狭山不動尊と浅間観音
中央線沿線に引っ越されたばかりの某先生(男)が、車内でホモの知漢にあったそうである(ちなみに、漢字が誤字なのは自動で貼られる不快なコメント・トラバを避けるため)。
A先生(女)「混んでいたから手が偶然当たったんじゃないですか」
被害者の先生「それがなで回されたんですよ。気のせいじゃないですよ。気持ち悪い。」
私「その場で締め上げて、駅員に引き渡せばよかったじゃないですか」
被害者の先生「早稲田の先生がホモの知漢を捕まえたとかいって、笑いものになるのがオチですよ」
私「どははははは」
被害者の先生「妻もそうやってバカ笑いしてました・・・」
女性が知漢にあったら同情されるし、勇気を出して引き渡せば「よくやったね」と回りからほめられるが、男が知漢にあっても笑いものにしかならんし、締め上げたところで「ああご苦労さん」で終わり。悪くすると笑いもの・・・・。
強くあらねばならない、男というものはつらいのう。
前回のお話にのぼったように、寛永寺(天台宗)と西武グループの創業者、堤康次郎さんはとっても仲良しだったみたい。
1951年に堤さんは浅間山麓に、溶岩流が固まってできた奇観「鬼押し出し」をテーマパークとした鬼押し出し園なるものを開園します。
この押し出し園に1957年に寛永寺の灯籠が40基ほど移設されており、翌年5月には寛永寺の別院としてここに「鬼押し出し観音堂」(通称浅間観音)なるものが建ちます。
これは浅間山の噴火でなくなった方々の霊を慰めるためのものだそうで、この功績で堤さん翌年1958年には天台座主大僧正より賞状をもらっております。
で、寛永寺(天台宗)と堤さんがラブラブなこの50年代は、増上寺(浄土宗)と堤さんはゲロゲロの紛争状態でした。
しかし、こうして争っていても仕方ないしー、と1957年に増上寺は堤さんと和解のテーブルにつきます。
その結果、1958〜1960年には増上寺の将軍家の墓の改葬が始まり、1960年には敷地内にある建築物はユネスコ村に移築され、石灯籠は「どんどんもってっちゃってー」と全国へ流出。
つまり、増上寺と寛永寺にある将軍家の遺産はおもに50年代から60年代前半に散逸したのでした。
この時期はじつは、1964年の東京オリンピックをひかえて、東京が一変した時期である。国は焦土から奇跡の復興を誇示するために、なりふりかまわず東京を開発したのである。
そして、外国人向けのホテルをたてる企業に税制を優遇したりしたため、堤さんのプリンス・ホテルグループは全国に飛翔した。復興が優先されるこの時期、文化財に気を回す人はいなかったのだ。
貧すれば鈍する。悲しいのう。
増上寺の徳川家霊廟の建造物が移築されたユネスコ村とは、西武が狭山湖のほとりにたてたテーマパークである。私はここに小学校の遠足で一度いったが、なんかいろんなところから寄せ集めた建物がたっていた記憶がある。
その時にはまったく気がつかなかったが、これは西武が大名や宮様の土地を買収して、その上にホテルなりなんなりをたてる時に、じゃまになった歴史的建造物をよせ集める場所であった。
堤さんによると、「ホテルがあったからみな土地が残ったんだ。ホテルがなかったら、土地を分けてみな売ってしもうとる。・・・」。
しかし、そもそも徳川家の霊廟とか、歴史的建造物とかは人類共通の遺産であり、その建造物を所有している一家族(徳川家とか)なり、一宗教法人なりにまかせておいていいものじゃない。その所有者が歴史的建造物を維持できなくなったなら、公共のものに移管してなんとかするのが真の文化国家というものではないか。
開発優先の50年代の日本は文化財壊しまくり、公害垂れ流しまくっており、北京オリンピックを控えて清朝の歴史建造物をどかどか壊してホテルを建てている隣の国を、まったく笑えない状態だったのだ。
しかしナゾなのは、1975年このユネスコ村内に西武の肝いりで狭山不動尊(天台宗別格本山)がたったこと。この寺の管理する建物は西武グループが投げ込んだ宗派も何もごった煮なもので、天台宗である必然性は全くない。浅間山のように鎮魂という動機もない。
どうしてここに寺がたたなければならないのだろう。
まさか、宗教法人化することで「税金をラクにしよー」なんて俗な理由じゃないですよね(はあと)。
参考文献 大西健夫他『堤康次郎と西武グループの形成』
参照ホムペ http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/index.html
