一切を知るお方"ダライラマ"
今年はじめに南インドのアマラーバティでダライラマ猊下主宰のカーラチャクラの灌頂儀礼が挙行された。
例によって、世界中から20万人の人が、ハイデラバードから列車で四時間のこの小さな町に集結したらしい。
このカーラチャクラの灌頂に参加した尼僧の方と昨日の晩お会いした。
彼女によると、儀式の行われた地、アマラーバティは、中観思想の開祖にして密教者として知られるナーガールジュナ(中観のナーガールジュナと密教のナーガールジュナをチベット人は同一人物と考えている)の生地とされる場所である。
ダライラマ猊下はこのカーラチャクラを期にナーガールジュナの研究所をこの地にたてようとしているか、あるいはたったとかの話である。
余談であるが、アマラーバティの地元はこのカーラチャクラの経済効果でウハウハで、ダライラマ猊下バンザイだったそうである。
難民が受け入れ国の経済に貢献するのなんて、チベット難民だけだよ(笑)。
このカーラチャクラ灌頂の儀式次第は、最低でも一週間かかる。そして、儀式の合間合間に述べられるダライラマ猊下のお話は、カーラチャクラの解説から非常に一般的な教えに至るまで広範なものとなる。
その尼僧の方も、ちゃんとくだんの一週間参加していたところ、ある日一人のチベット人の男の子が
「家に帰るお金がないから、五ルピーちょうだい」
と、ねだってきたのだそう。
その方は、「子供にお金をみだりにあげるのはよくない」とは思いつつも「五ルピーくらいなら」と男の子に五ルピーあげた。すると、男の子は「へっ」とバカにしたような顔をしてさっていき、後味が悪かったという。
そして、儀式の終わりの日、ダライラマ法王はいろいろなお話をされて、その中に「外国人とみると、ドル札やルピー札だと思う人がいるが、それは、いかん」ようは、「外国人にたかっちゃいかん」みたいな話をした。
儀式がおわり二万人の聴衆が家路についた。この雑踏のなかで、尼僧は五ルピーの子供と鉢合わせた(その確率もすごいと思う)。
男の子は前とはうってかわった態度で、この尼僧に恭しく合掌したという。
尼僧の方は、「この男の子はきっともダライラマ法王の話をきいて、それが何万人もいる会衆の中で自分にむけて語られたものだと思ったのよ。チベット人はダライラマ法王はすべてを見通せる能力をもつと信じているから。」とおっしゃった。
さらに「われわれ外国人にとってダライラマ法王はとてもやさしい方に見えるけど、チベット人はどんな偉い方でもダライラマ法王の前にでるとすごく緊張するのよ」と教えてくれた。
確かに、文献中でダライラマを修飾する言葉でもっとも頻繁にみられるのは「一切を知るお方」(チベット語でタムチェーケンパ、サンスクリット語でサルヴァジニャだっけか)である。
私の知る限り、ダライラマ猊下は若い頃から現在に至るまで一貫して、非常に倫理的、普遍的、利他的な発言を繰り返し、またその発言を裏切らない行動をとってきた。
このような歩く倫理の手本みたいな人が「一切お見通し」ていて、あなたや私のあんなことやこんなことが全部ばれているとしたら、そりゃー怖いだろう。
だから、ダライラマを真の意味で愛している人々は悪いことをしないように心がける。
一方、日本においては、全知全能のキリスト教のような神様も、チベット仏教におけるダライラマみたいな聖者もいない。
それどころか、役人さんにしろ、社長さんにしろ、政治家さんにしろ、発言内容がすべて自分や自分の属する組織の利益の代弁で、まったく普遍性がないうえ、その発言すら状況によってころころ変わる。
とくりゃあ、日本人は怖いもの知らず。
だから、「ばれなきゃいーじゃん」的な犯罪が横行し、みなみな煩悩全開、恥じ多き人生をおくる。
最近とあるイギリスの方が(武士の情けで名を秘す)、「僕はダライラマなんて信用してない。あの人のいたころのチベットは宗教独裁でしょ? あれよりは共産党の独裁の方がましだ。聖職者や神様を倒して、近代はじまるんだ。近代化の妨げになる宗教は必要ない。」と議論をふっかけてきた。
私は人の考えを改めさせるとかいうのが大嫌いなので(というか、本人が気づかないうちはどうせ何いったって聞きゃーしないので)、放置した。
