白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/09/30(金)   CATEGORY: 未分類
『清朝とチベット仏教』
本日30日、拙著『清朝とチベット仏教』の引き渡しがある。いよいよ、最初の一冊を手にとることができる(アマゾンで買えるようになったら告知しますね~。)。

※10/2日たまたまアマゾンみたらもうページありました。早稲田大学出版部仕事早いですねー(アマゾンはここから入れます)。と思ったら、取り次ぎが棚卸しでアマゾンへの供給がぱったり途切れているそうな・・・(笑)。


 記念すべき二冊目の専門書。
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理系と違って文系の著作は学界における滞空時間が長い。19世紀のチベット研究者の書いた論文だっていまだに引用されているくらいだ。今回の本は論考に加えて史料も厚いので、私がこの世からいなくなった後もいろいろな形で参照されるかと思うと感慨深い。

 前著『チベット仏教世界の歴史的研究』においては、主にダライラマ五世の時代、チベット、モンゴル、満洲の三王侯は「仏教に基づく政治を行う者を善、行わない者を悪」として、戦争したり、講和したりしていたことを明らかにした。

 当時、仏教と政治を表す言葉は満洲語でdoro shajin、モンゴル語でtoru shasin、チベット語でchos sridという熟語化しており、チベット、モンゴル、満洲の王侯は、これらの言葉を「自分はdoro shajinを考えている、大事にしている。しかし、敵はdoro shajinの破壊者だ」というような文脈で多用して、自己の正当化や他者の非難を行った。

 ちなみに、この熟語にあたる漢語は存在しない。つまり、この言葉は漢語をしゃべる人たちには理解されていなかったのだ。

 で、前著でも書いたけど、仏教と政治について当時のモンゴル史料『白い歴史』(ツァガーン・トゥーフ)はこんな風に定義している(ちなみに記憶で書いてます 笑)。

 政治のトップは、仏教を尊び、仏法に則って政治を司る転輪聖王である。
 仏法のトップは、その転輪聖王に対して灌頂を授ける法王である。

 仏法は世俗の幸せのもとになるので、仏法は世俗の上にある。

 で、たとえば、元朝をたてたフビライとその師僧をつとめたパクパの場合、フビライが転輪聖王でパクパが法王である。この二人がセットになって現れた時代は、16世紀後半くらいから美化されて、仏法に則った政治が栄えた理想の時代とされた。

 で、さらに言えば、僧形の王ダライラマ五世が君臨していたチベットは、政教一致なので、理想の国とされた。ダライラマ五世が転輪聖王を表す法輪を持ち、観音菩薩のシンボルを持つのは、彼が世俗と仏教の両方の王であったことを意味している。

 で、今回の拙著は、この仏教政治を理想と崇めたチベット、モンゴル、満洲の王侯たちの中から、満洲人たちに焦点をあてた。

 世界史の教科書にも書いてある有名なことであるが、清朝は1636年に第二代皇帝ホンタイジが再び即位式を行って国号を大清と換えたことにはじまった。その七年後、この王朝は中国を征服して、その王朝はつい100年前の1911年まで存続していた。

 そしてややオタクな話をすると、この1636年の即位式とは、ホンタイジがチンギス・ハーンの直系と言われるチャハルのリンデン・ハーンを滅ぼしたことを契機に行われた。この際、リンデンの持っていた大元伝国の璽とパクパの鋳造したマハーカーラ尊はホンタイジの手にわたった。

 ホンタイジはまず即位式で、大元伝国の璽を誇り元朝の政治を継承することを示した。そして同時に、パクパが鋳造したマハーカーラ尊を祀るためにチベット寺の建設に着工し、元朝の仏法を継承することを示した。この時建った寺が盛京(瀋陽)の實勝寺である。

 でそれ以後も清朝は治世の要を迎えるごとにチベット僧院をたてまくった。

 まず、ホンタイジが死の床につくと、彼の在世中の悪業を帳消しにつするために盛京の四方に四つの巨大な尊勝塔をたてた。

 そして、第三代皇帝の順治帝が親政開始した年には、一塔二寺(法海の白塔と普勝寺と普靜禪林)が同時に建立された。

 この時、北京の一塔二寺を建てた高僧にはノムンハン(法王)という称号が授けられた。つまり、順治帝は暗に自分を法王とセットになる転輪聖王と言いたかったと思われる。

 で、1690年に康煕帝がハルハ・モンゴルを降伏させた際にも、わざわざ元朝の夏の都にハルハの王侯を集めて、その近くに彙宗寺というチベット僧院を建てた。そして、この彙宗寺のトップにはチベット留学歴のある青海の僧チャンキャ二世が任じられた。このチャンキャには灌頂大国師号が授けられたのも、康煕帝が自らを灌頂を授かった王、すなわち転輪聖王になぞらえていたこと、パクパとフビライの元朝期を意識していたことがわかる。

 で、拙著の中心に来るのが乾隆帝の盛世である。もう気合いいれて乾隆帝が仏教僧の扮装した絵をカラーページが四枚も入れてます(笑)。

 乾隆帝ったら自分の即位の十年をハデに祝った。北海のほとりに、22mもの白傘盖仏つくってまつるわ、北京初のチベット僧院雍和宮をたてるわ、フビライがパクパから灌頂授かったことに倣って、チャンキャ三世から灌頂授かるわ、とくに白傘盖と灌頂は明白なフビライとパクパに対するリスペクト。

 元史見ると分かりますが、フビライがパクパの助言を受けて白傘盖仏を祀ったのも即位十年目。

 で、いちいち書くと長くなるけど、その後も乾隆帝は政治的な成功を収めるたび、また、自らや皇太后の誕生日ごとに、もうどこどこチベット僧院を建てた。今も、北京、承徳には雨後の竹の子のように生えたポタラやらサムエやらタシルンポやチョカンを見ることができる。

