白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/04/03(月)   CATEGORY: 未分類
ペテルスブルグ紀行17(学術編)
 卒業式の翌日からロシアのサンクト・ペテルスブルグに出張した。到着した26日日曜日はモスクワをはじめとする各地で反プーチンデモが炸裂していたが、ペテルスブルグは平穏だった。ダイナーで食事していたらやたら軍人や警察官が目についたくらいかな。

 ペテルスブルグはいうまでもなくかつてのロシア帝国の都である。 ロシア帝国はかつて大英帝国とともにユーラシア大陸を二分して領土合戦を繰り返していた。そのため、ロシアにはユーラシアの北の方の史料が、イギリスには英領インドを筆頭とした南の国々の史料がよく保存されている。どんなものかと言えば、ロシア帝国時代に国威をかけて行った探検事業や戦争を通じて手にし〔たものだけではなく、革命後に個人から没収したり、第二次世界大戦でドイツから奪い取ったりし(笑)〕た敦煌、クチャ、トルキスタン、モンゴル、西夏などの、多くの文物である。

 しかし、チベット関連の史料についてはやはりイギリスの方が充実しているため、私の脳内でロシアの占める地位は低かった。しかし、最近近現代に興味をもつようになると、じょじょにロシアの重要性が分かるようになってきた。1904年、ラサにイギリス軍が迫る中、ダライラマ13世はロシアの支援を求めて北上しモンゴルのウルガ(現在のウランバートル)に到達した。そうしたらロシア帝国内のチベット仏教徒たち(カルムック人、ブリヤート人)がダライラマ13世の下におしよせ、東西のチベット仏教徒が激しく交流するようになるのである。

 今回のペテルブルグ行きの目的は、1905年にロシア地理学協会代表としてウルガに滞在していたダライラマ13世を訪問したロシアの地理学者コズロフの撮影した写真を見ることである。1907年に記されたコズロフの報告書には、ダライラマ13世は写真を拒否したので、肖像画家をつれていきその肖像画を書かせたこと、彼の宮廷のスタッフや南モンゴルから巡礼にきたスニット部盟長で郡王とその家族の写真をとった旨が記されている。

 現代の研究者はダライラマ13世を独立チベットの、ジェブツンダンパ8世(生まれはチベット人)を独立モンゴルの提唱者としてそれぞれの国のナショナリズムとともに語る傾向が強いが、この場合忘れてはならないのは、ジェブツンダンパ8世の権威はハルハにしか及ばなかったが、ダライラマ13世の権威については、ロシア・清朝在住も含む全モンゴル人、のみならず、西洋人にも及んでいたことである(本当)。コズロフがとったウルガのダライラマ13世とその下に訪れる巡礼たちの写真は当時のダライラマ13世の領域をこえた権威を示す貴重な史料なのである。

●P. K. コズロフのアパート博物館へ

 初日はペテルスブルグ大学のウスペンスキー教授の紹介で、コズロフ・アパートメント博物館(Kozlov Memorial: 住所: 191124, Санкт-Петербург, Смольный проспект д. 6, кв. 32.)において、二年前にここの館長を辞したアンドレイエフ・アレクサンダー研究員と会う。この記念館の名前が示すように、コズロフが1912年から35年までに住んでいたアパートメントをそのまま記念館にしたものである。
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 アンドレイエフ研究員によると、コズロフの収集した文書系のものはモスクワ(ただし清朝を探検した際のパスポートみたいなものは展示されていました)に、文物系はエルミタージュにうつしたので、ここにあるものは写真以外は演出で飾ったものだとのこと。

 研究員はペテルブルグやモスクワの文献館にある文書に基づいて、ロシアのチベット仏教徒について実証的な研究を行っている(これができる研究者は旧社会主義圏には少ない)、非常に尊敬できる方であった。彼と話していて、ロシアの仏教徒研究については文書館の近くにすむ彼には絶対叶わないので、この点については彼の研究を消化し、彼の視野に入っていない、清朝やモンゴルや日本関連の視点を私がつなぎあわせれば、さらに高い視点からチベット仏教世界の近代が見えるのではないかと思った。アンドレイエフはコズロフの居間にはられた写真を一つ一つ説明してくれた。それはコズロフがヘディンやドルジエフやなどの同時代人ととったものであった。

●地理学協会で異文化コミニュケーション(笑)

 翌日、コズロフが1905年にウルガでとった写真を閲覧するために、ウスペンスキー教授のつきそいのもとロシア地理学協会Russian Geographical Society)を訪問する。そこは軍の下部組織とかで閉鎖的で部屋には開室時間が書いてあるものの、午後にしか写真はださないし、全部はだせないと非常にへんなかんじ。ウスペンスキー教授と学芸員(女性)が話あっているが、ロシア語なので内容はわからない。テレパスで解釈すると、どうも私の直前に日本からきたIさんがとても愛されていて、彼に対する気を遣って私にみせたくない感じがした。
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 これって、そこにいる学芸員のゴキゲンをとらないと史料をだしてくれない、中国の田舎の档案館なんかと同じ縁故システムである(システムでないけど)。西欧諸国の文献閲覧は透明性が高い。フィンランドの国立博物館所蔵のマンネルヘイムの撮影した写真をみにいった時は、フィンランドに誰一人知り合いがいないにも関わらず、メールのやりとりだけで当日そこにいけば、申請したフィルム類が、手袋と関連書籍とともにだしてあった。学芸員さんにこちらが質問すれば答えてくれるし、必要以上に個人的なつきあいを深める必要もなかった。

