白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/09/29(日)   CATEGORY: 未分類
チベットゼミ高野山に行く(後編)
 苅萱堂をでて、一の橋、中の橋とわたって、最後「無明の橋」をわたると奥の院である。

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 高野山の奥の院では、今も尚弘法大師さまが命あるもののために瞑想に入っているといわれる。密教の深い瞑想は息をだんだん細くしていき、身体活動を最低限にまで落とすため、瞑想者の姿はあたかも死んでいるかのように見える。なのでこのような思想も生まれてくるのである。弘法大師様の元には御供所で調理されたお食事が毎日、届けられているが、そのお食事に口がつけられているか否かは外のものには分からない。
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 ここ奥の院には戦国大名の40%の墓があると言われる。伊達政宗、上杉謙信、織田信長、徳川家もむろんあって、私のご先祖がお仕えしていた蜂須賀家の墓もある。そういえば我が家の宗旨は真言宗高野山派だった。ここにくれば一生分の戦国大名の墓を見ることができる。

 さらに言えば、現代に入ってからの墓も結構あり、シロアリ駆除会社の作った墓「〔シロアリよ〕安らかに眠れ」とか、「パナソニックの墓」とかは、もうちょっと言葉の選びようがあるのではないかと思った。

Tくん「先生、崇源院(お江)と千姫の墓がこの上にありますよ」

「そりゃちょっと見てみたいわね。みんなー、上野樹里の墓があるってよ」

学生たち「先生、なんかいろいろ飛ばしてしゃべってますよ」

Iくん「先生、高野山って昔は女人禁制だったんですよね。なのにどうしてこんなに女の人の墓があるんですか?」

「女も骨になったら男の修行の邪魔にはならんからだ。女人禁制は別に女性差別ではなく、男性修行者に余計な色気をださせないために結界をはったもの。女人高野は男子禁制だからね。」

 参道をしばらく歩くと、今までも遅れがちだったEくんといっちーとSちゃんとTくんグループが、完全に姿を消す。「無明の橋」で集合写真をとろうとして、

「全員集まっていますかー?」と私が聞くと、Hくんが「集まってます」というので、シャッターをきったがあとでみたら、例の四人が写っていない。

私が「アナザーワールド(この四人が別世界でお花畑しているのでそう呼ばれ始めていた)が写っていないじゃない」というと、

Hくん「いないのが普通かなって」
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 あまりにもゆっくりしていたので、奥の院についた頃にはお茶のサービスも説法のサービスも終わっている。御供所でやっと全員そろって記念撮影。帰り道もアナザーワールドグループはいつのまにかどこかへ言ってしまった。自由な連中だ。

 奥の院近くには善人は軽く感じ、悪人は重く感じる「みろく石」がある。試してみようということで、まず男子学生が次々と祠に手を入れて石を持ち上げるが、なかなか持ち上がらない。薄いけど、長くて重い石なのでもちあげるのは難しい。

 で、私が「みな順当に悪人認定されていくね~」といって、次に女子学生。

男子学生の一人が「これで軽々もったら怖いよな」とぼそっという。やっぱ女の子の方が何となく心が清いような気がするよね!

 みなが息をのんで見守る中、女の子は石をつかもうとするが、手が小さいのでつかめず、石の片側だけもって持ち上げたのでてこの原理ですごく動いたように見えた。
 みな〔やっぱり〕みたいな空気が流れる。

 一通り、善悪の判定がでたので、私が「さあ行きましょう」というと、学生たちが

「先生がまだやってないじゃないですか」という。ちっ、気づいたか。

 いくつもの逃げ口上を考えたが、とっさに口をついて出たのは「私は女人だし、年だし客観的にいって重いに決まっています。これは私の人間性とは関係ありません」

 案の定、石は超重かった・・・。この晩は、金光明経と新羅と聖徳太子のパワポ講義をやる。

三日目
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 朝、九時、大師教会で大乗仏教の在家の十善戒をうける。これはおすすめ。十善戒とは、体に関する三つの善「生き物の命をとらない・与えられないものをとらない・邪なセックスをしない」と、言葉に関する四つの善「嘘をつかない、悪口を言わない、二枚舌を使わない、言葉を飾らない」と、心に関する三つの善「怒らない、執着しない、間違った哲学を正しいと思わない」を誓うことである。普通に道徳・倫理であり、むろん他のどのような宗教に入門していようとそれを捨てる必要はない。

