白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/10/27(水)   CATEGORY: 未分類
仏伝の魅力
台風来るけど本日!
横浜で「チベット仏教とダライラマ」を講演します。初めての方もベテランも聞き応え十分。ダライラマ、来日前に仏教を勉強しよう
◆演題:チベット仏教とダライラマ14世
◆時日 10月30日/ 11月20日(全二回)
◆会場:朝日カルチャーセンター横浜(横浜駅の真上)
◆問い合わせ先: TEL:045-453-1122(朝カル横浜教室)
詳しく知りたい方、ここクリック

駅前の大型スクリーンで九星暦の占いを流していて、私の本命星、二黒土星は「あてのない散歩にでるといいことあり」と先週でていたので、土曜日にあてのない散歩にでてみた。

 古本屋に入ると、チベット語の『方広大荘厳経』(rgya che rol pa)を、1860年にフーコーがフランス語訳した『ブッダの境涯』(東方出版)が格安で手に入った(和訳自体は1996年と最近のもの)。占いは当たったのである。しかし、そのあと公園にまわった所、予報よりも早く雨が降り出しずぶぬれて帰ることとなる。
 先週の卦であったから、始めよくとも終わりが悪くなるのであろうか。

 この『ブッダの境涯』は、簡単にいうと仏教を開いた釈尊の伝記である。今週の末に横浜駅上のセンターで、「世界の中のチベット仏教」みたいなテーマについて講座を行うことになっているので、いいタイミングでいい現物史料が手にはいった。

 この『ブッダの境涯』によって19世紀のヨーロッパには仏伝ブームがおきた。お釈迦様の伝記は小説、戯作、オペラなどにしたてられ、イギリス人は荒れ果てていた仏跡の発掘にとりかかった。

 なぜ、西洋において仏伝がかくも受けたのかといえば、それは近代精神にマッチしたからである。

 イエスの生涯が、神による処女懐胎から始まり、人の罪をあがなって死んだ後、復活したことが示すように、その教えは造物主である神の存在を前提としている。神はその一人子(イエス・キリスト)を使わしてくださる程、人間を愛してくださったのだから、キリスト教徒は神の愛に応えようと、おのれの欲望を慎むように求められる。
 
 しかし、西洋人は神の愛も神による救済も否定して、中世を終わらせた。こうして始まった近代は彼らに物質的な豊かさはもたらしても、精神の安らぎはもたらさなかった。かつては社会が担保していた人格の陶冶や道徳の習得を個人的な問題としてしまった結果、道徳の低下に歯止めがかからなくなった。

 近代人は快楽をどん欲に貪っているうちに、精神の空洞化を招き不安な自我を抱えるようになり、ありとあらゆる精神病が社会問題となってきた。だからといって、すでに否定してしまった宗教的なドグマにはもはや頼れない。

 
 そこで、仏教なのである。仏教は苦しみを個人の問題とし、自らの心を陶冶し、その悪い心の性質(煩悩)とそれが残した者(習気)をとり除くことによって、心の平安を得られるとする。そこには造物主も天使も預言者も必要なく、そこには哲学とそれを実行するための実践が述べられていた。

 仏教の宗教宗教していない哲学性が、西洋人に受けたのである。
 そして、また、その開祖の伝記も近代精神にマッチした。

 お釈迦様は幼名シッタールダといい、釈迦族の王子として生を受けた。容姿に恵まれ、文武のあらゆる才能を生まれながらにもち、父親と継母にできあいされ(実母はお釈迦様をうんで七日後に亡くなられた)、贅沢な暮らしに明け暮れていた。しかし、29才のある時、はじめて、世の中には老いがあること、病があること、その果てに死ぬことをしってしまう。

 お釈迦様は激しい鬱状態に落ち込んだ。この根本的な苦しみには王位も贅沢な生活も無力であることを知っていたからである。こうしてお釈迦様は出家をして、それから六年間、ひたすら自らの心の矯正に励んだ。

 そして35才の四月十五日の満月の晩、覚りを開き、菩提樹の下で完全なる人格者となったのである。

 神の子でも何でもない、一人悩める男が、神の助けでも、計画でもなく、自助努力によって完全な人格者(正等覚仏)なっていく物語は神が不在となった西洋社会に喜んで受け入れられた。

 で、面白いのがここからである。和訳『ブッダの境涯』では第二十五章になるのであるが、お釈迦様は覚りの内容を人に明かすことなく、そのまま死んで輪廻から出て行こうとする。

 その理由は彼の思想があまりにも深遠であり、われわれのようなド凡夫には理解不可能だと判断されたからである。お釈迦様のそのような心を読んだ梵天の王はお釈迦様のもとにかけつけ、「どうか法を説いて下さい」と懇請したが、お釈迦様はうんと言わない。

