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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2018/10/30(火)   CATEGORY: 未分類
純太郎没後50年シンポジウムレジメ
先週末、おかげ様でシンポジウムが無事行われました。別件の論文が終わらないまま行ったのですぐ帰らざるを得ずいろいろ不義理をしてしまいました。今週末には何とか終わらせて、とにかく日常に戻りたいです。
ちなみに、当日くばった拙レジメ文字飾りないですが、以下にはっときます。写真はシンポジウムの行われた以文館、ならびに、当日配布された発表原稿、資料類、記念刊行本、図書館で行われていた純太郎記念展示のカタログ諸々です。

最後に主宰者の関西大学の吾妻先生が「没後50周年をやらないかと言われ、最初はこりゃあ大変だと思いましたが、こうやって終わってみると、やってみるもんだな」というお言葉がちょっと笑いました。

 足を運んで下さったすべての方に御礼もうしあげます。家にかえってスーツをぬぐときに名札がつきっばなしなのに気づく。新大阪まで荷物もってくれたOくん、新横浜から迎えにきたF、気付いてほしかった。
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明治・大正・昭和初期の石濵家 ----漢学・文学・帝大人脈---- 
                    石濵裕美子(早稲田大学教育学部教授)

エピソード1 :
私の裏町好みの共犯者は、石濵金作氏であった。一高に入学すると直ぐから結ばれた石濵氏との交友は、全く共犯者といふ言葉しかないような深入りであった。書くこと多過ぎて書く気にもなれぬ。二身一体の因果者のやうに、相手が鼻につくことが自己嫌悪と同じに近い友人だった(川端康成「文学的自叙伝」『新潮』1934.5)

エピソード2:
石濵恒夫は、三浦とはちがったタイプの男だが、彼もまた二代目の文化人である点では共通していた。父親は京大の文学部の教授で、その教え子には作家や文学者がたくさんいるし、叔父に当る藤沢桓夫氏も同じ家に住んでいた関係で、三浦の話では石濵の家そのものが関西文壇の一角になっているような印象をうけた(安岡章太郎『良友・悪友』1966)。


I. 幕末から明治初年の石濵家

代々石濵徳右衞門を名乗る。
職業:洲本の奉行所の町手代
屋敷所在地: 津名郡洲本町(現洲本市)常盤町字居屋敷乙四
菩提寺: 真言宗高野山派青蓮寺(現 遍照院)
→ 1886(明19)年に編纂された青蓮寺の墓石簿によると、石濵鐵郎は士族、純太郎先生の祖父勝蔵は石濵屋の屋号で記録され、石濵姓の墓石を2分して管理。後者は家督をつがなかった石濵が商人身分になったものか(大正末年に青蓮寺が焼けているため過去帳はなく、徳右衞門家伝来の家系図も東京大空襲で焼けたので文献の裏付けはない)。明治維新以後、徳右衞門系石濵は九等士族となり、大阪、明治33年頃(1900)に東京へ移住。勝蔵の子豊蔵も大阪において丸石製薬を起こす。両家系は戦前までは交流あり。
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II.徳右衞門系・石濵家、関連人物リスト

(1)岡田鴨里(1806-1880)
 名は僑、周輔。号の鴨里は岡田家の所在地である掃部村にちなんだもの。賴山陽高弟。

1806(文化3) 津名郡王子村庄屋砂川佐一郎4男に生まれる。
1826(文政9) 賴山陽の『日本外史』が上梓する。
1828(文政11) 京都において賴山陽に師事する。
1831(天保2) 山陽は鴨里に『日本外史』の補編を書くことを託し(『日本外史補』序)、翌年没す。
1850(嘉永3)8月 『日本外史補』ならびに『名節録』を著す。
1861(文久元年)9月 中小姓格にとりたてられ、徳島藩の学問処である洲本学問処の御儒者に任ぜられる。
1863(文久3) 門弟で女婿の古東領左衛門が藤本鉄石、松本奎堂らとともに天誅組の大和挙兵に参画し、獄死する。6月、「五倫の説」(未刊)を記す。
1868(明元)閏4月 徳島藩の参政に任ぜられる。
1869(明2)正月 参政、学校懸准物頭席に任ぜられる。
1870(明3) 辞職。庚午事変の折には大村純安の父である大村純道とともに調停にあたるも事変を防げず。
1872(明5) 10月 徳島藩の藩主蜂須賀家代々の事蹟・系譜を記した編年体の歴史書『蜂須賀家記』を脱稿。
1874(明7)冬10月『草莽私記』の序文を記す。
1878(明11) 9月 掃守村に帰郷する。
1880(明13) 9月5日 舌がんで死去。享年75才。掃部の木戸市池上山に葬られる。
1915(大正4年)11月10日 大正天皇即位にあたり従五位を追贈される。