 まず、真っ暗なお堂の中に入る。正面には弘法大師様の画像だけがライトアップされている。そして阿闍梨入場。暗闇の中で戒を授かるのは、我々は一度死んで、今度はきれいな体になって、明るい世界へと再生することを実感させるため。阿闍梨が暗闇でよく顔が見えないのは、特定の人ではなく阿闍梨=弘法大師さま=大日如来から戒律を授かっているという密教特有の演出からである。

 導師が本尊というのは密教の基本思想である。受戒が終わって学生に
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「今、あなたたちは、生まれ変わってもっともきれいな状態です。これから怒ったり、執着したり、悪口いったりして悪業を積むかもしれませんが、今はまっさらです。この人生で一番きれいな瞬間を写真におさめましょう」といったら学生

「先生、今悪口いったから、汚れましたよ」


このあとは自由行動。高野山をもっと見たい人は残り、車できている子はそのまま四国から広島へ、私は論文が煮詰まっていたので、チベット仏教関係の資料をもって大阪の平岡先生に会いに行くため、大阪をぶらぶらしたいグループとともに大阪へと向かう。自由なゼミである。

 みなラインでつながっていたので、アナザーワールドグループ以外は大体どこにいるか把握できた(アナザーな連中は何をしているのか聞いても返事がない 怒)。びっくりしたのはKくんが、我々が初日に断念した町石道を、一人で下から上り始めたこと。この合宿の精神を唯一ちゃんと理解し具体的に行動したのは彼だけであった(笑)。で、みながラインで応援するなかさわやかに歩ききった。若いってすんばらしい。私も今度は時間をちゃんととってこよう。

 で、お好み焼きやで大阪グループと分かれて、自分は論文に使うチベット語テクストもって平岡先生を上本町に訪ねる。先生は仕事中であったが、時間を作って下さった。オサレなカフェ中谷亭で一通り質問をしおえた後、先生は今年の夏ギュメ学堂を訪問した経験を話しはじめた。

 今はなき平岡先生の密教の師はロサン・ガンワン先生という。生まれは普通の人であったが、密教・顕教の両方の学問を究められ、二大密教学堂の一方ギュメ学堂の僧院長もつとめられた。ガンワン先生は晩年ガンにかかられ、平岡先生はそれは献身的に看病にあたられた。私はガンワン先生と平岡先生の関係を目の当たりにして、チベットの僧院社会の師弟関係とか、施主と應供僧の関係とかを知り、ガンワン先生の主催する灌頂通じて、チベット密教にふれたため、ガンワン先生がなくなられた時はやはり本当に悲しかった。

その先生がなくなられてはや4年。平岡先生がインドにいく直前に生まれ変わりが確定された、とのニュースが伝わってきた。まだ、公式に僧院にお迎えしていないので今回のギュメ詣でではその子供に平岡先生はお会いしていない。

 この一人に候補が絞られるまでには、まずダライラマ法王に化身探索のお伺いをたて、許可がでたら、ガンワン先生の身の回りの世話をしていた若いおぼうさん、チューロリンポチェが探索の中心となり、法王が「探しなさい」と指示した地域の子供達を調べて回り、リストをつくる。

 そして、そのリストを再びダライラマ法王にあげて、リストの中のどの子供が生まれ変わりか判断を仰ぐのだそうな。で、ガンワン先生の場合は81人もの子供がリストアップされ、法王はそのリストの一番目の名前を選ばれたのだという。

 「最初の子供を選ぶって暗黙の了解でもあるんですか?」

 平岡先生「そんなものないですよ。ボクが知っている別の例では法王はリストを見るなり、『ここにはいない』とおっしゃられたこともあります。そうしたらまた探し直しですよ。実はガワン先生がになくなられる夜、お弟子さんたちは、みな『生まれ変わられる時にはみつけやすい形ででてきてください』と祈願して、先生もそれに応えられたんですよ。だからだ〔すぐに決まったのだ〕と思います」

