白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/01/31(火)   CATEGORY: 未分類
笛ふけど踊らず
日テレのドラマコンプレックスで戦国自衛隊を見る。

 今回の戦国自衛隊は天下分け目の関ヶ原の戦い直前の戦国時代にタイムスリップする。
反町演じる伊庭は自衛隊としてのスジを通して(笑)、現地の紛争への不介入を徹するが、渡部篤郎演じる島村はこの時代に生きていくためには戦に積極的に介入しようと主張する。
 自衛隊がカンボジアとかに海外派遣されると現地の女性とハートフルな関係(笑)を創ることはよく知られているが、400年前の戦国自衛隊の諸君も、村娘と仲良くなったりして、現代にもどれなくても何とかなりそうな雰囲気をそうそうに漂わす(笑)。
 しかし、いざ戦闘となると仲間をまもるためにアタマに血が上っちゃって、現代兵器でばんばん戦国の人ころしまくっちゃい、子供まで誤爆しちゃう(まあ、イラクのアメリカ軍みたい)。そいでそのあと、反町も渡部もかわりなく自らが人を殺してしまったことに戦慄し、傷つく。

 そう、戦とは、所詮人殺し。汚いものなのよ。

 というわけで、現在の日本における自衛隊の微妙な位置ともあいまって、非常にシリアスな問い掛けをしてくるドラマであるのだが、反町が白石美帆演じるおしのと出会うシーンでは爆笑した。

 脅えるおしのに向かって、反町思いきりナイスガイに

「あやしいものではありません」

自衛隊服きて、バイクのって戦国時代に現れて、思いきり、あやしいがな。

 て、これ仏教ブログだったんじゃないか?

  何やってんだ、わたし。何で戦国自衛隊の評とか書いてるわけ?

 だって、仏教青年会の会合は開かれる兆しすらないんだもん。
 なんか「試験期間だから集まれない」とか、「暮れから人がたくさん死ぬので法事が忙しい」とかいろんな理由を聞いたようなきがするが、
私の予感では、試験期間が終わると彼らは実家にかえっちゃうような気がするな。

今、テレビの中では、開き直って歴史に名前をのこそうと檄を飛ばす渡部にむかって隊員たちは

「島村隊長についていきます」とか忠誠を誓っているが、

こっちは笛吹けど踊らず。
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DATE: 2006/01/29(日)   CATEGORY: 未分類
黒太郎一家の10年
午後のテレビでナベヅルをテーマにした感動のドキュメンタリーを見た。

「黒太郎一家の10年」(FNSドキュメンタリー大賞)である。涙ちょちょぎれました。

感動した私の話は長いが、ご損はさせません。最後まで読んでね。

かつて幕府はツルの捕獲を禁じていたため、ナベヅルは日本全国に飛来地した。しかし、明治維新以後、効率一辺倒の社会はツルを乱獲したあげく、ツルは激減し、いまや本土の飛来地は山口県の八代村一箇所になった。

なぜ、八代村だけにツルが飛来し続けているのだろうか。それは、明治20年代にさかのぼる。当時、この地域の領主がツルをとろうとしたところ、住民がそれに反対して、その対立を聞きつけた県知事が、ツルの捕獲を禁止する条例を出していたからである(なんとこれは日本初の自然保護条例らしい)。

そのような自然に対する意識の高い村であるため、「ツルの住めないようなところには、人も住めない」、と現在も村を挙げてツルをあたたかく見守っている。

ツルが飛来する冬の間は、ツルの食事場である棚田に人の出入りを禁止する。そして、監視小屋には必ず誰かががつめて毎日ツルたちの無事を一羽一羽確認する。近くの八代小学校の子供達も学校が終わるとこの監視小屋にきてツル日誌をかきつぐ。3月にはいってツルがシベリアに帰る時分になると、村中はかたずをのんでその出発の日を待つ。やがて、彼らはシベリアにむけて飛び立つ。その時、ツルたちは上昇気流にのるために輪を描きながら、しだいに高度をあげていく。それが村人に別れをつげているように見えるので、村中は歓声をあげてツルたちを見送る。感動的なシーンである。

