白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/06/20(月)   CATEGORY: 未分類
死後に持っていけるもの(後編)
第一章 四節
 この有暇具足は極めて得難い。〔人身を得ることによって〕人の目的(解脱と一切智者の境地)を達成可能なものとなる。dal 'byor 'di ni rnyed par shin tu dka' / skyes bu'i don sgrub thob par gyur pa la
 この〔人の身を得た〕チャンスを活用できないとするなら、後で〔このような仏教を学べる条件が〕揃うことがどうしてあろうか。/ gal te 'di la phan pa ma bsgrubs na / phyis 'di yang dag 'byor bar ga la 'gyur

 ダライラマ法王はいつもこうおっしゃっている。昔は仏教徒の父母をもっていたから仏教徒となり、僧院に入ると回りのみなが仏教を勉強しているから自分も仏教を勉強するというものであった。しかし、21世紀の仏教徒のあり方はそのようである必要はない。仏の教えと言われるのものであっても盲信してはならず、金の真贋を確かめるように、注意深くその教えと言われるものを分析し、その結果、真だと思ったものを修しなさい。仏教とは自分の欲をつらぬくためにではなく、世界のためにあるものである。従って、仏教徒だから仏教を修するのではなく、我々一人一人が仏の教えを分析して、その結果、仏教とは世のため人のためになる普遍的な教えであるから、それを修しよう、という意識をもたねばならない。

 この最初の文章の「人の目的」とは、仏の境地(人格者)を得ることである。業(行為)と煩悩がなくなると輪廻から解脱することができる。この輪廻に我々を縛り付けているのは、エゴ(我執)である。私というものは、じつは様々な条件のもとによりあつまった精神と肉体(五蘊)に名前がついただけのものであり、その実体はない(無我)。しかし、我々はこの精神と肉体だけのものに独立した実体である「私」(我)をみいだし、それに拘って様々な苦しみを生み出している。

 このエゴ(我執)を取り除いてくれるのが、「空を理解する智」である。グンタンリンポチェもこういうておる「空を理解する智なくしては、仏陀がこの世に現れた目的を達成することはできない」と。

 心は本来清浄なものである。濁った水もしばらく時間がたつと、汚れが沈殿して水は澄んでいく。水と汚れは別のものであるからこのように分離するのである。また、雲に覆われた空も、時間がたつと雲がはれ、空が見えることから、空と雲も別の者であることが分かる。

 心と煩悩もこのようなものであり、心から煩悩を取り去ることは可能である。煩悩はあくまでも心にとって外からきた客なのである(客塵煩悩)。従って、すべての人は煩悩をとりさって仏となることができるのである。

 死はいつやってくるか分からない。したがって、今すぐ体と言葉と心を正すことをはじめよ。今日始めれば、来週はずいぶん変わってくる。そして一年後にはもっと変わっている。毎日行い、慣れてくると、善行も難しいことではなく、とても簡単なものになっていく。だから、今すぐはじめなさい。死ぬ瞬間に後悔しても、もう遅い。今からはじめなさい。

第二章三十三節~三十五節
 信用できない死神は〔悪業を浄化する〕行為をしたかどうかを問うことはない。病気であっても健康であっても皆、〔寿命が来ないのに〕突然〔死ぬのであるから、〕何も確固としたものはないのである。
 〔友も財産も生を受けたこの体も〕すべてを捨てて〔この世を〕去らねばならないのに、それを理解することなく、親しき者の〔を護る〕ためにも、親しくない者〔を憎む〕のためにも、様々な罪業をおかしてきた。
 親しくない者もいなくなり、親しい者もいなくなり、そして私もいなくなるだろう。全てのものが無くなっていく。

 死は突然やってくるものだ。それがいつ訪れるのか、誰にもわからない。病でなくても人は死ぬので、病で死ぬ時期が決まるというものでもない。だから病は死の条件の一つであって原因ではない。しかし、覚りを開いた者は別名、勝者(jina)という。これは何に勝利したのかというと、四つのものすなわち、死魔(=死)、蘊魔、煩悩魔、天魔に勝った者という意味だ。菩薩はより多くの人を救うためにより効果的な転生をするために死ぬ時期も、死後の転生先もコントロールすることができる。

 煩悩に勝利したとはこういうことである。ある二つの国が戦争している。戦争をしている間だ、その両国は敵同士である。しかし、戦争はいずれ終わる。戦争が終わるともはやその相手国は敵国ではない。永遠の敵国などは存在しないのである。一方、我々の煩悩の元にあるエゴ(我執)は、始まりのない昔から自分を苦しめ、自らを幾度も地獄に落とし続けてきた。本当の敵は実は自分の内にある煩悩なのである。

第二障四十節~四十一節
 死の床に臥せる時、家族や友人たちがいくら私を取り囲んでいても
 命を断つ苦しみは、自分一人だけで味わわなければならない。
 死神の使者(死)に捕まるとき、家族や友達が何の役に立つだろうか。
 その時、救ってくれるのは福徳(善業)だけだというのに、私は無為に過ごしてきてしまった。