 こうやって、政治上の成功とチベット寺の建築が同時に行われているのは、「私は仏教に則って世の中を治めていますよ。転輪聖王ですよ」と仏教徒にサインを送ったいたからに他ならない。

 清朝皇帝は建国当初から最盛期の乾隆帝まで、自分たちの王朝が「仏教に基づく政治を行っている」と内陸アジアの仏教徒に強くアピールしていたのだ。

 まあ、そんなことを書いている本です。

 前作がダライラマ五世の時代を頂点にもってきて、チベット仏教界の最盛期を扱い、今回は清朝がチベット仏教世界に参入し、モンゴルと競いつつ徐々に権威をつけ、乾隆帝の時代に最盛期を迎えることを述べたもの。私は上弦の月、上り坂の時代が好き。

 序論のところで、本書の立ち位置や視点や史料の性格や事例研究の重要性などについて言及しているので、それを理解した上で読んでください。

 ちなみに、内輪を集めて強制的に行う出版記念パーティでお披露目するつもりで、拙著のメイキングのフォト・ムービーまで作りました(どんだけ暇なんだ 笑)

 四分ちょっとで全体像がザッパに分かるようになっています。学術的な内容を扱っているので、いつもよりちょっとまじめ。ここで公開したいところですが、音楽が著作権に触れるので(このメロディが面白いくらい内容と同期する 爆笑)、できません。

 なので、お好きな方は、対面でお会いした時に記念にさしあげまーす。事前に連絡くださいね~。

 え? いらない? (笑)
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DATE: 2011/09/25(日)   CATEGORY: 未分類
モンゴル帝国の崩壊
 24日土曜日は恩師の退職記念パーティだった。

 もちろん退職は普通に三月だったのだが、最終講義とそれにつづく退職パーティが設定された日がなんとあの震災の翌日、三月十二日だったため、あの混乱の中で蒸散してしまったのだ。

 恩師はモンゴル史を専門にしていたので、現在モンゴルにすむ元学生が、ヘビンポープというお祝いのお菓子を送ってきてくれたりしたけど、それも飾る機会のないまま終わってしまった。出席予定者の一人の先生にいたっては東北大学で、彼がどうなっているのかすら、しばらく分からなかった。

 というわけで、中止になってしまった会のしきりなおしパーティが昨日だったわけ。

 文系には、老先生が退職、あるいは還暦とか、喜寿とかのお祝いに、弟子や関係者が論文をだしあって「記念論集」なるものをだす風習がある。

 今回わがモンゴルゼミでも一瞬そのような話が出たのだが、つまんないからやめようという話しになって、結局、モンゴル研究の入門書のようなものを作ることになった。具体的には、それぞれがモンゴル史の中で自分の専門とする時代や分野や視点から、研究動向をまとめたもの。

 で、締め切りを守る人がほとんどいなかったため、本の完成が遅れ、結局恩師の退職の期限にまにあわず、その後数ヶ月してでた。昨日のパーティはその出版祝いも兼ねている。

とりあえず、アマゾンのページをつないでおきます(→ここからとべます)。 

 私もこの本の一章を書いていて、空気を読まない原理主義ぶりを発揮しているので、興味のある方は図書館とかで借りてみてください。とくにモンゴル史を志す方が、どん引きすること請け合いです(笑)。

 以下に、拙文のさわりとして「おわりに」をあげときます(なんか韻を踏んでるな)。本体読みたくなるでしょ。怖いモノみたさで(笑)。


おわりに

 近代以前のモンゴルの社会にチベット仏教が与えた影響は非常に大きいものであった。しかし,近代の到来とともに出現した国民国家思想,社会主義思想,そして,モンゴル・ナショナリズムは,チベット仏教を批判し軽視し,その結果チベット仏教の影響は極めて卑小にしか認識されてこなかった。

 現在,多くの研究者は,当時の人々の信じていたこと,考えていたことを理解することもなく,史料を正確に読解する能力も持つことなく,ただ「仏教を利用して行おうとした何か」を追い求めている。

 しかし,まずは当時の人々の書いたものを当時の文脈に従って正しく理解し,客観的な証拠を積み上げていく中で時代相を浮かび上がらせていくことが最初の作業であろう。とくに,16世紀以後のモンゴル史を研究する人たちには,チベット仏教に対する教養・知識を身につけることを強くお勧めしたい。


 そして、誰もはっきり言わないけど、もうゼミの歴代メンバーがこれだけ揃うことはないだろう。一人の先生が退職するということは、その先生を結節点にして集まっていた人が、ほどけて、バラバラになっていくことを意味する。

 それはあたかもモンゴルの諸集団が、一人の人のリーダーシップを要に糾合して大帝国を作ったあと、跡形もなく雲散霧消することにもにている。

 しかし、悲観的な考えは脳みそにかびを生やす。

 一つのことが終わっているにも関わらず固着し維持し続けようとすることの方が不健康である。変化は進化にもつながるので、ある一つの時代の終わりは別の時代の始まりだ、とポジティブにとらえねば。もともとドライな性格なので楽しく酒をあおる。


 しかし、みんな年をとった。ということは私も年をとったということなんだな。先輩方の会話も、「どこから金をひっぱってくるか」とか「大学経営とは」みたいな実務的な話しが大部分を占めている。昔は研究の話しをふると、頼みもしないのに何時間でも自分の研究の話しをえんえんとしていたのに。レジメつくらせたらB4サイズで15枚、誰が読むのかよ、というようなもの作ってきたのに。

