白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/10/28(土)   CATEGORY: 未分類
鉄骨を抜くように必修科目を抜いた"必修偽装事件"
 世界史は高校の必修科目である。
 あたり前である。世界を知ることによって人ははじめて大人になれるのである。

 とくに、日本のような資源もなにもない小国は、世界にもの売って、世界からもの買ってはじめて生活できる国である。世界のどこにどのような国があり、どのような成り立ちがあり、どのような民族がどのような宗教を信じながら共存しているかを知り、その上で、それらの国とうまくつきあっていってはじめて世界で生き抜くことができるのである。

 世界史はいつの時代でも人類必須の教養であり、とくに日本人にとっては必要な教養である。

 ところが、今回、全国の名門高校で、受験で世界史を選択しない学生には世界史を最初からとらせないシステムになっていたことが発覚した。受験に関係なければ世界史は学ばなくていい、と名門高校の先生方・父兄方・学生に太鼓判おされてしまったわけである。

 そのうえ、発覚した後にも「受験生に不安をあたえるな」「特別な配慮を」とかいう声がでていて、あたかも「世界史なんてどうでもいいから、彼らを受験に集中させろ、」といわんばかりの論調が横行している。

これはどうも世界史以前の問題である。どうも、今の教育現場では学ぶということのとらえ方が信じられないくらいまで倫理的に低下しているらしい。

いくら形だけの卒業証書をあたえても、該当する学生に世界史の教養がないという事実は変わらない。彼らがローマ帝国も、フランス革命も、帝国主義の時代も、ベルサイユ宮殿も、ポタラ宮も、インカ帝国も知らないことにはかわりない。

 知らないということは悲しいことである。自分の国しか知らない人間、目の前にあるこしか興味をもたない人間がはたからどうみえるか私の乏しい体験から実況してみよう。

ハタチの頃、最初にインドを旅行した時のことである。
当時はまだ愛らしかった私のまわりにはどこにいってもインド男がものめずらしげによってきて、いろいろ聞いてくる。

インド人A 「お前何人だ」
私「ニポン人だ」
インド人B「お前のカーストは何だ」
私「ニポンにはカーストはないよ。」
インド人B「じゃあお前の父親の職業はなんだ(結局カーストきいてんじゃん)。」私が会社員が英語でなんていうのかわかんないので「サラリーマン」と答えたら、そのインド人わかんないのか不可解な表情をした。
インド人A「で、ニポンはどこにある。ニポンのお札を見せてくれ」
私「ニポンはここである」(インドと日本の位置関係を記した地図を書く)
インド人A「そうか中国の一部か」

インド人にとっての外国は国境紛争でもめている隣の国中国のみ。彼らにとっての社会はカーストで分断されたあの格差社会のみ。自分の国からの延長ですべてを考えるため、ハタチの小娘の私からみても狭い世界に住んでいる人達だと思った。

今のような教育続けていたら、こういうインド人と同じになっちゃうんだよ。いいの?こんなんで。

さらに、自分の国しか知らない人間は、理解できない他文明を見下すことにより、トラブルの多い人生をおくることもよく知られている。

さらに、今高校で行われている教育とは、学問を大学合格の手段としか考えない、まったくもって貧困な発想で行われているものであり、学問の神を冒涜するものである。


学問とは受験や資格など何かご褒美をえるためにやるものではない。そのような目的のみで勉強しても、"知識"がつくだけで、智慧もつかなきゃ人格も向上しない。

 智慧も人格もない知識だけの人間は、社会にでても他国・他人とのコミニュケーションでつまずいて、しょせんその"知識"を社会や他人に還元することはできない。

 いい大学出て、山のような資格もってても、社会でるとまったく通用せず、どんな職についても続かない人などはそのいい例だ。

 学ぶということは、「今までわからなかったことが、わかるようになる」そのようなヨロコビによって行われるべきものである。

 学ぶことは、今の自分をコワして、あたらしい自分をつくっていく、スリリングで、楽しく、わくわくする体験であり、つねに自分を進化させる感覚なのだ。それは教科の知識を通じて学ぶものにあつみをもたらすものなのである。