 で、黒太郎というのは、このツルたちのボス。編隊を組んでシベリアに帰る時、先頭に立つリーダー鳥である。物語の主人公はこの一羽の雄のナベヅルである。

 ある年彼は妻と二羽の雛とともに八代村に舞い降りた。そしてあけてシベリアに向けてテイクオフの日、19羽のツルたちが飛び立った後も、黒太郎一家はとびたたなかった。上昇気流が弱く、飛行テクニックのあまい、彼の子供が上れないことがわかっていたからである。村人たちは残った四羽の黒太郎一家を心配そうに見守った。

 するとである。子供たち(人間の方)が歓声をあげた。

 彼らが指さす空の彼方を見ると、そこには先にとびたった19羽の姿があった。黒太郎一家を心配して、もどってきたのである(一度出発した群れが戻ることは普通ない)。翌日、黒太郎一家四羽を含めて総勢23羽になった群れは今度はいっせいにシベリアにむけてとびたった。
 またある年、黒太郎は一人で戻ってきた。そして数日遅れることして、彼の妻も舞い降りたが、様子がおかしい。妻は足を怪我していたのである。八代の村人は心配するが、足を引きずりながらも黒太郎の妻は必死で生き、二羽の雛とともに冬越しに成功する。そして、よく3月、群れはその黒太郎の妻にペースをあわせて彼女を先頭にしてシベリヤに旅立っていった。

 すばらしい。

 村人たち(+観光客)はこのようなエピソードごとににウルウル感動。ツルと毎日をともにしている八代の小学生たちは、とくに、ツルのこのような姿から「仲間を見捨てない。弱者のペースにあわせる」このような倫理観を自然と身につけていくことだろう。

 そして、まだまだ泣かせてくれます。
 黒太郎は半年後、再び八代にもどってきたが、足の悪い妻ツルの容態は悪化しており、しかもその冬は雪の多い極寒の日がつづく。座り込んで吹雪にたえる妻のそばで、黒太郎は心配そうにたちつくす。そしてよく3月、シベリアへの帰還が近づいたある日、妻は忽然と姿を消す。長い帰還旅行に耐えられないことを自覚した妻は、群れのお荷物にならないように自分から姿を消したのだ。

 黒太郎が悲しい声で妻を捜し続ける姿には、見る人誰もが涙ぐんだ。群れがシベリアにとびたっても、黒太郎と二羽の雛は妻であり母であるそのツルをさがして三羽で八代の森を探してまわる。何日もそれを繰り返した後、観測史上もっとも遅くに黒太郎はシベリアに飛び立った。
 泣けるではないか。
 これを見て育った八代小の小学生が、長じて後、配偶者を殴ったり、子供を虐待するようなド外道に育つことはまずないだろう。
 八代の村人たちは、ツルを保護しているのではなく、ツルに逆に支えられているのである。
これはまるでリチャードギアの名言「わたしがチベットを救おうとするとき、われわれが救っているのは人類が敵・味方なくむつみあう可能性を救っているのです」といった言葉に通じる。

 これいっちゃおしまいだけど、私は先生と言われる身分だが、ぜんぜん子供たちのお手本たりうるような人格者ではない。おそらく親とか言われている人も、こういうご時世なので、子供の手本となるような立派な生き方をしている人は少ないだろう。
 親であれ、教師であれ、僧侶であれ、本来人格者でなければならず、また、権威あるべきものたが、みな「らしく」なくなっている今、人間界に子供の倫理性を育てることのできる手本はもはやほとんど存在しない。

 で、こんな大人がいくら口で「弱者を大切に」「いじめはいけません」とか言っても、言ってる当人が喧嘩したり、毒づいたり、てかがみもって女子高生のスカートの中のぞいていたりしては、その言葉は誰の心も動かさないどころか、逆に反感を買うだけである。

 こう考えてみると、へたな倫理教育やるよりも、日本全国の小学校で野生のツルを餌付けした方がよほどましだということが分かる。
 ツルの生き方を目の当たりにすることによって、生きることの厳しさ、その中での家族愛などを学ぶのである。自然界の子別れの儀式とかを見てそだったら、はたち越えても親元でひきこもるような子供も、それを認めるような親も存在しなくなるだろう。ナベヅルを誘致するために、環境に気を遣うようになるから、環境政策にも利す。

 ダブルにオトクである。誰か、文部省に提言してくれ。 

 余談であるが、この黒太郎のドキュメンタリーとったディレクターに対して、ノンフィクション作家の吉岡忍が「ドキュメンタリーは社会性があると評価が高いから、ツルを背景において、村人の生活に焦点をあてた作りもできたのではないか」ととうた。

