白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/10/27(水)   CATEGORY: 未分類
仏伝の魅力
台風来るけど本日!
横浜で「チベット仏教とダライラマ」を講演します。初めての方もベテランも聞き応え十分。ダライラマ、来日前に仏教を勉強しよう
◆演題:チベット仏教とダライラマ14世
◆時日 10月30日/ 11月20日(全二回)
◆会場:朝日カルチャーセンター横浜(横浜駅の真上)
◆問い合わせ先: TEL:045-453-1122(朝カル横浜教室)
詳しく知りたい方、ここクリック

駅前の大型スクリーンで九星暦の占いを流していて、私の本命星、二黒土星は「あてのない散歩にでるといいことあり」と先週でていたので、土曜日にあてのない散歩にでてみた。

 古本屋に入ると、チベット語の『方広大荘厳経』(rgya che rol pa)を、1860年にフーコーがフランス語訳した『ブッダの境涯』(東方出版)が格安で手に入った(和訳自体は1996年と最近のもの)。占いは当たったのである。しかし、そのあと公園にまわった所、予報よりも早く雨が降り出しずぶぬれて帰ることとなる。
 先週の卦であったから、始めよくとも終わりが悪くなるのであろうか。

 この『ブッダの境涯』は、簡単にいうと仏教を開いた釈尊の伝記である。今週の末に横浜駅上のセンターで、「世界の中のチベット仏教」みたいなテーマについて講座を行うことになっているので、いいタイミングでいい現物史料が手にはいった。

 この『ブッダの境涯』によって19世紀のヨーロッパには仏伝ブームがおきた。お釈迦様の伝記は小説、戯作、オペラなどにしたてられ、イギリス人は荒れ果てていた仏跡の発掘にとりかかった。

 なぜ、西洋において仏伝がかくも受けたのかといえば、それは近代精神にマッチしたからである。

 イエスの生涯が、神による処女懐胎から始まり、人の罪をあがなって死んだ後、復活したことが示すように、その教えは造物主である神の存在を前提としている。神はその一人子(イエス・キリスト)を使わしてくださる程、人間を愛してくださったのだから、キリスト教徒は神の愛に応えようと、おのれの欲望を慎むように求められる。
 
 しかし、西洋人は神の愛も神による救済も否定して、中世を終わらせた。こうして始まった近代は彼らに物質的な豊かさはもたらしても、精神の安らぎはもたらさなかった。かつては社会が担保していた人格の陶冶や道徳の習得を個人的な問題としてしまった結果、道徳の低下に歯止めがかからなくなった。

 近代人は快楽をどん欲に貪っているうちに、精神の空洞化を招き不安な自我を抱えるようになり、ありとあらゆる精神病が社会問題となってきた。だからといって、すでに否定してしまった宗教的なドグマにはもはや頼れない。

 
 そこで、仏教なのである。仏教は苦しみを個人の問題とし、自らの心を陶冶し、その悪い心の性質(煩悩)とそれが残した者(習気)をとり除くことによって、心の平安を得られるとする。そこには造物主も天使も預言者も必要なく、そこには哲学とそれを実行するための実践が述べられていた。

 仏教の宗教宗教していない哲学性が、西洋人に受けたのである。
 そして、また、その開祖の伝記も近代精神にマッチした。

 お釈迦様は幼名シッタールダといい、釈迦族の王子として生を受けた。容姿に恵まれ、文武のあらゆる才能を生まれながらにもち、父親と継母にできあいされ(実母はお釈迦様をうんで七日後に亡くなられた)、贅沢な暮らしに明け暮れていた。しかし、29才のある時、はじめて、世の中には老いがあること、病があること、その果てに死ぬことをしってしまう。

 お釈迦様は激しい鬱状態に落ち込んだ。この根本的な苦しみには王位も贅沢な生活も無力であることを知っていたからである。こうしてお釈迦様は出家をして、それから六年間、ひたすら自らの心の矯正に励んだ。

 そして35才の四月十五日の満月の晩、覚りを開き、菩提樹の下で完全なる人格者となったのである。

 神の子でも何でもない、一人悩める男が、神の助けでも、計画でもなく、自助努力によって完全な人格者(正等覚仏)なっていく物語は神が不在となった西洋社会に喜んで受け入れられた。

 で、面白いのがここからである。和訳『ブッダの境涯』では第二十五章になるのであるが、お釈迦様は覚りの内容を人に明かすことなく、そのまま死んで輪廻から出て行こうとする。

 その理由は彼の思想があまりにも深遠であり、われわれのようなド凡夫には理解不可能だと判断されたからである。お釈迦様のそのような心を読んだ梵天の王はお釈迦様のもとにかけつけ、「どうか法を説いて下さい」と懇請したが、お釈迦様はうんと言わない。

 さらに、梵天は帝釈天や他の神々を誘ってお釈迦様の瞑想している元にいき、もう一度、その覚りの内容を説いて下さるようにお願いしたが、それでもお釈迦様はうんといわない。そこで、世界に厭世的なムードが蔓延する(笑)。

 そこで、三度梵天はお釈迦様の元にいき、合掌し、右膝を地に着け、仏に敬礼すると「あなただけが命あるものを解放することができる、どうかこの命あるものを哀れんで下さい、ひからびた大地に雲が雨を降らせるように、法の雨を降らせてください」とこれに類することを何パターンも表現をかえて述べてしつこく懇請した。

