白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
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DATE: 2012/03/30(金)   CATEGORY: 未分類
実録・研究者の春休み
昨日はチベ語購読会。気まぐれではじめた勉強会であるが、なんともう四月で3年めに入る。二人を除いて残りはみなドクター号もっている一人前ということもあり、ここでしか通じないマニアな会話がかわされる。この勉強会の最大の特徴といえば、皆が手土産にもってくる日本全国の銘菓であろう。チベ語テクストよみながらくだらない話に花を咲かせ、お菓子食べまくり、糖尿まっしぐらである。

 今回購読した部分では、ダライラマ七世(18世紀)の逝去の事情が語られた。面白いのが、七世の葬儀を行おうとしても、ダライラマ五世は摂政が五世の死を17年間隠していたので葬式がなかったこと、ダライラマ六世は中国に護送される途上アムドで急死して、時の権力者が六世と対立していたのでお葬式出せなかったことから、誰もダライラマの葬儀に関する先例を知らなかったことである。

 つまり、この時代、もっとも近い時代のダライラマの葬儀は、17世紀の初頭になくなったダライラマ四世にまで遡り、その葬儀を目撃した人が生きているハズもなく、仮にその内容が分かったとしてもまだゲルク派がチベットを制圧するまえのことなので、政教一致の長の座にあったダライラマ七世の葬儀にふさわしいか否かも微妙なのである。

 もう一つ面白かったのが、資料の著者であるチベット貴族ツェリンワンゲルは、過去のダライラマについて言及する際に、清朝に廃されたダライラマ六世をちゃんと六世と明記していることである。清朝はダライラマ七世を「六世」と呼ぶことによって、六世の存在を記録から抹消していたので、ダライラマ六世をちゃんと六世と記録したツェリンワンゲルは清朝の方針をガン無視していたことになる。そもそも、ダライラマ七世は六世の転生者なのだから、七世を認めた時点で、清朝は六世を認めたことになるから、例によってメンツにこだわった姑息なごまかしなんだけど。
 
 そして、購読の合間にみなの帰朝報告に花が咲く。Aちゃんは台北故宮、Bくんはイギリスの大英図書館、Cくんも臺灣、Eちゃんはブータン、Dくんは被災地の親戚を訪ねている。※院生Mが休み中どこにいったのかはあまりにもくだらなくてコメント不能。

 中でも収穫があったのはイギリスにいったBくん。

Bくんはラサ条約(1904年のチベットが条約主体となってイギリスと結んだ条約)のチベット語版を探そうと思って(条約文は当該国の言語で必ず記される。イギリスとチベットなら英語版とチベット語版が必ずある)、イギリスに行く前にこの件に詳しいと思われる某研究者にメールした。すると、『いろいろな人が自分にその話を聞いてきたけど、どこにあるか分からないんだよね』と「分からない」との答え。

 そこでBくん文書館(TNA)にあるかと別の人に聞いてみると、やはり「ここにはないんじゃないか」という答えが。そこでBくん、自分で文書館に入ると、「もしあるとしたらここだろう」と思うフォルダの中にくだんのチベット語版は入っていた。一時間もかけずに見つかったという(笑)。

「自分が本当に知りたいことは、人に聞いてすませちゃいけない。自分で調べなきゃ。その場に足を運ぶと、こうやって「ない」と言われたものがでてきたりするしね。絶好調の時には資料の方からこちらにやってくるように感じることもあるよ」

 で、笑ったのは臺灣に資料みにいったCくん。

 Cくん「台北の近くの山の上に『セデック・バレ』(霧社事件を題材にした臺灣映画。一見反日映画に見えて実はそうでない 笑)のオープン・セットがそのままテーマパークになっているというので、行ってきました。」

 「どうだった?」

 Cくん「京都の太秦映画村が江戸時代のコスプレできるのをウリにしているうちに、最近はメイド服とか着る人たちが集まってきてますが、それと同じでセデック・バレのセットにも、普通にコスプレイヤーが集まっていました。笑」

「臺灣どこまで日本好きなんだ」

 Cくん「で、この時車だしてくれた女の子にお礼にと日本語の書類作るのを手伝っていたら、午前一時までかかりました。翌日午前五時おきで空港だったのに。三時間のドライブの対価が14時間労働です。しかも、その女の子の家の前に犬の○ンコがあって、それを片付けるのまで手伝いました。」

 セデック・バレからなぜ犬の○ンコに話が飛ぶ。

 そこで負けじと、自分も休み中の発見を語る。
 
 自分は清朝のチベット仏教をテーマにする中で、しばしば寺本婉雅の『蔵蒙旅日記』を参照してきた。寺本は滅びる直前の清朝に滞在し清朝皇室と交流し、北京や五台山のチベット仏教界とも深く関わった。その体験は一級の価値をもつ上に、観察者・記録者としても優秀たっので彼の記録は歴史資料として非常に有用である。

 現在公表されている寺本婉雅の歴史関係の著作は、彼が大陸に滞在していた折の日記、『蔵蒙旅日記』だけである。、そこで、他にもチベット仏教界に関する資料がないかと、寺本婉雅がチベット学の講座をもっていた大谷大学を尋ねてみた。

 大谷大学の担当者の話によると、寺本婉雅関連の資料は散逸しており、戦後弟子の横地祥原によって出版された『蔵蒙旅日記』の原本すら、どこにいったのか分からないという。私が「横地祥原に連絡は取ったのか」と聞くと、去年102才でなくなったので、確認とれないという。多田等観は記念館まであり、河口慧海には山ほど研究書がでて、像が刻まれ、碑文がたちまくっているのに、寺本婉雅はその全部がない上に関係資料すら散逸している。

