白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/08/31(金)   CATEGORY: 未分類
乾隆帝のラマに対する愛
日本とご縁の深かったゲシェラ(ゴマン元座主テンパ・ゲルツェン師)の、亡くなられる数日前からの健康状態、弟子や施主への遺言、ご臨終、トゥクダム、火葬、遺骨収集、この間一貫してなされる弟子による師の意識への供養、師の再生への祈り。の過程が、葬儀にたちあったMMBAの野村くんによって公にされた(詳しくは→ ここにリンク貼りました)。

この間の写真も以下のMMBAのFacebooKのページで見られる。
★死から葬儀まで(→ここクリック)
★初七日法要(→ここクリック)
★火葬の一週間後の遺骨収集(→ここクリック)

 これを見ていて思ったのが、2009年におなくなりになったギュメ密教学堂の元座主ガワン先生の死の様子と非常によく似ていること、そしてこのガワン先生やゲシェラなどの現代の高僧たちの死の作法は、歴史資料に見える18世紀の高僧たちの死の作法とも軌を一にしているということ。たとえ難民となっても、僧院の中には伝統の空気が受け継がれている(感動)。

 大乗仏教においては、菩薩は「すべての命あるものが幸せになるまでには、自分の快楽をもとめない」「死んでもふたたびこの濁世にもどってきて命あるもののためにつくす」との誓いをたてる。

 で、高僧クラスになると、彼の誓いは遠い過去になされたものであるため、誓いをはたすために何度も生まれ変わっている間にひろがった人間関係も一緒に転生を続ける。つまり、高僧と、施主、弟子の関係は、かつてあったものであり、今あるものであり、これからもそうなるものなのである。

 このような世界観なので、高僧が死に瀕すると、施主と弟子は師とふたたび相まみえんがために、全力で師の意識の完成をサポートし、再びこの世に戻ってきてくれるよう祈る。

 というわけで、死に際しての師弟間や施主と高僧間の会話は、時をこえて相似してくるのだ。従って、難民社会の僧院生活を知ることにより、歴史文献の文意を正しく理解する知識が得られる。

 以下に、参考までに、チャンキャ三世(1717-1786)が逝去する際に、チャンキャの施主であった乾隆帝と、弟子であったトゥカン(1737-1802)の言動をザツな訳でみてみましょう。

 この乾隆帝とチャンキャの施主・高僧、師弟関係は清朝とチベットとモンゴルを巻き込んだスケールが大きなもの。乾隆帝がチャンキャに対して炸裂させる師匠愛を見て、現代の中国の指導者の方々は、自分に何が足りないかを自覚するように

 ある日、〔チャンキャは〕私(トゥカン)に
「あなたは来年、自分の国にもどりますか」と下問されたので、わたしは「来年はここにいないと思います」と申し上げると、

「いや、来年わがファミリーに重要なことがおきるだろう」とおっしゃられた。自分はその時「〔チャンキャは〕前から皇室を"わがファミリー"とおっしゃっていたので、政治的な問題と思い、その時イスラーム教徒の暴動が話題であったので、
「イスラーム方面が問題らしいと聞いていますが」と申し上げると、
〔チャンキャは〕「そのようなことではない。宮中が騒がしくなるのだ」とおっしゃられた。

 愚かな私はその時、宮中とは王城のことをおっしゃっているのだろうと思い、「宮中の中ですぐに騒ぎをおこしそうな人はいませんが」と申し上げると、〔チャンキャは〕微笑まれて、「分かるものか。占い師がそのようにいってるぞ」とおっしゃられた。後になって考えるに、まもなく自分が他界されることを念頭に置いて、こうおっゃられていたのだろう。しかし、愚かで賤しい私は〔師のお言葉を〕無意味な方向に勝手に解釈して、真意を理解しなかったのだ。・・・

p.615 それから〔チャンキャは終焉の地である〕五台山にいらっしゃり、後に大皇帝(乾隆帝)もそこにお出ましになった。大仏殿の霊験あらたかな文殊像の前で、尊師(チャンキャ)が導師となり、大皇帝もおでましになり、ともに祈願の修法を伝統にのっとって読誦され、回向祈願なども盛大に行われた。

 尊師のご寿命が終わりに近づいている時、高僧と施主(mchod yon)の関係にあるこの両者が、この特別な聖地において会されて、聖文殊の御前で回向祈願を行ったことは、集大成ともいうべき事業であった。尊師と大皇帝お二方、すなわち高僧と施主は太陽と月のように、仏教に基づいた政治の善業という光輝によって、教えと有情の利益と幸福の良き道を明るく照らさんと思い立った、遠い昔になされた盛大な祈願の結果が、今まさに結実し完成したことが〔この法要が〕象徴している。・・・この法要の導師をつとめられた時から、〔チャンキャは〕体調を崩されていったものの、他のものには覚られないようになさっていた。

 大皇帝が五台山から首都に戻られる際のお見送りなども、いつものように勤められた。

 それから、だんだん健康が思わしくなくなってきたので、侍僧たちがすぐに大皇帝に〔チャンキャの病状を〕ご報告申し上げようとしたが、尊師は「しばらく待て。大皇帝が王城に到着された際に申し上げるのがよいだろう」とおっしゃられた。

 それから、「〔チャンキャの〕健康状態はかくかくしかじかで、重篤である」との旨を〔大皇帝に〕報告申し上げると、皇帝の元から直ちに、中国とチベットの名医が二人、大臣が一人、緊急で派遣された。

 チベット医は手の脈を見て、「このご病気はなおりません。尊師のお慈悲にすがるしかありません(説明しよう! 仏教界では弟子が「死なないでくれ」とすがりつけば師匠はある程度は慈悲でこの世にとどまってくれる 笑)。並みの医術の対象でないです」といい、しおれてしまった。

 漢方医は「服薬すれば大丈夫! 」と言ったが、尊師は2回だけ薬を召し上がられただけで、あとは飲まなかった。

 〔チャンキャは自分に対する〕長寿祈願の法要を行うことなどはまったく許さず、通常の瞑想修行を中断せずに行い、くつろいだご様子でゆったりとクッションによりかからっていらした。

 しかし病は日に日に重くなり、侍僧も非常に心乱れたので、その聖地(五台山)の大小の寺、宮中の寺などにおいて、長寿法要の儀を昼夜兼行で行った。・・・・〔皇帝が〕「五台山は高地で水も冷たいので、宮中においでになる方がいいです」とおっしゃられた。すると尊師は健康状態を伝え、「生と死は〜」からはじまる韻文を読み、「遺体を火葬にし、遺骨は銅の仏塔に入れて、鎮海寺においてくれ」などの手紙と、自分の意識の拠り所として自分の像、金剛杵・金剛鈴、ダマル太鼓などをバチュン(巴忠)大臣に授けて、「〔皇帝に〕献ぜよ」と命じられた。そこでバチュンはすぐに宮中に戻った。

 ある日〔チャンキャは〕侍僧何人かに向かって「私の体は病に倒れているが、心は平穏である。今となっては、自分と他人、外と内という区別が、大海におちた一滴の乳のように、一つになっていくようだ」とおっしゃられた。・・・・
心のトレーニングによって、大いなる慈悲の力が増大したことにより、病などの他に苦痛を生む原因があっても、それを安楽の元に換えていく"一切諸法を楽によって圧する"という瞑想を体得していらしたことは明かである。・・・

 チベット暦の3月25日、「今日は日が良い。私の耳にはたくさんのきれいな音が聞こえている。汝らには聞こえないか?」とおっしゃられた。

 4月2日の午前、なんどもそのような話をされて、北京から執事チューデンが御前に到着した。彼に「トゥカンの化身は今どこにいるのか」と下問され、執事が「トゥメト部の貝子(貴族の称号)の地にいます」とお答えした。またウジュムチンのモンラムパの転生はここにくることができるか」と聞かれたので、「今はいません」と申し上げた。これが最後のお言葉であった。