 するとやっとお釈迦様の心に

「私が法を教えても、教えなくても、誤った見解をもつ連中は、この法を理解することはできないであろう。
私が教えても教えなくとも、真理の見解をもつ者はこの法を理解するであろう。
しかし、どちらの見解にもまだとらわれていない人々について言えば、もしも私がこの法を説くならば、彼らは私の法を理解するであろうが、もしも私が法を説かなければ彼らは理解しないであろう」と思い至り、この「まだ真理にも邪見にもどちらにも傾いていない人々」のために法を説くことを決意した(チベット原文見てません 笑)。

 こうして、我々の知る仏教の歴史が始まったのである。

 この仏伝の記載に従って、今でもチベットでは請われることなくして、僧が法を説くことはない。誰かが、法を説いて下さい、と言わない限りは彼らは法を説かない。ダライ・ラマに来日して戴くために、関係者がお百度参りをすることになるのはこの伝統に則ってのことなのである。

 彼らは自分たちの教えが人を善くすることをしっているし、それを語りたいとも強く願っているけれども、それを自分からでていってガンガン布教したりはしない。あくまでも施主の要望にそってのみ、教えは説かれるのである。だから、彼らの話を誰も聞こうとしなくなった時、彼らはただ、その人格を陶冶するテクニックを抱いたまま沈黙したまま死ぬだけである。

 このような基本的に自分から布教しないことをモットーとする宗教がなぜ二千五百年も存続してこれたかというと、高僧が沈黙することによって不利益をこうむるのは仏教教団ではなく、それを聞くことのできない、我々自身だからなのである。
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DATE: 2010/10/23(土)   CATEGORY: 未分類
ひとかけらの神性もなくなって
さて、BBC中国語サイトに、中国政府が支持するパンチェンラマはズルによって選ばれた人であることがのっていたので、翻訳してみました。私は中国語が苦手で、漢文のニュアンスとか伝えるのはムリなので、読める人は原文みてね。

 ちなみに、文中の赤字は私のツッコミです。
 
2010年10月18日 グリニッジ時間12:30 蒙克

 青海のクンブム=チャンバリン寺(原文は塔爾寺ですが、中国名は正式名ではないので、チベット名で。ゲルク派の宗祖ツォンカパの生地に建てられた由緒ある寺で、ダライラマ三世の時代にドゥルワチュージェーによって本格的な僧院としてスタートを切る。)の前僧院長で中国仏教協会副主席のアキャ・リンポチェ(活仏とありますが、この単語は中国人のみの使用言語。仏は転生しません。なので、原文は活仏ですが、リンポチェの尊称に変えます)がBBC中国語サイトの独占インタビューを受けた中で、中京がチベット仏教の指導者であるパンチェンラマを選んだ際の「金の壺でのくじ引き儀礼」において、ズルをしていたと語った(しかし、そもそも歴史的にくじ引き儀礼が高僧の転生者を選ぶ正式手続きでもないし、ダライラマの選んだ候補も入っていないし、ズル以前に数々の欺瞞がある・・・)。

 チベット仏教二番目の指導者パンチェンラマ十世は1989年に遷化され、その転生者を選定する儀式が、六年後の1995年11月29日早朝、チベット、ラサのチョカン(原文では大招寺)で秘密裏に挙行された。当時の国務委員羅干と国務院宗教局葉小文は中央政府を代表して、転生者を選ぶくじ引き儀礼と冊封儀式(原文ママ。いつの時代だよ。爆笑)に参加した。

 アキャ=リンポチェとその他のチベットの転生僧はこのくじ引き儀礼に当時参加していた。アキャ=リンポチェはこう回想した。

「彼らは当日午前三時にチョカンにいった。ポミ=リンポチェが跪いた後に直接金の壺からある候補者の名前を記した一本の籤をぬきだし、その場にいた羅干に渡した。」(中略)

 国務院宗教局前局長葉小文

 羅干は象牙の籤を時の西藏自治区主席のゲルツェンノルブにわたし、ギャリ県のゲルツェンノルブが籤にあたり、第十世パンチェンラマの転生者であると認定した。このことは後に、チベット人の間で、笑い話として知られることとなる。「ゲルツェンノルブがゲルツェンノルブを選んだ」と。

 アキャ=リンポチェは早朝五時にチョカンから宿泊するホテルに戻り、次の日の午前当局の配下にあるテレビや新聞はくじ引き儀礼は午前十時にチョカンで挙行されたと伝えていた。アキャ=リンポチェは当時テレビと新聞などの近影で三本の籤の長さが均等でないのを見た。アキャ=リンポチェのこの疑問は、後に北京に戻る専用機の中で裏付けられることとなる。

 パンチェンラマの転生者の選定と十一世パンチェンラマの即位式がラサで挙行された後、アキャ=リンポチェとジャムヤン=リンポチェは国務委員李鉄英と中央政府の特使である国務院宗教事務局局長葉小文とともに、専用機にのって北京へと戻った。

 高官「天の機密を漏らす」(どんな"天だ" 爆笑)

 パンチェンラマの選定と冊封(笑)は当局の計画にそって順調に進行し、いわゆる「ダライ集団の破壊」などというものは起きなかった(再爆笑)。葉小文は飛行機の上で、李鉄英、ジャムヤン、アキャ両リンポチェに向かい、誇らしげに、彼らがダライラマが別の転生者を宣布した後にいかに努力して臨機応変に対処したかを語った。

 アキャ=リンポチェは今年三月に「Surviving the Dragon」(中国語訳 (順水逆風)という英文の自伝を出版した。彼はその中で葉小文の当時の肉声をこう伝えている。

