白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
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DATE: 2012/09/08(土)   CATEGORY: 未分類
第三回若手チベット学者会議
 九月の三日から六日までの四日間にわたり、神戸外国語大学において第三回若手チベット学者会議(International Seminar of Young Tibetologist)が行われた。「若手」と銘打つだけのことはあり、この会議の参加資格は、研究職について六年以内、博士号とって六年以内という縛りがあるので、いずれの期間も超過した自分は正式にはエントリーできない。そこで、主に自分の専門の発表が行われる五日の一日のみオブザーバーとして参加した。
  
 神戸には前日四日に入り、会議の正式な参加者であるK嬢とツインの部屋にとまる。K嬢は翌日発表なので遅くまで当日も朝から早く起きて練習していた。朝、私がいつまでも、うだうだ寝ていると

K嬢「先生、食事にいきましょう」

私「はいはいはい、大丈夫、わたしは起きてから一分半で出発できる特技があるから」

K嬢「それは威張っていうことではありません。」

私「だってホテルの一階に朝ご飯食べにいくだけでしょ」

K嬢「だめです。どんな人と会うわからないから、ちゃんとしていきましょう」

と叱られつつ、階下に降りていくと、お馴染みのメンバーが朝食を食べている。国際学会とはいえ日本がホスト国なので日本人が多い。

 国際会議を行うためには、開催期間はむろんのこと、企画段階から膨大な事務が発生する。具体的には、会場準備、発表者の選定、定時連絡、当日には受付、タイムキーパー、電子機器の設定、予定変更にともなうプログラムの書き換え、通訳業務などであるが、日本の若手学者たちはこれらの仕事をほんとうに彼らの中ですべてまわしていた。とくにホスト大学のIくんが中心にたって有能に仕切っていた。

 見れば彼らはお互い同士仲が良い。研究ジャンルは人類学、歴史学、言語学などとさまざまで、出身大学もさまざまなのにである(しかし、スタッフにも発表者にも純粋に仏教の思想を扱う人が少なかったのは気になった)。

 私が国際学会に初参加した26才の時には、日本からきた学者は私一人だった。その後も、自分に問題があったのか、当時のチベット学が低調だったからか、同世代のチベット学者と仲良くチベットについて語り合う場などまったくなかった。なのでこの状況には隔世の感。かつて、ヒッピー世代が一時代を築いたように、彼らも協力しあって一時代を築き、チベット学をもりたてていってくれるといいのだけど。

 本会議の歴史はなかなか興味深いので詳しく説明する。この会議は1977年に始まったが、それがいつのまにか現在最大のチベット系国際会議、国際チベット会議に吸収され、それが巨大化したため、2007年から再び若手チベット学者だけを分離して新しい会議を作ったのである。とくに、後に第一回国際チベット学会として知られる会議が、マイケル・アリス、アウンサン・スーチーさんによって主催されていたことは知らなかった。

 若手チベット学者会議の歴史

 1977年、マーチン・ブルーエン (Martin Brauen) とクヴァルネ (Per Kvaerne) がチューリッヒで若手チベット学者のセミナーを開いた。彼らは60人の学者を招き、そのうち三十人が招待に応じ、五日間の会議に参加した。この会議の成功を受けて、次の会議がイギリスのオックスフォードで行われることになった。

 オックスフォードの会議はマイケル・アリスとアウンサン・スーチー夫妻によって開かれ、これは現在まで続く国際チベット学会(IATS)の始まりと位置づけられている。後に、この会議は遡及して第一回国際チベット学会と呼ばれるようなった。

 国際チベット学会は回を重ねるごとに参加者が倍増し、チョーマドケレス・シンポジウムとならんで、チベット学で随一の規模の学会となった。学会が成功するごとに、参加者が増加し、日本の成田山で行われた第四回セミナーの時までには、参加者がすべての発表を聞くことは事実上不可能となった。この嘆くべき状況は現在も続いている。
 ※ チョーマド・ケレス (1784-1842) はチベット学のパイオニアであるハンガリー人学者。その彼に捧げた学会。

 ・2006年、復活する若手学者会議

 2006年にドイツで開催された第十一回国際チベット学会において、キャリアのまだ浅いチベット学者を中心にした、本体とは別個に、しかし本体と関係した組織をつくろうとの案が議題に上った。国際チベット学会は大きくなりすぎて、あらゆる研究テーマに関係した発表を行うことは難しくなってきた。たぶんヒゲが伸びすぎたのである(文意不明)。いずれにせよ、学会から離反した少数のグループが会合を開き、国際チベット学会よりもっと小さなパネル構成で、もっと若いアプローチの、もっと長い時間発表のできる会議を開くことを決定した。