 何かのご褒美を手に入れるために、固定した枠組みの中でトリビアルな知識を苦行のようにつめこむようなことは、真の学びではない。

「~大学に合格したら、~買ってあげるわ」「いい大学にはいってくれたら、お母さん鼻が高いわ」とかいって愛情やモノという対価をちらつかせて、子供に勉強をやらせている親や教師は、いずれ子供がどのようになるか、その行く末を自分の眼でもってみるがいい。

いい点数・資格の数・大学のブランド・入社した企業など、自分の獲得したブランドでしか自分を評価できない、自己愛だけが強い虚弱なエゴが肥大してくだけ。"肥大"である。成長ではないのである。

見た目は大柄で、飾り立てられていても、鉄骨がスカスカなので、大きな地震がきたら一瞬で崩落である。

 かわいそうに。
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DATE: 2006/10/25(水)   CATEGORY: 未分類
「ある」ことを「ない」という罪、「ない」ことを「ある」という罪
昨日の朝、表にでたら季節が一変していた。

 さむい。

 でも、よく考えたらもう十月も末、これが本来の気温で今までが温かすぎたのかも。とりあえず高温になれた体がびっくりして風邪をひかないように、ワイン(周五郎ワイン)を一杯あおって家をでる(ロシア人か)。

 気温差が烈しいと紅葉は美しい色をだすので、郊外の山は一夜にして色とりどりの紅葉に変わっただろうな。

 美しきかな、日本。

 ここんとこ、雑文と論文の中間のような文章を書いているのだが、その中で、史料間に不一致があり、合理的に解釈しようとしても、今現在残る資料を見る限りでは納得のいく説明がつかない問題がみつかった。

そこで、関連する論文を書いている若手研究者にメールをして、意見を聞こうと思ったら、なかなか返事がかえってこない。「このメアドでメールもらったのはずいぶん前だからもう使ってないのかなー」と思ったら、何日かしてようやくメールが返ってきたが、ひかれまくった語調から察するに、私の直メールはなにか不幸の襲来(宣戦布告前夜)であるかのように、とらえられていたようであった(断っておくがわたくしの邪推かもしれん)。

 自分では若いつもりで「情報交換しよー」とか思っていても、相手の若手研究者からみれば、こっちはもう化ける一歩手前のようなシロモノで、ただの情報交換でコンタクトとってくるようには思えなかったらしい。

 研究に没頭するとメールの文面が一人対話の「である調」になり、かつ、誤変換が多くなる私の表現力にも問題があったかもしれん。

 私は人様の研究についてあれこれ論じることは基本的にしない人間である。それぞれの方が、それぞれの立場から、それぞれの視点で研究されているわけで、自分と異なったアプローチがあっても、別に不思議でもないし問題もない。

 確かに人の研究を批判することもあるが、それはその研究が、客観的にいって間違っており、かつ、その間違った研究が世間を憂うべき方向にミスリードする可能性がある場合のみである。こうなると話は研究者個人にととまらず、世の中に影響するので仕方ないから批判するのである。

 そこまでいってなかったら、どんなに間違ったことをいう人がかりにいたとしても、基本的には気にしないことにしている。だって、大体世の中のすべての誤解や異論をすべていちいちなおしたり・議論したりしていたら、短い人生すぐに終わってしまう。
それくらいなら今この時、自分の研究を楽しく進めた方がいい。

 そもそも、事実誤認をするような人に「あなた違ってますよ」なんていったってたぶんまったく通じないし、それどころか噛みつかれて大変な目にあう。

 彼らの大部分はまず、先入観が先にありきで、その先入観を強化するために、資料や研究をくみあわせ積み上げる。まったく論理的でも、批判的でも、自省的でないのである。で、彼らの先入観がたまたま真実や現実と合致すればいいが、問題はそれがまったくの事実誤認であった場合、結論としては「あるものをない」といったり、「ありもしないものをある」といったりしちゃうわけで、まあ困っちゃう。

 当然こういうような人は、自分ではまったくこの病理に気づいてなくて「自分は正しい」と思っているので、まわりにそれを指摘されると、噛みついてくる。まわりもそれがわかっているので、余程のことがない限り面倒臭いから黙っている。

