白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/08/31(金)   CATEGORY: 未分類
乾隆帝のラマに対する愛
日本とご縁の深かったゲシェラ(ゴマン元座主テンパ・ゲルツェン師)の、亡くなられる数日前からの健康状態、弟子や施主への遺言、ご臨終、トゥクダム、火葬、遺骨収集、この間一貫してなされる弟子による師の意識への供養、師の再生への祈り。の過程が、葬儀にたちあったMMBAの野村くんによって公にされた(詳しくは→ ここにリンク貼りました)。

この間の写真も以下のMMBAのFacebooKのページで見られる。
★死から葬儀まで(→ここクリック)
★初七日法要(→ここクリック)
★火葬の一週間後の遺骨収集(→ここクリック)

 これを見ていて思ったのが、2009年におなくなりになったギュメ密教学堂の元座主ガワン先生の死の様子と非常によく似ていること、そしてこのガワン先生やゲシェラなどの現代の高僧たちの死の作法は、歴史資料に見える18世紀の高僧たちの死の作法とも軌を一にしているということ。たとえ難民となっても、僧院の中には伝統の空気が受け継がれている(感動)。

 大乗仏教においては、菩薩は「すべての命あるものが幸せになるまでには、自分の快楽をもとめない」「死んでもふたたびこの濁世にもどってきて命あるもののためにつくす」との誓いをたてる。

 で、高僧クラスになると、彼の誓いは遠い過去になされたものであるため、誓いをはたすために何度も生まれ変わっている間にひろがった人間関係も一緒に転生を続ける。つまり、高僧と、施主、弟子の関係は、かつてあったものであり、今あるものであり、これからもそうなるものなのである。

 このような世界観なので、高僧が死に瀕すると、施主と弟子は師とふたたび相まみえんがために、全力で師の意識の完成をサポートし、再びこの世に戻ってきてくれるよう祈る。

 というわけで、死に際しての師弟間や施主と高僧間の会話は、時をこえて相似してくるのだ。従って、難民社会の僧院生活を知ることにより、歴史文献の文意を正しく理解する知識が得られる。

 以下に、参考までに、チャンキャ三世(1717-1786)が逝去する際に、チャンキャの施主であった乾隆帝と、弟子であったトゥカン(1737-1802)の言動をザツな訳でみてみましょう。

 この乾隆帝とチャンキャの施主・高僧、師弟関係は清朝とチベットとモンゴルを巻き込んだスケールが大きなもの。乾隆帝がチャンキャに対して炸裂させる師匠愛を見て、現代の中国の指導者の方々は、自分に何が足りないかを自覚するように

 ある日、〔チャンキャは〕私(トゥカン)に
「あなたは来年、自分の国にもどりますか」と下問されたので、わたしは「来年はここにいないと思います」と申し上げると、

「いや、来年わがファミリーに重要なことがおきるだろう」とおっしゃられた。自分はその時「〔チャンキャは〕前から皇室を"わがファミリー"とおっしゃっていたので、政治的な問題と思い、その時イスラーム教徒の暴動が話題であったので、
「イスラーム方面が問題らしいと聞いていますが」と申し上げると、
〔チャンキャは〕「そのようなことではない。宮中が騒がしくなるのだ」とおっしゃられた。

 愚かな私はその時、宮中とは王城のことをおっしゃっているのだろうと思い、「宮中の中ですぐに騒ぎをおこしそうな人はいませんが」と申し上げると、〔チャンキャは〕微笑まれて、「分かるものか。占い師がそのようにいってるぞ」とおっしゃられた。後になって考えるに、まもなく自分が他界されることを念頭に置いて、こうおっゃられていたのだろう。しかし、愚かで賤しい私は〔師のお言葉を〕無意味な方向に勝手に解釈して、真意を理解しなかったのだ。・・・

p.615 それから〔チャンキャは終焉の地である〕五台山にいらっしゃり、後に大皇帝(乾隆帝)もそこにお出ましになった。大仏殿の霊験あらたかな文殊像の前で、尊師(チャンキャ)が導師となり、大皇帝もおでましになり、ともに祈願の修法を伝統にのっとって読誦され、回向祈願なども盛大に行われた。

 尊師のご寿命が終わりに近づいている時、高僧と施主(mchod yon)の関係にあるこの両者が、この特別な聖地において会されて、聖文殊の御前で回向祈願を行ったことは、集大成ともいうべき事業であった。尊師と大皇帝お二方、すなわち高僧と施主は太陽と月のように、仏教に基づいた政治の善業という光輝によって、教えと有情の利益と幸福の良き道を明るく照らさんと思い立った、遠い昔になされた盛大な祈願の結果が、今まさに結実し完成したことが〔この法要が〕象徴している。・・・この法要の導師をつとめられた時から、〔チャンキャは〕体調を崩されていったものの、他のものには覚られないようになさっていた。