A先生(女)「混んでいたから手が偶然当たったんじゃないですか」
被害者の先生「それがなで回されたんですよ。気のせいじゃないですよ。気持ち悪い。」
私「その場で締め上げて、駅員に引き渡せばよかったじゃないですか」
被害者の先生「早稲田の先生がホモの知漢を捕まえたとかいって、笑いものになるのがオチですよ」
私「どははははは」
被害者の先生「妻もそうやってバカ笑いしてました・・・」
女性が知漢にあったら同情されるし、勇気を出して引き渡せば「よくやったね」と回りからほめられるが、男が知漢にあっても笑いものにしかならんし、締め上げたところで「ああご苦労さん」で終わり。悪くすると笑いもの・・・・。
強くあらねばならない、男というものはつらいのう。
前回のお話にのぼったように、寛永寺(天台宗)と西武グループの創業者、堤康次郎さんはとっても仲良しだったみたい。
1951年に堤さんは浅間山麓に、溶岩流が固まってできた奇観「鬼押し出し」をテーマパークとした鬼押し出し園なるものを開園します。
この押し出し園に1957年に寛永寺の灯籠が40基ほど移設されており、翌年5月には寛永寺の別院としてここに「鬼押し出し観音堂」(通称浅間観音)なるものが建ちます。
これは浅間山の噴火でなくなった方々の霊を慰めるためのものだそうで、この功績で堤さん翌年1958年には天台座主大僧正より賞状をもらっております。
で、寛永寺(天台宗)と堤さんがラブラブなこの50年代は、増上寺(浄土宗)と堤さんはゲロゲロの紛争状態でした。
しかし、こうして争っていても仕方ないしー、と1957年に増上寺は堤さんと和解のテーブルにつきます。
その結果、1958〜1960年には増上寺の将軍家の墓の改葬が始まり、1960年には敷地内にある建築物はユネスコ村に移築され、石灯籠は「どんどんもってっちゃってー」と全国へ流出。
つまり、増上寺と寛永寺にある将軍家の遺産はおもに50年代から60年代前半に散逸したのでした。
この時期はじつは、1964年の東京オリンピックをひかえて、東京が一変した時期である。国は焦土から奇跡の復興を誇示するために、なりふりかまわず東京を開発したのである。
そして、外国人向けのホテルをたてる企業に税制を優遇したりしたため、堤さんのプリンス・ホテルグループは全国に飛翔した。復興が優先されるこの時期、文化財に気を回す人はいなかったのだ。
貧すれば鈍する。悲しいのう。
増上寺の徳川家霊廟の建造物が移築されたユネスコ村とは、西武が狭山湖のほとりにたてたテーマパークである。私はここに小学校の遠足で一度いったが、なんかいろんなところから寄せ集めた建物がたっていた記憶がある。
その時にはまったく気がつかなかったが、これは西武が大名や宮様の土地を買収して、その上にホテルなりなんなりをたてる時に、じゃまになった歴史的建造物をよせ集める場所であった。
堤さんによると、「ホテルがあったからみな土地が残ったんだ。ホテルがなかったら、土地を分けてみな売ってしもうとる。・・・」。
しかし、そもそも徳川家の霊廟とか、歴史的建造物とかは人類共通の遺産であり、その建造物を所有している一家族(徳川家とか)なり、一宗教法人なりにまかせておいていいものじゃない。その所有者が歴史的建造物を維持できなくなったなら、公共のものに移管してなんとかするのが真の文化国家というものではないか。
開発優先の50年代の日本は文化財壊しまくり、公害垂れ流しまくっており、北京オリンピックを控えて清朝の歴史建造物をどかどか壊してホテルを建てている隣の国を、まったく笑えない状態だったのだ。
しかしナゾなのは、1975年このユネスコ村内に西武の肝いりで狭山不動尊(天台宗別格本山)がたったこと。この寺の管理する建物は西武グループが投げ込んだ宗派も何もごった煮なもので、天台宗である必然性は全くない。浅間山のように鎮魂という動機もない。
どうしてここに寺がたたなければならないのだろう。
まさか、宗教法人化することで「税金をラクにしよー」なんて俗な理由じゃないですよね(はあと)。
参考文献 大西健夫他『堤康次郎と西武グループの形成』
参照ホムペ http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/index.html
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