白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/08/26(月)   CATEGORY: 未分類
チベット人サイクリスト日本を走る
 お待ちかね(え? 待ちかねてない?)、リンポ・ヤクのジャパン輪行についての中間報告である。

 リンポは来日してからしばらく準備のために東京に滞在した。この間、彼の取材をした方が、彼にチベットのどの地域出身なのかを尋ねようとして、地図を見せた。そして、彼が地図を読めないことに気づいた。
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 これを聞いた人はみな愕然とした。「今までどうやってヨーロッパを旅行していたんだ?」

 答えは簡単。彼はケータイのGPSをみて動いていた。
 在地のチベット人に次の目的地のピンをケータイに落としてもらい、それをたよりに走っていたのである。

 列車にのる、飛行機に乗る、観光をする、それにはその地の言葉で記された路線図、時刻表をみて、チケットを買わねばならない。しかし、自転車で移動するなら目的地の都市がGPSに記憶されていればひたすらGPSに従えばいい。目から鱗。

 で、彼は8月17日(土)に新宿アルタ前から、在日チベット人に見送られてスタートをきった。彼が携行するというチラシのpdfをもらってみてふいた。

 日本人スタッフ(チベット人にかかわるとみな気がつくと「スタッフ」になっている 笑)がつくったチラシはチベット問題についてもちろん訴えてはいるけど、メインは

「彼が道をはずれていたら正しい道を教えてあげてください」「事故・トラブルのさいは以下の関係者に電話をしてください」と書いてあり、四人の名前とケータイがあがっていた。

思わず「この子におにぎりをあげてください」っていう某有名画伯のエピソードを思い出した。

 で、初日から早速、関係者のケータイはなりひびいた(笑)。

 しかし、厳密にいえばなりひびかなかった。関係者うち二人はたまたま電波の届かないところにいて、一人は電波状態の悪い山の中。きれぎれに聞こえてくる会話では、事情はよくわからない。

 あとで話を総合するとこういうことらしい。

 リンポ・ヤクはその日、日本円の入った財布を落とし、日本円がなくなってしまった。幸いドル財布とパスポートは無事だったので、両替のできる場所を聞くために交番を訪れたところ、担当の警察官は英語ができないため、パニックって関係者に電話。結局その晩は警察の駐車場にテントをはって寝たそうな (ところで遺失物届けはだせたのであろうか)。

 これを聞いて関係者すべてがこの先どうなるのかという不安を覚えた。

 しかし、翌18日には上田に着き、I 住職に迎えていただき、一安心。
 19日は、2008年の北京オリンピックの際に、聖火リレーの起点となっていながら、チベット問題を理由にその権利を放棄したことで有名となった善光寺さまに到着。W住職が暖かく宿坊に迎えてくださった。

 さらに、2009年以来、チベットで焼身抗議がなくなられた120人の方々の菩提も弔っていただく。

 翌、20日は長野にあるメディアの支局めぐり。信濃毎日さんと、長野市民新聞さんがとりあげてくださる(後者は取材に来てくださった)。
 
 8月21日はチベット人が神聖な曜日と考える水曜日でかつ満月。しかも、ダライラマ法王が八月の頭からつづけているおこもり修行の満願の日。在京チベット人は常園寺でお祈り。私の五日間の労働の成果(リンポ・ヤクのプレゼン)はその席で披露されたらしい。

 8月22日 リンポ・ヤクは在日チベット人ゲニェンさんのいる松本を経由して、愛知の中津川着。
 8月23日には、SFTジャパンのツェリンドルジェのいる名古屋へ。ツェリンドルジェは日本が長いのでこれでちょっと一安心。
 8月24日は名古屋のメディアめぐり。朝日新聞と毎日新聞の名古屋版がとりあげてくださった。

 そして、昨日8月25日は岡崎市の保母山胎蔵寺で開かれた百万人のキャンドルナイトに参加。リンポ・ヤクが出発してから、西日本を中心に「今までの経験にない豪雨」があいついでいたが、彼が輪行している場所には不思議に雨が降らなかった。
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 岡崎もこの日は日中は激しい雨がふり、このままではキャンドルがつかないだろうと心配されたが、何とリンポ・ヤクとツェリンドルジェが登場すると、雨は完全にあがったという。護国寺のチベフェスに続いてまたもやチベット・マジックである。チベット人が幸せに暮らせる日がきたら、きっと異常気象とか収まって雨は降るべき時にふり、あがるべき時にあがるのだろうな。

 昨日は24時間テレビの日であった。よく考えたら、チベットの苦境を非暴力でうったえて世界をサイクリングしている彼は、24時間テレビの格好の題材じゃないか。もう少しチベット人にプレゼン能力と予定調整能力と語学力とコミニュケーション能力があったら(全部やん 笑)、日本の報道関係者に根性があったら、もっと広く人に知ってもらえるのに。

 面白いのが、彼のフェイス・ブックは日本にきてからフリチベというよりは、ひたすらコンビニのごはんとか、ラーメンとか、自動販売機の動画にしめられたこと。彼のヨーロッパ輪行中の写真をみると、国境越えの時などは調理された食べ物がうつることはなかったから、きっと市場とかでバナナとか、パンとかかってそのままたべるしかなかったのだろう。おそらくは日本の便利さと、味付けに感動してこのようなFBになったものと思われる。

 ビバ、ベントー文化! (てか、彼が感動している便利さは大量の電力消費が支えているのだが)。

 で今後の予定では、31日に新横浜駅をでて多摩川沿いのサイクリング・コースをつかって渋谷の宮下公園でゴールインの予定。途中の橋の上から、チベット国旗をふると、彼が喜びます。そのあと、しつこいようだが、同日、18:30 原宿のウイメンズ・プラザでこんどこそちゃんとした報告会になるはず。再告知!