 この惨状は、寺本婉雅が工作員であったことに一因があるらしい。GHQが寺本婉雅について大学に聞き取りにきたりしたので、大学は関わり合いになることを恐れ資料を遺族に返したりしたという。またその後も、戦後民主主義の中で、戦時中の政治性が嫌われ、寺本婉雅は能海寛、河口慧海などに比べると、冷たい扱いを受けることとなったのである。

  何それ。これって石川啄木が生活破綻者で借金まみれだったから、彼の詩文を研究したくない、っていってるようなもので、寺本婉雅が現代の我々からみて政治的にどうこうしていたとしても、価値ある資料を散逸させ存在を無視する理由にはならない。

 多少の朗報があるとすれば、2006年、寺本関連の資料の一部が関係する寺から発見されたこと。それが現在大谷大学に所蔵されているというので、見せていただく。みな包んであるので
「中身は何ですか?」

担当者「よくあるものですよ」

「ああ、常用経典とかですか」とかいいながら、一番上にある箱を試しにぱかっと明けてみると、これがびっくり。

 美しい手書きの絵入りの本草書である。ぴらっと一枚ページめくると、奥書に「寺本婉雅が明治31(1898)年に雍和宮でえた」と書いてあり、これが清朝時代の雍和宮の医学堂で用いられていたことが分かる。寺本婉雅27才の時である。

「これのどこがよくあるモノなんですか! すごいですよ、これ。他にもあるんじゃないですか? お宝がっ」

担当者「日記類が二セットあるんですが、一つは出版されていない部分の日記、もう一つは既出の蒙蔵旅日記の第二回の北京滞在にあたる部分ですが、出版されたものと異なります。こちらは、何かの目的で抜き書きしたもののようです」

そこで、出版された『蔵蒙旅日記』と目の前にある寺本の手書き稿本を比べてみると、明らかに稿本の方が編集前の趣を残している。たとえば、二つを比べてみよう。●が出版された文章、○が今目の前にある稿本である。

・・・十五日午後より北京宮城の西華門内にある大黒神廟に至る。廟は昨夏義和団の兵?を逃れて安全なりき。

○十五日・・・午後一時より北京宮城の西華門内にある大黒神廟(マハカラ廟)に至る。廟は昨夏義和団の兵?に逃れて安全なりし。

建築物大にあらざるも本堂一棟、内部はよく整頓せり。何年頃の建築物なるやは知らざれども、境内一の石碑だになきより見れも、未だ一度も天子の巡拝なきを証すべし。

○余り大寺建築物大に非ざるも、整頓森厳にて本堂一棟のみ。何時分の建築なるやは知らざれど、境内一の石碑だになきより見れば、一度も天子の巡拝なきを証すべし。

本堂の外額は御筆にかかるも何朝何帝の御筆にるを知らず。

○本堂の外額は御筆に関わり「brte慈 skyob済 khang殿」×、何朝何帝の御筆になるかを知らず。

一部を確認しただけでは何とも言えないが、明らかに稿本の方が情報多いし、書き込みも多いので、既出のものの抜き書きとは思えない。むしろ、稿本が出版本の底本と考えるべきであろう。たとえば、稿本のみにマハーカーラ廟の殿の正式名称が記録されており、出版本にないのは、出版の際に読者が理解できないチベット文字を削ったと説明できる。

 というわけで、やはり自分が知りたいことは、聞くより自分で調べるのが早いということがここでも証明された。

 「こんな有名な人なら誰かが研究しているだろう」「こんな有名な資料なら誰かが保存しているだろう」って、チベットに関してはこの予断通用しない。誰も研究しないし、資料も散逸するだけだし、歴史の闇に消えていくだけ。
 
 寺本婉雅は戊戌の政変、義和団事件、光緒帝の死などの激動の現代史中にあって、それらの目撃者でありプレイヤーであった。そのうえ自分の見聞きしたことを記録に残してくれた。亡命中のダライラマ13世とも会見し、詳細な記録を残してくれた。歴史家にとってこれほどありがたい人はいない。

 この男、歴史の闇に葬るのはもったいない。

  ふとみると、本棚の上に、図書館の中でチベット文献を参観している若い僧のパネル写真がある。

 「ダライラマのお若い頃みたいなイイ男が写ってますね」といったら

 担当者「ご本人ですよ。北京版チベット大蔵経を見に来られた時のものです。チベット学会が大谷で開かれた時にパネル展示したものを置いてあるんです」

 マジか。写真からみて、法王三十くらいの頃か。若き日のダライラマがご覧になっているこの北京版大蔵経も、寺本婉雅が義和団事件で混乱する北京から日本に持ち帰ったものである。この北京版は鈴木学術財団から影印出版されて、世界のチベット学に限りなく裨益した。

 やってみようかなあ、寺本婉雅。でも、これまでの自分の研究テーマは17-18世紀。いっきに20世紀、それも若干日本史入るテーマが自分にできるのか謎。そもそも寺本の手書き文字達筆すぎて読めないし(笑)。
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COMMENT

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あくび母 | URL | 2012/04/04(水) 13:48 [EDIT]
無責任にいわせてもらえば、がんばって!期待してます!!
いままで、あまり耳にしたことのない「寺本婉雅」なる人物に興味わきました。激動期のプレーヤーのひとり・・・
大変なご苦労がともなうと想像しますが、期待してしまいます
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2013/03/15(金) 23:34 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます

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