白雪姫と七人の小坊主達
早稲田大学仏教青年会 ウォッチング日記
DATE: 2006/10/03(火)   CATEGORY: 未分類
神は誘惑しない、でも魔は・・・
ちょうど一年ほど前、北海道の小学校で女の子がいじめを苦にして自殺した。
教室で首をつって、教卓の上には七通の遺書が載っていたという。

その遺書の存在を教育委員会が隠していたことが一年たった今になって発覚して、ニュースになった。

世の評論家たちは、遺書をふせて「いじめが確認できない」と言いはる教育委員会を「人の血が通っていない」「お役所対応」としきりに批判する。で、私は別の視点で気になることがあった。

よくキリスト教では自殺は御法度だけど、仏教は自殺に寛容みたいな論がある。

キリスト教が自殺を否定する理由は、命は神様から授かったものだから、人間の都合でどうこうしてはならない、神様は耐えられない程の試練を子羊に与えたりしない、というわけだ。

一方仏教では、たとえばお釈迦様は前世にサッタ太子として生を受けた際に、飢えた虎を救うために、自分の身を投げ出して食べさせた、などという有名なエピソードがあることからも分かるように、人のために自らの命を投げ出すことは否定していない。

 東北によくあるミイラ仏も、一切の命あるものの幸せを祈って食を断ってなくなった人々である(食べ物がなくなって仕方なく死んだわけじゃないのよ)。

 ただし、ここで述べている自殺はあくまでも「他者のために」行っているものであり、「つらいから」「ラクになりたい」などというある意味「自分のため」の自殺でないことに注目したい。

そう、仏教だって「自殺はいかん」というとるとです(なにゆえいきなり九州弁に)。

その北海道の女の子の遺書を教育委員会が隠した理由の一つに、その内容があったのではないかと思う。ニュースでその遺書がパネルに拡大してあったのをちらっとみただけなのではっきりはしないのだが、その女の子遺書の中で「呪ってやる」みたいなことを書いている。

この件で遺書を知ったかつてのクラスメートたちはどんな暗い気持ちになっただろうか。彼らもまた小学生(今は中学生か?)なのである。

「人を呪いながら死ぬ」、悲しい死に方である。

いじめによる自殺というのは、死ぬ側、死なれる側もどちらにとっても救いのない話。だから、今どんなにつらかろうと、死んじゃあかんと世間は言うのである。

どうせ死ななきゃならないなら、
人を呪いながら死ぬよりも、人に感謝して死にたい。
人をふるえあがらせるよりも、惜しまれて死にたい。

ま、とにかくいじめはなくさんとな。
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