白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2009/12/20(日)   CATEGORY: 未分類
人と人をつなぐ見えない糸
 木曜日はわがゼミの「冬至のお祭り」であった。闇の中から光が力をとりもどしはじめるこのよき日を祝って、わがゼミでは500円以内のプレゼント交換を行う(笑)。

 ちなみに、500円というのは買いに行く場合の目安で、家の中にある不要品をもってくる場合は実勢価格は500円をこす場合もある。

 プレゼント交換は一種の籤で、みんなが提出したプレゼントにポストイットで番号つけて、もう一方で番号札ひいてあたった番号のプレゼントを自分のものとする。自分のものがあたったりする場合もあって、システムは万全ではないが、この方法が一番楽なので、なんとなく毎年こうしている。

 で、いつもながら不思議に思うのだけど、誰の買ったものが誰にあたるのか、というのを見ていると、やはりそのプレゼントを交換したもの同士にはすべてにあてはまるわけではないけど、やはり見えない糸がつながっているように見える。

 たとえば、去年自分が準備したジブリ・カレンダーはMにあたったが、Mはこのブログでもたびたび肴にしてきたチベット史を勉強するために大学院にあがってくるあのMである。もうずいぶんチベット語が読めるようになっている。

そして、今年私の準備した教会型キャンドルをうけとったのは三年生のKSクン。この子は読書サークルに入っていて非常によくものを考える子なので、思わず「大学院にはいって私のチベット学をつがない?」とリクルートしちゃったよ。

 で、三年生にWさんという女の子がいて、この子が神。みなが相当できあがってきたところで、トナカイの耳をつけてウクレレを抱えて登場し、クリスマス・ソングを奏でてくれた。この二週間ウクレレの特訓をしていたという。だから学校にきていなかったのか(笑)。

 で、彼女の準備したプレゼントである。最初彼女はヤフオクで99cmのワニの剥製を500円で競り落とそうとしていた。しかし、私が生き物の殺生を嫌うのを忖度して賢明にも辞退。つか、落札したらワニの剥製を会場にまでもってきたのだろうか。で、代わりに彼女が落札したのは、チベットが独立国であった時代のチベット政府のコイン。560円だったという(とほほ)。

 彼女のプレゼントは三年生のKYクンにあたり、私は思わず彼も大学院に「きっとチベットに縁があるのよ。大学院はいんない?」と誘った。しかし、二人ともこの不景気の折り、親にあまり負担をかけたくないと、大学院進学には興味を示さず。しかし、私は諦めない。

 絶対君たちはチベットと縁がある
 こうなるともう洗脳だな。(笑)

 で、Mがこの独立時代のコインに書いてあるチベット文字をガンデン・ポタン(ダライラマ政権の美称)と解読するのを見て、結構感動した。Mは一年前はチベット語のチの字も読めなかったのである。

 それに、トホホなプレゼントがあたってしまった人のために、私が準備していたチベット・グッズはとぶようにもっていかれる。そこいらの早大生なら何だかよくわからないだろうこれらのチベット・グッズをじゃんけんまでして奪い合う姿をみて、さらに感慨にふける。

 ダライ・ラマの慈悲にまもられてみな幸せな生涯を送るのだよ。

体をはったWちゃんのウクレレ、ファイナル・ファンタシーの発売日にいやいやきてくれたK太、毎年毎年幹事をおしつけられているM子ちゃん、わがゼミはみなむだにキャラがたっている。

そして土曜日は本年最後の〔ボランティア〕講演「モンゴル人を魅了したチベット仏教」を護国寺様で行う。
カーラルーパの生起法をやっていったせいか、客層の質が高かったからか、問題なく終了。めでたし、めでたし。昨日の講演のレジュメは家をでる五秒前まで作成中であったため、ややミスタイプがおおく、ちょっち恥ずかしかったので、あらためて以下にはっときます(まだあるかもしれませんが)。

【チベット仏教とモンゴル人】          
 bTibet09 091219

1. ダライ・ラマ三世のモンゴル布教

 14世紀にツォンカパ(tsong kha pa; 1357-1419)によって開かれたゲルク派は、顕教・戒律の重視、大僧院主義などを特徴とし、その勢力は各地域に拡大していった。このような中で、ラサに建つセラ・デプン・ガンデンの三大僧院(ser 'bras dge)とシガツェにたつタシルンポ大僧院の四大僧院は、新しく地方に建立されていく寺々の本山の役割を果たし千人規模の偉容を呈した。