 すると、このディレクター、十年の間、もちろん、ツルと共生する村人の映像もずいぶんとった。しかし、作品をつくるためにはそのほとんどを削って、黒太郎一家に話の筋を絞ったといういう。

 削ることを知る監督だったから、良品をつくれ.るのだ。キング・コングの監督に是非、見習ってもらいたいものである(昨日の記事参照)。
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DATE: 2006/01/28(土)   CATEGORY: 未分類
フタの閉まらない松花堂弁当は美味か
 三コマの教場試験をおえ、学生たちの血と汗と涙のつまった答案用紙400人を背負い、キング・コングをみにいった(どういう文脈や)。

 われわれ夫婦は、とにかくあらゆるジャンルの映画を見てきた。でも、夫婦二人で共通して楽しめるのは、良質の社会派の映画くらいで、二人の好みはじつは対極。

 ダンナはヨーロッパの芸術性の高い恋愛映画が好き(と、ここまで書いたところで、ダンナから良質の恋愛映画であれば、アメリカンも許すとの一声が。長々とアメリカの恋愛映画について語りだしたので、放置)。しかるに、わたしは、恋愛ものは全然ダメ。男女が秘められた思いを胸にウジウジしているのを、わざわざ大きなスクリーンで1800円という大枚はたいて見る理由がみつからない。

 一方、わたくしはパニックもの(無意味に巨大なイカとかタコとかヘビとかが襲ってくる古典的なヤツから、最近のエイリアン、災害ものまで幅広く)がすき。
 何といっても、大きなスクリーンでみがいがあるし、CGの制作費がかかっただろうから、入場料を払うのにも抵抗はない(せこい)。
 
 で、キング・コングである(何が、で、なんだ)。

 この映画には一見すると、われわれ夫婦のツボをおさえる要素がてんこ盛りではないか。

 まず、巨大なゴリラがでてきて暴れ回るといえば、おお、パニック映画ではないか。さらに、この映画の本筋は、心優しき金髪美女とゴリラの恋物語にある。種の相違に目をつぶれば、一応、恋愛映画である(笑)。

 しかも、二人が共通して好む社会派の要素もある。大恐慌の荒んだ世相を背景に、文明と野蛮が出会うことによって、両者が不幸になるという、文明の野蛮さを告発するストーリーは、わたし好みでもある。

つまり、この映画は完璧なはずであった。われわれ二人にとって。

 でだ。たしかに、上の三つは、申し分ない映像化がなされてました。俳優もいい味だしてたし、お金もかかってました。でもね、一言言わせてもらうとね。

 ながい。長すぎるんだよ。三時間越えるんだよ。

 なんで長くなるかといえば、本筋と関係ない要素が多すぎるから。

物語の狂言回したる映画監督カールにまつわる部分は「エド・ウッド」風、
リングの主演女優と戦場のピアニストの主演男優の船上での恋物語は「タイタニック」風、
座礁シーンは「十五少年漂流記」風、
野蛮で奇怪な先住民との戦いは「インディ・ジョーンズ」風、
恐竜大決闘シーンは「ジュラシック・パーク」風、
ショー・タイムの描写は「コットン・クラブ」風、
探せばもっとでてくるさながら映画の歴史のてんこもり。

 一作にありとあらゆるものをつめこみすぎて、松花堂弁当のフタがしまりません。一つ一つが美味しい料理でも、ここまでくると胸がやけます。
 化粧があつすぎると、どんなに美しい女性でも、屋根の上の魔よけに近くなっていくように、昨日のキングコングはある意味すごかったです。

はっきりいいます。キング・コングはゴリラと金髪美女が心を通わしてくれれば、あとは何もいらないんです。それ以外のものはそれ以外の映画でみればいいんです。

商品を多機能にして商品の売り上げをのばそうとする試みが往々にしてうまくいかず、いろいな無駄な機能を切りすてシンプルでスタイリッシュにした方が、売れるということは、巷でよくある話。

つけたすことは誰でも思いつけども、不必要なモノをきって完成形に近づけることは案外難しい。

かけだしの学者さんの論文ほど、知っていることをすべててんこもりにして論旨が不明となるものが多い。

わたしがかけだしの学者さんだったころ、ダンナが「論文は、問題提起、自分の主張を裏付ける三つの論拠(なぜ根拠が三つなのかそれについては有効な説明はなされなかった)、結論、この三つがそろっていればいい。文飾は必要ない。」とはよく言ったものだ。

