白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/04/29(日)   CATEGORY: 未分類
灌頂の共通構造(メモ)
 ロサン・テレ先生は22日に護国寺様で阿弥陀仏の長寿許可灌頂を行い、28日に東大寺で観音灌頂を授けられ、翌日インドに帰国された。わたしは、五月三日に出雲の峯寺でコバンザメ講演を行い、七日には某仏教徒の内輪の集まりでお話するため、パワーポイントとか、レジュメとかの準備もあり、かつパリ学会もせまってきたので英作文もせねばならず、無念にも東大寺の灌頂は見送った。聞けばあの灌頂、受けると悪趣(地獄・畜生・餓鬼)行きが一回休みになるというスグレモノであった。くくく。

 峯寺の講座は「灌頂とは何か」というお題で語る。なので、今回のエントリーは21日の護国寺様の阿弥陀灌頂を例にとりつつ、峯寺の講座の下書きもつくっちゃおうということで灌頂の共通構造を整理してみた。

 灌頂はチベットではワン(dbang)という。意味は「〔仏の〕力」である。この言葉が示すように、灌頂とは阿闍梨を通じて本尊の力を授かる儀式である。人類学的にいえば入門儀礼とかいうはずである。

 灌頂を受けるとその本尊を主尊とした修行を始めることが許可される。俗なたとえで説明すれば、大学入試に合格して大学で勉強する権利を得た段階である。従って、入学後に授業にでないでさぼっていたら合格の意味がなくなるように、灌頂を授かっても心をただす修行を始めなかったら、灌頂を授かった意味はなくなる。しかし、合格しなければその大學の授業が受けられないように、灌頂を受けずに修行をはじめても効果はでない。

顕教では長大な時間がかかるという仏の境地に至るまでの修行過程を、密教は短い時間で実現できると説く。どうしてそれが可能かというと、凡夫の心に直接仏様の心(厳密に言えば仏様は体と言葉と心が一体化している)をなじませる実地修行を行うからである。しかし、凡夫が仏様の心を知るわけもないので、仏の境地は阿闍梨を通じて頂かねばならない。それか灌頂儀礼なのである。

 灌頂は大きく言って、前行・本行に分けられる。

●前行(sngon 'gro = 受者の心構えを整える)


1. 阿闍梨(灌頂の導師)挨拶
ダライラマ法王も来られたこのすばらしいお寺(護国寺)で灌頂ができることは誠に喜ばしいことである。

2.釈迦牟尼を讃えるお経。
 釈迦は「ただ偉い人がいったらそれを信じるというのはいけない。その内容を分析して納得したら信じなさい」といった。こんな人は他にいるだろうか。

3.阿闍梨のなすべきこと

 阿闍梨は灌頂を授ける前から、阿弥陀仏を供養し、阿弥陀仏と身体・言語・心で一体化している。
 阿弥陀仏のサマヤであり、灌頂の受者を清めるツールである瓶も、空にもどして生起した。
 次に、この場にいる魔にでていってもらう。魔とは灌頂を受ける者をジャマするシチュエーションである。たとえば、灌頂の日に仕事が入ったり、会場に向かう最中に事故にあったりするのは魔が入っているのである。このトルマ(小麦バター細工の供物)につられて魔がこの会場をでて、海の果てまででていったと観想しなさい。

4.弟子のなすべきこと

 弟子は体で三礼をし、口をゆすぎ、心で曼荼羅を供養する。

 密教はイメージである。イメージを鮮明に保てる程功徳は大きい。阿闍梨を凡俗の僧ではなく、阿弥陀仏であるとみて、この建物も護国寺ではなく阿弥陀仏の浄土とみなして、阿弥陀曼荼羅の真ん中にいると思いなさい。

5.灌頂を受ける動機を正す。

 人として生をうけ、仏法に出会い、阿闍梨と出会い、そして仏法を理解できる能力があることは素晴らしいことだ。しかし、仏法を実践しなければこのすべてがムダになる。死はいつやってくるか分からない。必ず全員死ぬ。死後、悪趣におちれば長く苦しみをうけ、善趣にいっても、一時楽しいだけで、その報いはやってくる。輪廻はあてにならないのである。

 あらゆる有情は始まりのない昔から輪廻する中で自分の母だったことがあると思いなさい。母は自分が年とって体がつらくなっても子供が幸せであることを願っている。その恩は計り知れない。母であった有情を楽にする究極の解決は仏の境地に導くこと。そのために仏法を実践すると思いなさい。

