白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/02/23(火)   CATEGORY: 未分類
ご先祖、私はやりました!
ご先祖岡田鴨里(1806-1880)の史料撮影が終わった。この機会に、これまでの経緯をまとめて記録に残しておきたいと思う。長くなるけれども最後まで読んだ人は、何かを得ることができるかもしれない。
 まずはじめにこれまでの経緯をまとめてその後に本題に入る。

(1) あの世からのコール篇

 四国大学の太田剛先生が、淡路島でご先祖岡田鴨里のお墓の拓本をとってくださった際、ご先祖の声をキャッチして「半年以内にお墓参りにきなさい。鴨里が子孫に会いたがっている」とご下命。そこで、半年後の2014年3月に淡路へいき、鴨里のお墓に参ると、お墓を護っていた栄福寺さんから、岡田文平(実孫がやらかして廃嫡されて迎えられた鴨里の養子)の末裔が、鴨里の史料を関東のどこかの博物館に収めたとの情報をきく。(詳細はここでよめます)

(2) 歴史家として試されているのか篇

鴨里の史料が寄付されたのは、我が家からほど近い神奈川県立歴史博物館であった。博物館は明治時代の銀行の建物をコンバートしたレトロなもので、思えば鴨里の死後少ししてたったものだ。2015年の8月に訪ねると、鴨里の史料は800点にも及ぶ結構な量があり、昭和43年にこの史料が博物館にきて以来、何の告知もしていないため、ここにこの史料があることを誰も知らないのだという。「デジタル化すれば多くの人が使えますよね」というと、学芸員のKさん、さらっと「予算がありません」。歴史家としてご先祖の史料が誰にも研究されずに埋もれていていいのか、見て見ぬ振りができるのか、とご先祖様の声がどこからか聞こえる。しかし、予算も人もない。「ご先祖様なんとかして〜」。(詳細はここで読めます)

(3) 先の見えないトンネル篇

 「ご先祖なんとかして〜」と丸投げをしてから一ヶ月ちょっとたった10月の頭、喘息の大発作がおきた。
発作後、はじめて大学にでた10月8日、体力をセーブするために研究室に戻らず、次の授業の時間まで会議室の前に座って時間をつぶしていると、一人の学生が「石濱先生ですか。私こういうものです。」と話しかけてきた。名刺をみるとO.Sという教育学科の修士の学生である。体力ヨレヨレなので、できるだけ早く話をきりあげようと
「あっそう。で何を研究しているの」とやる気ナッシングな感じで聞くと

 「江戸時代の藩校です」

キター!!!!
その時、私の頭の中では、ネギをしょった鴨が踊り、その背後にはご先祖様の操る運命の糸が見えていた。

 いきなりキラキラした目になって「私のご先祖は賴山陽の晩年の弟子で岡田鴨里っていうの。山陽の外史をついで外史補を書いたのよ。その鴨里の史料が大量にみつかったのだけど、もし興味あるなら、このメールアドレスに関連する資料を送っていい?」と聞くと

O.S.くん「興味あります」。

 その晩にこれまでの経緯を記したブログのエントリーと史料の目録を送ると、翌日の昼間、学部前のロータリーでこれまたばったりO.S.くんとあって、「パワハラなんていいません。やらせてください」と言う。O.Sくんは中国古典文化を好む礼儀正しい子で、それからもすぐに私のいうことに反応して行動する逸材であった。
 私の喘息の発作は、あの時あそこに私を座らせておくためのご先祖の陰謀だったのであった。

 10月14日に二人で歴史博物館を訪れ、学芸員Kさんから古文書の撮影の仕方のレクチャーを受ける。神奈川県の納税者のみなさん、安心してください。博物館からは撮影場所(実測室)と電源しか提供できないと言われて、カメラも何もみな持ち込みでした。

 しかし、問題は山積している。予算の申請をしてうまく科研費があたっとしてもお金がおりるのは来年の四月。しかし、博物館は来年の(2016)六月から一年の長期休館に入り、その間史料は別の倉庫に締め込まれ撮影の終了は再来年になってしまう。そうするとO.S.くんの修論に間に合わない。

