白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/05/09(日)   CATEGORY: 未分類
仏になるためのイメトレ
 土日は出雲の伝授の際のメモを整理する。早くしておかないと細かいところを忘れてしまうから。
 
 で、大体和訳がしあがったらびっちびちに打ち出してA419枚くらいになった。ちなみに、儀軌は参考書みたいなものなので、たとえばチベット人ならだれでも暗記しているマンダラ供養文、七支供養文、21尊ターラー経などの常用の文章は本文からは省かれている。なので実質的には19枚以上になるか。

 私が今回伝授して戴いた生起法は、チッタマニ・ターラー尊という女性の仏様である。英語で言うとグリーン・ターラー。この仏様はチベット人が感得したものなので、インドにこの儀軌は存在しない。

 で、生起法というのは、密教の修業の一つで、簡単に言うと、仏様(人格者)の境地をめざすためのシミュレーションである。ターラーさんの場合は、仏さまのもつさまざまな側面の中でも、とにかくいろいろな災難から大量の人々を救う能力を象徴しているので、その境地を私が得ることができたアカツキには、ワタクシもターラー尊なみに地引網で大量にそこいらの衆生を救い上げることができるわけである。理論的には。

 で、そのやり方なのだが、一言でいうと、その仏様のお姿を空(なにもない状態)からありありと思い浮かべ、その姿に仏の境地(菩提)から智慧そのものをインストールしてそのイメージを生きたものにして、そのイメージを自分と一体化させることによって、その仏の境地になじむ訓練なのである。

 したがって、生起法は基本的には毎日行うものである。毎日毎日、一切衆生に対する無限の愛と哀れみをもち、偏らない中道の心をもつことを自らの心であると思いなじませ、いずれ、「将来あるべき人格者の自分」を作り上げていくのである。

 最初は口にするのもこっぱずかしいセリフも、毎日毎日唱え続けて、十年もたてば自分の一部になる。そしてそのようなイメージ・トレーニングを毎日していれば、自然と、日常生活にあってもおかしなことをやらなくなるらしい。

 日本仏教では禅宗とかは座禅を通じて自らの心をみつめ、仏様に近づく実践修業をかろうじて行っているが、大半の宗派は実践の習慣を忘れてしまい、「救っていただく」ようなスタンスが蔓延し、果てはただ死ぬことを成仏するとかいいだしているが、今はそのような形しか残っていない宗派でも、かつては、たとえば阿弥陀様を熱烈に恋求め、臨終にあたっては阿弥陀様をありありと観想するような作法があった。
 
 究極の人格者をイメージしてそのイメージと一体化する生起法はとにかく実践の基本。「ダライ・ラマは自分が変わらないままで、人を変えようと思うな」とおっしゃり、怒りやすい人は怒る時間を短くするように、自分の心を客観的にみつめ自己本位にならないようにしなさい、と日々これ実践修業であることを説いておられる。

 今の時代、自分はそのままでいながら、まわりを自分にあわせるように要求する人であふれている。親や教師や医者や政治家や役人、とにかく自分以外の他人には、絶対的な愛と自分への奉仕をもとめるかわりに、自分が世界ではたすべき義務を考えるものはない。で、自分に心地よく世界を変えようと思っても、世界中の人はみな同じことを考えているので、必然的に様々な価値観がぶつかりあい、うまくいくことはない。

で、シャーンティデーヴァはこういった。「足が傷つかないように全世界に毛皮の敷物をしきつめることができればいいが、それは不可能である。自分が靴を履いた方がはやい」と。
ド汚い自分をそのままにして、自分を傷つけたくないから、世の中に対して自分に合わせろと吠え続けてもむなしいだけである。しかし、心をトレーニングしあらゆることに臆せずあたれる強い心をもつようになったら、その心をもってどこへでも行けるようになる。

 人格者になると自分を抑えて他人に尽くすことになるので、自分がソンをして他人が得をすると思っている人がいるが、それはあたらない。人格者は人を愛し、その結果人に愛されるから、人に尽くすことを喜びと考え、さらに多くの人から愛を返されるので、結局は幸せな人生を送るのである。したがって、人格者になるための修業は本来、楽しんでやるものなのだ。

 それは平岡先生の言葉を借りれば、お祭りの山車をおいかけてフラフラ歩いていて気がついたら、隣町まで来ていた、みたいな感じ。楽しいことに心奪われていたら、気がついたら昔に比べてずいぶんマトモな人になっているわ、みたいな感じで修業をしていくのである。

 で、生起法をはじめたら、寝る時、フロ入る時、ゴハンたべる時、みな自分の中に生起しているあるべき人格者の自分を安らがせ、清め、栄養をあげていると思いなんでも修業にしてしまうのである。ああら、簡単。

 じっさい、南インドに再建されたチベットの僧院社会を訊ねてみると、その明るさにびっくりする。質素な単調な生活であるにも関わらず、彼らは実に楽しそうに笑って暮らしている。

 というわけで、ターラー仏の生起法をはじめるモチベーションをあげてみたのでした。でもこれとにかく長いんだよね、ははは。
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| | 2010/05/09(日) 20:47 [EDIT]
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● 毎日やるために
KOICHI | URL | 2010/05/10(月) 16:59 [EDIT]
最初から一度に全部はかなり負担だと思いますので、全体を4~5回に分けてやるのが良いと思います。私も初めは何回かに分けて、朝して、職場でもやり、夜もやるとかしました。
ともかく毎日途切れずにやることが大切で、何日続けられたか、確認をしながらやっていきましょう。
続けていると、終わったあとにかなりの確率で法悦というか、安らいだ感じがするようになります。

カルマ・フォーチュン(♪♪) | URL | 2010/05/11(火) 17:42 [EDIT]
むつかしいことを、つきつめて考えると、頭が痛くなって飽きてしまう方は、ターら菩薩様のお写真か、チェンレシーのお写真眺めて、手を合わせてから、ろうそくか、小さな電球の明りの下で、瞑想するのも手かもしれませんね。
とにいかく、とりあえず、めいそうからやってみるのがいいと思います。
● 利他的であること
モモ@八尾 | URL | 2010/05/11(火) 23:55 [EDIT]
自分本位の考え方をしようと思うと
どうしても損得の感情というものが吹き出てきて
邪魔をする。「なぜあの人は良くて自分はダメなのか」
「他の人ばかり幸福で、なぜ自分は損をしているのか」
他者との比較が中心である限り、目指すべき人格に
なれないでいることにいつ気がつくかなのであろうと思います。

シラユキ | URL | 2010/05/13(木) 22:04 [EDIT]
>Aさん
ツォンカパの密教はバッチリ中観帰謬論証派の空理解とリンクしています。チベット人にとって密教と顕教は別々のものでありません。がっちりリンク。

>KOICHIセンセ
ははー。謹んで行じさせていただきます。

>カルマさん
瞑想も集中なのであきっぽいとなかなか難しいかも。

>モモさん
そうなんですよねえ。こういう考え方をすると自分が苦しいだけだと思ってもそういう考え方しかできないことあります。人間の業ってやつですね。絶対利他的な方が心は安定するのに、どうしても自分の子とを考えてしまい、不安定になる。

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