 それから、サカダワ月の二日の午後、鳥の刻に結跏趺坐をくまれ、体をまっすぐに立てられ、手は前において数珠をつまぐった姿となられた。側近がその姿を調べると、金剛念誦を行われる際のお姿であり、亥の刻には息のめぐりが途絶えて、光明法身を完成される様を示したのである(肉体の死を迎えたという意味)。

 ・・・三日の間、トゥクダム(死者の意識が仏の境地にある状態。この間遺体は腐敗しない)にとどまられ、五日の日の亥の刻に「ヒック」という声だされたのを、御前で儀式を行っているものたちが聞いて、「死から蘇ったのか」と思い、すぐに侍僧を召喚して、みなでご遺体の御前に集まると、トゥクダムが終わった徴がでたという。
 
 p.626 それから霊験の塊である御遺骨を、薬と香と緞子で包んで、箱の中にお招きして、骨箱の座において、供養する雲のごとき供養品の真ん中にお招きして、毎日のように弟子たちが「師供養」(bla ma mchod pa)と秘密集会尊・勝楽尊・金剛怖畏尊・ヘーヴァジラ尊・大輪金剛手尊・普明大日如来尊・阿しゅく尊などの密教の本尊の曼荼羅を描いて、自分をその本尊の姿に生起するなどにつとめられた。

 ・・〔チャンキャの〕御身が臨終されるや、大皇帝に事情を報告すると、皇帝は訃報を聞くやいなや、苦しみによって卒倒せんがごときになったが、しばらくすると「尊師はこう教えてくれた。一切諸法は縁起していて実体がないのだから、影のようなものだ」〔だから悲しむまい〕と心をなだめて、

〔乾隆帝は〕「私のラマは表面的には死を迎えたが、本質的には死を超越しているので、まもなく慈悲によってわれわれの守り手としてふたたび現れてくださるだろう」とおっしゃられた。

 ・・・自分はその時五台山からはかなり離れたトゥメト(南モンゴル)の地にいたのだが、尊師がご不例になったという話を聞き、御前に向かおうとしていると、4月の5日の夜、夢の中で、中国人の家のようなところで、ジャムヤンシェーパと私(トゥカン)が二人一緒にすわっていると、尊師が突然現れて、『私は遠いところに行く。汝ら二人は達者であれ』とおっしゃり、それぞれにカターを授けて下さった。そこで、私からもカターを献じようとしていると、尊師は遠くにいってしまった。そこで「今五台山にいっても尊師にはお会いできない」と思い、出発をやめた。

 後に調べて見ると、夢をみたその時が、尊師が涅槃に入られたまさにその時であった。・・
 尊師の遺書にはこうあった。「〔死後のことについては〕わたしはバチュンを通して皇帝に告げているので、皇帝に聞け。汝らは私の遺体をミイラにして、金銀の仏塔をたてて納めようとするな。火葬にして、骨はツァツァ仏と仏像にしてあまり大きくない銅製の仏塔に入れて、この地にある鎮海寺にはこべ。」とあった。

 こうおっしゃられた理由は、最近、なくなった高僧の施主や側近がこぞって、権勢あるラマが〔なくなると〕ジェ・ツォンカパや勝者父子(ダライラマ・パンチェンラマ)に比肩せんと遺体をミイラにして、金銀の大きな仏塔をつくって入れる風潮が、チベット仏教文化圏すべてに蔓延していて、それについて、〔チャンキャは〕以前から批判的であった。そこで、とくにそのような風潮をやめさせるために、〔葬儀を簡素にするように〕言ったのである。

 ツォンカパやダライラマ・パンチェンラマのような文句のない大人物のご遺体を損なわずにミイラにすることについては仏教と衆生の役にたち、短期的・長期的な必要性があるが、普通の人がそれをまねすれば、『破戒をなくす経』(Peking No.886)に
「得てないものを得ているといい、ただ死んだことを〔仏のように〕涅槃に入ったといい・・・、それは悪趣に落ちるであろう」と説かれている通りである。

 バチュンが五台山から北京に戻り、大皇帝に尊師が〔皇帝に〕献じた遺書などを献ずると、〔乾隆帝は〕「わたしはラマのお言葉に反するつもりはないが、このお言葉にだけはどうしても逆らわねばならない。・・・〔チャンキャの遺体を〕天人をはじめとするあらゆる命あるものの特別な福田として、金銀の仏塔にお納めして盛大な供養を行わなうならまだしも、普通の仏塔に入れるなんてありえない。聖なるラマがこのようなことをおっしゃるのはパンチェンラマ三世御前と比肩しようとしていると思われることを危惧してのことであろう。そうであるならば、仏塔は金で作っても高さはパンチェンラマの仏塔より少し低くすればいい。そして金の仏塔を鎮海寺にお招きして据えるなどの作業はそれからにしよう」とご下命が降った(以上トゥカン著『チャンキャ三世伝』より)。

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 見所は、死にゆくチャンキャは葬儀をできるだけ質素にするようにと遺言しているのに、「それではあなたの偉さが伝わりません」とハデにしようとする施主・乾隆帝の愛です。また、臨終の場にいなかったトゥカンが夢枕で師の逝去をしったこと。これはガワン先生がなくなったことを報告前にご存じだったダライラマ法王の話を思い出させる(この場合ダライラマ法王の方が位が上だけど)。

 結局、チャンキャの仏塔とパンチェンラマ三世の仏塔は規模こそ違うがなかなか似た感じにしあがったのである。写真はチャンキャとパンチェンラマの火葬がおこなわれた地にたつ塔。この二つの仏塔は装飾その他がかなり共通している。
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 なんか今日のエントリー、久しぶりに自分の専門ど真ん中である。このページを見ているであろう数すくない、てかいるのか?)同業者の方々、チベット仏教理解の参考にしてね!
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DATE: 2012/08/25(土)   CATEGORY: 未分類
モンゴロイドがインドで危険
● 講座「中国を揺るがすチベットの祈り」
 暑い中、熱いチベット現代史のお話をいたします。遊びに来てね!
  日時 9月 8日(土) 午後1時〜14:30
  会場 ルミネ横浜8F(朝日カルチャーセンター横浜)
  詳細はここをクリック


●  ビッグイシュー197号は 法王インタビューがトップです


 今を遡ること二年前の2010年4月14日、東チベットのギグド(青海省玉樹)にM6.9の大地震が起きた(青海大地震)。漢人の流入が続くチベットでもギクドはチベット人人口が優勢な地域であったが、地震によって街は瓦礫となり、多くのチベット人が死んだ(ちなみに今は中国の街が再建されている 怒)。この時、掘り出されたチベット人の遺体を、キグドの寺のお坊さんたちは積み上げて火葬にした。この時の、死体の山の間でマスクをしたチベット僧が立っている写真は、当時インターネットで広く回覧された。

 この胸の痛む写真が、意図的か、あるいはどこぞの情弱によってか「仏教徒がイスラーム教徒を大量虐殺した証拠写真」としてSNSででまわった。で、なんだか法王についての悪意をもった合成写真もでまわっているそうな。


 チベットの地震写真が虐殺の写真と誤解された背景には、インドとビルマで起きている二つの事件(いずれもモンゴロイド対イスラーム教徒)がある。

 一つは、インドの北東部のアッサム州で起きた、ヒンドゥー教徒のボド人とイスラーム教徒の衝突であり、二つ目は、6月にビルマのラカイン州で起きた、仏教徒のラカイン人とイスラーム教徒のロヒンギャ人の衝突である。

 仏教徒といえば、世界三大宗教の中でも屈指の「おとなしい歴史」で知られるが、近代に入り、国民国家がグローバル・スタンダードになると、スリランカやビルマで、両国の多数派をしめる仏教徒が少数派との間で衝突するようになった。スリランカ内戦(仏教徒のシンハラ人対ヒンドゥーのタミル人)なんてこの間終わったばかり。国民国家というシロモノができたことにより、仏教徒ですら主権と国境を守るために戦わねばならない時代なのである。
 
 州政府によると、衝突の発端は、7月6日にコクラジハル近郊でイスラーム教徒二人が殺害された事件である。ボドとは関係ない過激派の犯行であったが、イスラームはボドの仕業と思い込み、ボドの四人を殺したため衝突は一気に拡大した。8月22日時点で84人が死亡、68人が負傷者し、一時48万人の難民がでた。