 お金関係なしで動いてくれるのは、親戚かそれを用いて研究をする研究者しかいない。最悪、自分が行って一緒にとるしかないかとも思ったが、去年の後半は本当に体調が悪く、自分の論文やら校務やらをこなしながら、さらにご先祖の撮影プロジェクトまでやる気分的・体力的な余裕はなかった。そこで、数少ない親戚に声をかけてみた。

 すると、父方のいとこM氏が息子のK一.くんにやらせるという。一抹の不安を覚えたが他に選択肢もないので、10月28日にO.S.くんとK一くんとその父いとこのM氏とともに博物館にいき、顔合わせをした。

 それから、O.SくんとK一くんコンビが嘱託の学芸員Kさんの出勤日水曜日にあわせて博物館を訪れ、9時30分から16時30まで実測室にこもって撮影をしてくれた。始めてみてしばらくすると簡単な作業ではないことがわかってきた。

 撮影の手順は資料を置いてその傍らに置いた 資料の番号・名称を書いた紙と、表紙からの頁数を示す数字カードと、資料の大きさを示すためのメジャーをうつしこむのだが、この数字カードの並べかえが結構時間をくう。
 また、資料はすべて薄い和紙なので、たたんだものを開けるのも、頁をめくるのにも、結構な時間がかかる。虫を食っている場合に到っては、資料を傷めないようにあけるのでもっと時間がかかる。紙が無傷でも、推敲のための付箋などがついていると、付箋をつけたままの状態、付箋をとった状態と何回も撮影を繰り返さねばならない。

 撮影は思うように進まず、これでは全体を取り終わるのにどれだけ時間がかかるか分からないので、O.S.君には修論で利用しそうなものを優先してとりなさい、と勧めた。
 そう、私は休館前に全体をとるのを諦めていたのである。

 そのうち、親に言われてきているK一くんが次の予定を言っても来るか来ないかをはっきりいわなくなり、ぶっちゃけ露骨に「もう行きたくない」という空気を漂わせ始めた。仕方ないのでM氏のカメラをこちらに預かり、K一君のことは忘れることにして、個人研究費をつぎ込んで自分の学生を雇うことにした。

 カメラを二台にして、四人体制にすれば、少しははかどるだろう。新しい面子は年明けに修論を提出して時間のできた修士のSちゃんと同じく実習が終わって時間のできたいっちーとYくんである。年度末の校務がおわった私も一月末から仕事に加わることにした。
 この段階では、これからいくら予算がかかるのか、どのくらい時間がかかるのかも分からないため、まるで先の見えないトンネルの中にいるようであった。

(4) 産業革命篇

 仕切り直すにあたって、もっとも時間をくう「数字カードをならべること」と、「頁めくり」について効率化を考えた。今時ケータイのアプリには何でもある。私のミラーレス一眼ルミックスもケータイのアプリでシャッターをきっている。
 カウンターのアプリもきっとあるはず。探してみたらビンゴである。これ使ったら資料横にケータイをおきっぱなしにしてボタンおすだけですむ。

 カウンター・アプリの発見、これは本プロジェクトにおける第一次産業革命として銘記されることになった。このカウンター・アプリの唯一の欠点は、撮影中に電話がかかってくるとカウンターが電話に戻ってしまうことである。一度なんか、ホイホイ撮影がすすんでいる時に、恋愛で難破している友人から電話がかかってカウンターが消えた(笑)。

 次に、頁めくりの効率化である。これは資料の向かって左側面にすわり、手前から向こう側にめくるのが一番速いことに気付いた。中腰でやったり、別の側面にたつと格段に時間をくう。

 また、シャッターをきる人間は三脚の側にいるので何となく立ってしまうが、シャッターは手元できれるし、私のカメラは手元のケータイでプレビュー画面をみるので、これらも座ってできる。「めくる人もシャッターきる人も椅子に座った方が楽じゃん」これはパイプ椅子の発見として第二次産業革命として銘記されている。