 「我々は転生者を選定する過程で、万に一つの過失を犯さないように、選ぶことになっている人の名前を書いた象牙の籤を包む錦のカバーの中に綿をつめ、我々が選んだ人の籤が高くなるようにした。こうして選ぶことになっていた人の籤をうまくあてた。」

 『人民日報』のチベットに駐在する記者劉偉は1995年11月29日のくじ引き儀礼の現場にたちあってレポートしている。劉偉が事後に発表したレポートによると、くじ引き儀礼が挙行される前に最後に籤の名前をしらべたのは葉小文であり、「彼は籤を調べ終わった後、お盆においた細長い黄色の緞子のカバーを手に取り、籤をつつんだ。籤ごとに緞子のカバーでくるみ、葉小文は非常に長い時間をかけた。ついに葉小文は落ち着き払って三人の名前がかいた籤に黄色の緞子のカバーでくるみ、頭をあげ、態度はっきりしており、すごくリラックスしていた。」
(御用記者がヨイショ記事?)

 アキャ=リンポチェによると、当局が指定したパンチェンラマは今にいたるまでチベット人の広い支持を得ているとは言い難く、多くの寺院ではこのパンチェンラマの写真を掲げていない。

 アキャ=リンポチェ曰く、くじ引き儀礼は清朝皇帝がチベットの諸事務に対して権威を持つことを象徴するために行ったものであり、チベットの転生僧の認定においてこのくじ引き儀礼を用いるか否かについては議論がある、という(確かに、今のダライラマも、前のダライラマもこんな儀礼へてませんがな)。チベットの伝統に基づけば、転生者の名前は大麦の粉を丸めてつくった団子の中にそれぞれいれ、それを箱にいれてゆらして、箱から飛び出した団子に入っていた名前をそれであるとする儀礼はある。

 最後にアキャ=リンポチェが述べた占い法はタクディル(rtag bsgril)という占いである。かつて転生者を選定する際には、前代の側近による面接試験、シャーマンの託宣、前代の残した様々な予兆などに加えてこのタクディルの占いなども用いていた。

今回の証言を行ったアキャ=リンポチェは×国共産党の選んだ偽パンチェンに仕えることが耐えられず、翌年亡命した。

 今中国政府がもちあげているパンチェンラマはニュース中にも触れられているように、チベット人の人気は惨憺たるもので、それでも一応籤にあたるくらいラッキーさはあるのかと思いきや、あの茶番、もとい、くじ引き儀礼自体がはじめからゲルツェンノルブを選ぶために設定されていたとあっては、彼にわずかばかり存在していたかもしれない神性もこれで一巻の終わりとなったというお話でした。

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DATE: 2010/10/19(火)   CATEGORY: 未分類
考え方を変えてみる
 コメントしていただいた方の指摘によって初めて気づいたが、この直前のエントリー、ダライ・ラマ法王の講演紹介が拙ブログの500回目であった。

 ドイツに禅を普及させたヘリゲル博士は、禅の精神を弓術にたとえてこういった。「矢を的に当てようとしても当たらない。〔禅によって己がはからいを捨てる時〕矢はかってに飛んで的に当たる」と。

 つまり、500回目がダライラマの紹介というような偶然が起きるのも、日々己をむなしうしてチベット世界へとシンクロしているからなのである。と冗談はさておき、

 法王も来日することだし、最近でたダライ・ラマ14世の一日を描くDVD『サンライズ・サンセット』を一部紹介。
 このDVDの監督はロシア人で、前半部はダラムサラにいる時の法王の一日を、朝起きてから、夜寝るまでをおって、後半はスタッフが、中国を経由してシベリア鉄道でロシアに帰国するまでの間、法王の話を反芻する過程が述べられる。

 法王の一日は、自室の仏壇の前で五体投地をすることからはじまる。
 昼は行列を連ねてダライラマ付きの寺院にお出ましになり、一般人を相手に法話をする。その法話は英語、ロシア語、韓国語、など各国語に翻訳され、短波ラジオでそれぞれの聴衆に届く。
 夕ご飯は食べない。朝ご飯と昼ご飯のみ。テレビはBBCが好きで、たまたまテレビをつけると、そこに自分がうつっていて、笑う。
 スタッフはこのダライラマの日常生活の中で、法王の話をきく。
 ダライラマはこういう。

 世界の貧富の格差が深刻であること、富める者は貧しい者を救わないと、暴力がはじまる、人口抑制に取り組まないと、いずれ資源はくいつくされる

 たしかに、もう地球はキャパ一杯。あふれた人は境界を超え、異なった文化が適当な距離感をもって存在することは不可能になってしまった。今現在おきている世界の大半の問題はつまるところ、すべてこの膨大な人口が原因である。
 アメリカと日本の経済が上向かないのも、中国が横暴なのも、郵便ポストが赤いのも、つまるところは、人間が増えすぎたからなのである。

 法王は、出家者を増やすことによって人口増がのりきれるという。出家は子供を産まないからである(日本は例外的に僧侶が妻帯するが、上座部やチベットのゲルク派は妻帯しない)。

 そして、ナレーションが入る。
 1965年には45億だった人口は、1972年には50億、そして今は60億になっている。こうしている間にも一日25万人が増え続けている。
 スタッフは北京経由で帰ることにし、北京の人の多さにおどろく。彼らは列車でロシアに入るが、国境を越えたとたんにいきなり無人の大地がひろがる。実は今ロシアも少子化が問題になっていて、政府は子供を産むように奨励しているが、その効果はでていない。

