白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/10/30(金)   CATEGORY: 未分類
15年秋のチベット・イベント
セルダ・ラルンガル・ゴンパ(ラルン五明佛学院)
ケンチェン・ソナムタルゲー=リンポチェ来日公演


●カムで最大のチベット僧院ラルンガルの僧院長ソナムタルゲ師(1962-)が来日されます。師は漢語で説法できることから、多くの漢人の弟子を擁しており、漢人とチベット文化が共生できる未来を期待させてくれます。チベットの方も師の説法すすばらしいとおっしゃっています。

◇11月13日(金)午後14:00-16:00 
講演会:幸せな人生----【仏法は世界を変えられる】
場所:早稲田大学理工学部55号館 第二会議室
住所:東京都新宿区大久保3-4-1 
地下鉄副都心線西早稲田駅3番出口右へすぐ

◇11月15日(日)午前10:00-12:00
シンポジウム(座談会):【仏法はどう日本社会の為に役立つか】
場所:大手町サンケイプラザ 4Fホール
住所:東京都千代田区大手町1-7-2 
地下鉄各線 『大手町駅』A4・E1出口直結
JR線『東京駅 丸の内』北口より徒歩7分

◇11月15日(日)夜19:00-21:00 
テーマ:平和祈願、観音法会
場所:池袋区民センター6階(文化ホール)
住所:東京都豊島区東池袋1-20-10
JR池袋駅東口より徒歩5分(豊島区旧区役所の後ろ)

以上、無料参加。

詳細・問い合わせ:
電話:03-3982-5105
携帯:090-8581-8862
メール:tokyowssdl@gmail.com


出雲で観音さま開帳とチベット講演

神話の里・出雲の峯寺で今年は33年ぶりに秘仏の観音さまが開帳されます。この期間、16日には平岡宏一先生の、22日には渡部秀樹さんのチベット講演があります。精進料理もおいしいよ。
場所 出雲峯寺住所:(〒690-2402 島根県雲南市三刀屋町給下1381 電話:0854-45-2245)

◇観世音菩薩ご開帳 11月14日(土)~23日(月)8:30~17:00

◇特別法要 11月14日・15日・18日・23日

◇特別講演 11月16日 会場 峯寺 本堂
講演会 午前の部: 講師 田中利典師 「修験道の心」
      午後の部: 講師 平岡宏一先生  「ロサン・ガンワン先生の思い出」

◇チベットフェスティバル 11月22日
 講演会 午前の部: 講師 渡部秀樹氏「観音様とチベット」(14時~15時半:開場13時半)
 物販 チベットの風景の絵葉書/ ミニチュアのタンカ、マニ車 / 吉祥紋モチーフの小物 etc.

◇精進料理 11月19日~21日

詳しくは峯寺のフェイスブックのサイトで
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DATE: 2015/10/27(火)   CATEGORY: 未分類
家康公生誕400周年で日光に行ってみた
今年は神君家康公がお生まれになって400年なので、四年ぶりにゼミ旅行で日光に行く。とりあえず旅行中に話したことを六項目にまとめてみる。

(1) 8世紀、勝道上人は後に日光と呼ばれるようになるこの地にいたり、中禅寺湖と男体山をみて、華厳経にとかれる観音の聖地、補陀洛(ふだらく)とみた。補陀洛はサンスクリット語でpotala、そう、あのチベットのポタラ宮殿と同じ語源である。家康が祀られる前の日光の中心は二荒山(ふたらざん)神社であったが、この「ふたら」も補陀洛の音写である。中善寺湖畔には6mもある立木観音が祀られるが勝道上人の手になるといわれるものである。華厳の滝が、この名なのもむろん華厳経にちなんだもの。この後、日光は関東における山岳修験の中心となる。
華

(2) 17世紀、天下を統一した徳川家康公は、死の間際、自らの体を一年は久能山にまつり、一年後に江戸の真北の日光に改葬しろと、遺言した。この遺言を執行したのが、天海大僧正(慈眼大師)である。天海の出自はなかなか謎がおおく、関東一帯で活動していたが、いつのまにか家康様によりそうようになり、家康の死後三代将軍家光にまで仕え、現在の日光山の礎を築いた。天海は実は三つの比叡山をつくっている。一つ目は織田信長が焼いた比叡山を復興し、二つ目は、江戸の鬼門をふさぐためにつくった寛永寺。これは比叡山を構成する諸堂を配置し山号も東の比叡を意味する東叡山と比叡山のコピーであることは明白。ここに平安京を守護した比叡山パワーを徳川の都江戸に勧請する天海の意図をみることはたやすかろう。そして、三つ目が家康の遺体を死後一年たって納めた日光の輪王寺。日光東照宮は家康を神としてまつっているが、その本地は、比叡山の根本中堂にまつられる薬師如来である。比叡山の有名な弁慶の担い堂も、日光山内にちゃんとあるので探してみよう!