●世界一周サイクリスト・リンポ・ヤクの報告会 

8月31日 18:30より 場所: ウイメンズプラザ(最寄り駅; 表参道駅)
リンポ・ヤクのこれまでの人生とヨーロッパツァーの報告と日本ツァーを私の激しい労働の成果のPPtでご覧ください。

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DATE: 2013/08/19(月)   CATEGORY: 未分類
ヤクの自転車ヨーロッパツァー
 前エントリーで紹介しました、リンポ・ヤクさんは、17日に東京をたち、長野の善光寺に向かっています。このあと、名古屋にむかい、さらに、まだ場所とかは未定なのですが愛知か大阪で、報告会をやるそうです。

 で、東京にもどってこられる日に報告会が開催されることになりました。みなさま、ぜひ起こしください。誰も来てくれないと、私が五日間かけて彼のFB(チベット語)を解読してつくりあげたパワーポイントが無意味となってしまいます。

 
FBは大量の写真と過去記事については配慮がなくて、まず過去記事呼び出すのが大変。そして呼び出してもほんとうにちょっとの刺激(今来たばかりのメッセにカーソルおいただけとか、ふらふらしている広告にカーソルがふれただけ)で現在のタイムラインにもどってしまうので、どれだけ大変だったか。とにかく大変だったの! 

●世界一周サイクリスト・リンポ・ヤクの報告会 


8月31日 18:30より 場所: ウイメンズプラザ(最寄り駅; 表参道駅)
リンポ・ヤクのこれまでの人生とヨーロッパツァーの報告と日本ツァーを私の激しい労働の成果のPPtでご覧ください。


ここで参考までに彼のヨーロッパツァーと日本での活動を軽く報告。彼はチベット蜂起記念日にアメリカをたち、EU議会のあるブリュッセルから出発しました。ルートと到着日はこんな感じです。
以下写真はクリックすると大きくなります。最初の写真は地図です。

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ヨーロッパツァー行程
3月10日 アメリカの自宅発
ブリュッセル(ベルギー)=A
3月20日 パリ(フランス)=B
4月17日 バルセロナ(スペイン)=D
5月9日 ジュネーブ(スイス)
5月17日 チューリッヒ(スイス)
5月27日 ミラノ(イタリア)=F
6月2日 ヴェネツィア(イタリア)
6月9日 グラーツ(オーストリア)
6月13日 ウイーン(オーストリア)=G
6月19日 プラハ(チェコ)=H
6月23日 ドレスデン(ドイツ)
6月25日 ベルリン(ドイツ)
6月30日 ハンブルグ(ドイツ)
7月5日 コペンハーゲン(デンマーク)=J
7月11日 イェーデポリ(スウェーデン)=K
7月18日 オスロ(ノルウェー)=L
7月24日 アムステルダム(オランダ)=M
8月3日 ロンドン(イギリス)=N
8月13日 東京

彼は主要都市にいくと、まずその地のチベット人コミニュティを訊ねて、バックアップをうけます。ラカル(水曜日)にあたれば、焼身抗議の同朋たちを悼むイベントにその地その地で参加します。そして、その地のチベット人のサポートで、土地の有力者(市長さん、議員さん、ジャーナリスト)とあって、メッセージを頂きます。このメッセージは旅の終わりにダライラマ法王に届けられるそうです。

 また土地を象徴する建造物の前で、チベット旗とEU旗をかかげ、記念撮影をします。。受けたインタビューが記事になった暁には、その地のチベット人がFBにアップし彼はそれをシェアします。

 彼自身は寡黙です。一人で走っている時はひたすら自撮りの写真が並びます。FBはほとんどが彼と有力者や記者とのツーショット写真とチベットコミニュニティとの記念写真です。

 彼は英語は話せますが、書くのは苦手みたいです。日本にいるチベット人の多くが日本語を話すことに苦労はなくとも、書くこと読むことが苦手であり、かつプレゼン能力が低いのと共通しています(日本人も大概プレゼン能力ないけど、何か訴えなければいけいなほど危急のことがある人も少ないので問題は潜在的)。これは、彼らがチベット問題を自分たちが住む地で地道に訴えようとしていく上で、大きな障害となっている。

とりあえず、彼のFBから彼が訪れた地名・出会った政治家(●)・ジャーナリスト(○)のリストを以下にあげた。記事も結構アップされているが、どの新聞か日付かも、分からない切り抜きも結構あったので割愛した。地名は日本で通りのいいものはカタカナ書きにし、なじみの少ないものは現地綴りとした。リンポは出会った方々にちゃんとMRとか閣下とか敬称をつけているが、以下は略している。見落としがあるかもしれないが、それはFBの過去記事の使い勝手の悪さが大きく影響していよう。


ベルギー

3/13 Assebroek West Vlaanderen着(ベルギー 海際のBrugge近郊)。
3/16 Schaarbeek, Brabant着。 (ベルギー ブリュッセル近郊)。
古い友人アイシャ (Aisha) が宣言文を書く。
3/17 EU議会の万国旗の前で宣言文朗読。
3/18 Schaarbeek, Brabant着。●Thomas Mann (EU議会の議員であり、EUチベットサポートグループの代表)。


