白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/08/19(日)   CATEGORY: 未分類
テンパ・ゲルツェン師追悼
●ゲシェ・テンパゲルツェン師が、八月十二日にデプン大僧院近くの自坊で遷化された。享年80才(写真は2010年にインドの自坊内にて。傷ついた鳥を手にしていらっしゃる)。
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 テンパゲルツェン師はデプン大僧院ゴマン学堂の学僧で、東洋文庫の外国人研究員として、長く日本に滞在され日本のチベット学の振興につとめられた。1994年からインドで隠遁修行を行われた後、ふたたび来日され、広島に本拠地をおく文殊師利大乗仏教会の会長に。日本とご縁の深いラマであった。

 2007年に最初の脳内出血を起こし、今年五月、二度目の致命的な出血がおこった後は徐々に弱られ、最後はゲン・ロサン先生などのお弟子さんが集ってお経をあげる中、苦しむことなく静かに逝かれた。
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 チベットの高僧は、死の直後に精神を仏の境地と同軌させるトゥクダムという状態に入る。この間、意識が完成されるため、遺体は腐敗することはない。この期間は人によっては十日ほど続き、トゥクダムが終わると遺体は荼毘にふされる。テンパ先生の場合はトゥクダムが四日続き、その終わりにはゲシェラの遺言通り、ツォンカパ著『善説心髄』(legs bshad snying po)がお弟子さんによって唱えられたという。
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 ご遺体は17日の新月の日に荼毘に付された。ゲシェラがお住まいの自坊の中庭に火葬用の仏塔を作り、その中にご遺体を安置し、衆僧が集まって読経をする中で護摩と同じ要領でおたきあげされた。このサイトにあがっている葬儀の写真は天台宗の尼僧明世さんに提供頂いたものです。明世さんは、ここ数年インドのゲシェラに頻繁に連絡を入れて下さりリハビリその他で気遣ってくださった方です。

 以下はデプンの公式ホームページにみるゲシェラの追悼記事の和訳。

ケンスル・リンポチェ(元座主様=テンパゲルツェン師)8月12日に遷化

ケンスル・リンポチェは1932年にラサ近くのキナクの村に生まれた。11才の時にデプン大僧院ゴマン学堂に入門し、1959年まで勉強に励んでいた。27才の年、ダライラマ猊下とともにチベットからインドへ亡命した。

 1966年に、テンパ師はゲシェ・ララムパ(いくつかある博士学位の中の最高位)となり、1979年にはダライラマ猊下の要請により東京にあるチベット研究図書館(東洋文庫のこと)にいった。

彼は日本では京都大学や盛岡大学でも教えた。1986年にインドのデプン・ゴマン学堂に戻り、75代座主を3年にわたりつとめた。退任後の1989年ふたたび日本での教職にもどった。

 1994年にケンスル・リンポチェは6年間のリトリート(隠遁修行)にはいった。最初の2年は北インドのタシ・ゴマン僧院にすみ、後半の四年間はデプン・ゴマン学堂で過ごした。この後半の四年間で3年3ヶ月3日の隠遁期間を完遂した。

 2001年11月、ケンスル・リンポチェは日本へともどり、文殊師利大乗仏教会の会長となった。しかし、健康が悪化したため、ほとんどをデプン・ゴマン学堂ですごした。

 2012年8月12日、ケンスル・リンポチェは自坊で遷化された。この文章を書いている時点ではトゥクダムに入られている。デプンはケンスル・リンポチェの弟子、学生、施主たちに深い遺憾の意を表明する。リンポチェの追善供養は、デプン・ゴマンの祈り堂で月曜日に執り行われる。(デプン大僧院公式ホームページより和訳)


・テンパ先生の亡命時のお話については、チベット仏教の研究者石川美恵さんがテンパ師から聞いたお話から一文を書いているので、以下にご本人の許諾をえて転載します。

● 優曇華の花  文/ 石川美惠

 一九五九年には、ゲシェ・ラ(私たちはケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲンツェン師のことを敬慕の情を込めてこう呼んでいる)は、まだ二十代の青年僧だった。ちょうどお師匠が行の最中で、暗室に籠もったお師匠の行のお手伝いや身の回りのお世話をしている時期だったという。

 その頃チベットを取り巻いていた危機的な状況は、ゲシェ・ラにも充分すぎるほどわかっていたが、密教行者だったお師匠は前から行に入ったままで途中でやめるはずもなかったから、いつもと変わらぬ弟子の勤めを果たし続けていた。

 だが、その日はもう限界だった。銃声や砲撃音は鳴り響き、殺戮と破壊は間近に迫っていた。僧であれば、ひとの行を途中で邪魔することなどありえない。ましてやそれがお師匠なら。それでも、暗室に籠もったままのお師匠に、ゲシェ・ラは懇願せずにはいられなかった。