(3) ちなみにこの三つの土地は観音菩薩の聖地、補陀洛(湖と山のセットが特徴)としてもシンクロしている。
平安京の鬼門 比叡山 琵琶湖
江戸の鬼門  東叡山(寛永寺) 不忍池
江戸の真北  日光山(輪王寺) 中禅寺湖

(4) 日光にもともとあった山岳修験も天海が家康を神として日光にまつった寺をたてた時の山王信仰も神仏混交の思想を背景としている。日光の社寺にまつられる神は仏であり、仏は神である。そして、山と王の文字がそれぞれ三つを一つに結んだ形をしていることが示すように、山王信仰とは天台宗のとく三つの真理が、実は本質は一つであることを示している。
 で、三仏堂の三体のご本尊(馬頭観音・千手観音・阿弥陀仏)と日光の三体の神様の関係を図示すると以下のようになる。
futara.jpg

千手観音=薬師如来(東の仏) =>男体山=新宮権現=大己貴命(父)
阿弥陀如来=(西の仏) =>女峰山=滝尾権現=田心姫命(母)
馬頭観音=釈迦如来(中央の仏) =>太郎山=本宮権現=味耜高彦根命(息子)

輪王寺に祀られる時の仏としての側面 => 二荒山神社で祀られる時の神としてみるとわかりやすいかも。

(5) 天海はこの三つの比叡山を皇族出身の天台座主・輪王寺宮に統括させ、国家鎮護と徳川家の安泰を同時に祈らせた。光武合体はじつは江戸の初期に日光で実現していたのである。幕末、幕府軍が最後まで寛永寺や日光にたてこもって新政府軍と対峙したのは、幕府と皇室を仲介する立場であった輪王寺宮を頼んでのこと。しかし、明治元年、上野は新政府軍と幕府軍の衝突によって炎上し、一方日光は板垣退助が反対したためかろうじて砲撃と破壊を免れた。このため日光山の入り口にかかる神橋には今も板垣退助の銅像がある。

(6) 徳川幕府が倒れ、新政府による神仏分離令により、神と仏が分かちがたく結びついていた山岳修験のメッカ日光のあり方は激変した。そもそも分けられないものを分けたので、その線引きをめぐって訴訟合戦がおき、その後も拝観料の分配、本尊の解釈・参拝の仕方にいたるまで細かく対立して現在に至る。それでも四年前に訪れたときにはかろうじてあった共通拝観チケットは、今回はなくなっていた。
 東照宮と輪王寺の各所に配置されている寺社の職員たちの説明をちょっと注意して聞くと、寺側は神的な側面の説明を避け、神社側は本地仏の説明を避け、それぞれ自らが寺であること、神社であることを強調していることが分かる。

 さて、我々は午前10時に東武日光駅で現地集合。現地集合にするのは、それぞれの経済事情に応じた手段で目的地に来るためであるが、紅葉のシーズンが重なったため、東武特急の席がとれずJR特急をつかったが、全部鈍行できた学生は、三時間立ちづめであったといい、へとへとになって到着した。他の学生も多かれ少なかれ前の晩徹夜か二時間睡眠とか、運転し通しとかで集合時点でヨレヨレ。11時に荷物をコインロッカーに預けてまず昼食。絶好調の滑り出しである。

 日光の観光ルートは、勝道上人の聖地巡礼を追体験するのがいい。まず、勝道上人が沙悟浄の力をかりて、大谷川をわたった渡河地点(神橋)からはじめ、彼の庵を起源とする観音をまつる寺四本龍寺に行く。天台宗の説明をするため空海と最澄の対照的な性格と生涯について語ると、みな、「イチローと松井のようなものだな」とへんな納得の仕方をしている。

 そして、次に日光の神々の仏としての姿をまつる輪王寺の三仏堂にいく。比叡山の根本中堂と同じ作りであることを見せたかったのに、なんと建物は解体されていて、ただのプレハブの中にご本尊が三体ならんでいた。しかも、そのうち一体は台座だけ残してどこかへお出かけ中。ちなみに、陽明門も大猷院もみな修理中の工事現場状態で、400周年の人手にあわせて完成させることはできなかったのかと疑問におもう。

 そこであれこれいっても仕方ないので、ひるまず修理中の時にしか見られないものをみてやろうと、三仏堂の工事現場を七階まであがってみる。しかし、屋根がはがされて木材がむきだしになった屋根をより高いところから見るだけであまり意味がない。しかし、外をみると日光の紅葉が見晴らせて美しかった。