 16世紀、デプン大僧院の転生僧であったソナムギャムツォ(1543-1588)は、東チベット(カム)、東北チベット(アムド)、ジャン(雲南)に積極的に進出し、1573年にはアムドのチャプチャルにおいて、モンゴルのトゥメト部の王侯アルタン=ハーン(1507-1582)と会合した。アルタンがこの時ソナムギャムツォに奉呈したいわゆる「ダライ・ラマ」号(ダライはモンゴル語で「海」を意味し、ソナムギャムツォの名前の後半である海を意味するギャムツォを訳したもの)は、その後ソナムギャムツォの転生者を指し示す国際称号となった。「ダライ・ラマ号の誕生」である。

 アルタン=ハーンとその子孫たちが、南モンゴルにラサのチョカン(大召寺)やガンデン大僧院をまねた寺をたて、そのまわりにはやがて門前町が形成され、それが現在の内蒙古自治区の区都フフホトの前身となった。このように遊牧民の世界であったモンゴルの地に町が形成される契機はチベット僧院の設立であった。

 ダライ・ラマ三世の東北チベット進出を契機に、この地域にはゲルク派の寺が数多く建ち、ダライ・ラマを後援するためにこの地に移住してきたモンゴル人たちの後援を受けてこれらの寺は大きく発展した。1698年にダライ・ラマ五世の摂政が著した『ゲルク派史』(bai durya ser po)によると、当時下アムド(青海湖周辺)には29のゲルク派の僧院があり、このうち、クンブム(1300名)、グンルン(1500名)、ガンデンダムチューリン(1300名)の三僧院の規模は中央チベットの三大僧院と比肩するものであった。『ゲルク派史』はこれらアムドの三大僧院はいずれもデプン大僧院のゴマン学堂(sgo mang)を本山と仰いでいたことを記録している。

2. ダライ・ラマ政権の確立とモンゴル人・満洲人の大施主の座をめぐる争い

 1642年、西モンゴルに遊牧地をもつホショト部のグシ=ハーンが、ゲルク派の支援者となり、ゲルク派の政敵カルマ・カギュ派の王を倒してチベットを統一した。グシ=ハーンはアショーカ王やフビライ・ハーン(1215-1294)などの過去の聖王たちにならい、征服したチベットをゲルク派に献上した。ゲルク派のスター僧であったダライ・ラマ五世はチベットの守護尊・観音菩薩が太古の昔にチベットに降臨したと言われるマルポリの丘の上に宮殿(ポタラ宮)を築き、自らを観音の化身としてチベットに君臨した。壮麗な宮殿に住み、チベットの歴史神話と同化することは、ダライ・ラマ政権が、軍事力をもつモンゴル人や他宗派の僧侶たちを牽制する効果を生んだ。

 17世紀に東アジアで最強の民族の座はモンゴル人から満洲人に移っていた。満洲人はもともとモンゴル人を介してチベット仏教に触れていたため、1637年に二代目清朝皇帝ホンタイジ(1592-1643)がチンギス=ハーンの弟の末裔であるホルチン部を配下にいれると、それを記念して当時の首都ムクデン(現瀋陽)にチベット寺を建て、モンゴル帝国の最盛期のハーンのラマであったパクパの鋳造した仏像(マハーカーラ尊)を祀った。これは、「チベット仏教を振興したモンゴル帝国を継承する」と宣言することによって、歴史のない満洲人の国家に権威つけをし、さらには中国を征服・支配する上で、モンゴル人を同盟者にする効果を生んだ。

 1643年に満洲人が中国を征服すると、その宮廷においては、満洲語、モンゴル語、漢語が乱舞し、チベット語・モンゴル語を自由に操ることができるアムド出身のモンゴル僧たちが宮廷で大活躍することとなった。17世紀のゴマン学堂の座主は、歴代、モンゴルでおきる戦争の調停、モンゴル布教などにあたり、みな歴史的な名を残している。グンルン大僧院を本拠とする歴代チャンキャもチャンキャ二世は康煕帝のラマ、三世(1717-1786)は乾隆帝(1711-1799)のラマをつとめており、チベットのダライ・ラマ政権とモンゴル王侯と満洲の間にたって、チベット仏教世界の安定化に貢献した。