 
 ああ、こう考えてみると、気だけは私がいちばん若いわ。

 
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DATE: 2011/09/20(火)   CATEGORY: 未分類
大になるには中下を飛ばすな
 日曜日は護国寺様でゲシェー(博士)・チャンパ先生の『ラムリム』りの講義を聞く。
 最初、チベット医学の研究会とぶつかっていると思ったら、よくみたら来週だった。これでは院生Mが「灌頂受けにインドにいきまーす」いって、着いたら「灌頂、一ヶ月後でした」と言うのと変わらない。しかし、わたしは現場に行く前に気づいたので、院生Mよりは廃人度が下がる。

 で、「すいませーん」と腰を低くして遅刻して会場に入ると、広島の〔体格が〕ロバート・サーマン野村君が来ていない。通訳やっているのは根元君だ。彼はインドのゴマン学堂で二年ほど勉強していたので、テクスト訳も通訳ももちろんレベルが高い。

 『ラムリム』は覚りにいたる修行階梯を示したテクストのことで10世紀のアティシャに始まって、数多くの仏教者が修道階梯文献を記してきた。今回用いるのは、14世紀のツォンカパが記した三つのラムリムのうちの中ラムリムである。

 で途中からで恐縮だけど、法話スタート! 

 仏教を志す人には、上中下三種類の資質の人がいる。この三種類の分け方はチベットで始まったわけでなくバスバンドゥ、アサンガなどインドの祖師たちも言ってる。で、三種類とは

上士 自分のためではなく人のために覚りの境地をめざす修行者。いわゆる菩薩。
中士 輪廻から解脱することを求めて修行する人。いわゆる声聞・独覚。
下士 輪廻の中の幸せ(良い来世とか、今生の幸せ)を求めて修行する人。いわゆる凡夫。

 中士と下士は自分の幸せを求めているが、大士は人の幸せのために覚りの境地を求めている。この点で、上士は下ふたつの修行者と根本的に違う。大士は大乗の修行者である。

 で人の幸せのために覚りの境地を目指す心を菩提心という。そして、勉強するよりも、瞑想修行するよりも、この菩提心を備えているのが一番大事である。

 この菩提心を備えている人を菩薩といい、喩えれば仏陀は母、菩薩は仏(善逝)の子である。

 六波羅蜜(六つの最高の行い)の最初に「布施波羅蜜」(最高の布施)があるが、ただ人に何かを与えても、布施で波羅蜜ではない。そこに菩提心があると布施波羅蜜となる。
何をいっているかというと、来世によい生を受けたいから善行しようと、自分の幸せのために人にものを与えても、それはただ与えているだけ。しかし、人のために自分の財産や知識を与えたらそれは「布施波羅蜜」である。

 戒律もただ自分が幸せになりたいから戒律を守るのは、ただの持戒である。しかし、人のために仏の境地をめざそうと、そのために戒律を護ろうとすれば、それは持戒波羅蜜である。

 この菩提心がないと真の大乗仏教徒にはなれない。

 では、この菩提心をおこすメリットについて考えてみよう。たとえば、学校に通って勉強することはつらいことだ。しかし、勉強をすることの利徳(人の役に立てる。自己実現できる)を考えると、学ぶ苦しみは喜びに変わっていく。それを何度も心に思い浮かべてその考えを自分のものとしていくと、勉強することは苦痛でも困難でもなくなり、学習効果も増大していく。

 だから、仏教の菩提心や、空性について「これを理解したらどういう利徳があるのか」と常に最初に考えることが大事である。

 菩提心の起こし方には七つの段階(七支分)があるが、これは前回やりました。
 で、上中下三種類の人のうち、下士の幸せは一時的なものであり、中士・上士の幸せが究極のものである。
 中士の目的は輪廻からの解脱であるが、これは声聞と独覚の小乗の解脱である。しかし、上士の目的は煩悩障(煩悩という障害)と所知障(煩悩の残した潜在力)を断じた後に得られる一切智、すなわち仏陀の智慧(世俗と勝義をみわたす智慧)である。

 下士が求める生は天人や金持ちの人などよりよい生(増上生)であるが、これは一時的な幸せである。一方、上士の生は一切智をめざし、中士と下士の生のようにふらふらしていないので、決定生 (けつじょうしょう)という。

 菩提心を起こす(発心)には慈悲を持たねばならない。「慈」とは人の幸せを願うこと、「悲」は人の苦しみを取り除こうと思うこと。

 これを起こすためには、自分がその苦しみを受けたらどれだけつらいかを考えてみよう。そうすれば、この苦しみが他の生き物に与えられることもたえられないはずだ。自分が苦しみから逃れたいと思うように、人もそう思うと考えるはずだ。

 シャーンティデーヴァもうこう言うておる。「自分の幸せをのぞまず、自分の不幸せを避けたいと思わないような鈍感なやつは、他者の幸せを望んだり、他者の不幸せを望まない気持ちを起こさないだろう」と(斜に構えたいいかたやな。)。

 さあ、今日のお話のポイントはこれです。
 上士が素晴らしいからといって、中士と下士の修行をとばしてはならない。小士の修行である三宝に帰依し、十善戒を護り、中士の修行である四聖諦・三学を行い、その上で上士の修行である菩薩の修行である六波羅蜜を行うのだ。

 そして、終わりのスピーチ。

 仏教は「縁起」(すべてのものは何かに縁って生じている)という思想を重視する。原因や条件(因)なくして結果(果)はうまれない、と考える。一神教の宗教のように神の思し召しで苦しみや幸せがあるとは考えない。すべての苦しみには苦しみをもたらした原因があり、すべての幸せは幸せをもたらす原因がある。幸せをもたらす者も、不幸せをもたらす者も、神ではなく、自分の心である。自分の将来を幸せにできるのは自分しかいない。自分の心の支配者は自分自身だからだ。

