白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/11/23(水)   CATEGORY: 未分類
人格者の国・ブータンとチベット
 ダライラマ法王と入れ違いに来日したブータン国王は、連日メディアで大きく取り上げられ、日本中の人がこのヒマラヤの小さな国について知ることとなった。

 ブータンの国教はチベット仏教の一派ドゥクパ・カギュ派であり、17世紀に中央チベットでの政争に敗れたガワンナムゲル(1594-1651)がブータンに根拠地をうつして、僧王を戴く政教一致の体制を作り上げ、現在に続くブータンが始まった。中央チベットに政教一致のダライラマ政権がうまれるほんの少し前のことである。

 つまり、ブータンとチベットは政治的に対立することはあっても、文化は同じチベット仏教圏なのである。

 今のブータン王家は約百年前に、ブータンのダライラマに当たるシャブドゥン猊下から政治権力を委譲されて生まれたもので、それでも国王はチベット仏教の信徒であり、チベット仏教はブータン人の精神性の形成に非常に大きな役割を担っている。

 あのブータン国王の強さ、明るさ、イヤミのないさわやかさ、伝統を大事にする姿勢、高貴な立場にありながらも自ら民主化を主導する開明的なところを見て、ダライラマ法王と共通する点を見出した人も多いと思う。

 要はチベット仏教の伝統が生きている社会では、チベット難民社会であれ、ブータンであれ、それを体現するような立場にある人は、あのような幸福感あふれる人格になるのである。
 
 ブータンは国策で、経済の発展を追求するよりも、国民が幸せに生きる満足度をはかるGNH(国民幸福度指数)に則った政策をとっており、観光客の数を制限し、森林の伐採も制限し小欲知足の生活を尊しとしつつも、教育も医療もタダ(ただしほとんどが伝統医療)、国民のほとんどは英語ぺらぺらの教育国家であることはよく知られている。そして今回あのいかにもお人柄のいい国王が日本に来たことを契機に、理想郷ブータンのイメージは一気に広がった。

 こうなると、必ず出てくるのが、社会主義思想が全盛の時代に人格形成をした方々の放つ「ブータンはネパール人を追い出して難民化させている、理想郷じゃない」という批判である。

 社会主義思想は貧しいものを思いやるというヒューマニズムはあるものの、人間の精神性に対する洞察に著しくかけるという欠点がある。社会主義思想の信奉者たちの多くは、王制=封建制、すなわち打倒すべきもの、仏教=民衆を搾取する道具と直結する思考パターンがあるため、ダライラマやブータン国王のお人柄をみても「わたしは信者じゃないので、あれのどこがいいのか分からない」などと斜に構えた態度をとる。

 ダライラマやブータン国王が愛されるのは、みなが「信者」になるからではない。彼らの歩んできた道、振る舞い、言動のすべてが真実であり、尊敬されるべきものであるからである。

 ダライラマは国を奪われても、民を殺されても、それでも非暴力を堅持してきた。それどころか、世界中の人々に、「敵を外に見いだすな。敵は自分の中にある煩悩(怒りetc.)である。人格を陶冶することが、ひいては世の中の争いをなくし、人を幸福にする」という、究極の教えを説き続けてきた。想像を絶した体験をしながらも、人を思いやるその姿に人々は感銘を受けているのである。

 ブータン国王が被災地を訪れた時、ある人が「新婚の国王を被災地につれていくなんて、今の政府はブータン国王まで政治利用するのか」とブータン国王の被災地訪問まで政府批判の具にしていた。放射能を畏れる人には理解不能であろうが、ブータンの国王は自ら望んで被災地に足を運んでいるのである。

 また、彼が被災地である相馬市の小学校でしたスピーチは圧巻であった。

国王「みなさんは龍(ブータンの国旗についているブータンの象徴)を見たことがありますか」

子供達が「ないよね」とざわめく。すると国王は毅然と

「私はあります。みなさんの中には人格という龍がいます。年をとって経験を積むほど大きく強くなっていきます。」と「人格を養いなさい」というお話をされた。

 今の日本にこのような子供たちの心に残るスピーチができる人がどれほどいるだろうか。ダライラマもブータン国王も言っていることは同じ。人の幸福は経済指標からではなく、良い人格を形成することを通じて、自分もひいては社会も幸せになっていくということである。伝統を失い、人格者を作る能力を失った日本社会は、聖職者であれ、教師であれ、政治家であれ、人のお手本となるような存在感のある人は久しく出ていない。
 
 ダライラマもブータンの国王も専制君主ではない。彼らは民を愛し、民に愛されており、社会のお手本であり、民主化のリーダーである。このような人たちを素直な目でみることなく、「オリエンタリズムだ、実は人権抑圧国家だ」などと言う人は寂しい人である。人間の心構えは不問に付して、経済や政治を変えれば楽園がくると考える社会主義思想の方が、余程ぶっとんだ理想郷伝説である。

 ブータンについてしっかりした知識を持ちたい方は今枝由郎先生の書いた本がおすすめである。彼はフランスの国立科学研究センターの研究員であり、ブータンの国家図書館に出向して十年をかの地で過ごした方だ。専門は17世紀に成立したシャブドゥン政権の歴史である。先ほどの「ブータンの民族問題」なるものを考える上で参考に今枝先生の著作の引用を以下にした。