 モンゴル本土においてはトシェート・ハーンの弟ジニャーナバジラが17世紀の中葉、チベットのタシルンポ大僧院に留学した。彼の転生者はジェブツゥンダムパの称号をもって知られることとなり、モンゴルのダライ・ラマともいうべき権威ある転生僧へと成長する。ジニャーナバジラはチベットから造仏・造寺の工人をひきいてチベットから帰国し、トゥーラ河のほとりにガンデン大僧院のモンゴル版ガンデン寺をたてた。このガンデン大僧院のまわりに形成された町が現在のモンゴルの首都ウラーン・バートルである。

 このように、歴代ダライ・ラマ政権はモンゴル人留学生を積極的に受け入れ、彼らが留学を終えた後には故郷に帰し、チベット仏教文化の扶植を行わせた。そのため、ハルハ、ジュンガル、トルグート、ブリヤートなどのモンゴル系の人々は次々とゲルク派へと帰依し、モンゴルにはゲルク派の僧院が数多く建立されていった。

 17世紀後半から18世紀初頭にかけて、北アジアでは何度もモンゴル人同士、あるいはモンゴル人と満洲人の間で戦争がおきるが、皮肉なことに紛争を起こした両サイドはともに「ダライ・ラマのため」という名分を掲げていた。たとえば1686年のハルハ部とジュンガル部のガルダンとの紛争の場合は「ジェブツゥンダムパ一世がダライ・ラマの使者(元ゴマン学堂長)と同じ高さの席についたのは、ダライ・ラマに対する不敬である」と主張するガルダンがトシェート・ハーンとジェブツゥンダムパ一世を襲って始まった。後二者は支配する民をひきいて清朝へと亡命したため、戦争はやがてガルダンと満洲人(清朝)間へと発展した。満洲側は「ダライ・ラマの教えに従えば、戦争は起こさないはずだ」と応酬した。

 1705年にジュンガルがチベット本土に侵攻した事件は、清朝がたてたダライ・ラマ六世に異議を申し立てたグシ・ハーンの子孫とジュンガルが同盟を結んで行ったものであった。彼らは「偽のダライ・ラマを廃し、正統なダライラマ(ダライ・ラマ七世)を即位させる」ことを旗印としており、そのジュンガルをラサから追い払った清朝も「ダライ・ラマを即位させる」ことを旗印に掲げた。

 1720年、清朝が自らが擁立したダライ・ラマ六世を見捨てて、ダライ・ラマ七世を奉じてチベットに侵攻したことを境に、ダライ・ラマの大施主の座はモンゴル人から満洲人へと移行する。しかし、清朝一代を通じて満洲皇帝はチベットに派遣する大臣(アンバン)は家柄のいいモンゴル貴族をあて、内廷から送るラマもアムド出身の僧にするなど、モンゴル人とチベットとの間に存在する歴史的関係に一定の配慮をみせた。

 パンチェンラマ四世は1780年に乾隆帝をインド、チベット、モンゴルにおいて仏教王権を形成した聖王たちの転生者と位置づける転生譜('khrungs rabs)を作成し、満洲王権をチベット仏教世界の歴史へととりこんでいった。乾隆帝のラマであったチャンキャ三世はそれに先立つ三十年前に同じくパンチェンラマ四世によって、パクパの転生者と認定されており、清朝宮廷においてパクパの故事にちなんだ様々な仏教興隆事業に邁進した。
 こうして、17世紀から19世紀前半にかけて、チベット仏教はモンゴル人、満洲人を施主として富み栄えたのである。

3. アメリカにおけるモンゴル系ラマたちの活躍(ゲシェ・ワンゲル)

 19世紀後半になると、もはや満洲人・モンゴル人の軍事力は世界最強のものではなくなっていた。ロシア、そしてモンゴルは次々と社会主義革命の嵐に飲まれていき、1949年に中国に社会主義政権が成立したことによって、チベット本土をのぞきチベット仏教世界のほぼ全域が社会主義政権に覆われた。そして、これらの地域に建つチベットの僧院は社会主義政権によって徹底的に破壊されたのである。

