白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/01/30(火)   CATEGORY: 未分類
己の欲せざるところ人に施すことなかれ
わたしは今、声を大にしていいたい。
ファミレスのドリンクバーにはいい加減あきた!

 不毛な採点の唯一の心のオアシスは学生の悪あがきをウォッチングすること。

 いくつかの言葉をあげて、「その言葉をつかって~を説明せよ」とかいう問題をだすと、勉強していない子は、それらの言葉をつかって自由作文をつくってくれるのである。

で、その妄想文のあとに一文が。

 「という感じなのではないかと、この範囲を勉強しなかった私は想像するのであるが、残念ながらこの先はさすがに

   わからない。
」(笑)

 まあ、素直っちゃー、素直だ。

 こんな感じな毎日ですがみなさんいかがお過ごしですか。

 なんか、柳沢厚労相が失言して、世の中の女性の怒りをかってますね。
 女性を「子うみマシーン」にたとえて、言い換えた言葉も「生む役目の人」ときたもんだ。

 良識ある人、ましてや人様の上にたってものを決める政治家は、決して~人は犯罪者、~地域はダメだ、女は生む役目をもつ、日本は神の国だ、などの決めつけ・単純化は行ってはらならない(あれ、最後の二つは誰の言葉だっけ?)。

 レッテルはりという行為は、人類の歴史の中で偏愛・憎悪の引き金になり、数々の紛争や弾圧をうんできたからだ。

 性差なり、民族なり、地域なり、宗教なり、それらにある種のレッテルを貼るのは、 アメリカだったら政治家なら政治生命、俳優なら俳優生命の即終わりを意味する。

 たとえば、ついこの間も、メルギブソンが酔ってユダヤ人に差別的な言辞をはいて「今年最低の人」にランクインした。

 ましてや、少子化どうにかしようって政策を策定する立場の政治家が、こんなこといっちゃーまずいって。

 そいえば石原都知事も昔、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババア。」(引用らしいけど)とゆってもまだ威張って居座っている。

 どころか、私的な飲食に都税を使いまくっているくらいだから、日本はオジサン政治家のステキな言語感覚に甘過ぎ。

 男だって「●付けマシーン」とか言われたくないだろう? だから、女性にも「マシーン」なんていっちゃいかんだよ。自分が言われていやなことは人にもいっちゃいかん。
 
 ま、黙っててもこの内閣短命そう。
 次はもっと有能な仕事人内閣になることを祈る。
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DATE: 2007/01/28(日)   CATEGORY: 未分類
餓鬼道(猫)の手を借りたい日々
試験日教室に入ると、最後列にばかり人がぎっちぎちに座っている。

わたし「ちょっとそこ! せめて一人ずつは開けて座りなさい。前はこんなに空いているんだから」

生徒A「えー、どうせ隣こいつですよ。みたって仕方ないですよ」

わたし「だったら、一つ開けて座ったって同じでしょ。往生際が悪い! はよ立て!」

生徒B「センセー、テクスト忘れたんですけど」(テクストわすれたらそもそも三分の一しか解けない)

わたし「論外。来年もよろしくね(直訳 キサマは再履だ!)」

生徒B「えー」

生徒C「センセ、昨日夜遅くまで勉強したので試験の間中、眠くて仕方ありません」

わたし「試験中寝るか!」

(ちなみに生徒BとCはゼミ生。Cについては別の授業では前期レポートも出してない。甘やかしすぎたか・・。ここは一つ愛のムチをビシバシくれてやらねば。)

というような毎日ですが、みなさんいかがお過ごしですか。

 大教室の210たす140たす62×2たす130枚の答案を採点して他のレポートとか出席数とか勘案して評価をだすのが一月いっぱい。ははははは。

生物の先生によるとこの答案は風邪菌のソークツだそうで、採点の後は必ずや恐ろしいインフルエンザにおそわれるのだそうな。

 なんてこと言っていたら昨日の夕方くらいから風邪っぽくなってきて、とくに右目の奥がいたい。

 採点は他人にやってもらうわけにもいかんし、困ったもんだ。
 そいえば私が若い頃、

「先生たちは何百人もの試験を採点しているはずがない。階段の上から答案用紙をおとして、一番下までおちたのを優にして飛距離に応じて以下、良・可・不可にする」

などとささやかれていたが、あれは本当のことだったのだろうか。
 ちなみに私はまじめに採点やっていてます。まじめな人が一部にでもいる以上、その人にあわせるのが筋ですから。

