白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/05/30(水)   CATEGORY: 未分類
アキャ・リンポチェ in 外大
 火曜日はアキャ・リンポチェ(a kya rin po che 阿嘉胡圖克圖)の講演が外大で行われた。アキャ・リンポチェはアムド(青海)のクンブム大僧院の僧院長であったが、1998年にアメリカに亡命し、現在はインディアナ州に自ら設立したチベット・モンゴル仏教文化センターを定座としている。

 アキャ・リンポチェについては、彼が亡命した時に、知り合いの青海モンゴル人が「故郷から高僧がいなくなる」とがっかりしていたことや、私の講座をよく聴きに来てくださる方が、来日の際のリンポチェのアテンドをされていることなどから、そのお名前は耳にする機会はあった。だけど、ナマリンポチェはこれがはじめて。

 今回は2010年に英語でだされた自伝surviving dragon『中国統治下(龍は中国を暗示)のチベットで生き抜いて』にそったお話だという。

 概要を簡単にまとめるとこうである。

 リンポチェは1950年にアムドの遊牧民の家庭に生まれた。二才でクンブム大僧院につれてこられ先代のアキャ・リンポチェの転生と認められた。この生まれ年は彼の不幸を確定的なものとした。なにしろ、前年に中華人民共和国が成立を宣言し、同時にチベットを「帝国主義から解放」(笑)すると宣言していたのである。当時のチベットには帝国主義=英米日の影響力などないから、「解放」云々は完全に中国共産党の後付け論理。やっとることは侵略である。

 この当時のクンブム大僧院には、実はパンチェンラマ10世がスタックしていた。
 彼の先代のパンチェンラマ9世は中央集権化を進めるダライラマ13世と対立して、中国に亡命した。しかしそのまま青海でなくなり、転生した10世についても、「パンチェンラマ保護」を名目に中国軍がチベットに侵略してくる恐れがあったため、チベット政府はラサに戻ることを許さなかったため、パンチェンラマ10世はチベットを知らないままクンブムで暮らしていたのである。
 
 で、アキャ・リンポチェはこのパンチェンラマに認定していただく。パンチェンラマは最初から彼を転生者と認めたそうだが、その後、さらに伝統的なタクディル(麦焦がしの団子をいくつもつくり、その中にお伺いをたてる内容の可能性のある選択肢を書いた紙をそれぞれいれ、団子のはいった容器をゆらして飛び出た団子に入っている選択肢を神意として採択する占い)儀礼も行い、やはり団子からは彼の名前がでてきたため彼は公式にアキャ・リンポチェ8世に認定された。

 1958年までは伝統的な教育をうけることができたが、1958年、毛沢東の大躍進政策の失敗によって中国全土に飢えが蔓延し餓死者が大量にではじめると、すべてが終わった。

 中国人はクンブムの僧侶たちの袈裟を脱がし人民服を着せ、強制労働へと駆り立てた(ちなみにこれから先も中国事情が炸裂したが、通訳の方が中国語と現代中国史にうとい方のようで、清朝を「せいちょう」とかいっていたので、これは三浦センセが訳した方がみなさまに真意が伝わるのではないかと思った。あと、通訳が「活仏」「活仏」連呼していたけど、仏は転生しないってば! 化身僧か転生僧と表現する方がいい。 )。

 そして、彼が17才の時にはさらに文化大革命(1964-1972)が始まる。クンブムの元僧侶たちもみな毛沢東語録を持ち、その内容を暗唱し、農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」と漢人と同じくスローガンを叫ばされ、事務所にかかった毛沢東のご真影の前で日夜作業報告をせねばならなかった。

 ある日具合の悪いチベット人が休みをとろうと、毛沢東のご真影に許可を取りに伺った。するとご真影の中の毛沢東は手を挙げていたので、その五本指をみて、「五日間休む許可がくだった」とそのチベット人は五日間休んだそうな。
 
 このエピソードが示していることは、形而上学や論理学を幼少のことから学んでいるチベット僧はあの時代でも正気を保っていたということ。教育を受けていないチベット人・漢人、子供はこの文革の際紅衛兵となり、後に自分の行いを恥じることになった。しかし、元僧侶たちは、あの狂気の中でも冷徹に現実を見て、彼らの知性はその現実を受け入れる強さをもっていたのである。

 本当にひどい日々だった。私は去年津波の被災地に訪れ、多くの人の話を聞いたが、みな「体験してみないと分からない」といっていた。津波の体験をした人がどのような思いをしたかは、体験をしていない人は推測することはできても、完全にそれを理解することはできないということだ。私の体験もまさにそのようなものだ。体験しないと分からない。

 でもこのようなひどい状況下でも、人民服を着ていても、私たちはもと僧侶だ。だから、みなで喧嘩したり、ものをとったり、とかそういうことはなかった。そうなりそうになっても高僧たちがとめた。

 私たちは強制労働をさせられ、牢屋にいれられ、自分の文化を維持することができなかった。地震や津波のような自然災害は人間の力ではいかんともしがたい。しかし、私が体験したことは人によって作り出されたものだ。もっと限定すると中国政府によって作り出されたものだ。人が作った問題は人が必ず解決することができる。歴史は大事だ。私がこの過酷な体験を自伝にしたのはそのような気持ちからだ。私は中国人もチベット人もモンゴル人も互いに争わず、仲良く共存できる世界になることを心の底から望んでいる。

 1980年代に入ると、改革開放政策とともに、中国政府のチベットの僧院に対する圧力が弱まる。僧院の再建に援助がでるようになり、私も重要な地位につくようになった。しかし、〔肝腎な部分は漢人が握っているから〕完全に自分の意向が通せたわけではない。

 私がアメリカに亡命するきっかけとなった事件について語ろう。
 チベット仏教のゲルク派でもっとも偉いお坊さんはダライラマ、パンチェンラマ、〔モンゴルの〕ジェブツンダンパなどである。チベットでは高僧がなくなってその化身を探す際に、最終的にはこの三人のような高僧の認定を仰ぐ。

 1989年に〔私を幼い頃に認定した〕パンチェンラマ10世がなくなり、その転生者を探すこととなった。しかし、ダライラマ14世猊下が指名した少年ゲンドゥン・チュキニマは中国政府に拉致されて姿を消した。
 中国政府は新しいパンチェンラマを選定すべく高僧たちを北京に集め、チャーター便にのせてラサに送り込み、チョカンの釈迦牟尼仏の前で金瓶掣籤儀礼を行った。


