られた。ただ、境内に入るだけ、道を通るだけで一律にお金を徴収するのだ。一応仏教の本山なのだから、巡礼とか信仰をもって入る人を前提とし、つまり、信仰の中心地には入場料なしで入れるスペースをつくり、お金をとるのは国宝とか建物内部とか、お庭とかを特別にみたい人のみにするべきだろう。比叡山の今の商売の仕方は信仰をもって山にくる人がいないことを自ら認めているようなものだ。

 それから、将門岩をみて、黒い気持ちになろうと思ったら、比叡山ガーデンミュージアムの中にあるとかで、そのミュージアムの入場料を払わなければみられないと。信仰の山になんで印象派の絵画をみせる美術館が必要か? こう思うと、前日訪れた西本願寺はまだ良心的だった。西本願寺の本堂は国宝であるが、誰もが無料でその建物内に入れてご本尊の前で称名念仏できる。

 まあでも、学生たちは「比叡山にのぼったー」とわけわかんない高揚感に包まれていたし、そして、とりあえず事故もなく山が下りられたので、まあよしとする。うちのゼミ旅行の成否の分かれ目は、死人・けが人を出さないことなので(ハードル低っ)、無事に帰れた時点で成功なのだ。
 
 楽しかったけどめちゃめちゃ疲れた二日間であった。
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DATE: 2014/11/17(月)   CATEGORY: 未分類
京都ゼミ旅行 (1)龍谷ミュージアム 
 十一月の週末に一泊二日でゼミで京都を旅行した。京都駅に10時集合して、まずは龍谷ミュージアムの特別展「二楽荘と大谷探検隊」に向かう。
 このミュージアムは2011年に開業したばかりで、仏教伝播の歴史を通観する世界唯一の博物館である。今年は大谷探検隊の調査活動の終結から百周年ということもあり、四月~六月の特別展は「もう一つの大谷探検隊」という題名で大谷光瑞の命令でチベットに入った青木文教や多田等観について焦点をあてるなど、大谷探検隊を特集している。なので、今年中に一度訪問してみたかったのである。
 ミュージアムにつくと、館長の入澤崇先生自らが出迎えてくださり、館内を親しくご案内してくださった。

 館長先生「100年前探検に旅だった隊員たちは、ちょうどあなたたちと同じくらいの年の若者たちでした。特別展の入り口に当時彼らが使っていたトランクがあります。それをみて当時の若者たちの志を感じてください」

 トランクは箱形なので、カートになれた学生たちは 「これどうやって運んだんですか」

「昔は舟や汽車をおりたら、クーリーがおしよせてきてみなもってくれたのよ」

館長先生「写真にもあるように荷駄にくくりつけたんですよ。背景の写真ですが、これが第一次大谷探検隊(1902)のパミール高原越えの記念写真です。帽子をかぶっている3人が日本人の隊員です。」

「大谷光瑞はどれですか」

学生「先生がイケメンっていっていた人ですね」(そこまで言うな)

館長先生「この写真には写っていません。どうしてだと思います? おそらくはシャッターを押しているのが光瑞さんなんですよ」

一同「へえええ」

館長先生「第一次大谷探検隊は中央アジアからインドの仏蹟調査に向かいます。その時中心になったのは藤井宣正です。彼は詳細な記録を残したのですが1903年に帰国途中のマルセイユでなくなりました。その旅の記録は散逸して、彼の事績も埋もれていたのですが、それを再発見したのが島崎藤村の研究者グループです。島崎藤村はこの翌年、飯山の真宗寺で見た藤井宣正の絵はがきから『椰子の葉陰』を書き上たのです。」
「当時、英国人により、釈尊の生誕地がルンビニーであると判明したばかりで、その時大谷探検隊がとったアショーカ王柱の写真がこれです。これに触発されて森鴎外が1906年に『阿育王(アショーカ王)事蹟』を書いて、アショーカ王の碑文や詔勅などを訳出しました。」

 1906年といえば、丁度、森鴎外がイタ・セクスアリスとか書いて文壇で脚光を浴びだした頃。大谷探検隊の事績は当時の日本人の釈尊や仏教史のイメージをぬりかえる事業でもあったのだ。学生たちは島崎藤村、森鴎外といった明治の文豪たちの名前を聞いて感心しまくっている。