 二つ目の、ビルマのロヒンギャ対ラカインの衝突もまったく似たような構図である。直近の衝突の発端は、5月28日にラカイン人の女性がロヒンギャと見られる男三人にレイプされ殺された事件である。6月10日には軍は非常事態宣言を出し、情報を統制したが間に合わず、6月24日時点でこの件における死者は78人、負傷者は87人。ロヒンギャによると死傷者数はさらに多数にのぼるという。

 両者の対立の背景には一つには一目で分かる人種の違いがある。

 ボドの人はわれわれと同じ顔立ちのモンゴロイドである一方、ムスリムはバングラデシュ系の容貌。彼らによると問題をおこしたイスラーム教徒はバングラデシュからの不法移民であるという。

 ビルマのラカイン人もわれわれと同じモンゴロイド系の顔立ちで仏教徒だが、ロヒンギャ人はバングラデシュの人々のような色黒アーリア系の顔立ちでイスラーム教徒である。そしてラカイン人もロヒンギャ人をバングラデシュからの不法移民と認識している
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 地図を見ていただくと分かるが(ダンナに協力してつくってもらいました)、インドのアッサム州はチベットの南側に隣接し、アッサム州もラカイン州もバングラデシュとも地続きである。事件がおきた地も二つともバングラより。

 アッサムやラカインにもともと住んでいたモンゴロイド系の人々にすれば、バングラデシュからムスリムが移入し続ければ、そうでなくとも自国でマイノリティなのに、主権が脅かされると考える。なので、いったん事があると容易に殺し合いが始まる。

 しかし、先住民のモンゴロイドが「出て行け」と言っても、対するイスラーム教徒は戻る場所もない極貧の人々。出て行く先がないため、より悲惨な人権状況となり、さらに対立は深まる。

 この愚かしい憎悪の再生産の結果、南インドでイスラーム教徒の襲撃を恐れてモンゴロイド系のインド住民が、争って都市部から故郷に向かって逃げだした。また、8月14日、マイソールで、二人のインド人が、チベット人テンジン・プンツォクを刺した事件があったため(ソース ttp://www.rfa.org/english/news/tibet/muslim-08162012175423.html)、チベット人まで都会から田舎のチベット居留地に逃げることとなった(この事件にいわゆる宗教対立がかかわっているかは不明)。

 衝突が拡大したもう一つの原因として、SNSで衝突の際に焼かれた家、殺された人の遺体などのショッキングな画像がでまわり、両集団の憎悪を煽りたてたことが挙げられる。ビルマの軍事政権が最近軟化してインターネット検閲を弱めたのもまずかった(いや本来いいことなんだけど)。チベットの地震写真もそのような文脈でインターネットで回覧され、チベット人まで襲撃の危険にさらされてしまった。

 情報弱者何とかして。

 ちょっと考えれば、モンゴロイドの仏教僧が、モンゴロイドを火葬する写真が、アッサムやビルマの衝突と関係ないことくらい分かるはず。それにそもそも、衝突の現場でおこる襲撃なら愚かななりにも理解できるが、遠く離れた南インドに住むイスラーム教徒が、南インドに住むモンゴロイド系の人々を襲撃する正当性なんて何ひとつもない。聞いているか?何一つない。

 このような事態を受けて、8月23日付けのパユル(phayul)記事によると、チベット亡命政府のセンゲ首相とダライラマ法王の特使がこの写真を携えて、イスラームの友愛伝導NPO団体、ジャーミー・マスジット統一フォーラム(Jama Masjid United Forum )を訪れ、この写真についてのムスリム社会の誤解を解くようにと要請し、また、デリーのビルマ大使館を訪れてスーチーさんに親書を送り「貴国で起きているロヒンギャに対する暴力についての憂慮」を表明された。

  法王はかねてより、宗教の本質とは愛と思いやりであり、人の幸せに資するものであること。あらゆる宗教は「尊敬されるべき心のありかた」を達成することに役立ち、その宗教の信徒を幸せにすることに寄与しているが故に、それぞれに存在価値があるとして、他宗教を排斥することを許さなかった。

 興味深いのは、ダライ・ラマは、マルクス主義のような無宗教も、宗教の一つと考えており、マルクス主義ですら人々の幸せに寄与するがゆえに存在価値があると認めていることである。
  一方、自らの信奉する宗教こそが唯一の正しいものであると主張して、他者を批判するようなことは、それがどのような教えであっても本来の趣旨からはずれているので、批判されるべきであるとする。

 法王はもちろん宗教間のことだけでなく、人種、思想、主張などが異なるもの同士が、互いがレッテルを張り合って憎しみ合うことも、やめなさいと言い続けている。
 
 最近、人種や民族や主義主張の違いで人にレッテルをはり、対立する者に対してはどのようなことをいってもいい、何をしてもいいと考えるレイシストが各国に増殖中であるが、他者を排斥する主張はその時点で自分が他者に排斥されていも文句をいえない地平に自分を置いていることを知らねばならない。

 以下は2000年のミレニアム世界宗教会議にあわせて法王が発表した声明の抜粋である。様々な宗教や思想はさまざまな人々を幸せにすることに寄与している。それであるがゆえに尊重さるべきである、という趣旨であり心温まる。私は、これはいいかえれば、さまざまな宗教や主張は、その支持者たちを人に迷惑をかけないように教育する義務がある、と受け取っている。それができない宗教はその宗教本来の趣旨からも人の道からもはずれている。

 世界の主な宗教を見回してみると、仏教も、キリスト教も、ヒンドゥー教も、イスラーム教も、ユダヤ教も、シーク教も、ゾロアスター教も、全て例外なく人間が永続する幸せをつかめるようにすることを目的にしているとわかります。私の見たところ、これらの宗教はいずれも十分その役に立っています。そう考えると様々な宗教があることは、良いことで有益であると言えましょう。

 ・・・そんなことを言って結局は仏教を宣伝したいのだろうと思う人もいるかもしれません。・・・ほんとうにそうではないのです。 私は宗教と精神性ははっきりと区別されるべきだと思っています。宗教というのは、そこで約束されている救済を信じることだと私は考えます。そうであるからには、一種の非現実的なもの、超自然的なもの、たとえば〔キリスト教の〕天国や〔仏教の〕涅槃のような概念を信じなければなりません。それを前提として宗教の教理、儀式、祈りなどは成り立っています。

 それに対して、私の考える精神性とは「称えられるべき心のあり方」を示しています。愛情や思いやり、忍耐、寛容、許す心、満足する心、責任感、協調性といった、自分だけでなく他人にも幸せをもたらすものです。儀式や祈りは特定の宗教に結びついており、たとえば仏教を信じていなければ仏教の説く涅槃も救済もありえませんが、こうした心のあり方は特定の宗教や抽象的な信仰に頼らなくても、人は十分にこうした心を育てられるはずです。宗教は人になくてはならないものではありません。ほんとうに人になければならないのは、こうした基本的な精神性だと思うのです(『ダライ・ラマ 幸福論』)




 ※ ちなみに、チベット人が刺された件についてRFAは最初は「僧侶」と一報が流れたものの、現在は「学生」となり、その刺された原因もよくわからんというので、とりあえず改まった方のソースをつけておきました。。
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DATE: 2012/08/19(日)   CATEGORY: 未分類
テンパ・ゲルツェン師追悼
●ゲシェ・テンパゲルツェン師が、八月十二日にデプン大僧院近くの自坊で遷化された。享年80才(写真は2010年にインドの自坊内にて。傷ついた鳥を手にしていらっしゃる)。
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 テンパゲルツェン師はデプン大僧院ゴマン学堂の学僧で、東洋文庫の外国人研究員として、長く日本に滞在され日本のチベット学の振興につとめられた。1994年からインドで隠遁修行を行われた後、ふたたび来日され、広島に本拠地をおく文殊師利大乗仏教会の会長に。日本とご縁の深いラマであった。