 これは清朝の乾隆帝が導入した制度である。18世紀末、チベットを代表する高僧は特定の家系に集中していた。それがグルカ戦争勃発の原因の一つとなったため、高僧の転生者を預言やシャーマンの神託や側近の証言といった主観の入る余地のあるものではなく、くじ引きにしようと提案されたものである。ただし、この金の壺によるくじ引き儀礼はチベット人に評判が悪く、ダライラマ13世も14世もこの籤をへずして伝統的な形で認定されている。

 中国共産党は仏教界における権威が全くないから、乾隆帝の権威をかりてパンチェンラマを選ぼうとしたわけ(笑)。で、この籤で選ばれたのが、現在中国がパンチェンラマ11世と主張しているゲルツェンノルブ。しかし、この人のことをパンチェンラマと認定するチベット人はまあいない。なぜなら、アキャ・リンポチェが体をはって亡命してこの認定の不正を告発したからだ。

 この話は有名なので、簡単にまとめる。

金瓶儀礼の帰り、チャーター機の中で、アキャ・リンポチェ、ジャムヤンシェーパ、李鉄映、葉小文が雑談していると、李が、ゲルツェンノルブの名前の書いた籤だけをすこし長く見えるように細工したんだと得意げにぺらぺらしゃべったのだという。

 詐欺行為をした上にそれをなおかつ自分の前で得意げにしゃべっている・・・
こうしてアキャ・リンポチェが亡命を決意したのである。

 私は中国に高い地位を与えられたが、犬のように扱われた。わたしはチベット人もモンゴル人も漢人もウイグル人もみながなかよく平等に暮らしているいけるように願っている。今のひどい状況は中国政府によるものだ。

 私は亡命しためたに故郷のアムドのためには何もすることができない。なので、今はダラムサラの図書館へ援助をし、僧院へベジタリアン用の食材を提供し、ウランバートルに子供のガン病院をつくるプロジェクトを行っている。

 チベットでは慈悲を大切にするが、祈っているだけではなく、実際に活動したい。もしご賛同いただける方は募金をお願いいたします。
 それから、〔モンゴル語で〕本日はチベット語の先生がアレンジをしてくださり、その先生のご意向もあってチベット語でお話をさせていただきました。自伝をモンゴル語に訳しましたので、よかったらどうぞ。
 
 そのあと、コメンテーターのも三浦順子さんが、「リンポチェにコメントなんてつけるのは恐れ多いので、質問。去年から本土チベット人の間で続いている焼身自殺について、ウーセル(唯色)さんとリンポチェはお二人で『これ以上焼身しないで』とのアピールをだされました。それはどのような意図からされたのでしょうか」

 で、リンポチェはその質問に対する答えのほとんどを、本土チベットが今いかにひどい状況か、大切な命をみなが投げださねばならい悲劇的な状況か、とのべ、焼身された方への共感を示された上で、やはり生きて文化をまもってほしいというような趣旨を答えられた。

 あと、青海のチベット人の方から質問。

「亡命前には高い地位にいたのだから、本物のパンチェンラマがどこにいるかについて聞いてないか。」すると、件の飛行機の中では本物のパンチェンラマの話についてはでなかった。私も知らない、このとであった。

 そのあと、青いカターをささげたモンゴル人、白いカターをさげたフリチベさんたちの謁見が続く。モンゴル人はなぜ青いカターが好きなのかといえば、彼らは青きオオカミチンギス・ハンの末裔であるから。チベット人とことさらに色を分けたがるのに若干ナショナリズムを感じる(笑)。

 アキャ・リンポチェは中華人民共和国の成立とともに生まれ1998年まで本土にいたため、ゲルク派の僧侶としての正規の学習過程をフルセットで受けることはできなかった。しかし、私が見たところ彼は明らかに人格者である。彼が生まれたアムドにはモンゴル人、チベット人、イスラーム教徒がまじりあって住んでいる。さらに彼の回りには元クンブムの高僧・リンポチェがいた。彼らは人民服を着せられ、毛沢東語録を叫ばされていた時代にも、本質的には僧侶であった。彼らが、アキャ・リンポチェの今の人徳をつくりあげ、彼に行動する慈悲を持たせたのであろう。

 周知の通り、アキャ・リンポチェはとくにモンゴル人に人気がある。彼が今住むインディアナもモンゴル学のメッカだ。ウランバートルにも何度も足を運んでおり、日本に来られるのもモンゴルに向かう途中のトランジットが多い。

 そこで思い出したのは、アキャ・リンポチェがインタビューの中で、
チベット本土のチベット人の数は500-600万人。難民になって外にでたチベット人は10万余りです。国外にいるチベット人はダライラマ法王のおかげで自らの文化を保持し、比較的良い状況にあります。・・問題なのはチベット本土にいるチベット人との絆です・・

彼の目線はまさしく彼と同じく中国の国内で自分たちの文化を維持することも不可能となっている諸民族に向けられている。それは正規の僧侶としての教育を受けられなかったアキャ・リンポチェの体験とも重なり、彼らを互いにひきつけあっている。さらにリンポチェがチベット人とモンゴル人との絆にとくに言及するのは、彼を、そしてツォンカパを生んだアムドの地の力もあろう。リンポチェと呼ばれる人はやはりどこか違う。何か特別な歴史的使命を自ら自覚して、そして実行していく力があるような、そんなノブレス・オブリージを彼から感じるのであった。
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DATE: 2012/05/27(日)   CATEGORY: 未分類
カルチェ・ラタンを歩く
 日本に帰って愛鳥の顔をみたらかなり機嫌がなおったので、読者のみなさんが楽しい気持ちになる日記を書いてみました。題して、パリの学生街点描。どっちがパリの真の姿なのかは、自分の目で確かめてね! 笑)

 往復ともに、JALとエールフランスが共同運行するパリ直行便。飛行時間は12時間。行きの機体はエールフランスの二階建てのエアバスで、帰りはJALだった。エールフランスの最後尾にはドリンクバーがあり、乗客は立ち話をしながらお菓子を食べたりジュースを飲んだりできる。エコノミー症候群をふせぐため? トイレの設備も気が利いておしゃれ。さすがわおフランスね!