 そのため、ソ連の支配下におちたカルムキアやブリヤートなどのモンゴル系のラマたちは、いちはやく外の世界に亡命し、チベット仏教が西洋へ伝播する先導役を果たした。

 この中からカルムキアの僧ゲシェ・ワンゲルの事績をとりあげてみよう。ゲシェ・ワンゲル(1901-1983)はブリヤート僧ガワンドルジェ(通称ドルジエフ1854-1938)の命により、1922年にデプン大僧院のゴマン学堂に入学し、学業を修めた。そのあと、故郷カルムキアに戻ろうとしたものの、ロシアでおきた社会主義革命により帰国を断念し、北京でチャールズ・ベル(1870-1945 当時のシッキム、ブータン、チベット担当のイギリス人士官。ダライ・ラマ13世との交友で名高い) の通訳をつとめていた。そして1950年に、中国軍のチベット占領を受けて、ゲシェ・ワンゲルはインドに亡命した。

 第二次世界大戦の期間、スターリンの迫害を受けたカルムキア人たちはソ連と対立するドイツ軍についたため、これらの人々はドイツの降伏後ソ連の弾圧を受けることを怖れて、アメリカのニュージャージーに移り住んだ。ゲシェ・ワンゲルは1955年にこのニュージャーのカルムキア社会に招かれてアメリカに渡る。

 ゲシェ・ワンゲルはたちまちニューヨークやボストンの若者たちの心をつかみ、ゲシェ・ワンゲルのもとには毎週日曜日50名以上の白人の若者たちが「随喜の表情を浮かべて」集った。このような青年たちの中に、ハーバート大学の学生であったロバート・サーマン(1941-)とジェフリー・ホプキンス(1940-)がいた。1964年、ロバート・サーマンはゲシェ・ワンゲルにつれられて29才のダライ・ラマの元に赴き、チベット仏教僧として出家した。やがてサーマンは仏教僧としての生活をやめ還俗してハーバート大学に戻り学位をとり、コロンビア大学において中観哲学を教える教授となった。1987年にはリチャード・ギア、フィリップ・グラスとともにニューヨークにチベット・ハウスを設立し、変わることなくチベット仏教文化の維持に励んでいる。

 一方のジェフリー・ホプキンスもウィスコンシン大学において学位をとり、ヴァージニア大学で教鞭を執り、チベットの僧院のカリキュラムに準じて多くの仏教哲学者を育てあげた。ホプキンスはツォンカパやダライ・ラマの著作を精力的に英訳し、チベット仏教をアメリカ人に伝え、その結果、アメリカ人はチベット仏教の基礎をかなり正確に理解することとなった。ハリウッドで数々作られてきた映画において、チベット人がどのように描かれているかを見ると、形としてのチベット文化の考証はいい加減であるが、精神はかなり正確に理解していることが見て取れる。

 また、アメリカの知識人層の仏教に対する理解も、「一応仏教徒」のわれわれ日本人よりは、はるかに深く敬虔なものである。アメリカ人はチベット仏教の僧を直接師と仰ぎ、伝統的なカリキュラムに基づいてチベット仏教を勉強した。これはヨーロッパや日本の仏教学会にはまったく見られない傾向である。

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COMMENT

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ウクレレ弾きのW | URL | 2009/12/20(日) 16:51 [EDIT]
昨日の講演は内容ぎっしりでとても勉強になりました。レジュメも家に帰ってから読み返してます。講演後には見つけてくださってありがとうございます。嬉しかったのですが、あの会場で先生に話しかけられると周囲の視線を感じてどぎまぎしてしまいました。

今回のブログではお引立ていただきましてありがとうございます。ところどころ違う数字などありますがあえて訂正しません(笑)


けい@Free Tibet | URL | 2009/12/20(日) 17:41 [EDIT]
昨日はありがとうございました!昨年は先生の渋谷のセミナーとb-Tibet会場を往復しましたが、今年はb-Tibetで無料で先生のお話を聞けて幸せでした。先生の人徳で、来場者もいい感じでしたねー。

シラユキ | URL | 2009/12/23(水) 10:04 [EDIT]
>ウクレレのWさん
Wさんの日記に基づき数字直しておきました。ワニの件は結構前から聞いていて、みんなの中でワニってどのくらいの大きさなんだろう、きっと2mくらいだよ、とか盛り上がっていたので、その記憶のままかいてまいしました。

>けいさん
ボランティアスタッフ、お疲れ様でした。護国寺様は場所がいいのか、スタッフがいいのか、とても気持ちのいい席でした。カルチャーなんかであつまってくる方の雰囲気ともかぶってて。聴衆がお客様でなく、同時に参加者でもあるような感じ。フィードバックがあるような感じがします。ありがとうございました。

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