白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/04/14(土)   CATEGORY: 未分類
嫉妬と随喜(釈迦灌頂報告)
 先週の日曜日は釈尊の誕生日であるお花祭りであった。この日、来日中のロサン・テレ先生(元ギュメ座主・次期セラ大僧院管長)が釈迦許可灌頂を授けられた。本エントリーはその実況。
 
 灌頂 (dbang) と許可灌頂 (rjes gnang) の違いは、灌頂が仏の力すべてを授かるのに対して、許可灌頂は仏の功徳の一部を頂くもの。本灌頂の起源は古くアティシャからダライラマ法王をへてロサン・テレ先生に伝わったという。
 
 ロサン・テレ先生「本日は日本ではお釈迦様の生まれになった日であり、チベット暦でも釈尊の生誕日とされる二月十日から一週間ほどたっていない、とても縁起のいい日です」。 ※以下、お釈迦様、釈尊、仏、はみな同じことを指しています。


須弥山(仏教の世界観によると世界の中心にある超高山。実在の世界ではチベット高原が反映している)の四方には、四つの大陸(四大部洲)があり、南方にある大陸がわれわれの住む閻浮提(インド大陸)である。閻浮提は煩悩まみれであるため、誰も教化しようという人が現れなかったが、兜率天にいたお釈迦さまは、あえて我々のためにこの閻浮提に降誕してくださった。

 兜率天にいたお釈迦様は閻浮提に降誕する際に、浄飯王を父に摩耶夫人を母に選び、六牙の白象の姿で母の胎内に入った。白の意味は、普通の母親の胎内は汚れているので前世の記憶を失うが、摩耶夫人の胎内は清らかなことを意味する。六牙の六は釈尊が悟りを開いた後に、教化する六派の異教徒たち(六師外道) を表している。

釈尊が生まれるとインド中の器がミルクで満たされた。この同じ日に釈迦族には500人の子がうまれ、釈尊に仇なすデーヴァダッタも生まれた。デーヴァダッタの母は器のミルクをみて、我が子を特別だと思い、そのようにふきこんで育てた。釈尊の手のひらには大人物の証である法輪相があったが、デーヴァダッタにはなかったので、母は金をとかして法輪形をデーヴァダッタの手のひらに書いた(後にデーヴァダッタは釈尊に様々な災いをなす)。

釈尊は生まれるやいなや四方に向かって歩き、天上天下唯我独尊といい、歩いた後には一足ごとにハスの花が咲いた。生まれてすぐに占い師にみせると、「在家では転輪聖王、出家では如来となる」と予言された。父は転輪聖王になってほしいので釈尊に楽しいことばかりをさせた。結婚もさせた。

 しかしその父王の努力もむなしく、釈尊は29才になると俗世を厭い、出家しようとした。そこで父は「息子の剃髪をしたものはその手を切り落とす」と布告した。しかし釈尊の決意は固く、皆が寝静まった夜、従者を一人つれて馬にのって城をでて、自分で剃髪をした。そして6年の修行の後、時満ちて菩提樹の下で瞑想に入った。すると、釈尊が悟りに入るのを邪魔するためにインド中の悪魔がやってきて、釈尊に向かって弓や石をなげつけたが、それは空中で花にかわって釈尊を飾り立てた。

 満月の晩、釈尊はついに悟りを開き仏(目覚めたもの)となった。その後49日の間、説法をせずにその境地を楽しんでした。しかし、梵天があらわれて、釈尊に説法をするように願ったため、釈尊は説法を開始した。

 釈尊は「自分に文字を教え、数学を教えた先生はどこにいるか」と聞いた。
 外道は「悟りを開いているなら、今先生方がどこにいるか分かるだろう」と陰口をきいた。そして釈尊が文字の先生と数学の先生を最前列に座らせると、外道は「自分に近いものをひいきするのは執着のある証拠だ」とまた陰口をたたいたが、釈尊はすべてを知っていたが、師を大切にして恩を忘れてはならないことを示すために行ったことであった。

 興味深かったのは、仏伝が昔話のような身近な物語として語られていること。たとえば、お釈迦様に対して外道が陰口をたたいたり、お釈迦様に生涯にわたってつきまといいやがらせを行ったデーヴァダッタが、実は母親の育て方に原因があった、とそこいらの残念な人の人格形成を説明するように語られているところ。

