白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/04/22(日)   CATEGORY: 未分類
『チベットの歴史と宗教』
 チベット亡命政府の文部省(Department of Education Central Tibetan Adiministration of H.H. The Dalai Lama)が制定したチベット文化の教科書『チベットの歴史と宗教』(rgyal rabs chos 'byung dang rigs lam nang chos) の翻訳が出版された。本書のもつ意義について簡単に述べる。
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 チベット文化を構成する様々な諸側面は、多かれ少なかれどこかで仏教の影響を受けている(ポン教も体系化する際に、その始祖伝説から教義に至るまで仏教の影響を受けた)。チベットの歴史書の大半は仏教の興亡という視点で記され、チベット人の多くに見られる、殺生を嫌い慈悲を尊ぶ思想も、仏教の影響を抜きにしては語れない。このチベットの仏教文化は、チベット文字によって記録された仏典・聖典類を核に発展してきた。

 周知の通り、このチベット語とチベット仏教文化の伝統は今歴史的な消滅の危機にある。

 1959年、ダライラマ14世はインドに亡命した後、全チベットは中国の支配下に入った。24才のダライラマはまずチベット文化の維持に必要な僧院文化の維持、さらに、異国の地にあってチベット人がチベット人として育つことができる環境を考えねばならなかった。また、数万に及ぶチベット難民の生活を考えねばならなかった。

 その当時、チベットを占領した中国はインドにまで攻め込んできたため、インド政府はヒマラヤ地域に軍を送らねばならなくなった。そのための道路建設の労働者として、高地に強いチベット人が選ばれた。ダライラマ14世とインド政府が話合った結果、難民たちはヒマラヤの軍用道路建設に雇い上げられ、工事現場で、たくさんのチベット難民が命を落とした。難民の子供達も劣悪な環境で弱っていった。

 このような状況を受けてダライラマは、難民の子供たちをダラムサラに集めて育てる決断をした。1960年5月、最初の50人の子供達が道路工事現場からダラムサラへと到着した。子供達はいくつかの建物に分散して住まわされ、ダライラマの姉ツェリン・ドルマが先頭に立って子供達の世話をした。子供達は体力のない乳幼児から亡くなっていたものの、世界中の援助団体の力もあり、死者の数は徐々に減っていった。これが有名なチベット子供村(TCV)の始まりである。

 チベット子供村はドイツの援助団体などの支援を受けて運営されるいわば私立学校である。この他にも、各地のチベット難民コミュニティに、難民政府の文部省が直接運営する学校(Central School for Tibetans)が建てられていった(政府直営の学校のリストは→ http://www.sherig.org/schools/CTSA.htm ※MMBAの野村くんのご教示による)。
 
 一方、中国支配下の東チベットにおいては、ダライラマが亡命する以前の1957年頃から人民解放軍によって僧院は破壊され、僧侶は還俗を強制されていた。文化大革命の開始と同時にそれは全チベットに及び、さらに中国政府は仏教のみならずチベット語の使用を禁じ、チベット文化全体を否定した。チベット人が歴史の中でつみあげてきた仏教文化の精髄である、経典、仏像、仏塔類は廃棄され、廃棄された経典は道路にあいた穴の穴埋めなどに用いられたため、経典を踏めないチベット人は外を歩くこともままならなくなった。

 つまり、チベットの伝統文化はこの時点でインドの難民社会とインド領内の伝統的なチベット人地域にしか存在しないものとなったのである。

 文革大革命が終わると、状況は若干改善した。しかし、中国政府の下で経営される学校においては、漢化は避けられないため、チベット人の親たちは子供達をダライラマの下に送り出した。中国軍による国境の監視のゆるくなる冬季に雪深いヒマラヤの峠を越えるため、多くの子供が命を落としたり重い凍傷にかかって足の指を失ったりした。それでも親は子供達がチベット人として育つことを希望して子供たちを送りだし続けた。