 「お願いです、ここを出て下さい! 中国軍がそこまで来ているんです!」

 幸いにも、そのときに禅定には入っていなかったお師匠は、静かに答えた。

 ――私はまだ行が終わっていない。だからここを出ることはできない。

 「どうか、どうかお願いです!一緒に逃げて下さい!!」

 必死で頼み込むゲシェ・ラに、お師匠は告げた。

 ――私はもう年寄りだ。だから、私のことはかまわなくていい。だが、おまえはまだ若い。これから生きなくてはならない。だから、おまえは行け。おまえ一人で、行きなさい。
 それは、お師匠の命令だった。

 その意志の固いことをさとり、ゲシェ・ラは断腸の思いで脱出する。何事もなかったようにこれまで通りの行に入ってしまったお師匠を後に残して、険しい雪山の道を、仲間の僧達とともに、過酷な、行く先に身を寄せるあてすらない脱出行に旅立った。

 雪山を逃げる途中、ふと仲間が立ち止まった。ラサから遠ざかり、争乱から離れた頃だ。
 ――やっぱり、還俗して戦う。

 一人がそう言うと、他のものたちも打たれたように同意し始めた。

 ――……還俗しよう。戦おう。

 彼らは、決していきものを殺さないという不殺生戒を誓った学僧たちだったから、人を殺すことなんてなおさら思いも及ばないはずだった。だからこそ、戒を返し俗に戻り武器を取ることがどういうことなのか十分にわかっていた。墜ちる地獄の恐さも、誰よりも身に染みていた。だが、みなまだ二十代だった。今、理不尽に故国を追われ、田舎に残した父や母、無辜の同胞たちが自由を奪われ殺されていくのを知りながら、自分だけが生き延び、逃げることなんてできない。彼らはそう言った。

 そう言って、別れを告げた。必死に逃げてきた道を、虐殺が繰り広げられる現実の地獄へ、再び帰って行ったのだ。

 だが、結局、そのとき去った仲間は一人も生きて戻っては来なかった。お師匠のその後も定かではない。家にいたはずの母の行方も、同様に。

 一九八○年代の終わりの東京で、ゲシェ・ラからこの話を伺ったとき、私も二十代だった。ゲシェ・ラがその後一度も帰ったことのない(帰れない)チベットの現代史もよく知らず、ゲシェ・ラの見てきたものの深さも重さもまだ知らなかった。私はただ、その温厚な人柄と、気持ちを和ませるまん丸顔に浮かぶ優しく晴れやかな笑みに魅かれ、仏教というものが、高い学識だけでなく、こんなに暖かく力強く、しかも清々しい人柄さえ養うことに驚き憧れ、自分のこの人生を仏教に賭けてみたいと思い始めていたのだった。 だから、この最も敬愛するチベット人高僧の過去の話は、身を抉られるように辛くこたえた。

 「それほどのことをされたら、私ならものすごく恨んで憎んでしまうでしょう。」
 と、私は憤りをあらわにした。が、そのときゲシェ・ラは言ったのだ。

 「違います、違います。恨んではいけません。本当にひどいことをされたときにも、それを恨んだり憎んだりしてはいけない。そのかわりに、恨む心を祈りに向けて下さい。相手の心にある怒りや憎しみが消えるように、念じて下さい。」

 「私には、そんなこととてもできません。」

 ゲシェ・ラは微笑んだ。「しようと思って下さい。そこからでいいんです。」
 このひとは、なんという人だろう!……心臓を鷲掴みにして激しく揺さぶられたような気がした。

 そのとき私は、このひとが生きて雪山を越えてくれたことに心から感謝した。もしあのとき、他の仲間達と同じように逃げる途中で踵を返し、戦乱の巷に戻っていたら、私たちはこの人に出会えなかったのだから!

 その日、武器を取らず逃げたという自分の選択を、ゲシェ・ラは「臆病だったんです。人を殺すことも、死ぬことも恐かったんです」と笑って仰ったけれど、本当はきっとそうではない。ゲシェ・ラのお師匠が命じたように、生きなくてはならなかった。生き延びて、世界に、世代を越え、国を渡り、伝え続けねばならないことがまだたくさんあったからに違いない。

 仏には値いがたく、それは三千年に一度しか咲かない優曇華の花のように稀だといわれるが、現実には菩薩にすら値えないものだ。だが、ゲシェ・ラに接するとき、仏教が目指そうとしていたもの、仏教者が生きようとしていた真の姿がよくわかる。「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」の菩薩の精神は、まさしくゲシェ・ラの中にこそ見いだされ、生きられているのだから。

 その姿に接することは、優曇華の花にまみえるほどの僥倖に違いないのだ。



●東洋文庫時代のゲシェラについては大谷大学の福田洋一の追悼文を参照てください。

●ダラムサラ歴30年の中原さんのゲシェラ追悼文はこちらです。、

●文殊師利時代のゲシェラのご様子については、文殊師利大乗仏教会の野村さんのお話が心をうつ(彼はインドに飛んでテンパ先生の火葬に立ち会うことができた)。
 文殊師利大乗仏教会ではテンパ先生の追悼法要を行っているので。広島近郊の方はどうぞ。http://www.mmba.jp/geshelamonlam 