 2007年に最初の脳内出血を起こし、今年五月、二度目の致命的な出血がおこった後は徐々に弱られ、最後はゲン・ロサン先生などのお弟子さんが集ってお経をあげる中、苦しむことなく静かに逝かれた。
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 チベットの高僧は、死の直後に精神を仏の境地と同軌させるトゥクダムという状態に入る。この間、意識が完成されるため、遺体は腐敗することはない。この期間は人によっては十日ほど続き、トゥクダムが終わると遺体は荼毘にふされる。テンパ先生の場合はトゥクダムが四日続き、その終わりにはゲシェラの遺言通り、ツォンカパ著『善説心髄』(legs bshad snying po)がお弟子さんによって唱えられたという。
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 ご遺体は17日の新月の日に荼毘に付された。ゲシェラがお住まいの自坊の中庭に火葬用の仏塔を作り、その中にご遺体を安置し、衆僧が集まって読経をする中で護摩と同じ要領でおたきあげされた。このサイトにあがっている葬儀の写真は天台宗の尼僧明世さんに提供頂いたものです。明世さんは、ここ数年インドのゲシェラに頻繁に連絡を入れて下さりリハビリその他で気遣ってくださった方です。

 以下はデプンの公式ホームページにみるゲシェラの追悼記事の和訳。

ケンスル・リンポチェ(元座主様=テンパゲルツェン師)8月12日に遷化

ケンスル・リンポチェは1932年にラサ近くのキナクの村に生まれた。11才の時にデプン大僧院ゴマン学堂に入門し、1959年まで勉強に励んでいた。27才の年、ダライラマ猊下とともにチベットからインドへ亡命した。

 1966年に、テンパ師はゲシェ・ララムパ(いくつかある博士学位の中の最高位)となり、1979年にはダライラマ猊下の要請により東京にあるチベット研究図書館(東洋文庫のこと)にいった。

彼は日本では京都大学や盛岡大学でも教えた。1986年にインドのデプン・ゴマン学堂に戻り、75代座主を3年にわたりつとめた。退任後の1989年ふたたび日本での教職にもどった。

 1994年にケンスル・リンポチェは6年間のリトリート(隠遁修行)にはいった。最初の2年は北インドのタシ・ゴマン僧院にすみ、後半の四年間はデプン・ゴマン学堂で過ごした。この後半の四年間で3年3ヶ月3日の隠遁期間を完遂した。

 2001年11月、ケンスル・リンポチェは日本へともどり、文殊師利大乗仏教会の会長となった。しかし、健康が悪化したため、ほとんどをデプン・ゴマン学堂ですごした。

 2012年8月12日、ケンスル・リンポチェは自坊で遷化された。この文章を書いている時点ではトゥクダムに入られている。デプンはケンスル・リンポチェの弟子、学生、施主たちに深い遺憾の意を表明する。リンポチェの追善供養は、デプン・ゴマンの祈り堂で月曜日に執り行われる。(デプン大僧院公式ホームページより和訳)


・テンパ先生の亡命時のお話については、チベット仏教の研究者石川美恵さんがテンパ師から聞いたお話から一文を書いているので、以下にご本人の許諾をえて転載します。

● 優曇華の花  文/ 石川美惠

 一九五九年には、ゲシェ・ラ(私たちはケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲンツェン師のことを敬慕の情を込めてこう呼んでいる)は、まだ二十代の青年僧だった。ちょうどお師匠が行の最中で、暗室に籠もったお師匠の行のお手伝いや身の回りのお世話をしている時期だったという。

 その頃チベットを取り巻いていた危機的な状況は、ゲシェ・ラにも充分すぎるほどわかっていたが、密教行者だったお師匠は前から行に入ったままで途中でやめるはずもなかったから、いつもと変わらぬ弟子の勤めを果たし続けていた。

 だが、その日はもう限界だった。銃声や砲撃音は鳴り響き、殺戮と破壊は間近に迫っていた。僧であれば、ひとの行を途中で邪魔することなどありえない。ましてやそれがお師匠なら。それでも、暗室に籠もったままのお師匠に、ゲシェ・ラは懇願せずにはいられなかった。

 「お願いです、ここを出て下さい! 中国軍がそこまで来ているんです!」

 幸いにも、そのときに禅定には入っていなかったお師匠は、静かに答えた。

 ――私はまだ行が終わっていない。だからここを出ることはできない。

 「どうか、どうかお願いです!一緒に逃げて下さい!!」

 必死で頼み込むゲシェ・ラに、お師匠は告げた。

 ――私はもう年寄りだ。だから、私のことはかまわなくていい。だが、おまえはまだ若い。これから生きなくてはならない。だから、おまえは行け。おまえ一人で、行きなさい。
 それは、お師匠の命令だった。

 その意志の固いことをさとり、ゲシェ・ラは断腸の思いで脱出する。何事もなかったようにこれまで通りの行に入ってしまったお師匠を後に残して、険しい雪山の道を、仲間の僧達とともに、過酷な、行く先に身を寄せるあてすらない脱出行に旅立った。

 雪山を逃げる途中、ふと仲間が立ち止まった。ラサから遠ざかり、争乱から離れた頃だ。
 ――やっぱり、還俗して戦う。

 一人がそう言うと、他のものたちも打たれたように同意し始めた。

 ――……還俗しよう。戦おう。

 彼らは、決していきものを殺さないという不殺生戒を誓った学僧たちだったから、人を殺すことなんてなおさら思いも及ばないはずだった。だからこそ、戒を返し俗に戻り武器を取ることがどういうことなのか十分にわかっていた。墜ちる地獄の恐さも、誰よりも身に染みていた。だが、みなまだ二十代だった。今、理不尽に故国を追われ、田舎に残した父や母、無辜の同胞たちが自由を奪われ殺されていくのを知りながら、自分だけが生き延び、逃げることなんてできない。彼らはそう言った。

 そう言って、別れを告げた。必死に逃げてきた道を、虐殺が繰り広げられる現実の地獄へ、再び帰って行ったのだ。

 だが、結局、そのとき去った仲間は一人も生きて戻っては来なかった。お師匠のその後も定かではない。家にいたはずの母の行方も、同様に。

 一九八○年代の終わりの東京で、ゲシェ・ラからこの話を伺ったとき、私も二十代だった。ゲシェ・ラがその後一度も帰ったことのない(帰れない)チベットの現代史もよく知らず、ゲシェ・ラの見てきたものの深さも重さもまだ知らなかった。私はただ、その温厚な人柄と、気持ちを和ませるまん丸顔に浮かぶ優しく晴れやかな笑みに魅かれ、仏教というものが、高い学識だけでなく、こんなに暖かく力強く、しかも清々しい人柄さえ養うことに驚き憧れ、自分のこの人生を仏教に賭けてみたいと思い始めていたのだった。 だから、この最も敬愛するチベット人高僧の過去の話は、身を抉られるように辛くこたえた。

 「それほどのことをされたら、私ならものすごく恨んで憎んでしまうでしょう。」
 と、私は憤りをあらわにした。が、そのときゲシェ・ラは言ったのだ。

 「違います、違います。恨んではいけません。本当にひどいことをされたときにも、それを恨んだり憎んだりしてはいけない。そのかわりに、恨む心を祈りに向けて下さい。相手の心にある怒りや憎しみが消えるように、念じて下さい。」

 「私には、そんなこととてもできません。」

 ゲシェ・ラは微笑んだ。「しようと思って下さい。そこからでいいんです。」
 このひとは、なんという人だろう!……心臓を鷲掴みにして激しく揺さぶられたような気がした。

 そのとき私は、このひとが生きて雪山を越えてくれたことに心から感謝した。もしあのとき、他の仲間達と同じように逃げる途中で踵を返し、戦乱の巷に戻っていたら、私たちはこの人に出会えなかったのだから!