 2008年の北京オリンピックの年、チベット人の蜂起が起きると、中国政府はネパール政府と協力して国境の監視を強め、チベットからの亡命者の数は激減した。チベット人学校の定員にも空きがでてきたため、現在はヒマラヤ地域の子供達を積極的に受けいれているという(ダラムサラのtonbaniさん情報による)。

今回翻訳された『チベットの歴史と宗教』は、このようなチベット難民社会の学校で、チベットの文化を教えるために用いられている教科書である。

 本書は日本では中学生にあたる年齢の、六年生、七年生、八年生用の三冊を一冊にまとめたものである(チベットの文字や文学を教える教科書はまた別にある)。内容は「王統史」「インド仏教」「論理学」「仏教」の四部構成である。それぞれの部の記述内容は、伝統的なチベットの文献群からの忠実な要約・抜粋で構成されており、たとえば、「王統史」はチベットの年代記文献(チュージュン)によっており、「インド仏教史」は『プトン仏教史』、『ターラナータの仏教史』からの引用が多く見られる。また、「論理学」は僧院内で用いられている伝統的な論理学の入門書(ドゥラ文献群)によっており、「仏教」は、ゲルク派の開祖ツォンカパの主著『ラムリム』中の「小人物の修行」が典拠となっている。また、インドの四大学派、チベットの四大学派についての記述は宗義書文献(ドゥプタ)に拠っている。

 この内容を一見すれば、チベット亡命政府は、子供を教育するにあたり、仏教に非常に重要な役割を担わせていることが分かるであろう。TCVの寮を訪れたことがあるが、学校にも寮の共有スペースにも仏画やダライラマ法王の写真が飾られていた。一日は読経で始まり、チベット子供村のモットーである「自分より他者のことを思いなさい」(Other before self)も、仏教の利他の精神に基づいている。

 ちなみに、このモットーの下で、教師と生徒、生徒同士の間には家族のような雰囲気が醸成されている。生徒たちは卒業後も失業した人に仕事を融通する、病気になった人の面倒をみる、後輩の里親になるなどの助け合いを続けることとなる。

 つまり、、チベット社会の子供の教育の目的は、チベット文化の心髄である仏教を通じて、子供たちを円満な人格に育て上げることにあるのである。道徳教育をフルシカトした日本の教育とはまったく逆である。

 本書と同じ「世界の教科書シリーズ」には『中国の歴史教科書』『韓国の歴史教科書』なども和訳されている。これら二冊をチベットの教科書と比べて頂くとその差がよく分かる。

 中・韓の教科書を素直に読めば、無意識の内に自国を絶対とし、他国、とくに日本を敵視するように、一言で言えば愛国心が喚起されるようになる。一方このチベットの教科書は仏教徒の教養が身につくこととなる。誰を憎むことも憎ませることもしていない。国を失うという究極の状況の下でも偏狭なナショナリズムに陥いっていないのである。

 難民社会の教科書の方が、「大国」中国の教科書よりもよほど品がある。なにしろチベットの教科書は、釈尊伝やインドの聖人たちの伝記に気合いが入り、チベット史よりは余程長いページが割かれている。

  現在、中国の支配下にあるチベットにおいては、チベット語教育は制限を受け、チベット語の読本においても、仏教色のある話がとりあげられることはない。このようなチベット語教育に対する制限と僧院における研究や修行の妨害が、あいつぐ焼身抗議の理由の一つにもなっている。

 平和を愛し人格者を育てるチベットの教育は世界標準からみて尊敬されるべきものである。チベット人は、祖先以来の地で、自分たちの子供を自分たちの文化によって育てていくことを願っている。この当たり前の希望すらつぶしている中国が、多民族国家を標榜しているのはまったくもって欺瞞としかいいようがない。
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※ 本写真は訳者二人が出版を記念して食事をした、浜松町のTsuki Surです。窓の外がすぐに海で、ゆりかもめをウォッチングしながら食事ができる鳥好きにとっては素晴らしいロケーションです。あ、ベイブリッジ・お台場もきれいにみえます。
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