 次にロサン・テレ先生は仏の心と体と言葉の美質(功徳)について語る。

仏に対してはあこがれの気持ちを持たねばならない。従って、仏の美質について知るべきである。

 まず、仏の心は、すべてを知ることができる(一切知)。 この世の終わりに世界が劫火に焼き尽くされた後、そこに残った灰をみただけでも、それが何であったか分かる。そのくらい、すべてを知っている。

 仏の言葉は不思議である。仏の言葉を聞く者は、すべて自分のことを言っているように聞こえる。シャーリプトラには「シャーリプトラよ」と呼びかけているように聞こえるし、マウドリガーヤには「マウドリガーヤよ」と呼びかけているように聞こえるし、アーナンダには「アーナンダよ」と呼びかけているように聞こえる。※先生の直接先生から聞いた話として、イギリス人には英語でしゃべっているように聞こえ、その国の言葉で説法しているように聞こえるという。

仏の言葉はどこにいても同じように聞こえる。最前列に座って仏の説法を聞いていたシャーリプトラが、「こんな小さな声では後ろの人は聞こえないだろう」と思って、最後列にいっても同じ大きさで聞こえた。そして、神通力で西牛貨州にとんでいくと、そこでも同じように聞こえた。

 仏の言葉は正しい。仏は「私がしてはならないということでした方がいいものがあったか、私がしろといってしない方が良かったことがあるか。」といった通りである。

 最後に仏の体は不思議である。仏の説法会では寝ているものがない。なぜなら聴衆すべてが仏が自分の方を向いて話をしているように見えるからだ。

 今回の灌頂は実は四タントラのうちでも所作タントラという所作や儀式の手順を重視するタントラである。そのため、七支供養(yan lag bdun)の解説が詳しく行われた。よく考えたら所作タントラは今回がはじめてだったので、所作の解説がある今回の法話は非常に新鮮だった。


七支供養の内訳は、(1) 礼拝、(2) 供養、(3) 懺悔、(4) 随喜、(5) 説法を請う*(釈尊伝の梵天勧請にあたる)、(6) 師に涅槃に入らないように頼む*(釈尊伝の釈尊が涅槃に入るといったことに対し、アーナンダがとめなかったため、釈尊が涅槃に入った故事にちなむ)、(7) 回向*(以上の善を一切有情に回向する)

 この七つを行うことは五体満足に生まれることに等しい。五体満足に生まれるということは何でもできるということで、七支供養を行うことは今世と来世をよくすることができる。それでは一つずつ説明しよう。

(1) 礼拝
礼拝に際してはまず合掌する。その際、親指を外ではなく中に入れる。親指を外にだすのは外道の合掌である。合掌は仏の姿を表しており、中に入れた親指は、仏像や仏塔の中にいれる、おみたま(gzungs gzhug)を表している。
 この合掌した手を頭のてっぺん、喉、胸につける。これはそれぞれ仏が悟りを開いた時に生ずる頂髻の習気をつくること、仏の言葉の習気をつくること、仏の心の習気を作ることを表す。礼拝の功徳ははかりしれない。

(2) 供養
 仏様への供養は自分のもっているものだけでなく他人のものでもいい。私は東京にいった際、その夜景の美しさに感動したので、それを仏様に供養した。供養のやり方で重要なのは、「仏様が喜ばれた」と思う事である。供養には計り知れない功徳がある。

(3) 懺悔
 自分の行ったかつての悪行を具体的に思い出して、「失敗した! これからはもう絶対このようなことはしない」と思う事である。どのくらい真剣に思わなければいけないかというと、三人で食事を食べていたら、その食事に毒が入っていて、一人が死んで、もう一人が死にかけていたとすると、あなたは何とかして今食べた毒をはいて、二度と食べまいと思うだろう、そのくらい真剣に「もう二度と過ちを繰り返さない」と誓いなさい。

(4) 随喜
自分のした良いこと、他人のした良いことを喜ぶこと。このような随喜は実は最も大切なことである。

 昔プラセーナジット王が釈尊とその弟子衆に毎日供養を行っていた。そして釈尊に「ここに集まった人の中でもっとも徳を積んだものに回向してください」と言うと、釈尊は末席にいる貧しい一人のおばあさんに回向をした。それは毎日続いた。

 すると王はだんだん痩せてきた。家臣が「病気ですか」と問うと、王は「私は病気ではない。私は毎日釈尊とその弟子たちに多大な供養を行い、その際もみじんもケチな心は起こさず、心からやっているのに、釈尊は毎度私よりもあの老婆を徳があるという。それが気になって食欲がないのだ」といった。