 何にせよ、この風邪頭では高度な思考はまったくできないので、採点やるくらいしかないだろう。

 あーやだやだ。
 
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DATE: 2007/01/24(水)   CATEGORY: 未分類
「昨日今日とは思わざりしを」
 同僚(英文)の先生が亡くなられた。色白の綺麗な方でまだ45才。

 風邪かと思ったら髄膜炎で、緊急入院したものの回復することなくそのまま逝ってしまわれた(医療ミスが根強くささやかれている)。

 ダンナは最後の日々献身的に介護を続け「●×子のいない人生は考えられない。二十年間本当に幸せだった」と悲嘆にくれていたそうだ。
 夫妻ともにクリスチャンなのでお葬式はICUの教会で行われた。二人が結婚式をあげた思い出の場所らしい。

 ダンナたまらんな。

 いつも笑顔の方で、皆が口をそろえて「笑顔しか思い浮かばない」という穏やかな性格。

「いい人ほど神ははやくみもとにお召しになる」
という言葉が妙に現実味をおびてくる。

 というわけで、ドン暗い気持ちになっている今日このごろ、みなさんはいかがお過ごしですか。

 こういう夭折の報に接して思うのは、

 遅かれ早かれ、人はいずれ死ぬ

 これにつきる。

 退職後はこうしたい、~才までにはああしたい、とか思っていても、所詮、机上の空論。

 突然の事故や病気で明日なんてないかもしれないのだ。
 
 昔の人もこうよんだ

 「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」(死ぬとは思っていたが、昨日今日とは思ってなかったよ)

 だから、ぐだぐだ文句いったり、怠けたり、悪口いったりする暇があったら、やらなければならないことをやった方がいいのだ。
 「やりたいことがわからない」とかいう世迷い言をいってる暇すらないくらい人生は短いのだ。

 「人生は何もしないと長いけど、何かしようとすると短い」これ誰か忘れたけど、名言だと思う。

 母がなくなった時、わたしは、今日と同じ一日が明日もあさってもずっと続くと思っていた自分がとてもバカに感じられたものだ。

 人生の有限をはじめてヴィヴィッドに感じた当時のわたしは、無職でひまだったこともあって、こもりきりで研究して博士論文を仕上げた。

 当時は今のように博士号ボンボンだすような時代ではなく、仕上げたところで博士号がでるか否かは未知数だった。にもかかわらず、机の前で寝起きしてただ書き倒した。

 怠け者のわたし史上まれにみる時期であった。何かが憑いていたとしかおもえん。
 
 惜しまれる死は多くのレッスンを生者に与えてくれる。
 

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DATE: 2007/01/22(月)   CATEGORY: 未分類
納豆狂想曲
 いや納豆がここまで脚光をあびるというのも珍しい。

 情報番組で「納豆を食べたらやせる」しかも「納豆をまぜまぜして20分おくとやせる成分がたくさんでる」というので、健康オタクの上、納豆生産量日本一の水戸出身のうちのダンナなんて、すいつくようにこの番組をみたあと、納豆かきまぜては、20分おいて食べていた。

 素直な男だ。

 データがすべてねつ造されたと知った今も「納豆は体にいい。まったくねつ造ではない」とまだ信じている。これからも食べ続けることだろう。

 彼の納豆に対する愛はインチキジャーナリズムを超えた
 
 
 この番組を制作した連中は

「納豆は体にいい」というテーマをさきにきめて、専門家の談話、実験、使用前後の写真などは全部ねつ造した。
 よく大学の先生が自分の説を立証するために、思うような結果がでないと研究データをねつ造するあれと構造は同じ。

 このブログでも何度も指摘してきたが、「形(学歴・ブランド・ラベル・道具 etc.)にばかりこだわって、中身をあとまわしにする人」こういう人は本当に世の中を害する。

 こういう人たちは「中身」がわかっていないから、中身を後回しにして形にばかり時間をかけるのだ。

 こんな連中は子供を育てれば子供を○×△にするし、研究者になれば予断にみちた自説を真実だといいはるし、マスコミにいれば「あるある大辞典」をつくる。
 
 彼らは「人を信じさせる技術」「人を笑わせる技術」そんな目先の技術ばかりに長けている。詐欺師はホンモノよりもホンモノらしいのだ。
 ホンモノは実はさりげなく「ただそこにある」ものだったりするのだ。