 さてパリについてタクシーでホテルに入る。学会が準備したホテルはカルチェラタンのはずれにあり、サルトルとボーボワールが同棲していたホテルみたいな古い建物をそのまま使ったいかにもフランスなかんじのホテル。

 ホテルの近くには有名なマルシェ(市場)がたくさんあり、学会会場に向かう途中とおるムフタール通りには、数多くのカフェやブラッスリーが軒を連ね、その間にチーズや野菜や魚やいろいろなものをうる店がとりどり店を広げている。どの店も非常に視覚的に美しくしつらえられており、テーブルの配置一つとってもしゃれている。
ワンコ猫パリカフェ
 ↑カルチェラタンの食堂。わんこやにゃんこが普通に店にいる。

 カルチェ・ラタンは、パリ五区にある学生街。中心をなすパリ大学は、1275年に神学者ソルボンヌによって建てられた小さな神学校を起源としている。その後、日大のように巨大化を続け現在13校からなる。伝統的な教育を行っているのはその13校のうち四つくらいらしい。

 地域の中心にはパンテオンがあり、この建物はもともとパリの守護聖人を祀る聖ジュヌビエーブ教会の付属施設であったが、フランス革命後には、キリスト教とは関係ない偉人の墓となった。
聖ジュヌビエーブ
↑聖ジュヌビエーブ教会。

 パンテオンには、ジャン=ジャック・ルソー、ヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、モネ、アンリ・ベルクソン、マリ・キュリー、アンドレ・マルローなどが埋まっている。

 カルチェ・ラタン一帯には研究・教育機関の建物があちこちにちらばっており、キュリー夫人にちなんだ研究所などもある。
きゅりー

 通りの名前もしゃれていて、エラスムス通り、また、パスカル通り(人間は考える葦である)を南にくだるとポールロワイヤル修道院がある。パスカルはポールロワイヤル文法の創始者であり、この名は修道院につどった学者サークルの思想から生まれたものであるため(ポールロワイヤルは女子修道院だよ)。

 我々の学会が行われたのはコレージュド・フランス(Collège de France)。主宰者はProject ANR SINETOMB。コレージュ・ド・フランスは市民大学みたいなもので、ロマン・ロラン、ベルグソン、メルロ・ポンティ、ミシェル・フーコー、レヴィストロースなど日本にも知られる有名な思想家が教授をつとめている。

 会場となる建物はパンテオンを囲む広場に面した施設。
会場

 パンテオンの向かって右にはここに埋葬されている偉人のうちの一人、教育哲学者ルソー(1712-1778)の像がある。向かって左には有名なソルボンヌ大学所属のジュヌビエーブ図書館が見える(ルソー、ソルボンヌからは批判されてたけどね 笑)。この図書館は19世紀の建築家アンリ・ラブルスト(Henri Labrouste)の傑作として知られる。
パンテオンルソー
↑パンテオンと、向かって右のルソー像

 学会の聴衆はギメ美術館(パリ屈指の東洋美術館)のヒマラヤ部門のキュレーターや、セナレスの先生方、また、ブータンの歴史を研究されている今枝由朗先生など、一言で言えば濃い。

 プロジェクトの主宰者であるフランソワは、3D部隊と中国のおえらいさんたちと協力し、4年にわたり乾隆帝の墓を調査した。乾隆帝の墓は全面にマントラがほりこまれているが、この3D部隊がこれら全壁面のマントラを全アングルから撮影・3D化して、それをフランソワが読み取ってどの壁面にどのマントラがあるかなどの結果を報告していた。彼女の結論は、マントラの配置から、乾隆帝の墓はバーチャルな仏塔であるというものであった。理系と文系のすばらしいコラボである。余談だけど、3D部隊の助手のジュリちゃんはちょっとアラブの入った風貌で、ハードコアなファッションが目を引いた。

 初日の夕食はカルチェ・ラタン北の楽園という名の中華料理屋。ここは100年以上前からパリのシノロジスト(中国学者)のたまり場となっていたという。

 では、時間の合間に周辺を散策してとった写真を披露いたしましょう。

 まず、フランス革命期の1794年に創立した高等師範学校(École Normale Supérieure)。現代フランスの知識人を輩出した。サルトル、メルロ・ポンティ、ミシェル・フーコー、デリダはみなここの卒業生である。
高等師範学校

 学生街の名画座。このすぐ並びにサルトルとボーボワール、カミュが通い倒した食堂、ブラッスリー・バルザール(Brasserie Balzar)がある。
名画座jpg

 本屋さん。ただ本が並んでいるだけなのに本の装丁が美しいので目をひく。
本屋

 ソルボンヌ大学正面。向かいにはルネサンス気のモラリスト、モンテーニュ(1533-1592)の座像があった。
ソルボンヌ

 コレージュ・ド・フランスの正門。工事中な上に創立者?らしき人に空き缶が供えられていた。
コレージュドフランス

 ソルボンヌのすぐ北にはクリュニー修道院の遺構がある。フランス革命でブチ壊され、今は中世美術館になっている。
クリュニー

 カルチェラタン側からみたノートルダム聖堂。バラ窓が美しい。
ノートルダム

 日本人は本当にパリがすき。日本の知識人はフランス現代思想を翻訳し紹介すれば一躍人気者。日本の一般人も、知らず知らずのうちにパリにかぶれている。 行き帰りの直行便もフランス人なんて数えるほどしかおらず、ほとんどすべて日本人の中高年の観光客。

 彼らの大半は美術館とか買い物とか町歩きを楽しみにきているのだろうが、サルトルやレヴィ=ストロースやジャック・デリダが学んだカルチェ・ラタンで、彼らがかよったカフェで、彼らの著作を読みながら、エスプレッソを飲むのもパリの楽しみ方の一つとしてお勧めである。
机jpg
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DATE: 2012/05/25(金)   CATEGORY: 未分類
パリ学会日記(暗黒面)
 以下の文章は暗黒面におちた誰かのパリ体験です。パリがお好きな方は読まないことをおすすめします。

 今年初め、五月のパリで「乾隆帝とチベット仏教」というタイトルで学会が行われるという通知がきた。時差があるので普段ならパスするところだが、去年『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』を出したばかりなので、このテーマで会が行われるというのならアナウンスにいかねば、学者がすたる。

 機上時間が長くつらいので、エールフランスの直行便を用いる。しかし、エコノミーなので狭い。日本人の暇な観光客で満員で、誰かがトイレにたつたびに起こされるため、私のような神経質な人間が睡眠をとるのは不可能。

 シャルル・ドゴール空港につくと、パリは雨で肌寒かった。会の主催者であるフランソワ・ワンが迎えにきてくれていた。初対面の挨拶をすませ「私が一番心配しているのは言語です。学生さんでも結構ですので、フランス語から英語なりの通訳をつけていただけるんですか」と聞くと、フランソワ曰く「みなパワーポイントを使うので言葉は分からなくても、内容は分かるはずよ」。なんだよそれ。いみふ。