フランス
Mairieux, Nord-Pas-de-Calaiで国境越え
3/19 Athies, Picardie着。
3/20 La Plaine-Saint-Denis(パリ北郊外)着。
3/21 パリ着。
4/4 Dourdan, Centre → Boissy-le-Sec着。 (バルセロナに向けて出発)
4/5 Saint-Cyr-en-Val → CentreVierzon-Bourgneuf, Centre着。
4/7 ssoudun (イスーダン) → Brives, Centre→ Gueret着。
4/9 Treignac, Limousin着。
4/10 Brive-la-Gaillarde 着。
4/11 Gourdon, Midi-pyrenees → Pradines, Midi-Pyrenees de Cahors着。
4/12 Montauban (モントーバン) 着。
●Villenouvelle, Midi-Pyrenees mairie de cahors市長 Jean-Marc Vayssouze-Faure
●副市長 Francoise Faubert of Cahors in France. 
4/13 ●モントーバンのChief Staff、 Arnaud Derom Elizabeth Yecca
4/15 ●Perpinya Mediterrania市長Mr. Jaume Roure
4/18 ●Senator Josep Maldonado


スペイン


4/17 バルセロナでチベット・コミニュティの暖かいもてなし。
● Carles Puigdemont i Casamajo
4/18 ● 上院議員Josep Maldonado I Gili
4/19 ●バルセロナ副市長のCouch Dolou ● Greece政府代表 ● Fernando Turro Homedes閣下と謁見。○MUNDO新聞'hospitoletの新聞記者Elisabeth PavonとアシスタントのMontse Quinonero
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フランス

4/28 またフランスへ。
5/2 ○Michel marguier。Midi libre,Montpellier(モンペリエ近郊)→ Valenceへ。
5/4 Valence着。
5/6 ●Valence副市長
5/7 Grenoble着。 ●フランス議会の議員Oliver Veran ○Grenoble のRadio局 GresivaudanのPenelope ●Senetor Josep Maldona


スイス

5/9 ジュネーブ着。国連で記念撮影。
5/13 ○International,LE TEMPS のCeline Zund,Journailste
5/14 ●Bernex市長Gilbertonlanthen。
●Onex 市長Carole Anne kast
5/16●Winterthur市長Michael Kunzle
5/17●チューリッヒ市長Corine Mauch ●St.Gallen市長? Manfred Linke ○St.Gallen の新聞 TAGBLATTMEDIEN の記者Sophie Probst
5/21 チベット人向け報告会
5/22 ●Carougeの市長Nicolas
5/24 Vevey着。
5/28 ○CORRIERE DELLA SERAit.のCialomo Valtolna
チベット僧院ゲペーリン (dge 'phel gling)訪問。
ミラノ市長とだ集合撮影


イタリア

5/27 ミラノ着。
5/29 Associations Italia TibetのKalsang-Dolker(Consigliere Fausto Sparacio,Vice Presidente)。
5/30 ミラノ市に歓待される。●ミラノのダライラマオフィス代表President Dapei ○ミラノの運輸大臣(Transport minister of Milan)○la Repubblica' Italian national newspaperのカメラマン
6/2 ヴェネツィア着。
6/4 Udine着。
○ Furio Honsell とカウンシラーMonica Paviotti


オーストリア

6/7 Austria Hottenberg。ハインリッヒ・ハラー美術館 とTibet Center-I.I.H.T.S訪問。
●Stefah Petzner (Cmembel of Austria Parlament)
6/8 Klagenfurt 着。
6/9 グラーツ(Graz)着。
6/10 ●Mr Max Mazelle (International Relations of Graz) 
○Grazの新聞Kleine zeitung,Grazの記者Nina Muller
○Stelrerkrone新聞の記者Jakob Traby
6/11 Wiener Neustadt着。
6/12 ●Gerhard Sticker (Wiener NeustadtのCEO市長?)
○Mathias Schranz新聞記者。ウィーン着。
6/13 ウィーンにて。 ●Maria Vassilakou (Depouty Mayor Executive City Councillor)
●Manfred Neun (ヨーロッパ・サイクリスト協会会長 / President of The European Cyclists'Federation =ECF)。 ●Michael Cramer (EU議会のメンバー)


チェコ共和国

6/17 Znojmo着。
6/18 Humpoletz着。
6/19 プラハ着。
6/20 旅の百日目 Lungta と Potalaという二つのNGOのZuzana, Rinpo, Petr, Michal and Edita.とともに。
6/21 ○Cesky rozhlas (CRO) (Czech radioチェコ国営ラジオ)
※プラハはチベット国旗掲揚キャンペーンを始めた最初の参加国のうちの一つ。1996年以来毎年三月十日のチベット蜂起記念日に市庁舎にチベット国旗を掲げ、チベット問題の忘却を防ごうとしている。


ドイツ

6/23 ドレスデン 着。
6/24 ドレスデン→ Golssen 着。  ●ドレスデンのKnshla scloges (International Relations of The Mayor Office) ○ドレスデンの新聞Sachsische Zeitung記者Uwe Peter ○ドレスデンの新聞Sachsische Zeitung
6/25 ドレスデン→ベルリン (Baruth/mark)着。 ● Michael Linke (ベルリンの法律家)
6/26 ●Mrs.Sabine Baetzing-Lichtenthaler (ドイツ社会民主党議員、Tibet GKの広報官)
6/27●Claudia Boegel (Free Democratic,Party MP) ●キリスト民主連盟Hennirng Otte,Christian,
6/28 WITTENBERGE着。
6/29 Lenzen → ハンブルク着。
7/1 ハンブルグで会議。
7/3 港町キール着。
7/4● Manuel Raschke (アムネスティ) ● Manuel Raschke (アムネスティ)  ○ UIELER NACHRICHTENの 記者。