 話かわって「賢い消費者」について考えてみよう。

 本当にいいものならテレビでとりあげなくとも、セールスの電話なんてかけなくても、自ずから蹊を成す。
 
 しかし、売れている商品だからといって、今回の納豆と同じく、根拠のないマスコミの煽動による場合もあるので、信じてはならない。

 じゃどうすればいいかというと、正しい消費とは「必要なものを、必要な時に、必要なだけ、あるものの中から買う」「付和雷同などもっての外」これにつきる。

 この場合の「必要」とは「節度を持った必要最低限」を意味する。

 そうじゃないと、アル中は際限なく酒を「必要」とするし、見栄っ張りは際限なく「ブランド品」を「必要」とし、健康オタクは際限なく「健康食品」をかいつづけるからね。

 増産しすぎた業者や、納豆好きでないのにやせると思って買った消費者のもとから、これから大量の納豆がゴミとして廃棄されることだろう。

 醜い時代である。

 何かを使わずに捨てる時、それが恋人でも、食べ物でも、バッグでも、捨てる際には、どうして必要のないものを手元に置いたのか、それを反省すべきであろう。
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DATE: 2007/01/20(土)   CATEGORY: 未分類
僧侶の堕落に本山の無力
 先週の金曜日、学生からサッカーのチケットを三枚もらった。授業が終わってAV事務室に鍵を返しにいって、事務の人に
「あのサッカーのチケットあるんですけど、いかがですか」と聞いたら、そこにいた数人が「うぉっ、行こうと思っていたんだ」と奪い合い。

 志ある方にチケットがわたってよかった。なーむー。
 今週同じ授業の前に鍵を借りにいくと、事務の方の一人が
「あの、ありがとうございました。」と伊勢丹の袋にはいったダージリンティーをくれた。「タダでもらったチケットですからいいですよ」といったが「ぜひ」というのでありがたくいただく。
 これも仏様のお恵み。なーむー。

 さて、来週のテストを控えて、パンチの効いた学生がたくさん出現する。
史学の授業でPopな学生が近づいてきて

学生「センセ、テストでは名前と学籍番号書いたら通るって本当ですか?」
私「なわけないだろう!!」

ゼミ生のTKくんは、いきなり自分のメアドが書いた紙を私につきつけ
TK「センセ、●×の授業のレジュメ、あるだけこのアドレスに送ってください」
わたし「出てる日だってあるでしょう。」
TK「面倒くさいから全部送ってください」

これ以外にも
「テニスサークルの幹事をしていて、試合で●日と×日と△日の授業にでれませんでした。金曜日にここのレジュメをもってきてください。」

 病気や事故で休んだならまだしも、サークル活動なんかで休んだことをいばって申告すんな。無視。

 そして、昨日の晩かえってメールを開けると先週テストをやった文学部の学生からメールがはいっている。

「試験日を今週と間違えていました。年末から年始にかけて海外旅行をしており盗難などにあって帰国が大幅におくれまして、日にちも間違えていたので今日までメールできませんでした。卒業がかかっていますので、なんとか救済を」

 試験期間くらい調べてから旅行いけ!

というような毎日ですが、みなさんいかがお過ごしですか。

さて、新聞をごらんになった方はご存じでしょうが、日本仏教界でもパンチの効いた事件がありました。

 富山県の真言宗高野山派の住職が、お寺の仏像ほか32点を売り飛ばして、生活費にあてていたのです。以下がそのニュースです。長いですががんばってよんでくらさい。最初が地方版のニュースで次がAsahi.comからです。