 彼女は「別のターミナルで中国からの参加者をまつので、このままついてきて夕食を一緒にするか」という。これ以上空港にいるのはうんざりなので断って、タクシーにのって直接ホテルに向かう。タクシーの中では爆睡する。ホテル前で車をおりると、路肩を流れる雨水に足をつっこんでスカートの裾がびちゃびちゃにぬれる。幸先がいいわ。

 しかも、ホテルのフロントのおねえちゃん、タクシーの運ちゃんに料金を請求されたと勘違いして、タクシーの運ちゃんと言い争いだし(おそらくフランソワは中国からの客を同じ運転手に市内まで運ばせるため彼に空港にもどるよう指示しており、運転手は戻るのが面倒くさいのでホテルにいる関係者にお金をもらおうとしていたのであろう。連絡が悪い)、しかも、フロントの女性は私の予約がないというので、あるはずだとねばりまくりやっとチェックインに成功。

 そして、昨日から使い出したiPhoneをホテルの提供するFree Wifiに接続するまでものすごい神経をつかう。そもそもiPHoneでの文字の打ち込み方もしらないのにどないせちゅんだ。その晩はとにもかくにも睡眠薬で爆睡し、翌日はiPHoneのあらーむで目覚める(すごいだろ。自分で設定したんだぞ)。

 ホテルでとる朝ご飯は、黒人のメイドさんがつくが、何かフランス語ではなしかけてきても、O島(元ゼミ生でフランス語をおとしまくって六年生になった)なみのフランス語力しかないため、わからん。すると、側にいたゲルマン系の紳士が通訳してくれた。ありがとう。その後もこまっている私を助けてくれたすべてのフランス語を理解する英語使いの皆さん、本当にありがとう。

 学会はフランソワの開会宣言ではじまるが、すべてフランス語なので何一つききとれない。これはひどい。中国からは、お偉いさんと海外留学歴のある若手がきているので、漢語しか分からないお偉いさんはこれらの学生たちに通訳してもらえばいいが、私はどないせちゅんじゃ。まあ、仏教と歴史のレベルは日本の学会に比べてたかがしれてるから発表内容はいいけどね。でも質問と議論がききとれない。

 EU圏の別の国からきた研究者が何度も抗議してくれて、フランソワのフランス語はだんだん英語がまじるようになってはいった(彼女は英語が苦手らしい)。しかし、だいたいにおいてゲストに対する配慮はなかった。

 某老教授(この人もヨーロッパ人)と仲良くなり会について語り合ったが、彼が言うにはフランス人の主催する会議はだいたいにおいてこんな感じで、ようは時間にメリハリがなく、コーヒータイムや夕食昼食の時間を気分でのばし、それで時間がたりなくなっても、発表者の発言時間をコントロールすらしない。さらに参加者に対する配慮にも欠けていて、質問の際にも発表の内容とまったく関係ないとんでもない話をはじめ、ようは「自分が知っていること」を言いたがる。夕食や昼食の時も本来は主催者がゲストを会話にいれるよう気配りすべきなのに、仲間内ばかりと話しをしている。

 クソミソである。

 しかし、彼はもう一人の主催者についてはオープンハートでいい人だと賞賛を惜しまなかった。それについては私もそう思った。なので、すべてのフランス人が多国籍ゲストをガン無視しているわけでないことを一応お断りしておく。

 そして、昼食タイム。某フランス人研究者が、中国本土の研究者に「十月の北京の学会に来ますか」と聞かれて「チベット人がこんなに焼身自殺しているのにのんびり学会なんていってられるわけないでしょ」とストレートな発言。

 そして、私に「私の古いメアドは中国政府に攻撃されて使えなくなったのでこれが新しいメアドよ」と新しいメアドをいただく。こうでなくては面白くない。

 聞けば、この同じ、コレージュ・ド・フランスで、EPHE (Ecole Pratique Hutse Etudes)主催で5/14-15日にかけて「チベットの焼身自殺を考える会議」が行われた。くわしくはここにpdfがあります。。ここでは、チベットに限らず、ベトナム、イスラームなどで行われた過去の焼身自殺についてのブリーフィングがあったんだそうな。でこの会議にでている人の多くはこの焼身自殺の会議にもでているため、雨だし、空気、寒い寒い。

 ちなみに、焼身自殺会議で発表された内容は↓で自由に閲覧でき、将来本にもなるそう。かたや中国人とのプロジェクトをやりつつ、かたや焼身自殺会議。自由の国ですなあ。そういうところはいいと思う。

 パリの町は見た目確かにしゃれていて粋だ。しかし私はゲルマン押しなのでこのラテンの軽い優男なかんじにはどうもノれない。すべての食事でわたしはエスプレッソではなく、アールグレーを所望したし(ないし笑)。

 で、ひたすらポーランド人の研究者とパリを語り合う。ポーランド人「われわれはカトリック教徒だから、こういう美しい教会をみると入ってみたくなるのよね。でもどこに入ってもカラッポで何もないの。パリは美しいけど、空虚だわ。」

 「フランスは長く教会の力が強かったから、知識人は宗教の権威を排除することに全力を傾注したんだよ。でひたすら神様のとく人倫を否定して個人の自由を追求した結果、この芸術と美食の都パリができあがった。でも彼らが好き勝手して幸せになったかは疑問だね。これだし」

 という私の視線の先には、透明な公衆電話ボックスの中で寝る一人の浮浪者がいた。彼はひげ面でどうみても若い男だが、大きく開いたその胸元はシリコンでふくれていた。ゲイである。パリではこういうふうに何でもやりたいようにできるが、あまり幸せそうにはみえない。治安のよいカルチェラタン(学生街)でこれだから、郊外がどのような惨状か推して知るべし。

 そういえばサルトルって、アルジェリア独立戦争とかに味方しているうちはよかったけど、次はソ連を評価し、彼らがプラハの春を粉砕すると今度は毛沢東主義を礼賛し、戦争中は捕虜になると偽の診断書で解放されていた。日本人はサルトルもサルトルを批判した構造主義者たちも大好きだけど、私はもうこの軸のない生きたかを見るだけでううんざりする。真理を壊しつづける無意味さと自堕落さについていけん(そういうのが好きな人は別に反対しないけど。同意や助けは求めないでね。周りは何もできないから)。

 パリの道徳観のなさを示す例はかずあるが、先程の老教授の例についてみてみみよう。彼は飛行機でパリについて電車に乗り換えようとした際、改札口の機械で、切符をもたずに改札を突破した二人組の若い男に後ろから突き飛ばされて転倒し、足を怪我し、会期中ずっと足を引きずっていた。たかだかちょっとの切符代でお年寄りをどつきとばすのが、パリの現実である。