デンマーク

7/5 コペンハーゲン着。
7/6 ○Llnde,DT Newspaper Reporter
7/8 ○Line Lagoni Leonhard記者
7/9 Halsingborg着。
7/10 ●Angelholms Kommun市長 Asa Herbst


スェーデン

7/11 Gothenburg (イェーデポリ)
●Anders Eriksson(Varberg裁判長)
7/13 Munkedal着。


ノルウェー

7/15 Halden(国境の町)着。 
●Halden市長Thor Edquist○Ha-Halden.no新聞の記者Marthe Berg
7/18 オスロ(ダライラマ法王が1989年にノーベル平和賞を受賞した地) → Tonsber着。
7/19 自転車壊れる。
○Tonsbergの新聞、TONSBERG BLADの記者Haley Avbert ●Tonsberg市長Anne Lise Skcstcd, ○Sandefjord(サンネアヨル)の新聞、SANDFFORD BLAD記者 Kristin Bjorntved ○Larvik(ラルビク)の新聞、Ostlands-Posten記者Bjorn Jakobsen Journalist
7/21 海路ノルウェーからデンマークへ


オランダ

7/22 オランダ着。
7/23 Ede→ユトレヒト着。
7/24 ユトレヒトにて。○ドイツのwestfalische Nachrichten新聞の記者Anne Alichmann ○Ede市長代理Cees Van dee Knaa○Utrecht市長代理 アムステルダム着。
7/28 ロッテルダム着。
7/29 ハーグ着。
7/30○ハーグのラジオ局Omroep West Radio and Television Broadcast
○ロッテルダムの新聞、AD Nieuwesmediaの記者Tim Niemant Sverdriet


イギリス

8/2 Romford着。
8/3 ロンドン着。
8/6 ロンドンで抗議行動。 ○BBC WORLD SERVICEの記者Temtsel Hao
8/8 ○イギリス外務省中国局のMinister Nick Mackie
8/10 ○ Jeremy Corbyn (slington NorthのEU議員)。コーヒー飲みつつ人権侵害について語り明かす。
8/12 ヒースロー空港から日本に向けて出発
8/13 来日
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DATE: 2013/08/14(水)   CATEGORY: 未分類
チベット人サイクリスト来日
 リンポヤクという名前のサイクリストが世界一周中に日本にくるという。で、原宿のウイメンズプラザで報告会をやるというので、夏なので旅行の話も聞けるしいいか~と思っていくこととする。

 しかし、暑かったので家をでるのをためらい一時間ほど遅刻した(オイ)。会場は会議室で、リンポはアメリカ国旗とチベット国旗をぬいつけ、Justice(正義) freedom (自由)のロゴのはいったバイクスーツをきて座っていた。
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 私は当然、サイクリング中の苦労話とか、政治的な妨害とか、素晴らしい出会いとか、彼の故郷の話とかまあ旅行かフリチベかどちらの話かは聞けるのかと思っていた。ところがなんかゆるく質問とか受けていて話をしていない。なので、Dくんに「もう話終わってしまったの? これまで走ってきた経験とか、苦労とか、故郷の状況とかそんな話はでたの?」と聞くと、

Dくん「今始まったばかりですよ(チベット時間っっ)。なんか質疑応答になっているみたいです。三月にブリュッセルから出発して、ヨーロッパをまわって、アジアはこの東京が最初みたいです。台湾、香港、韓国もまわる予定らしいですよ」とのこと。

というので、折角きたので、質問させて頂くこととする。

私「今までヨーロッパを回ってきたとのことですが、どのような〔肉体的・政治的〕苦労がありましたか。話せる範囲内で結構ですのでお願いいたします。」

リンポ「ブリュッセルから出発して、ある時は独りで、時には友達と走ってきました。どの国でも人の多い都市を選んで走りました。私は言葉はできないけど、みんなチベット国旗をみて、私がチベット人だと分かると、家に泊まっていけ。映画に行こう。ダライラマはいい人だ、といってくれて、楽しかった。自転車が壊れると、修理代は高価なんだけど、誰もボクからお金とらなかった。スペイン、イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、デンマーク、ノルウエー、ベルギー、フランス、スイスなどにいった。何の苦労もなかったです」

あれれれ、この人、年はいっている(42才)だけど、自分探しの旅人みたいなこといってる。それに何の苦労もなく移動ができるって難民でもないし、中国籍でもないってこと?

