白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
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DATE: 2012/05/30(水)   CATEGORY: 未分類
アキャ・リンポチェ in 外大
 火曜日はアキャ・リンポチェ(a kya rin po che 阿嘉胡圖克圖)の講演が外大で行われた。アキャ・リンポチェはアムド(青海)のクンブム大僧院の僧院長であったが、1998年にアメリカに亡命し、現在はインディアナ州に自ら設立したチベット・モンゴル仏教文化センターを定座としている。

 アキャ・リンポチェについては、彼が亡命した時に、知り合いの青海モンゴル人が「故郷から高僧がいなくなる」とがっかりしていたことや、私の講座をよく聴きに来てくださる方が、来日の際のリンポチェのアテンドをされていることなどから、そのお名前は耳にする機会はあった。だけど、ナマリンポチェはこれがはじめて。

 今回は2010年に英語でだされた自伝surviving dragon『中国統治下(龍は中国を暗示)のチベットで生き抜いて』にそったお話だという。

 概要を簡単にまとめるとこうである。

 リンポチェは1950年にアムドの遊牧民の家庭に生まれた。二才でクンブム大僧院につれてこられ先代のアキャ・リンポチェの転生と認められた。この生まれ年は彼の不幸を確定的なものとした。なにしろ、前年に中華人民共和国が成立を宣言し、同時にチベットを「帝国主義から解放」(笑)すると宣言していたのである。当時のチベットには帝国主義=英米日の影響力などないから、「解放」云々は完全に中国共産党の後付け論理。やっとることは侵略である。

 この当時のクンブム大僧院には、実はパンチェンラマ10世がスタックしていた。
 彼の先代のパンチェンラマ9世は中央集権化を進めるダライラマ13世と対立して、中国に亡命した。しかしそのまま青海でなくなり、転生した10世についても、「パンチェンラマ保護」を名目に中国軍がチベットに侵略してくる恐れがあったため、チベット政府はラサに戻ることを許さなかったため、パンチェンラマ10世はチベットを知らないままクンブムで暮らしていたのである。
 
 で、アキャ・リンポチェはこのパンチェンラマに認定していただく。パンチェンラマは最初から彼を転生者と認めたそうだが、その後、さらに伝統的なタクディル(麦焦がしの団子をいくつもつくり、その中にお伺いをたてる内容の可能性のある選択肢を書いた紙をそれぞれいれ、団子のはいった容器をゆらして飛び出た団子に入っている選択肢を神意として採択する占い)儀礼も行い、やはり団子からは彼の名前がでてきたため彼は公式にアキャ・リンポチェ8世に認定された。

 1958年までは伝統的な教育をうけることができたが、1958年、毛沢東の大躍進政策の失敗によって中国全土に飢えが蔓延し餓死者が大量にではじめると、すべてが終わった。

 中国人はクンブムの僧侶たちの袈裟を脱がし人民服を着せ、強制労働へと駆り立てた(ちなみにこれから先も中国事情が炸裂したが、通訳の方が中国語と現代中国史にうとい方のようで、清朝を「せいちょう」とかいっていたので、これは三浦センセが訳した方がみなさまに真意が伝わるのではないかと思った。あと、通訳が「活仏」「活仏」連呼していたけど、仏は転生しないってば! 化身僧か転生僧と表現する方がいい。 )。

 そして、彼が17才の時にはさらに文化大革命(1964-1972)が始まる。クンブムの元僧侶たちもみな毛沢東語録を持ち、その内容を暗唱し、農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」と漢人と同じくスローガンを叫ばされ、事務所にかかった毛沢東のご真影の前で日夜作業報告をせねばならなかった。

 ある日具合の悪いチベット人が休みをとろうと、毛沢東のご真影に許可を取りに伺った。するとご真影の中の毛沢東は手を挙げていたので、その五本指をみて、「五日間休む許可がくだった」とそのチベット人は五日間休んだそうな。
 