 三仏堂の裏には天海大僧正がたてた法華経の相輪塔(護国経典である法華経をおさめた塔で国家鎮護のために建てられた。)がある。これは同じものが比叡山にもあり、栃木の大慈寺にもある。それから護摩堂で護摩の説明をして、いよいよ日光東照宮。家康と秀忠と家光と家綱がそれぞれ生まれ年が寅→卯→辰→巳と続いていること、東照宮は三代将軍家光公の時に、今の規模になったので、龍のイコンが多いこと、その他の眠り猫やバラの花などの彫刻は戦国の世が終わり、泰平の世が実現したことを示す平和の意匠であることを語る。また、本殿の前において古代中国の聖王舜が目立つところに彫り込まれているが、それは何でかというと、堯は血縁関係のない舜をみこんで王位を譲った。そして徳川は直前の政権担当者である豊臣と血のつながりはない。つまり、ここでは家康を舜にたとえて、徳川が自らの徳で政権をつかみとったことを主張しているのである。

 今回紅葉シーズンで宿が近くにとれず下今市の郊外にある学生むけホテルに宿泊。夜は会議室で宴会。本来この部屋はゼミ室として使うらしくホワイトボードがあった。私が「じゃあチベット語のアルファベットでも覚えて帰るか」というと、学生は「何言っているのか分かりません」と無視される。宴会は二時間でおわり、私は部屋にひきあげて寝た。翌朝は紅葉渋滞を避けるため、七時に朝食をとり、八時に出発の予定であったのだが、七時に食堂いっても誰もこない。仕方ないのでおこしにいくが、半分くらいしか食事にでてこない。
 しかしぐずぐずしているといろは坂が混むので、時間通りにみなを宿の送迎バスにのせ、東武日光駅から中善寺湖畔へ向かうバスにのる。

 朝早いせいかいろは坂はまだ渋滞がはじまっておらず、比較的スムーズであった。しかし、急カーブでまがるたびに何人かの学生の様子がおかしい。今朝朝食におきてこなかったのは二日酔いで食欲がなかったからか。何人かは何かリバースの気配。となりのガイコクジンに被害が及ばないかひやひやした。どうせ吐くなら飲まなきゃいいのに。

 中善寺湖畔につくと、天気はいいが猛烈に寒い。強風でロープウエイも遊覧船も全部とまっている。紅葉は強風にふちちぎられてほとんど道路につもっているのみ。湖畔はすでに紅葉の見頃をおわっていたのであった。私は暖かいところをもとめて自然博物館にとびこみ、ミュージアムショップにうっているストールをかって、真知子巻きする。耳と首が隠れるので多少は暖かい。しかしストールがはでであったため学生は「マレーシア人か」というので「インドネシア人だ」と応える。
逍遥

 次に華厳の滝にいき、元祖激ウツ学生、藤村操の「人生これ不可解」の厳頭の辞を読み、湖畔に戻り、二荒山神社中宮祠にお参りする。寒いが、真冬のように空が青くすみわたり男体山がくっきりと神々しくそびえたっている。観音の住む山であるからスピリチュアルにいえばポタラ宮と同じ。折しも我々の訪れた日は閉山式で、奥宮(男体山頂上)にいく道が閉ざされる日であった。学生たちに「山岳修験の聖地は女人禁制なので、ここも明治五年?くらいまでは女人禁制だったんだよ。大鳥居のところにあった巫女石はその禁をおかして山に入ろうとして石に変わった巫女だと言われています。リアルハリポタです。」と解説。

 それから、竜頭の滝にいき、河沿いにハイキングを少しして瀧上でバスに乗ることとした。ここで本日最大の悲劇が我々を襲う。

 わたしたちがバス停につくと一人の男性の方が待っていて、「ボクは45分からここでまってていますが54分のバスはまだ来ていません」と教えてくださった。すぐくるだろうとバスを待つが、待てど暮らせどバスはこない。バス停に書いてある電話番号に電話すると、10分後にはくるでしょうとの返事。しかし、その10分が過ぎてもこない。すでに時刻表の時間を40分以上過ぎているのにこない。我々はふきっさらしの道でまっているので、薄いセーターに薄いコートをきていた私でも歯の根が合わないくらい寒い。風のとおる上着をきていた学生はもっと寒かっただろう。何とかしたいが、こんな山の中ではタクシーも拾えない。
 やっとバスが来た。しかしそのバス減速もせず「満員なので通過します」とアナウンスして我々の前を通過していく。もともとない私の忍耐は瞬時にきれ、さっきのバス営業所に苦情電話を入れる。しかし、話し中でつながらない。今思えばこの状況は他のバス停でも同じであり、困った乗客らが苦情電話をかけまくっていたのであろう。

