白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2016/12/29(木)   CATEGORY: 未分類
「祖国の土が子供たちのもとに届く」
クリスマスの夜、目黒川のイルミネーションを尻目に、非リア充は亡命チベット人監督テンジン・チョクレーによるドキュメンタリー bringing Tibet home (原題 pha sa bu thug「祖国の土が子供たちのもとに届く」2014年)を見に行く。

 途中、平成24年に目黒川のほとりに閉館となつた「川の資料館」を発見して暗澹たる気持ちになる。都内ですらこの手の資料館が閉館しているなら、淡路島歴史資料館のてこ入れなんて夢のまた夢である。

 監督は韓国で映画の勉強した人であるという。何かそのような話を聞いた気がするのでメールを検索すると、Kくんのニューヨークからのメールで、この監督が日本にくるのでその時、この作品を日本で上映できないかという問い合わせがあった。しかし、その日程があまりにビジーだったので日本語字幕をつけるのが間に合わないだろうと答えたような気がする。そうか、あのドキュメンタリーか。

 あらすじはこうである(盛大なネタバレをします)。

 詩人で現代芸術家のテンジン・リクドル(1982-)は亡命チベット人二世だ。両親は1959年にヒマラヤをこえて亡命し、ネパールでリクドルら兄弟を生み、アメリカに移住した。しかし、父親が癌宣告をうけ、「チベットに還りたい」といいながら死んでいく。リクドルは父親と同じく、チベットへの帰還をねがいながらも果たせない亡命チベット人たちのために、一つのパフォーマンスを思いつく。

 それはチベットの土を20トンネパール経由でインドに運び出し、亡命チベット人たちにそれを踏んでもらい、その反応をみようというものである。

 で、リクドルは少年期をすごしたネパールに向かい、幼なじみのトゥプテン(ネパール在住)をコーディネーターとしてプロジェクトを始動する。しかし、当初「簡単だ、四日でつく」と言われた土はえんえんと到着しない。

 聞けば、国境外に土を運び出す許可がとれず、さらに、中国がチベットを併合した17ヶ条条約締結60周年のせいで国境警備が厳しくなっているからだという。

 リクドルは「四日ですむといっておきながら、なんでこんなに時間がかかるんだ!」と苛立つが、たしかに仲介業者もいー加減だが、土の輸出入の可否とか、検疫とか関税とか何も調べていないリクドルもいー加減ではないか(少なくとも日本は外国の土はもちこめないとのこと)。

 そして結局、土を小分けにして、密輸業者にワイロをはらって国境の川をまたぐ密輸ワイヤーをつかってネパール側にもちこむことに成功する。私はこれを見て、「こんな苦労するくらいなら、土はあくまでも象徴なのだから、日本のお砂踏みみたいに少量でよくて、みなで行列になって順々にふめばいいのではないか」と思った。

 しかし、そのようなつっこみをすべて覆す展開がラストにまっていた。

 トラックにつんだ " チベットの土"はネパールに入ってから、別の袋につめかえられ、増水した川に足止めされたりとしつつも、50の検問を突破してようやくダラムサラについた。そこは亡命チベット人の政府機能の中心地であり、ダライ・ラマのいる場所である。

 リクドルたちは「Our Land Our People」という横断幕を町に貼り、翌日のイベントを告知し、会場となるチベット子供村のバスケットボール会場に20トンの土をひろげる。

 Our Land Our People! これはダライラマ14世が亡命直後の1963年に血の涙を流しながらつづった自伝My Land My peopleチベット我が祖国へのオマージュではないか!