寺の仏像32点売る 元住職を横領容疑で追送検

 富山県警射水署は23日までに、住職だった寺の仏像3体を古美術商に売却したとして、業務上横領の疑いで指名手配中の同県高岡市蓮花寺、元住職、武田建昭容疑者(61)を逮捕した。
  調べでは、武田容疑者は平成4年から17年まで住職を務めていた同県射水市水戸田の密蔵寺で、13年9~10月に本尊の胎蔵界大日如来1体と烏天狗像1対 を県内の古美術商に計260万円で売却し代金を横領した疑い。大日如来は旧大門町(現射水市)の指定文化財で売却された3体はいずれも発見されていないと いう。
 14年に仏像がないことに気が付いた同寺の檀家(だんか)らが高野山真言宗の総本山に通報したが、武田容疑者は「修理に出している最中」などと弁解を続けた。17年4月に旧大門町教委などが密蔵寺に調査に入ったところ、武田容疑者は「生活苦で売った」と認めたという。同年5月に武田容疑者は住職を辞めさせられ、行方不明となった。
 同寺ではほかにも同町指定文化財の仏像1体とほかの仏像の一部がなくなっており、同署で余罪を追及する。

2007年1月18日(木)00:41

 自分が住職を務めていた富山県射水市の寺の仏像を勝手に売り飛ばしたとして、県警は17日、武田建昭容疑者(61)を業務上横領の疑いで富山地検高岡支部に追送検した。
 01年秋から04年春までに、地元の文化財だったことがある寺の本尊胎蔵界大日如来など計32点を、古美術商に次々と売り約400万円を横領した疑いがもたれている。
 容疑者は一昨年春に寺を離れた。子どもに会うため、逃亡先の東京から富山に戻った昨年10月、警察に逮捕された。「子どもが9人もいて、学費や食費にあてた」と話しているという。


 まず、大前提として、寺は公益法人であって誰のものでもない。あえていえば公のものである。住職はNPOの主催者と同じく「たまたまその地位にいる」人にすぎない。その公共のものであるお寺の財産を、こともあろうに、管理者である住職が自分の子供(しかも九人)を養うためにうっぱらったというのである。あきれ果てた話だわ。

 煩悩を克服することを目標とする仏教の教えにあって、僧侶は本来妻帯をするものではない。明治維新以後の近代化の中、住職は妻帯するようになり、寺を世襲でつぐことになった。この時点で日本仏教は他の仏教国からすでに相当ドン引きされている(世界宗教者会議なんかにいくと日本の僧侶は戒律まもっていないから、聖職者席ではなく信者席にいけといわれる。)。

 で、日本の坊さんの多くが戒律を守れないこと、修行もできないことはもうこうなっちゃったんだから仕方ないとしても、一般常識から考えても、お寺が公益法人であり、住職一家の生活が檀家や信者によってまかなわれていることを考えれば、僧侶の生活は質素であるべきであろう。九人も子供つくるなんて何考えとんじゃ(あ、それともこの住職隠れキリシタンなんで、産児制限をしなかったのかな。)。

 これだけでもじゅうぶんひどい話なのに、もっとひどいのが、檀家が住職の乱行に気づいて本山である高野山に報告したにもかかわらず、高野山はロクに調査もせず不問に付したことである。

 檀家が本山にまで訴えるなんて余程のことなのに、放置したのである。本山はこういう場合は檀家と住職の間にたって、両方の言い分を聞いて調停するもんだろう。

 宗派内自浄能力ゼロじゃん。

 結局、今たたかれている教育委員会がこの住職をおいつめたのだから、この市の教育委員会はエライ。

 こんなこと当たり前のことなんだけど、住職の評価は即その宗派なり仏教なりの評価につながる。質の悪い住職を放置すればそれはそのまま日本仏教の衰退を早めるだけ。てか一度どん底まで落ちれば、質の悪い住職から檀家が離れて淘汰されていくからその方がいいのかな。
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DATE: 2007/01/17(水)   CATEGORY: 未分類
すべての魂よ安らかに
ひたすら卒論をよんでメモをとる。

私の指導がいいせいか、生徒の頭と聞き分けがいいのか、みなさん非常にいい力作を書いてる。

くどくど書き方指導したからな。

「レポートと論文はチガウ」って。

↑これ結構わかっていない人多いと思う。

なのでみなさん非常に自分の頭をつかってかいている。
今読んだ人のところまでだけど。

今日は阪神大震災で亡くなられた方の十三回忌。

なくなった方も、残された方も、みな、あまり悲しまないように。

わたしも母がなくなってからは、しばし悲嘆にくれ、世や我が身を呪いまくっておりましたが、十三回忌をすぎた頃くらいからずいぶん心が静まってきたような気がする。

残された人というのは、多かれ少なかれ、死者に対して何か自分を責める気持ちというのがあって、じつは喪失感とともにそれが苦しいのだけど、十三回忌くらいをすぎると温かい思いでとかその人から受け継いだものとか前向きに死者をとらえることができるのだ。