 「意外ですねえ。私は平岡先生は、生まれ変わりの子供のことは簡単には認めないと思っていました。だって先代にあれほど深く私淑していたのが、いきなり子供に戻っても受け入れられないんじゃないかと」

 平岡先生「ボクも実は〔この子を生まれ変わりとあっさり信じている〕自分にびっくりしているんですよ。何より、一番身近にガンワン先生にお仕えしていたチューロ・リンポチェが『そうだ』とおっしゃっていますしね。先生写真があるんですよ。ご覧になります?」

 「見たい見たい。」
 そして、先生はおもむろにフレームに入った写真たてを取り出した。そこには四才とは思えない大人びた表情の男の子がうつっていた。

 私はこれ見て
 「あ、これはホンモノだ」と思った。
 だって先代とそつくりなんだもん(笑)。
 ちなみに、ダライラマ法王はただリストだけで生まれ変わりを決定されたそう。ちなみに、ガンワン先生が亡くなられた日も、そのニュースが伝わる前から法王は「知っている」と応えたそう。ガンワン先生と法王はほぼ同世代。亡国の時代を一緒に生き抜いて、深くそして強くつながっているのだろう。

 これからもチベット仏教をめぐる情勢は厳しいことだろう。日本の仏教界なんて国があるのに、明治元年以後、崩壊状態である。チベットはその上国がないのである。
 しかし、平岡先生は「この子が還俗とかでもしない限り、一人前になるまで暖かく見守る」とおっしゃるのを見ていると、なんとかなるような気がしてくるから不思議である。
 私もこの子が高僧に育ってくれたら、きっと我がことのように嬉しいだろう。
 
 高僧の死、そして再生、そして弟子との再会。チベット研究者として、この一連の過程が実見できるのは本当に楽しみである。
 来年、平岡先生とガンワン先生二世が対面する時は私は絶対その場にいるだろう。
 こうして私の高野山の旅は、密教的にいって非常にふさわしい終わり方をしたのであった。
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DATE: 2013/09/28(土)   CATEGORY: 未分類
チベット・ゼミ高野山にいく(前編)
 今年のゼミ旅行は高野山である。テーマは「仏教と巡礼」。昼は巡礼路を歩き〔のはずだった笑〕、道々仏様やお寺をお参りし、夜は阿弥陀様や大日如来についてのパワーポイント講義である。

 今年は距離があるので、東京から通しでバスでいくのは断念し、南海難波駅で現地集合。車で先にいくもの、終電で最後にくるもの、例によってゆるい。ちなみにゼミ長は突発的な事情で不参加。彼を信頼して、電車の時間とかタイムキーパーとかお願いしようと思っていたので先行き不安。案の定、旅程はひたすらグダグダになっていく・・・。

一日目

 出発日の早朝、2020年東京オリンピック開催が決まった。去年のゼミ旅行は中国の反日デモ、その一昨年前は尖閣船長の無条件帰国許可とかなんかどうしようもないニュースがかぶっていたが、今年は珍しく平和な船出である(笑)。

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 高野山は特急で行くと難波から一時間ちょっとなのだが、巡礼道をできるだけ歩きたかったので、途中九度山駅でおる。ところが、九度山は見事な無人駅。どちらの方角に歩き出すかも分からない。とりあえず、カンで歩きだすと、近くに真田幸村の父上の墓のある真田庵という尼寺があった。うっかり入ったところ、ここの尼御前が非常にお話好きかつ宿曜経好きな方で、今年は占いで「麺類がよい」とでたので、そば、うどん、パスタしか食べておらず、これで運が向いてくるばず、と力強くおっしゃっていた。

 パスタ御前の話がやっと終わったので、紀の川にそって慈尊院まで歩く。結構距離がある。やっとついたら、ご住職が「本堂に入れ」というので、国宝何か見せていただけるのかと思ったら、1998年になくなった当寺の名物犬「ゴンちゃん」の話がはじまった。巡礼者を導いた仏様のお使いのようなワンコであり、「映画化の話がでていて台本までできているのに、資金が集まらないので中断しているのだという。