 今わたしたちは仏教という素晴らしいものを手にした。仏教を素晴らしいと口でいうだけでなく、一体何がいいのか、どういう特徴があるのか、それを正しく説明できるようにならなくてはならない。仏教徒である以上、〔こういう法話の時とか、灌頂の時とかだけでなく〕常に仏教の本質は何なのか考えなさい。仏教に感心を持ち、勉強を続け、日常生活の中で役立てていきなさい。

 仏教は釈尊によって説かれた教えである。私たちが幸せになるための手段であり、とるべきものは何なのか、捨てるべきものは何なのかを教えてくれる。

 仏教を意味するchos(法 dharma)というチベット語は「改善する」「なおす」「改良する」という動詞と同じ語源である。みなで自分の心を仏教によって毎日改善していきましょう。

 以上、聞き間違えていたら、許してたもれ。

 チャンパ先生はこれからインドでツァム(期限をきった隠遁修行)に入る。
 この後皆はお別れの食事会にいったが、わたしは護国寺初体験でダラムサラ帰りのお二方を見つけたので、三人でお茶を飲みに行く。

 二人ともインドでチベット語で仏教の勉強をしてきたので、チベット語の口語がぺらぺら。「日本でゲシェ(博士)が『ラムリム』をとく場があるなんて、是非こなければと思いました」

『ラムリム』の理屈っぽい、論理的なところがいい」と、長年にわたり私が、聴衆から聞きたいと思っていた通な感想を述べてくれる。
 この二人いずれ日本でチベット仏教を説いてくれたり、チベットの高僧の通訳してくれたりしたらいいな。
 
 本当にシアワセになりたいなら、自分が「ありのまま」ではいかにヤバイかを直視し、心のゆがみを直し(チュウ)すこと。そのやり方が仏の教え。
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DATE: 2011/09/13(火)   CATEGORY: 未分類
密教展と二宮尊徳
※このエントリーは日記です。弘法大師と二宮尊徳の共通点は私の体験意外なにもありまへん 笑。

 金曜日は会期末のせまった空海展を見に行った。本当は四日に終わった孫文と梅屋正吉展もみたかったんだけど、結局は孫文展は終了した後、空海展も終了間際に追われるようにみにいくことになったのは、以下の理由による。

理由その① 私は仏像は本来その仏像が崇拝されていた環境、すなわちお寺の中でみたいから。仏像が博物館や美術館などの公共の施設のショーケースの中において観察対象となっているのは信心なき時代の悲しい光景である。

 しかも今回の展覧会のポスターみても真言密教の伝統的な視点がなーんも感じられない、「この夏、マンダラのパワーを浴びる」って、パワー・スポットかなんかと勘違いしてないか? 弘法大師空海様は高野山奥の院でさぞや脱力していることであろう。

 理由その②、国立博物館があった地は、かつては江戸城の鬼門を護る寛永寺(天台宗)のあった場所である。かつての上野公園は比叡山と同じく根本中道、常行道、文殊楼が並び、そこには皇族からでた輪王寺宮がおわしまし、江戸の平安を護っていた。

 そーれーーがー、明治元年、彰義隊がここ上野のお山に陣をはって明治政府と対立したもんだから全山丸焼け。以来、江戸の鬼門はあきっぱなし。この前福島原発が都の東北(鬼門)にあたっていたのには心底キモかった。徳川のお山が明治政府に接収されて今の上野公園になったことから、上野にいくと寺がない→江戸の護りがスカスカになっていることが実感されて寂しい。

 しかし、よく考えたら最近はお寺自身が文化財の保護施設化し博物館化しているし、そこにいるお坊さんたちもわれわれに法を説くのではなく、「あなたの護り本尊は?」とかいってお守り売ったりしているので、末法の日本で原理主義していたら仏像なんて見られない。また、鬼門スカスカ問題も、一応力ある密教の仏様が上野にきているので、応急的に鬼門が封印されていると考えられなくもないので、とりあえず行く。
 
 司馬遼太郎の『空海の風景』とか、ソフトバンクの白い犬の中の人が主演した映画『空海』があり、かつ、弘法大師様は三筆の一人に数えられ、書の手本ともされるため、観客はパワースポットマニア以外にも、けっこう多かった。

 密教の教学とその教学を実践するヨーガ行は、インド人から唐の恵果そして、日本人の空海へと受け継がれてきた。私はこの民族をこえた仏教の流れが好きなので、真言七祖像を楽しみにしていた。

したら二枚しか来ていなかった。

しかもホンモノが災いしてぼろぼろでほとんど姿が見えず。この七祖像は写しが何枚も作られているのだから、時代がくだった作例でもいいからフルセットのヤツをみたかった。

 今回みながスゴイ!といっていた最後の部屋の東寺の立体マンダラは、たしかにある意味スゴかった。

 密教では、仏の光輝にみちた覚りの意識を大日如来の姿で観想する。そして大日如来の意識(智)の四つの側面は、四体の仏になって表現され、まとめて五仏としてマンダラの中心に描かれる。あらゆる仏はこの五仏から生まれ出でてマンダラの諸尊を構成するのだが、

 なんと会場の立体マンダラの中央に五仏がおらん!
 つまりこれマンダラじゃない。

 これまで何度も東寺の講堂のこの立体マンダラをみてきたが、今回が一番とほほな状態であった。

 そういえば思い出す。高校の頃、倫社の授業で世界の思想家たちを生徒が分担して調べて発表する時、私は迷わず釈尊を選んだ。釈尊の生涯、四聖諦とかを講義するJKの私を想像してください。今とやっていることがほとんどかわっとらんのが笑えます。

 そして、高校の修学旅行のグループ自由行動時間では、強引に京都の密教本山ツアーを提案し、グループをこの東寺などにつれてきた。以後も東寺の講堂にも高野山の宝物館にもなんどもいった。