●東洋文庫時代、ゲシェラから顕教を直接教わっていた平岡先生のコメントは以下です。

テンパ先生から頂いたご恩を何も返すことが出来ませんでした。不肖の弟子であると恥じてコメントを投稿するのが憚られましたが、テンパ先生の追悼のブログにコメントが無いのも余りに寂しいので敢えて投稿致しました。
テンパ先生は転生僧(リンポーチェ)で無いにも拘わらず30代でゲシェー・ハランパを取得。ゲルク派の選り抜きのエリートのみが選抜された、サンスクリット大学一期生の一人でした。一期生はほぼ全てがギュメ・ギュトゥ等の管長になられました。私がギュメ留学中の管長であったドルジェタシ師は、テンパ先生のサンスクリット大学の同級生で、日本にはテンパ先生にいらっしゃる」とよくおっしゃっていました。
これ程の碩学を日本に送って長期間我々にご指導に当たらせて下さったことは法王さまの日本に対する期待感であったと思います。テンパ先生の冥福を衷心よりお祈り申し上げます。


■ 護国寺追悼法要(18日)

 18日土曜日は、焼身抗議でなくなった49人の方々の追悼法要が護国寺様で行われた。前回の法要の時よりも写真は2.5倍ほど増えており、一列に並べられず、互い違いに置かなければ祭壇にのせられないのが悲しい。下に名前が入った白いパネルが一列あるが、これは写真が入手できない犠牲者たちである。早くこんな法要しないですむ状況になってほしい。2008年以後何度追悼法要やったことか。
 
 チベットハウスの代表ラクパさんがまず挨拶にたち、本土チベットの状況が非常に悪いため、焼身抗議がとまらないこと。今回の法要はこれらの焼身の犠牲者のみならず、シリア、アフガニスタンなど戦火でなくなったすべての方のために行うものである、と挨拶された。

 シリア・アフガニスタンの話をもってくることからわかるように、フリー・チベット運動はナショナリズムの罠におちないよう、自分たちの願いがつねに普遍的なものにつながっていくようにと気配りしている。

ついでラクパさんより「ゲシェラの訃報を話してください。そして、チベットの全体的なお話を」といつものむちゃぶりがきたので、以下のような趣旨のお話を簡単にした。

 
 チベット仏教では殺生を嫌い、虫一匹の命すらとってはらないと、教えています。続く焼身抗議に対して、よくダライラマ法王が、焼身抗議をとめる声明をださないのか、とおっしゃる方がいますが、法王は仏教徒です。すべての命を大切にせよと毎日言葉と体で実践されている方ですから、その法王の教えに親しんでいるチベット人は自殺がよくないことは当然心の底から理解している。焼身をされた方たちはそれを知っての上で、自らの命を絶っているのですから、やりきれません。

 ラクパさんにお話をしてもいいと許可を頂いたので、ゲシェ・テンパゲルツェン師のお話をさせて頂きたいと思います。テンパ先生は東洋文庫の外国人研究人として長く日本に滞在され、そこの研究員をしていたわたしの主人とは毎日顔を合わせていました。主人はテンパ先生からチベット論理学の手ほどきをして頂いたのです。日本ととてもご縁の深い先生でした。

 ゲシェーはお若い頃、中国軍に追われてインドに亡命した第一世代です。テンパ先生がなくなられた後、お弟子さんの夢枕にゲシェがたち「私はチベットに帰ります」とおっしゃったそうです。その話をきいて、今のひどい状態のチベットに帰っても・・・と、とても切ない気持ちになりました。

 ゲシェラと同じように、いつかは故郷に帰りたいと思いつつも、インドでなくなられた僧は他にもたくさんいらっしゃいます。本日は本土で亡くなられた方の法要ということですが、チベットに帰ることを夢見てなくなった多くの人たちのためにもお祈りしたいと思います。


 その後、ゆるく法要開始。般若心経、21尊ターラー経、グルリンポチェ賛歌、四大を鎮める偈、真実の祈り、ダライラマ法王長寿祈願文をひたすら読む。今回の法要は世界で連携して行われており、とくに真実の祈りに力をいれて読めとのことで、十回は読みましたよ。本作品はダライラマ14世が亡命直後の60年代に著したもので、中国人の非道をとめてください、チベット人の血と涙の川をとめてください、観音菩薩よ。とお願いする壮絶な詩である。十回も読んでくるとそれはもう暗ーい気持ちになってくる。

 そこで最後にちょっと笑える話を。

 コネタ1 聞けば、法要の直前におこなわれたデモには、こういうご時世なので愛国者の方が数人お見えになっていた。フリチベさんたちは、すっかりチベット時間になじんでいるので、時間通りにはじまらずグダクダであったのに、愛国者さんたちは時間より前からスタンバイしていたと。ゆるいぜ、フリチベ。

 コネタ2 テンパ師がなくなられて、広島のお坊さんたちが追悼法要中のせいか、今回の法要にはチベット僧の参加者がゼロ。例によって主宰者は「ウムゼ(お経の出だしをとなえる僧侶)がいない」と、開始時刻になってもあせっていた。結局元僧侶の俗人の方がウムゼをやって決着。ゆるいぜチベット人。
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