(2) 岡田真(1846-76)年譜
 鴨里の嫡孫。真は字は真太郞とし、顒(ぎょう)斎と号した。岡田真の年譜は主に墓誌と「岡田鴨里関連文書」に基づく。

1868(明元) 洲本文学教授となる。
1870(明3) 庚午事変に際し大村純安とともに檄文を記す。後、東京に遊学する(No.763)。
1871(明4)8月 徳島県の権大属に任ぜられる。
1872(明5)9月 名東県の権典事に任ぜられる。
1873(明6)8月 県制改革で権大属に転じた後、辞職し、東京に遊学する。
1874(明7)8月 士族の生活を支えるため新聞の発行を目指す阿波自助社が設立され、眞は発起人の一人に。
1875(明8)2月 阿波自助社、板垣退助を徳島に招き政府批判。6月に民権運動の宣伝のため「通諭書」を出版。
1876(明9)9月、「通諭書」が大審院において朝憲紊乱の罪とみなされ、井上高格ら四人が処罰される。11月 東京において客死。「阿波様寺」と呼ばれた上野の海禅寺において葬儀。戒名:覺心院尚古顒斎居士。享年30才。
1881(明14)12月10日 掃部の木戸市池上山に改葬。

(3) 岡田文平(1860-1900)年譜
 岡田家に養子に入り鴨里のひ孫の岡田アイと結婚。岡田家から古東家に養子にはいった古東又五郎とともに奥井寒泉(1826-86)門下の双璧と謳われた(片山嘉一郎:473)。年譜は「岡田鴨里関連文書」No.764 に基づく。

1880(明13)7月 鴨里の死を受けて帰郷する。9月、奥井庄一のもとで漢学を修める。
1883(明16)9月 帝国文科大学(現東京大学)の開設したばかりの古典講習科漢書課乙部へ入学。1887(明20)卒。
1888(明21)1月 東京市ヶ谷都立成城学校教員に勤務。2月 成城学校教員を辞職、12月第二高等中学校助教諭。漢文学と国文学の教授を兼任する。
1890(明23)10月 第二高等中学校(現東北大学)助教授に任ぜられる(1891年6月 教授に昇任)。
1897(明30)7月 病により辞職する。
1900(明33) 死去。掃部の木戸市池上山に葬られる。

(4) 岡田秀夫(1884-1923)の年譜

 岡田家に生まれ、鴨里の玄孫の古東静子と結婚。履歴は「岡田秀夫葬儀諸控帳」(「岡田鴨里関連文書」No.764 )に基づく。

1909(明42) 東京帝国大学文科(漢文学・文法を専攻)を卒業する。
1914(大3)9月 札幌帝国農科大学(現北海道大学)の講師に任ぜられる。
1916(大5)12月 廣島高等師範學校(現広島大学)の講師に任ぜられる(1918年教授に昇進)。
1922(大11)3月 父の和三郎の死亡に伴い家督を相続する。
1923(大12)8月27日 支那文学研究のため帝国学士院在外研究員として北京に留学する。
同年10月2日 北京にて大腸カタルで客死。石濵鐵郎、石濵純太郎、大内兵衛らが香典をよせる。

(5) 石濵 鐵郎 (1870-1932)
1894年に岡田眞の娘イマを娶り、知行、金作、三男、秀雄(以下⑧~⑩)をなす。報知新聞販売部長。→ 岡田眞は新聞発行をめざす自助社の発起人。淡路は報知新聞社の社主となった三木善八を始めとし新聞人を輩出。

(6) 石濵 純太郎(1888-1968)
1908年、東京帝国大学文科大学支那文学科入学、1911年卒業。事績については関係年表参照。

(7) 大内 兵衛 (1888-1980)
岡田家の故郷掃部村に隣接した松帆に生まれる。1909年、東京帝国大学法学士経済學科入学、1913年 7月卒。労農派のマルクス経済学者。東京大学名誉教授、法政大学総長。