どうかすべての人が苦しまないように。


というわけで、作者未詳だけど、翻訳権はあるから通報される可能性もある有名な詩「千の風になって」を以下に引用します。

 これで泣ける人は、結構つらい別れを経験した人です。泣けない人は自分の幸せを喜んでください。


「千の風になって」

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています
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DATE: 2007/01/15(月)   CATEGORY: 未分類
徳川時代、浄土と天台は天国で真宗は地獄
 最近、両親教師とか医者とかいう中流家庭で、子供が暴発する事件があいついでいる。親が当たり前のように設定する高い目標達成ラインに、子供が押しつぶされているところにこれらの事件の病理がある。

 わたしはごろうちゃん(オカメインコ)と餓鬼道(猫)という二人の息子の親になってみてよくわかったが、親というものは、子供が楽しそう、幸せそうな姿を見せるときが一番幸せなのである。

で、医者や教師の家庭では、親は安定した社会的地位を築いているから、子供にも同じような幸せを享受させたい。だから、いい学校でて、あまり忙しすぎなくて、いい給料をもらえる職業について、いい人をお嫁さん&お婿さんにお迎えして、とステロタイプな将来図を描くので、いきおい「勉強しろ」っちゅーことになり、親のしいたそのレールを子供が思うようにすすめなくなったと感じた時、「達していない」自分を悲観して殺したり、「自分を苦しめる価値観を提示する」家族を殺したりといった事件に走る。

 子供に苦労をさせたくない、という親心が逆に子供をおいつめて苦労させているのである。

 悲しいようなアホなような話である。

 たった一つの狭い目標設定にとらわれてその達成の可否によってのみ自分の幸不幸を判断するから、それが手に入りそうにないと分かると、すべてをリセットして自分や他人を殺めようと思ったりするわけである。
 
 その点わが家の愛息子のごろうちゃん(オカメインコ)は、ちょっとしたもの(ゴムひも、爪楊枝、紙箱)にも幸せをみつけて

「なんだかとってもハッピー」

と遊んで歌って踊っているわけだから、家の中も明るくなるというもの。両親が教師であるにもかかわらず、高い目標ラインを設定せず、ただ彼が楽しめるように環境を整えたわれわれの子育ては成功したといえるのではないか。

 これ以上いうと〔人間の〕お子さんをお持ちの親御さんからぶん殴られそなのでやめておく(笑)。

 さて、昨日、今日と採点の合間を縫ってわが家に比較的近い(城南)、徳川家にゆかりの天台宗と浄土宗の名刹を訪ねる。

 カンドーしました。天台宗の方は都立大学駅と西小山駅の間にある円融寺。何とここの釈迦堂と仁王門は都内でもっとも古い建物のうちの一つで室町時代。境内に入るや、タイムマシーンで江戸にたどりついたみたいなかんかく。

 とにかく二十三区内とはおもえん広大な昔空間。

 この地域はどうも昔は農村地帯なので昭和20年のアメリカの空爆が及ばなかったよう。もとは日蓮宗の不受不施派だったようだが、徳川に弾圧されて天台宗に改宗。

 そして寺紋の採取に入ると(むろん指紋の採取のオヤジギャグだ!)、いたるところに、おお、金輪が。そして菊の御紋が。

 カンドーする。門前にある三田からうつってきた浄土宗のお寺正泉寺も葵の御紋である。浄土宗も天台宗も徳川幕府の庇護のもと栄えたので過去の栄光の余韻がまだ境内のそこここにほのかに薫っている。

 それに比べて情けないのが、浄土真宗の寺院。道中通り過ぎた浄土真宗本願寺派の宗○寺はせっまい敷地一杯に戦後すぐにたったかのような平屋のボロ屋一軒がぎっちぎちにたっていて、表札なんかひび割れて、それはもう哀れで正視に耐えなかった。