しかし、ホンネでは、このイギリス人をタイムマシンにつめこんで、ダライラマ政権下のチベットにおくりこみ、その後、文化大革命期の中国におくりこみ、比較体験学習させたいところだった。
彼は毛沢東語録のシュプレヒコールを聞きながら自分の不明を恥じることになるだろう。
つか、生きて戻れないな。
このイギリス人の、無条件に近代化を是とする論理の中には、近代化による、煩悩の開放、それに伴う倫理の崩壊などといったマイナス面はたぶん組み込まれていない。
もちろん、わたしは近代化を否定するものではなく、中世に戻るのはまっぴらである。私が言いたいのは、ただ、親でも、教師でも、お坊さんでも、誰でもいいから、いわゆる誰かにとって少しでも権威あると言われる人が、倫理的に生きること、そして、まわりの人々に「この人はなんでもお見通しだな」と思われることが大切だということだ。
そうすれば、その人たちの子供や生徒や信徒はまっとうに育っていく。
「ばれなきゃいーじゃん」という言葉を下品で恥ずかしいと感じるまっとうな人間に育つだろうと思うのである。
あの五ルピーの男の子のように。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「決まった」と思ったのだが、翌日この尼僧の方からメールがきて、「この五ルピーの男の子の話はガンデン寺(ゲルク派の三大寺の一つ)の僧院長の法話の時の話であり、この時は二万人規模の人が集まった。ちなみに、ダライラマ猊下の灌頂は二十万人が来た。わたしの話があちこち飛んで誤解を招いたのね、すいません」とあった。
いや、こっちの聞く能力の欠如です。
というわけで、この修正を加えても、上記の話で私が意図した精神はまったく変わりませんので、そのままにしときます。
ゲルク派の高僧はみなダライラマとまったく同意見ですし、とくにガンデン寺の僧院長といえば、ダライラマの属する宗派のトップクラスの高僧なので。
決して直すのが面倒だというわけではありません。念のため
例によって、世界中から20万人の人が、ハイデラバードから列車で四時間のこの小さな町に集結したらしい。
このカーラチャクラの灌頂に参加した尼僧の方と昨日の晩お会いした。
彼女によると、儀式の行われた地、アマラーバティは、中観思想の開祖にして密教者として知られるナーガールジュナ(中観のナーガールジュナと密教のナーガールジュナをチベット人は同一人物と考えている)の生地とされる場所である。
ダライラマ猊下はこのカーラチャクラを期にナーガールジュナの研究所をこの地にたてようとしているか、あるいはたったとかの話である。
余談であるが、アマラーバティの地元はこのカーラチャクラの経済効果でウハウハで、ダライラマ猊下バンザイだったそうである。
難民が受け入れ国の経済に貢献するのなんて、チベット難民だけだよ(笑)。
このカーラチャクラ灌頂の儀式次第は、最低でも一週間かかる。そして、儀式の合間合間に述べられるダライラマ猊下のお話は、カーラチャクラの解説から非常に一般的な教えに至るまで広範なものとなる。
その尼僧の方も、ちゃんとくだんの一週間参加していたところ、ある日一人のチベット人の男の子が
「家に帰るお金がないから、五ルピーちょうだい」
と、ねだってきたのだそう。
その方は、「子供にお金をみだりにあげるのはよくない」とは思いつつも「五ルピーくらいなら」と男の子に五ルピーあげた。すると、男の子は「へっ」とバカにしたような顔をしてさっていき、後味が悪かったという。
そして、儀式の終わりの日、ダライラマ法王はいろいろなお話をされて、その中に「外国人とみると、ドル札やルピー札だと思う人がいるが、それは、いかん」ようは、「外国人にたかっちゃいかん」みたいな話をした。
儀式がおわり二万人の聴衆が家路についた。この雑踏のなかで、尼僧は五ルピーの子供と鉢合わせた(その確率もすごいと思う)。
男の子は前とはうってかわった態度で、この尼僧に恭しく合掌したという。
