白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2009/11/02(月)   CATEGORY: 未分類
猊下の法話「覚りに至る道」
例によってぎりぎりに国技館につく。法王事務所から送られてきた切符をはじめてまじまじとみるが、A列32、Aということは最前列か。たしか去年は正面席ではあったが、二列目であった。みな着席している前を中腰で移動すると在日チベット人の方達が多い。で、いきすぎたらしく、もう一度もどって自分の席を発見してびっくり。

 左手は通路だが右手は●野聖修先生。うわ。●野先生の右隣は龍村監督。こゆい。

 猊下がどこにおかけになるのかは舞台の花でよく見えない。猊下が入場して着席されると、猊下わたしのほぼ目の前の壇上。中央は通路なので、その通路の猊下からみて左側の最前列に自分がいるわけ。

 し・か・も、猊下はお話になる際に若干左側に顔をむけて話されたため(たぶん通訳の方の方に無意識に向かわれるため)、ほぼ常に自分の方をむいて法話をしてくださっているように見える。

 ちなみに自分は妄想癖があるわけでもなく、単純に客観的な事実を語っているのである。猊下の顔はこちらに向いているが視線はもっと遠い何かを見ていらっしゃるし。

 で、こんなベストポジションにいたので、内容を逐一記録してみなさんにお伝えせねばと気合いをいれてノートとりまくった。で、以下にそれを公開(ただし、手書きのノートなので、完璧ではない。もし内容が間違っていてもそれは自分の聞き間違えであり、猊下とは無関係なことをここにお断りしておきます)。
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 中央にかかっているタンカ(仏画)は釈迦とむかって右に龍樹、左にアサンガ。
 猊下「みなさん般若心経読んでください。」と。韓国からきたグループがチベット語で読みはじめたので、日本勢が中国語の書き下し般若心経をなんとなく気後れして読めない。 

 で、般若心経の最後の一文「ガテー、ガテー、パラサンガテー」は「ゆけゆけ覚りの境地へ」という意味だといい、
 五道(資糧道、加行道、見道、修道、無学道=仏陀の境地)の説明をし、種を花にそだてていくように菩薩の十地、修道の智慧を育て、空を直接知覚する智慧をそだてなさいという。

 覚りにいたる三つの要因 (ラムツォナムスム)とは、1.「出離の心」、2.「菩提心」、3.「空性を理解する智慧」である。

 そのうち、最初の「出離の心」は煩悩障(煩悩という障害)をとってくれる。
 最後の「空を直接知覚する意識」、すなわち「智慧」には、二つ目の要因である「菩提心」が大事である。
 その「菩提心」、すなわち他人を救う様々な手段を基礎にして、三つ目の要因「空を直接知覚する意識」が所知障(一切知に対する障害)を滅ぼし、完全なる仏となることができる(正等覚)。

 まず、一般論からはじめましょう。苦しみは私たち自身が作り出しているものです。日本は物質的には発展してるけど、苦しみに出会うと無知と煩悩(怒り・執着)にまどわされて、さらに自分を苦しめている。

 英文わかる人はいるか? ああすごく少ないな。わたしもチベット語の方がらくだ。

 煩悩には怒りと執着などがある。これは五大(肉体を構成する諸要素)をみだし健康を損なう。免疫能力もさがる。宗教のある人、ない人に関わらず、みな幸せを求めている。みなが心の平安を望んでいる。しかし、幸せは快楽からは得られない。アメリカやカナダで心の平和についての研究が行われ、強欲、嫉妬、怒り、不安を少なくすると心が平安になるという。なので、その平安になるための原因をふやしていけばいい。それは概念にたよってできるものではない。
 心の平安は自分と他人の間に線引きをしている間は見つけることはできない。他人を遠く感じるから、嫉妬や怒りがある。他人を自分と近いものと思えば怒りも不安もない。慈悲によってなくすのだ。
 自分、自分、と自分を主張して生きてきたことが、自分に苦しみをもたらしてきたのではないか。誰もがみな幸せをもとめ、不幸をのぞんでいない。みな同じなのだ。

 さまざまな宗教があるがそれはみな人の心には愛や慈悲を育む可能性があることを示している。
 宗教がなくても、〔親が子を愛するような〕世俗的な愛情だってそれが大切なことは広く知られている。愛情がある家庭で育つとその子は安定した情緒をもち幸せになれる。
 アメリカの研究者が毎日二~三時間の瞑想をして、注意深さや愛や慈悲について瞑想すると血圧やストレスが下がるといっている。ポールイクランという研究者だ。

●世俗的な倫理観 アメリカやカナダで科学者と対話してきたが、近代的な教育システムの中でも、幼い頃から全ての人に心の平安をえるためには他人を愛すべきことを教えた方がいい。日本の若い人も自殺が多いというではないか。知識や教養を教えるだけでは足りないんだよ。