 橘瑞超と野村栄三郎による第二次大谷探検隊(1908-)はモンゴルと中央アジアに向かった。野村はトルファンのベゼクリク石窟(6世紀)を訪問した。このベゼクリクの石窟はミュージアムの常設展示として原寸大で復元されている。
館長先生
「当時、ベゼクリク石窟は、荒れ果てていて、土地の人は壁画に描かれた人が夜な夜な抜け出て人を襲うと恐れて、壁画を壊していました。そこで各国探検隊は壊されるよりはと切り取って持ち去った結果、現在ここには当時の壁画は残っていません。エルミタージュ美術館、インドの博物館などに細切れに保存されている壁画を、龍谷大学の理工学部の協力でコンピューター上でつなぎあわせて、この復元回廊をつくりました。
 ホンモノの回廊はコの字形なのですが、スペースがなくて鍵型になっています」

 「素晴らしいですね。ウチの大学はどこぞのOBが東京オリンピックまでに学内にスポーツ博物館をつくるとかいっていて、もう文化のかおりなんて微塵もありません。」

 それから館長先生は大谷光瑞の別荘二楽荘の展示を案内してくださる。二楽荘は六甲山中にある大谷光瑞の豪華別荘で、この敷地内で果樹園、学校、印刷所を経営していた。マイケル・ジャクソンのネバーランドなみに専用ケーブルカーがついている。斬新なお金の使い方である。

 「あ、チュータだ!」(※伊藤忠太)
 館長先生「雲南に向かった大谷探検隊は、伊東忠太とばったり出会い、そこから大谷光瑞と伊藤忠太の関係が始まります。」
 「あなたたち、築地本願寺みたことあるでしょ?あのインドの石窟寺院のようなデザインは忠太のものなの。二楽荘も、平安神宮も、このミュージアムでてすぐの伝道院も忠太の作品なの。彼は石とコンクリートとガラスで、西洋建築でも日本建築でもない、東洋建築を追求したのよ。だから、もうこの二楽荘もタージマハルがはいっているし、伝道院はサラセン様式でしょう?」

館長先生「伊藤忠太のフィールドノートも展示されていますよ。この雲南での大谷探検隊と伊東忠太の写真は初公開です。」

 こんな感じで館長先生自らが案内してくださったおかげで学生たちも真面目に耳を傾けてくれ、なんと自ら「映像もみたい」とかいいだしたので、シアターで10分に編集された大谷探検隊の映像をみる。開演をまつ間、館長先生のツイッターのアカウントをみなに教えると、みなスマホでチェックしだし

学生「館長先生は信念をもって仕事をしているって感じでかっこいいですよね。先生、昨日のツイートで『エネルギーが枯渇』とかつぶやいてますよ。その翌日僕たちにつきあわせてよかったんですか」

 実は、館長先生はそのあとすぐに講演を控えていらっしゃったのだ。それなのに、私たち一行のために貴重な時間を割いてくださった。お人柄である。

 映画が終わって、暗幕が自動であがると、目の前のパノラマ窓には西本願寺が借景になって現れ(階上からなので間にある道路が見えない)、非常に美しい。

 というわけで、みなさん龍谷ミュージアムはおすすめです。目の前の、西本願寺のお参り、伝道院、龍谷大学本宮キャンパスの明治時代にたてられた本館など周辺には見所も満載です。

  その夜、ライトアップしているかと思っていった嵐山の渡月橋は闇に沈んでいた(笑)。
そこで、とりあえずきたので橋を渡っていると、学生の一人が館長先生のアカウントをチェックし、

 学生「お、龍谷ミュージアムの館長さんが、「爽やかな学生さん」って僕たちのことほめてますよ!」

  実はミュージアムに入る前、一瞬不安がよぎり、「みんな早稲田大学の学生っていうのはね、一般的には優秀だと思われているの。くれぐれもそのイメージを壊さないように、可愛くふるまってね」と言っておいたのが、功を奏したか、あるいは本当に良い子なのかもしれない。

 よくやった、みんな !
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