 イベントの行われた2011年10月26日の朝、リクドルは「チベットの土」を手に捧げて、ダライ・ラマを表敬訪問した。ダライ・ラマは「中国の知識人は真実を知れば私たちの味方になってくれる。中国人の協力なしにはチベット問題は解決しない」といいながら、土の上にチベット文字で「bod(チベット)」と記した。
テンジンリクドル少女

 イベント会場においてはダライラマのご真影が中央に飾られ、チベットの旗がひるがえり、ロプサン・センゲ首相の挨拶などがなされ、BBCもきて(テンジン・リクドルはロンドンのLossi Lossi 美術館と協力してこのイベントを行っている)なかなか盛大なことになっている。

 しきつめられたチベットの土のまわりで、チベット子供村の子供たちがお遊戯を始める。その歌詞は
「私たちは一生懸命勉強して、一生懸命勉強して、チベットの地にかえります。チベットの地に還ります」この時点で涙腺がゆるんでくる。まずい。

 それからみなが次々とチベットの土をふみ、その感想をマイクを通じて集まった人々に届ける。
 小学校低学年くらいの小さな女の子がしゃくりあげながら「すべての亡命チベット人がいつかチベットの地に還れますように」というと、マイクをもっていた若い女性もいっしょにもらい泣きをし、みな感極まる。
テンジンリクドルダライラマ

 リクドル「チベットから土をもってくる時、あんまり大変だったので、もしこれが最初からわかっていたらいろいろ考えすぎてしまったかもしれません。この土は私たちチベット人と同じ。中国人に追われて国境をこえるまで転々としながら、時には違法な仲介業者にお金をはらって国境を越えねばならない。祖国が植民地化された私たちには居場所がありません。祖国にも亡命先にも世界のどこにも安住できる場所はありません」

 実際、ここ数年ネパールは、経済的に膨脹した中国によって完全にコントロール下にいれられ、亡命チベット人が暮らしづらい社会となっている。

 このドキュメンタリーでもリクドルは「自分が住んでいた子供の頃よりもネパールがギスギスしている。チベット人街への警察の監視が厳しい。」「中国人はネパール国境30キロ圏内ではチベット人を逮捕できるらしい」「国境近辺にはチベット語をしゃべる中国のスパイがたくさんいる。やつらは非常にソフトににこやかに接してくるが、こちらの情報をとりにきているから注意しろ」みたいな話がそこここにでてくる(今はさらにギスギスしている)。実際、ネパール在住のチベット人は動ける若い世代からカナダ、アメリカへの移住を続けている。

 リクドルの手足となって国境での交渉に当たった幼なじみのトゥプテンはネパールに住んでいるのによく顔出しできるなあと感心していたら、後でSFT Japanの人に伺うと、そのまま彼は亡命したそうな。

 話をイベント当日に戻すと、「祖国の土」は三日間展示されたあと、自由に持ち帰れることになった。チベット人たちは、甲子園の球児たちのように土をペットボトルや袋にいれて、各自自分の家に持ち帰った。20トンの土はまもなく跡形もなく消えた。

 「お砂踏み」程度の土の量ではこの需要にこたえることはできず、この光景を見られなかったことを考えると、リクドルの無計画さも意味をもつ。合理的な判断が必ずしも正しいわけではないのだ。

 リクドルは「このプロジェクトは、亡命チベット人がいつかは故郷に帰ることができるという吉祥の証である」とあつく未来を語っていた。中国がきめた国境とか、関税とか、権益とか、規制とか、それらをこえてもちだされた祖国の土はたしかにプライスレスなものとなっていた。

 このドキュメンタリーのサイトと、当時のBBC記事をつないでおきます。
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DATE: 2016/12/21(水)   CATEGORY: 未分類
2016年のチベット三大ニュース
 来年もチベットをあなたのお側に。そうです2017年のチベット・カレンダーのサムネイルならびに購入サイトはこちらです。このたびは写真家の野田雅也さん、ルンタ・プロジェクトの中原一博さん撮影の写真、並びに、フォトコンテストの応募作品により、構成されています。もちろん、チベットの祝祭日もはいってます。 