(8)石濵 知行 (1895-1950)
鐵郎・イマの長子。1920年、東京帝国大学法学士政治学科卒。ドイツ留学を経て九州帝国大学教授。労農派のマルクス経済学者。1928年三・一五事件で辞職して後は読売新聞論説委員。戦後1946年九州帝大に復帰するも肺病死。

(9)石濵 金作 (1899-1968)
鐵郎・イマの次子。1920年、東京帝国大学英文學科入学、1924年卒。新感覚派の小説家。cf. 川端 康成 (1899-1972)と同年、同学。在学中より川端康成と共に第六次「新思潮」を創刊。

(10)石濵 秀雄 (1906-1962)
鐵郎・イマの四子。1931年、東京帝国大学経済学部経済学科卒。1952年八幡製鐵(株)取締役

(11)藤澤 桓夫 (1904-1989) 
藤澤黄坡の子息。1927年、東京帝国大学文学部国文科入学、1931年卒業。新感覚派でデビュー。

(12)石濵 恒夫 (1923-2004)
東京帝国大学文学部美術史学科。作詞家。安岡章太郎(高知)、三浦朱門(高知)と交友関係。司馬遼太郎(1923-1996)と陸軍戦車学校で同期。

III. 関係年表

1873 (明6) 藤澤南岳、泊園書院を大阪に再興。
1877 (明10) 4月12日、東京大学創設。
1880 (明13) 岡田鴨里死す。
1882 (明15) 東京大学古典講習科設置される。この科はわずか二期の募集の後廃止。
1883 (明16) 岡田文平、東京大学文学部古典講習科乙部へ入学。
1886 (明19) 帝国大学令公布(工部大学校を統合して帝国大学に改組)。
1887 (明20) 岡田文平、文科大学古典講習科漢書課を卒業。8/27石濵純太郎、北区堂島中二丁目に、生誕。
1888 (明21) 石濵豊蔵が東区淡路町二丁目で丸石商会創業。
1894 (明27) 岡田眞の次女イマが石濵鐵郎に嫁す。
1895 (明28) 鐵郎とイマの間に石濵知行生まれる。
1896 (明29) 純太郎の生母なくなる。草柳燕石の孫娘が後母となる。
1897 (明30) 石濵豊蔵、純太郎を泊園書院に入学させる。京都帝国大学の創設。これに伴い、帝国大学を東京帝国大学と改称し、文学部は文化大学(〜1919) と呼ばれる。
1899 (明32) 川端康成、開業医の息子に生まれる。
1900 (明33) 岡田文平死す。
1902 (明35) 純太郎の姉カツが藤澤黄坡(章次郎)に嫁す。
1904 (明37) 専門学校令により関西法律学校が専門学校となる。
1905 (明38) 私立関西大学と改称
1907 (明40) 6月22日、東北帝国大学を設置し、9月1日、札幌農学校を東北帝国大学農科大学に改称。
1908 (明41) 純太郎、東京帝大文化大学支那文学科入学。岡田正之(1864-1927)教授に師事。
1909 (明42) 7月 岡田秀夫(兵庫)、東京帝国大学文科支那文学専修卒業。大内兵衛、東京大学法学士経済科入学。
1911 (明44) 7月 純太郎(大阪)、東京帝大文科支那文学専修卒業。前年父が没し家業を継ぐ。
1913 (大2) 7月大内兵衛、東京大学法学士経済科卒、大蔵官僚に。
1914 (大3) 9月 岡田秀夫、札幌帝国農科大学講師に。
1916 (大5) 12月 岡田秀夫、廣島高等師範學校講師に転ずる。
1917 (大6) 川端康成、石濵金作、ともに一高へ。
1919 (大8) 文化大学、文学部へと改称。大内兵衛、東大経済学部が新設され助教授に迎えられる。
1920 (大9) 川端康成、石濵金作、東京帝大英文科に入学。石濵知行東京帝学法学士政治学科卒。大内兵衛、森戸事件に連座して大学を免官。
1921 (大10) 石濵金作、川端康成(23才)らと第六次『新思潮』を創刊。『文藝春秋』の編集同人に。川端康成、伊藤初代にプロポーズするも、一ヶ月後に破綻。
1922 (大11) 純太郎、大阪外国語学校蒙古語部へ選科委託生として入学。3月 岡田秀夫、父の死に伴い家督を相続。大学令に基づき関西法律大学が旧制大学となる。
1923 (大12) 大内兵衛、復職。10/20 岡田秀夫、北京にて死す。
1924 (大13) 石濵金作、帝大卒業。『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍する。川端康成、初代との破局を描いた『非常』を発表。7/6-翌2/2純太郎、内藤湖南と生涯唯一の外遊。鴛渕一も随員。
1925 (大14) 藤澤桓夫、新感覚派としてデビュー
1926 (大15) 藤澤桓夫、東京帝国大学文学部英文科入学。
1928 (昭3) 石濵知行、三・一五事件で九州大学を辞職。戦後の復職まで読売新聞論説委員となる。
1931 (昭6) 藤澤桓夫、東京帝国大学文学部卒。肺病に罹患し帰阪し、石濵純太郎の家に寄宿する。石濵秀雄、東京帝国大学経済学部卒。
1936 (昭11) 丸石製薬株式会社設立、資本金25万円。川端康成、文化公論社より「文学界」を創刊。のちに、横光利一、藤沢桓夫、里見淳らが同人に加わる。石濵金作、戦後まで創作活動から遠ざかる。
1940 (昭15) 純太郎『富永仲基』創元社。12月 石濵恒夫が川端康成と初対面。
1941 (昭16) 藤澤桓夫、石濵家をモデルにした『新雪』発表。
1942 (昭17) 純太郎『浪華儒林伝』
1943 (昭18) 純太郎『東洋学の話』
1946 (昭21) 石濵知行、九州大学に復職。
1949 (昭24) 純太郎、関西大学文学部史学科教授就任。泊園文庫の寄贈、文学部東洋文学科開設。
1950 (昭25) 石濵金作、文作再開。
1953 (昭28) 純太郎、日本チベット学会初代会長に。
1959 (昭34) 純太郎、関西大学教授を定年、名誉教授に就任。ニコライ・ネフスキーと共に西夏語を研究。
1968 (昭43) 明治百年。川端康成ノーベル文学賞受賞。受賞旅行に石濵恒夫同行。11/21 石濵金作、脳溢血死。
1972 (昭47) 川端康成自殺。