 かくして、世の中には不条理・不行跡がみちあふれるのである。

 ちなみに、仏教では「あるものをない」というのは損減という罪、
「ないものをある」というのは増益という罪である。
どちらもサイテーサイアクのやってはならないことであるとする。

たとえば、
徳のある人に対して悪口をいうのは、損減の最たるものであり、
覚りを開いてもない人がトチ狂って「覚りを開いた」なんてことを言うのは増益の最たるものである。

 私も含めて人にはみなこのような罪を犯す可能性はある。だから、常に人の意見には耳を傾け、先入観にとらわれないように努力せねばならない。

 昔研究会で「イシハマさんに何か意見するとその場ではモーレツに怒るけど、あとで見ると、ちゃっかりその意見を取り入れている」と言われたことがある。

 いつか怒らずに人の意見を聞き入れられる日が来ればいいなと思う(えばっていうことか)。
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DATE: 2006/10/22(日)   CATEGORY: 未分類
国立博物館に「仏像」展を見に行く
本日は仏青のコアメンバーとともに国立博物館の「仏像」展をみにいった。
仏像


 チベットでお客さんを案内してお寺をめぐっていると、説明のさいついつい仏様を指さして、チベットの方に「イシハマさん、仏様を指さすのは失礼です。手のひらを上に向けて腕全体で謙虚に方向を示して」と注意されることがある。

確かにそうである。

道行く人が、突然あなたのことを指さして
「あの人は○×という名前です。今は△□の学生です」
なんていったら「ヒツレーなヤツだ」と腹が立つはず。「指さし」とは相手を自分の都合で一方的にモノ化する動作だからだ。
 だから、人々の祈りの対象となる仏に対して指さしなんてしていいわけない。では、なぜ仏様をうっかり指しまったりするのか。

 答えは簡単。

 日本の仏像の大半は、博物館や宝物館などの近代的な展示空間におかれている。この空間では、仏様は観察・鑑賞対象としてモノ化され、鑑賞の邪魔になる厨子・天蓋・光背ひどい場合は蓮華座もみなはぎとられる(実際おみたまを抜いてから展示しているし)。だから、ついつい美術品か何かのような気がして指さしてしまうのだ。

 しかし、人と仏様との出会いは本来これでいいはずはない。

 理想的には、山門をくぐり、緑なす参道に歩を運び、本堂のしきいをまたぎ、そしてはじめて正面に鎮座するの厨子ふかくにご本尊様を遙拝するのである。その際には、その寺の歴史や本尊まつわる奇跡の物語を知っておく方がのぞましい。

しかし、悲しいかな、政教分離の国立博物館では、そんなしゃれたことができようはずもない。なんてったって、今回の展示の統一テーマだって「一木作り」。思いっきり、形式である。

解説にしたってこの仏の材質はカヤだ、サクラだ、栴檀だ、と素材にこだわり、部屋の分類コンセプトも、ナタ彫り、などの形式によるものか、円空・もくじきなどの作者別で全体としては時代順。

こんな展示コンセプトでは仏様の分析・分類はできても、祈ったり、感動したりといった接し方などできようはずもない。

しかし、しょせんこっちも末法の徒なので、僧侶の卵の破顔氏からオタクな解説をききつつ「木喰仏って癒されるよね~、このお腹のでた仏様なんて、メタボリックな人が見たら、これでいいんだ、とか許されるような気がするんじゃない」とか不敬な会話を並べながら(もちろん私だ!)、結構楽しい。

 特別展観覧後は、法隆寺館にいき、本日まで展示のサンスクリット本の佛頂尊勝陀羅尼を見る。それからHくんの情報により、26日まで展示の本館の国宝室にある永観堂の山越え阿弥陀図を見る。

 そのあと、御徒町のルノアールで仏青の会議。ねもっちも破顔氏もH氏もほとけどじょう氏も、仏青史がなんとかまとまりそうということで、今後の予定も話してめでたくお開き。
楽しかった。
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DATE: 2006/10/18(水)   CATEGORY: 未分類
松茸を食べつつ精神の貧困を思う
昔、父の友人が松茸山をもっていて、この季節になると自分の松茸山でとれる松茸と栗をカゴ一杯送ってくれた。