 その日、武器を取らず逃げたという自分の選択を、ゲシェ・ラは「臆病だったんです。人を殺すことも、死ぬことも恐かったんです」と笑って仰ったけれど、本当はきっとそうではない。ゲシェ・ラのお師匠が命じたように、生きなくてはならなかった。生き延びて、世界に、世代を越え、国を渡り、伝え続けねばならないことがまだたくさんあったからに違いない。

 仏には値いがたく、それは三千年に一度しか咲かない優曇華の花のように稀だといわれるが、現実には菩薩にすら値えないものだ。だが、ゲシェ・ラに接するとき、仏教が目指そうとしていたもの、仏教者が生きようとしていた真の姿がよくわかる。「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」の菩薩の精神は、まさしくゲシェ・ラの中にこそ見いだされ、生きられているのだから。

 その姿に接することは、優曇華の花にまみえるほどの僥倖に違いないのだ。



●東洋文庫時代のゲシェラについては大谷大学の福田洋一の追悼文を参照てください。

●ダラムサラ歴30年の中原さんのゲシェラ追悼文はこちらです。、

●文殊師利時代のゲシェラのご様子については、文殊師利大乗仏教会の野村さんのお話が心をうつ(彼はインドに飛んでテンパ先生の火葬に立ち会うことができた)。
 文殊師利大乗仏教会ではテンパ先生の追悼法要を行っているので。広島近郊の方はどうぞ。http://www.mmba.jp/geshelamonlam 

●東洋文庫時代、ゲシェラから顕教を直接教わっていた平岡先生のコメントは以下です。

テンパ先生から頂いたご恩を何も返すことが出来ませんでした。不肖の弟子であると恥じてコメントを投稿するのが憚られましたが、テンパ先生の追悼のブログにコメントが無いのも余りに寂しいので敢えて投稿致しました。
テンパ先生は転生僧(リンポーチェ)で無いにも拘わらず30代でゲシェー・ハランパを取得。ゲルク派の選り抜きのエリートのみが選抜された、サンスクリット大学一期生の一人でした。一期生はほぼ全てがギュメ・ギュトゥ等の管長になられました。私がギュメ留学中の管長であったドルジェタシ師は、テンパ先生のサンスクリット大学の同級生で、日本にはテンパ先生にいらっしゃる」とよくおっしゃっていました。
これ程の碩学を日本に送って長期間我々にご指導に当たらせて下さったことは法王さまの日本に対する期待感であったと思います。テンパ先生の冥福を衷心よりお祈り申し上げます。


■ 護国寺追悼法要(18日)

 18日土曜日は、焼身抗議でなくなった49人の方々の追悼法要が護国寺様で行われた。前回の法要の時よりも写真は2.5倍ほど増えており、一列に並べられず、互い違いに置かなければ祭壇にのせられないのが悲しい。下に名前が入った白いパネルが一列あるが、これは写真が入手できない犠牲者たちである。早くこんな法要しないですむ状況になってほしい。2008年以後何度追悼法要やったことか。
 
 チベットハウスの代表ラクパさんがまず挨拶にたち、本土チベットの状況が非常に悪いため、焼身抗議がとまらないこと。今回の法要はこれらの焼身の犠牲者のみならず、シリア、アフガニスタンなど戦火でなくなったすべての方のために行うものである、と挨拶された。

 シリア・アフガニスタンの話をもってくることからわかるように、フリー・チベット運動はナショナリズムの罠におちないよう、自分たちの願いがつねに普遍的なものにつながっていくようにと気配りしている。

ついでラクパさんより「ゲシェラの訃報を話してください。そして、チベットの全体的なお話を」といつものむちゃぶりがきたので、以下のような趣旨のお話を簡単にした。

 
 チベット仏教では殺生を嫌い、虫一匹の命すらとってはらないと、教えています。続く焼身抗議に対して、よくダライラマ法王が、焼身抗議をとめる声明をださないのか、とおっしゃる方がいますが、法王は仏教徒です。すべての命を大切にせよと毎日言葉と体で実践されている方ですから、その法王の教えに親しんでいるチベット人は自殺がよくないことは当然心の底から理解している。焼身をされた方たちはそれを知っての上で、自らの命を絶っているのですから、やりきれません。

 ラクパさんにお話をしてもいいと許可を頂いたので、ゲシェ・テンパゲルツェン師のお話をさせて頂きたいと思います。テンパ先生は東洋文庫の外国人研究人として長く日本に滞在され、そこの研究員をしていたわたしの主人とは毎日顔を合わせていました。主人はテンパ先生からチベット論理学の手ほどきをして頂いたのです。日本ととてもご縁の深い先生でした。

 ゲシェーはお若い頃、中国軍に追われてインドに亡命した第一世代です。テンパ先生がなくなられた後、お弟子さんの夢枕にゲシェがたち「私はチベットに帰ります」とおっしゃったそうです。その話をきいて、今のひどい状態のチベットに帰っても・・・と、とても切ない気持ちになりました。

 ゲシェラと同じように、いつかは故郷に帰りたいと思いつつも、インドでなくなられた僧は他にもたくさんいらっしゃいます。本日は本土で亡くなられた方の法要ということですが、チベットに帰ることを夢見てなくなった多くの人たちのためにもお祈りしたいと思います。


 その後、ゆるく法要開始。般若心経、21尊ターラー経、グルリンポチェ賛歌、四大を鎮める偈、真実の祈り、ダライラマ法王長寿祈願文をひたすら読む。今回の法要は世界で連携して行われており、とくに真実の祈りに力をいれて読めとのことで、十回は読みましたよ。本作品はダライラマ14世が亡命直後の60年代に著したもので、中国人の非道をとめてください、チベット人の血と涙の川をとめてください、観音菩薩よ。とお願いする壮絶な詩である。十回も読んでくるとそれはもう暗ーい気持ちになってくる。

 そこで最後にちょっと笑える話を。

 コネタ1 聞けば、法要の直前におこなわれたデモには、こういうご時世なので愛国者の方が数人お見えになっていた。フリチベさんたちは、すっかりチベット時間になじんでいるので、時間通りにはじまらずグダクダであったのに、愛国者さんたちは時間より前からスタンバイしていたと。ゆるいぜ、フリチベ。

 コネタ2 テンパ師がなくなられて、広島のお坊さんたちが追悼法要中のせいか、今回の法要にはチベット僧の参加者がゼロ。例によって主宰者は「ウムゼ(お経の出だしをとなえる僧侶)がいない」と、開始時刻になってもあせっていた。結局元僧侶の俗人の方がウムゼをやって決着。ゆるいぜチベット人。
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DATE: 2012/08/10(金)   CATEGORY: 未分類
『The Lady 引き裂かれた愛』
 水曜日の深夜枠でアウンサン・スーチーさんの映画「The Lady 引き裂かれた愛」を見に行った。
 
 冒頭にBased on True Story(実話に基づく)とあるように、スーチーさんのビルマ軍事政権との戦いは、演説の中身にいたるまで『自由』(マイケル・アリス)に掲載されているスーチー氏の著作や夫マイケル・アリスの手記、『アウンサン・スーチー演説集』(みすず書房)に忠実に則っていた。この夫婦の人生はそのまま歴史である。

 監督はかのリュック・ベッソン。パンフレットによると、彼はビルマで25年投獄されていたジャーナリストや政権を皮肉って投獄されたコメディアンなどの調査書、およびアムネスティ・インターナショナルの報告書を調べ、さらにはスーチーさんの次男キムとも友だちになり、今回の映画制作にあたっている。一流の仕事というものはしっかりしている。

 スーチーさん役を演じたミッシェル・ヨーは、宗家の三姉妹で長女役を演じていたので印象的。マイケル・アリス役のデヴィッド・シューリスは、いろいろな映画にでているが、自分的には『セブン・イヤーズ・イン・チベット』でアウフシュタイナー役をやっていたことがもっとも印象に残っている。

 余談だが、実話を映画で再現すると主人公とくに女性は美化されることが多いが、今回に関しては、現物の方が数段美しい。ので、参考までにこの夫婦の写真をあげておく(ちなみにダンナは映画の方がましになっていた 笑)。
sumi.jpg

 スーチーさんを全く知らない方のために簡単に略歴を述べると、彼女はビルマ建国の父アウンサン将軍の娘で、2才の時に父は暗殺された。長じて、イギリス人のチベット学者マイケル・アリスと結婚してイギリスで二人の息子を育てていたが、1988年母が危篤となったため、ビルマに帰国した。折も折、ビルマは民主化運動のうねりの中にあり、建国の父の娘でしかも美人の彼女は一気に民主化のシンボルとなった。