参考史料『岡田秀夫葬儀帳』中「死亡通知先」より抜粋(事績はドラフト)
賀集新九郎 (1871-1942) 淡路鉄道初代社長。
仲野理一郎 (1850-1936) 伊加利村庄屋。三原郡水産組合長。
馬詰秀三 (1909)「羅馬に於ける基督教の先駆」東京大学宗教学研究室
大内宗次郎 大内兵衛の長兄。三原郡主席郡書記。
東京 内田泉之助 (1892-1979) 漢学者。二松学舎名誉教授。
東京市 後藤俊瑞 (1893-1961) 朱子学者。
新潟市 手塚良道(1889-1961) 著書『支那思想史略』(1943)
横浜市 長崎次郎 (1895-1954) 1921 東北帝国大学農科大学卒、新教出版社の初代社長。
東京市 藤井黙恵 『智山學報』(1916)によると、慶應義塾で印度哲学を担当
東京市 佐伯常麿 (1880-1952)。1906年に東京帝国大学文学部国文科卒、東京女子高等師範学校教授。
札幌市 玄地誠輔 予科教授
東京市本郷区駒込千駄木町 岡田正之(1864-1927) 純太郎の指導教授。
東京都 宇野哲人 (1875-1974) 儒学者。東京大学名誉教授。
東京市 服部宇之吉(1867-1939) 東京帝国大学教授。中国哲学者。
松山市 今村完道 松山高校教授
仙台第二高等学校 安藤圓秀 (1885-1948)  
東京市本郷区駒込東片町97 磯江潤 (1866-1897) 白山に京華学園創立。漢学者。
東京市小石川区 賴成一 頼山陽全書の編纂者。
東京 藤岡勝二 (1872-1935) 1897年帝国大学博言学科を卒業。1907年にモンゴル語の調査。
東京 春山作樹 (1876-1935) 東京帝国大学文学部教授。教育学者。
台湾市 武者主計 1920 北海道農芸化学科卒。台湾に渡る。
東京市小石川区 塩谷温 (1878-1962) 東京帝国大学名誉教授。漢学者。
北京 竹田復 (1891-1986) 中国文学者。大東文化大学名誉教授。
東京赤坂丹後町 石濱鐵郎 → II.徳右衞門系・石濵家、関連人物リスト(5)
東京市本郷区駒込千駄木 塚原政次(1871-1946) 東大哲学科広島高等師範学校
東京市小石川区円山町 幣原坦(1870-1953)東大中国史学
大阪市 中目覚 (1874-1959) 言語学者・教育行政官、第二高等中学校、帝国大学文文化大学ドイツ文学科言語学
東京市小石川区小日向 後藤朝太郎(1881-1945)東京大学言語学。
東京市第一高等学校 佐久節 (1882-1961)
大阪府 松山直藏 (1871-1927) 1916 重建懐徳堂初代専任教授。広島高等師範学校
京都市第三高等学校 湯浅廉孫 夏目漱石の愛弟子
大阪市天王寺大阪外国語学校 渡辺良法
右上 斯波六郎 (1894-1959) 広島高等師範学校 漢学
山形 吹田順助 (1883-1963) ドイツ文学者、北海道帝国大学
東京市 高田保馬 (1883-1972) 京大経済学部
熊本 財津愛象 (1885-1931)広島高等師範、懐徳堂の主任教授
東京市 芳野幹一 (1885-1970)成蹊中学教諭。成蹊高校教諭。大正14年(1925)より学習院大学教授。
東京 藤村作 (1875-1953) 1901第五高等学校(熊本)でて東大卒、国文学1922年教授
東京高等師範学校 中村久四郎 (1874-1961) 東大史学科。広島高等師範学校、東京高等師範学校
東京 保科孝一 東京高等師範学校卒、東京第二師範学校赴任。
朝鮮京城高等商業学校 (1922年創立) 古東章
広島市高等師範学校 吉田賢 (1870-1943)