 ケータイでルミックスのシャッターをきるとものすごくケータイの電源を消耗するので、充電をしながらシャッターをきる場合もあり、そうなるとシャッターをきる人はコンセントのある壁に向かって資料に背を向けてシャッターをきるので、シュールな絵づらであった。
 
 いっちーとSちゃん(二人はカップル)とYくんの三人は実に明るい子たちで、博物館の仕事や資料に興味をもち、歴史資料の保存の重要性についてもわかってくれているので、一緒に作業をするのが楽しい。
 幕末から明治期の資料は書簡であれ、檄文であれ、メモであれただそこにあるだけで存在感がある。鴨里の写真がでてきた時、鴨里の位記がでてきた時、関ヶ原絵図がでてきた時、みな目を輝かせてケータイで記念撮影をした(学芸員Kさんによるとブログとかにあげなければ可)。

 こうしてものすごいスピードで撮影が進むようになってきた。とくに、私とO.S.くんのコンビは神がかっており、博物館に出勤すると、無言で二人でセッティングを始め、学芸員のKさんから資料を受け取り、人間シャッター、人間頁めくりと化して、撮影済みのチェックを増やしていった。そして、2月5日、あとどのくらいかと残りの資料をだして量ってみたところ、もうあと一~二回で終わることが判明した。
 そこで2016年の2月23日を最終撮影日とすることにした。

(5)ご先祖、私はやりました篇(We Did it !)

 最終日もいつものように馬車道の改札で待ちあわせる予定であったが、Yくんが5分遅れ、いっちーが15分遅れをラインで通知してきて、私もいつもと同じ電車にのったのに電車がとまり「おのれ稲田の家臣団の祟りか!」叫んだが、ギリギリに家をでた私が悪い。良い子のO.S.くんは一時間も早く馬車道につきカフェで資料整理を行っていた。そう、撮影したあとのデータの整理は彼が行っているのだ。
ご先祖様、O.S.は本当に逸材です(ご先祖「お前も働け」)。

 そうやって始まった最終日、順調に撮影は進み、当初は諦めるつもりでいた大正14年になくなった岡田秀夫の資料の一部も撮影できた。秀夫の資料群は東大の文学部でとった大量のノートや漢学の卒業論文や漢文の品詞カードであった。中に「雑記帳」があり、これは撮影しておこうとぱらぱらめくると、
 「女子と小人は養い難し、女三界に家なし」といった儒教道徳の中でももっともアレな格言を記した頁があるのを見つけ、「誰のおかげであんたの資料が世に出ると思うとるんじゃ」と叫んだのであった。

 そして目録によるとあるはずの、岡田秀夫の位記がないことに気付き、学芸員のKさんに聞くと「おかしいですね、あるはずなんですが」と言いつつ、岡田秀夫の経歴を知りたいなら、これでも大体分かりますよと、葬式の記録をだしてきてくださった。O.S.くんに聞くと「もうこれは撮影いたしました」とのことで、ぺらぺらめくってみると、岡田秀夫の葬列の前の方に、献花をした人物の中に祖父石濱鐵郎の名前がみえる。鐵郎の妻イマが鴨里の孫、真太郞の娘である。
鐵郎

私「この鐵郎って私のおじいちゃんだ」
O.S.くん「この資料には確か石濱純太郎先生の名前ものっていたはずです」
香典をだした人の中に、石濱純太郎、大内兵衛などの名士の名前が見える。大内兵衛も石濱純太郎もみな淡路島出身で東京帝大卒。イマの四人の息子、すなわち私の父の兄弟の四人のうち三人までもが帝大卒、岡田文平も秀夫もみな東京帝大卒。
 昔の東京帝大は人間が少ない。さらにみな淡路なので、東京にでた後もお互いつながっていたのだろう。
 最終日の資料はみな薄く点数が進んだため、撮影が午後二時半には終わった。六時に中華街の食べ放題を予約していたため、時間がある。そこで学芸員のKさんから頂戴していた博物館の特別展の招待券を三人に配り、見に行くことにした。
純太郎jpg

