十年前の思い出
暮れも正月もパソコンつかって今度だす専門書の版下づくり。
具体的にいえば、ダンナがマックのインデザインという版下ソフトを用いて版下をつくり、それをうちだしたものに私が赤入れをして、最後の見直しをする。
へんに世の中が便利になったため、編集・印刷業者の仕事まで、著者がやる時代になった(研究者の場合限定)。
その合間合間に、人の論文みたり、自分の論文の初稿みたり、と不毛な毎日。
近所に食事にいくと、暮れや正月はほろ酔い気分でくつろぐ人たちにまじって、われわれはパソコンや初稿原稿を机の上にひろげる。明らかにカタギではない。
そう、こんな暮れが十年前にもあった。
早稲田のモンゴルゼミで『アルタン・ハン伝訳注』を出した時である。
アルタン・ハンとは1578年にダライラマ三世と青海で会合し、モンゴルにおけるチベット仏教の興隆を促した功労者である。この人の伝記をモンゴルゼミの先生と学生五人とで訳注つけて出した。
本文は授業で一回よみ、そのあと出版用にもう一度よみなおした。そこでみなが力つき、註はそれぞれが得意とする分野によってふりわけて、分担することにした。
たしか、十二月くらいにみなの註原稿があつまってきて、本文と合体させることとなった。
わたしはA型のわりには、ずぼらで物事を気にしない方である。しかし、あの十二月段階の原稿はとにかくすごかった。
一人の人間のカタカナ表記が担当した人によって違う、文体はもちろん違う、同じことを別の人が別の箇所でいうのがダブっている、全編を通じていえるものすごい不統一。 こりゃひどい。
でも、みんなもう疲れていた。みじんもやる気がなかった。
しかし、私はいった。
「これをこのままだすのは研究者として恥ずかしい。合体した原稿をもう一度全員で読み直そう」
それからが地獄だった。
冬休みに入った研究室で朝から晩まで、読み合わせ。この時は版下は出版社にまかせてあったので、訂正部分については、紙原稿に修正液でなおしたり、パソコンでうちだした文章をはりこんだりしてなおしていくしかなかった。訂正箇所があまりにおおく、原稿は、日に日に分厚くなっていく。
冬至を過ぎると文学部前の放生寺と穴八幡で一陽来復のお札をうりだす縁日がたつ。その縁日を昼御飯のあと訪れるのが唯一の娑婆の思い出である。
しかも、ある時期から構内で工事がはじまり、停電になった。
停電ということはエアコンが入らないこと。寒いのでみなコートをきこんで読み合わせ会を続けた。やがて衝撃の事実に気がつく。
水もとまっているということに・・・。
トイレがながれん!
タンクに水があるうちはいいが、使い切ると流れないのである。
仕方ないので、各階のトイレをまわって、一階ずつタンクの水を使っていった。
というわけで、悲惨な中にも笑いのある日々であった(笑っていたのは私だけだけだったけど)。
ところで、私は言いだしっぺであるにもかかわらず、みなの白い目をあびながら夜はまっさきにひきあげていた。
だって女の子だもん。暮れの最後の日は殿方はみな二時までよみあわせを続け、タクシーで還ったという。
年が明けてからは、某二人の殿方が索引作成その他のお仕事で合宿(一方の家にとまりこんで仕事をすること)することになり、こうして『アルタン・ハン伝』は世にでたのである。
殿方がリッパにお仕事をしてくれたお陰である。
あのときには多くのことを学んだ。
修正液が乾かないうちにボールペンで直しをいれると、そのボールペンは遠からず死ぬ、ということは中でも大きな発見だった。
そして、今・・・・・
殿方はダンナいかいない。手が足りなくて索引つくるのは私しかいない。
今回は索引なしだな。
具体的にいえば、ダンナがマックのインデザインという版下ソフトを用いて版下をつくり、それをうちだしたものに私が赤入れをして、最後の見直しをする。
へんに世の中が便利になったため、編集・印刷業者の仕事まで、著者がやる時代になった(研究者の場合限定)。
その合間合間に、人の論文みたり、自分の論文の初稿みたり、と不毛な毎日。
近所に食事にいくと、暮れや正月はほろ酔い気分でくつろぐ人たちにまじって、われわれはパソコンや初稿原稿を机の上にひろげる。明らかにカタギではない。
そう、こんな暮れが十年前にもあった。
早稲田のモンゴルゼミで『アルタン・ハン伝訳注』を出した時である。
アルタン・ハンとは1578年にダライラマ三世と青海で会合し、モンゴルにおけるチベット仏教の興隆を促した功労者である。この人の伝記をモンゴルゼミの先生と学生五人とで訳注つけて出した。
本文は授業で一回よみ、そのあと出版用にもう一度よみなおした。そこでみなが力つき、註はそれぞれが得意とする分野によってふりわけて、分担することにした。
たしか、十二月くらいにみなの註原稿があつまってきて、本文と合体させることとなった。
わたしはA型のわりには、ずぼらで物事を気にしない方である。しかし、あの十二月段階の原稿はとにかくすごかった。
一人の人間のカタカナ表記が担当した人によって違う、文体はもちろん違う、同じことを別の人が別の箇所でいうのがダブっている、全編を通じていえるものすごい不統一。 こりゃひどい。
でも、みんなもう疲れていた。みじんもやる気がなかった。
しかし、私はいった。
「これをこのままだすのは研究者として恥ずかしい。合体した原稿をもう一度全員で読み直そう」
それからが地獄だった。
冬休みに入った研究室で朝から晩まで、読み合わせ。この時は版下は出版社にまかせてあったので、訂正部分については、紙原稿に修正液でなおしたり、パソコンでうちだした文章をはりこんだりしてなおしていくしかなかった。訂正箇所があまりにおおく、原稿は、日に日に分厚くなっていく。
冬至を過ぎると文学部前の放生寺と穴八幡で一陽来復のお札をうりだす縁日がたつ。その縁日を昼御飯のあと訪れるのが唯一の娑婆の思い出である。
しかも、ある時期から構内で工事がはじまり、停電になった。
停電ということはエアコンが入らないこと。寒いのでみなコートをきこんで読み合わせ会を続けた。やがて衝撃の事実に気がつく。
水もとまっているということに・・・。
トイレがながれん!
タンクに水があるうちはいいが、使い切ると流れないのである。
仕方ないので、各階のトイレをまわって、一階ずつタンクの水を使っていった。
というわけで、悲惨な中にも笑いのある日々であった(笑っていたのは私だけだけだったけど)。
ところで、私は言いだしっぺであるにもかかわらず、みなの白い目をあびながら夜はまっさきにひきあげていた。
だって女の子だもん。暮れの最後の日は殿方はみな二時までよみあわせを続け、タクシーで還ったという。
年が明けてからは、某二人の殿方が索引作成その他のお仕事で合宿(一方の家にとまりこんで仕事をすること)することになり、こうして『アルタン・ハン伝』は世にでたのである。
殿方がリッパにお仕事をしてくれたお陰である。
あのときには多くのことを学んだ。
修正液が乾かないうちにボールペンで直しをいれると、そのボールペンは遠からず死ぬ、ということは中でも大きな発見だった。
そして、今・・・・・
殿方はダンナいかいない。手が足りなくて索引つくるのは私しかいない。
今回は索引なしだな。
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