 このエピソードが示していることは、形而上学や論理学を幼少のことから学んでいるチベット僧はあの時代でも正気を保っていたということ。教育を受けていないチベット人・漢人、子供はこの文革の際紅衛兵となり、後に自分の行いを恥じることになった。しかし、元僧侶たちは、あの狂気の中でも冷徹に現実を見て、彼らの知性はその現実を受け入れる強さをもっていたのである。

 本当にひどい日々だった。私は去年津波の被災地に訪れ、多くの人の話を聞いたが、みな「体験してみないと分からない」といっていた。津波の体験をした人がどのような思いをしたかは、体験をしていない人は推測することはできても、完全にそれを理解することはできないということだ。私の体験もまさにそのようなものだ。体験しないと分からない。

 でもこのようなひどい状況下でも、人民服を着ていても、私たちはもと僧侶だ。だから、みなで喧嘩したり、ものをとったり、とかそういうことはなかった。そうなりそうになっても高僧たちがとめた。

 私たちは強制労働をさせられ、牢屋にいれられ、自分の文化を維持することができなかった。地震や津波のような自然災害は人間の力ではいかんともしがたい。しかし、私が体験したことは人によって作り出されたものだ。もっと限定すると中国政府によって作り出されたものだ。人が作った問題は人が必ず解決することができる。歴史は大事だ。私がこの過酷な体験を自伝にしたのはそのような気持ちからだ。私は中国人もチベット人もモンゴル人も互いに争わず、仲良く共存できる世界になることを心の底から望んでいる。

 1980年代に入ると、改革開放政策とともに、中国政府のチベットの僧院に対する圧力が弱まる。僧院の再建に援助がでるようになり、私も重要な地位につくようになった。しかし、〔肝腎な部分は漢人が握っているから〕完全に自分の意向が通せたわけではない。

 私がアメリカに亡命するきっかけとなった事件について語ろう。
 チベット仏教のゲルク派でもっとも偉いお坊さんはダライラマ、パンチェンラマ、〔モンゴルの〕ジェブツンダンパなどである。チベットでは高僧がなくなってその化身を探す際に、最終的にはこの三人のような高僧の認定を仰ぐ。

 1989年に〔私を幼い頃に認定した〕パンチェンラマ10世がなくなり、その転生者を探すこととなった。しかし、ダライラマ14世猊下が指名した少年ゲンドゥン・チュキニマは中国政府に拉致されて姿を消した。
 中国政府は新しいパンチェンラマを選定すべく高僧たちを北京に集め、チャーター便にのせてラサに送り込み、チョカンの釈迦牟尼仏の前で金瓶掣籤儀礼を行った。


 これは清朝の乾隆帝が導入した制度である。18世紀末、チベットを代表する高僧は特定の家系に集中していた。それがグルカ戦争勃発の原因の一つとなったため、高僧の転生者を預言やシャーマンの神託や側近の証言といった主観の入る余地のあるものではなく、くじ引きにしようと提案されたものである。ただし、この金の壺によるくじ引き儀礼はチベット人に評判が悪く、ダライラマ13世も14世もこの籤をへずして伝統的な形で認定されている。

 中国共産党は仏教界における権威が全くないから、乾隆帝の権威をかりてパンチェンラマを選ぼうとしたわけ(笑)。で、この籤で選ばれたのが、現在中国がパンチェンラマ11世と主張しているゲルツェンノルブ。しかし、この人のことをパンチェンラマと認定するチベット人はまあいない。なぜなら、アキャ・リンポチェが体をはって亡命してこの認定の不正を告発したからだ。

 この話は有名なので、簡単にまとめる。

金瓶儀礼の帰り、チャーター機の中で、アキャ・リンポチェ、ジャムヤンシェーパ、李鉄映、葉小文が雑談していると、李が、ゲルツェンノルブの名前の書いた籤だけをすこし長く見えるように細工したんだと得意げにぺらぺらしゃべったのだという。