そう、今まであれほど博物館に通っても一日の撮影が終わる頃には展示室も閉じていたので、一度も見に行ったことがなかったのである。地下から三階の展示室にあがり、鎌倉時代や開港期の横浜の展示などをみていると(神奈川県立博物館は中世と開港期に人的リソースも予算も傾斜配分されている)、やっと博物館にいるという実感が湧いてくる。

 バックヤードの日々は終わった。

 それから、時間があったので三人で赤レンガ倉庫から海際を歩いて中華街に向かう。象の鼻を見下ろす展望台で記念撮影をしようとすると、Y君に配属先が決まったという電話がかかり、長電話が終わらない。仕方無いので電話をかけたままで記念撮影をする。
波止場

 Y君はこのあと夜行バスにのって広島にいき、それから熊本の友達の結婚式にでて、そのあとサンフランシスコにバックパックの旅にでるとかで大荷物をもっている。これからしばらく結婚式以外ではまともな食事をとらないし、寝床もバスや漫画喫茶になるとのことで、彼は若さにかまけて命を粗末にしていると思う。

 お店について、何でも好きなものを注文して食べて飲んでいいわよ~というと、Yくんはキラキラ耀きながら注文をはじめた。彼を見ているうちにこれまでのことが走馬燈のように頭をかけぬけた。

 四国大学の太田剛先生の電話からこっち、ずっとご先祖に操られてきた。太田先生に教わってご先祖のお墓の拓本をとり、県立歴史博物館のKさんから古文書の取り方、掛け軸のかけ方、巻物の開け方を教わりながら、機械のように撮影を続け、いい感じに学芸員スキルが身につきつつ、結果としてご先祖を供養してきた。
 この間、我が家の愛猫は我々の肩越しに見えない何かを見ていたが、私もダンナも揃って霊感ゼロなのでとりあえず怖いことはなかった。
掛け軸psd

 面倒臭くなってやめようと思ったことは、何度もあった(オイオイ)。だけどやめなくてよかった。やらない理由は山ほどあったけど、そこでやめていたらこの、「やり遂げた」という感覚は味わえなかった。なぜ続けられたのかと言えば、一貫して投げ出す姿勢を毛ほども示さなかったO. S.くんの存在である。

 O.S.君、ありがとう。そして、笑いを注入してくれたいっちー、Yくん、Sちゃんありがとう。そしてO.Sくんをつれてきてくれたご先祖もありがとう。
  この日空には奇しくも満月がかかっていた。

 ご先祖、私はやりました。We did it !
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DATE: 2016/02/07(日)   CATEGORY: 未分類
D.ボウイの死を悼むチベット社会
ご存じのとおり、 デヴィッド・ボウイが亡くなった。

 あの70年代の近未来で両性具有なファッションは当時のイギリスのみならず世界のミュージック・シーンに影響を与え、ビジュアル系バンドを世界中で生み出した。彼の訃報に接して、世界中のミュージシャンが弔意を表明し、のみならずドイツ外務省まで、ベルリンの壁を崩した功労者の一人として彼に言及することにより、彼の影響力の大きさがいろいろなところで認知された。

 それは日本においても例外ではない。彼が歌舞伎ファンで京都に別荘があって大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」にでたりしていることもあって、日本にもファンが山のごとくおり、ある程度より上の世代の女性たちにとっては「私たちの王子様がなくなった」的な悲しみが共有された。

 で、彼の音楽と舞台の素晴らしさはそのような方々のブログや記事をご覧いただくとして、このブログではその偉大なるボウイがキャリアのスタート地点(1965)で、ビートニクの小説家ケルアック(1922-) に影響されてチベット仏教に出会っており、その後もずっとチベット問題について心をよせていたことについて述べる。

 チベット社会も彼の死を非常に悼んでいる。チベットのニュースサイトパユル(祖国)の訃報記事がまとまっていたので、以下に和訳してはります。

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ロックスターにしてチベットの友デヴィッド・ボウイが死去 2016年1月12日
Phayul(チベット・ニュースサイト)  テンジンタルポ(Tenzin Dharpo)