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 来年は「チベット大僧院のトイレ・シリーズ」というテーマ・カレンダーを作ってはどうかと一部で盛り上がっているが、「トイレ」はともかく、チベット高原の花鳥風月(特に、鳥、鳥、鳥!)」「チベットのシャーマン」みたいなおとなしい統一テーマであったら意外といけるかもしれまん。

 今年はヨーロッパのイスラムテロで幕を開けたかと思うと、あれよあれよという間に、理想を語る言葉が他者をののしる言葉にとってかわられ、人々が融和から排除へと向いはじめた。イギリスはEU離脱を決議し、アメリカに移民排斥を唱えるアレな大統領が誕生し、ロシアと欧米はシリアで代理戦争を行い結果アサドが勝ち、世界中でガハハな指導者が「他人のことなんてどうだっていい、自分の利益だけ考えるぜ」「死ね」とか醜いホンネを主張したのであった。みなが自分のことだけ考えれば、万人の万人に対する闘争がはじまり、結果、全体としては破滅に向かう。もう人類全体が滅びの道を自主的に選択しはじめたかのようである。間違いなく歴史に残る一年であった。

 しかし、オーストリアの大統領選だけはかろうじて踏みとどまった。これはおそらくはオーストリアが敗戦国であることと無縁ではあるまい。先の大戦で、敗戦国は国土を焼かれ、70年間戦争責任についてののしられ続けてきた。戦のむなしさを骨身にしみてわかっている敗戦国は、軽々にパワーゲームにのめり込まない。

 また、任期最終年のオバマ大統領も駆け込みレガシー作りでアメリカが戦場とした国、対立していた国々をまわり和解を演出した。ベトナム戦の跡地をまわり、原爆投下地点で献花し、キューバと国交を回復し、安倍総理大臣をパール・ハーバーへ招いた。そして、ダライ・ラマである。これまでオバマ大統領は中国に対する配慮から、ダライ・ラマと会見してもそのツーショット写真をメディアに公開しなかったが、本年6月15日に行われた4回目のダライ・ラマとの会見はその禁を破り、ツーショット写真を披露した。
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 ちなみに、12日後の6月27日にはレディー・ガガがダライラマ14世のツーショットをインスタグラムに投稿すると、中国のネット民はガガに「中国人はあなたがビン・ラディンと握手しているように見える」と罵詈雑言をとばした。あの温厚な平和主義者のダライ・ラマをテロリストと国民に教えこまなければもたないのだから、中国も哀れな国である。そういえば、アパルトヘイトまっさかりの南アフリカでは、無学な白人たちは、非暴力路線で人種の平等を訴えていたANCをテロリストと呼ばわっていた。

 そして、長年軍事政権に軟禁されていたアウンサン・スーチー氏は、今年したたかにミャンマーの政治の中枢にくいこむことに成功した。これによって、非暴力をもって戦う人々は、ダライ・ラマをのぞきすべて政敵を倒すことに成功したことになる。複雑である・・・。

 今年の訃報としては4月29日にサキャ派のトップであるダクチェン・リンポチェ=ガワン・クンガー・ソナムがシアトルにおいて88才でなくなった(ソースはここ)

 また、5月7日には日本に何度も来日されていたゲン・ロサン先生が肝炎によって逝去された。ゲン・ロサンはインドのチベット文化圏ラダックに生まれ、ダライ・ラマの摂政をだす四転生僧のうちの一つクンデリン・リンポチェの師をつとめ、かつ、次期ギュメ管長である副管長に就任中であった(詳しくはここ)。