 今日訪れたのは、下丸子駅前の光明寺。浄土宗のお寺なので寺域広大。弘法大師作の弁財天、聖徳太子作の観音様を安置する、古刹中の古刹である。

 環状八号線がこのお寺の墓地をつぶす計画であることがわかった時、歴史ある寺をまもるため檀家がんばって23年もの間、環八はこの部分で不通であった。

 しかしわりあい最近ようやく話がついて、墓地を移動させ、鐘楼をたて、仏殿を動かし、環八が見えないように寺域を整備した。
 此処のお寺には境内に大きな沼があり、目黒線から美しい風景が見えたものだが、最近は工事現場のようなトタンで囲ってある。

 子供が水死とかしたら大騒ぎになるからだろう。

 道路ができる→子供の遊び場がなくなる→子供お寺とか神社で遊ぶ→事故がおきる→親が寺とか神社とかを訴える→寺や神社はそうなるのがいやなので閉鎖的になる→寺や神社がいよいよ共同体から遊離する→あー、こりゃこりゃ。

 というわけで、すべて人口の増加と開発がすべて悪い。

それにしても、大田区教育委員会、このお寺もそうだけど、史跡の案内があまりにもなさすぎる。目黒区教育委員会も新宿区教育委員会も、もっと気合いいれて寺や神社ごとに案内版をたてておるぞ。

 大田図書館も品揃え悪いし、あんな高い区税とっておいて、文教費けちるな。

 一納税者として断固抗議する!
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DATE: 2007/01/13(土)   CATEGORY: 未分類
OBの方に伺う"仏青の過去の栄光"
新年第一回目の仏青の会合はOBの方もまじえて。
現役は・・・・。聞かないでくれ。

いきおい、OBの方とグチのこぼしあいになる。
「仏教はこんなにすばらしいのに」「仏青にはこんなに歴史があるのに」「どうしてこうなっちゃったんでしょうねえ」

 同じ悩みをもつ二人のおじさんと一人の私はすぐに百年前からの知己のようにうち解ける。

 OBの方によると昔仏青は60人から100人は部員がいて、日替わりで、座禅したり仏教美術を学んだり、勉強会やったりとそれはさかんだったそう。

 他の大学の仏青もまとめて、連合会のようなこともやってそれはもう沢山の人が集まったのだそうな。

 その頃は部室はかの早稲田雄弁会と同じで、雄弁会の連中が仏青に入ってきたこともあったという。

 部員の出身学部は法学部とか政経もあり、会長も仏教とは全然関係ないジャンルの研究する先生がなっていて、今みたいに、会長は文学部の東洋哲学出身、部員も文学出身者部ばかりというような偏りもなかったのだそう。

 仏青が見るも無惨な凋落をはじめたのは今からかれこれ、二十年くらい前のこと。あれよあれよといううちに部員の数がへり、十五年前くらいに一度消滅しかかったのだそうな。

 歴史ある仏青をつぶしてはならんと、文学部の東洋哲学科のM先生が世話人になってその先生のゼミ生を部員にしてなんとかもちこたえたものの、好きで始めた部活でもないため、活動はもりさがり、現在のていたらくに至る。

 悲しい話である。

 これは仏青にとどまらず、歴史ある他の座禅サークルも今現在のところ部員一人。仏青と下を競い合うさびれよう。

 この座禅サークルも昔はとても人気があったのに。

 凋落の原因は長引く低成長時代における若者の嗜好の変化とかオ○ム×理△事件とかいろいろあると思うが、やはり学生のビンボー化と未来予想図の不安定化が最大の原因だと思う。

 今も昔も仏教は王族・貴族の教え。お釈迦様が酒池肉林のはてに、その無意味をさとって出家してはじめた教えである。「大きすぎる欲、強すぎる自我は不幸のもと」という教えは、選ばれた一部の上層階級にしか通じない。

 今、アメリカで仏教がブームといっても、すべてのアメリカ人がダライラマを追い回しているわけではない。ダライラマを支持している層は、建国期からアメリカを動かしていたWASP(White Anglosaxon Protestant アングロサクソン系の白人でプロテスタント)正真正銘のトップ層である。

 では、今の日本の学生はいかなる状態か。

 わたしはここ数年、長い休みのあとには、学生たちに「どこに旅行に行った」かと聞いてみる。その昔は教室の半分くらいの生徒は海外旅行にでていた。しかし、ここ数年、二百人の教室でも海外旅行にでた学生はほんの二~三人しかおらず、旅行好きの学生がいても鈍行列車をつかった国内旅行が中心で、駅に寝泊まりするような超ビンボー旅行をしている。