ある意味真理だと思う。真理は得てしてシンプルなのである。
力学上むだがない橋は姿も美しい。
アタマのいいプログラマーほどシンプルなプログラムをかく。

シンプル イズ ビューティフル。
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DATE: 2006/01/24(火)   CATEGORY: 未分類
盛者必衰の理を示す
あのホリエモンが塀の中へ。

 ライブドア主宰の学園祭的祝祭期間は終わり、祭りのあとの倦怠感が世を支配している。

 チベット仏教徒としては、ウキヨの諸行無常、盛者必衰の理を目の当たりにして、感慨深いものがある。

 かつて、学生の一人が在学中に株をやって結構な収益をあげていた。そして、ご多分にもれず堀江社長を尊敬していた(ちなみに、私のことはなめきっていた)。わたしは、それとなく「あぶく銭はまともに働く意欲をそぐ。あぶく銭とひきかえになくすものの方が大きい」と言い続けたが、権威のない教師ゆえ、聞き入れられることはなかった。

 報道でみるに、ホリエモンは「金で人の心は買える」とか「女は金についてくる」みたいな発言をしていたらしい。

 すべての人間がお金で動くわけではないから、これが真理であるわけはなく、ただ、彼の周りには お金で心を売るような人、お金で動くような女しかいなかった、ということであろう。

 そのような生き方をしているから、そのような生き方をする人しか群がってこない。悲しい話である。

 わたしはホリエモンを応援した人々すべてを批判するものではない。体質改善をする能力も意志も失った既存の腐った体制が、ホリエモンの登場によってある程度の危機感をもったこと、世の閉塞感に風穴をあけたことも事実だからである。

 しかし、応援する側がいかに夢を託そうとも、虚業で財をなした人間に実業の世界を変革する能力はなかった。

去年暮れのライブドアの忘年会の映像でホリエモン、

「世界ナンバーワンの会社をめざすぞ」と連呼していた。

わたしは彼に限らず、「一流」とか「ナンバーワン」とか、「上」をめざすとか口にする人には、かねてからうさんくさいものを感じてきた。

 評価というものはそれぞれのジャンルで信用なり実績なりを積み重ねてはじめて、まわりによって後から捧げられるものであって、自分から口にするものではない。あさましい。

 また、ナンバーワンの内容を、数字という「形」のみに矮小化していることにも精神の貧困を感じる。

 しかし、ホリエモンは今すべてを失った。物質の過剰によって忘れ去られていた精神の貧困に彼は気づくだろうか。
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DATE: 2006/01/23(月)   CATEGORY: 未分類
博士の頭の中の消しゴム
このタイトルはむろん記憶喪失大ヒット映画『わたしの頭の中の消しゴム』と『博士の愛した数式』の本歌取り。「博士」とはむろん私のことであーる。

話は今朝にさかのぼる。

「ぴよ! ぴよ!」(訳 今朝はインゲンの差入れがないぞ、早く表に出せ! )というごろうちゃんの朝鳴きにどつかれるように、わたくしはベッドから起きあがった。

 そして、今やっている研究関係の書類をベッドと壁の間からひきあげて、ごろうちゃんの部屋に向かった(寝る前に読んでいた本や書類は、朝方になるとだいたいここに落ち込んでいる)。

ごろうちゃんをだして、朝ごはんを一緒に食べて、メール・チェックをしてのち、さあ、お仕事と、パソコンの前にすわる。
具体的には先ほどベッドのすきまからもってきた書類に入れた訂正をパソコンにうちこもうとした。すると、あの二階からもってきた書類がない。あたりを探し回るも、やはりない。

この捜索過程において、自然と床の上にある書類を片付ける形になった。そうなると目的物ではないものの、同じようにかつて紛失したと思っていた数々の書類がみつかる。また、途中までチェックして、チェック時点にボールペンをはさんだまま、チェックのとまったチベット語史料が複数発見される。