 ちなみに、ウチの宗旨は真言宗高野山派であるが、石濱家が明治に淡路島をでた時点でお寺との縁はきれて、私の身近に仏教的なものはなかった。にもかかわらず、誰にも教わらない内から仏教、しかも密教を志向し、今はチベット仏教なんかを勉強している自分はやはり前世の因縁か何かあるのであろうか。

 というわけで、私からアドヴァイス。

みなさ~ん、弘法大師様を単なる歴史上の偉人と見るだけではMottainai、立体マンダラをただの美術品にしてしまうのはMottainai。やはり高野山、東寺に直接足を運び、菅直人が頓挫しているお遍路にいき、密教の伝統が守られている場所で、体と言葉と心を通じて大日如来の境地を目指すのが一番です。

 何のために仏になることを目指すのかと言えば、その力をもって一切の命あるものを幸せにするためです。仏様もマンダラも仏の境地の表現形態。その思想を知らずしてただ美術品として仏像やマンダラをみても得るところは少ないですよ。

なーむだいし~遍照金剛(弘法大師の密名)。

 日曜日、朝もはよから自治体の車が「これから防災訓練をはじめます。自治会館に集まってください」というアナウンスが。あまり人が集まらないともりさがるだろうと旦那様をたたき起こして自治会館におくりこむ。

するとしばらくして電話が。
「自治会館にあつまった後、今、避難処となる■×小学校にきている。煙の中を逃げる体験、バケツリレー体験、地震車による震度七の地震体験、避難処生活体験ができるよ」

 どの体験もしたくないわい。しかし、いざという時に世話になる避難処は見ておいた方がいいし、震度七の体験もしておいた方が本番に冷静に対処できるので、急遽自分も途中参加。しかし、ウチの丁目の参加者22人って少なっ。

 われわれの地域の避難処となる●×小学校は私の出た小学校ではないので、校内に入るのははじめてである。見れば、全体に老朽化した校舎で、ここで暮らすことになる事態だけは避けたいと思った。校庭には地震体験車があり、震度七を体験したが、あらかじめ来る、と分かっていると意外と大きく感じなかった。この前の311の時の方゛よほど揺れは大きく感じた。

 この小学校はツタヤにDVDを借りに行く際に前をとおるので、校舎の入り口部分はよく知っている。私はこの入り口にある二宮尊徳像が好きだった。あの薪をしょって本を読んでいる、苦学生の鏡のような二宮尊徳像である。

 草刈り縄ないわらじを作り、
 親の手を助け弟をせわし、
 せわしい中にも絶えまず学ぶ、
 てっほーんはにのみやきーんじーろう、

 という歌まで歌えるのだ。

ところが、今回この小学校に合法的に入れたことを利用して二宮尊徳像を探したが、ない。それどころか、あるべきばしょににあったものは、男の子と女の子二人が並んで鳩を手にした立像で、その台座には「豊かな心」と銘文が刻まれていた・・・・。

 学校は学ぶ力、社会貢献の心を育てる場から、「豊かな心」(どういう心だよ)を育む場に変わったらしい。ニートが増えるはずだ。しかし、働き学ぶことのどこが悪いのか。何でもかんでもイデオロギー闘争にすり替えて、良い思想まで捨てるなよ。

 というわけで二宮尊徳像がなくなっていたことの方が震度七体験より衝撃だったのであった。
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DATE: 2011/09/09(金)   CATEGORY: 未分類
漢文史料の取説
 昨日・今日と、謎の着信があると思ったら海外にいる院生からの電話であった。

 彼は夏休みを利用してインドの某僧院に灌頂を受けにいったが、現地についたらその灌頂は一ヶ月先に行われることが判明し(チベット暦の新暦への換算を間違えた)、どうするのかと思ったら、今は僧院のゲストハウスに泊まっているそうで。

「狭いコミニュティなのでボクは人気ものです(注: 自称)。僧院長もそこいらのカフェでお茶してるんですよ~。僧院生活があまりに快適なので、昨日、町におりたらとても疲れました。ところで、かくかくしかじかの本があるんですけど、先生いりますか?」という。

 灌頂を授かることによって、その本尊について調べるスピリチュアルな許可を得て、その宗派の坊さんから聞き取り調査を行う、坊さんも伝統的なアプローチ法をとる彼に好意を持ち、宗派の伝統を詳しく教えてあげる、みたいな構図を描いていたのに、何やってんだか。

 次の日にきたメールを見ると「明日、僧院長がタントンゲルポ(チベットオペラの祖)の法話をしくれるそうです」とか、いよいよ修論から離れてく(笑)。

 とはいえ、こうやって現地の僧院にいって全身でチベットを体験してくれる学生がでていることは非常に嬉しいこと。

 チベット史の学徒がチベットの僧院に滞在することは、たとえて言うなら、オペラを学ぶ音大生が、オペラの本場であるイタリアに留学して、技術ばかりか、オペラ文化を育んだ町並みや歴史や聴衆から吸収することにも似ている。

 過去に記された文章を当時の文脈で理解するためには、その時代の人々の価値観、空気感、常識などをできる限り把握してからでなければ不可能。それを行わないで我流に読んでも現代の価値観を過去に投影した底のあさーい研究しかできない。

 たとえば、経済や軍事力の力関係で政治史を読み解く人が多いのは、現代がそういう時代だからである。また、清朝の多民族統合とかいう枠組みでチベットを語る研究者が多いのは、EUなどが結成されて多民族が統合していく現代の価値観が反映しているのである。

 しかし、仏の教えが人々に共有され、人格者が尊敬され、僧院文化が社会をリードしていた時代のチベットを理解しようと思えばそれだけでは不十分である。そして、史料に描かれている世界に肉薄するもっとも簡単な方法は、該当する文化を保持する僧院にいって取材をするのが一番。本土チベットの僧院文化は中国の監視下にあり、とても伝統そのままとは言えないので、やはりインドに再建された僧院にいくのがのぞましい。