 次の日、王がいつものように釈尊を供養すると、その日釈尊は王の名を呼んだ。家臣に聞くと「昨日老婆をボコボコにしました。」すると、釈尊は「王よ、おまえは供養を行っても慢心を起こすばかりで、随喜しなかった。あの老婆は『王様は仏様を供養して、いいことをしているなあ』とおまえの行動をいつも随喜していたから、彼女の徳がお前より大きかったのだ」と答えた。※つまり、その日王様の家臣にボコボコにされた老婆は、王を恨んで王の行いを随喜しなかったので、結果として王の名が呼ばれた(笑)。

ツォンカパも「随喜はすばらしい。金もかからんし体もつかわんでええ」というておる。随喜は慢心と嫉妬を抑制してくれる。謙虚にしてくれる。だから重要である。

(5) 師に説法 (転法輪) を請う

 梵天が釈尊に金のマンダラを捧げて仏に法を説くように、と頼んだ故事にちなんで行う。説法があることによって、人は自分の間違っていることに気づき、煩悩に立ち向かおうとする。転法輪は人を成長させてくれる功徳をもつ。※これがあるので高僧は頼まれないと法を説かない。

(6) 師に涅槃に入らないように頼む
 師が生きているから説法ができる。師の在世が永からんように、毎日お願いする。

(7) 回向
 自他の功徳をもって一切の有情が仏の境地にいたるようにすること。

 回向について示すものとしてこのような物語がある。
 ある日貧乏な男が、豆の粉をもってきて、入れ物を貸してくれといってきた。聞かれた男はうちは貧乏くさい豆の粉を入れる器はない。大麦の粉の入った器ならある。というと、貧乏な男は大麦の粉が入った器に勝手に豆の粉を入れた。すると豆の粉と大麦の粉はまざってしまい、区別がつかなくなった。すると、その貧しい男は自分の豆を食べると称して、毎日大麦粉を食べにきた。回向もこのようなもので、善業は少ししかつめないが、それをより多くのものにまぜると多くなる。一杯の水も大海に入れば区別つかなくなる。そして多くを味わうことができるようになる。

つづいて優婆塞戒と、菩薩戒が授けられ、そして灌頂本体が始まる。

 ここで優婆塞戒(dge bsnyen)が授けられる。以下の五つを守りなさい。全部はムリでも一つは守るようにしなさい。
1 人を殺さない
2 盗まない
3 邪な性行為をしない
4 悟っていないのに悟ったとうそをつかない
5 意識を失うほど酒をのまない
この五つを意識してまもれたら、人として生まれた意味がある。
 

優婆塞戒を授かったら、今度は三宝に帰依しなさい。
三宝のうち、
仏は俗な言い方をすれば医者であり、法はクスリであり救済そのものである。そして僧は看護師であり、法友 (Zla grogs)である。

三宝によって人は悪趣の痛み(gdung)から逃れ、速やかに善に向かい、魔によって害されず、三戒の基礎を得る。

●菩薩戒を授かる

菩薩戒は何回うけてもいい。カダム派のラマがこういっている。「財はつきないけど、法はつきる。」と。これは、財産はいくら積み上げてもまだ足りないと思うが、法は「これ前に聞いたわ」とか、「この灌頂前に受けたわ」とかいってすぐに飽きてしまうことを意味する。しかし、それは違う。法は同じものでも聞くたびに新たな気づきがある。だから法を聞くチャンスがあれば、行って聞くようにしなさい。ただ誰の話でもいいわけではない。

ダライラマ法王は「ある人をラマと仰ぐ前に、その人が正しい法を説いている人かどうかを見極めなさい。信頼にたる人の法を聞きなさい。」とおっしゃっている。

私は信頼できます(笑)。すぐにインドに帰りますからね。臺灣や日本には時々いいかげんなラマがくるので、ちゃんと見極めてから法を聞くようになさい。へんな人につくとろくな業をつまないよ。

随喜しなさい。そして
毎日釈尊のマントラを唱えなさい。


以上であるが、今回のお話は合掌の仕方とか、七支供養とか、具体的なお作法の話が多かった。この釈迦灌頂は所作タントラで、所作タントラって、その名の通り、儀式の所作をまずきちんとすることに眼目が置かれるので、法話もそうなるのだ、と当たり前のことながら感慨深かった。

