白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/09/12(日)   CATEGORY: 未分類
乾隆帝菩薩像
今、自分がかつて英文で書いた論文を本に採録するべく和訳しているのだが、これが大変。

 論文のテーマは、乾隆帝がラマの形で描かれているタンカで、欧米でも研究者がたくさんとりついている人気あるものなんだけど、なにせ書いたのが五年も前。いろいろなことを忘れてしまっていて、英語が下手だからその時自分は何を考えてこんな表現したのか英語みているだけでは思い出せない。

けんりゅう


 私は一つの論文を書きおえると、その時、やり残したこと、日本語だったら表現できたのに、英語だから複雑すぎて表現できず苦渋の選択でけずった部分とかをメモして、最終原稿と同じフォルダにのこしておく。

 いわば未来の私に向けてのメッセージ。仕方ないのでそれを読んで見ると、その時思いついたことを断片的に投げ込んだパンドーラの匣。読んだら最後、いろいろ論文に手を入れたくなりというか、入れざるを得なくなり、ますます仕事の完遂時期が遠のく。

 一般の人にも分かりやすいたとえを用いるなら、大掃除をしている最中、懐かしい日記帳かなんかでてきて、その日記を読んでいるうちに、ああ、そうかあれも捨てられない、これも捨てられないとかいってるうちに、何も進まなくなるあのような感じである。

 そしてしみじみ感じることは、五年前の自分は他人であるということ。

 当時のメモとか調査記録とかみていると、すっかり忘れていたことを地引き網のように思い出して、楽しくなった。以下に当時の調査記録をちぢめてはっときます。

 ある文献や書画をみるために世界を回る、まあ一種のオタクの巡礼です。でもこの記録よんだら当時の自分が蘇ってきて、ずいぶんいろいろ思い出してきた。そう、この論文は乾隆帝のこのタイプの画像をラマ・ヨーガの本尊として見るべきという論点のもとに、チャンキャ三世とか二世とかの著作を引用したものだった。



○発端

 2003年2月23日、渋谷で買い物をしていると、様々な流行の発信地となる渋谷交差点のビルの側面に、なぜか乾隆帝86才のみぎりの朝服像が大垂れ幕となってかかっていた。近所のデパートで清朝の展覧会でもやっているのかと思いきや、Go!Go!7188というバンドの新アルバム「たてがみ」の宣伝であった。
 わけのわからない世の中である。
しかし、今思えばこの時点から乾隆帝の肖像画との縁は始まっていたのかもしれない。その後まもなくして、『雍和宮唐喀瑰寶』をぺらぺらめくっていて、ふと、乾隆帝がチベット僧の扮装をして描かれている二枚の肖像画に目にとまる。二枚にはいずれも

「文殊菩薩が人の王に遊戯した偉大なる法王が、金剛の王座にいつまでも健康であるように。望みが自ずとかなうように。良き運命をもてるものよ」

と、乾隆帝を「文殊菩薩にして法王」と称えるチベット語の銘文が共通して入っており、明らかに同じ筆致で描かれている。また、眼をこらしてみると、乾隆帝を取り囲む無数の仏・菩薩・ラマ・護法尊のそれぞれにも名前らしきものが記されている。解像度の悪い写真では文字の内容までは読み取れないが、もしこれが全部読み取れ、これらの尊像が持つ意味を明らかにすれば、チベット仏教世界における乾隆帝の位置づけが明らかとなろう。そこで、このタイプの乾隆帝の肖像画の調査を開始することとした。

 いろいろ調べた結果、前述の同じ銘文を刻んだ乾隆帝の僧形図は全部で3タイプあり、かりにこれをABCと呼ぶことにすると、とくにタイプCは作例がおおく、故宮博物院、雍和宮、『清代帝后像』、ワシントンのアーサー・サックラー・ギャラリー(Arthur Sackler Gallery)、ポタラ宮の五箇所に収蔵されていることがわかった。
 
○SARSで閑散とした雍和宮へ (2003年夏)

 ここまでは分かったものの、絵画の閲覧にあたってどのような手続きが必要かは皆目検討もつかない。そこで、いろいろ聞き込んでみると、中央民族大学のA先生が雍和宮にお知り合いの方がおり、何とか閲覧できるかもしれないとのこと。そこで早速、北京行きの航空券のチケットを買いにいくと、チケット代は異様に安く、入金の際には当初聞いていた値段よりもさらに下っていた。それもそのはず、2003年の初頭勃発したSARS騒ぎにより、北京へいく観光客は激減していたのである。躊躇しないでもなかったが、8月28日の夜遅く北京に着いた。