 さらに、梵天は帝釈天や他の神々を誘ってお釈迦様の瞑想している元にいき、もう一度、その覚りの内容を説いて下さるようにお願いしたが、それでもお釈迦様はうんといわない。そこで、世界に厭世的なムードが蔓延する(笑)。

 そこで、三度梵天はお釈迦様の元にいき、合掌し、右膝を地に着け、仏に敬礼すると「あなただけが命あるものを解放することができる、どうかこの命あるものを哀れんで下さい、ひからびた大地に雲が雨を降らせるように、法の雨を降らせてください」とこれに類することを何パターンも表現をかえて述べてしつこく懇請した。

 するとやっとお釈迦様の心に

「私が法を教えても、教えなくても、誤った見解をもつ連中は、この法を理解することはできないであろう。
私が教えても教えなくとも、真理の見解をもつ者はこの法を理解するであろう。
しかし、どちらの見解にもまだとらわれていない人々について言えば、もしも私がこの法を説くならば、彼らは私の法を理解するであろうが、もしも私が法を説かなければ彼らは理解しないであろう」と思い至り、この「まだ真理にも邪見にもどちらにも傾いていない人々」のために法を説くことを決意した(チベット原文見てません 笑)。

 こうして、我々の知る仏教の歴史が始まったのである。

 この仏伝の記載に従って、今でもチベットでは請われることなくして、僧が法を説くことはない。誰かが、法を説いて下さい、と言わない限りは彼らは法を説かない。ダライ・ラマに来日して戴くために、関係者がお百度参りをすることになるのはこの伝統に則ってのことなのである。

 彼らは自分たちの教えが人を善くすることをしっているし、それを語りたいとも強く願っているけれども、それを自分からでていってガンガン布教したりはしない。あくまでも施主の要望にそってのみ、教えは説かれるのである。だから、彼らの話を誰も聞こうとしなくなった時、彼らはただ、その人格を陶冶するテクニックを抱いたまま沈黙したまま死ぬだけである。

 このような基本的に自分から布教しないことをモットーとする宗教がなぜ二千五百年も存続してこれたかというと、高僧が沈黙することによって不利益をこうむるのは仏教教団ではなく、それを聞くことのできない、我々自身だからなのである。
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COMMENT

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hhime | URL | 2010/10/29(金) 07:55 [EDIT]
本当に仏教の教えは深淵ですよね!
チベットの高僧の姿を拝見していても、お釈迦さまからの伝統をこの文明社会の中でも脈々と守っていらっしゃることに感動をおぼえます。毎年法王様の説法や高僧方の説法を直に拝聴できることが最高の贅沢です。
それが日常に生かされているかどうかは別ですが(笑)
● 意固地
モモ@八尾 | URL | 2010/10/29(金) 19:01 [EDIT]
ワタシは意固地なので、玄関先まで出て
教えを受けるのは大嫌いなので、
いつも安売りの仏様だのキリスト様だのでは
インターホンでぷっつりです。
いつか平和になったときチベットへ行って
本物のポタラ宮殿の主を敬いたいです。

カルマ・フォーチュン(♪♪) | URL | 2010/11/01(月) 15:02 [EDIT]
暴風雨のなかおつかれさまでした。
下の子は、菊武グループ系列の大学に行くようです。
高校が、菊武ビジネス専門学校だし、上はそこの短大生なんで。
とりあえず、ほっとしてますが、チベット問題とは、無縁ですね。
とほほ。(私立なんで、けっこう、それでもかかるから。)
ボーリング部が一番有名かな。

ごろーさまはおげんきですか。
うちは一羽なくなりました。
セキセイインコの5歳は、長生きした方でしょうか。
8歳かな、そのくらい生きているこが、一羽、こちらもよぼよぼですが、何とか元気です。

白雪 | URL | 2010/11/01(月) 16:06 [EDIT]
>himeさん
実際私も毎日生起法やってても私の二大煩悩、怒りと怠惰は健在です。私が穏やかな人格者になる日はいつくるのか永遠の謎です。

>モモさん
うちも某キリスト教団体の勧誘がよくありますが、「チベット仏教徒です」というと大概おとなしく引き下がりますよ。

>カルマさん
下のお子さんも無事進学されるようでおめでとうございます。最近の大学は面倒見がいいので、親御さんにもお子様の様子がよく報告されてくると思います。

カルマ・フォーチュン(♪♪) | URL | 2010/11/01(月) 16:16 [EDIT]
そうなるといいですね。
残念ながら、面接はこれからです。
受かるといいなぁ。

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