 大皇帝が五台山から首都に戻られる際のお見送りなども、いつものように勤められた。

 それから、だんだん健康が思わしくなくなってきたので、侍僧たちがすぐに大皇帝に〔チャンキャの病状を〕ご報告申し上げようとしたが、尊師は「しばらく待て。大皇帝が王城に到着された際に申し上げるのがよいだろう」とおっしゃられた。

 それから、「〔チャンキャの〕健康状態はかくかくしかじかで、重篤である」との旨を〔大皇帝に〕報告申し上げると、皇帝の元から直ちに、中国とチベットの名医が二人、大臣が一人、緊急で派遣された。

 チベット医は手の脈を見て、「このご病気はなおりません。尊師のお慈悲にすがるしかありません(説明しよう! 仏教界では弟子が「死なないでくれ」とすがりつけば師匠はある程度は慈悲でこの世にとどまってくれる 笑)。並みの医術の対象でないです」といい、しおれてしまった。

 漢方医は「服薬すれば大丈夫! 」と言ったが、尊師は2回だけ薬を召し上がられただけで、あとは飲まなかった。

 〔チャンキャは自分に対する〕長寿祈願の法要を行うことなどはまったく許さず、通常の瞑想修行を中断せずに行い、くつろいだご様子でゆったりとクッションによりかからっていらした。

 しかし病は日に日に重くなり、侍僧も非常に心乱れたので、その聖地(五台山)の大小の寺、宮中の寺などにおいて、長寿法要の儀を昼夜兼行で行った。・・・・〔皇帝が〕「五台山は高地で水も冷たいので、宮中においでになる方がいいです」とおっしゃられた。すると尊師は健康状態を伝え、「生と死は〜」からはじまる韻文を読み、「遺体を火葬にし、遺骨は銅の仏塔に入れて、鎮海寺においてくれ」などの手紙と、自分の意識の拠り所として自分の像、金剛杵・金剛鈴、ダマル太鼓などをバチュン(巴忠)大臣に授けて、「〔皇帝に〕献ぜよ」と命じられた。そこでバチュンはすぐに宮中に戻った。

 ある日〔チャンキャは〕侍僧何人かに向かって「私の体は病に倒れているが、心は平穏である。今となっては、自分と他人、外と内という区別が、大海におちた一滴の乳のように、一つになっていくようだ」とおっしゃられた。・・・・
心のトレーニングによって、大いなる慈悲の力が増大したことにより、病などの他に苦痛を生む原因があっても、それを安楽の元に換えていく"一切諸法を楽によって圧する"という瞑想を体得していらしたことは明かである。・・・

 チベット暦の3月25日、「今日は日が良い。私の耳にはたくさんのきれいな音が聞こえている。汝らには聞こえないか?」とおっしゃられた。

 4月2日の午前、なんどもそのような話をされて、北京から執事チューデンが御前に到着した。彼に「トゥカンの化身は今どこにいるのか」と下問され、執事が「トゥメト部の貝子(貴族の称号)の地にいます」とお答えした。またウジュムチンのモンラムパの転生はここにくることができるか」と聞かれたので、「今はいません」と申し上げた。これが最後のお言葉であった。

 それから、サカダワ月の二日の午後、鳥の刻に結跏趺坐をくまれ、体をまっすぐに立てられ、手は前において数珠をつまぐった姿となられた。側近がその姿を調べると、金剛念誦を行われる際のお姿であり、亥の刻には息のめぐりが途絶えて、光明法身を完成される様を示したのである(肉体の死を迎えたという意味)。

 ・・・三日の間、トゥクダム(死者の意識が仏の境地にある状態。この間遺体は腐敗しない)にとどまられ、五日の日の亥の刻に「ヒック」という声だされたのを、御前で儀式を行っているものたちが聞いて、「死から蘇ったのか」と思い、すぐに侍僧を召喚して、みなでご遺体の御前に集まると、トゥクダムが終わった徴がでたという。
 
 p.626 それから霊験の塊である御遺骨を、薬と香と緞子で包んで、箱の中にお招きして、骨箱の座において、供養する雲のごとき供養品の真ん中にお招きして、毎日のように弟子たちが「師供養」(bla ma mchod pa)と秘密集会尊・勝楽尊・金剛怖畏尊・ヘーヴァジラ尊・大輪金剛手尊・普明大日如来尊・阿しゅく尊などの密教の本尊の曼荼羅を描いて、自分をその本尊の姿に生起するなどにつとめられた。