覚えている限りでも父の死後、十年以上送りつづけてくれたような気がする。父は人望があったのだなあ。

というわけで、この季節になるとときたま子供の頃を思いだして松茸が食べたくなる。

近所の店で100g15750円の値段を聞いた時には、焼椎茸にひよろうかとも思ったが、あきらめずに足で捜すことにする。

ちょど餓鬼道(肥満雄猫)のキャットフードもきれていたので、大学の帰り、途中駅で下車して、キャットフードを会がてら、松茸を捜す。この商店街は私の知る限り沿線でもっとも物価が安く、通常500円の餓鬼道のキャットフード(SHEBA DUO)が335円でているので、松茸もおそらくは安いはず。

ねらいはあたり、おっきな広島産高級松茸が二本はいって3500円をみつけた。即座にかう。家に帰ってはかってみたら102gと75gであった。オトクである。

松茸ご飯をたき、焼松茸をつくるも、松茸を買うことにすべての気合いをつかったためメインディッシュを用意してないことにあとで気づく。
面倒臭いのでコンビニに総菜をかいにいく。

松茸とコンビニ総菜、一つの食卓におそろしい格差が共存していることはまるで今の日本の社会の縮図のようである。

とねたにしてみたが、わたしは新聞があおっている格差社会問題には興味ない。

生活保護を受けているような下流生活者であっても誇りを持って生活していれば品格のある人はいるし、収入があっても貧困な精神しか持たず、自分しか見えない下品な人間はいる。

貧困なる精神の方がホンマの貧困より始末がわるい。

他人の気持ちをくみとれる人、自分のことしか見えない人
柔軟にものごとに適応できる人、一つのことにこだわるしかできない人
他人にやさしい人、他人を傷つけるだけの人
衝動をコントロールできる人、できない人
人の幸せを喜べる人、人の不幸を喜ぶ人
自分を常に客観的に省察できる人、自分は常に正しく問題は常に他者にあるとする人

これらの格差の方が、生涯にいくら金を稼ぐか、役職が上か下か、IQが上か下かなんてことよりもずっと本質的かつ重要な問題だと思う。

国もね、愛国心とか国民とかを論じる前に、まず「人間らしい人間」を創る教育をまずやってくれるといいんだけどね。

そのために、初期仏教何かはとても力になれると思うのだけどね。政教分離とかいうけど、初期仏教はまったくミスティカルでないし倫理で通ると思うんだよね。

松茸とコンビニ総菜食べながら、ふとそんなことを思ったりもする秋の夜長なのであったった。
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DATE: 2006/10/16(月)   CATEGORY: 未分類
イカの爆死からアベシンゾーまで
宅配システムでとどいた大袋のスパゲッティをうっかり玄関の床に落としたので、拾ったら、衝撃で袋が破けて中からスパゲッティがナイアガラの滝ごとくにダダモレたので「おっとお」と、逆の方向に傾けたら、なんと反対の口も破れていたので(つまり袋はもう筒状になっていた)、今度はこっちの口から残るすべてのスパゲッティが床におち、気がつくとスパゲッティのカオスの真ん中に呆然とたつ自分を発見した今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか(最後のしめ文はぶろぐ大賞「きっこの日記」からのパクリ)。

そういうわけで、スパゲッティを少しでもはやく片付けねばと、シーフードスパゲッティを創った。冷凍のシーフードミックスをイタリアンパセリと塩こしょうでいためて、さあ食べよう。しかしなんかイカが生臭い。イカはほかの具よりも厚みがあるので火の通りが遅いのだろう。

アニサキスとか寄生虫がいたらいやなので、とりあえずイカだけを別のお皿にうつしてレンジでチンしようとする。レンジにいれてしばらくすると

ポポポポーン、という破裂音が。

音に驚いた、ごろうちゃんが秘密基地から飛び出してきた。


レンジをとめて中みると、イカが爆死していた。レンジの内部はイカのご遺体の破片がちらばっている。
卵がレンジで破裂するってーのはよく聞くけど、きりこみのはいったイカの破片がレンジで爆裂するなんて、みなさんご存知でしたか?