 死の床にあっては、家族も友人も何の役に立たない。あの世につれていくこともできない。真の敵は自分の中にある煩悩であるとするなら、死後もつれていくことのできる真の友は〔意識の中に残る〕善行、すなわち、体によって行う良い行い、正しい言葉使い、正しい心の持ち方である。だから、生きている間に無為に過ごしてはならない。

第二章五十四節~五十八節
 普通の病気であっても、おびえて医師の言葉に従おうとするのであれば、執着などの百罪の病に常に襲われている〔ものが、最上の医者である仏の言葉に従うべきな〕のは言うまでもない。
 たった一つの煩悩であっても、贍部州(世界)に住む全ての人を破滅させる。その〔ような煩悩という大病〕を治す薬は〔仏のお言葉以外の〕どこを探しても見つからない。
 その〔煩悩という病〕を〔治す〕医者である一切智者(仏)は、すべての痛みを除きさる。それゆえ仏の教えに従わない者は、何とも無知なものだと非難される。
ただの低い崖においても注意して立つべきであるならば、〔地獄に落ちるという〕千由旬も落下しなければならない断崖については言うまでもない。
 今日だけは死なないと、どうして安心していられるのか。私が無に帰する時は、確実にやってくるのである。

 肺がんで死んだら来世は地獄に落ちるとか、脳卒中で死んだら餓鬼道に落ちるとか、そのようなことはない。病と悪しき転生はまったく無関係である。では何によって地獄や餓鬼などの境涯におちて苦しむのかといえば、自らの煩悩によってである。今生におけるこのような大したことのない病気に罹っても、医者に頼ってあれこれ健康になろうと努力するのであれば、始まりのない昔から自分を苦しめてきた煩悩を、最高の医者(仏)の教えに従って、エゴを治そうと努力するのが当然ではないか。
 ダライラマ法王はこうおっしゃっておる。「僧侶は兵隊のようなものである。慈悲(菩提心)と智慧という武器をもって、煩悩という敵と戦っている」。
 ちょっとした高さの段差にも手すりをつけたりして落ちないように人は努力するのに、自分を千由旬も下の奈落におとす煩悩をなぜ滅しようとしないのか。
 今日だけは死なないと思うのは甘いのである。必ず人は死ぬのであーる。

第三章 二十一節~三十二節
 地などの四大(世界を構成する地・水・火・風の四つの要素)や虚空〔が有情たちを支えている〕ように、どんな時でも常に無数の有情たちの様々な生きる糧とならんことを。
 過去の善逝たちが菩提心を起こして菩薩行を順序正しく〔行じ〕続けたように、私も衆生の利益のために菩提心を起こし、〔善逝たちと〕同じように〔菩薩〕行を順序正しく行じられますように。
 以上のように、智慧ある人は純粋な心で菩提心を保ち、最後には増大させるために、心は以下のように〔喜びを生じて〕褒め称えるべきべきである。すなわち、
 今こそ私の人生は実りあるものとなり、人としての存在を得た〔ことも、実りあるものとなった〕。今日、〔私は〕仏の家系(種姓)に生まれ、仏子(菩薩)となったのである。
 今や、私は何としても〔仏の〕家系に相応しい〔身口意の三〕業を始めて、欠点のない、高貴なこの〔仏の〕家系を汚さぬように〔努力〕しよう。
 盲人がゴミの中から宝を得る〔のが稀有である〕ように、私がこの菩提心を起こしたのは極めて稀有なことである。
 衆生〔を滅ぼす〕死神を駆逐する最上の甘露も、この〔菩提心〕である。衆生の貧困を解消する無尽蔵の宝石も、この〔菩提心〕である。
 衆生の〔あらゆる〕病を癒す最上の薬も、この〔菩提心〕である。輪廻の道に迷い悩む衆生が憩う樹も、この〔菩提心〕である。
 〔菩提心は〕一切の衆生を悪趣から解放する普遍的な橋である。衆生の煩悩による苦しみを取り除く心の月が登ったのである。
 〔菩提心は〕衆生の無知の眼病を根底から引き抜く偉大なる太陽である。正しい法の乳を攪拌し、乳酪という神髄を得たのである。

 この一節はイスラーム教徒であるインドの11代大統領アブドゥル・カラム(Abdul Kalam)が、注釈して本を出したことで有名である。時間がなくなってきたので、とんで、次の文に行こう。

第六章十節
 もしも修復可能なら、それを憂うべき〔理由は〕一体何があるだろう。もしも修復不可能ならそれを憂うことに一体何の意味があるだろう。


 これは「忍耐」の章からの一節である。本当の敵は今険悪な状態にある外国などではなく、自分の中にある煩悩である。仏教は実は難しいことではない。簡単なことだ。この体と言葉と心を通じてよりよい方向に向かっていくことだ。それが仏教の教えである。心は修復可能なものである。死はいつでもすぐにやってくるから、今すぐに体による行動を正しい、言葉をただし、心を正すこと始めなさい。

●ちなみに、テクストの原典はサンスクリット語ですが、ゲン・ロサン先生はチベット語の解説書を使っているわけですし、何より私がサンスクリット語よめないのでチベット語から訳しています。
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| | 2011/06/20(月) 22:02 [EDIT]
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シラユキ | URL | 2011/06/20(月) 22:33 [EDIT]
>Hisanoさん
ありがとうございます。本文直しておきましたです。

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