 で、次の日の午前に私の発表があった。読み原稿はパソコンにいれているため、前の日に聞いた発表の中で関連する話題があった場合、それについて言及する台詞を入れたりと前の晩まで原稿はいじった。

 ちなみに、これは私に限ったことではなく、前の晩に某中国からの研究者がチャンキャロルペードルジェの転生譜について発表することを知ったので、夕食の席で、「私がこないだだした本をみた? 最終章はチャンキャと乾隆帝とパンチェンラマ三世の転生譜をあつかってるよ」といったら、一夜あけたら彼はテーマを変えていた(笑)。聞けば、前の晩は三時間しか寝なかったという。ごめんね。でもあなたがどんな発表しても英語でつっこみいれる気力はないから。

 発表時間がきて、なかなか部屋に人が戻らないので、私が立って待っていると、私のセクションの司会をしてくれるスコルプスキー教授が、

「おちついてそこの椅子に座れ。そしてこれがマイクだ。大丈夫だな」と聞くので、

「いや座ってマイク握るくらいはできるけど、言語問題は解決していないわけで」というと、教授

「それはもう間に合わない(its too late)」(爆笑)。

 質問コーナーで案の定質問の英語がよく聞き取れず、私は適当に内容にあたりをつけて自分の知っていることを長々と話はじめた(オノレはフランス人か 笑)。すると、見かねた今枝先生が通訳してくださった。ありがとう、先生(ひどい笑)。

 というわけで、無事発表も終了し、その晩はスコルプスキー教授と一緒にホテルの近くのにステキなレストランで食事。ホテルのフロントの女性に教わった店で、おいしかったのだが、私が忘れ物をとりに店に戻ると、店のギャルソンが「先ほどの紳士は20ユーロ少なくおいていった」というので、何も疑いを持たず20ユーロを払って、その話を笑いながら教授にしたら、「騙されたんだよ。私はちゃんと払った」といい、怒り狂って取り戻しにいってくれた。

 よく考えて見ればわたしが20ユーロ払ったことは彼が間違えたことを認めることでもあり、本当に失礼なことをしてしまった。20ユーロはどーでもいいが、彼に不愉快な思いをさせたことは申し訳なかった。日本人のこの自責感はフランス人には理解不可能だろう。それにしてもむかつくのはこのレストランである。アジア系だと思ってなめやがって。店の名前をさらすForge Restaurant(グーグルマップここ)ので、各国語に翻訳して周知してください。。

そして帰国日。荷物ひきずって駅まで歩くのがだるいこと、あと、改札口で二人組の男に蹴り倒されるのはごめんなので、タクシーで行くことにする。運転手はポルポトの虐殺を逃れて25年前にパリに移住したカンボジア人。仲良くなるが、タクシーが渋滞にまきこまれ、カルチェラタンから空港までなんと一時間半もかかり、最後は二人とも超無口に。タクシー内にひびきわたるのはわたしたちの舌打ちのみ。

 空港は広くまったく調べてこなかったので自分がどこから出発するかも分からず、さんざん迷う。やっと搭乗口についた時には、疲れ果てていて、何をする気力もなし。
 ダンナにネクタイの一本もかっていくつもりだったが、免税店にあるのはフランスのブランドばかり。これ以上フランスに一銭も落とす気がなかったので、帰国してから日本のブランドの高級ネクタイをプレゼントすることとする。

シャルルドゴール空港はタイヘンにこみあっており、飛行機はさんざんマタされたあげく、この飛行場で待たされた遅れのまま羽田についた。

 というわけで、みなさんが思ってるほどフランスってステキなとこじゃないのよ。以上すすべて実話ですから。
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DATE: 2012/05/20(日)   CATEGORY: 未分類
外資Nくんの就活相談
 元ゼミ生Nくんが来月からニューヨーク勤務になるというので離日の挨拶にきた。折角なので、『就活を控えた三年生に、ともだち目線でのアドバイスでも』とお願いしてみた。

Nくんは某外資系企業にシステム管理者としておつとめしており、彼のいる部署は日本人は彼だけで、あとはインドのバンガロールに三人とか、そんな感じでバラバラ。しかし、ミーティングは本社のあるニューヨーク時間で行われるため、昼間の勤務がおわった後、ミーティングが始まるという殺人的な勤務状況であった。しかし、成果主義なのでやればやっただけ評価されるということで、彼にはとくに老け込んだ様子もなく、在学中と同じおだやかなマイペースな感じ。

Nくん「ニューヨークに行けば本社と時差がなくなるので深夜のミーティングもなくなるし、仕事さえやっていれば、五時半になったら退社しても誰も何も言いません。日本の職場みたいに『自分の仕事は終わったけど、あの人がまだ職場にいるから』とか廻りの視線を気にしながら家に帰れないなんてこともありません」。

猫とジャズとクラッシックを愛する彼にとって、後二者についてもニューヨーク勤務は良い環境だろう。

 私「志望書の書き方とかについて何かアドバイスは?」

Nくん「まず、誤字脱字のある人は書類のスクリーニングの段階で落とされます。だからちゃんと文章は見直すこと。それから、文章読んでいて、どんなにこの子、切れるだろうな、と思っても、志望理由と部署の仕事内容がマッチングしていないと、それでもはねられます。会社は最初から即戦力なんて求めていませんから(大企業だからだな)、「自分はこんなにできるというアピールをするよりも、自分の志望内容が部署の仕事の性格とあっているかを確認して」

Nくん「志望書読んで面接するのがン十人いて、どの学生を採用するかは多数決で決めます。最近は志望してくる学生の半分以上が留学生です。外資とはいえ職場は日本なのでできるだけ日本人学生に有利にとは言われますが、結局留学生がちょっと多めに残ります。なぜなら、日本人の学生がいかに『サークル活動でリーダーシップを発揮しました』とかアピールしても、やはり異文化に飛び込んできて、いろいろ苦労しながら語学力を身につけ、大学の単位を取る」といったハードルを越えてきた留学生の方が迫力がありますから。

 つまるところは『この人と働きたい』というのがありますから、話しかけても何をしゃべっているか声が小さすぎて聞き取れないとかいう人よりは、挨拶のできて受け答えもちゃんとできて明るい元気のいい人は有利です。」

  私「今の日本は内向き指向なので、留学する学生は少数派になっているんだよね。それに失敗するのが怖いから最初からやらない、というムードが蔓延していて、チャレンジ精神もない。だから、彼らが自分を強くしていく機会はどこにもない。で、中には「物欲がないから」とか言って謙虚ぽくふるまう人もいるんだけど、それは「仕事=金や地位を求めるもの」と決めつけている時点であかん。出世とかお金とか関係なしに、仕事そのものを楽しんで、同僚が好きで働いている人はたくさんいるしね。」