わたしは知りませんでした。

世の中にはまだまだ未知のことがいろいろあるんですね。
身近にあっても意外に知らないことで最近あった話を一つ。

もうすぐお役ご免になる組合の会議で、教育基本法改正に疑義を呈する決議文をだすことになった。担当の人が文案をだして、これでいいですか、いいでーす、とか、決議が通りそうになったとき、一人の先生が

「あの、ちょっといいですか」。

走る緊張。しかし意外にも、

どーでもいいことですが、アベシンゾウの漢字が違っています
「え、アベシンタローになっていたか」
「いえ、アベシンゾウですが、アベの字が違っています」
「ああ、安部じゃなくて阿部か」
「いやアはいいんです。ベが阿倍仲麻呂のベです。」

ほとんどの人が指摘されても正しい漢字に気がつかず。
言われてみれば今の総理、アベって、安部・阿倍・阿部といくらでも漢字の組み合わせがあるから、またすぐわかんなくなりそー。

この人歴史に残る総理になるかどうかは分からないけど、将来日本史の教科書に載るようなことになったら、受験生は漢字で苦労するなあ。

でも、このボンボン総理が歴史に名を残すってどんなシチュエーションになった時だろう。想像すると結構怖いかも。
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DATE: 2006/10/13(金)   CATEGORY: 未分類
ポカラに現れた私の変化身
木曜日は仏教青年会に顔をだす。

じつは、仏青は早稲田祭にエントリーしたものの、抽選の結果見事におちてしまった。ちなみに、わたしはほかにもいろんにサークルに頼まれてエントリーシートの教師確認欄にハンコおしたがみな落ちた。

私のくじ運の悪さがハンコを通じてこれらのサークルに伝染したのだろう。この場をかりて深くお詫びする。

私が今までの人生であてた最高の景品は、フクトク商店街のビリから二番目の醤油瓶(一本)であった。
デパートなんかで年末にやっている福引きはだいたい残念賞のポケットティッシュである。

 しかし、私は自分のくじ運の悪さを悲観したこはない。なぜなら、ギャンブル運は悪運だから、こんなもん、よくない方がいいからである(まっけおしみ)。

 そこで、仏青、気を取り直して、とりあえず当初の予定通り120周年を記念して過去の歴史をまとめようということになった。木曜日はその作業をするというので部室を尋ねいみたのである。

 部室をあけるとなんかホコリっぽい。そのうえ、なんか巨人の星みたいな絵柄のおじさんが熱血してしゃべっているアニメビデオがかかっている。

ほとけどじょうくん「先生、今片付け中で座る場所もないんですよ。すいません」
わたし「何、そのアニメ」
ほとけどじょうくん「●間×命」です。ヤフオクででていたので、仏青の弘法布教の参考にと買ってみました。」
わたし「いくら?」
ほとけどじょうくん「郵送料の方が高くつきました(笑)。」
わたし「超安いんだな。で、●田大作はどれ?」
ほとけどじょうくん「その一番ハンサムな若い男です」
何も言うまい。

Hくんと、ねもっちが過去の仏青の出版物をせっせと整理しているのに、ほとけどじょうくんは発掘された古層の文書や郵便物を読んだり、開封したりしながら、まったりしているので、思いきりじゃまになっている。いわゆる、片付けられない男だな。

ほとけどじょうくんは最近、19世紀の末の早稲田学報をしらみつぶしに捜し、スリランカ独立の父にしてスリランカ仏教復興の大黒柱のアナガリカ・ダルマパーラが早稲田にきた記録を見つけたという。