●仏教の倫理観  
(1) 私(エゴ)とは何であるか
(2) 私に始まりはあるか
(3) 私に終わりはあるか。

 まず、(1)である。私とは何であろうか。心であろうか。心といっても粗いレベルと微細なレベルがある。仏教以外の宗教は「心と体の所有者」である単一かつ永遠不変なものを「私」だという。たとえばキリスト教だと魂(soul)、バラモン教だとアートマンだ。
 しかし、仏教だと「私はない」(無我)。心と精神の集合体(五蘊)しかないと考える。
 『般若心経』では「五蘊もみな空」(無自性=それ自体の力でなりたっていない)というだろう。「私」とはただ五蘊のあつまりに名前を付けただけのものなのだ。

 (2) 私に始まりはあるか。キリスト教などの宗教では造物主たる神が人をつくったので始まりはある。(つまり始まりはあると考える)。
 しかし、仏教では「私」はそうは考えない。ある意識の前にはその意識の原因となる意識があり、その意識の前にもその前の前にも意識があるわけであり、無から有が生まれるわけはないので、始まりはない。意識の流れに私という名前をつけただけのものである。

 (3) 「私」に終わりはあるか
 神のある宗教では魂は終わりに地獄や極楽に行くという。
 仏教の説一切有部では五蘊がとぎれて涅槃にいくという(つまり私が終わるといっている)しかし、〔ダライ・ラマの則っている仏教の中観帰謬論証派の学説によると〕私には終わりはない。〔覚りを開いて〕涅槃になると、苦しみはなくなるが、私がなくなるわけではない。龍樹は『六十頌如理論』で「私には終わりはない」と説いている。(なぜなら、私はそもそも実体的に存在しているわけではないので、どこかで無くなるということもないのである。)

 以上をまとめると、
(1) 私は何であるか → 体と心の集まりに私という名前をつけただけのもの。つまりない。
(2) 私に始まりはあるか → 始まりはない
(3)  私に終わりはあるか。 → 終わりもない

15:35分からやっとテクストの話になる。
はいテクストを手にして。
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【序】 
ここで著者のツォンカパが約束と決意を示している。
著者のツォンカパ・ロサンタクペーペルはカダム派からゲルク派をつくり、顕教の後、密教も学び、サキャ、カギュ、あらゆる宗派の伝統を受け継いでいる。

(1)【出離の心を起こす】
★この苦しみから離れたいと思いなさい。今生に対する執着、来世に対する執着をなくし、輪廻からでようとしなさい。
★開かれた心で対象を調べること。アーリヤデーヴァは『四百論』の中で、「自分の学派の教えだけでなく、他にも心を開け」といっている。現実に即したものの考え方をし、知性をもって偏見のない心で分析しなさい。
★釈尊は金を焼いたりこすったりしてその真贋を確かめるように、仏の教えも知性によって吟味すべしといっている。懐疑的であれ。正しい分析を行い、疑惑を晴らしていけ。

(2) 【菩提心を起こす】
★利他の心を起こすためには(1) 自他を入れ替える瞑想 (2) 因果に関する七つの口伝がある。
★出離の心→菩提心という展開は、まず最初は自分の安楽を求めて、輪廻が苦しみであることを認識し、そこから逃れたいという気持ちを起こすけれども、そうすると、他人も同じ苦しみを味わっていることを知り、他人を救うために覚りを求めるようとする心をおこすのである。

(3)【空を直接知覚する意識に対する正しい理解】
★龍樹は『中論』で「すべては仮説(仮構)」といっている。あらゆるものは依存しながら、存在しているように見えている(縁起)が故に、実体がない(空)。私を捜しても名実の名の方しかない。

★覚りをジャマするのは煩悩障と所知障の二つの障りである。われわれの意識には、主客の二元論的な姿が現れている。それが実体的に存在しているかのように把握するのが、我執、すなわち対象を実体であると捉える思い込みである。対象を実体的に存在していると把握している意識、あるいはそのように思わせているものが無明(=煩悩障)である。煩悩は出離の心によって消すことができ、そうすれば物事に実体はないと思えるようになるが、所知障(二元論的戯論)は残っているので、世界はまだ主観・客観という二つに分かれて現れている。これは世界を二元論的に見てきたこれまでの経験によって意識の中に植え付けられた「煩悩の遺したもの」(習気)があるからである。これか所知障である。つまり、仏の智慧を得ることをジャマするものである。

★その所知障は「その反対のもの」(対治)である「空を直接知覚した意識=智慧」によって消すことができる。

★「真実(=諦)」には以下の二つの側面がある(二諦)。
(1)世俗の真実(世俗諦) とは、ものごとは依存関係によって、そこに存在しているように見えている(縁起)。般若心経でいえば空即是色(実体はないけど、存在するものとして現れている)の部分。
(2) 究極の真実(勝義諦)とは、「あらゆるものには、それ自身で存在しているような実体や本質は存在しない(空)」ということ。般若心経で言えば色即是空(存在していても、本当のところは実体がない)の部分である。