 ダライラマはスタッフにこういったという。
中国は土地がなく、シベリアには広大な空き地がある。だから、人口の少ない国でムリにまた人口を増やすのではなく、国境の向こう側から中国人を受け入れてはどうですか。まず、中国・ロシアの合同軍を作るんです。できたら、モンゴル・韓国・インドもはいればいい。そして地域軍をつくって同じ問題に対処すれば、共感が生まれます。
でも、これは次の世代になってもたぶん実現しないでしょうね。


 この社会が禁欲の修行者を尊ぶ社会にかわること、ロシアが中国人の移民を受け入れることも、簡単に実現する問題ではないことを知っているのである。
 これをロシアではなく日本に置き換えても、簡単にいく問題ではないことは明らかであろう。

 しかし、法王の言葉は、なすべきことを語っていると考えれば、理解できる。

 我々は日々どうにもならない現実にじたばたしているが、この今、とか日々とかいう、短いスパンではなく、より長いスパンで見れば法王の言うことは真理である。

 法王は私邸のバルコニーでこのようにいう。
現在というのは相対的です。現在は一瞬といっても半分は過去で半分は未来と考えれば、現在はなくなります。一方、仏教には劫(カルパ)という天文学的に長い時間の単位がありますが、現在をもし今日ととらえたら、今日は24時間、今月ととらえたら、三十日、今劫ととらえたら、今わたしたちの百年の人生なんて一瞬です。物事は何と比べるかで変わってきます。

 そして、明日スタッフがロシアに帰るという夜、法王はこういった。
 「宇宙はいずれ崩壊します。世界は終わるときは終わります。」。この感覚は生物学者や宇宙物理学者とかの時間感覚に近いかもしれない。

 秒単位で為替の上下動に一喜一憂するのも、地球環境を巻き添えにして人類が滅ぶのも、劫という単位からみたら同じ一瞬のことである。ただ、自分たちの行い(カルマ)の結果を得るということだけは変わらないから、法王はあるべき人の姿を説き続けるのである。

 ダライラマ法王曰く
 「私は死を恐れていません。あえていえば、いつ死ぬかだけです。夢で過去生をみたことがあります。何百年も前のチベットだったり、もっと昔のインドでの生です。ブッダの時代にもブッダの近くにいました。服が擦り切れたら新しいのに取り替えるように、死ねば次の体に転生します。私の人生に終わりはありません。

 こうして、チベット人は「来世においてもラマと出会い、その教えと出会うことができるよう」に毎日、祈るのである。
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DATE: 2010/10/15(金)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ法王秋の講演予定
この秋、ダライラマ法王が再来日されます。
講演情報をまとめてみました。奈良講演追加しました。

不肖私目のコバンザメ宣伝をここでささっと。

10月30日から二回、横浜駅上の朝カルで、チベット仏教について濱風のように暑苦しく語ります(ここクリック)。

11月28日に信州善光寺様の寺子屋講座で、15:00から、チベットのマンダラについて信州の風のようにさわやかに語ります。秋の善光寺にいらっしゃいませんか?

そして、ここからが法王、この秋の講演日程です。西日本が中心ですね。

in 大阪

11月7日(日)
ピース・カンファレンス2010(http://www.pcy.jp/pc/)
<講演> 恒久的世界平和の実現に向けて ¿·¤·¤¤\\£\ó\ɥ¤¬³«¤­¤ޤ¹
日時: 2010年11月7日(日)10:00-14:45(開場8:30)
場所: インテックス大阪 6号館 C棟 
主催: JCI社団法人大阪青年会議所
お問合せ: 06-6575-5161

in 奈良

11月8日(月)
東大寺講演(http://twitpic.com/2zsydw)
<講演>これからの宗教者のあり方(10:00-12:00)
場所: 東大寺金鐘快感
縁起に基づき、平和と環境のためになすべきこと(14:00-16:00)
場所: 東大寺後堂 
主催: ダライラマ法王招致実行委員会
お問合せ: ダライ・ラマ法王 東大寺講演 10月26日10時~ チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:618-309) 問い合わせ:06-6367-1703(9:00~16:00)

in 四国

11月9日(火)
<対談> 対談「脳科学への旅」-心と脳- (http://www17.plala.or.jp/hagyuji/info_r4.html)
日時: 2010年11月9日(火)14:00-15:30

11月10日(水)
<法話>「ダライ・ラマ法王14世 般若心経を説く」

日時: 2010年11月10日(水)9:30-12:00
<講演>「人々を救う 空の智慧」
日時: 2010年11月10日(水) 14:00-16:00

場所: ユアーズコープ コープ会館2階会場
住所: 新居浜市泉宮町5番8号
主催: ダライ・ラマ法王14世猊下を囲む会
お問合せ: 0897-41-1578

in 広島

11月11日(木)
<法話>「輪廻と業果」-過去・現在・未来と「私」を見つめる(http://www.mmba.jp/)
日時: 2010年11月11日(木)13:30-16:30
ご法話:14:00-15:30 ※前後に法要等があります
場所: 広島市文化交流会館(旧:広島厚生年金会館)
主催: ダライ・ラマ法王Teaching 2010 in 広島実行委員会
企画+構成: 文殊師利大乗仏教会
お問合せ: 082-555-2288 (平日10:00~17:00)