 学生たちの海外に対する興味の喪失を、わたしは単純に「高校が受験に不利な世界史を教えないからか」あるいは「幼少の頃から自分が主人公のゲームばかりしてひきこもっている結果、外の多様な文化に目を向ける知的好奇心がドンマしたのか」とか思っていたが、

よく考えたら、学生、たんに金がないから海外にいかないのかもしれん。

 バイトバイトで生活に追われ、のぞんだところに就職できるかどうかもわからない、不安が一杯の低成長の時代の学生に、お貴族様の教えである仏教が共感をよぶはずもなかったのだ。

 しかし、学生気質のビンボー化が仏教系サークルの退潮の原因だとするなら、まだ勝機はある。

 今年からはじまる団塊の世代の大量退職は、新卒の学生に大きなチャンスをもたらし、あと数年もすれば学生たちの精神にはゆとりが生まれ、もう少し明るい雰囲気になるだろう。

 きっとあと数年で状況は改善する。

 夢は見るもの、語るもの。
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DATE: 2007/01/10(水)   CATEGORY: 未分類
徳川ゆかりの寺の紋章
太陰暦に近い暦で動いていた昔の日本やチベットは、十五日、すなわち満月までお正月を祝っていたが、太陽暦になった今、十五日までやる意味はなくなってしまった。


年々短くなる日本のお正月気分は四日くらいになると薄まり始め、十日の鏡開きの今日ともなるともう名実ともにお正月は終了。

 形ばかりの小さな鏡餅を飾っていたので、これを開こうと思うのだが、開けん。
「押すだけポン」という、餅が簡単にとびだすことをうたい文句にした商品なので選んだのだが、そもそも底のふたが強固にひっっいていて剥がれない・・・

 ジャム瓶とかのふたがはずれない時も思うのだが、今の私ができないなら、年とった人はもっとできないわけで、今全国のお年寄りがこの「押すだけポン」があかなく困っているかと思うと、鏡餅はやっぱどんなにひび割れようと、カビが生えようと、ナマの鏡餅を飾り、ジャムは手作りにして瓶につめずにタッパーにいれた方が正解だ。

 そういっているうちに底ふたがはがれたが、今度は押してもでないよ・・・・。

 このお正月は将軍様に関係する有名・無名の様々なお寺をめぐった。東京のお寺は徳川政権のもとで発展を謳歌したものの、徳川の世の終焉とともに、日本の文化大革命、明治元年の神仏分離令、ならびに、昭和二十年のアメリカの空爆(東京大空襲ともいう)で、ほとんどの寺が被害にあっておりひどい場合は廃寺となっている。

 文化大革命と空爆のどっちが彼らにとってきつかったかというと、やはり「徳川の代の終わり」の方がつらかったようである。

 そうだよねー、徳川がバックとなった寺檀制度にまもってもらっていたのが、突然徳川さんがいなくなっちゃったんだもんねー。空爆はだめ押しですな。

 さて、私がこれらのお寺を回って何をやっていたかという、瓦や賽銭箱や提灯やお墓においてある手桶にくっついている、そのお寺の寺紋を採取していたのだ。寺という建物が、文化大革命でやられようと、空爆でやけようとも、寺紋は変わらない場合が多い。

 それは寺のシンボルであり指紋でもあり、寺の歴史をつたえるインフォマティブな紋章なのである。

 たとえば徳川の祈願所やご膳所になっていた寺は葵の御紋がマークになっている。また、国家鎮護系の修法を行っていた天台系の寺は、金輪がシンボルにはいっている。そこに宮様が絡むと、仏教(金輪)+皇室(菊)=天台宗輪宝という寺紋が生まれてくる。

 この寺紋をもつ天台宗系の寺院はいろんな意味で面白い。

こうやって採取した寺紋写真を寺紋のところだけ切り取って並べるとグルーピングが楽になる、また、グーグルの画像検索でいってないお寺の寺紋が分かることもあり、つくづく便利な世の中である。


 あと、そのお寺の縁起のパンフレットも集めているのだが、どの寺もお守りとかお札とかはみえるところにあるのに、その寺の縁起を書いたパンフレットが表においてあったのは、上野の聖天さんだけ。鍵をかけた金庫から出してくる場合もあり、ひどい場合は、パンフレットつくってないところも多い。