「あーこのボールペン探していたんだ。チェックの続きもやらなきゃなあ」などと詠嘆しつつも、捜索はつづく。

みつからない。ごろうちゃんをカゴから出した時にカゴの周辺においたのかとなんども小鳥部屋も見るが、やはりない。

ついに、ダンナが出かけるとき自分の書類とまちがってもっていたに違いない、と思って諦めようと思った矢先(ちなみにここまでで三時間経過)、ふと

「人を疑う前に自分を疑え」という万古の真理とともに
「まさかあそこでは」という思いがよぎる。

「まさかね~、たしかに手にとって階下までもってきたもんね」と自分に言い訳をしつつも、体は二階へ自然とむかう。

で、ありましたよ、書類。

ベッドと壁の間に。

こりゃ、単なる物忘れとか認知症より、はるかに始末がわるい。アイデンティティの崩壊だよ。してもいないことをしてると思いこんでるのだから。これが悪事の記憶だったら、サイコパスだよ。

動揺をしずめるため、書類を手にとりパソコンの前につく。

そうだ、さっき久しぶりにみつかったボールペンでもメモに使うか、と見回すが、ない。短い再会であった。彼女(ボールペンに性別をつけてみました)はふたたび無明の闇に消えていったのである。

わがやのなくしものはこうして、カオスの中から「かつ消えかつ浮かびて、久しくとどまりたるためしなし」。

最後は『方丈記』でまとめてみました。
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DATE: 2006/01/21(土)   CATEGORY: 未分類
少子化に拍車をかける白い恋人たち
東京にしては珍しくつもるほどの雪がふった。
我が家の近くには古墳公園がある。

この公園は日本野鳥の会のバードウォッチングが行われるほどの、緑豊かな美しい公園である。

雪に覆われた今日は、さらに美しいの一語につきる。

ダンナと二人で公園を歩きながら、デジカメで写真をとる。
遠目には「白い恋人たち」であるが、
近寄ってその会話を聞くと、およそ色気がない。

わたしがすべって雪に手をついた。
ダンナ「何してるの?」
わたし「何って、すべったのよ。このあと見てよ?」というと
ダンナ「ベスト・アングルをねらってかがんだのかと思った」
わたし「雪がなかったらデジカメ壊れていたよ。あー手首ひねった」というと
ダンナ「えっ?デジカメ? 」とデジカメを手にとって、いとおしそうになでる。
わたし「それにしても誰もいないねえ」

そう、こんなに綺麗なのに、公園にはほとんど人がいないのである。
たま?に、いても、だいたいお父さんにつれられた女の子一人という組み合わせで、子供社会はいっこうに見あたらない。

私が小学生の頃は雪が降った日の放課後は、この公園にいちはやく乗り込んで、ともだちと、雪合戦をしたり、雪だるま創ったり、おしくらまんじゅうをしたりした。誰も踏んでいない雪を最初に踏みたいがために、授業が終わると、公園まで走ったものである。

なのに、今日。土曜日の午後だというのに、公園内の広大なグランドは無人である。
いくつかの雪だるまが、かつてはこの広場に誰かがいたことを示唆しているが、今は無人なので、かえって索漠とした雰囲気を演出している。

ここにきて少子化を実感。

これじゃー、大学は経営はなりたたくなり、いずれ大学間の淘汰、使えない先生の淘汰が始まることだろう。

「やーねー、困ったわねー」と思うが、

少子化の元凶となった世代の一員として何も言えないので、とりあえず、雪の上に寝転がって、「殺人現場」とか一発芸をやって景気をつける。
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DATE: 2006/01/20(金)   CATEGORY: 未分類
困った答案ベスト・ファイブ
本日をもって通常の授業が終わり、来週から試験期間に入る。学生も大変だろが、採点する方も大変である。

穴埋め式の問題にすれば採点はラクだが、授業にはでてこないくせに、友達からノートやレジュメをかき集めて、一晩で暗記してくるようなヤツほど、えてして、この手の問題をよくとく。そのため、穴埋め式で全評価をするのは危険。

授業を理解しているか否かが正確に出るのは、やはり記述解答である。
しかし、この記述解答の採点が、疲れるのだ。

以下、困った答案ベスト・5を揚げてみよう。

(1) 授業で話したことを全部並列表記して、解答用紙の裏にまでびっちし書いてくる解答。以下サビ ?これでは、授業内容を理解しているのか否かさっぱりわかんない。?

(2) 何いいたいのかさっぱりわからない悪文。これまた、?サビ?

(3) 論述しろといっているのに、一文しか書いてこない解答。?サビ?

(4) 授業の中であつかった議論には一切ふれず、自分の意見だけをとうとうと述べる解答。 ?サビ?