11月12日(金)~14日(日)
ノーベル平和賞受賞者世界サミット(http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1283476821343/index.html)
お問合せ: 広島市市民局国際平和推進部平和推進課
電話: 082-504-2789
FAX: 082‐504-2790
メール: peace@city.hiroshima.jp
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DATE: 2010/10/11(月)   CATEGORY: 未分類
報道の使命
 実態の如何に関わらず、つねに大国意識を持ち続けてきた中国人にとって、中国籍のノーベル賞受賞者がでることは長年の夢であった。その第一号が今年ようやく平和賞に出た。

 天安門事件以来、中国共産党の一党独裁を批判し、民主化運動の先頭に立ち、2008年暮れには「零八憲章」を発表した(その時のブログはここです)、文筆家劉暁波さんである。

 この受賞の持つ意味は大きい。中国の歴史が続く限り中国人は、ノーベル賞を最初にとった中国人は体制を批判した人であった、という恥の歴史を持ち続けなければいけなくなった。世界が中国に全部占領されでもしない限り、中国人初のノーベル賞は獄中の反体制文筆家として記録され続ける。

 中国人の大半は、悪名高い愛国教育と報道統制により、中国政府が行っている、露骨な軍拡も、治安を口実にした少数民族の制圧も、情報統制も、まるで気にしていない。それどころか、国が傲慢なチベット人や日本人やアメリカ人に脅しをかけて、自分たちだけが有利に金儲けできる安定した環境を整備してくれてありがとう、くらいに思っている。

 13億の国民が、「ルールを破ってムリを通すことのできる強くなった自分への快感」に酔っているのである。これが意味することは一つ。かの国はそう簡単には変わらない。下手すれば民主化しても本質はこのまんまかもしれない。

 だから、この受賞の歴史的意義は、別の所にある。

 それは、後に続くものがなくとも、体制に弾圧されようとも、投獄されようとも、命をかけて普遍的な価値を追求する人がいることを世界が知ることである。中国人は特殊な状況下にあるためなかなか目が覚めないだろうが、中国人と同じように目先の利益を追求している人のうちの何人かは、普遍的価値の重要性を思い出す契機になることであろう。

 発表のあった金曜日の夜、私は8時50分にはじまったBSニュースを見ていた。

 ニュースは劉氏の受賞をトップニュースで伝え、中国政府が事前に様々な圧力をかけたこと、また13億の国の体制をゆるがすのだから、平和賞ではない、との中国政府の世迷い言を伝えたあと、選考委員会の委員長もつとめる元ノルウェー首相ヤーグラン氏の言葉が流れた。

「もし我々が皆、経済など自己の利害から〔中国の横暴に〕沈黙してしまえば、国際社会に受け入れられてきた(人権の)基準を下げてしまう」。

 NHKから珍しくも流れ出る美しい言葉とポジティブなエネルギーにうっとりする。

 そして、翌日の朝日新聞をみてさらにうっとり。朝日が幼児期を脱してやっと大人になろうとしている。これをはっきりさせるため、かつて朝日がどういうことをやっていたかを検証してみよう。

 1989年の天安門事件の年、ダライ・ラマ14世法王がノーベル平和賞を受けた翌日、朝日はこのような社説を掲げた:


平和賞は何をもたらすか(1989年10月7日社説)

 チベットのダライ・ラマ14世に、ノーベル平和賞が授与されることになった。チベットの宗教・政治の指導者として、非暴力の闘争を長年続けてきたことを評価したのだという。これに対し中国側は「内政干渉だ」と強く反発している。
 ノーベル平和賞はこれまでにも、ポーランドのワレサ氏やソ連のサハロフ氏ら、東側の体制の中で抵抗運動を続けてきた人物に与えられ、政権の神経を逆なでしたことがあった。今度のケースも、ダライ・ラマがインドに亡命政権を樹立しており、授賞自体が政治的性格を帯びている。
 選考委員会は、中国の政治指導者への非難を意図するものではない、と言ってはいる。しかし、87年秋から4回も起こったチベットの暴動に対する武力鎮圧、今年3月にラサで発動され、いまも続いている戒厳令、さらには北京・天安門の「血の日曜日」事件など一連の中国の強硬政策に対して不快の念を表明しようとする西側の意図が背後にある、と見ても見当違いではないだろう。
 中国の反発は当然予想されたことであり、全世界がこぞって祝福する授賞にならなかったのは残念である。平和賞があまりに政治的になり、対立を助長することにもなりかねないことに違和感を持つ人も少なくない。平和のための賞が結果として、チベットの緊張を高めるおそれさえある。こんなことになれば、「平和賞」の名が泣こう。
 チベットの人々にとって、この受賞の意味は大きい。チベット問題が広く世界に認識される足がかりとなるからだ。しかしあくまでダライ・ラマの「非暴力」が評価されたことを忘れてはなるまい。(中略)だからこそダライ・ラマ陣営にも望みたい。今度の受賞を機に、対決ではなく和解のために、流血ではなく和平のために、力を発揮することを。


 つまり、ノーベル賞が不和をもたらすといわんばかりの、まるで今年の×国様と同じ表現で選考委員会を批判したのである。

 さらに朝日のコラム天声人語も「毒を持つノーベル平和賞」という、間接的に、ノーベル平和賞が平和をもたらさないかのようなイメージを炸裂させた。そして決定的なのは、一般読者の投稿として、

政治亡命者は平和貢献者か ダライ・ラマのノーベル賞授賞(声1989年10月11日)