 やる気ないんだろうな。

 もっと素材が集まったら、「将軍様の寺の寺紋」特集をやってみたい。 

そうそう、将軍様だけだと、「北の将軍様」がまっさきに頭にうかんでイメージ悪いので、「徳川将軍の寺」っていわなきゃね。
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DATE: 2007/01/07(日)   CATEGORY: 未分類
真言宗智山派の優雅なお正月
 今年の発毛出初詣の人出のランキングが発表された。

 警察庁は1月5日、正月三が日の人出(主催者調べ)を発表した。全国の主な神社、仏閣への人出は昨年より422万人多い9,795万人。トップは明治神宮で、前年比6万人増の311万人が訪れ、29年連続日本一となった。・・・ 2位以下の人出は、2位=成田山新勝寺(千葉県、290万人)、3位=川崎大師平間寺(神奈川県、287万人)、4位=伏見稲荷大社(京都府、270万人)、5位=熱田神宮(愛知県、235万人)ほか(1月5日23時42分配信 シブヤ経済新聞)。

山手線原宿駅の真ん前にあり、シブヤ新宿などの繁華街を従えた明治神宮が強いのはまあ当然として、二位(成田山新勝寺)と三位(川崎大師)にお寺がしいっかりと食い込んでいることに、みなさんお気づきでしょうか。

 実はこのお寺二つとも、真言宗智山派(ちさんは)のお寺である。智山派の本山と聞いてすぐに智積院と応えられる人は、智積院の隣にキャンパスをもつ京都女子大の学生を除けばあまり数は多くないのではないか。

 なんたって、本山よりも首都圏にある川崎大師と新勝寺の方が遙かに集客力があるもんね。この二つのお寺のお正月といえば、小さなお子さんはつぶされ、老人はフミしだかれ、人波で賽銭箱まで近寄れない人が遠くから紙幣・貨幣をバンバン投げ込むために、本殿前の床がまるごと賽銭箱に代用されている(それでも前の人の後頭部にあたって跳ねかえる)。

 ある程度お金がたまると、工事現場のヘルメットをかぶって頭を保護した関係者がほうきでお金をかきあつめて、寺の後ろで待っている銀行の現金輸送車につみこみ、車はピストン輸送でお金を銀行にもっていく。

 その金額は三が日で、一年間の寺の運営費を軽くかせぎだす・・・

 お正月なので景気のいい話をしてみましたが、みなさま、いかがでしたか。

 ついでにいえば、その銀行はお寺に堂塔の新築をすすめまくり、その結果、成田山や川崎大師の境内には毎年のように新しいお堂がたつ。もちろんお寺はホリエモンよりは良識があるので、インドに幼稚園つくったりとか、研究所の運営もやっていたり、港区に「癒しのビルディング」(総本山智積院別院 真福寺ともいう)を造っていたりするので、社会にも少しは還元している。

 沈滞するお寺の中でも川崎大師・成田山が例外的に栄えているのは、商売繁盛・家内繁栄といった庶民の希望に、ストレートにこたえる現世利益の寺であることが大きい。

 現世利益も、仏様への向かい合い方として否定されているわけではない。病気や貧乏は仏法を学んだり、実践したりとかいうことの障害になるから、それを取り除こうという祈りは昔から行われてきた。

 しかし、川崎大師・成田山に来ているひとのどれだけが、仏教の修行を前提に現世利益を祈っているかといえば、それはナゾである。

 大半の人は、ただ儲けたい、ただ、幸せになりたい、だけで手を合わせ万札を賽銭箱に投げ込んでいるんだろう。やはり、せっかく集まってきた人に、弘法大師空海のお言葉をかいたパンフレットを配るとか、多少なりとも仏教の教えをたれてもバチはあたらんと思うのだが。

 弘法大師様のお言葉は実に含蓄がある。
 年頭にあたって、お大師様のお言葉から一つ。

「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥(くら)し」

 無明の闇を生死流転するいきもののしょうもなさがよくでた、広大な仏教の死生観が感じられるいい言葉だと思います。

 鉛筆書き初めは東寺長者が記した『書いて味わう 弘法大師のこころ 』(学研)、これで決まり。
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