 スーチーさんの影響力を畏れた軍事政権は夫を国外に追放し、彼女を自宅軟禁に処した。彼女が出馬しない選挙であったにも関わらず、彼女率いるNLDは地滑り的勝利を収め、これで一件落着かと思いきや、軍事政権は選挙を「なかったこと」にして、彼女の軟禁期限をひきのばしまくった。そして夫や息子のビルマ入国のビザを拒否し、「家族と一緒に暮らしたいのなら、国からでていけ」と迫った。

 軍事政権は夫のマイケル・アリスや子供たちに対して何回か短いビルマ滞在を認めたが、それは彼女を説得して国外にださせることを期待してで、マイケルが役に立たないと知ると一切入国を拒否するようになった。彼女は絶対の孤独の中で過ごし、何回か短い解除期はあったものの、その場合でも夫の入国は許されなかった。

 本映画はスーチーさんの鉄の意志と、それを支え続けた夫の愛がテーマである。1988年、妻が民主化運動の先頭にたつことを決意すると、夫マイケルはスーチーさんの支援を前面に立って行った。あの有名なスーチーさんの第一声、シュエダゴン・パゴダ演説でも、彼女のすばらしいスピーチに心からの拍手をおくり、ラングーンにあるイギリス大使館でNLDのビラを不眠不休でコピーする姿はご立派すぎて涙がでた。

 そして、何度軍事政権に強制的に出国させられても、何度も何度もビザを申請しできるだけ彼女の側にもどろとした。

 マイケルは妻と別れるまぎわ「ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだよ」と叫び、手紙でも「君がボクにやさしくしてくれるように、君は君自身をやさしくあつかってくれ」とひたすら妻の体を気遣った。そして1998年に、自らがガンに倒れ、最後の別れのためのビルマ入国も拒否られた後、スーチーさんが電話で「わたしはあなたのもとに戻るべきかしら」と弱気にいうと(軍事政権はこういう会話の時は回線を切らないのでワロタ)

 「ここまで頑張ったんだ。最後で諦めるな」と。「自分のためにオックスフォードにもどってくれ」とは一言もいわない。あっぱれである。こういうセリフを口にできる日本の男性は少ないのではないか。二人の子供たちもスーチーさんを心の底から愛しているが、彼女の生き方をサポートし続けた。こういう息子も日本では少ないのではないか。あっぱれである。

で、もう一つの見所は平気で人を殺す無学な兵士たちに対する、スーチーさんの毅然とした態度である。

 ビルマの1988年8月8日の蜂起の時には天安門の時よりも人が殺されたと言われている。

 軍事政権の兵士たちは無学であるため人を撃つことに躊躇がない。スーチーさんは1988年、各地で遊説している最中、とある集会で兵士に乱入された。集まった人々は銃で追い散らされ、演壇の前にライフル銃をもった兵士がならび、スーチーさんに銃口を向けた。

 スーチーさんはしかしこの極限の状況の中で、兵士があたかも存在しないかのように優雅に歩き続け、銃口の横を通りぬけた(兵士はびびってうてない)。そこをすりぬけると彼女を射殺するように命令した上官がいる。彼女はその上官に銃をつきつけられるが、静かに目をとじて抵抗しない。戦うクジャク、鋼鉄の蘭といわれるゆえんである(この場面で別の兵士が銃を下げるように命令したために助かる)。

 軟禁中のスーチーさんの屋敷もひどい状況。屋敷にいくまでの道にはいくつもの軍事ポストがもうけられ、誰も近づけないようになっており、屋敷の庭にも監視小屋をつくって兵士が駐留している。

 映画の中で、夫マイケルは庭の兵士たちをいらいらしながらみて、タバコに火をつけるのだが(このタバコが彼の命を縮めたと思う)、屋敷の中からスーチーさんのピアノの音が聞こえてきてふと表情をなごませる。

パッヘルベルのカノンである。

兵士たちは聞いたこともない音にびっくりしてとびだしてくる。その兵士の長(この兵士は彼女の目の前で学生をうちころした)にマイケルは「ただの音楽だよ。音楽」と答える。

 無学な兵士たちはピアノの音すら聞いたことがなかったのだ。

 で、ここからは感動のネタバレを盛大に行うので覚悟するように。

 ビルマから追い出された夫マイケルは、妻の身の安全をまもるために、スーチーさんにノーベル平和賞を授けるようにとロビー活動をはじめる。そして授与が決定すると二人の息子に「もしママがまだラジオにアクセスできる環境にいるのであれば、お前たちのどちらかがスピーチすれば、お前たちの声を聞いて喜ぶだろう」

 そして受賞式当日、スーチーさんはラジオの前で固唾をのんで息子の声を待ち続けるが、直前に停電があり、ラジオがきれてしまう。急いで電池式のラジオにきりかえ、雑音のまじるラジオから、息子の声をきいたスーチーさんは心底幸せそうに笑みを浮かべる。

 彼女は受賞ではなく、息子の声を聞けたことで喜んでいたのだ。
 そして、式場のオーケストラが奏でたのは、ダンナの選曲か
 パッヘルベルのカノンがかかる。

 彼女は一人ラジオから流れる音にあわせてカノンをピアノでひく。

 庭にいた兵士の一部ははじめてきくピアノに緊張するが、例の兵士が「音楽だよ」となだめる。もちろん監督はこの兵士の心の中に情緒が芽生えてきたことを示唆しているのである。  このあと一人になったスーチーさんは屋敷中に模造紙で、美しい言葉を英語で大書して、英語が理解できる兵士に「今は分からなくてもいいから、よく考えてちょうだい」と教えつづける。

これはネルソン・マンディラが、無学な看守を知性によって教化し、最後は友人へと変えていった「マンデラの名もなき看守」(原題goodby Bafana)にも通じる (マンデラ氏はアパルトヘイトの廃止を訴え、スーチーさんと同じく20年以上の拘禁生活を強いられ、解放後、ノーベル平和賞を受賞され南ア初の黒人大統領となった。)。

 この平和賞の授賞式がまあ一番泣けるクライマックスであろう。

 パンフレットをみると、監督は「世界が注目するノーベル平和賞の会場と、たった一人でラジオの前にすわるスーチーさんの対比は、史料にない」と言っているので、監督の演出かもしれないが、だとすれば監督、あんた職人やで。粗暴な兵士と、知性と非暴力の彼女。どちらが人間社会を幸せにするかをこのシーンは雄弁に物語っていた。

 もう一つの感動の山場は彼女のシンボルでもある髪にさした白い花。
 冒頭、アウンサン将軍はまだ二歳のむすめスーチーさんの髪に白い花をさす。そして暗殺される。その後、彼女が民主化運動のトップにたつと、彼女の髪には必ず白い花があった。それは「父の意志をついでビルマに民主化を行う」という意思表示である。

 そしてラスト・シーンは2007年の僧侶のデモ。ご存じの通り、石油の値上げを契機にしたデモはふくれあがっていった。スーチーさんの自宅前にあつまってきた僧侶ちの呼びかけにこたえて、彼女は、閉ざされた門の上にたち、ほほえんで手を振る。そしてあの白い花を優雅に群衆になげかけるのである。
 
 「父の理想をわたしはあなたたちに捧げる」という意味であろう。せつないラストであった。リュックベッソン、あんた匠だよ。

 この映画の撮影中、ビルマの軍事政権は軍人に有利なお手盛り憲法を作り、お手盛り選挙を行い、お手盛り議会を招集して足場を固めた。そのため昨年よりスーチーさんに移動の自由を認め、補欠選挙への立候補も認めた。スーチーさんに対する態度の軟化をうけて、欧米諸国も経済制裁を解除する方向にむかっている。

 ビルマの行く末がどうなるのかはまだ不透明である。中国のような道をたどれば、経済は向上し、多数民族であるビルマ人の人権はある程度保障されようが、カチン・カレンなどの少数民族または政権に批判的な人々に対する不当な弾圧は変わりなく続くであろう。そっちの方にはいってほしくないと心の底から願う。