●以下、チベット社会全体にかかわる三大ニュースを選んでみた。

(1) ラルン・ガロの弾圧が再開する

アムド(東チベット)のニンマ派の僧院、ラルンガロ(Larung Gar) は、チベット人ばかりか漢人の修行者を集めて巨大化した結果、江沢民政権の終了時に迫害にあい、大きな海外ニュースとなった。その後、胡錦涛政権においては宗教のもつ道徳的な側面を社会秩序の維持に利用しため、ラルンガロも再び巨大化が加速していたが(『東チベットの宗教空間』参照)、本年7月21日、定員までに僧の人数を減らすとの名目で、中国当局は再びラルンガロの僧坊破壊に着手している(ニュースはここ http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=37843
)。
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 BBC などの欧米のマスコミはこれを宗教弾圧として奉じてきたが、日本の某テレビの人は欧米の逆張りをしなければならないと思ったのか、「お坊さん達が特段の抵抗をしていないのは、僧坊が壊されて更地になれば、地上げができて坊さんが儲かるからではないか。」「北京の高級ホテルはチベット僧の衣をまとった偽坊主でいっぱいだ。あなたはこれについてどう思いますか」と私に聞いてきた。

 私はこう答えた。「お坊さんが抵抗しないといいますが、デモの自由のある日本じゃないんですから簡単に言わないでください。ダライ・ラマはチベット人に『中国人がダライ・ラマを批判しろ、と命令してきたら、その通りにしなさい。彼らに逆らって投獄されたり、僧侶をやめさせられたりするよりはいいです。私は全然気にしませんから、中国人の言う通りにして身を保ちなさい」と常々いっています。

 偽坊主については、そもそも人々が信服するような徳のあるお坊さん、その多くはインドの僧院で育った人々ですが、彼らは入国禁止です。それに当局は僧院の教育課程や修行を妨害し徳のあるお坊さんが育つのを阻止する一方、偽坊主は大勢に影響がないので放置しているんですよ。チベット仏教の評判が下がっても当局にとっては痛くもかゆくないですから。

 それに、偽坊主にチベット人が含まれていたとしても、漢人に支配され二級市民の扱いを受けているチベット人が文化を捨てずに生きていく道がすくない以上、坊さんのコスプレをその一つとして選んだとしても、安全圏にいる我々が、それを非難する権利があるでしょうか。正確にチベット仏教を報道したいのであれば、中国支配下のチベットの偽坊主ではなく、南インドに再建されたゲルク派の僧侶をみてからにしてください
」。

といいつつ気づいたのは、この記者は、長い中国駐在の間に、漢人知識人視点に同化してチベット人をみていたこと(仏教に向かう漢人は彼らから見るとちょっとおかしい人なのかもしれない)。この漢人知識人の視点はかつての日本の知識人の視線とも似ている。彼らはチベット仏教を自分たちの先入観でみており、その哲学の真髄については無知であり、無知であることすら自覚がない。

(2) 11月、ダライラマ14世はモンゴルのジェブツンダンパ9世の生まれ変わり、すなわちジェブツンダンパ10世を認定。

 その歴史的意義については直前のエントリーで解説しました。

(3) メンツィーカン(医学暦学堂)が創立100周年(3月23日)
 チベット医学はチベット高原の多様な動植物を薬材とインドのアーユル・ヴェーダ医学の理論を特色とする非常にユニークなものであり、メンツィーカンでは薬の製造、医療行為とならんで、暦の出版も行っている。ラサにはすでにダライ・ラマ5世やその摂政サンゲギャムツォによってチャクポリ山の上に医学堂があったが、なぜ、1916年にメンツィーカンが創設されるにいたった背景については、日本で最初のチベット医小川康さんがここで考察している。