 そしてブータンには、決してその二の舞になりたくない身近な例がある。それは、ブータンの西隣り、ネパールとの中間に位置するシッキムである。シッキムは1971年代中頃までは、ブータンと同じくチペット系の仏教王国であった。ところが、1970年代中頃にはネパール系移民の方が過半数を占めるようになり、かれらが反政府運動を起こし、その結果王制は倒され、シッキムはインドに併合されてしまった。ブータンは、隣りの仏教王国の悲しい終焉を、こうして目のあたりにしているのである。現在シッキムは人口の絶対多数がネパール系で、元来の住民であるレプチャ族などは完全に少数民族として、その言語も宗教も"ネパール州"の中では市民権が認められていない状態である。ブータン人は、これ以上ネパール人の移入を認めたら、自分の国が、そして自分たちの言葉が宗教がどういう末路をたどるかは、この隣国の悲劇的経験から百も承知である。ブータンのとった一連の措置は、こうした危惧感からの、小国の自己防衛措置に他ならないであろう。

 ここで、シッキムに関する筆者の個人的な思い出を記しておきたい。それは、現在ブータンが置かれている状況の悲劇性を理解していただく一助になると思うからである。

 1973年春、当時外国人の入国にはかなりの制限があったが、筆者には一週間の滞在許可がおりた。フランス留学から日本への帰国途中で、ヒッピー同然の貧乏学生であった筆者は、シッキムの首都ガントックで一泊五ルピーの安宿に泊った。翌日知人から託された国王宛の本を王宮に届け、一日街をぶらついて夕方宿に戻った。昨夜は無愛想だった宿の女将が、部屋は本当に今のでいいのか、と心配気に聞く。もちろん、とこたえて部屋に入った。

女将の質問の理由は後で分かったのだが、日中私の留守に国王の秘書官が私の居所を探し当てて、宿に訪ねて来ていたのだ。夜になって再び秘書官が現われて、「これから王宮に行くから着替えろ」と言う。背広もネクタイも持ち合わせていない旨を告げると、秘書官は呆れ返った顔をして、私はまず彼の家に連れて行かれた。そこで、彼のシッキム服を着付けてもらい、そのまま国王の前に導かれた。それからはほぼ毎夜国王と夕食を一緒にすることになったが、何よりも嬉しかったのは、こんなヒマラヤの山奥に来てまさに夢想だにしなかったフランスのブドウ酒を飲めることだった。一週間の滞在許可も延長できたし、さらには将来二年ほど留学してもいいとの約束まで貰った。ところが、ある朝早くなんの予告もなく出国を勧められ、バスまで秘書官が同行してくれた。

 インドのカリンポンに向かうバスは、陸続と北上してくるインド軍の卜ラック隊と出くわし、待機させられることしばしばで、カリンポンに着いたのは予定に遅れること数時間、日はすでにとっぷりと暮れていた。翌朝の新聞に「シッキム国境封鎖」の大見出しを目にして、自分が生きた昨日がどんな意味を持っていたのかに、はじめて気がついた次第である。

 チベット学専攻で、チペット圏を旅行しながら、何も分かっていなかった学生であった。いずれにせよ、チペット文化圏の王国のシッキムは、こうして終焉を迎えたわけである。この同じ悲劇を、チペット文化圏最後の王国であるブータンには辿って欲しくない、というのはチベット研究者の個人的な感傷に過ぎないのであろうか。
(『ブータン・変貌するヒマラヤの仏教王国』より)


 ブータンの無防備な南国境をこえて違法に流入してくるネパール人の数はどんどん増えてくる。しかもネパール人たちはブータン社会にまったくなじもうとせず、言葉も文化もそのまま。そのため、ブータン政府ははじめネパール人にブータン国籍をとるように働きかけていたが、その人口があまりにも増えたため、自らの社会の伝統をまもるため、究極的にはインドに併合されることを防ぐために行ったことである。

 日本のような「守るべきものが何なのか」すら分からなくなった社会に住んでいると理解は難しいであろうが、ブータンやチベット難民社会にかろうじて残されている「良い人間をつくる文化」は、ブータン人のみならず人類にとっても必要不可欠なものである。これを守ることは既得権益をまもるというような薄汚いレベルの話ではない。

 ブータンの図書館につとめていたのは、今枝先生ばかりではない。ビルマの民主化のリーダーアウンサン・スーチーさんのダンナ、故マイケル・アリス氏(イギリスのチベット学者)も六年間、ブータンの図書館に教師として赴任していた。

 アウンサン・スーチーさんはご存じビルマ独立の父、ビルマ国軍の父の娘である。彼女が幼い頃父親は暗殺され、彼女の母親は長く駐インド、ビルマ大使をつとめ、彼女はインドで人格形成をし、ガンディーの偉業に影響をうけた。それからイギリスのオックスフォードに留学し、そこで、チベット学者マイケル・アリスとであう。

 マイケル・アリスはその頃、ブータンで研究していたため、スーチーさんは、1971年、彼にあうためにブータンにとんで、そこでマイケルのプロポーズを受けた。二人は翌年結婚して、スーチーさんはロンドンで二人の息子を授かった。その後、軍事政権に軟禁されていたスーチーさんは、一度出国するとビルマに戻れない公算が高かったため、マイケル・アリスの死に目にも会えなかった。

 こうしてみると、今枝先生といい、マイケル・アリスといいブータン系チベット学者はみな歴史の生き証人のような方たちばかり。

 ブータンに興味をもった方は是非今枝先生とマイケル・アリスの著作を読むことをお薦めします。
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COMMENT

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● 南相馬でなく相馬市です
mersey1962 | URL | 2011/11/24(木) 07:32 [EDIT]
ブータン国王が訪れたのは相馬市立桜丘小学校です。
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2011/11/24(木) 09:37 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2011/11/25(金) 09:54 [EDIT]
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嶺のシラユキ | URL | 2011/11/29(火) 00:19 [EDIT]
>merseyさんセンさん
治しておきました。

>Mさん
こちらこそ読んで下さってありがとうございました。

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