(5) 怪我をした、病気をした、就活をした、と一代記を書いて単位をこう文章(て、これは解答ですらない)。

理解する→短い文章にわかりやすくまとめることができる 
理解できていない→思考が腸捻転するので文書が長く・晦渋になる、

という真理に基づけば、
(1)(2)はバツつけて終わり、ちゃんちゃん、ということにとなろう。
しかし、「文章力がなくてまとめられない」という可能性も捨てきれないため、理解の片鱗を見落とさない努力が必要となる。

(3)はその短文の内容がたとえ正しくとも、もうなんといったって、×。長々と書くと自分の無知をさらけ出すので、短くして逃げている可能性が非常に高いからである。

(4)は(3)の逆パターンで、無知をさらけださないために饒舌になることによって煙幕をはっている可能性が高いため、これもバツ。

ところが、こういう学生に限って「僕のいってることは正しいのになぜ×なのか」とか言ってくるのである。しかし、そもそも試験の問題とは授業内容の理解をとうているので、アンケートではない。自分の意見を言いたいのなら、授業内容にからめた上で弁証法的にろんじりゃーいいのである。
ただ自分の意見をのべているだけというのは、問題の趣旨も理解すらできていないことの証。バツバツバツ(きれてます)。

最後の(5)は一番困ったパターンで、これに「先生の授業、少ししか出られなかったけど、とてもおもしろかったです」とか追記されると、ついつい手が○を描きそうになるが、それではいかん。

といいつつ、十年くらい昔、文学部での試験で、追いつめられた学生が、記述解答欄に、えんえんと自作落語を書いていて、それがあまりにもおかしかったため思わず通してしまったことを、ここに告白する(時効だよね 今は許さないよ)。
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DATE: 2006/01/01(日)   CATEGORY: 未分類
所信表明
 2006年の年明けにあたって、ぶろぐなるものをはじめてみることとした。

 わたくしは世間的にはチベット仏教世界の研究者であり、早稲田で歴史を教えていたりもするが、この研究にまさるとも劣らぬ情熱でとりくんでいるのが、オカメインコ教の布教、もとい、チベット仏教思想の普及活動である。

 何年か前、わたくしは早稲田大学仏教青年会というサークルが存在することを知った。仏教が現在日本社会で占めているしょぼい位置を見れば一目瞭然であろうが、このサークルは119年前に早大二大目総長小野梓、高市早苗などによって創始された時の勢いはさらになく、活動は低調を極め、部員同士の交流もなく、ひらたくいうと衰亡を極めていた。

 早稲田には四万人も学生がいるにも関わらず、仏教はすばらしい思想であるにもかかわらず、こんなに歴史があるサークルであるにもかかわらず、仏青 はなぜこんなにしょぼいのか。と、つねづね不思議に思っていた。

 もちろん、何とかできないかと思ったこともある。しかし、何か一つの組織をまわすには、責任者は他のすべての人に対してつねにエネルギーを注入し続けなけなければならず、それは誠に骨の折れる仕事である。人の上にたつのが大嫌いで、また、人並みはずれてテンションの低い私には、人に分け与えるエネルギーのあろうはずもなく、見て見ぬふりをしつつ三年がたった。

 そして、去年の四月私は出身学部である文学部において、久しぶりに授業をもつことになった。そこで私の授業をとった仏教青年会の部員に状況を聞くと、相変わらずだという。

 さすがに、見るに見かねて、この一年間、早稲田の校内でボウズ頭をみれぱ「仏青はいんない?」と勧誘しつづけたが、かりに新入部員が入ってくれても、活動が低調では開店休業は変わらない。やはりもっと抜本的な活動方針から考えなくては。でもめんどくさい。何か簡単にできる、部員同士の交流の場はできないものか。

 そこで思いついたのが、ぶろぐである。部員個々人のそれぞれの考え方や活動をしるためにそれぞれにぶろぐをつくってもらい、それを早稲田大学仏教青年会のサイトのトップページにまとめる。こうすることにより、互いをよくしることができ、それは現実世界でのシンパシーにもつながっていくことだろう。

 まずはできることからやっていこう。

 このぶろぐは早大仏青をなまあたたかい眼でウォッチングする場としたいと思う。仏青再生の過程の記録となればいいいが、どーにもこーにもならない一つのダメサークルの活動記録になる可能性も捨てきれない。

 今のところは、後者になりそうないやな予感。
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