 聞けば、彼はもうアメリカ市民権を得ているのだという。

 しかし、オダマコトとは異なり、背負っているものの重さがやはり違う。それは彼の続く発言からわかった。

「私は〔アメリカ国籍を取得した〕2007年以後、中国政府に拒絶されて、故郷(アムド)に戻ることはできなくなりました。あなたたちは自分がどんなに幸せか分かっていない。あなたたちは会いたいときに親や親戚に会うことができる。わたしは親戚に会いたくても会えない。五人死んだけど、誰にも会うことができなかった。あなたたちは行きたいところに行くことができる」

自分の欲望のままにふらふら旅行している某ゼミ生に聞かせてやりたい一言であった。

Dくん「生まれ故郷(アムド)の話をしてください」

リンポ「長い話になります。私は1972年生まれで今年42才です。〔中国では〕高校もちゃんと出ていません。叔父や父にビジネスを教わってラサで働いていました。〔具体的には〕ネパールのボードナートにいる友人四人とビジネスをやっており、法王がインドで行った法話などをCDにしてラサで売っていました。1997年のある日、叔父がやってきて、「法王のCDを売っていることがばれた。警察がくるからいますぐチベットをでるんだ」と言われたので、国境を越えてネパールに行きました。政治活動をした結果なので、アメリカの市民権が得ることができました。

そして、突然リンポの顔は暗くなった。

リンポ「私の母が死んだ時のことを思い出しました。〔チベットにいる頃、〕弟がすぐに帰ってこいというので、家に帰ると母もう死んでいました。土地の病院に薬を出してくれといったのに、薬を出してもらえませんでした。私の祖父はレコンの高僧であり、わたしも活動家だったので中国政府はうちの家族を憎んでいました。〔だから薬をだしてもらえなかったんです〕I had to bring back ・・・(私は取り戻さなければならない)」このあたりから声が小さくなってよく聞き取れない。しばらくしてから

「ごめんなさい。私は1997年に海外に逃れてから自由があるけど、どこにいても幸せに感じたことはありません。少しでも休みがとれても働くようにしていまます。アメリカでは正月に休みますが、会社の仕事として正月を祝うことはあっても、心の底から正月をお祝いしたことはありません。チベット国内では今もたくさんの人が苦しんでいます。死んでいます。牢獄に繋がれています。私が今外国にいるからとといって、自分だけ楽しむわけにいきません。それは内地のチベット人が私がそのように思うように望んでいるのではなく、ただ私自身がハッピーになれないのです。」

最初は42才にして移動の自由をえたチベット人が、おくればせながら広い世界をみてやろう、そんな話かと思ったら違った。チベット問題は訴えている。アメリカでツーリングをやっていた際にはその出発日を今行方不明になっているパンチェンラマの誕生日にしていたそうだ。

 だったらちゃんと今までの旅路を示した地図なりプレゼン画面なりを準備して、チベットの現状、あるいはチベット・サポーターの世界的なひろがりとかを報告しなさい。

 すると世話人のNさんがこうきりだした。「実は私が彼の来日をしったのは三日前です。私は彼が報告会をしてくれるのかと思っていたのですが、彼は彼で私たちチベット人が何とかしてくれると思っていたんですね。つまり、この場でこれから彼が三週間の日本滞在をどうしたらいいかみなさんに話あってもらいたいのです」

え、彼って無計画に日本にきたの? でもって、チベット人もそれ知らなかったの? 今日って報告会でなくて、会議するため? 

そういえばここ会議室だった(笑)。

そして蘇る記憶。数日前Uさんのツイートに

「待ち人来たらず」という一行がながれた。後で聞くとこれリンポのことであった。突然の来日通告に成田に彼を迎えにいく人がおらず、Uさんはリンポに「新宿までリムジンでこい」、と指示したところ、どう彼の脳内で変換されたのか、「シンガポール」のチケットを買おうとして、当然そんなチケットは売ってないので、二時間空港内をさまよっていたのだという。

じつは難民・移民を受け入れる伝統のあるアメリカやヨーロッパには、どの国にも大規模なチベット人コミニュティーがある。彼がFacdbookで次の国に「行く」といえば、行った先のコミニュティーがまた動く。たとえば彼がイタリアにいった時は、たまたまあったチベット人女性(食事中)が現地の顔役で、有力者にいろいろ話をつないでくれて、売れている雑誌の表紙を飾ったのだという。

 そうはいっても、難民も移民受けいれていない日本にはたいした数のチベット人もいないし、ヨーロッパと同じに考えられても。これは・・・

というと、在日チベット人たちは数少ない日本人参加者に「何とかしてくれ」オーラをだす。
こりゃあかん。

 仕方ないので、サイクリストのDくんが、リンポの自転車行動計画をねる(たぶん彼は純粋にサイクリストとして彼の旅の話を聞きに来ていた 笑)。アピール史料はUさんが日本語に翻訳することになっているらしい。そしてプレゼンである。

 チベット人Aさんが「彼がこれまで旅してきた場所の写真とかビデオをつかってプレゼンをしたらどうか」と提案。そうそう、私もそう思うよ。

 しかし、リンポはFacebookにこれまでの軌跡をあげているのみで、一番まとまっているのはラジオ・フリー・アジアのインタビューだという。ラジオはチベット語だろう。そこで、フェイスブックをみてみると、投稿はチベット語でなされていて、日本人には読めない。唯一日本語でよめるプロフィールが出身校ワルシャワ大学、出身地バルセロナ、居住地ダラムサラとどこからつっこんでいいのか分からないめちゃくちゃなことになっている。

 チベット問題を訴えるならせめて英語で書いてくれ。

 私「これじゃ日本人にはわからないよ。だれかこのFacebookの写真でPowerPointつくったら?」といったら、チベット人、しーん。これも日本人がやるのかい!