 最後にコネタいきます。

 コネタ1 ラングーン総合病院で母親の看病するスーチーさんや学生運動の女性が読んでいたのはガンディーの本。スーチーさんがガンディーの影響を強く受けているのはよく知られている。

 コネタ2 1991年のノーベル平和賞授賞式の再現で、黒人の大主教と緋色の袈裟をまとったお坊さんがいたが、これはむろんツツ大主教とダライラマ14世。この二人はスーチーさんの解放のために前のエントリーでも述べたごとく協力してきた。

 コネタ3 1995年の第一次自宅軟禁解除について、映画の中でツツ大主教が日本代表団を呼び止めて、スーチーさんの解放を経済援助の条件にするようにと説得した結果と描かれていて、それらしい記事がないかと探してみたら、朝日新聞にこんな記事が(笑)。ビルマ(ミャンマー)へのODAの再開はあの河野洋平がきめていた(何が「あの」なのかはみなぐぐって調べてみましょう)。

外務省「民主化への説得の成果」 ミャンマーのスー・チー女史解放
 ミャンマーの民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チーさんの自宅軟禁解除が十日、発表されたことについて、河野洋平副総理・外相は同日夜、「ミャンマーの民主化、人権状況改善における重要な前進として歓迎する」などとした談話を発表した。日本は今年三月、ミャンマーに対する途上国援助(ODA)を事実上、再開しており、外務省は「日本の民主化に向けた説得も効果をあげた」(幹部)と評価している。しかし、米国政府や人権団体などは一層の民主化を求め続けるとみられるだけに、今後の経済協力拡大の進め方などが改めて問われる場面もありそうだ。

 外務省はスー・チーさんの解放が決まった背景について、(1)軟禁の根拠になった国家防御法に基づく軟禁の期限とされる今月11日が過ぎると、国際社会への説明が必要になる(2)ミャンマー政府が軟禁の理由に挙げていた国内の治安問題が、大半の反政府少数民族の帰順によりほぼ解決した(3)タン・シュエ現政権の経済開放政策により経済が上向いていることに自信をつけた、などを指摘。さらに「東南アジア諸国連合(ASEAN)への加入など、地域の流れに乗り遅れたくないとの焦りがあったのではないか」(外務省幹部)とみている。

 ミャンマーへの経済援助について、日本は軍部が政権を握った一九八八年に円借款を停止した。しかし、小規模な緊急・人道援助に限っては援助を継続。今年三月には、ミャンマー政府とスー・チーさんの対話が行われたことなどから、食糧増産を促す十億円の無償資金供与の方針を決めた。米国政府などが引き続き厳しい対応を続ける中で、「経済援助をある程度実施しつつ、友好的な形で説得した方が有効だ」との考え方があった。

 ただ、スー・チーさんの解放が実現されていない段階での援助再開だったため、「基本的人権・自由の保障状況などに注意するとしたODA四原則に反する」などの批判も強く出されていた。
 今回の解放措置を受けた円借款の再開などについて、外務省は「将来の民主化の定着や民政移管などを総合的に評価し、検討する」(幹部)としている。しかし、具体的にどのような形で民主化の定着を判断するかは微妙な面もあり、今後、経済協力の拡大を検討するなかで、その政策判断の是非が問題になることもありそうだ。

 最後は、1999年、マイケルがガンでなくなったあと、U2がスーチーさんを思って作った曲、『ウォークオン』(歩き続けろ)をあげます。偏りのない愛は容易なものではない。

 ●歩き続けろ U2(2000 all that you can't leave behind に収録)

愛は容易なものではない And love is not the easy thing
あなたが持ってこられる唯一の荷物 The only baggage you can bring
そう、愛は容易なものではない。And love is not the easy thing
あなたが持ってこられる唯一の荷物。The only baggage you can bring
あなたが捨ててこられないもの。Is all that you can't leave behind

もし闇がぼくらを2つに分かっても And if darkness is to keep us apart
もし陽の光が遙かに遠く感じられても And if daylight feels like it's a long way off
もしガラスのハートにひびが入っても And if your glass heart should crack
もしあなたが一瞬背を向けても And for a second you turn back
どうか強くあってくれ Oh no, be strong

歩くんだ歩き続けるんだ Walk on, walk on
あなたの持っているものをやつらは盗めない what you got they can't steal it
いや、やつらには感じることすらできない NO they can't even feel it
歩くんだ、歩き続けるんだ Walk on, walk on
今夜は無事でいてくれ stay safe tonight

あなたは荷物をまとめて you're packing a suitcase
僕らが言ったことのない場所をめざす For a place none of us has been
この目で見るまでは信じられない場所 A place that has to be believed to be seen
あなたには逃げることだってできた You could have flown away
開いた鳥かごで歌う鳥は A singing bird in an open cage
飛んでいって当然だもの。Who will only fly,
自由に向けて飛んでいっても only fly for freedom

歩くんだ歩き続けるんだ Walk on, walk on
あなたの持っているものは連中には否定できない What you've got they can't deny it
売ることもできない買うこともできない Can't sell, can't buy it
歩くんだ歩き続けるんだ Walk on, walk on
今夜はどうか無事でいてくれ Stay safe tonight

わかっている 心が痛いのは And I know it aches
あなたの心が砕けるのは And your heart it breaks
耐えられるには限度がある。でも And you can only take so much
歩くんだ歩き続けるんだ Walk on, walk on.

故郷 自分になければどんなものか分からない home hard to know what it is if you've never had one
故郷 どことはいえない でもわかっている Home I can't say where it is but I know I'am going home
ぼくは還っていくって、痛みのあるその場所に That where the hurt is

わかっている 心が痛いのは I know it aches
あなたの心がどれだけ砕けているか How your heart it breaks
耐えられるには限度がある。でも And you can only take so much
歩くんだ歩き続けるんだ Walk on, walk on
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DATE: 2012/08/04(土)   CATEGORY: 未分類
日本人は潜在的な仏教徒
 清風学園の平岡先生がお仕事で上京していらしたので、渋谷でお茶する。4月末に開業したばかりのヒカリエにいくが、土曜日なこともあって殺人的な混みようで、外に行列ができている。どの店も行列してまで入る情熱はないため、早々にヒカリエを後にしてセルリアン・タワーのカフェに入る。ここはうってかわって静かなたたずまい。

 コーヒー一杯1300円だから(爆笑)。

 今年も平岡さんは恒例のギュメ学堂訪問を行うとのこと。初日はガンデン大僧院を訪れて亡きガワン先生に手を合わせ、そこで一泊したら今度はギュメ密教学堂にいき、最後はセラ大僧院の管長に就任したロサン・テレ先生をお訪ねして、チッタマニ・ターラーの灌頂を授かりにいくそう。毎年通っているわけだからこのツアー「ギュメ講」ね。

 平岡さん「今の時代を悪く言おうと思えばいろいろ言えますが、昔は絶対に会うことができなかったような高僧に、こうやって飛行機にのれば会いに行けるし、昔は手にできなかったような希少な経典を簡単に読めるようになっているわけでから、いい時代ですわ。」

 たしかに、チベットの亡国とともにはじまったチベット仏教のグローバル化によって、私なんか、インドにいくどころか日本にいながらにしてダライラマ法王の法話をほぼ毎年聞いている。ちなみに、アジアで法王にビザがだせる国力があるのは日本と時々台湾くらい。だから、良い時代というよりは良い国に生まれたというべきか。

 本来法王のお話をもっとも優先して受ける権利のあるチベット人は、本土に生まれたら法王にお会いすることはできない。今年の正月インドのブッダガヤ(釈尊が悟りを開かれた地)でダライラマ法王がカーラチャクラ灌頂を執行した。すると、本土チベット人は普通に出国して法要に参加することができた。ある人はこれをみて「中国はチベットにフェアな対応をしている」などといっていたが、お花畑な発言で、巡礼が終わってインドから本土に帰ると、みな拘束されて再教育施設に送られた。