Nくん「ボクも稼ぎは自分のために使っていませんから」

  私「今の自分をまもって、楽な方に流れている内は、結局何にも自分をかけていないから、何やってもダメというこになる。よく、政治が悪い、官僚がだめ、社会が腐っている、不景気だ、アメリカ帝国主義、とすべてを否定する人がいるけど、そういう人は結局最後の最後には自分も否定することになる。会社でも仕事でも、人間関係でもできるだけ良い面を見るようにして、とりあえずそこで踏ん張ってみると、また違う風景が見えてくるよ。」

Nくん「ボクも入社したての頃、上司とあわなくて、自分を正当に評価しないと思っていた時期があって、評価も悪いから、このままじゃいずれ首になると思い詰めていた時がありました。でも、いろいろな人に相談したら、『必ず一日三十分その上司と話しをする時間をとれ』と言われて、そうするようになったら、結局は自分に問題があることが分かりました。自分が変わったら問題もなくなりました。」

  私「ここで重要なのは今、自分がつらいのは客観的にいって環境が悪く自分には問題がないのか(上司がモンスター、勤務状況がブラック、社風に順法精神がないetc.)、実は自分に問題があるのか(能力不足・コミュ不足・認知のゆがみ etc.)、それを見極める眼でる。前者の場合はもちろん自分をまもって会社やめるもよし、訴えるもよし、しかし、後者の場合は、つらくても自分の今を直視して自分を変えること。その方が結局はラクになる。だって自分が正しいと言い聞かせて会社やめても、自分に問題があるなら、どの会社にいっても結局同じことになるから」

 環境と感情は分けること。こんなにつらいんだから環境が悪いんじゃなく、客観的にいって悪いのは環境なのか感情なのかを冷静に判断すること。

Nくん「外資のせいかもしれませんが、結局問題のある人は自然淘汰されていきました。自分からやめる場合、やめさせられる場合、両方ですね。結果、会社の品格も護られているというか」

  私「外資はいいねえ。日本では『問題のある人を切る』という決断を誰もし(でき)ないから、会社も政界もどこもかしかもグダグダだよ。品格も何もあったもんじゃない。」

 さて、質問コーナー。

 学生A「人事担当者が志望者のFacebookとかをチェックするって本当ですか?」

Nくん「見る人はいます。だから、人にみられてまずいような書き込みはしない方がいいです。」

 学生B「全共闘世代がいつまでも社会の中心部に居座って、若い人にチャンスや決定権を譲らないから、若い人も育たないし、社会もよくならないんじゃないですか。多数決でいっても若い人の方が人数が少ないから意見が通らないし」

Nくん「日本企業のことはよく分からないけど、やはり人事の流動性はあった方がいいよね。」(この時彼は年功序列という言葉を途中で使ったのだが、その言葉がなかなか出てこなくて、外資ってスゲーと思った。年功序列ないからな外資には 笑)

  私「私の隣に住んでいるおじいさんは今年85だけど、自分で車を運転して毎日自分が所長をつとめる老人健康施設にかよって現役で医師を続けている。お金のためでも名誉のためでもない。彼にとっては働くことが息を吸うように普通なことだからだ。

 でも今の若い人って『合わない』とかいう私的な理由から、簡単に会社やめるよね。隣のおじいさんはどう思っているかは知らないけど、年寄りを一括して批判すれば今の状況がどうなるわけでもないと思う。

 もちろん社内の力関係を操って、無能なのに威張っているオジサンもいるだろうけど、仕事に対する使命感をもってなるべくしてその地位にいる人もいる。年寄りが若者をふがいないといい、若者が年寄りにいなくなればいい、とけなしあってても建設的ではない。若い人がすぐに会社をやめずに年寄りから学べるところを学び、年寄りも給料や地位にこだわらずに若い人を導かないことには、これからの少子高齢化はやっていけん。もめている場合じゃない。」

Nくん「会社が学生を採用するためには莫大なお金を投じているんですよ。説明会の会場設営費、そこに社員を送ればその社員がやっている仕事はその間、ストップする、そして入ってきてからは新人研修の会社にも莫大なお金を投じているし、そうして入ってきてやっと仕事してくれると思った時にやめられると、会社もきついですよ。」

 そうしてNくんと数人の学生とみなでタイレストランBossへ。

 聞けば、就活事情がリーマンショック以前の状態にまで回復しているという。かつては学生が一斉に大企業をめざしたため、中小企業には求人があってもそこにいこうとせず結果就職が決まらない学生が多くでた。しかし、去年からは、学生が中小企業に目を向けはじめたため、就職率がアップしたのだという。良いことだと思う。

 それこそ、物欲がないのであれば、まさに金や地位ではなく仕事内容で会社を選んで、同僚・上司・会社の良いところをできるだけ見て、その仕事を好きになって行けばよい。仮につらい状況になった時でも、自分と他人に誠実に向き合っていれば、原因が会社か自分かが分かるので、対処を誤ることもない。
 そう、大切なのは~、己を知ること。そして、敵を知れば百戦危うからず。
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DATE: 2012/05/14(月)   CATEGORY: 未分類
乾隆帝の墓
 わたしは今精神的に疲れている。なぜかというと来週の頭からはじまるパリの「乾隆帝の墓」についてのワークショップの発表原稿を書いているからである(写真はそのワークショップのプログラムの表紙)。
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 時差が体にこたえる体質であるため、インド以西、房総以東に行かないことにしているため、ホンネでは、ヨーロッパはまったく行きたくない。しかし、学者として飯を食っている限り、自分の研究分野において、大きなプロジェクトが行われ、その結果が報告されるとあっては、やっぱり聞きに行きたい。
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 また、昨年八月に『清朝とチベット仏教 菩薩王になった乾隆帝』を出版したばかりの自分としては、この本を国際的に周知するためにも、行かねばならない。日本語で書かれた本はともすれば彼らは「読めない」で終わりにしようとするので、「この本を読まなければ乾隆帝と仏教について語れない」みたいな雰囲気にもっていかねばならないのである。

 日本の東洋史の学威を示すという意味もあるのである。人として生まれたからには肉体的な休養欲求に逆らっても、できることのために動かねばならないのである。

 でも行きたくない。

 後ろ向きな話を続ければ、行きたくない理由はまだある。英語でスピーチ原稿を書くのが面倒くさい。大体、ワークショップの公用語は、英語、フランス語、漢語て、なんか腹が立つ。

 なぜ日本語がないんだよ。東洋史のレベルの高さを思えばいれてくれてもいーじゃん。日本語だったら10分で原稿書けるのに。ネイティブ・チェックをいれるためにはもうすぐにでも原稿仕上げなければならない。一週間をきった本日月曜日はもちろん英語の悪夢にうなされて目覚め、激ウツである。だからこんな文章書いて逃避しているのである。
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 今朝、慌ただしく職場にでかけてくダンナに「ねえ、気分が沈む。英作文やだ」というと、ダンナは

 「じゃあ、学会の公用語に日本語を加えろ、と英語で主張してきたら」

 と、珍しく面白いことをいう。

 英語で主張できるくらいなら、英作文で苦しむかあっ。

 大体、なんでチベット・満洲・モンゴル史やっている人間が英語できなきゃいけなんだよ。カンケーないだろうが!