 また、今回のエピソードは、随喜(人や自分の良いところを喜ぶこと)と嫉妬(人を落とすこと)が隠れテーマであると思われた。たとえば、法話の前半部で釈尊伝を語る時は外道やデーヴァダッタなどの、お釈迦様の悪口をいったり、嫉妬をした人たちの話がなされた。そして、後半の七支供養のうち随喜の説明は詳しい。随喜とは一言でいうと、物事の善い面をとりあげて喜ぶこと。つまりは不平・不満・グチ、悪口などの逆である。

 そこで思い出したのは、ターラー尊の生起法で、嫉妬は成所作智(仏の五智の一つ)の対極とされていることである。つまり、嫉妬によって人の悪口をいったり、やったりすることは、まっとうな所作・まっとうな言葉・全うな心をなくしてしまうということである。嫉妬にかられた人が、立派な行いを残したという話は聞かない。一方「ええことしはったなあ」といっている人の顔や口かゆがむことはない。

たしかに、随喜は先生もおっしゃるように「金も体も使わずに」もっとも簡単に、ものごとをネガティブからポジティブに変える魔法といえる。

 自分がこの釈尊の生まれた日に、灌頂を授かり、チベットの高僧から仏伝を聞き、礼拝の所作の意味を聞き、随喜のありがたさを知り、それをここで書くことができている、これ自体、いろいろな意味で幸せなことだと思う。願わくば、これを読んだ方もこの文章を随喜して、その功徳をまるまる頂いてみてください。

※阿闍梨追伸: 「随喜と同じように嫉妬や慢心、怒りを治める功徳があるのは【慈しみ】。慈しみについても、随喜と同じように繰り返し考えてみるように。」
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COMMENT

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● ご随喜申し上げます。
川口英俊 | URL | 2012/04/15(日) 07:47 [EDIT]
釈迦灌頂のご報告の内容に深く随喜申し上げます。

偉大なる尊師たちより灌頂をお受けできる機縁にやがて恵まれんことを冀い奉ります。

川口英俊合掌九拝


嶺のシラユキ | URL | 2012/04/15(日) 10:02 [EDIT]
>川口さん
早速の随喜、ありがとうございます。川口さんもいつもチベット支援ありがとうございます。

KOICHI | URL | 2012/04/15(日) 21:48 [EDIT]
随喜は慢心と嫉妬の最高の対策をいう考え方は、師匠がいつもミスターにおっしゃっていたことのようで、ミスターの系統独特の、より深い解釈と言えるでしょう。今回のブログのお話をしましたら、「多くの善男善女に随喜について考えてもらえるのでは」と、とても喜んでらっしゃいました。阿闍梨がお喜びになることこそ供養ですので、今回のブログは本当に良い供養になりました。
私も随喜致します。

| URL | 2012/04/15(日) 23:19 [EDIT]
コーイチ先生、ラマが喜ばれたって、それって「供養」が成功しているってことじゃないですか。やったあ! ※ 慢心は起こしてません。来世もオッケーとかも思ってもいません(ゆってるけど)。
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2012/04/16(月) 17:21 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます

嶺のシラユキ | URL | 2012/04/16(月) 18:43 [EDIT]
>Mさん
ありがとうございます。飼い主が大きな手術をする時にペットが死ぬ、そして飼い主の手術が成功するという話をよく聞きます。ダラムサラで高僧が突然死する時も法王をまもって身代わりになったという噂がたちます。こういう話を聞いていると自分の今の苦しみも前世か現世かはわからずとも誰か世話になった人の苦しみを代わりに背負うことがあるのかもしれません。そう思うことで苦しみが和らぐかとも思いますし。

mimaco | URL | 2012/04/23(月) 12:49 [EDIT]
花祭りの日の、ありがたい釈迦灌頂実況報告、ありがとうございました。
>法は同じものでも聞くたびに新たな気づきがある。だから法を聞くチャンスがあれば、行って聞くようにしなさい。
残念ながら直接法話をお聞きすることはできませんでしたが、こうしてご報告を読ませていただくだけでも、新たな気づきが得られたように思います。
>自分のした良いこと、他人のした良いことを喜ぶこと。このような随喜は実は最も大切なことである。
自分の良い行いを慢心せず謙虚に喜べば、つぎにはもっと良い行いをすることができますし、また他人の良い行いを素直に喜べばその美点を見出すことができて、明日から見習うこともできます。
「自分はダメだ」「あの人はいけない」式のネガティブスパイラルでは、何もよき方向に向かうことができないですね。
遅ればせながら、ご報告に随喜申し上げます!
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2012/04/23(月) 12:58 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2012/12/25(火) 19:22 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2012/12/25(火) 19:24 [EDIT]
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