ダラムサラ 一月十二日 イギリスを代表する歌手、アーティスト、そしてチベットの友であったデヴィッド・ボウィ、本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズが一月十日の日曜日に一年にわたるガンとの戦いの後にニューヨークで死去した。享年69才。

ボウイは仏教に興味をもっていたので、チベット問題とも関わるに至り、2001 年のニューヨークでの「チベット・ハウス」での資金集めのイベントその他にも参加した。アメリカのチベット・ハウスの代表であるロバート・サーマンは自分のフェイスブックの表紙に、「亡くなったデヴィド・ボウイに対する祈りと思い: チベット、ダライラマ、アメリカのチベット・ハウスの偉大なる友」と書いた。
Rod Meade Sperryは「獅子吼.com」(LionsRoar.com)に「若き日のボウイは仏教やチベットに対して興味をもち、一週間に四回ロンドンのチベット・ハウスを訪ねるほどであった」とのべている。

過去50年彼がきずきあげてきた音楽の素晴らしい業績の中でも、ボウイはハインリッヒ・ハラーの『チベットの七年』に触発されて書いたと言われる‘Silly Blue Boy,’のようなシングルと、彼の仏教の師に捧げた曲などを発表している。歌詞には「ラサの山々は雨を感じている。ヤクのバターで作った彫像が太陽の熱でとけていく」といった〔チベットをイメージさせる〕台詞がある。

「チベットの七年」という別の曲は
「大丈夫かい ? あんた、頭を打たれているよ? 私はあんたの脳みそを手にしているよ」といったなまなましい歌詞によって、中国に支配されたチベット人の感情を表現した。
 1997年のラジオのインタビューで、ボウイはこの曲についてこう述べている。
「私はチベット問題について非常によく知っていて何年も親しんできており、しかし、私はチベット問題についてどう感じているかについて実際に意見を表明したり、スタンスを明らかにしてこなかったことに罪悪感を感じていた。だから、私はこの「チベットの七年」がある意味、その補償になると思っている。」

 この曲に隠されているのは、若いチベット人たちの絶望と苦悩である。彼らは家族を殺され、自分たちの国の中で取るに足りない者として扱われてきた。ボウイはさらにこの曲についてこう言及した

「英雄達」(Heroes)、「トム少佐」(Major Tom厳密にいえばSpace Oditiy)といったヒット曲のシンガーソングライター(ようはボウイのこと)も60年代後半、仏教を学んでいて、ある時点では完全に僧となっていた。「1ヶ月間、ぼくは頭を丸めて、戒律を撮って、僧になったんだ」と僧になりかかっていたことを述べた。彼はチベットの〔カギュ派の導師〕チョギャム・トゥルンパとチメ・トゥルク・リンポチェのもとで仏教を学んだ。

 「再発明家」(reinventor)というレッテルを貼られた人は最後のアルバム「★」を発表した二日後に死去した。此処に輯録された曲の一つ「ラザロ」(イエスによって蘇る男の名)は「みるがいい。私は天にいる」という言葉ではじまっている。
ロックスターでありチベットの友であったデヴィッド・ボウイが死去した。


この記事にでてくるチメ・リンポチェ(1941-)は、東チベットのカムに生まれ、1959年の「チベット動乱」に18才でブータン経由でインドに亡命を余儀なくされた。1965年にイギリスの市民権を獲得し、ヨーロッパを説法してまわり、イギリスで最初のチベット仏教のセンターマルパ・ハウスを設立した。
ボウイの死を聞いてリンポチェは彼との出会いの思い出を語り、彼のための法要を行う映像をYoutubeに発表している。


大乗仏教保護財団(FPMT 欧米のゲルク派のネットワーク)の代表ソパ・リンポチェも法要を営んでいる

デヴィッド・ボウイ「チベットの七年」(Seven years in Tibet 1997)


デヴィッド・ボウイ「愚かな若者」(Silly Blue Boy 1967)
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