 詐欺行為をした上にそれをなおかつ自分の前で得意げにしゃべっている・・・
こうしてアキャ・リンポチェが亡命を決意したのである。

 私は中国に高い地位を与えられたが、犬のように扱われた。わたしはチベット人もモンゴル人も漢人もウイグル人もみながなかよく平等に暮らしているいけるように願っている。今のひどい状況は中国政府によるものだ。

 私は亡命しためたに故郷のアムドのためには何もすることができない。なので、今はダラムサラの図書館へ援助をし、僧院へベジタリアン用の食材を提供し、ウランバートルに子供のガン病院をつくるプロジェクトを行っている。

 チベットでは慈悲を大切にするが、祈っているだけではなく、実際に活動したい。もしご賛同いただける方は募金をお願いいたします。
 それから、〔モンゴル語で〕本日はチベット語の先生がアレンジをしてくださり、その先生のご意向もあってチベット語でお話をさせていただきました。自伝をモンゴル語に訳しましたので、よかったらどうぞ。
 
 そのあと、コメンテーターのも三浦順子さんが、「リンポチェにコメントなんてつけるのは恐れ多いので、質問。去年から本土チベット人の間で続いている焼身自殺について、ウーセル(唯色)さんとリンポチェはお二人で『これ以上焼身しないで』とのアピールをだされました。それはどのような意図からされたのでしょうか」

 で、リンポチェはその質問に対する答えのほとんどを、本土チベットが今いかにひどい状況か、大切な命をみなが投げださねばならい悲劇的な状況か、とのべ、焼身された方への共感を示された上で、やはり生きて文化をまもってほしいというような趣旨を答えられた。

 あと、青海のチベット人の方から質問。

「亡命前には高い地位にいたのだから、本物のパンチェンラマがどこにいるかについて聞いてないか。」すると、件の飛行機の中では本物のパンチェンラマの話についてはでなかった。私も知らない、このとであった。

 そのあと、青いカターをささげたモンゴル人、白いカターをさげたフリチベさんたちの謁見が続く。モンゴル人はなぜ青いカターが好きなのかといえば、彼らは青きオオカミチンギス・ハンの末裔であるから。チベット人とことさらに色を分けたがるのに若干ナショナリズムを感じる(笑)。

 アキャ・リンポチェは中華人民共和国の成立とともに生まれ1998年まで本土にいたため、ゲルク派の僧侶としての正規の学習過程をフルセットで受けることはできなかった。しかし、私が見たところ彼は明らかに人格者である。彼が生まれたアムドにはモンゴル人、チベット人、イスラーム教徒がまじりあって住んでいる。さらに彼の回りには元クンブムの高僧・リンポチェがいた。彼らは人民服を着せられ、毛沢東語録を叫ばされていた時代にも、本質的には僧侶であった。彼らが、アキャ・リンポチェの今の人徳をつくりあげ、彼に行動する慈悲を持たせたのであろう。

 周知の通り、アキャ・リンポチェはとくにモンゴル人に人気がある。彼が今住むインディアナもモンゴル学のメッカだ。ウランバートルにも何度も足を運んでおり、日本に来られるのもモンゴルに向かう途中のトランジットが多い。

 そこで思い出したのは、アキャ・リンポチェがインタビューの中で、
チベット本土のチベット人の数は500-600万人。難民になって外にでたチベット人は10万余りです。国外にいるチベット人はダライラマ法王のおかげで自らの文化を保持し、比較的良い状況にあります。・・問題なのはチベット本土にいるチベット人との絆です・・

彼の目線はまさしく彼と同じく中国の国内で自分たちの文化を維持することも不可能となっている諸民族に向けられている。それは正規の僧侶としての教育を受けられなかったアキャ・リンポチェの体験とも重なり、彼らを互いにひきつけあっている。さらにリンポチェがチベット人とモンゴル人との絆にとくに言及するのは、彼を、そしてツォンカパを生んだアムドの地の力もあろう。リンポチェと呼ばれる人はやはりどこか違う。何か特別な歴史的使命を自ら自覚して、そして実行していく力があるような、そんなノブレス・オブリージを彼から感じるのであった。
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