その上ぶっちゃけ英会話のブラッシュアップのためやったことといえば、アメリカのテレビドラマ Fringeを8巻分見ただけ。心許ないとはこのようなことをさして言う言葉であろう。しかし、思えば国際学会が近づくたびに毎回こんなエントリーを書いているような気がする。進歩がない。

 心底、自分の二冊の専門書を英語にして出版したい。それが実現すれば私がこのドヘタな英語でひいひいいいながら外国でかけてプロモーションする必要もなくなるわけだ。しかし、その場合の問題点は、チベット語と満洲語とモンゴル語に一定の知識があり、日本語を読めるネイティブ・アメリカンを探さねばならないことにある。

 それを探す手間をとるのも面倒臭く、自分でへたくそな英語を操って海外にいった方が早いというわけで、ふりだしに戻る。
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DATE: 2012/05/05(土)   CATEGORY: 未分類
チューロ・リンポチェの阿闍梨デビュー
 以下は出雲を舞台にした心温まる兄弟弟子の物語である。

 チューロ・リンポチェはガワン先生のお伴で何度も日本に来ていた。ガワン先生の最晩年にガン治療のために日本を頻繁に訪れるようになると、その傍らでかいがいしく先生のお世話をするチューロ・リンポチェの姿は多くの人の眼にとまっていた。

 その彼がガワン先生なきあと、阿闍梨デビューということになり、関係者一同は異様に盛り上がった(笑)。九州からは峯寺とチベットに浅からぬ因縁をもつW氏が、東京から法王事務所のルントクさんが、東京からもフリチベさんたちが応援にかけつけた。通訳はむろん清風学園校長の平岡センセである。

 平岡先生は彼が二十代にギュメに留学して以来、ガワン先生を師と仰ぎ、先生がガンになった際にもご自宅にとめてその闘病生活を支えられた。それと同時に秘密集会タントラの講義も受けていたので、ガワン先生のお世話をしていたチューロ・リンポチェと平岡センセは兄弟弟子のような関係である。

 灌頂の始まる直前、わたしは平岡センセとともにリンポチェのお部屋を訊ねた。お部屋にいく途中で平岡先生は
 
 平岡センセ 「私はね、リンポチェに、『灌頂やるだけじゃなくて法話せにゃいかんよ』といってるんですわ。儀式だけで法話しなきゃ意味が無いとね。」したらリンポチェ、『おまえが勝手に話しつくってしゃべってくれ』ていうから、私は『あんた(リンポチェ)の言うたこと以外は訳さんからな』ときつくいったんですわ」とのこと。

 灌頂の所作とかは儀軌を見ながらであれば間違えずにできるだろうけど、人の心を捉えて仏教に向けるような法話が、若い彼にできるかどうかは、私もちょっと心配していたので、平岡センセがリンポチェにそういう気持ちはよくわかった。

 そして私の講演、ルントクさんのお話と続いて、いよいよリンポチェの灌頂が始まった。

 阿闍梨が入堂し、着席。ここで、峯寺の住職が三礼をするのだが、ご高齢で足腰が弱っていらっしゃるとのことで三礼を省いたため、私が右代表して三礼をする。

 そして、道場から魔を祓う、ゲクトルの儀が始まった。トルマ(小麦粉で円錐形につくった供物)に悪い物をつけて、場外に追い出す儀礼である。この際、アシスト僧がつり香炉をふりながら道場を清め、その後、悪い物のついたトルマを捧げて場外にでていくという場面がある。

 ガワン先生が灌頂を行われていた際には、このアシスト僧の役目はリンポチェがやっていた。今回このアシスト僧の役割を見事ゲットしたのは、峯寺の副住職であった(笑)。副住職は平岡センセから「ここでトルマを崩したりしたら、台無しやからな」と脅されていたため、ものすごくびびりながら、トルマを捧げ持っていた(笑)。

以下、リンポチェの法話部分を青色で引用します。

 「灌頂を受ける動機を正す」。

 有暇具足の人の身を得たことはすばらしい。如意宝珠(望めば何でも願いを叶えてくれる宝石)も仏の境地を与えることはできない。だから人の身は如意宝珠よりも貴いのだ。その人の体も人のために生きねば意味のないものとなる。すべての有情は無限の輪廻の中では、必ずや一度は私の母であったことがあるのである。私の母でなかったことのない有情はいない。一切の有情を救うことができるのは仏様だけ。だから有情のために仏の境地を志しなさい。

 「法統解説」
 ターラー尊は仏の救済活動を人格化したものである。アティシャがインドからチベットにいく際にターラーが「私はあなたの後についていって、仏法を実践する人を応援する」といって、チベットに来て、アティシャの弟子ドムトンを守った。(以下、リンポチェに至るまでの法統の解説)・・・
 この法がダライラマ十四世からガワン先生に受け継がれ、自分のところまできた。この伝統の力、長く続いてきた力がこの灌頂を授かるものに加持力を与える。


 「菩薩戒をとる」

 菩提心(他者のために仏の境地をめざすこと)についてただ考えるだけでも計り知れない功徳がある。菩提心が無理だというのなら、せめて他人を害さないようにしなさい。安楽は他人を思うことによって生じる。他人の役に立つことを行うことは広大な徳になる。

 帰依をする時には、「輪廻の苦しみから解放してくれるのは、仏教しかない。煩悩にまみれた私たちは病人のようなもの。その病人であるわれわれを直してくれる医師が仏、法は薬、僧は看護師である。この仏・法・僧の三つの宝によってわれわれの煩悩は落とされる、と考えなさい。