   大宮市 小原邦彦(会社員 51歳)
 インドに亡命中のダライ・ラマにノーベル平和賞が贈られることになりましたが、政治亡命者は平和貢献者でしょうか。一時的にせよ、国を捨て、民を捨て、国外の安全な場所に逃げ、衣食住に困らない生活が彼にはできる。捨てられた民から見ればぜいたくな生活環境で暮らせる人間が、真の平和貢献者とはどう見ても考えられない。
 1人の亡命者が出れば、数多くの捕らわれの民が出るし、その日の暮らしに事欠く民が数多く出ることを考えたとき、また、獄舎に入れられ、命を落とす民が数多く出ることを考えたとき、この亡命者は平和の貢献者と成り得ないと考えるのは私だけでしょうか。真の平和貢献者とは宗教にも政治にも片寄りのない、真の中立者でなければならないと思う。
 政治的に中立でない人を無理して選出すれば、それが新たな火種となって、また新しい犠牲者が出るであろうし、平和的ムードもぶち壊しとなる。
 適任者としての真の平和貢献者がいないときには無理して選ばない方がよい。いや、選ぶべきでなく、受賞者がいないのは、それが存在するよりも、もっと価値ある意思表示となるのではなかろうか。


 朝日の意見を読者の言葉という形で代弁させたのである。普遍的な価値をもつチベットの文化と民族性をまもるために奮闘してきた高僧を、このような貧困な言葉できめつける文章を紙面にのせたのである。この五毛党(中国政府からお金をもらって体制翼賛のカキコをする日銭稼ぎの人々)のような文章を読まされた日本の知識人の方達の脳内の夜明けはさらに遅れたことであろう。

 当時のブログにも書いたが、劉さんが2008年の12月10日に零八憲章を発表した際、他主要各紙はその日に記事をのせたのに、朝日は9日もたった19日になって、中国に政治改革の必要性を説く社説でたった二行触れただけ。

 そんな朝日も、今回の社説はまあ正気でした。

(社説)平和賞 中国は背を向けるな

 驚異的な経済発展とは裏腹に、民主主義や人権を大切にしてこなかった中国の指導者に、痛烈なメッセージが突きつけられた。
 中国の民主活動家で作家の劉暁波氏に、ノーベル平和賞が授与されることになった。1989年の天安門民主化運動にかかわり、それ以来暴力など過激な手段を使わず、言論活動一筋に民主化を求めてきた人物だ。
 ノルウェーのノーベル賞委員会は、こうした活動を高く評価した。
 北京五輪のあった2008年暮れ、劉氏は共産党独裁の廃止など根本的な民主化を訴える「08憲章」を起草した。そのことと党や指導者に対する批判が、「国家政権転覆扇動罪」に問われて懲役11年の判決を受けた。今は東北部の遼寧省で獄中にある。
 劉氏が平和賞の知らせを聞くことができたかは定かでない。少なからぬ国民も、当局による報道規制のために知らずにいるかもしれない。しかし早晩、授賞の知らせは中国で広がり、劉氏らとともに民主化につとめてきた人々への大きな励ましとなるだろう。
 ノーベル賞委員会によれば、中国当局は「反体制派への授与は非友好的な行為と見なされる」と警告していたという。だとすれば、急成長する経済や軍事力の増強による「大国意識」を背景にした強権的な一面が、ここでも表れたといえる。
 しかし、委員会は中国側の圧力に屈しなかった。高く評価したい
 中国当局は、政治的信条の平和的な表現を認める、自らも署名した国際規約に反し、言論の自由などをうたった中国憲法にも反している。委員会はそう厳しく批判し、中国の責任の大きさを指摘した。(後略)


 そして、天声人語はナチス・ドイツを批判したジャーナリストで1935年に獄中で平和賞を受賞したオシエツスキーを例に挙げて、劉氏の業績を称えている。中国政府をナチスドイツに称える点はよくできたと思います。そういえば、北京オリンピックの聖火リレーも、ナチス・ドイツの聖火リレーを想起させるとあちこちに書かれていましたね。

 つまり、ついこの間まで、中国様と同じ理論で動いていた朝日が、今回は一応ノーベル賞選考委員会の決定を称えたのである。つまり、朝日が持っていた「白黒はっきりさせることは混乱を生む。ああいう国だから刺激しないことが平和への道」という、ジャーナリストとしても人としても恥ずかしすぎる非論理的思考を、「刺激の有無にかかわらず、中国はどんどん驕って乱暴になっていく。自分がいくら遠慮しても相手は変わらない。なら、ここは「立派な人を立派である」と素直に顕彰するジャーナリズムの精神にもどろう」とあいなったわけであろう。

 そもそも、これまでマスコミが外交や経済の心配をして、国民の意識をコントロールしようとしてきたこと自体がおかしい。ジャーナリストは外交や経済について口を出す以前に、本来の使命である、「たとえ牢獄にほりこまれようが何だろうが、事実と真実を追究すること」をやればいいのだ。

そう、劉暁波さんのように。

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DATE: 2010/10/07(木)   CATEGORY: 未分類
闇鍋から生まれる「友愛」
 『スーパー・ナチュラル』のファイブ・シーズンがリリースされている。もともとX-fileと『ミレニアム』をパロったかのようなこのシリーズは、今シーズンさらに開き直った笑いに満ちている。

 このスーパーナチュラルの面白いところは、キリスト教の世界観に則っているものの、天使も悪魔もそこいらのおじさんに取り憑いてこの世で活動していて、預言者もそこいらの変なおじさんである。

 セラフィムのカスティエル(通称キャス)はなんか会計士みたいな人にとりついているし、大天使ラファエロは田舎の黒人の整備士だったり、ザカリエルは白人のパワハラ上司みたいなのにとりついている。「器」にされた人間は天使にさんざん体を酷使されたあげく、廃人とかになっちゃう。

