白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2017/05/17(水)   CATEGORY: 未分類
曾祖父終焉の寺を訪ねて
 3月中旬、下関出張の帰りのケータイに5月13日(土)に「触れ太鼓を聞きながら柳橋で天ぷらを食べませんか」というお誘いが入った。まだ冬のコートを着ていた時期で、五月の新緑の時期を思うとそれだけで明るいところに出たような気持ちになった。日が近づいてくると、江戸つながりでそのあと曾祖父が明治九年に命を終えた地、松が谷の海禅寺(合羽橋道具街の近く)を訪れようと計画した。

 楽しみにしていた13日がやってきた。しかし、朝から土砂降りで想像していた雰囲気とはほど遠い。東日本橋で降りて柳橋まで歩く間にもスカートがびちょぬれになる。しかし、雨模様の新緑は晴れの日よりも深緑色でこれはこれで美しい。

 めざすは柳橋のたもとにある老舗大黒屋である。柳橋は早稲田近辺を流れる神田川が隅田川に交わる地点にかかる橋で、お店は本当に橋のたもとの柳の木の前にあった。しかし柳橋もすぐそこの両国橋も情緒のかけらもない鉄橋である(写真)。江戸情緒どこ?
大黒屋二回から
達筆看板jpg

 お店の看板の字があまりに達筆すぎて通り過ぎたので(写真)、お店に着くのが若干遅くなりもう他の皆様方は天ぷらをあげるお部屋に移動中。みな早稲田大学名誉教授の石居先生のお友達である。目の前で次々とあがっていく天ぷらをいただく。
てんぷらの席

 じつは5月の2日に親知らずをぬき、何か予後がよくないなと思っていたら顎関節症になっていたので、痛み止めで痛みを押さえつつ、口があくだけのサイズに天ぷらをきって参戦。いろいろ想像していた絵と違う。歯はいじるものでない。

 天ぷらを食し終わって、お座敷に戻りしばらくたった二時頃、玄関から相撲甚句が聞こえてきた。河の対岸にある両国から「呼び出し」の方たちが「明日から場所が始まりますよ~」と触れ歩く「触れ太鼓」の一行が到着したのである。
触れ太鼓

とはいってもどしゃぶりなのでみな合羽を着て、太鼓もビニールで覆われている。峰崎部屋の呼出し・弘行さんなどが明日の取り組みを読み上げる(写真)。最近は相撲部屋が両国から離れる傾向があり、触れ太鼓もすべての部屋は回れないそうで、ひいきのお店や報道機関を触れ歩く。
 「相撲は明日が初日じゃぞえ~」という末尾の「ぞえ~」がいい(笑)。

 太鼓が終わると、お店の人からご祝儀を戴いていた。これぞ江戸情緒である。石居先生ありがとうございました。

 そのあとは単騎、曾祖父の臨終の地海禅寺に向かう。つくばエキスプレスの浅草からわりとすぐの合羽橋付近にあるのだが例によって迷走し、またびちょぬれ。海禅寺は江戸時代妙心寺派の四触頭(幕府と本山のパイプ役。宗派の江戸大使)の一つであった。
 
 ご先祖岡田鴨里は娘しかいなかったため長女の息子である真を後継者としていた。賴山陽の弟子であった鴨里は山陽の死後も息子の賴三樹三郎と交わり、娘を天誅組の資金源となった古東領左右衛門に嫁がせるなど志士たちとのつながりが深かったが、基本は学者であり、古東領左右衛門にも自重を説いていた。しかし孫の真は行動派で明治二年の庚午事変にかかわったため廃嫡され、明治九年ここ海禅寺で30才の若さで没している。真の残した二人の娘、アイ、イマのうち、今が私の祖母である(にしても女系だよ)。

 18時からの座禅会に会わせて本堂に風をいれるご住職から、お話を伺う。このお寺は徳島藩の殿様が庇護していたため、阿波(徳島藩)様寺とかつては言われていた。が、廃仏毀釈、関東大震災、東京大空襲で次々被害を受け、そのたびに境内はどんどん縮小し現在のような小さな寺域になってしまった。つまり、想定内であるが、今の海禅寺には曾祖父、岡田真が死んだ時のお堂も文書類もない。

 東京大空襲でなくなったご住職までが戒律をまもった禅僧で、そのあとの住職たちは妻帯したが、禅寺なので今のご住職と先代の間には血縁関係にないそうな。過去帳は原典は燃えたが写しはあるとのこと。狭い墓域には古くからの墓石がいくつかあり、そこにはかつて阿波様寺と呼ばれた名残があった。享和2年の「故従四位下行侍従阿波淡路守××」とか、「阿波中将故妃鷹司藤原姓夫人之墓」とかの碑文や、藩主と同じ名字の「蜂須賀」とかの墓石がある。ちなみに、有名な写楽も徳島藩主お抱えの能楽師であったため、かつては墓石があったそうな。
18485299_10207870065303697_7820901879050074648_n.jpg

 また、新しくは安政の大獄(1858)によって獄死した梅田雲浜と但馬の守藤井尚弼の墓がある。明治の世の訪れと共に幕末の志士たちは名誉回復したが、同時に武士の身分もなくなってしまった。血の気の多い志士だった曾祖父真はしばらくは徳島県の官僚となり、年金生活者となった武士に新聞を発行させて生活をたちゆかせようという自助社の発起人にも名前を連ねている。そして安政の大獄から18年後の西南戦争の年、この阿波様寺でひっそりと生を終えた。
 また座禅会にでもこようと思い、寺を後にする。
雨は小降りになっていた。
[ TB*0 | CO*2 ] page top
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