●個人的な三大ニュース

(1) 9月『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)の出版。
(2) 11月清風学園でダライ・ラマ14世が導師となったチッタマニ尊の灌頂を受けたこと。
(3) 全体ニュースとかぶるが、ジェブツンダンパ10世がダライラマ14世によって認定されたこと。
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DATE: 2016/12/07(水)   CATEGORY: 未分類
ジェブツンダンパ10世の認定
 ダライラマは11月8日に成田に到着し、清風学園と高野山で灌頂を、清風学園、世田谷学園、横浜などで講演を行われ、18日に成田からモンゴル国の首都ウランバートルに向かった。そして23日にウランバートルから再び成田に戻り、休養・クローズドの講演の後、27日午前、成田空港からインドへ帰還された。つまり、今回の来日はモンゴル行脚とセットになっていたのである。
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 日本人は法王が日本に滞在されている間にはその動向に多少の関心を持つが、いったん他国へ離れると興味を失い日常生活に戻っていく。しかし、今回のモンゴル行は〔仏教史的には〕非常に大きな歴史的事件、すなわちジェブツンダンパ10世の認定が行われたのでこれに注目してみたい。

 ジェブツンダンパという転生僧は17世紀の初代がダライラマ5世とパンチェンラマ1世の弟子であり、歴代モンゴル随一の権威をもち、ジェブツンダンパ8世にいたり、1911年に独立モンゴルの国王になった高僧である。ジェブツンダンパ8世なきあと、モンゴルはソ連によって社会主義国に改変させられ転生僧の政権は否定されたため、ジェブツンダンパ9世はチベットで誕生しチベットで養育され、ダライラマ14世の亡命とともに、インドに逃れた。

 今回、清風学園のチッタマニ灌頂の法話の初日(2016年11月11日)に、ダライラマ法王は死の瞑想の話をされる際、たとえの一つとしてジェブツンダンパ9世の死の思い出話をされた。

 ダライ・ラマ14世「先代のジェブツンダンパ9世が亡くなる前、重病で口をきくのも大変そうだったが、私が「来世もモンゴルで活躍しなさい」といったら、〔ジェブツンダンパ9世から〕電話があって、「どこで死んだらいいですか?と聞かれたので、「正月にモンゴルで死になさい」といったら一月四日にモンゴルで死んだよ。〔前首相〕サムドン=リンポチェが私の代理で白いカターをもってモンゴルにとんだら、遺体にカターをかけた瞬間に鼻から血がでて死の瞑想が終わった。私のカターを待っていたのかな。」

 この時私は「ジェブツンダンパのエピソードだけやけに詳しいな」と思ったが、翌日、「これはまだ内緒だが法王はこのあとモンゴルを訪問される」と聞いて納得した。おそらく今度の法王のモンゴル行はジェブツンダンパ10世の認定問題が絡んでいると。

 というわけで、まず、たたき台として法王公式サイトからダライラマのモンゴル日程を粗々書き出すと以下の通り。
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 19日にウランバートルのガンデン寺で『ナーランダー僧院の17人の成就者たちへの祈願文』他法話。20日はマイナス40度の厳寒の中、ブヤントウハー・スポーツセンターにおいて一万人以上の一般人の前でミグツェマの口頭伝授、21日は、トリティア・ダルマ・チャクラ財団の主催による仏教科学と現代科学の対話と題する国際会議。22日は記者会見、そして若者たちと交流し、23日にウランバートルから再び成田に戻った。

 この間22日の記者会見の席でャーナリストの質問に答える形でダライラマは、ジェブツンダンパ10世の認定問題に触れられた。モンゴル在住のIさんからモンゴル語のニュース・サイトの記事を教えていただき、重要な部分を抜粋して翻訳した。私の現代モンゴル語力はかなり信用できないので、原文が読める方は原文をご覧ください。

