白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/07/21(土)   CATEGORY: 未分類
渡辺和子先生にハマる
ダンナ「あなた最近、どんどん言葉がオジサン化してる。このあたりでとめないと大変なことになるよ」

 と言われて、自分でも、もっともだと思ったので、この夏休み「美しい日本」ならぬ、「美しい日本語を身につける」一人キャンペーンを始めることにした。

 ダンナはの勧めるまままに、聖心女子大学の元学長渡辺和子先生(1927~)の講演録(35000円なり)をとりよせる(正確にいうと、ダンナが勝手に私のカードでネット注文をした)。

 聖心といえばカソリック系のお嬢様大学である。その大学の学長である渡辺先生は神につかえる清浄な生活を半世紀も続けた方である。

 その環境からねりあがった人格と日本語は、おそらく無類の美しさであろう。おそらくは、ワタクシの汚れきった日本語に革命的な転換をもたらしてくれることであろう。

 で、読者の皆様にも35000円のおすそわけをすると、こんなとこ。↓

「暇」を『大言海』という辞書で引いてみますと、「暇」は「日問」で、「日光之差入ルニ就キテ云フ」という解釈がつけられております。締め切ったカーテンの隙間からお日様の光が差し込んでくることがございますが、私たちのびっしりとつまったスケジュールの間に差し込む日の光。そういう隙間が大切なんだということを、この「日間」という字が教えてくれます。

 私はかつて大学の四階にある修道院に住んでいたことがございます。毎日エレペーターで一階の学長室に執務に行き、仕事が終わりますと、またエレベーターで四階に戻ります。ある日気がつくと、私はエレペーターに乗ったとたんに「閉」のボタンを押してから、階数を押しておりました。エレペーターのドアは、「閉」のボタンを押さなくても閉まるものです。好奇心から計ってみますと、閉まるまでにかかる時間は四秒でした。その四秒が待てるか、待てないか。

 私は決心をいたしまして、待てる自分になろうと思いました。エレペーターに乗りまして、階数を押すだけで待っている。するとドアが閉まって、自分の行きたいところに行ってくれる。「なぜ、そんなちょっとした時間にこだわるのですか?」とおっしゃる方もありますが、時間にこだわっているのではなくて、四秒すら待てない自分になること、いつもイライラ、セカセカしている自分になることが怖かったのです。

 そして、その四秒が待てる自分になったとき、人様の話を中断することなく、最後まで聞くことができる自分に少しなれたと思います。また、どなたかに注意をするときに、感情的になるのでなくて、一呼吸おいてご注意申し上げる自分に、少しずつ変わっていったような気がいたします。つまり、私にとっての「日間」を作ってくれたのが、エレペーターの中の四秒だったのです。少なくとも私は時間の奴隷とならないで、四秒問を私の意志で待つことができたのです。


 ううーむ。上品だ。
 
「その四秒が待てる自分になったとき、人様の話を中断することなく、最後まで聞くことができる自分に少しなれたと思います。また、どなたかに注意をするときに、感情的になるのでなくて、一呼吸おいてご注意申し上げる自分に、少しずつ変わっていったような気がいたします。」

 の部分、私だったら、

「四秒が待てるようになると、他人がアホなことをウダウダ言っていても、それを頭から否定せず、とりあえずはガマンして最後まで聞いて、一呼吸おいてから論理的に批判できるようになった。まあ、徐々にではあるけど、少しは人格が丸くなってきたかな」

とかいうところだ。

 最初のマクラの「暇」の語源などを引いている部分は、内容的には、結婚式に招かれた上司のオヤジのスピーチネタとかわらない。しかし、渡辺先生の人徳と美しい日本語にかかると、「効率重視では心を失う。暇を大切にしよう」という内容が無類の説得力をもって聞く者に響いてくる。

 一夏iPodでこの講演をききまくれば、わたくしの日本語では夏休みが終わった頃には大幅にカイゼンをみることであろう。しかし、

予定は未定にして決定にあらず。

 何より、その内容のあまりの清らかさから、聞き疲れして長時間きくことができない。CD果たして最後まで聞き終わることができるのか。

 ところで、渡辺先生の話を聞いていて意外だったのは、仏教や儒教の聖典からの引用があったり、自分のみのまわりにいる世俗の人の体験談などが自在に素材に使われていて、聖書やイエス様の話とかの引用が予想外に少ないことであった(そういう部分ばかりを集めた講演録なのかもしれないけど)。

 まあ、しかしそれも、渡辺先生が、聖書のよき教えを日常の中でいかにして実践するかを人々に伝えることに長けているゆえであろう。

 たとえば、仏典や聖典にでてくる言葉をそのまま使い、テニヲハ以外はすべて漢字、なんて講演をするご住職は、仏教を人に理解させるという意味では巧者とは言えないだろう。

 のぞましい説者とは、仏様の教えを正しく理解した上でそれをどのように日常の中で実践していくかを人に示せることができる人である(たとえばダライラマ猊下みたいにね)。

 この場合、重要なのは「仏教を正しく理解して」の部分である。よく、膨大な仏典の中から思いつきだけで一文をきりとって、それを自らの勝手な思いこみで解釈して、それを俗なたとえ話で人に伝えようとする人がいるが、これは論外。

 こんな法話聞くくらいだったら、中村元先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)とか初期仏教の原典読んだ方が百倍まし。
[ TB*0 | CO*3 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する
● 美しい日本語
モモ@大東 | URL | 2007/07/23(月) 11:25 [EDIT]
関西弁ではどうも無理ですね。
方言というのは大事なものだし、
京言葉には美しさは感じますが・・・
せめて丁寧な言葉遣いを会得したいものです。

イシハマ | URL | 2007/07/25(水) 21:08 [EDIT]
>関西弁ではどうも無理
どんな言葉でもたしかに「丁寧に」しゃべれば、上品まではいかなくとも、少なくとも「汚く」はないと思います。ただ、単語自体が乱暴な方言はどうしゃべろうが仕方ないですね。

モモ@大東 | URL | 2007/07/27(金) 03:38 [EDIT]
私は関東生まれなのでたまに関東訛りがでるのですが、
夫から特に「あなたは・・・」「あなたの・・・」という言葉遣いが
激しく冷たくあしらわれている気がすると申しておりました。
関西弁の良さは「人柄」によるところが
多いのではないでしょうか。でも河内弁はさすがに・・・

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