 で主人公のイケメン兄弟はそれぞれ魔王ルシファーと大天使ミカエルの「器」なのだが、両者ともに兄弟で最終戦争するのがイヤなので、とりつかれることを許諾していない。キリスト教社会は契約社会だから、いかに魔王といえども大天使といえども「イヤ」という人にはとりつけないのである。

 で、業を煮やしたパワハラ上司もとい、天使ザカリエルは、ミカエルの器になるはずのイケメン兄ディーンを五年後の世界におくりこむ。ディーンがミカエルを拒み続けたらどのような破滅がくるのかを見せるためだ。

 そこは、絶望の世界。大都市は殺し合いで荒廃しており、アメリカ大統領ペイリン(笑)が暴動をおさえるために自国を爆撃している。トイレットペーパーもない。

 で、笑えるのが、天界を裏切ってこのイケメン兄弟のサポートにまわっている税理士もとい、セラフィムのキャスティエルが、ヒッピーになっちゃって二十四時間薬でらりって、女の子を集めてフリー・セックスを説いているのである(笑)。

 で、主人公のディーンは何に一番衝撃を受けたかって、このキャスティエルの転身に一番驚愕して、未来をかえるために、縁を切った弟を呼び戻すのである。

 日本人はキリスト教世界になじみがないので、このドラマのツボはたぶん大部分の人には理解できないだろう。薬とかやっている人は天使や神様が見えたりするので、日本人には天使とヒッピー(ヤク中・愛の伝道師)に区別のつかない人もいるかもしれないが、この二つはまったく別物である。

 この二つは、前者は伝統の中にあるが、後者はそれ否定したアナーキーなものであるという根本的な違いを持つ。
 天使とか菩薩とかは、前者はキリスト教、後者は仏教の言説の中で、それぞれ清らかで道徳的な存在とされ、人々のもっとも近くにあってある時は救済し、ある時は教え導くものとなる。天使が無性であることからも分かるように、彼らは感情に淡泊である。

 一方のヒッピーはあらゆる伝統と権威、ある時は道徳までを否定する、ある意味業の深い存在なのである。つまり、天使がヒッピーになるというのは、悲しいことであり、ものすごーく安くなった感じなのである。

 以下、どのような文化も伝統もハンパにしか理解しない結果、乱暴にもあるゆる文化・宗教の根源は一つ、人類はみな兄弟、友愛、とかいっちゃう人々の記号としてヒッピーを用いよう。

 レッテルを貼る意識の愚を指摘し、主義主張や国家や肌の色の違いからくる争いの無意味をとくダライ・ラマの教えは、これらの「人類はみな兄弟」「友愛人士」たちと似ていると思われる向きもあるかもしれない。

 しかし、ダライラマの主張は伝統的なチベット仏教哲学の中から導き出された論理に基づいて、平和や人格の陶冶をといているのであり、「あるゆる宗教が一つである」とも、「文化が一つになるべきだ」とも行っていない

 彼があらゆる宗教、文明に触れた今でもなお、還俗せずにチベット社会の伝統を護っていることからも分かるように、彼は他人の文化をも尊重するが、それ以上に自分の属する社会の伝統をきちんと体現している。

 権威と伝統と道徳とオトナ(笑)を拒否し、何も信じることができず、従って、特定のパートナーももたず、何になることもできずに、ただ自分探しを続けながら、思考停止して「平和」や「愛」を説く人々とは格が違うのである。

 あらゆる伝統への同化を拒否するくせに、逆にあらゆる伝統を根は一つなどといってザッパに世界を受け入れようとする人は、結局はどこにも属さない根無し草となり不安な自我に苦しむこととなる。

 彼らの闇鍋のような頭は「平和」と「友愛」を説く。しかし、どの文化にも伝統にも参与できなかったひとは結局は自意識すら統合することなく、世界平和どころか自分の心の平和すら保てなくなる

 過去から続いてきたものはそれなりに人々に安定と幸福をもたらしてきたか存続しているという側面がある。たとえばカソリックも仏教も欲望の節制を説くが、このように人の本能に反しても、教えが続いているということは、エゴや欲望を野放図にすることが結局は本人に不幸をもたらすことが真理であるからである。

 自分の属する社会のよい伝統を受け継ごうと努力し(言うまでもないけど、自分のエゴにとって利用しやすい伝統を形だけ信じることじゃなくてよ)、伴侶を信じ、友を信じ、何より自分を信じている人たちから構成される社会にそうそう不安や争いはおきない。ときどき小さな変革を繰り返しつつ若返る力も自らの内にもちながら、伝統には全体としては安定を生み出す働きがあるからだ。

 一方、不安な心が生み出す百万大言は何も生み出さない。今、他人を批判する言葉は満ちあふれているけど、自分が何をしているか、ということに無批判な人が多い。しかし、こういう人が集まった社会は不安が不安を増幅し、いくら平和を説こうとも、結局はカオスがやってくる。

 今いる場所にある文化をきちんと体現し、同時に相手を尊重するという姿勢と、「何もかも一緒なんだから、みんな仲良くしようよ」というのは全く違う。

 天使とヒッピーが象徴するものはまったく別ものなのである。
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DATE: 2010/10/03(日)   CATEGORY: 未分類
思秋期
オカメインコ友達のAさんから以下のような楽しいメールがきた。

