白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/02/27(月)   CATEGORY: 未分類
智にはたらけば角が立たずに世界平和
 自慢じゃないが、わたしはこのぶろぐをじつに気ままに書いている。
 だいたいは何も見ずにそらで書きなぐり、文の見直しもしない。

 そう、書きっぱなし。

 だから、誤字あり、脱字あり、思い違いで内容の誤りもあるだろう。

 恥もかきっぱなし。
 
 でも、それについて恥じる点は何もない(威張っていうこともないが)。
 
 わたしは「こんなことも知らないのか」と言われることに何の屈辱も感じない。

 だって、それは知識(knowledge)の問題であり、智慧(wisdom)の問題ではないから。

 よく混同されるが、知識と智慧はまったく別ものである。

 「いろいろなことを知っている」ことが「知識がある」ということである。

 知識をツールとして使えば、自分の身を助けることもあるだろうし、人の役に立つこともあろう。
 いいところに就職できることもあるだろう。

 しかし、博引旁証・博覧強記をいくら積み重ねても、その量的な積み重ねから知性は生まれない。

 一方、「事物(森羅万象天地人)の本質を見透かす高度な知性」が「智慧がある」ことである。

 よく知られているが、哲学(ふぃろそふぃあ)の語源は「智を愛すること」を意味する。

 この場合の智も単なる知識ではない。
 仏教でいう智慧も単なる知識ではない。

 おのが心の中にある悪い性質を克服して、闇から光に向かった目覚めた意識を智慧という。

 チベット仏教のゲルク派によると「すべての物事は関係性の中にあり、実体なるものをいくら探してもみつからない」ことこれを実現した意識である(ちなみにこれも調べて書いてません)。

 だから、智慧者とは聖者である。
 
 大学でてても、博士でも、物盗りもとい、物知りでも、智慧者でない人はいるが、
 大学出てなくても、極端な話字が読めなくても、智慧者はありえるのである。
 
 人として生まれたからには、いつかはこの「自分」「自分」という卑しい煩悩を克服して、少しでも智慧者に近づきたいもの。

 知識ある人よりも、智慧ある人と言われるのが仏教徒の夢。

 と、こうはいってみたものの、たとえ「知識」レヴェルであれ、目に余るマチガイはやはり恥ずかしい。

 なので、マチガイをご指摘いただけるのはとてもありがたい。
 これからもよろしく御願いします(なにをだ)。
[ TB*0 | CO*2 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する

emichan | URL | 2006/02/28(火) 17:44 [EDIT]
ラサで仏画を見てたらお店のおじちゃんに「これ文殊菩薩ね、智慧の仏様ね~」と、こなれた日本語で話しかけられた。
「智慧」の足らない私のもとに、はるばるチベットからおこしになった仏様は、煩悩を断ち切るべく剣をふりあげておいでになるが、なにぶん私の煩悩は太すぎて今だ断ち切れておりません。(涙)
● 三人よれば文殊の智慧(には及ばない)
石濱裕美子 | URL | 2006/02/28(火) 21:38 [EDIT]
>emichanさん
文殊菩薩は確かに智慧の菩薩さまです。
その手にもつ剣と経典は知性によってものごとを断じることを、象徴しているといわれています。
たぶん今お手元にあるタンカはアラパチャナ文殊だと思われます。
わたしも108人の煩悩戦士とともに毎日生きておりますです。

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