 ・・〔チャンキャの〕御身が臨終されるや、大皇帝に事情を報告すると、皇帝は訃報を聞くやいなや、苦しみによって卒倒せんがごときになったが、しばらくすると「尊師はこう教えてくれた。一切諸法は縁起していて実体がないのだから、影のようなものだ」〔だから悲しむまい〕と心をなだめて、

〔乾隆帝は〕「私のラマは表面的には死を迎えたが、本質的には死を超越しているので、まもなく慈悲によってわれわれの守り手としてふたたび現れてくださるだろう」とおっしゃられた。

 ・・・自分はその時五台山からはかなり離れたトゥメト(南モンゴル)の地にいたのだが、尊師がご不例になったという話を聞き、御前に向かおうとしていると、4月の5日の夜、夢の中で、中国人の家のようなところで、ジャムヤンシェーパと私(トゥカン)が二人一緒にすわっていると、尊師が突然現れて、『私は遠いところに行く。汝ら二人は達者であれ』とおっしゃり、それぞれにカターを授けて下さった。そこで、私からもカターを献じようとしていると、尊師は遠くにいってしまった。そこで「今五台山にいっても尊師にはお会いできない」と思い、出発をやめた。

 後に調べて見ると、夢をみたその時が、尊師が涅槃に入られたまさにその時であった。・・
 尊師の遺書にはこうあった。「〔死後のことについては〕わたしはバチュンを通して皇帝に告げているので、皇帝に聞け。汝らは私の遺体をミイラにして、金銀の仏塔をたてて納めようとするな。火葬にして、骨はツァツァ仏と仏像にしてあまり大きくない銅製の仏塔に入れて、この地にある鎮海寺にはこべ。」とあった。

 こうおっしゃられた理由は、最近、なくなった高僧の施主や側近がこぞって、権勢あるラマが〔なくなると〕ジェ・ツォンカパや勝者父子(ダライラマ・パンチェンラマ)に比肩せんと遺体をミイラにして、金銀の大きな仏塔をつくって入れる風潮が、チベット仏教文化圏すべてに蔓延していて、それについて、〔チャンキャは〕以前から批判的であった。そこで、とくにそのような風潮をやめさせるために、〔葬儀を簡素にするように〕言ったのである。

 ツォンカパやダライラマ・パンチェンラマのような文句のない大人物のご遺体を損なわずにミイラにすることについては仏教と衆生の役にたち、短期的・長期的な必要性があるが、普通の人がそれをまねすれば、『破戒をなくす経』(Peking No.886)に
「得てないものを得ているといい、ただ死んだことを〔仏のように〕涅槃に入ったといい・・・、それは悪趣に落ちるであろう」と説かれている通りである。

 バチュンが五台山から北京に戻り、大皇帝に尊師が〔皇帝に〕献じた遺書などを献ずると、〔乾隆帝は〕「わたしはラマのお言葉に反するつもりはないが、このお言葉にだけはどうしても逆らわねばならない。・・・〔チャンキャの遺体を〕天人をはじめとするあらゆる命あるものの特別な福田として、金銀の仏塔にお納めして盛大な供養を行わなうならまだしも、普通の仏塔に入れるなんてありえない。聖なるラマがこのようなことをおっしゃるのはパンチェンラマ三世御前と比肩しようとしていると思われることを危惧してのことであろう。そうであるならば、仏塔は金で作っても高さはパンチェンラマの仏塔より少し低くすればいい。そして金の仏塔を鎮海寺にお招きして据えるなどの作業はそれからにしよう」とご下命が降った(以上トゥカン著『チャンキャ三世伝』より)。

stupapl3.jpg

 見所は、死にゆくチャンキャは葬儀をできるだけ質素にするようにと遺言しているのに、「それではあなたの偉さが伝わりません」とハデにしようとする施主・乾隆帝の愛です。また、臨終の場にいなかったトゥカンが夢枕で師の逝去をしったこと。これはガワン先生がなくなったことを報告前にご存じだったダライラマ法王の話を思い出させる(この場合ダライラマ法王の方が位が上だけど)。

 結局、チャンキャの仏塔とパンチェンラマ三世の仏塔は規模こそ違うがなかなか似た感じにしあがったのである。写真はチャンキャとパンチェンラマの火葬がおこなわれた地にたつ塔。この二つの仏塔は装飾その他がかなり共通している。
stupaofcangskyajpg.jpg

 なんか今日のエントリー、久しぶりに自分の専門ど真ん中である。このページを見ているであろう数すくない、てかいるのか?)同業者の方々、チベット仏教理解の参考にしてね!
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COMMENT

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職歴書の書き方 | URL | 2012/12/26(水) 15:14 [EDIT]
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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