白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
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DATE: 2006/02/07(火)   CATEGORY: 未分類
西武線を体でとめるくらいなら
大して長い間ではないが、教壇にたってから今にいたるまで、ウン年間、
その間さまざまな学生が私の目の前を通り過ぎていった。

学生はいつも二十代前後、あたかも定点観測の杭のようにわたくしはこの流れの中にたってきた。

で、ここ数年気がついたのは、精神的に危機的状況を抱えた学生が激増したということ。

大学内にある無料のカウンセラーは門前市をなし、そこで救えなかった学生は西武線を体で止めると同時に、そのまま人生をとめてしまう。

いわゆる心療内科に通うほどの深刻なものでなくとも、多くの学生は漠然とした不安や人間関係にまつわる悩みを抱えており、少し親しくなった学生はみな一様に生きづらさを訴えてくる。

こんな豊かな時代に育ち、最終学歴が早稲田ならそこそこのところには就職でき、親にもできあいされているのに、彼・彼女たちは精神に危機を抱えているのである。

彼らの姿を見ているとわたしは青年期の釈尊を思ってしまう。

お釈迦様は釈迦族の王子の身分に生まれ、何不自由なく育ち、親に溺愛されて、美しい妻と大勢の女官に囲まれ、これは並の男だったら一生かけて手に入れたいと思うような環境である。にもかかわらず、

釈尊は29才の年に、老人・病人・死人をはじめてみて、人生の本質に気づいちゃう。親が甘やかして汚いものをみせないようにしてきたのがかえって逆効果となり、お釈迦様、いまでいう鬱になってしまいます。それから人生の苦しみについてもんもんと悩みます。

そして、この世の富や名誉は何も自分の苦しみを救うものではない、と気づいたお釈迦様は「出家するんだ~」と、城の東の門から愛馬カンタタにのって飛び出したのでした(わたくしの好きなシーンである)。

そして、お釈迦様は髪を下ろして出家すると、六年の間、自分の体を痛め付ける苦行を行い、六年目にその苦行も今までの快楽生活の極端のまた別の極端であると知って、その苦行を捨て、命をかけた最後の瞑想でいわゆる「悩みのない境地」(サンスクリットでニルヴァーナ漢語で涅槃です)に達したのである。

ここで気をつけていただきたいのは、富や名声や地位が自分を幸せにしないと鬱になるのは、すでにめぐまれた環境にある人がはじめていだく感情だということ。

貧しい家庭に生まれた人は、綺麗な家にすみ、美味しいごはんを食べることだけを目標に人生をおくる。そして、富や名声を手にすることで幸せになれると思う (あくまでも本人意識で幸せということ)。彼らにとって、老いも、病気も、また死ぬようなことがあろうとも、それが自分の目の前にくるまで考えないのであり、ただひたすらがむしゃらに「上を」「No.1を」めざすことで人生を過ごすことができる。この修羅の道では、何か考えているヒマはたぶんない。

しかし、お釈迦様は生まれた頃からすべてをもっていた。そのため物質的な繁栄を追い求める必要はなく、精神の安寧を得るために修行を始めたのだ。

今の学生といえば、長年にわたる平和で安定した社会により、子供には身体の危険はほとんどなく、教育を受けた親は子供にお金と愛情をイギアスの滝のように注ぎ込み、一億総出家前のお釈迦様状態である。しかし、彼らには就職をして社会にでるという現実が待っている。お釈迦様は王様(社会)になる前に、出家することにより、精神の危機をのりこえた。

しかし、現在の日本の社会には古代インドのような出家システムがないので、世界から出て行ってしまう→西武線を体でとめる、ことになってしまうのである。
そこまで深刻でない学生は、何かすがりつけるもの依存できるものを探す。ネットの中の人間関係を拡大することで孤独感をいやしたり、パチスロやゲームにはまったり。

でだ。本題に入りますが、出家前のお釈迦様と現代の悩める学生はかくまで構造的に似ているとすれば、仏教思想によって、このような学生も多少は救われるのではないかと思うのである。

お釈迦様は覚りを開かれた時、苦しみついての四段階の考察である四聖諦をおときになった。

この世は苦しみである(苦)
この苦しみの原因はおのれの心の中にある悪い性質である(集)
この悪い心を滅することで苦しみもなくなる(滅)
悪い心を滅するためには八つの正しい行いをすることである(道)

社会はキタナイし、人間もそして、オノレもキタナイのである。しかし、それをキタナイと思い、責める心はオノレから発しているのである。お釈迦様は、その心を滅したことにより、キタナイ社会やキタナイ人間の心を嫌悪の心で見ることはなくなった。中立の心でもっと高みから見下ろすようになったのである。

悩みがなくなってからの釈尊はみるからに美しく、堂々としており、説法の前にはにっこりするなど、とても幸せそうiに見えたと経典にはのってます。見たわけではありません)。

仏教ってほんとすばらしい。

学生が仏教思想にふれることによって、そこまでいくのは無理にしても、もっとキタナイものをキタナイものとして気にしないくらいの強い精神力をみにつけてもらえるのではないかと思うのである(あくまでも希望的観測だが)。

何かうまくいかないことがあると、人はすぐにアイツ(親・教師・上司)がわるいと自分より強い立場にあるものに責任を転嫁するのであるが、そのようなことをしていても人としての成長は見込めない。批判する相手にとらわれ、そこからぬけだせず、同じ失敗を繰り返していくだけである。根本的な原因、すなわち自分の心をよくしようという行為を放棄しているからである。

しかるに、仏教はオノレの悪い心に原因をもとめる。きわめて論理的ではないか。

仏教ってじつはとってもモダンでハッピーな教えなんですよ。
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