 うちのゼミは民主制であるため、学生たちは今後どうするか話合う。そして、「このままでは何台バスがきてもこの人数が全部乗れることはない。ひとまず終点の湯本温泉にいって、そこで始発のバスにのれば、確実に乗れるし座れる。まずは遅い昼食をとろう」と意見を集約した。

 そこで、竜頭の滝のレストハウスで遅い昼食を食べ、これまた時刻表通りではないべたべたにおくれた湯本温泉行きのバスに乗り込む。途中戦場ヶ原の秋景色が美しいので、神話の解説でもしようとかと見回すと、私の隣にいるWくん以外全員バクスイ中。もったいない。で、湯本温泉につくと向かいにとまっているバスに乗り込み、下山を開始。まにあえば日光の宝物館に行きたかったのだが、このバスも結構渋滞にまかれ、開館時間帯に戻るのは不可能であった。私たちがすでに乗っているおかげで中禅寺湖半で行列を作っていたバス待ち乗客のほとんどが乗れず、先ほどの我々と同じ状態であったのが哀れであった。ごめんなさい。

 今までゼミ合宿で何度か日光にきたが、夏だったので、人も少なく中善寺湖畔は涼しく、快適であった。しかし、紅葉シーズン、東照宮は激混みで中善寺湖畔は凍える風がふき、東武日光駅前の道は渋滞し、翌日何人かは風邪にたおれ、なかなか疲れる体験であった。しかし、全体としてはみな楽しかったと言ってくれており、死人もけが人でなかったのでたぶん成功と言えるであろう。
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DATE: 2015/10/11(日)   CATEGORY: 未分類
救急車、呼ぶ呼ばないの境界線
3日の土曜日くらいから風邪っぽくなり、最初喉が痛くなり、それから両方の鼻がつまった。とりあえず風邪薬だろと、コルゲン・コーワ透明液状みたいなものを飲んでいたら、とりあえず症状が緩和するので大丈夫かと思っていたら、火曜日の朝、咳が止まらなくなった。風邪の終わりかけの咳だから、痰が切れたら治るだろうと思っていたら、咳には喘鳴がまじりだし、何かどんどん苦しくなってきた。

 これはどうも風邪をこじらせて喘息が合併した模様。そこで、正午頃にかかりつけの町医者にいって、胸に張る気管拡張の貼り薬とシムビコート(吸入薬)をだしてもらった。しかし、安静にしているのに、なんかおかしい。喘鳴はとまったのだが、息が浅くなっていき、いくらすっても酸素が肺に入っていかない。横になると呼吸困難度はまし、ベッドにこしかけて猫背になる以外に姿勢がとれない。悪寒も始まり熱も38.1度とでてきた。もう喘息なのか風邪なのかもわからない。そこで、もう歩く体力もないので午前に訪れた町医者に電話して、

 私「午前の診療でみたもらった××です。これ肺炎とかじゃないでしょうか」
 先生「点滴のできる駅前の救急病院に行きなさい」

 簡単にいうけど、酸素がたりなくてうまく体が動かない。救急車も考えたが、最近よく「軽い症状で簡単に呼ぶな。本当に困っている人が助からなくなる」とか啓蒙されているので、ここはタクシーだろう。ネットで電話番号を調べて地域のタクシー会社に電話すると、電波状態が悪いのか、こちらの声が小さすぎるのか、きられてしまった。この状況なので頭に血が上る(元気じゃん)。

 そこで、はって固定電話にいって「先ほどかけたものですが、×丁目、××番地に配車お願いします。さっき電話したんですがきられちゃったもんで」(イヤミをいう元気はある 笑)、というと、電話口の女は私の想像K点越えの発言をした。

「ここは配車はやっていなので、配車センターの電話番号を言うのでメモしてください」。電話を回すくらいできないのかよ、同じ会社だろうが! 仏教徒にあるまじき殺意のようものがわき上がってきたが、客観的にいって殺されかかっているのはこちらである

 仕方無くボールペンを探して番号を書き取って、その電話番号にかけると何度かけても話し中。このタクシー会社と私はきっと前世が悪かったのだ。タクシーアプリを入れておけばよかったと思いつつも、この体力でそんなことをやる余裕もないので、仕方無いので服をきてバス通りまででて流しのタクシーを拾うこととする。

 しかし、タクシーはこない。必要ない時は、いつも川を遡上するシャケみたいにタクシーがいる道なのに。仕方ないので歩けるところまで歩くことにする。途中までは下りきみだったのでゆるゆる歩けば何とか動けたが、駅を前にした最後の上り坂で、動けなくなった。ちょっと歩いては座り込み、またちょっと歩いて座り込んでを繰り返した。倒れていれば誰かが目をとめくれるだろうが、しゃがみこんでいる人には誰も関心を払ってくれない。歩行者も車も無情にスルーである。「もう社会は私を必要としていない。群れについていけなくなったケモノはのたれ死ぬのみ」と病んだ思考に支配される。