 仏法を実践するためには時間が必要。だから阿弥陀仏の灌頂を授かろう、と思う事。ただ長生きしたいというのではいけない。ろくなことしないヤツは短命の方がいい。人生が短ければ積む業も少ないからだ。阿弥陀仏は長寿儀礼の三大本尊の一つに数えられる。

6.法統解説

 インド・チベットの聖者をへて阿闍梨にいたるまでの阿弥陀仏の法に関する、伝法の歴史が述べられる。

7.阿闍梨に説法をお願いする。

 過去・現在・未来の仏の教えはただ阿闍梨を通じてのみ、われわれは知ることができる。だから、阿闍梨は仏と同じである。釈尊が覚りを開いた後、釈尊は法を説かずに涅槃に入ろうとした。しかし、梵天が釈尊に転法輪を請うたことによって、釈尊は暫時涅槃にはいることをやめ、仏教を説いてくださった。仏は請わないと法を説かない。だから、受者はここで阿闍梨=仏に説法を請う。

8.菩薩戒を受ける。

菩薩戒は何度とってもいい。この無数にいる人の群の中で自分が今日菩薩戒をとることができること、これがどれだけありがたいかを随喜しなさい。

 三宝(仏・法・僧)に帰依する場面ではこう思いなさい。我々は病人のようなものであり、仏は医者であり、法は救済の手段すなわち薬であり、僧は看護師であると。良いことがあっても悪いことがあってもたよるべきは三宝のみである。

 懺悔の場面では、自分のした悪いことを具体的に思い出して、それをもう二度とやらないと誓いなさい。何か悪いことをしても、言い訳をしてごまかしていると必ず同じ間違いを繰り返す。しかし、本当に悪いことをしたと思えば、二度と同じ過ちは犯さない。私は幼い頃、鷲をなぶり殺したことがあって、まだ幼くて力がないから鷲は苦しんで死んでいった。だから、自分は懺悔の時にそのことを思い出すようにしている。

 随喜は誰かが良いことをしたら、その良いことを喜びなさい。そうするとその善業の功徳をまるまるいただくことができる。ただし、悪い行いを随喜したら、その悪業もまるまる頂いてしまうので、随喜の対象を見極める目をもつことが大切である。

 菩薩戒をとれば実はこれ以外は何も必要ないのである。灌頂を受けなくてもこれだけで十分である。これから気持ちよく仏法を実践しなさい。気持ちよくしていれば頭もよくまわるし判断も正しくできる。

 菩薩戒を受けると、はじめて受けた人は菩薩戒が授かり、すでに受けたけど菩薩としての修行を行わなかった人は新しくリセットされ、毎日菩薩戒をまもっていた人はさらにいっそう守れるようになる。どんな段階の人それぞれに功徳がある。


●本行(dngos = 灌頂本体)

 ここからはすべての灌頂に共通する構造を簡単に述べる(個々の話をすると秘密に触れるので)。

 ・灌頂の場面においては本尊と一体となった阿闍梨から本尊の力を授かる。従って、受者は阿闍梨を仏とみなして、三礼し、マンダラを捧げ、灌頂を授けてくださいと請う。このあたりは前行の時と同じである。

 ・受者は、身体→言語→心→覚りの意識の順に体を清められていく。表層的なレヴェルから、深奥のレヴェルへと順次清められていくのである。

 ・清めにおいては、さまざまなツールが用いられるが、身体の浄化には水を用いることが多いので、それが「灌頂」と呼ばれるゆえんである。

 ・灌頂を授かった受者は阿闍梨から賛嘆を受ける。略式でない場合はここでお菓子やお茶をいただきながらの法宴が行われる。

 ・最後に、灌頂を授かったことによって受者に生じる義務について述べる。毎日唱えるお経の指示etc.。
 
 ●回向

 自分が授かった善行を他人にまわすことを回向という。仏法が存続しますように、ダライ・ラマをはじめとする阿闍梨が元気でいますように、戦争などで苦しんでいる人が苦しまなくてすむようになりますように。命あるものが仏の位をえるようになどと他者に功徳をまわすのが回向である。

 仏法は一人でも実践できるが、みなでこうして集まって実践するとさらにはずみがつく。仏教の教えは先人たちが大変な苦労をして今の時代にまで伝えてきたものだ。この教えを来世に伝えていけるかどうかが我々にかされた課題である。

 以上、21日の護国寺様の灌頂を例にとって、禁忌に触れない程度に灌頂の構造を簡略化してみました。
 下書きなのでまだぬけている部分があるかと思いますが、三日までにはつまっていくことでしょう。
[ TB*0 | CO*0 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