 にもかかわらず、チベット史に言及する研究者の多くはチベット文化を理解する努力をせず、漢語史料だけを用いて、政治史を中国側の視点からなぞることで満足して終わるので、この院生の行動はじつに先進的と言える(成果でてないけど 笑)。

 多くの研究者はチベット史に言及する際に、チベット文化を知ろうともしないし、チベット語史料も用いない。なぜかというと、ぶっちゃけ多くの人にとって、チベット語史料の内容は仏教色が強すぎて読めないから。そこで彼らは、仏教と関係ない政治史や中国とチベットの関係史とかをやりはじめ、すると中国語文献の方が情報量が豊かなので、チベット語史料は読めなくてもいい気になってくる。

 しかし、史料が読めないのなら読めるように努力するのがまっとうなアプローチ法であろう。それもしないで、チベットについて安易に語るのは、とくにチベットと中国の関係について語るのは、無責任としかいいようがない。

 漢文史料に記されたチベット的な事象は当然のことながら現実の一部・一側面でしかなく、現実をそのままうつすものではない。それは一般的な意味での史料のもつ限界という甘い話ではなく、漢語史料は、チベット文化を扱う時点で最初からバイアスが入っているという特徴があるのである。

 たとえば、横浜市立大学の乙坂智子さんが最近だした2本の論文「楊真伽の発陵をめぐる元代漢文文書--チベット仏教に対する認知と言論形成の一側面--」(横浜市大学論叢)『元之天下、半亡於僧』の原像--国家仏事に関する元代漢民族史官の記事採録様態--」(社会文化史学)なんかを見るとよく分かる。

 これらの論文は、モンゴル人が中国を征服して元朝をたてチベット仏教が栄えていた13世紀、チベット僧がかかわった事件がどのように漢文文献の中で記され、受け継がれきたかを明らかにしたもの。具体的には、儒教をモットーとする漢人の記録官は、意図的に情報を取捨選択し、チベット仏教的な事象をことさらにおとしめる作業を繰り返し、チベット僧の行動に悪のレッテルを貼り、はては元朝滅亡の原因をチベット僧に帰してきたというものだ。

 また、満洲人が中国を征服して清朝をたてた時代、これまたチベット仏教が栄えていたので、清朝皇帝はパンチェンラマに叩頭したり、清朝からチベットの送られた官僚はダライラマに叩頭していた。しかし、その様子はほとんど清代の公文書に現れることはない。それがなぜかといえば、最近発表されたばかりの村上信明氏の「駐藏大臣の『瞻礼』問題に見る18世紀後半の清朝・チベット関係」(アジア・アフリカ言語文化研究)を見ると分かる。

 公文書に記録がないのは、清朝の高官がチベット僧に叩頭していたという事実がなかったからではなく、満洲人皇帝の命令でことさらに記録を残さないようにしていたからである。なぜ皇帝がそのような判断をしたかというと、記録が残ることによって、それが漢人官僚の目に触れて皇帝や官僚の行動が彼らに問題視されないように予防線を張るためである。

 まあぶっちゃけ、自国を中心とみなして他民族を見下す漢人の文化は、それ以外のあらゆる文化とは共存しえないのだ。そのため、その両方とつきあわなければいけない清朝皇帝は、排他的で、数の多い漢人と対立しないために、支配者であるとはいえキクバリせざるをえなかったんですね。

 従って、漢文史料だけ用いて当時のチベット・モンゴルの実情や清皇帝とこれらの民族の関係を正確に理解するのはどだい無理な話。しかし、多くの研究者はただアクセスしやすい、理解しやすいという理由から漢文献ばかりを使って、あげく現代的な価値観から過去を解釈してきた。現代中国の研究者や政治学者の記す清朝史なんてまさにそれ。

 そいえば、つい最近の産経新聞の記事に、こういうものがあった。東アジアの伝統的な衝突回避法のワザが炸裂していたので大笑いしたよ。

総連系歌劇団が政治色もみ消し パンフレットの訳文から日本非難と北礼賛を抹消
2011.8.13 20:32
 民主党北海道総支部連合会(北海道連)が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の金剛山歌 劇団公演に税金が原資の政党交付金を使って広告を出していた問題に絡み、6月に別の地域であった公演のパンフレットに朝鮮総連側が日本を非難し、北朝鮮を 礼賛する文章をハングルで記しながら日本語訳からは削除していたことが13日、分かった。歌劇団の政治性の強さに対する批判を受け、日本人向けにだけ政治 色をもみ消そうとした可能性が高い。
 パンフレットに日本の批判や北朝鮮礼賛が記されていたのは、6月14日に名古屋市であった「金剛山歌劇団愛知公演」。産経新聞が入手したパンフレットには、公演実行委員長となっている朝鮮総連愛知県本部委員長名で主催者あいさつが記されていた。
  ハングルのあいさつでは、東日本大震災の被災者を見舞う言葉の後に《震災で甚大な人的、物的被害に遭った同胞に対して日本政府は共和国(北朝鮮)への経済 制裁を延長し、高校無償化から朝鮮学校を除外している》と日本の政策を非難。続けて《しかし、いつもわれわれを勝利に導いてくださる領導者と栄光の祖国が ある》と金正日総書記と北朝鮮をたたえている。
 併記した日本語文では、被災者へのお見舞いや公演協力への感謝だけが訳され、日本非難や北朝鮮礼賛は抜け落ちていた。
  金剛山歌劇団公演をめぐっては、舞台での政治的発言が問題視され、北朝鮮による日本人拉致事件やミサイル発射をきっかけに後援を辞退する自治体が相次い だ。愛知公演でも愛知県が平成19年から後援をとりやめている。こうした流れの中、朝鮮総連関係者向けには政治的メッセージを発信する一方、日本人向けに は政治色がないことをアピールする“二枚舌”が使われたとみられる。
 北海道連の広告問題では、政治性を巧みに隠しながら維持し続けている公演を、民主党側が税金で支援していたことになり、改めて批判を集めそうだ。
 金剛山歌劇団は「担当者が不在でよく分からない」としている。