 懺悔は自分のやった悪いことを反省して二度とやらないと誓う。
 随喜は自分や他人が行った良いことを喜ぶことである。もっとも大きな罪の浄化であり、簡単に善業を行うことができる。ツォンカパも随喜によって努力なくても徳を積むことができるというておる(これロサン・テレ先生がおっしゃっていた)。
 菩薩戒の最後の一行では、自分のためではなくすべての命あるもののために覚りの境地を目指すことを誓うこと。

 さていよいよ本行。しかし、ここはヒ・ミ・ツなのでとんで

 「弟子に生じる義務」

 本日私はあなたたちに間違いなくターラー尊の灌頂を授けました。
 これからはターラー尊を慕いなさい。戒律を守りなさい。阿闍梨の言うことを聞きなさい。利他の実践を行いなさい。
 すべての苦しみはみな目先のことに汲々とすることによっておきるものだ。しかし、すべての菩薩は人のために生きたことによって仏になった。このお寺のご本尊の大日如来もこうして仏になられた。

 苦しみはすべて自分のことを中心に考える時におきるものだ。他者にやさしくすれば苦しみは少なくなる。他者のお役に立とうと思うと、他者もやさしく接してくれる。この寺にはポチ(峯寺の代々の番犬はみなポチである 笑)がいるが、動物だってやさしくすればなつくし、殴れば怒る。

 人にやさしくすることによって、心を良い状態におきなさい。一日五分でよいから菩提心について考えなさい。

 瞑想が仏になるための唯一の行ではない。働きながらでも修行できる。看護師さんだったら 看護師の仕事をしながらも徳を積むことはできる。工場で何かを作るような仕事でも、その製品が『皆のお役にたつように』と思って作れば善行となる。

 朝おきて一番に「今日も菩提心に励もうと決意し、夜寝る前に今日一日の行いを反省する。」これを毎日繰り返すこと。

 今回の灌頂のようなイベントの時にだけに、仏法を実践するのではなく、日々仏法の実践はできる。衣食住のためだけに日々を送るのでは虫と同じで情けない生き方である。そのような生活をしていれば虫レベルの考え方しか一生できない。

 輪廻の中で人の身はめったなことでは得られないのだから、「朝には人のために生きようと決意し、夜寝る前は一日の行いを反省する。」するとそれは習慣になる。一日ではできないことでも、毎日続けていると自分の一部になっていく。白い紙に黒い小さな紙をはっていくと、一枚では隠れないけど、何枚もはり続ければ、いつかは白い紙が真っ黒になるように(この喩え逆の色にした方がよくないか 笑)。菩提心を修する人もそのように続けているので、そのような顔つきになってきて、一目で分かるようになる。

 みなさん、一日十分(朝五分・夜五分)でいいから菩提心のことを考えてください。

 ここでお話が終わり、阿闍梨に感謝のマンダラを奉献。足の悪いご住職に代わりわたくしめがまた三礼。いや光栄だわー。

 最後の回向において、阿闍梨曰く、
一杯の水はすぐひあがってしまうが、大海にいれると枯れることはない。自分が積んだ小さな徳を有情のためにまわせば、この世界に命あるものが存在する限り、その徳はつきることはない。

以上でおわかりかと思うが、リンポチェの法話は実にどうどうとした魅力的なものであった。タニマチ心配するまでももなかった。

 最後の阿闍梨挨拶でリンポチェ「峯寺のような名刹において、灌頂ができて本当に良かった。」
 このあと平岡さんは苦笑しながらウニャウニャいって翻訳をやめた。なのにリンポチェはしゃべり続けている。それは、平岡さんを「このような密教に非常に深い理解のある方を通訳にできて・・・」とべた褒めをしていたたため、きまりが悪い平岡センセはリンポチェの言葉を通訳しなかったのである。するとリンポチェ

「お前、おれの言ったことしか訳さないいうたやないか。ちゃんと訳せ」と。

 リンポチェの方が一枚上手。いや、ほほえましい。私はあまりのほほえましさに、「先生、拍手していいですか?」と聞いたら、平岡先生が「ええ」というので一同拍手。

 そして楽屋裏で私と平岡先生のオタク興奮トーク。

私「センセ、リンポチェすごい立派。感動した。ガワン先生のおっしゃっていたこと、ロサン・テレ先生のおっしゃっていたこと、ダライラマ法王がおっしゃっていたことがあちこちに引用されていて、なおかつ何か勢いがある。昔、チベット仏教をみた日本人が『チベット仏教は師匠の教えをそのまま弟子が受け継いでいくので、新味にかけ、創意工夫がない』みたいなことをいってるけど、私は師弟二代の灌頂を見ていて、ここまでしっかり師匠の言うことが弟子につたわっているのなら、きっとインドからの教えがそのまま伝わっているんだろうって、安心した。伝言ゲームみたいに人から人に受け継がれていくうちにだんだん歪んでいく方がヤバイでしょ。」

 平岡センセ「リンポチェ、ガワン先生の法具をもってきていたんですよ。すごい情熱が感じられた。若い人が育っていく姿ってええですねえ。」

 で、その夜峯寺の厨房では、平岡ブラザーズと清風学園の先生ブラザーズの漫才を交えながら、みなで「リンポチェが立派だった」ことを言祝いだのであった。

  チベットの灌頂を分かりやすい例でたとえれば、灌頂本体はコンサート、阿闍梨は指揮者、本尊は演目にあたる。名指揮者が、ある曲目を、ある歴史的文脈の中で聞く耳をもつ聴衆の前で振ると、それは歴史に残る名演奏といわれる。

 白ターラーの灌頂はチベット人に人気の演目である。そして、チューロ・リンポチェの初灌頂は人生に一回しかない機会である。この初デビューを、ガワン先生ゆかりのこの峯寺で、先生の法具を用いて 兄弟弟子の平岡先生が通訳を行い、峯寺とチベットに浅からぬ因縁のにあるWさんが司会をし、清風ブラザーズがサポートをし、中国地方のみならず、遠くは群馬・九州などから集まってきたチベットオタクたちを聴衆とした。たしかに条件にも恵まれていたが、それだけでは名灌頂とはならない。

 リンポチェが実に堂々と伝統を踏まえ、かつ彼のカラーもだしての初舞台をつとめあげたのは、やはり伝統の力とそれを今に実現できる彼の能力であろう。彼にとっても思い出深い初舞台であろうが、我々も同じように感慨深い灌頂であった。私なんて、阿闍梨としてのリンポチェに最初に三礼した俗人である(例によってコバンザメだけど 笑)。

 リンポチェは立派なラマになっていくだろう。彼がネゴゴンパに戻って僧院長になる日まで、日本のタニマチはこれからも応援し続けるだろう。チベット仏教が民族をこえて伝播するシステムが体でわかったわい。
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