 助けを呼ぼうかとも思ったが、あと200mで病院というところなので、ここで救急車を呼ぶのはパーフォーマンス的に悪い。休み休み歩けば何とかなるはず。しかし、苦しい。この時もし夜であったのなら、私の目には北斗七星の輔星、死兆星が間違いなく見えたことであろう。

 やっと病院にたどりつき、受付のカウンターによりかかりながら「初診です。可能でしたら救急でみていただきたいのですが」といったら、車いすもってきてくれた。髪もぼさぼさ。唇はまっつぁお、いやな汗もかいていたので、どうも高熱の患者と間違えられた模様。

 で、血液とられて、レントゲンで胸部写真をとって、インフルエンザ検査をして、処置室で喘息の点滴を数時間かけて落とすことになった。相変わらず横になると苦しいので、ベッドにこしかけて一番楽な猫背になる。相変わらず息は苦しいが、病院にいるので路上にいた時よりは安心感があり、いろいろ周囲に気を回す余裕もでてきた。

 五時すぎると外来が終わるのと昼夜のシフトがかわるのか、看護師さんたちの多くが帰宅し、入れ替わって当直の先生、当直の看護師さんが現れた。引き継ぎでいらしたI先生が私の顔を見に来た。

 I先生「レントゲンですから、はっきりしたことは分かりませんが、重篤な肺炎だと肺がまっしろになるので、そこまではひどくないと思います。気管支は白いので炎症起こしてますね、で、血液検査の結果も白血球が増えていてこれは炎症が起きているサインです。点滴で少しは楽になりましたか」とおっしゃられたので、

 私「少しはよくりましたが、息をすってもすっても肺が浅くなって息が入らないような感じです。体を寝かせているよりも、起こして猫背の方が楽なのでもう「明日のジョー」状態ですよ。

 おお冗談をいって先生を笑わせる気力がよみがえっているぜ、自分。

 その後もひたすら点滴受けていると、五時以後に現れた看護師さんの中に、他の看護師さんと雰囲気のちがうKさんに何となく目がいった。他の看護師さんはパキパキした話し方をしているのに、この看護師さんはふわふわっとした感じのやさしいしゃべり方をして、ほっとする空気感がある。なのでなんとなく話をしはじめ、私がチベットを研究していると言うと、その看護師さん「まだ決めてないけど来月チベットに行くかもしれないんです」という。きけばその看護師さんは病院はパートで、本業はホリスティツク鍼灸師さんで、代々木でプライベート・サロンを開いているそうな。チベット旅行は、ホリスティツク医療の方の先生が企画して誘われているとのことで、その看護師さん自体はポタラ宮も「お城」と言うくらいのチベット知識であった。

 で、なぜ、まだチベット行きを決めてないのかといえば、自分の鍼灸院をその間しめなきゃいけないこともあるし、そのホリスティツクの方の先生が、チベットにいくためにはなんかスピリチュアルにステージがあがらないとだめ的なことをおっしゃったのだそうな。なので、私は別にスピリチュアルな能力ありませんが、チベット行ってますよ〜とおすすめしておく。

 その看護師Kさん、ありがたくもわたくしめの第三胸椎と第五胸椎や仙骨に指圧までしてくださって、その柔らかな物腰とあいまって、体はおかげ様でずいぶん楽になった。まさに白衣の天使。ここに敬意を表して彼女の経営するプライベート・サロン「プラーナ」のページをご紹介させていただきます。いや、看護師さんすばらしいー。

 そこでふと思った。喘息はよく起こすけど、こんなひどい発作ははじめてである。そのたまたまおきた発作で、たまたま転がり込んだ救急病院で、たまたまシフトに入っていた看護師さんが、ホリスティツクで来月チベットにいく人ってのは、確率的にいっても相当ありえない巡り合わせではないか。世の中は人知を越えたところで回っている。

 七時近くなり心配したダンナが京都から病院にかけつけてくれた。
 九時くらいに点滴終わって家にかえると、ダンナがお鳥様のお世話をして食事を作ってくれていた。ケータイにもタクシーアプリを入れてくれていた。

ダンナ「今度こんなことがあったら救急車を呼びなさい」

私「分かってるって。Call 911だよね」。

ダンナ「違うよ、119。アメリカのドラマの見過ぎだっていうの

 というわけで、生きてるだけで丸儲けというお話でした。しばらくは気管支が荒れているので魂のぬけた日々が続きます。いたわってください。
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DATE: 2015/10/05(月)   CATEGORY: 未分類
マンネルヘイムの事績を辿って
 九月の末に学術論文の締切があったため、ブログに手を付ける暇がなく、しかし放置しているとフィンランドの記憶が日々薄れゆくので、急遽「フィンランドにマンネルヘイム元帥を尋ねて」の巻。