エピソード3:
 また、兵隊に行く時、今、文学館にあるでしょ、日章旗に寄せ書きの。あれをもって川端さんのとこへお訪ねしたんです。
 「ごめんください。石濵です」と言ったら、石濵金作さんとま違うてね、
「金作さーん」と川端さんがパッと出てきてね
「ああ、君ですか」と言ったのを覚えています。
石濵金作さんのご先祖は、淡路島の洲本で、僕とこもそうです。系図みたいなもん残ってませんが、きっとだったらご先祖が一緒で、遠い親戚なんでしょう。そういう親しみもあったんと違いますか(石濵恒夫『川端康成 : その人・その故郷』1974)


●おわりに
・1894年に石濵鐵郎が漢学者岡田鴨里のひ孫岡田イマを娶り、96年に豊蔵が草柳燕石の孫娘を娶り、1902年に、純太郎先生の姉カツが漢学者藤澤黄坡に嫁いでいる。漢学の家との閨閥形成が相似。
・鴨里の養子岡田文平(1887)、その後をついだ岡田秀夫(1909)、石濵純太郎 (1911)、大内兵衛 (1913)、鐵郎・イマの子である石濵知行 (1920)、金作 (1924)、秀雄 (1931)三兄弟、甥の藤澤桓夫(1931)、子息恒夫はこの順番で東京帝国大学を卒業。
・大内兵衛は岡田家の住む掃部村に隣接する松帆村出身であり、純太郎と同年であり、知行の葬儀委員長もつとめていた。また、岡田秀夫と純太郎は四人しか在籍者のいない帝大支那文学科に二年違いで在籍していた。秀夫の葬儀には鐵郎、大内兵衛、純太郎が香典をよせている。→ 関西の関学・文壇につくした純太郎は京大閥のイメージが強いが、純太郎周辺の淡路知識人は東京帝大閥である。
・鐵郎とイマの三子知行、金作、秀雄は大学の教員、小説家、実業家。→ 川端康成と一高より同期で新感覚派の小説家であった金作の存在が、純太郎先生ご一家が関西文壇の一角を形成する一因となった。