このように全てのものが、現れに過ぎない、と知ることで実在論を否定し
本当の空性は何もないことではなく、縁起している存在であると知ることで虚無論を否定することができる。

つまり、虚無論・実在論という二つの極端を排するために、すべての存在は、空(くう)でありながら、同時に原因と結果に依存して存在しているものであると知れ。

 以上の教えを論理的に考察し、この空の思想を吟味して、心をこの空になじむように訓練していくがいい。(2009年10月31日 両国国技館 ダライラマ法王講演)。
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COMMENT

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あくび母 | URL | 2009/11/02(月) 17:36 [EDIT]
ありがとうございます とぎれとぎれのお話が、やっとつながりました
つながったからといってこの愚鈍な頭が論理的に理解できたわけではないんですが(笑)
狭い狭い視野と心を広げる努力はしていこうと思っています
合掌
● ありがとうございます!
mimaco | URL | 2009/11/03(火) 00:21 [EDIT]
先生、ありがとうございます!
私も会場に足を運び、一生懸命お言葉に耳を傾けていたつもりなのですが、つい「あ、猊下今~なさった」とか「あそこの席の人沈没したな(枡最前列だったので、アリーナの方の様子がよく見えすぎて・・・)」とか、余計なことに意識を奪われその度に「ハッ!!さっきまでの話の流れ何だっけ??」の繰り返しでした。情けない。
先生の記録読ませて頂いて全体のお話を再確認できました。
隣に座り合わせた方は四国と沖縄のチケットが手に入らず、九州からいらしたとのことでした。東京は31日も1日も空き席が多かったですね。


Penba Yakdu | URL | 2009/11/03(火) 12:29 [EDIT]
猊下に見つめられながらの法話、なんて羨ましいことでしょう。
残念ながら法話には行けませんでした。凡人にはどうせ理解できなかっただろうと自分を慰めていましたから、このリポートなんとも有難いテクストです。
じっくり勉強させていただきます。

1日の講演には行きました。解りやすくて良いお話でした。
この光景はチベットの友人達には望んでも叶わないことを思うと、友人達を代表してここにいるんだと思えてきてテンション上がりっぱなしでした。

シラユキ | URL | 2009/11/06(金) 16:29 [EDIT]
>あくび母さま
おいしいパンケーキとワインとストールetcありがとうございました。いや簡単ですよ。意外に。一言でいえば、あるように見えていることは肯定しているけど、永遠不変の本質のようなものはない、といっているのです。

>mimacoさん
わたしも最前列で子供がうろうろしたり、寝ていたりする人がいると、つい「得難き人の身をえて、得難き師がいて、で、そんな幸せな環境にあって、寝るな!!!」とかつい思いつつ、いかんいかんと自重しておりました(笑)。

>Penbaさん
出雲の灌頂は残念でした。猊下は私なぞ見つめてませんてば。猊下の視線はどこか遠くをみていらっしゃいました。

manuel | URL | 2009/11/07(土) 21:46 [EDIT]
ワタクシは今年の講演もお預けでした…ここ数年毎年来日されてるのでいつか法皇様のお話を直に聞ける時が来ると信じたいです。
「菩提心を起こす」事については今までうまく良く解らなかったんですが(3)のおかげでスッキリしました。ありがとうございます。

げへ | URL | 2009/11/08(日) 23:02 [EDIT]
ああ・・・聞き逃したことが陳列されております・・・。
一応メモは取っていたのですが、
メモを取りつつ顔を上げると、モニターにタブレットを食べる
法王様が大写しになっていてビックリ、とかそんな幸せなひと時でした。
アリーナでは無かったのですが、モニターでアップを
写して頂いて、より近くに感じながらお話拝聴いたしました。

日本人が仏教的な話を求めていると感じられたのは、
物質的豊かさを得て、心の豊かさを探るのに
日本人には仏教が適していると思われたのでしょうか?
般若心経から言葉を選んでお話下さって、読んだり聴いたりする時に
その都度思い出せるようで嬉しいです。

シラユキ | URL | 2009/11/09(月) 11:58 [EDIT]
>manuelさん
私も毎年拝聴しに伺っているわけではありません。猊下のお話はいまや書籍やDVDなどいろいろな形で接することができますから、ダイジョブですよ。また直接お会いてぎる時の感動も一入になるし。

>ゲヘさん
あの講話の途中で何かを口にされたのが薬かと思って心配で、平岡さんに「猊下にお体のことをうかがって」とお願いしたところ、平岡さんから「猊下はバリバリに元気」とのことでした。

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