 八月の末、私はフィンランドの首都ヘルシンキにいた。入管に並ぶが、列の進み具合が異常に遅い。実は後で気がついたのだが、これシリア難民の問題があったために審査を厳しくしてたのであった。かつて共産圏があった時、フィンランドはヨーロッパでもっとも東にある民主国家であり、アジアからみればもっとも近いヨーロッパであった。ここはフィンランドであると同時にEUのはてなので審査も厳しいのだろう。
マンネル騎馬像

 飛行場の外にでると、とにかく暑い。日向の温度計を見たら28度あった。日本からもってきたのは秋から冬にかけての衣類ばかり、半袖は日本から着てきて、帰る時にきるワンピース一着だけ、道行く人は短パン半袖、どうしよう。
 ホテルについて、wifiにつないでFBにヘルシンキ大聖堂の写真を投稿して「暑い」と書いたら「はああ? 夏にフィンランド? 先生は本当に場所と時を選ばないですね」と反応された。私は別にオーロラ見に来たわけでないので、いいんだよこれで。

 空港バスは30分くらいでヘルシンキ中央駅西口につく。この西口にはマンネルヘイム元帥・大統領の騎馬像(@アジア旅行中)がそびえたち、その前の大通りは「マンネルヘイム通り」と名付けられている。騎馬像の後には近現代美術館キアズマ、その後にはオペラハウス・フィンランディアがある。

  彼の像がこのように首都の中心にあることは彼のこの国における重要性を示している。マンネルヘイムがいなければ、フィンランドの独立はお隣のソ連につぶされ、目の前のバルト三国同様、1991年まで、ソ連の軍隊におびえながら民族自決はおあずけになっていたかもしれない。

 マンネルヘイムがいかにすごいかを共感して頂くために、フィンランドの歴史を簡単に説明する。ちなみに以下の解説はヘルシンキの軍事博物館(sota museo)と植村英一著『グスタフ・マンネルヘイム--フィンランドの白い将軍』で見聞きしたことで、アジア旅行の2年間以外は一次史料あたっていません(えばり)。
ヘルシンキ軍事博物館

フィンランドはもともとスウェーデンの植民地で、スエーデンがロシアに負けた後は、ロシア帝国の支配下に入った。しかし、アレクサンダー二世はフィンランドに自治を与えたので、今もなお彼の銅像はヘルシンキ大聖堂の前でカモメの糞にまみれながら引き抜かれずにたっている。情けは人のためならず。

 しかし、1899年にロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世はフィンランドの自治を撤廃したので、フィンランド人の間には、シベリウスのフィンランディアに代表される、「スオミ(フィンランド人のこと)ょ、立ち上がれ」的なナショナリズムが沸騰した。マンネルヘイム一家はスウェーデン系のフィンランド貴族であったが、父親が事業に失敗したので、マンネルヘイムは軍人への道を選び、ロシア軍に入り、日露戦争では奉天でコサックを率いて日本軍と対峙した。

 日露戦争はロシアの敗北におわったが、マンネルヘイムは出世し、そこで1907年から1908年の間に、極東の情報収集のミッションをおおせつかる。そして、この旅の最後にマンネルヘイムは亡命中のダライラマ13世と会合するのである。しかし、ロシアは1917年に革命でなくなり、仕える対象がなくなったマンネルヘイムは、フィンランドに戻り、ロシア帝国の崩壊とともにフィンランドは独立を宣言する。辛亥革命の後にさっさと清朝と絶縁したモンゴルやチベットと同じで逃げ足が速い。

 その後、ソ連に呼応した国内にいる赤い勢力(赤軍)をマンネルヘイム率いる白軍が鎮圧し、当座のソ連化は避けられた。しかし、1939年から1940年にかけての冬、フィンランドは再びスターリンの侵攻をうけた。世界は大国ソ連と極小国フィンラドの彼我の戦力差から「フィンランド終わったな」と、チベットを見捨てた時と同じ反応をしやがったのだが、フィンランド人はがんばった。極寒に強い体と地形を利用したゲリラ線でソ連の軍隊を何とか食い止めたのだ(冬戦争)。そして、このけなげなフィンランドの姿に各国から義勇軍も集まってきた。あのクリストファー・リーもロード・オブ・ザ・リングでサルマンになる前は、フィンランド義勇軍だった。