 このような「チベット本土に言論・信教の自由がない」という話の流れで、平岡さんがインドのチベット僧院でであったチベット僧Aの話をしてくれた。

 Aは20代の本土出身のチベット人であり、十代の頃インドに亡命した。父親は本土でそれなりに高い地位の役人で、Aは三人兄弟の末っ子であった。Aの二人の兄弟は二人とも中国の有名大学に入っていたが、Aの父親は三番目の息子Aを仏教を勉強するようにとインドに送った。Aはインドに来ていらい、「父親や兄弟に迷惑がかかるから」と電話も手紙も一切しなかった。

 じつはAが国境を越える際に同じ亡命者のグループから二人の死者がでていた。Aの母親はAから手紙も電話も来ないので、それが自分の息子ではないかと思い悩み、Aをインドに送った夫を責め立てた。そこで、父母は息子Aを探すために一人の代理人をインドに送りこんだ。代理人は●×僧院にいるAを探し当て、二人は抱き合って再会を祝した。Aの母親は代理人に、息子Aの写真をA単独ではなく、代理人と一緒にうつった写真をとるようにとリクエストしていた。母親は息子が生きている確証がほしかったのである。

 この逸話から分かることは、中国支配下のチベットでそこそこ高い地位にいる役人であっても、自分たちの文化をまもるためにかわいい子供をヒマラヤの向こうへ送り込んでいるということである。一度送れば、親子であっても生死を確かめることも、再びあうことも難しくなる。中国がチベットの僧院文化をきちんと尊重していたら、この親子は生木を裂くような別れを経験せずともすんだのである。

 平岡さん「ここからが不思議な話ですわ。Aは亡命して●×僧院に入門するためにその事務所を訪れると、事務所のドアノブに手をかけた瞬間に『ここに来たことがある』と思ったそうです。彼は『前世の因縁があるから三人兄弟のうち私一人がインドに来ることになったのだろう』いうてましたわ」

 もう一つのエピソードは、やはりインドの僧院でであった僧侶Bのお話。Bの父親もそこそこ偉い役人だったのだが、当局が「インドにいったお前の息子を本土に連れ戻すことができたならば、お前をもっと高い地位につけよう」といったので、Bの両親は息子に帰国を勧めるためにインドにきた。

 インドにきて父親が息子に帰国を促すと、Bの母親は『Bよ、このままインドで勉強を続けなさい』といい、夫に対しては「今まで黙っていましたが、あなたとは離婚します。」と三行半を突きつけて、夫はすごすご本土に一人でもどったという (当然出世話はフイになったろうな 笑)。

 これらのエピソードが『既得権層のチベット人は共産党の支配を喜んで受け入れている』という、中国の宣伝と、それを信じたい日本人の洗脳解除に役に立つといいのだが。

 このように苦労してヒマラヤをこえても、本土チベットから来た人間は『スパイじゃないか』と疑惑の目を向けられる。実際にスパイはいるらしく、法王の法話を聞くためにインドに一時滞在しているチベット人たちは、一様に「幸せである」といい、本音を言わない。それはどこにスパイが聞き耳をたてて、当局に告げ口をするか分からないからである。それを察してインドのチベット難民たちも本土チベット人に本音を聞くようなことはしない。

 独裁政治とは、こうやって人々を恐怖によって縛りあげ、隣の人と腹を割って話もできない状態にする非人道的なシステムなのである。

 そして、もうすぐお盆ということで二人の話題は先祖供養に及ぶ。

 私「日本仏教は『輪廻思想は差別思想を生む』と封印しちゃって、どの宗派も先祖供養を表看板に掲げてお寺の経営をしているけど、これって絶対おかしいよね。大乗仏教は『一切の命あるものは始まりのない昔から無限の転生を繰り返している。この輪廻の中で、あらゆる命あるものは過去に必ず父母兄弟の関係になったことがあるものなので、すべての命あるものを母のように愛し哀れみなさい』と教えるのだから、輪廻をなくしたら大乗仏教特有の博愛思想がなくなってしまう。日本仏教の祖師たちもみな輪廻を前提にして教えを説いているのだから、輪廻を否定している日本仏教は祖師の教えに背いていることにもなる。

 だいたい輪廻は差別思想を生むっていうけど、チベット社会は輪廻思想が根付いていても、博愛思想の方が優勢でしょうが。仏教思想をまじめに奉じていれば、差別なんて起こりようがないでしょ。不幸な状態にある人に「あんたそれ前世で悪いことした結果だよ」なんていったらその悪行でこっちが地獄に落ちるから。

 だから、日本仏教が輪廻を封印した本当の理由は、先祖供養で経営をしている今のお寺のあり方に都合がいいからじゃないかな。ご先祖が輪廻して別のステージにいってしまったとなれば、誰も先祖を供養しなくなるし、お墓も買わなくなる(事実仏教が力をもった東南アジアでは一般の人はお墓をつくらない。墓があるなら、それは儒教による先祖供養を行う華僑のつくったものである)。お寺の経営のために祖師の教えを封印するなんて本末転倒じゃない?」

 平岡さん「誠にもってそうですなあ。お供養も『先祖の供養』とかいう名目ではなくて、『他者のために祈る』という風にできませんかね。私昔ね、お葬式に行こうとしたら、ガワン先生がね、『この砂マンダラの砂をもっていってご遺体にかけて、お経をあげてあげなさい』とおっしゃるんですわ。私がね『輪廻しちゃうんだから、お経とか意味なくないですか』といったら、ガワン先生『他者のために祈ることに意味のないことはない。生まれ変わった先でもその人が楽になることができる』とおっしゃるんですわ。

 私「ええ話ですねえ」

 突然ですが、我々二人の会話は、しょうもない人について話したあとは

私「そりゃ地獄に落ちますね」
平岡さん「落ちますわ」、

立派な人について話すときは、

私は「エエ話ですねえ」
平岡さん「エエ話なんですわ」とパターン化されていることに今気がついた(笑)。

 最後に「ええ話」を一つ。

 平岡さん「ロサン・テレ先生が難波駅で切符の買い方が分からなくて困っていたら、誰彼となく手を貸してくれたそうですわ。先生は『世界中いろいろなところにいったけど、手助けをしてくれたのは日本人だけ。ローマでもソウルでもアメリカでも助けてくれる人はいないし、僧衣を着ている私たちを嘲笑する人がいた。日本では私たちが道を歩いていると、人々は避けているのとは違う感じで道を自然と譲ってくれる。もちろん嘲笑するような人はいない。日本はすばらしい国だ』とおっしゃってました。先生、あの難波ですよ? あの大阪のるつぼみたいな難波ですよ? 日本だってまだまだ捨てたもんではないでしょう」

 そういえばダライラマ法王も震災法要の際に『日本人には仏教徒の習気が残っている』とおっしゃられていた。習気とは業が意識下に残すものだから、少なくとも我々は潜在的な仏教徒には認定して頂けたことになる(ははは)。

 潜在的に仏教徒というと思い出すのが、最近池上彰がだした『池上彰と考える、仏教って何ですか』。

私たち日本人は、現実に仏教的な世界観の中で生きて、死んでいくのです。その世界観を知ることは、自らのアイデンティティを再確認し、心穏やかに生きるための大きな力になるのではないでしょうか」といい、

 第一章の末尾で「このように私が仏教に期待しているのは、実際に期待に応えてくれる人物がいるからです。残念ながら日本仏教ではありません。今のところ私に仏教への希望を抱かせてくれるのは、チベット仏教を代表する最高指導者であるダライ・ラマ十四世です。」というわけで、第二章以後のダラムサラのナムゲル僧院管長インタビュー、ならびにメインの法王インタビューが続くのである。

 たしかに日本仏教のどんな人のお話を聞いても仏教が何かについてはついぞ理解できなかったが、ダライラマの講演を一冊訳しただけで、「仏教とは心の中の悪い性質(煩悩)を消し、完成された人格(仏)をめざすための修行の体系」であることが自然とわかった。なので、「仏教について知るためには、チベット仏教によれ」という池上彰のこの点については賛同したい。
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