●参考文献
石濵金作(1950)「無常迅速――青春修行記」『文藝読物』9(5): 62-85
..............(1950)「青春行状記--人間・菊池寛」『改造文芸』2(5):52-66
石濵恒夫ほか(1974)『川端康成: その人・その故郷』 婦人と暮しの会出版局
「石濱金作年譜」『新覺感派文學集 日本現代文學全集67』講談社: 442-443
石濵裕美子(2016) 「神奈川県立歴史博物館蔵「岡田鴨里関連文書」『史観』175:116-143
茨木市立川端康成文学館 (1989)『川端康成その人と故郷』茨木市教育委員会
東京帝国大学編(1933)『東京帝国大学卒業生氏名録』
東京大学三学部編(1884)『東京大学法理文三学部一覧』丸屋善七
藤沢桓夫(1972-73)『大阪自叙伝』中公文庫
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DATE: 2018/10/17(水)   CATEGORY: 未分類
石濱純太郎先生シンポのプログラム詳細
今月26・27日に行われます、石濱純太郎先生シンポのプログラム詳細がきまりました。
私は某T先生の陰謀によりいつのまにか二日目大トリになってました。
調べれば調べるほど、我が家の家系には個性的な方が多く(もちろん私のパパはクリーンよ)、どこまでしゃべっていいやら困っております。
第58回泊園記念講座プログラム-2

シンポ初日は授業なので大阪につくのは夜八時くらいになると思います。翌日土曜日27日は朝から会場にいます。
明治・大正をかけぬけた強烈な個性についてお聞きになりたい方、おこしくださいませ。

「東西学術研究と文化交渉-石濱純太郎没後50年記念国際シンポジウム」

●日時:2018年10月26日(金) 13:00~17:00
     2018年10月27日(土) 10:00~17:00
●会 場:千里山キャンパス 以文館4階セミナースペース
●聴講無料・事前申込要
●申込・問い合わせ先
 〒564-8680 吹田市山手町3-3-35
 関西大学東西学術研究所内 泊園記念会
 TEL:06-6368-0653(ダイヤルイン) FAX:06-6339-7721 
 E-mail:hakuen@ml.kandai.jp

プログラム
第1日 10/26(金)
13:30~14:30 <石濱純太郎と泊園書院・関西大学
吾妻重二(関西大学文学部教授・泊園記念会会長)
「シンポジウム開催にあたって -石濱純太郎と泊園書院・関西大学」

14:30~15:00<父純太郎の思い出
石濱俊造

15:00~17:00<石濱純太郎とアジア学1

高田時雄(京都大学名誉教授、復旦大学歴史学系特聘教授)「石濱純太郎とアレクセーエフ」
キリル・ソローニン(中国人民大学国学院教授)「早期對西夏佛教的研究:聶歴山與石濵純太郎」(講演言語:中国語)
劉 進宝(浙江大学歴史系教授兼主任)「石濵純太郎的東方学研究」(講演言語:中国語)
池尻陽子(関西大学文学部准教授)「石濵純太郎と関西大学吉田文庫」

第2日 10/27(土)
10:00~11:50<石濱純太郎とアジア学2
中見立夫(東京外国語大学名誉教授)「石濵純太郎のめざした「東洋学」―その学術活動と収書―」
生田美智子(大阪大学名誉教授)「石濵純太郎とロシアの東洋学者たちとの日露文化交渉―ネフスキーを中心に―」
玄 幸子(関西大学外国語学部教授)「内藤湖南との交流に見る石濱純太郎」
内田慶市(関西大学外国語学部教授)「石濵文庫蔵満漢関係文献資料について」

12:50~14:40<石濱純太郎と大阪の学知・文芸
湯浅邦弘(大阪大学文学研究科教授)「石濵純太郎・石濱恒夫と懐徳堂」
堤 一昭(大阪大学文学研究科教授)「大阪大学図書館石濵文庫の調査・研究の現況」
中谷伸生(関西大学文学部教授)「パリ・ソンムラールからの葉書-石濵純太郎宛の小出楢重による便り-」
増田周子(関西大学文学部教授)「石濵純太郎と文学者」

15:00~17:00<石濱純太郎のルーツをめぐって
太田 剛(四国大学文学部教授)「近世末期の淡路における儒学者の系譜-石濱家の学問的環境を探る-」
三宅玉峰(「益習の集い」会長)「淡路島の歴史を探る益習の集いの活動紹介」
田山泰三(英明高等学校教諭)「石濵家と讃岐」
石濱裕美子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)「明治・大正・昭和初期の石濵家 ~漢学・文学・帝大人脈~」←ココ

主催:関西大学東西学術研究所
共催:泊園記念会、KU-ORCAS、大阪府



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