 笑ったのはチベット人が「自転車で公道を走るのに許可は必要ないのか。二年前チベット人がバイカーが、日本でバイクにのれなかったけど」と質問した時、

Tくん(日本人が)「あ、あれ、バイクが税関でとめられたの。許可とか関係ない」

 どんだけチベット人無計画なんだ(笑)。下調べしろや。というわけで、これから三週間、リンポ・イン・ジャパンはどこへいくのか。今日の時点では、東京から長野の善光寺に向かい、中山道から名古屋、大阪に向かうような計画になったようです。しかし、中抜けしたので、ルートが決まったら報告します。
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DATE: 2013/08/04(日)   CATEGORY: 未分類
チベット・イン・モンゴル(街歩き編)
 ウランバートルの街歩きは中心にあるスフ・バートル広場から始めよう。見所は大体この広場から歩いていける。北京の天安門前広場、モスクワの赤の広場同様、社会主義政権時代の国家儀礼が行われた場で、中心にはモンゴルの人民革命の立役者スフバートルの像がある。
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↑スフバートル広場のチンギス像

 この街はもともとチベット仏教の大僧院、ガンデンの門前町であり、"モンゴルのダライラマ"ジェブツンダンパの所在地として有名であった。ハルハ(今のモンゴル共和国の地にあったダヤン・ハーンの第十子の子孫である四人のハーンの君臨する地域)が、ジュンガルとの抗争に敗れて、1690年に清朝に服属すると、この街には清朝風味も加わった。

 それは三百年つづいたが、20世紀に入って人民革命がおき、モンゴルのスターリンチョイバルサンが現れると街の姿は一変した(ちなみに広場の南に政治粛正博物館もあるが、Openと書いてあったのに開かなかったので残念ながら閲覧できず)。中国の影響を思わせる清朝時代の建造物はソ連によって破壊され、宗教を理解する頭をそもそも持たない社会主義はチベット僧院を破壊した。遊牧王侯もチベット仏教僧たちも粛正された。

 町並みはソ連的・ロシア的なものへと激変した。

 チンギス・ハンの長男の家系はかつてロシア平原を支配しており、ロシアの起源となったモスクワ大公国も、現在ロシアの領域にある数多くの地域も長男の末裔たちに支配されていた。この事実はモンゴルを子分と考えるソ連には大変に都合が悪かったため、チンギス・ハン研究は御法度となった。今回あったモンゴル人も、祖父が収容所に入れられていたという。歴史を知っている人=モンゴル人としての誇りをもっている人=収容所と、当時のモンゴルは今のチベットのような状況だったのだ。

 潮目がかわるのはソ連が崩壊した1991年以後。、モンゴルが民主化するとその反動でどばーんとナショナリズムが勃興し、チンギス・ハーンが大復活を遂げた。今やスフ・バートル像を高見から見下ろしているのはチンギス・ハーンの巨像である。郊外にはチンギス・テーマパークもあり、土産物はソヨンボ(モンゴル国旗)にチンギス・グッズといった具合に、モンゴルはチンギスまみれである。

 それでは社会主義時代の巨大な建造物、韓国・中国資本による近代的な高層ビルは華麗にスルーして、モンゴルの街角に残るチベット世界へとご案内いたしましょう。

ボグド・ハーン宮殿博物館
 まず、足を運ぶべきは広場南にあるボグド・ハーン宮殿博物館。ここは最後のジェブツンダンパが晩年を過ごした宮殿である。ボグド・ハーンは1911年にモンゴルが清朝から独立した際にモンゴルの政教一致の君主の座に推戴された僧侶であり国王である方である。
13冬の宮殿1

 この宮殿には彼と妃の王座(チベットの佛像の台座と同じデザイン)、ベッド(満洲王室のものと同じデザイン)、正装(これは満洲王室そのまま)、彼が使用した印璽類(ダライラマの印璽と箱のデザインと称号内容がほぼ同じ)などが並んでいる。ちなみに、正殿は清朝風だが、冬の宮殿の建物はT君によると、当時のロシア領事館と同じ設計図で建っているそうな。ジェブツンダンパは新しがりだったらしい。
13冬の宮殿2

 ダライラマがノルブリンカ離宮に珍しい動物を集めて愛でていたように、ジェブツンダンパも多くの動物を冬はマイナス30度になるこの地で愛でていた。一階にある多数の剥製はそれである。ペンギン以外は大変につらい思いをしたことだろう。寒さに弱いオウム類などはどうしていたのだろう。

 チベットのような、満洲のような、ロシアのような不思議な空間である。

チョイジンラマ博物館

 さて、宮殿博物館を堪能したら、今度はジェブツンダンパの弟さん(1871-1918)がシャーマンとして駐在していた寺へ。今この寺はチョイジンラマ博物館という名に変わっている。

 寺としてはもはや機能していないが、中身が破壊されずに当時のまま残った唯一の寺院である。中身は一言でいえば、ラサにあるお寺をそのまま見ているような感じ。シュクデンの像もどばーんと飾ってある。ちなみに、チョイジンラマのチョイジンとはチベット語のチューキョン(chos skyong=護法尊)がなまったもの。ダライラマ政権にはネチュン祀に駐留するシャーマンがチューキョンをおろして政治のアドバイスをしていたが、同じように、ジェブツンダンパ八世はこの寺に駐留するシャーマンにチューキョンを降ろして託宣を獲ていた。シャーマンの装束も全く同じである。13チョイジンラマ

 このように、中身はチベット風なのだが、外見は清朝のチベット僧院建築。
 北京の雍和宮をはじめとし清朝資本が入ったチベット寺にはお寺の名前が、満洲語・モンゴル語・漢語・チベット語の四体字で記されるが、この寺も清朝から興仁寺という漢語名をもらっている。建物のデザインは清朝風で、ちょっと北京の西苑にいるような感覚である。
 