このことからもわかるように、仏青の歴史をまじめに調べるとなると、その歴史はあまりに悠久でおもく、果たして年内に調べがつくかどうか。

つか、これはもう日本史の立派な論文であり、サークル活動とかいう範疇を超えているような。

しかも、ふと気がつけば、ほとけどじょうくんは今年四年生、こんな仏青の歴史にはまっていて、卒論は書いているのだろうか。この調子じゃ書いていないだろう。

一応、卒論を優先するようにアドヴァイスをしておくが、聞くか聞かないかは本人次第。

閑話休題

夏休み、海外に行っていたゼミ生二人が無事に帰国した。

Wくん「ネパールのポカラで偶然エイちゃんに会いました。」

わたし「二人とも別々に気ままな旅に出たのに、ばったり会うなんてすごい偶然だねえ」

Wくん「ボクが座っていたら、チャリでエイちゃんが通り過ぎたので、エイちゃーんということで。そういえばそこに先生もいましたよ。八月の末先生どこにいました?」

わたし「ドイツだよ」

Wくん「いやポカラにいましたよ。民族衣装きて歩いてましたよ」

わたし「そりゃ縁もゆかりもないネバール人じゃ!」

私はよくネパール人に間違われる。

カトマンドゥのアイスクリーム屋でタイ製のTシャツきてアイスクリームをなめていたら、日本人旅行者から

日本語うまいですね」

ほめられた。わーい。

そいでそのあと、カトマンドゥの中央郵便局に郵便物をだしにいったら、ネパール人の郵便局員が真顔で

おまえなぜネパール語でしゃべらない

何人からみてもわたしはネパール人らしい。
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DATE: 2006/10/09(月)   CATEGORY: 未分類
誰か北朝鮮に大日本帝国の歴史を教えたげて
テンパッた北朝鮮が核実験をした(らしい)。

なんかこの夏水害で食べ物がナガされて、体制が限りなく危ういので、核保有国になって、一つまわりを脅しつけ、景気をつけてやろうという、オソロシイまでにアホな動機である。

よくコミニュケーション能力のない人が、人の嫌がることをすることで人の注意をひき、ゆがんだ自己顕示欲を満たそうとするものだが、北朝鮮はそれを国家でやっているのである。

情けない話である。

「オレをバカにするなあ。オレはすごいもんもってるんだぜえ。かまってくれなきゃ、何するかわかんねーぞ」
(男バージョン)

「私を捨てるのね、だったらアンタも奥さんも殺して私も死んでやる。」
(女バージョン)

みたいなことを国際政治でやるなよ。

もう、コメントするのもばかばかしい。
こんなことでくだらん軍備増強に血税がまわされる理由付けができるかと思うと腹がたつ。


とりあえず、さしせまった不安として、わが愛しのオカメインコをひなたぼっこさせて大丈夫かな。

北朝鮮の貧困な技術力では放射能もれるかもしれないしな。

コスモクリーナーがほしいところだな(これが分かる人は年寄り)。

ま、とにかく再武装とかではなく、コスモクリーナーの開発とか、世界の紛争の大半の原因となっている石油にかわる代貸エネルギーの開発とか、そういうとこに税金はつかってほしい。

一納税者として。
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DATE: 2006/10/07(土)   CATEGORY: 未分類
秋深し、ご難つづきの理工学部
水曜日、理工学部のとある先生とお話する機会があった。九月二十九日に理工学部で実験中に爆発事故があり、学生が大けがしたという情報を聞く。

去年から今年にかけて理工学部では何度もボヤをだし、きれた新宿消防署の立ち入り検査を受けたりしていたが、また、やっちゃったらしいのである(ま、今度は爆発だけど)。

危ない実験で、「一人でやるな」「やるときはゴーグルをつけて」みたいな指導はしていたらしいが、その学生はゴーグルなしで一人でやっちゃったため大事に至ってしまったらしい。

再発防止のために、各自に現在行っている実験の内容を提出させて、責任者たる先生のハンコをつかせる、という風に通達があったらしいが、その理工の先生には異論があった。

彼によると、学生20人あたりの監督者の数が国立に比べて早稲田は格段に少ない。だから目が届かなくて事故がおきる。なぜ少ないかといえば、ここ数年、財政緊縮のため技官のリストラしとるからだ、という。