 この冬戦争でのマンネルヘイムの神な戦いぶりは、ヘルシンキ軍事博物館(サイトはここから)のジオラマで立体的に再現されています(笑)。火炎瓶をなぜ英語でモロトフ・カクテルというか私は前前から不思議に思っていたのだが、これもフィンランドにきて分かった。冬戦争当時ロシアの外相だったモロトフがフィンランドの空爆を「労働者階級へのパンの投下」だと壮大なウソをついたため、フィンランド人はロシアの爆撃機を「モロトフのパン籠」、火炎瓶を「モロトフのカクテル」と皮肉ったのである。ソ連の戦車隊に対しフィンランド軍は文字通りゲリラ戦で戦車の中にこのモロトフ・カクテルをつっこんで戦った。マンネルヘイム元帥曰く、

 「自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」

 今年の夏とくにこの言葉は身にしみた。それから第二次世界大戦をへてマンネルヘイムは1943年から1944年まで大統領を務め1951年になくなる。ちなみに軍事博物館はフィンランド軍が経営しているので、近現代の部分は現代のフィンランド軍の紹介があるのだが、最近の防衛は、他の国と共同して外交や政治で国をまもっているので、昔と違って兵士の数揃えればいいっていう話じゃないんだよ、的な終わり方をしていた。またまた身にしみた。

私の今回の旅の目的はマンネルヘイムがまだロシア帝国軍人だった時に行ったアジア旅行からもたらしたものを、閲覧すること。まず、この旅行期間中にとった写真は国立博物館の写真部において閲覧できた(館内の端末からサムネイルをみることができる)。主な町の通過日時を示すとこんなかんじ。
1907
3/13-3/21アクス(Aqsu) → 4/8 フレー(ラマ僧院の集落は当時みなフレーと呼ばれていた) → 4/12~4/20伊寧 (Qulja) → 5/9-5/10 フレーのラマ寺 → 7/24-8/12 ウルムチ → 9/25 トルファン → 10/25哈密(Hami) → 11/19 安西(An-hsi)→ 11/29嘉峪関→ 12/1-12/8粛州→ 12/14 シラウイグルの部落へ遠足・12/19甘州
1908
1/29-3/16蘭州→ 3/20 河州→ 3/26- ラブラン寺→ 6/23-6/27五台山→ 7/4-7/7 帰化城(フフホト)→ 7/18張家口→ ゴール・北京

 新疆を西から東に横断して、チベット高原の東北をぐるっと回り込んで、東へ向かい、五台山を通って北京に戻っている事が分かる。彼の写真を見ていて思ったのが、新疆を通っているのにモスクとかイスラムに関連した写真がほとんどなく、たとえば、新疆の西の果て伊寧 (Qulja)にいる時も、近郊のラマ寺(フレー)に何度もでかけて法要の写真をとり、粛州にいけばシラウイグルの部落に足をのばし、蘭州にいけばラブラン大僧院で激写といった具合に、イスラムでも、中国民衆文化でもなく、明らかにチベット文化圏に対する嗜好が見て取れる。

 フィンランド国立博物館にはマンネルヘイムがこの旅で中央アジアから持ち帰った様々な言語の古文書が所蔵されており(ただしヘルシンキ200km離れた倉庫に入っているので一ヶ月以上前に許可をとらないと見られない)、初代駐日日本公使として日本でもおなじみのラムステッド伯がアジアで蒐集したコレクションも所蔵している。ただし、マンネルヘイムがチベット寺から持ち帰った絵画、仏像は、彼個人の所有物なので、彼の最後の家、現在はマンネルヘイム博物館に所蔵されていると言う。

 そこで、私は最終日にマンネルヘイム美術館に向かった。
 ヘルシンキは小さな町なのでだいたいのところは歩いて行けるが、マンネルヘイム美術館町の町の東南のちょっとはずれの海際にあったので、路面電車にのった。降りる駅を間違えまいとして緊張していると、一人のフィンランド女性が話しかけてきた。
マンネルはく製0

「たぶん、あなた、メールしてきたイシハマでしょ? だったらここでおりるのよ」その女性はマンネルヘイム美術館の唯一の学芸員のクリスティーナ・ランキ氏であった。駅から博物館までの道すがら、しきりに日本の文化予算の多寡について聞かれた。聞けばフィンランドも不況で博物館の予算がごっそり減らされて途方に暮れているとのことである。

 大統領の終のすみか(博物館)はとても質素な普通の家だった。会計はクリスティーナの娘がやっており、これも予算不足なのか。クリスティーナによると、ダライラマ14世猊下も駆け足でこの博物館によられたとのことで、過去のゲストブックに記名されているという。法王もここにきた、というだけで、この場所が親しくみえてくるのが不思議。