ザナバザル美術館

 はいお次は広場の西から歩いてすぐのところにあるザナバザル美術館。ザナバザルってサンスクリット語のジニャーナバジラが訛りたおして結果で、ようはジェブツンダンパ一世の幼名である。モンゴルではジェブツンダンパ一世は"モンゴルのダヴィンチ"というキャッチがついており、彼の名前を冠した佛像の様式がザナバザル様式として知られており、21尊ターラー像などがとくに有名である。

 私は前々からこの"モンゴルのダヴィンチ"説には疑問をもっている。ジェブツンダンパがチベットからモンゴルに帰国する際、ダライラマ政権は僧院運営にたけた僧侶や僧院内に安置する仏画や仏像をつくるための技術者をつけたと同時代に記されたジェブツンダンパ一世伝に描かれている。しかし、この伝記には彼自身が仏像制作をしたとの記述がないのだ。彼の著作をみても仏像制作にかかわるものはみられない。ここから推測するに、チベットからきた仏師集団がジェブツンダンパの宮廷内にモンゴルに新しい様式をもたらし、それが彼の名前を冠して伝えられるようになったのではないかと。ちなみに、仏教美術は二階のみで、一階は突厥碑文など古代の展示物が並ぶ。

 帰国後、唐の歴史を研究しているI先生から「石濱さん、ザナバザル美術館いった? あそこに突厥の墓誌あったでしょ。あれ出土地点ともども見に行きたいんだよね。」と言われた。私は「え?墓誌ですか?少なくとも展示はされてなかったですよ」と答えたが、よく考えたら、古代の展示が行われている一階をスルーしていた。
 なので、「ごめんなさい。そもそも一階行ってませんでした」と訂正をいれる。でも私は知っている。彼がもしモンゴルいったら絶対二階には行かない。限られた時間で専門の情報を集めるとなると、どうしてもこうなるのだ。

モンゴル国立博物館

 さて、広場の北西にはモンゴル国立博物館がある。この門前には陰気なモニュメントがあり、キリル文字を読むと「モンゴル人たちよ! あの暗黒の日々を忘れるな!」との、文字が刻まれている。チョイバルサンの粛正の嵐が吹き荒れた日々に命を落とした人達への鎮魂碑であった。ここにくれば、モンゴルの歴史が古代から、20世紀初頭のジェブツンダンパ八世を国王に推戴した独立までの歴史が一覧で分かるようになっている。今回国際チベット学会が開催されている間、三日間だけ「モンゴル人たちがチベット語で記した文書遺産」という展覧会が開かれていた。この展示品はチャンバ師(BYAMBASA Ragchaa)というこの博物館のチベット語セクションで働く僧侶の方の個人的なコレクションで、このコレクションをポーランドのアガタ氏がアレンジしてこの展覧会の開催に至ったのだ。13国立博物館

 会場で目を引いたのは、ダライラマ13世が、ジェブツンダンパ8世におくった別れ(イフフレー=ウランバートルをさる)の手紙。Kくんが、「これ、ダライラマ13世の筆跡で、印璽も同じだ」と目を輝かせていた。じつはダライラマ13世がモンゴルに滞在していた折の史料集The Thirteenth Dalai Lama on the run (1904-1906) が丁度ヨーロッパの出版社ブリルから出たばかりなので(ちなみに、この史料集一冊で300ドルというすごい値段なのだが、会場では150ドルになっていたので私も買った。)、論文化できる確率が高い。K君がんばってくれい。

 博物館の売店には、この博物館のカタログがモンゴル語と韓国語で並んでいた。日本語はない。モンゴルにも韓国のプレザンスは大きい。モンゴル語版のカタログをかって領収書をと請求すると、「丁度きれたばかりでない」と断られた。Kくんに買ったばかりの博物館のカタログをみせると、「僕も欲しい」と彼も売店に買いに行った。戻ってきた彼をみると、彼のカタログはちゃんと袋にはいって手に提げられるようになっている。微妙にサービスの差を感じる。そいえば会計は若い女の子だった。Kくんがイケメンの日本人なのでサービスしたのかも。同じことをTくんも考えたのか、「Kくんがいったら領収書きってくれるんじゃないの?」と冗談でいったので、私も冗談で「Kくん、領収書とってきて」と頼むと、たぶんKくんもネタで交渉にいってくれた。しばらくすると、本当に領収書がでてきたのである。会計の女の子は二階までとりにいってハンコまでついてくれたのである。なんなんだこの待遇の差は。それをみたTくんが「じゃあぼくも結構買ったから領収書もらってこよう」といってしまった。

 交渉相手が若い女なら若い男を送り込め、男なら若い女だな、これが私が今回モンゴルで学んだ教訓である。
 
 ルーリヒ博物館

 さて、みなさんはニコライ・ルーリッヒ(1874-1947)の名を聞いたことがあるだろうか。神秘主義者・歴史家・画家として著名で、世界に先駆けて文化財保護活動をはじめた人としても名高い(加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』)。20世紀初頭に中央アジア・チベットを探検し、チベット仏教の聖地シャンバラを題名にした本も出版している。実はこのニコライ・ルーリッヒが中央アジア探検に旅立ったベースとなった建物が、今もウランバートルの東部に残っていてルーリッヒ博物館となっている。 これは日本資本で開館したものらしく、館内には日本語の標語がはってあったりした。新興宗教かなと思いスタッフに聞いてみたが、この博物館を支援している日本の団体名は言わなかった。ウランバートル唯一の正教会を目印にしてタクシーにのるとみつけやすい。庭先にはチベット式チョルテンと管理棟のゲルがある。
13ルーリッヒ