わあ、JR東日本みたい。

で、かりに事故が起きた場合、学生の両親から訴えられるだろうし、保険がカバーできるのはせいぜい二千万。たぶんそれくらいじゃおさまらないだろうから、誰かが賠償しなければならない。その時に「あなたハンコついたじゃない」とすべて教師のせいにされてウン億円とられるんじゃたまらん、「というか払えん」というわけである。

文系の研究は巨大な機械も薬物も扱わないので、理系にくらべて生徒のけが人死人の可能性は低い(それでも、たとえば現地調査中におきる事故とかはありうるけどね)。

また、理系は、実験を行うために高額な機械などを購入せねばならないため、巨額の費用がかかり、その資金集めのために特許をとったり、企業と連携したり、なんか研究以外のところですごい労力を使っていて、側からみていても痛々しい。

文系にかかるお金は本の購入費か現地調査費くらいなので、研究にかかるお金は実にささやか。資金繰りのためににヒーヒー走り回る必要もないのである。

しかも、そのあとの理系の先生の言葉には笑った。彼は研究室のポットからお茶をのんだことがないというのである。

 「研究室に実験用の劇薬が沢山あるので怖くて。いつもペットボトルですよ」

 理系の先生はあったかいお茶ものめんのか。

 理系とは資金繰りとそれにともなう交渉や書類書きにおわれ、さらには火事の危険さらされつつ、お茶も飲めないのである。

悲劇である。

ああ、文系の学者でよかった。

秋の昼下がり、ヒ素入りでないコーヒーの香りを部屋にみたしながら、辞書をひきつつまったりと古文献をよみ、その合間に近くの緑地を散策し論文の構成をまとめる。

文系の学者は、研究がもつわくわく感、楽しさを古典的に味わうことができる特権的な職業。
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DATE: 2006/10/03(火)   CATEGORY: 未分類
神は誘惑しない、でも魔は・・・
ちょうど一年ほど前、北海道の小学校で女の子がいじめを苦にして自殺した。
教室で首をつって、教卓の上には七通の遺書が載っていたという。

その遺書の存在を教育委員会が隠していたことが一年たった今になって発覚して、ニュースになった。

世の評論家たちは、遺書をふせて「いじめが確認できない」と言いはる教育委員会を「人の血が通っていない」「お役所対応」としきりに批判する。で、私は別の視点で気になることがあった。

よくキリスト教では自殺は御法度だけど、仏教は自殺に寛容みたいな論がある。

キリスト教が自殺を否定する理由は、命は神様から授かったものだから、人間の都合でどうこうしてはならない、神様は耐えられない程の試練を子羊に与えたりしない、というわけだ。

一方仏教では、たとえばお釈迦様は前世にサッタ太子として生を受けた際に、飢えた虎を救うために、自分の身を投げ出して食べさせた、などという有名なエピソードがあることからも分かるように、人のために自らの命を投げ出すことは否定していない。

 東北によくあるミイラ仏も、一切の命あるものの幸せを祈って食を断ってなくなった人々である(食べ物がなくなって仕方なく死んだわけじゃないのよ)。

 ただし、ここで述べている自殺はあくまでも「他者のために」行っているものであり、「つらいから」「ラクになりたい」などというある意味「自分のため」の自殺でないことに注目したい。

そう、仏教だって「自殺はいかん」というとるとです(なにゆえいきなり九州弁に)。

その北海道の女の子の遺書を教育委員会が隠した理由の一つに、その内容があったのではないかと思う。ニュースでその遺書がパネルに拡大してあったのをちらっとみただけなのではっきりはしないのだが、その女の子遺書の中で「呪ってやる」みたいなことを書いている。

この件で遺書を知ったかつてのクラスメートたちはどんな暗い気持ちになっただろうか。彼らもまた小学生(今は中学生か?)なのである。

「人を呪いながら死ぬ」、悲しい死に方である。

いじめによる自殺というのは、死ぬ側、死なれる側もどちらにとっても救いのない話。だから、今どんなにつらかろうと、死んじゃあかんと世間は言うのである。

どうせ死ななきゃならないなら、
人を呪いながら死ぬよりも、人に感謝して死にたい。
人をふるえあがらせるよりも、惜しまれて死にたい。

ま、とにかくいじめはなくさんとな。
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