 史料といものは、読者の興味によってその記される内容も自ずと制限をうける。この記事は一つの媒体の上で一つのことを表す場合も読み手によってその内容を変えているという点で、史料の宿業の特徴がよくでている。

 史料はこのように読み手の価値観にひっぱられるという宿業をもつのであるから、チベット史を明らかにしようとする場合にも、漢文史料を用いる場合は、史料の中に読み手である漢人のバイアスが存在しないかどうかを確認することは必須だし、さらにチベット側の事情にも通じていることは必要十分条件である。

 そしてかりに政治の細かな動きを扱うような研究であつても、両者が交流する際の文化的基盤がどのようなものであったのかくらいの前提は明らかにした上で行ってほしい。

 史料は読み手の世界観にひっぱられるのだから、チベット史料にだってバイアスはあるだろう、という意見もあろう。チベット史料にももちろん書かれないこと、誇張されること、などがある。しかし、だからといって「おたがいさま」とまとめられないのは、元朝・清朝時代のチベットと漢人の場合、漢人の史書記録官の方が、産経新聞のニュースの場合は、朝鮮総連の方が、明らかに他者の存在を認めない自分中心な論理を展開しているからである。

 東アジア共同体とかを主張される方は、彼らの夢見る東アジアの友好がなぜ実現しないのか、その原因はどこにあるのか、清皇帝の立場に自分の身をおいて考えてみると分かると思います。
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DATE: 2011/09/03(土)   CATEGORY: 未分類
2011年祈りのゼミ合宿
 ゼミ合宿いってきました。今年は東日本大震災もあったことだし、「祈り」をテーマにしてみました。ちなみに私は仏教徒で無神論者なので普遍的な意味での「祈り」です。

 初日、ドタキャンが多かったため、交通費が出ず、青春十八切符で、宿の最寄り駅、沼田までいく。
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 まずは駅前で昼食をと思い、とりあえず駅前の交番に「この駅前で荷物預かってくれて、かつ、美味しい店ありますか」と聞くと、三人いた警官の一人が「ちょっとちょっと」と私を手招きして、襟元からカメムシをとってくれた・・・。

警官「こんな色のついたカメムシめずらしいよな」

 見ると、カメムシとはいえ玉虫のようである。吉兆ということにする。

 警察に教わったウドン屋に入ると、店内には警察からもらったと思われる、警察庁謹製のカレンダーがかかりまくっており、おそらくはあの警察署の取調室のカツ丼はここから出前がなされるのだろう、と私が資料批判に基づく推論を述べる。

 そのあと、宿のご主人の運転する車で真田の城である沼田城の後にいき、次に「東洋のナイアガラ」吹き割りの滝を見学する。

 今回お泊まりするのは片品村の千明(ちぎら)旅館。そう二年前にここに滞在して神なサービスに感動にむせんだあの千明旅館である。

 じつは311震災がおきた時、ここ片品村では16日にはもう村議会を開き、千明村長の鶴の一声で福島からの避難者を千人受け入れた。千明旅館も40名の被災者を受け入れていたという。千人もの被災者を受け入れることはきれい事ではすまないことも多く、大変だったろうと思うが、首相にリーダーシップが皆無で、結果国の対応がグダグタになったことを思うと、村長が一決してすぐに動いたこの村の姿勢を、わたしは評価したい。

 片品村が避難者の受け入れを表明した時には、むろん国がまだ何の支援策を打ち出していない時なので乏しい村の予算を用いて決定したことである。決定する村長もすごいが、ちゃんと動いた村の人もすごい。

 みなで温泉につかった後はキャンドル・ナイトである。
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 フリー・チベット旗をはった紙コップに蝋燭をいれて、その紙コップにみなで祈りを書き込む。私からのリクエストは「私利私欲を一つ書いたなら、もう一つはかならず自分以外の誰かのために祈ること」。

すると、「これ以上円安がすすみませんように」「勤務地が東京になりますように」という私利私欲にならんで、「早稲田からアル中がいなくなりますように」(笑)「震災の復興」などと祈りの言葉がならんだ。

 みながローソクをもって真っ暗な公園の道を歩く様はまるで1989年のライプチヒの月曜デモのよう。

 キャンドル・ヴィジルは西洋から入った文化で、日本の灯籠流しみたいな情緒的なものではなく、暗闇(絶望)の中にがんばって一人一人が灯火(希望)をともすという意味がある。炎を消さないためには一人一人が手でローソクを囲わなければいけないので、キャンドルデモは自らの善良さを育むこと、外にむっかってのばす手がないので非暴力になることを象徴している。

 静かながら無気力には流れず、非常に強い意志と連帯が生まれるのだ。

 ポーランドのワレサがポーランド共産党と戦って自主労組連帯を作ろうとしていた時、みなが窓辺にキャンドルをともして「連帯」の意志を示したなどの歴史的故事をひく。

 灯火というのは不思議なもので、みながその回りに自然と集まってくる。静かな手持ち花火を買っていたので、学生たちは「先に火の玉がおちた方が、願いが叶わない」みたいな線香花火対決を始める。