 翌8月29日、朝早くより雍和宮に入った。雍和宮のラマたちは歓待してくれ、かつ、乾隆帝の僧形図は戒体楼内にある展覧コーナーに二枚とも公開展示されていたので、調査は楽勝に進むかと思われた。が、よく聞いてみると、文物の管理権は雍和宮のラマたちとは別の管理組織にあるとかで、そこの許可がなければ展示ガラスから絵画を出すことはできないという。見ると、このガラスははめこみ式で、鍵をあければ中に入れるとかいう簡単な構造ではない。しかも、管理組織のトップはしばらく不在という。確かに、展示品の説明は経典の名前が間違っていたりとラマが関わったていたらありえないであろう基本的な間違いが随所にみられる。

 警備のラマたちは、ガラス越しであれば、写真とろうがどうしようが構いませんよ、とおっしゃって下さるものの、ガラス越しではフラッシュがガラスに反射してまともな写真はとれない。仕方ないので、ガラス越しにひたすらイコンの名前を書き写しまくる。ちなみにイコンの数はタイプBで119体、Cは106体ある・・・・・。SARSで観光客が少なく、他の客を気にすることなく書き写しができるのはありがたかったものの、照明が暗く、長い年月をかけて摩滅したイコンの金文字はひたすら読みにくい。そこで、民族大学近くにあるフランス資本のデパート、カルフール(家楽富)で強力ライトを購入して、31日に再び雍和宮に赴き、ライトをあてまくって文字を読み取る。この結果、タイプBのイコンの名前はほとんどつぶすことができた。しかし、タイプCは金文字がかなり薄くなっていたこともあり、ライトをあてても読めないものが多い。こうしてこの夏の雍和宮の乾隆帝画像調査は終了した。

○改築工事に便乗し僧形図を実見(2004年3月)。

 2004年2月24日、北京に電話して衝撃の時日を知る。乾隆帝僧形像は海外の展示会に出品中とのことで、一枚はマカオ、もう一枚はシカゴにあるという。何の冗談かと思い、Chicago Museum Chinaの三文字でネットで検索してみると、確かにシカゴのフィールド美術館 (Field Museum)で「中国紫禁城の栄光・乾隆帝の輝かしき治世」(Splendors of China's Forbidden City the Glorious Reign of Emperor Qianlong) なる企画展が行われている。期間を見ると一年以上とあり、当分絵は中国にかえってこない。こういう時は期が熟すのを待つ外ない。

 その二ヶ月後の3月27日、別の調査で北京にいった時、知人に会いがてら、雍和宮に入場してみた。半年前に絵が展示されていた戒体楼についてみると、閉鎖されている。中をのぞきこむと、かなり大がかりな改装工事が行われており、展示品は撤去されている。この瞬間、私の頭の中では、展示スペースが改築中→いまいましいガラスはとりはずされており→絵はどこかにとりおかれていて→直接間近でみられる、との解析が瞬時に行われ、となりにいる人の携帯電話をかりて、別れたばかりのEさんに電話を入れ、今どこかに所蔵されているはずの絵画をみたい、もう一度雍和宮にかけあってくれ、と頼みこむ。答えは一両日中にでるという。

  3月29日、E氏のご尽力により、雍和宮の乾隆帝僧形図を倉庫からだしてもらい実見させて頂くことに成功する。机の上にひろげたタイプBCの肖像画を、アップでみることにより、ガラス越しには判読できなかった金文字が随分読み取れた。おかげで、雍和宮所蔵のタイプBCの二枚は、ほとんど読み取りに成功する。実はこの日、故宮の事務室に今あるだけの乾隆帝の僧形図を閲覧できるかどうかの問い合わせもしてあったのだが、マカオから戻ってきているはずのタイプAはまだ梱包を解いていないという理由で、閲覧は許可されなかった。というわけで、故宮所蔵の乾隆帝像の調べはいっこうに進まない。

○ポタラ宮での僧形図調査(2004年8月)

 その年の夏、早稲田大学の諸先生方をチベット旅行にご案内することとなった。ポタラ宮は当然訪問先に入っているため、その際、ポタラ宮に所蔵されている乾隆帝の僧形図の確認も行うことにした。その日8月19日は土砂降りの雨であった。チベット建築が平屋根であることが示しているように、チベットは本来雨が少ない地域である。しかし、この年に限っては各地に大雨がふり、道路は寸断され被害が至る所にでていた。チベット人によるとこれは青藏鉄道の工事によって眠りを妨げられた地下の大蛙の祟りであるという。このような噂は、中国政府が行う鉄道事業に対して、チベット人がどのような感情を抱いているかを示していよう。その日ポタラ宮は赤い涙を流していた。このような大雨を想定して作られていないので、赤宮をぬった塗料が雨で溶けだしているのである。