 ジャーナリストの最大の興味は、9世ボグドの後継者を認定したかどうかについてであった。この問題についてダライラマ14世法王は・・・(中略)・・・モンゴルのジェブツンダンパ=フトクトは長い歴史をもつラマだ。昔昔のダライラマたちとも因縁がある。ジェブツンダンパ9世が亡くなられる前、「私はいつ、どこで死にますか? 次はどこに生まれますか? 」と 私に尋ねたことは素晴らしい事であった。最後に会った時、私は彼に「あなたのお体の具合は悪い。年も高齢だ。あなたの来世生まれる地はモンゴルのようだ」と申し上げた。
ジェブツンダンパ9世の生まれ変わりを認定するのは私の疑問の余地のない任務だ。ジェブツンダンパ9世の生まれ変わりはモンゴルにおいて生まれた徴が明らかである。しかし、その子は若いので、今はコミュニティに招く必要ないと考えている。
三才から五才になった時に〔即位を〕考えなければならない。幼子を獅子座に招くのは難しい。大きくなって経典や学識がついてから、命あるものたちに利益を届けねばならない。私は「髙い座に座ったことにより、仏教を行わない」という〔例をたくさん見てきた〕。チベットにおいて大ラマの生まれ変わりは〔勉強しなくとも〕学識・経典は自然と生まれるという噂がある。このような話は。昔から仏教を理解しないものの誤解のデマである。改めなければならない。〔つまりジェブツンダンパにしっかり仏教の勉強と修業をさせるように言っている〕

質問「仏教の三高峰、乃ちパンチェン・ボグド、ダライラマ、ボグド・ジェブツンダンパたちの生まれ変わりを認定する際には、常に論争がありました。パンチェンラマにしても、あなたが認定した方と中国政府が即位させた方の二人がいます。ジェブツンダンパ10世を認定するとどんな問題がおきますか? あなたが認定した子を〔中国政府が認定した〕パンチェ・ラマが認定しないこともありえますか。このような不明瞭な問題がおきたならどうするおつもりですか。

ダライ・ラマ「そうそう。パンチェン・ラマは今二人になっている。確かに将来、ダライラマも二人になることは確実だな(笑)。だから驚くようなことではない。政治問題はちょっとした理由からも、変化していく。重要なのは〔変化しない〕仏教である。経典を聞いて、考えて、伝え、広めることが重要だ。これ以外のパンチェン、ダライラマを招くことは重要ではない。仏教を聞き、考え、実践することこそが大切なことなのだ。

 つまり、ダライラマ法王はジェブツンダンパ10世の認定はした。しかし、まだ子供で仏教の勉強もしないうちに高座につけて崇めても意味がないので、もう少し育ってから発表しよう、と言っている。そして、中国の認定した「なんちゃってパンチェン」がジェブツンダンパ10世を別に認定したらどうすると問われた際の答えは、暗にジェブツンダンパ10世の養育係に、彼をきちんとした学識ある僧に育てろとの重要なメッセージを含んでいる。
 
 チベット世界でこの転生制が続いてきたのは仏教の存続に有効なシステムであったからだ。実際子供の頃から仏教によって涵養されたダライラマ14世は、たった15歳で国を失ったにも関わらず、いまにいたるまでチベット人の心をまとめあげ、仏教界の大黒柱となり仏教を広げつつ、なおかつ世界平和のアイコンになるというスーパーな活躍ぶりを発揮している。彼の明るい姿をみて彼が難民であると深刻な問題を抱えている人であるとは誰も思わないであろう。仏教を実践した結果があのお姿なのである。

 勉強をきちんと治めて人心をまとめることのできる大ラマはその死後再び転生者が探索される。しかし、大ラマの転生僧であっても勉強も修業もしない残念なラマは、最終的には転生は断絶する。前世がとくに大ラマでなくともめざましい活躍をすればその人の転生は探索されるし、大ラマであっても残念な人は次第に誰にも見向きもされなくなっていく。
 実は転生僧の世界も厳しい実力社会なのである。
 ジェブツンダンパが頭の良い子であってほしいと心の底から思う。残念なラマで終わらないでほしい。
 ジェブツンダンパが果たしてどのような僧になるか。モンゴルの人心をまとめモンゴル仏教界をひっぱっていくカリスマ性を持つか、それとも残念な結果に終わるか、それはモンゴルの僧たちのジェブツンダンパの養育いかんにかかっている。

 良い僧になってくれ、ジェブツンダンパ!
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