 麺類の次はゴンちゃん。

仏教とか歴史の話をしてくれる僧侶はおらんのか。

脱力しながら、やっと慈尊院裏から始まる町石道に踏み分け入る。町石第一石(180町)の前にたち、ウンチクを傾ける。

私「高野山が2004年に世界遺産に登録された時、山上の伽藍だけではなく、巡礼道も一緒に登録されました。高野山には7つの登山道がありますが、上皇や天皇がかつて上った道はほぼここ慈尊院から始まる表参道です。ここから一町(110m)ごとに町石がたち、山上の根本大塔まで180町の石が並びます。山上に近づくにつれて一町ずつへっていき、山上の根本大塔につくとゼロになるので、いわば聖地はグラウンドゼロ。
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 町石の形は五輪塔で、仏教の世界のはじまりを象徴しており、下から順に地・水・火・風・空を示す石でできています。石には一つ一つマンダラの仏様を示す種字が彫り込まれており、一つ一つが仏様です。

 町石の下には護国経典の代表格金光明経の経石が埋められています。この町石ができたのは、鎌倉の弘安・文永時代、つまり日本がモンゴルの侵略を受けていた時代であることも影響しているのかもしれません。

 現代の旅は目的地に着くまで車や飛行機や電車を使い、いわば点から点へ移動しますが、これだとプロセスがありません。昔の人はみな歩きでした。京都から高野山にいくにも、一歩一歩踏みしめていかなければ、目的地に近づくことはできませんでした。しかし、このプロセスがあることによって、古い自分を新しい自分につくり替えるには一歩一歩の積み重ねが大事であることに気づくこともできます。

 たとえば、『こうなりたい自分像』があったとしても。それについて行動しなければ、何も変わりません。でも毎日、小さな努力を積み重ね続けていけばいつかは、その理想に近づいていくものです。だから巡礼は足で歩いて近づいていかないと、その聖地の持つ力をちゃんと吸収できません。


といって歩き出すと、

Hくん「先生、今駅に戻らないと宿に約束した夕食の時間に帰れません。」

 二町(220メートル)しか歩いてねえ! 

 私は民主的なので、夕ご飯と巡礼の感動を秤にかけて決を採ったところ、みなが「夕ご飯」というので、結局その二町で引き返すことになった。せめて丹生都比売神社までは歩きたかった。パスタ御前とゴンちゃん住職の話が余計だった。
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 さて、電車とバスをのりついでプロセスをかっとばして、さっき言っていたことと真逆のことをしながら高野山頂へ到着。お宿は平岡先生にご紹介いただいた普賢院さま。非常に大きな宿坊であり、ろくでもないグループであるにも関わらず、歓待していただく。普賢院特製クリアファイルにお加持つき五色線まで頂戴し、さらに精進料理もとても美味しいので、みなさん是非普賢院へ。

二日目

宿坊の朝は早い。六時半には本堂で朝のお勤めが始まる。学生は半分は起きて参加している。お勤めのあと、お坊さんがお寺の地下に案内してくださり、そこにはネパールから勧請したという舎利が小さなチベット式仏塔に安置されており、その周りはチベット仏教定番のマニ車が取り巻いていた。マニ車をまわしながら歩くと途中平岡先生のお父上の建立された金剛薩垂とかもあった。普賢院地下はリトル・チベットである。

 昨年ダライラマ法王が高野山にお出ましになられた際、ここ普賢院でお昼を召し上がられた。その時この舎利塔もご覧になったという。ありがたいのう。

 さて朝ご飯をいただいたあと、「あまちゃん」を見て「じぇじぇじぇ~」とかいう学生をひきつれて、高野山山の表玄関、大門に向かう。大門は五代将軍綱吉の寄進で作られた巨大な門である。実は昨日の巡礼道をそのまま上がったらここに出るはずであった。気持ちだけでも巡礼したことにするため、みなに数十メートル巡礼路を下ってもらって、方向転換して「いかにも今上ってきました」、という写真をとる。すると学生

「先生、服装が昨日と違うからつながりませんよ」

 そして、大門から改めて入門し、奥の院に向けて歩きだす。山上にも町石があり、これは根本大塔をゼロにして今度は奥の院まで30町を数えるようになっている(何にせよ根本大塔がグラウンドゼロなのである)。ケッサクなのが、山上の町石は車道にあるので、車につっこまれて五つに折れたのをつないで建てていたりする。