ガンデン大僧院(dga' ldan theg chen gling)

 トリを飾るのはやはりウランバートル西部にあるガンデン大僧院でしょう。この寺はハルハでもっとも古いチベット僧院であり、街はこのガンデンを中心に形成された。いわば中核である。社会主義の時代にはほとんど更地にされてしまったが、今は復興の象徴となっている正面の観音堂を中心にぼちぼち諸堂の再建が進んでいる。目に付くのは観音堂のむかって左手にある大きな建設中のお堂である。集会殿や僧の生活房や図書館が一体になった建築物らしくダライラマ14世の資金で建設中とのこと。正門をはいって右手にある塀で仕切られた区域は(オンマニペメフンの掲げられた門を入る)、俗人対応の法要が行われる建物が並ぶ。私が訪れた時は丁度ラマが曼荼羅をかかげて、その曼荼羅にむすびつけた赤と青のリボンをみなでつかんで加持をうける儀式をやっていた。もぐりこんで加持をうける。
13ガンデン法会

 お加持が終わると、諸堂をコルラ(巡拝)して、経典を頭にのせて頂く。悩みのある人はラマにカウンセリングもしてもらえる。この俗人むけ区域の北側には僧侶が修行と学問に励む学堂が四つ、デチェン・カルパ学堂、タシ・チュンペー学堂、イガー・チュージン・リン学堂、クンガー・チューリン学堂、左手には密教学堂と並ぶ。中での仏像の陳設の仕方、ゲコ(dge sko)が若者僧たちを管理するやり方は南インドのチベット難民社会の僧院の風景を彷彿とさせる。それもそのはず彼らはみなダラムサラや南インドで勉強してここに戻って後進の指導にあたっている。ちゃんとゴマン学堂もある。西洋人観光客とともに彼らの勉強を邪魔しないようにのぞき魔のように学堂の入り口から中を見守る。

 このように、ガンデン大僧院にはなにげにダライラマ法王のプレザンスが感じられる。学堂の本尊前の導師の座には、ダライラマ14世のご真影が飾られているし、境内のあちこちにはポスターが貼られ、年末にダラムサラで行われるダライラマ法王を導師とするカーラチャクラ灌頂への参加を呼び掛けている。

 俗人の世界は中国と韓国とつながっているが、ここガンデンはインドの風が通っている。

 ガンデンの拝観が終わったなら、東門からでて、スラム地帯をぬける道を東にずっといくことをおすすめする(治安が悪いので自己責任で)。大通りにつきあたった左手にはペカル廟がある。ここの本堂はカウンセリング場となっており、悩める人々が一人一人僧侶の指導を受けることができる。ペカル堂の道をはさんで向かいはバクラ・リンポチェの僧院である。デザインは完全に南インドのチベット僧院と同じ。

 ウランバートルの街は狭いが、東のルーリッヒ美術館から西のガンデンにいくにはやはり距離がある。この場合タクシーがおすすめだが、モンゴルのタクシーは日本のタクシーのように車に特別の目印はない。あえていえば「独りでのっている車はみなタクシー」(見方を変えれば白タク)。ふっかけられるのではないかとタクシーを敬遠する人も多いが、私は気にせず乗った。それは、スリやよっぱらいに絡まれたり、マンホールにおちたり、車にひっかけられたりと歩く方が危険が大きいからである。 ホテルで大体の値段を確認して、行き先だけモンゴル語で言えれば、あとは無口なふりをしていればたいがいぼられることはない。

 ただし、時間帯によっては渋滞がひどいので、その際はやはりタクシーではなく歩く方がいい。渋滞の原因は道を封鎖して行う非効率で長期間にわたる工事や、昨今の人口増をうけて、街のインフラがおいついていないことがあげられる。かててくわえて、モンゴル人の交通ルールがカオス。 T君がいうには「モンゴル人は馬にのる感覚で車にのるので、一人で一台にのって、公共交通機関を使わないので車の台数が増えるんです。また、日本だと、横道から入ってくる車がいると、暗黙の了解で一、二、一、二といれていくじゃないですか。でもモンゴルだと、いつまでも入れてもらえないので渋滞するんですよね。前の車がゆずってやろうとすると、後続の車がいれるなとクラクションならしたりするし。だから渋滞が減らないんですよ」という。

 その話を同じホテルの関西からきた若手研究者にしたら「センセ、それは関東の話ですよ。関西ではやっぱり道をゆずりませんから。」と言われた。

 食事については1000円くらいはらえば、タイ料理でも韓国料理でもウクライナ料理でも結構美味しいものが食べられる。カフェもおしゃれな内装な店がいろいろなところにあるので、町歩きにつかれたら入ってお茶もできる。ウランバートルはあるいて丁度いいサイズの街である。ただし冬は激しく寒いので、街歩きするならやはり夏の三ヶ月をおすすめする。草原も夏の方が美しい。

 最後に、モンゴルらしい写真ということで、夕飯にお呼ばれしたIさんの別荘の近くの風景。流れているのはあのトゥーラ河。
13モンゴル別荘
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