尼僧の方は、「この男の子はきっともダライラマ法王の話をきいて、それが何万人もいる会衆の中で自分にむけて語られたものだと思ったのよ。チベット人はダライラマ法王はすべてを見通せる能力をもつと信じているから。」とおっしゃった。
さらに「われわれ外国人にとってダライラマ法王はとてもやさしい方に見えるけど、チベット人はどんな偉い方でもダライラマ法王の前にでるとすごく緊張するのよ」と教えてくれた。
確かに、文献中でダライラマを修飾する言葉でもっとも頻繁にみられるのは「一切を知るお方」(チベット語でタムチェーケンパ、サンスクリット語でサルヴァジニャだっけか)である。
私の知る限り、ダライラマ猊下は若い頃から現在に至るまで一貫して、非常に倫理的、普遍的、利他的な発言を繰り返し、またその発言を裏切らない行動をとってきた。
このような歩く倫理の手本みたいな人が「一切お見通し」ていて、あなたや私のあんなことやこんなことが全部ばれているとしたら、そりゃー怖いだろう。
だから、ダライラマを真の意味で愛している人々は悪いことをしないように心がける。
一方、日本においては、全知全能のキリスト教のような神様も、チベット仏教におけるダライラマみたいな聖者もいない。
それどころか、役人さんにしろ、社長さんにしろ、政治家さんにしろ、発言内容がすべて自分や自分の属する組織の利益の代弁で、まったく普遍性がないうえ、その発言すら状況によってころころ変わる。
とくりゃあ、日本人は怖いもの知らず。
だから、「ばれなきゃいーじゃん」的な犯罪が横行し、みなみな煩悩全開、恥じ多き人生をおくる。
最近とあるイギリスの方が(武士の情けで名を秘す)、「僕はダライラマなんて信用してない。あの人のいたころのチベットは宗教独裁でしょ? あれよりは共産党の独裁の方がましだ。聖職者や神様を倒して、近代はじまるんだ。近代化の妨げになる宗教は必要ない。」と議論をふっかけてきた。
私は人の考えを改めさせるとかいうのが大嫌いなので(というか、本人が気づかないうちはどうせ何いったって聞きゃーしないので)、放置した。
しかし、ホンネでは、このイギリス人をタイムマシンにつめこんで、ダライラマ政権下のチベットにおくりこみ、その後、文化大革命期の中国におくりこみ、比較体験学習させたいところだった。
彼は毛沢東語録のシュプレヒコールを聞きながら自分の不明を恥じることになるだろう。
つか、生きて戻れないな。
このイギリス人の、無条件に近代化を是とする論理の中には、近代化による、煩悩の開放、それに伴う倫理の崩壊などといったマイナス面はたぶん組み込まれていない。
もちろん、わたしは近代化を否定するものではなく、中世に戻るのはまっぴらである。私が言いたいのは、ただ、親でも、教師でも、お坊さんでも、誰でもいいから、いわゆる誰かにとって少しでも権威あると言われる人が、倫理的に生きること、そして、まわりの人々に「この人はなんでもお見通しだな」と思われることが大切だということだ。
そうすれば、その人たちの子供や生徒や信徒はまっとうに育っていく。
「ばれなきゃいーじゃん」という言葉を下品で恥ずかしいと感じるまっとうな人間に育つだろうと思うのである。
あの五ルピーの男の子のように。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「決まった」と思ったのだが、翌日この尼僧の方からメールがきて、「この五ルピーの男の子の話はガンデン寺(ゲルク派の三大寺の一つ)の僧院長の法話の時の話であり、この時は二万人規模の人が集まった。ちなみに、ダライラマ猊下の灌頂は二十万人が来た。わたしの話があちこち飛んで誤解を招いたのね、すいません」とあった。
いや、こっちの聞く能力の欠如です。
というわけで、この修正を加えても、上記の話で私が意図した精神はまったく変わりませんので、そのままにしときます。
ゲルク派の高僧はみなダライラマとまったく同意見ですし、とくにガンデン寺の僧院長といえば、ダライラマの属する宗派のトップクラスの高僧なので。
決して直すのが面倒だというわけではありません。念のため
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