 仏教の哲学とか密教の思想とか話しながら歩くが、学生たちはグループに分かれてまんじゅうやとかで買い食いをしているので進まない。あとからきた学生に何をしてそんな遅いのか聞いたら、

 Eくん「90歳くらいのおばあさんに声をかけたら、おばあさんが「昔は高野山は夏でも涼しかったんだけど、今年は暑い。天気も若い人もどんどんおかしくなっている」といってました」と。

 私「うんうんおばあさんに完全に同意するね」といったら、

 E「でも90の人からみたら先生も『若い人』ですよ」

 おもしろかったのが、お寺の入り口で何かを手にしてる若いお坊さんに「何をしていらっしゃるんですか」話しかけると、そのお坊さん、手にした書状をみせてくれた。それは、その次の週に壇上伽藍金堂で行われる全山あげての土砂加持の法要への召喚状で、彼は使者となって、一つ一つのお寺をまわってこの書状に参加者の署名を集めていたのであった。なんかこういう昔ながらの伝統が残っているのっていいな。
 
 それから、国宝八大童子を特別展で公開中の霊宝館にいく。ここでマンダラや密教の諸尊についての解説をする。学芸員の方がなんと自分と同じ早稲田の文学部卒で仲良くなれそうな感じ。それから離れた谷にある金剛三昧院で国宝の多宝塔と祠を見て、そのあとビルマ日本兵遺骨収集展示寺に。ビルマ寺には胎内めぐりがあり、学生たちが暗闇でコーフンして奇声をあげるので「坊さんにツイッターに投稿されて炎上するぞ」としかる。

 そして、苅萱堂へ。苅萱堂は歌舞伎などで有名な石堂丸物語の舞台である。苅萱道心のお話はだいたいこんな感じ(→ここくりっく)。

 苅萱道心は愛人を作り、嫉妬した正妻が怒るので、嫌気がさして出家して高野山にいってしまった。愛人の子石堂丸は父を訪ねて三千里、母とともに高野山にやってきた。ところが、高野山は女人禁制なので、母は女人堂に残し、石堂丸は一人で父を訪ねて高野山に入る。

 奥の院の無明の橋のたもとで石堂丸はなんの因果か父親本人とばったりであう。しかし、父親は父だとは名乗らず「あなたの父は死んだ」とウソをいって石堂丸を母の下に帰す。父は俗世を絶つ誓いを立てたので、修行続行のために子供とよりをもどすわけには行かず、ウソをついたのである。

 泣く泣く高野の山を下り、女人堂に戻った石堂丸を待ち受けていたのは、母の死であった(唐突やな)。身寄りがなくなった石堂丸は再び高野山に戻り、先の僧(実は父)に願いでてて出家をする。こうして父子は名乗りを上げないまま師弟として暮らしたそうな。
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 学生たちは「道心って、愛人作って子供産ませて、その子供が訪ねてきたら死んだとウソいって追い返して、無責任だ。」という。そう、現代的に言えば石堂丸物語はどこも感動のポイントはない。扶養義務とかジェンダーの視点から見たら、道心の外道ぶりしか印象に残らない話である。
 
 しかし、かつてこの物語が感動話として受け入れられていた時代「俗世のだめなことを悟り、出家して仏教の修行を行うことはよいことだ」は社会通念であり、修行の世界の中でも、高野山はとくに厳しい修行の場と考えられていた。だから父が息子を追い返すのは修業者として立派な行動であり、でも、それは世俗的にいえば悲しい話。しかし、愛人が死んで、俗世の縁がきれたため、父子は再び法縁でつながることができた。ドロドロの人間関係は法の世界で浄化され、父子は形はどうあれ仲良く暮らしたのである。めでたし、めでたし、ほら、感動できるでしょ?