 「何度も通って学芸員さんと関係を作って「じゃああなたにならみせてあげる」、という前時代的なシステムははっきりいってメイワク。そもそも史料にアクセスすることに障害があること自体がおかしい。個人の好き嫌いで史料の公開・非公開が決まったり、国策で過去の史料をみせていなかったりするのは、本末転倒。歴史学者の仕事は学芸員の機嫌を取ることや、その史料を隠蔽している国の機嫌を取ることではない。
 
 とかなんとかいう原則論をいう前に、そもそも私には人間関係の構築を行うためのロシア語力がないんだよね。しかも、ウスペンスキー教授は「今日は授業」とかいってでていくし(おい)、自力で何とかしなければならない。
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 まず「史料を申請するための書類をかけ」と言われるが、すべてロシア語なのでよめねえ。
「何でロシア語の書類しかないんだよ」と思うが、よく考えたら、日本の公文書館にくる人は日本語が読める人しかこないから日本語の書類しかないのと同じだ。そもそも私がこの語学スキルでここにいるのがおかしい。しかし何とかせねば。そこでiPHoneにダウンローどしていたキリル文字を自動読み取りして翻訳するgoogleの翻訳アプリを書類にかざしてみたら、あら不思議。内容がわかるわ。何とか書類をうめることができた。

そして「午後にしか写真みせてくれないないなら、今はひとまず目録をみせて」ととりすがって目録をみせてもらい、コピーはだめというので、ひたすらコンピューターに写す。電子データのうちだしなのだから、仲良くなった人はこれをUSBでもらえるのだろうと思うと空しいが、こちらも意地でひたすらパソコンに目録を書き写していく。

 目録のだいたいの構造をよみとり、1905年のウルガのダライラマ13世巡礼写真のフォリオの番号をみつけ、「これだけでも出して、お願い」とせつせつと訴える。
 とはいってもロシア語力がないので、まず英語で作文してgoogle翻訳でロシア語訳してそれをword にはって拡大して、悲しい顔をしてその画面を学芸員さんにおみせするのである(爆笑)。

 相手も私に何か伝えようとするがもちろんロシア語なので通じない。そこで私はみぶりでパソコンでgoogle翻訳をひらくようにいい、そこで彼女にキリル文字でうちこんでもらい、その場で英訳して、読み取る。ケータイアプリとパソコンgoogleによる新時代の異文化コミニュケーションである(笑)。

  ありがとうgoogle。あなたのおかげでわたしはロシアを生き延びることができました。
写真の中には1904年にダライラマ13世がラサを脱出する時行動をともにしていた、ダライラマの侍医やお膳係(gsol dpon)、それと巡礼にきたスニットの盟長と妻、娘たちの写真など目指す写真にはいきついた。番号がわかったので次はそれこそ語学ができてちゃんと関係を構築できる方に頼んで使用許諾を得てもらおう(寄生虫である)。

●エルミタージュ博物館とロシア民俗学博物館

 地理学協会の翌日はエルミタージュ博物館のチベット部門、その翌日はロシア国立民族学博物館(The Russian Museum of Ethnography )にいく。エルミタージュではチベット・モンゴル部門のジュリア・エリヒナ学芸員を訪問し、彼女から展示品の説明をうける。私が注目する展示品は、ダライラマ13世からニコライ2世に1913年におくられた文殊菩薩、無量寿仏、白ターラー尊である。
 1913年はダライラマ13世がチベットの自立を宣言し、ロシアはロマノフ王朝樹立300周年を迎えた記念の年であつた。
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 私はジュリア学芸員に「チベットで長寿三尊と言えば、無量寿仏、白ターラー尊、尊勝仏頂尊なのに、これはなぜ尊勝仏頂尊でなく文殊菩薩なんでしょう。文殊菩薩は普通中国皇帝のシンボルですよね」というと彼女は「さあしらん」。

 翌日、ロシア民俗学博物館に、同じく1913年にブリヤートの使節団がニコライ2世に奉献したヤマーンタカ(ヴァジュラバイラヴァ)13尊の立体マンダラをみにいく。ウスペンスキー教授によると二年前のチベット寺創建100周年の年にこの博物館で素晴らしいチベット仏教展示会が開かれ、そこには出品されていたそうな。私はこの博物館のサイトからとった立体マンダラの写真をみせて、「どこだ」と博物館にいたあらゆる人に聞いたが「ない」と言われた。展示していないならサイトにのせるな。

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 この時、なんで13尊ヤマーンタカなんだろうと思ったが、エルミタージュを訪問した際に、ユリア・エリフィナ学芸員から拝受した『エルミタージュ藏ニコライ・リョーリヒチベット仏画のコレクション』Tibetan Paintings form the Collection of Yu.N.Roerich. を読んでいるうちに何となくわかってきた。

 本書94ページの「緑ターラー尊」の佛画の解説には、ターラー尊の上部には「最初のシャンバラ王」(rigs ldan dang po)スチャンドラが描かれている、と記されていたが、帰国後写真を拡大してみるとこれはRigs ldan dang poではなくRigs ldan dag po(< drag po 'khor lo can サンスクリット語でルドラチャクリン王)と読める。

 ルドラチャクリン王は2037年に即位する25代目のシャンバラ王で最終戦争にかって地上に仏教徒の楽園を実現するという救済者として名高い王であった。この王は文殊の化身とされるので、ダライラマ13世の奉献仏像の中に文殊菩薩があったことの説明つく。ちなみに文殊の忿怒相がヤマーンタカなので、ブリヤートの献上品にヤマーンタカ13尊マンダラがあることも説明がつく。満洲人国家である清朝が崩壊し、漢人国家の中華民国が成立すると、チベット仏教徒は漢人皇帝よりも、ブリヤートやカルムックなどのロシアのチベット仏教徒にやさしいロシア皇帝に期待をよせ、シャンバラ王にみなしていたのである。

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 次回はペテルスブルグを行く(町歩き編)です。
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