 そして一歩屋敷にはいると、これがもう壁にかかっているものからサイドボードの上の置物までチベットのものばかり。仏画だったり、仏像だったり、数珠だったり、マニ車だったり、チベットホルンであったり。おもしろかったのは彼のアジア旅行対して発行された清朝のパスポートまで展示されていたこと。彼がフィンランドの男爵で、どのような経路をとおって中国国内を旅行するかがそのパスポートには漢字で記されていた。そして階段下のホールには1907年のアジア旅行中に、彼が狩りでしとめた鹿のはく製が年代入りで壁にかけられていた。インドの首相の娘さんがこの剥製みて、動物の権利について活動している女性であったため、ドンビキしていたそうである(笑)。

 彼の蔵書はヘディンの中央アジアの探検の報告書など、探検ものが大半をしめ、総体として彼の家の外国趣味は、彼が訪れた場所がチベット文化圏を中心にしていたことを反映してチベットものが主であった。彼が生きた帝国主義の時代末期、男は軍人、外交官、探検家、学者、ジャーナリストなどマルチな能力をもつことが理想とされ、男のレジャーはスポーツや狩猟など激しいものばかりであった。彼の屋敷はまさにそのような時代の「男」の生き様が集約していてえらい勉強になりました。

 ダイニングと居間以外の部屋にはその他の展示があり、たとえば、生涯にわたって獲得した勲章(日本から送られたものもある)、名誉学位、歴史の節々にとられた著名な写真などが展示されている。あとクリスティーナに言われて気付いたが、彼はロシア帝国最後の皇帝ニコライ一二世の家族写真を大切にとっていた。フィンランド人はロシアに攻め込まれてひどい目にあいつづけてきたことから、その多くがロシアに対しては嫌悪感をもっているが、マンネルヘイムはソ連はともかく、ロシア帝国には忠義を感じていたようである(ちなみに彼以外の彼の一族はロシアを見限っていた)。

 彼が最後まで寝ていた寝台は2m近い彼の身長には似つかわしくない幅も長さもない質素なものであった。これに寝たら彼の足は絶対はみでていたと思う。この彼の質素な部屋を見ていると、この人は根っから軍人であることが見て取れた。軍人は国家の命令に従って自分が必要とされる時に必要とされた場所に趣き、そこで最大限の努力をするものなので、自ずと私生活は質素となる。思えばマンネルヘイムはアジア旅行の時も、嬉々としてテント暮らしを行い、クリスマスも誕生日も無名のど僻地で過ごしているのに、彼の日記には「クリスマスを自分の家で迎えたい」みたいな泣き言はまったく書いてなかった。それどころか彼の旅の記述は非常に客観的でいかにも情報収集といった冷徹なものである。

 一方、同じ時代、日本人で青海やチベットを探検しダライラマ13世と会って同じようなことをしていた寺本婉雅は、その日記をみると日本の父母を思ったり、慨嘆したり、日本人らしくいい感じに鬱っぽい(笑)。まあ、ロシア革命のどさくさにまぎれてフィンランドを独立させて、いくつもの戦争を勝ち抜いてフィンランドの民主政治をまもった英傑を、日本人と比べてもしょうがないか。一人の人間の人生でこれだけの体験をし、これだけのスケールをもった人間は島国日本では現れようもない。
マンネル寝台

 このマンネルヘイムの生涯は、スウェーデン系の貴族の家系にうまれながら(彼の家系はもうフィンランドにいない)、ロシア帝国に軍人として仕え、1917年以後はフィンランドの独立堅持のために戦った。人によつてはこのうち一つの顔だけをとりたてて、誹謗する人もいるらしいが、大きなことをなしとげる人物は往々にして多面的な性格をもつものであるから、驚くことではない。清朝皇帝だって必要に応じて満洲人の族長、中華皇帝、チベット仏教の施主の顔を使い分けていて、みなが満足していた。私にとってマンネルヘイムの多面性はまったく違和感を感じるものではない。

フィンランド人は何か日本人に自国民と共通のものを感じるらしい。クリスティーナ曰く「お魚が好きなところとか、言葉もフィン語はアジア系の言語なとことか」。というので、私が「でもやはり最大の共通点は、隣がやりたい放題の面積だけの大国がいることでしょう」と応じたらすごい受けた。

 フィンランドの古本屋さんでラムステッド伯の本を探していたら、店主はラムステッドと日本の関係をよく知っていた。日本人もムーミンとイケアととサンタクロースとマリメッコがダイスキだ。フィンランドと日本は相思相愛かもしれない。フィンランドは人間も善良で親切で、英語もどこいっても通じるし、治安も良いし、物価が高いことをのぞけばなかなか良い国である。みなさんもどうぞ。
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