 今はそもそも僧侶が妻帯して、荒野の山上で子供育てているから、「厳しい修行の世界」という前提が崩壊しているので、わけわからん話なってしまったのである。

 そこで「史料批判を教えた時、『特定の時代に属するものをみる際には、現代の価値観を過去に持ち込んではならない、当時の価値観にのっとって理解するように』と教えてきたでしょう? だから、この石堂丸物語も当時のツボで理解する訓練教材とでも思うべし」と講義をたれる。

 「女人禁制」の崩壊で思い出したけど、高野山にはなぜか男性のカップルの旅行者が目についた。友達や兄弟とかいう感じでない。元女人禁制の山だから×イの聖地にでもなっているのかもしれない。現代の高野山はいろいろな意味で解釈がよれているのであった。

長くなったので残りは後半へ。
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DATE: 2013/09/11(水)   CATEGORY: 未分類
日本の夏を駆け抜けたチベット人
 ここのところ論文書きに集中していたり、ゼミ合宿にいったりしたので、リンポヤクさんのその後について後編をあげるのがすっかり遅くなってしまった。
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 フリチベのみなさま方は大体の経緯をご存知かと思うが、後に何も知らない人がこのブログをたどって彼の足跡をしろうとするかもしれないので、落とし前、いや記録という意味でも、前エントリーの続きの日本編後半をあげておきたい。

 あと、8月31日のウィメンズプラザに遠くから近くからお越しいただいたみなさま、本当にありがとうございました。

 以下完結編です。

8月27日 リンポ・ヤク氏はこの日、名古屋から再び関東に向けて出発した。じつは名古屋の復路については、まったく日本側のサポートがつけられなかった。そのため、みなは彼がフェイスブックにあげる写真をみながら、事故にあっていないか、事故を起こしていないか、面倒に巻き込まれていないか、どこまでいったのか、とハラハラすることとなる。

 この夜彼は一気に浜松に着いた。この間写真があまりないのは、よほど彼の心を動かすものがなかったのだろう(笑)。そして翌8月28日 リンポ氏は富士宮に着く。当初日本側がたてた予定ではここから富士山の新五合目を目指して、そのまま登山はせずに神奈川入りするはずであった。

 しかし、彼は新五合目につくと、いきなり富士登山を宣言した。FBで道行きを見守っていたサポーターは仰天。その理由をあげるとまず、富士山はその数日前から近づいてきている台風によって天候が荒れていた。そのため登山口では山頂への登山者は基本的に断っており、無理に登ろうとする人は「自己責任で」というお達しがでていたのであった。
 
 チベット仙台さんによると、富士山は毎年かなりの数の死人をだしている。事故だから新聞記事にならないだけで、火口一周の登山道からも毎年何人も転がり落ちて死んでいるという。

そんなところに、リンポ氏は登山の装備も何ももたずに登ろうというのだ。チベット人がなんぼDNAレベルで高地に適合しているといっても、彼はアメリカに移住して十数年。高山病免疫もそろそろきれるころなのに登ろうというのだ。

 さらに、日程の問題もある。走りだした後から、いろいろな予定が入ったため、当初たてていた行程は遅れ気味であった。しかし、ラストランと帰京報告会を8月31日に設定して告知しているため、帰京日は動かせない。予定にない富士登山をおこなえば、この報告会当日までに帰って来られなくなる可能性がある。もし帰ってこれなかったら、来日時のあの会議報告会よりも、すごいことになってしまう。

 客観的に言えば、絶対登山をやめさせるべきシーンである。

 しかし、前にも述べたように名古屋、東京間はサポートがいない。

 そこで、見かねたDさんとUさんが一日の仕事をひーひー終えたあと、午前二時に車で、彼のいる富士山のキャンプ場に向かった。東京をでるとき、彼を止めようとしていたのか、それともサポートしようとしていたのかはわからない。

  Uさんの証言。
 「彼はストイックで、お酒も飲まないし、喜怒哀楽もほとんど示さない。自分のことを理解してくれないなら、それはそれでいい、みたいな感じ。輪行に出ても修行僧みたいにしかめっつらで自転車こぐ画像ばっかりあげている。
 なんでも「みなさんのおっしゃる通りに」って言っていたそんな彼が、富士山登るって言い始めたら、楽しそうなんだもん。とめられないよ。」

Dさんの証言
「想像以上にタフでスピードがあるので、登頂しても予定通り東京に戻れると思った。
 彼は自転車の前輪だけをもって、登山路を登り始めた。
 世界をともに走り、苦楽を共にした愛車を一部でも、山頂にもっていきたかったのだろう。」