 宿にもどると、宿のおじさんが「星をを見に行きませんか」と誘ってくださる。

 ご主人の運転するバスにのると、夏期なので真っ暗なスキー場の駐車場につれていってくれた。空を見上げるとそこには満天の星と天の川。天の川を日本で見たのは初めてである。学生たちは直接地面にねそべって、全天球を見ながら、流れ星を探していた。これだけたくさん星があると、北斗七星もカシオペアも埋もれてしまう・・・。そして、自然と敬虔な気持ちになっていく。

 見ると、学生はみなスマホとりだしてツイートしてた(笑)。

8/31

 次の日は日光を聖地として開いた勝道上人が788年にみつけた温泉の湯本にたつ寺にいく。温泉はもろもろの病を癒すがゆえに、同じく病より人を救う薬師仏が祭られている。そのあと、男体山の麓にある中宮祠にいく。

 昨今パワースポット・ブームとかで、境内は縁結びの煩悩絵馬だらけ。本当は三時間半かけて山道をのぼって奥の宮で参拝したいが、Tちゃんが北京の王府井でビールのみすぎてよっぱらって剥離骨折していて、登山はムリなので、一合目までで断念する。

 一合目の遙拝所は下界よりははるかに空気がいい。神道の参拝の作法とともに、「神前ではお願いごとをしないこと、ただ感謝をすること」「何か自分にかかわるお願いことをする場合でも、たとえば子供のためにもう少し生きていたいから、この病気を治してください」という風に、私欲ではなく「自分以外の何か」について祈るという作法を伝える。

 「祈る」にはいろいろな文化コードがあり、その文化に入ったらその文化コードにのっとって祈ると、その祈りの伝統に連なることができる。祈ることは自分の中にある聖性・力を呼び覚ます効果があり、それは我流にやるよりは、伝統的なコードに従った方が生まれやすい。

 それから、いろは坂をおりて、日光へ。台風の影響で神橋のあたりで雨がふりだしたが、まけずに強行軍。宝物館では天海大僧正展をやっており、三仏堂は修復中でプレハブに覆われていて、そこには実物大の絵が書かれていた。
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 天海は京都の鬼門を護る延暦寺と、江戸の鬼門を護る寛永寺と、江戸の真北をまもる日光の輪王寺と三つの比叡山を建てた。それぞれ観音菩薩の聖地であり、琵琶湖と不忍池と中禅寺湖は構造的には同じであることを講義。

 で、それから家康様を神として祭る東照宮に参拝。今回は「関八州の護りとならん」と遺言された家康様に、江戸に最大余震がこないことをお願いするのが目的。寛永寺は明治元年に彰義隊がたてこもったので、丸焼けになってしまい、江戸の鬼門は今は誰もまもっていない。

 震災の時、福島原発が江戸の東北(鬼門)にあることに気づいた時は、かなり不気味な気持ちになった。

 一方、真北にあって江戸を鎮護する日光は一応、明治の世になっても破壊されることがなく体裁をたもっている(日光が無傷なのは板垣退助の功績らしい)。ここで祈るしかないし。


 そして門の一番目立つ位置にある彫刻、中国の古代の聖王舜が政治をとる姿を前に、権力の継承について述べる。

 武力によって権力の座を奪い、自らの保身のために子供に政権をつがすような、ぶっちゃけカダフィのような統治者は、儒教思想ではクズ扱いされる。
舜

 では、どういう統治者が素晴らしいと言われるかというと、その人徳によって回りを感化し、自らが権力の座から退く場合には、自分の子供が無能な場合は子供ではなく、徳のある人を探し出してその人に譲ることである。

 そのような聖なる統治者の代表例といえば、中国の聖天子堯である。この太陽王は愛の政治を行い、晩年にあたって、自らの子供が「頭が固くて、訴訟好き」と菅直人みたいなタイプであることから帝位にふさわしくないと判断し、徳のある舜を探し出して、血縁関係のない舜に帝位を譲った。禅譲である。ぱちぱちぱち。

 で、徳川家康は豊臣秀吉の残した秀頼がいまいちだったので、血縁関係ないけど、自分が王位についたんだよ、ということを示すために、家康を舜になぞらえる彫刻がここ東照宮に彫られたのだ。

 そして家康さまラブの孫家光を祭る大猶院にいく。今年の大河ドラマが「GO!」なので、家光の母であるGO!の位牌と父二代将軍秀忠の位牌が特別公開されていた。

 そのあと、滝の尾神社まで歴史散歩しようとしたら、学生が疲れたというので、断念。宿に戻る。

 夜は2010年台湾ナンバーワンヒット映画「モンガに散る」をみる。内省人の内省人による内省人のための映画である、と同時に、テーマはホモソーシャルである。学生は最初は台湾映画のテンポの遅さに退屈そうに寝転がってみていたけど、最後は起き上がって座ってみだしたのには笑った。

9/1
 次の日は戦場ヶ原を通って昨日の続きの歴史散歩しようと思ったら、台風の影響で雨がふるわ、Tくんが体調崩すわ、みな徹夜トークで疲れているわで士気が上がらず、結局東部日光前でお土産物色した後、特急で帰ることにする。

 今回の日光、本当に観光客がいなくて、閑古鳥がなきまくっていた。もちろん理由は震災である。日光観光協会のオフィシャルページには「日光安全宣言」が中国・韓国・英語の三カ国語で記されていて、放射能値まで示していて、何とか外国人旅行客の再よびこみをはかろうとしているようである。

 千明旅館は群馬県だけど、震災以後、とくにシーズンオフの営業が苦しいみたい。あの旅館はいろいろな意味で自助努力をしているので、去年の山梨の自業自得旅館とは大違い。

 この旅館のターゲットは20~40名の学生団体。なので、まとまった人数が集められる人は、本当にここはオススメです。施設もきれいで、食事もおいしく。温泉も、サービスも最高です。この震災の影響で廃業とかされるともったいないので、学生さん、みな使って。ホームページはここ。 
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