今年は、科学技術振興機構で、私が担当しているさきがけ研究領域の、まだ31歳の若者の1st AuthorのSCIENCE論文がイグ・ノーベル賞(ノーベル賞のパロディだけど結構権威あってハーバート大学で授賞式がある)を受賞しました。2008年にも受賞し2度目です。
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 粘菌と名づけられたアメーバに、関東地方の鉄道網そっくりのネットワークを作らせて、通常は知能が足りないという意味で使われる単細胞ですが、単細胞生物の粘菌にも素晴らしい知能があるという研究が受けたのです。
さきがけ研究領域H.P.→ http://www.model.jst.go.jp/index.html


 粘菌といえば、生きている時には死んでいるように見え、死んだ時には生きているように見える神秘の生物。あの南方熊楠もはまったその単細胞に、鉄(鉄道マニア)もびっくりの才能があるのだから、自然というのは細部まで神がやどっている。

 マーベラス。

 ここのところ、うっとうしいニュースが多いのでこういう話は本当に楽しい気持ちにさせてもらえます。

  わたしもあんなことやこんなことがあったけど、明るい気持ちでやってかねば。

 といいつつ、最近思うことは、物事を前に進ませるためにとりあえず目の前の状況を小手先で打開する、ということと、抜本的に動かすために倫理・理想をつらぬくことのバランスの取り方の難しさである。

 たとえば、認知症のお年寄りをお風呂にいれたり、移動させたりしようとする場合には、お年寄りには必要な時に必要なことをする、という自発性は期待できないので、介護者の方が、一人一人の認知症ワールドにあわせていろいろ機嫌を取って、お風呂につれていったり、車に乗せたりするわけだ。

 介護者はそのお年寄りを動かすためにその人のその人の恍惚の自意識を研究し、こういったらこう動くみたいなノウハウを築かねばならないのである。


 しかし、×国が違法操業をしたあげくに巡視船に特攻をかけてきたことについて、世界観が違うのだから、相手の世界観にあわせて相手の面子をたてて、とりあえず場をおさめていいかと言えばこれは違う。

 意外なことに、ことここまできても、「かつてナショナリズムで暴走した日本が今はマトモになったように、×国も経済が豊かになれば、マトモになる。だから、いちいち怒るのはおかしい」みたいなことを言う人がいる。

 そして彼らはこう続ける。「×国はわれわれと同じ論理では動かないし、動けないのだから、争いを起こさないためには、彼らの論理に対しても配慮すべし」と。

 このようなものの考え方、私はものすごく非論理的だと思う。

 まず、「経済さえよくなれば、すべてがよくなるって」「日本もそうだったから×国もそうなる」という根拠がどこにあるのか。このような考えをお持ちの方、論理的に説明できますか。今問題になっているのは、彼らの倫理感の欠如であって、倫理感の欠如はいくら経済が豊かになっても増えるものではない

 認知症のお年寄りと×国の大きな違いは、後者には正常な判断能力があるにも関わらず、自分のエゴを通すために、社会倫理もみなで決めたルールも破っているという点である。

 あと、これは×国様を対等にあつかっていないことを意味するわけで、失礼きわまりない言説でもある。

 で、このようにいうと、「じゃあどうしたらいいんだ、〔相手が無頼漢だから〕どうにもならないじゃん」と、仕方ないだろう、みたいなことをいう人がいる。

 この場合はこう答えたい。

 まず、とりあえず、目の前の問題を解決するために、小手先のテクニックにたよることはいい。刃物を振り回している人に対して、笑顔で敵意のないことをしめし、相手のワールドを理解して不安をとりのぞき、その刃物を手放させる。認知症のお年寄りを移動させる時と同じに、相手の世界観にあわせてまずは状況を打開する。

 しかし、そのあとは刃物男はちゃんと警察署につれていって、「どうしてそういうことをやってはいけないか」を教えなければならない。

 世の中の多くの人は、話の通じない、あるいはルールを護る機能のない人の起こすトラブルに直面したことがあると思う。多くの人はとりあえず、相手に合わせて事を収めることをやっていると思う。しかし、そのあとはきっちりと、その人が何をしたのかを、本人に自覚させることをしなければならない。

 そしてもしその人が言うことを聞かないのであれば、関係者全員に起きたことの経緯を正確に周知し、新しい人が被害にあわないような手をうたねばならない。

 多くの人がやっているであろう、ただ事をおさめるだけの行動は、百害あって一理なし。こちらは筋のとおったビジョンの下、感情に流されず、誰恥じることのない行動で対処することである。何のためか、ルールをまもれない人たちに発言力を持たせないためにである。
 
 いつもいつもグズクズの対応をしていると、その社会は心底くさってくる。
 人間には順応力がそなわっているため、どんな状況でも慣れればこれでいいものだと思ってしまうからだ。

 殴る亭主のいる女房は、「お酒をのまない時はいい人なんだ。別れたら生活も不安だし」などとそれで我慢したりする。もちろん悪いのは殴る男だが、殴られている女もこの殴る男の存在に力を貸していることは言うまでもない。
 暴力は言論と思考の自由を奪い、最後はその人の魂を奪っていく。気づかないうちに日本この状態になってきてませんか~?

 思考力を失った人間は、自分がどんなに異常な状況下にいても理解できない。なので、一人一人がもっと高い視点からものをみることであろう。あらゆる状況を考慮にいれて、どんな場合にも即応できるように戦略をもってことにあたるのである。政治家や官僚やマスコミや誰かのせいにして自分は無罪ではなく、一人一人がいまいる場所で何をなすべきか、足下から自問自答してみることである。
 
 最後に一言。今回一番はっきりものをいっていたのが、日本共産党であった(爆笑)。
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