 あなたたち止めにいったんじゃないのぉぉぉぉ。

 彼らによると、リンポ氏は登頂のためのリュックももっておらず、いきなりカター(チベットで人と合うときに相手に礼としてささげる、白い長い布)を風呂敷代わりにして登山しようとしたという。

 再びUさん談

 「(彼らが貸した)リュックの中は、雨具、ウインドブレーカー、(貸りた)ダウン、パンとおにぎりとチョコレート、水筒、アイパッド、充電池、をぽんぽんと放りこんだ程度。
自分の荷づくりはそんなにも超適当なのに比べて、小袋から取り出したチベット国旗(法王の祝福を受けたもの)で丁寧に包み、カタで二重に縛り、首から背中にかけて いるのは、2冊の手すき紙のノート。

 焼身者120余人の名前と、チベットへのメッセージを世界各国の人に寄せ書きしてもらっているノートです。
 あと、寝る前に必ず読んでいるというペチャ(お経)も包んでリュックに入れるのを目撃しました。

彼は“巡礼者”なのだな、と改めて感じました


 仕事一日した後で、チベット人のために夜通し運転して、富士山の麓までついて、また、また翌朝は仕事にもどるなんて状況なのに、どんだけこの人たちロマンチストなんだ。

 現実的な自分は彼らの決断にひたすら呆れていた。

 その後、彼は愛車の前輪を片手に、サクサクと富士山を登り、登頂を成功させた。折しも自然遺産に登録されたばかりの富士山の知名度は世界的で、彼のフジ写真には世界中からいいね!が集まった。

 そして彼は約束通り、再び富士山をかけおり、予定通り、8月30日には横浜入した。

 マネジメント的にいえば、これはやめさせるのが正解だったと思う。結果オーライという言葉もあるが、それは、自分一人の責任の範囲内で行うときに美しいもので、命にかかわる問題や他人への影響が可能性としてある場合には、この言葉を使うべきではない。やはり無謀。

 DさんもUさんも大人だから、当然上記のように考えてもいたであろう。それでも二人が彼の登山を応援したのは、きっと、かれらの不安を超える何かがリンポ氏にあったから。

 最初、日本語もできず、日本の事情も知らず、単身走りだした時には、見守る日本人たちはひやひやしながら、彼を守り保護しようという気持ちが強かった。しかし、彼が走り続けていくうちに、そして富士山に登ろうと宣言した時点で、主導権は彼にうつった。リンポ氏がやることを見届けたいという尊敬に近い視線が生まれ始めていた。

 精神論といってしまえばそれまでだが、彼自身は寡黙で何も語らないにもかかわらず、人並みはずれた体力と運によって、見守る人をしだいに引きつけていく、その力はやはり言葉をこえた精神の力であると思う。

 最終日。8月31日。前日深夜に(笑)彼が走るルートが公開された。新横浜駅(横浜銀行前)から、在日チベット人有志ととともに、ゴールの渋谷を目指して、ラストランをするという。地図をみると、東京に入る瞬間は丸子橋である。

 気がつくと私は暑い中、フリチベTをきてフリチベ旗をもってなぜか丸子橋で彼を迎えていた(爆笑)。

 後部にチベット旗をとりつけたかれらの自転車が丸子橋をわたる光景は実にまあさわやかというか、派手というか、印象に残る光景だった。リンポ氏の旅自体は民族の悲劇とか彼個人のいろいろな思いとかがあって重いものなんだけど、私にとってもわけわかんないうちに巻き込まれた話であり、いろいろ言いたいこともあったんだけど(そのほとんどはこのエントリーで垂れ流していたが 笑)。あの光景は爽快だった。
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 そして、夕方の報告会。遠くから近くから、多くのフリチベさんが集まってくれた。質問されたことだけをとつとつと答える、プレゼン下手の、寡黙なチベット人が、いつのまにか、チベット・ファンの中に一体感をもたらしていた。

 チベット仙台さん
「彼にはluck(運)がある。彼の輪行はいままでのどんなアクションよりも新聞にとりあげられて、効果的にチベット問題を周知させた」
 
 帰京後、彼はRFAのインタビューなどをうけ、議員会館めぐりなどをした後、9月6日に台北に向けて旅だっていった。

 その後日本は急速に秋めいた。

 次エントリーは高野山ゼミ旅行です。
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