 乾隆帝僧形図がかけられているのは、赤宮四階のサスムナムゲル(sa gsum rnam rgyal) 殿である。扎西次仁 1997によると、この像は1798年(嘉慶3年)に掲げられたという。改めてこの絵を見上げると、悲しいことに、ガラスケースに入っている上にそのガラスケースには絵をよこぎる金飾りが多数ついており、あまつさえ頭より高い位置に掲げられている。その上部屋は暗い。とてもイコンを書き写せるような環境ではない。せめて、台座の銘文だけでも読み取れないかと、同行者にチベット文字で書いてこれと同じ形の文章があるかどうかを確認してもらうと、ある、という。

 絵をこの頑丈なケースから出すには、さぞやいろいろな手続きを踏まねばならないだろう。めんどくさ。というわけでポタラの画像は今にいたるまでみてない。

○そしてアメリカへ(2005年3月)

 明けて、2005年ネパールのカトマンドゥに『悪趣清浄タントラ』とTCVの調査を予定していたところ、周知の通りのギャネンドラ国王の王政復古クーデターにより、断念を余儀なくされる。ネパール行きを断念するのはこれで二度目である。最近、中国を含めたアジア情勢は流動的であり、アジアの平和に大くを依存する東洋史の研究には暗雲がたちこめている。これに対抗するためにはフットワークは軽く、研究テーマは複数に、である。そこで、研究目標を乾隆帝僧形図に切り替え、アメリカに飛び、アメリカで放浪中の故宮所蔵のタイプCとサックラー・ギャラリー所蔵のタイプCを閲覧することとした。

 再び、N先生にアメリカの事情をお伺いすると、サックラーの方をご紹介いだたく。これは本当に助かった。実は、アメリカ調査旅行を決定した段階で、 サックラー・ギャラリーにはメールを打って僧形図の閲覧の可否を問い合わせていたのだが、ネットで公開されている宛先のどの部署におくっても返事はなく、サックラー・ギャラリーの上部機関であるスミソニアン(Smithonian)博物館にまでメールを打ってみたものの、なしのつぶてであったからである。また、乾隆帝の展覧会がどこで開催されているかをネットで調べてみると、件の「中国紫禁城の栄光展」は現在はダラス美術館(Dallas Museum)にいるようである。 

 次に、サックラー ギャラリーの位置をネットで確認するとボストンのハーバート大学内とでてきたので、ハーバート大学の先生に連絡をとる。しかし、後に旅行社より電話がかかり、サックラー・ギャラリーはボストンではなく、ワシントンにあるのではないかと言われ、確認してみると、確かに乾隆帝の僧形図はワシントンの方のサックラーに所蔵されていた。あわてて、先生に断りの電話をするが、結局ボストンにも行くことになる。

 こうしてわずか一ヶ月のあわただしい準備期間をへて、2005年の3月アメリカに飛んだ。そして、3月5日に、ダラス美術館において、故宮所蔵の乾隆帝の僧形図を無事確認できた。ダラス美術館で見る故宮所蔵の僧形図は、雍和宮の僧形図とくらべると、一見して状態が悪く、金文字はあちこちはげ、またもともとブランクと思われる箇所も多かった。ちなみに、このほかのチベット仏教関連の展示品の中で目を引いたものは、有名な乾隆帝のマントラ入り甲冑や文殊の忿怒形のヤマーンタカ仏像、灌頂儀礼ではおる豪華な法衣、1777年に建立された皇太后の遺髪をおさめたストゥーパなどである。

 3月7日には、ワシントンのサックラー ギャラリーを訪れ、キュレーターさん立ち会いのもと、乾隆帝僧形図を収蔵庫で拝見させていただく。二日前に故宮所蔵のものをダラスで見たばかりの目で、この僧形図をみると、細部の違いにいろいろ気付く。例えば、故宮所蔵のタイプCでは、五人のダーキニーたちは、それぞれの性質を示す、法輪、寶珠、金剛杵、勝磨金剛、蓮華などの持ち物をもつが、サックラーのダーキニーたちはみな同じカルトリ斧を持つ。乾隆帝を取り囲む小さなイコンのさらにその持ち物ともなると写真の解像度ではとうてい識別はできないので、やはり実地調査には意味があった。一日の間しかおかずに両タイプのサブグループを実見できたことによりはじめてこれらの差異に気づけた。
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