『清実録』に「甲康」とされた「家康」
ある春の日であった。『清実録』をまったりと流し読みする白雪姫の目に、一つの人名がとまった。
「甲康」
満洲人の名前にしては何かヘン。その記事を身を入れて読んでみると、「日本国大君」「日光山甲康霊廟」とあるではないか。
大君(tycoon)とは言わずと知れた徳川将軍の国際呼称。
さらに、「日光山に霊廟」をもつ将軍様といえば、家康である。
では、この甲康は家康か。
甲と家は中国語の発音ではイントネーションが異なる以外音は同じjiaだからな。
にしても、徳川家の重要な「家」文字が、かに道楽みたいになっちゃって・・・。
おいたわしい。
そいでもって、この記事の内容をいい加減にまとめるとこんなとこ。
時は崇徳八年三月甲午(西暦では1643年)。
朝鮮国政府から清朝に以下の報告があった。
「去年の二月対馬の倭人(日本人の蔑称)が朝鮮に使者を送ってきた。
その使者いはく、『日本国の大君(三代将軍家光)が40になっても子供に恵まれないので困ってたが、去年やっとお世継ぎが生まれて「若君」と名付けて(はい、笑うとこですよ)、国中大喜びだって。
それともう一つ。
大君が日光山の甲康廟の後ろに祠を新造した。貴国もここ(日光)に祭器とか送ってみてはどう。』
そういわれたので、われわれ朝鮮はいろいろ検討して祭物送りました。」(学者としてかなり恥ずかしい訳)
東アジア世界では隣国の王の葬式に祭器を送るというのはよくやっていたことだが、崇徳八年といえば、清朝の満洲人が北京を占領する前年である。
かに道楽みたいな名前で満洲人の歴史書に名前を記された、家康とドハデな日光東照宮。東アジアのロマンである。
そこで、『慈眼大師全集』を見ると、家康の年忌法要の際には、ちゃんと朝鮮使の座がある。
おそらくは朝鮮から送られた祭物も日光山のいづこかに所蔵されていることであろう。
今度日光いった時、聞いてみよう。
で、どっちに行けばいいのかな。東照宮と輪王寺。
「甲康」
満洲人の名前にしては何かヘン。その記事を身を入れて読んでみると、「日本国大君」「日光山甲康霊廟」とあるではないか。
大君(tycoon)とは言わずと知れた徳川将軍の国際呼称。
さらに、「日光山に霊廟」をもつ将軍様といえば、家康である。
では、この甲康は家康か。
甲と家は中国語の発音ではイントネーションが異なる以外音は同じjiaだからな。
にしても、徳川家の重要な「家」文字が、かに道楽みたいになっちゃって・・・。
おいたわしい。
そいでもって、この記事の内容をいい加減にまとめるとこんなとこ。
時は崇徳八年三月甲午(西暦では1643年)。
朝鮮国政府から清朝に以下の報告があった。
「去年の二月対馬の倭人(日本人の蔑称)が朝鮮に使者を送ってきた。
その使者いはく、『日本国の大君(三代将軍家光)が40になっても子供に恵まれないので困ってたが、去年やっとお世継ぎが生まれて「若君」と名付けて(はい、笑うとこですよ)、国中大喜びだって。
それともう一つ。
大君が日光山の甲康廟の後ろに祠を新造した。貴国もここ(日光)に祭器とか送ってみてはどう。』
そういわれたので、われわれ朝鮮はいろいろ検討して祭物送りました。」(学者としてかなり恥ずかしい訳)
東アジア世界では隣国の王の葬式に祭器を送るというのはよくやっていたことだが、崇徳八年といえば、清朝の満洲人が北京を占領する前年である。
かに道楽みたいな名前で満洲人の歴史書に名前を記された、家康とドハデな日光東照宮。東アジアのロマンである。
そこで、『慈眼大師全集』を見ると、家康の年忌法要の際には、ちゃんと朝鮮使の座がある。
おそらくは朝鮮から送られた祭物も日光山のいづこかに所蔵されていることであろう。
今度日光いった時、聞いてみよう。
で、どっちに行けばいいのかな。東照宮と輪王寺。
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