 若手チベット学者の学会を復活させようというわれわれの目的の一つは従って、われわれの学会の慎ましい最初の日々の姿に回帰することであった。研究分野が増え続けているので、パネルディスカッションと時間制限なしに会議の遂行は不可能になっていた。しかし、我々はアイディアを共有するために形式張らない環境を提供しようとしている。

 こうして第一回若手チベット学者会議が、2007年の8月9日から13日、ティム・ミャト(Tim Myatt)とブランドン・ドッドソン(Brandon Dotson)の主催で、ロンドンのアジア・アフリカ研究学校において開催された。アカデミックな厳密さと若者が必要とし探求するものに配慮した姿勢はうまく両立し、会議は大成功であった。
 この会議で、若手チベット学者会議の会則が採択され、運営委員会が選出され、第二回目のパリで行われる案が全会一致で裁決された。

 第二回若手チベット学者会議は、2009年の9月7日から11日にかけてパリで行われた。15カ国から50名が集まり、水準の高い研究発表が楽しい雰囲気の中で行われ、非常な成功を収めた。



 以上の歴史を踏まえて、国際チベット学会の今の会長が、若手チベット学者に送ったスピーチを最後に付した。冬虫夏草やらチョウやらを引き合いにだして、若手チベット学者に成長を促す、名文?である。

 若手チベット学者の未来
チャールズ・ランブル(Charles Ramble 国際チベット学会会長)

 若手チベット学者の寿命は短い。今回その延長が決まったけれど、公式には五年の寿命である。この悲しいまでの短さは、今回のホスト国、日本の芸術や文学をつらぬく「つかの間の美」という観念を思い起こさせてくれる。

 しかし、チベットの荒涼とした高原に桜は咲かないし、若さの儚さについて瞑想することもない。若さとは「散っていく」ものではなく「成熟する」に至るものであることは、動物学的なモデルによって理解できるだろう。

 わたしは今、チョウについて考えている。チベット学は、従来の文献学、歴史学、宗教学の根幹的な分野から、今や人類学やエコロジーのような無数の分野を吸収しつつ拡大している。その中で、チョウ学や菌類学の分野も目立ってきていることは、嬉しいことだ。

 人類学の分野でとくに注意をひいているチョウ、レピドプテラは、いわゆるコウモリ蛾の一種である。このコウモリ蛾は、五年間「幼虫」という遷移状態にあり、地下の巣穴に籠もって、植物の根を食べてくらす。この点で若手チベット学者と共通点がある。五年以上幼虫の状態のままでいることはお勧めできないし、危険でもある。巣穴に住み続ければ真菌感染症にかかりやすく、いったん感染症にかかればコウモリ蛾の場合は死に至るからだ。

 〔死んでも一銭にもならない〕若手チベット学者とは反対に、コウモリ蛾の幼虫はいったん死ぬと、その商業的な価値は跳ね上がる。カビが生えてひからびたコウモリ蛾の幼虫は、チベット人の村人や企業家たちにとって「冬虫夏草」(dbyar rtswa dgun 'bu) という名の重要な経済資源となる。この冬虫夏草をめぐる経済現象は、回り回って老若問わずチベット学者にとって、さまざまな研究対象を生み出している。

 コウモリ蛾の幼虫が長くその状態にとどまりすぎるとまずいように、ヨーロッパの大きな青いチョウ(学名 Phengaris arion)のライフサイクルにも同じ現象が見られる。
largeblue.jpg

 ヨーロッパの大きな青いチョウの幼虫は、木の根ではなく野生のタイムやリンドウを食べる。三度目の脱皮の後、幼虫は蟻にであう。蟻は幼虫を探るように優しくさすると、幼虫は甘い液を滲出させ蟻を喜ばせるので、蟻は幼虫を自分の巣へとつれていく。蟻の巣の中で一冬越冬した幼虫は、春になって目覚め、蟻にミルクをやりながら、そのかわりに蟻の卵と幼虫を食べ続ける。

 九ヶ月の間、幼虫は蟻の卵や幼虫を食べ尽くした後、チョウの幼虫は巣穴の中でさなぎになる。そして春になって土の下で蝶になる時、さなぎは蟻にエスコートされて広い場所にでて、羽が乾いて飛べるようになるまで蟻はその回りをとりまいて護衛する。

 このような複雑な遷移の期間、チョウの幼虫はさまざまなリスクにさらされる。若いチベット学者たちはここから学ぶことがあるだろう。青いチョウの幼虫のかなり多くは、食糧である蟻の卵と幼虫が枯渇することによって、餓死する。そうでなくとも、もし何らかの理由で、幼虫が適当な音を出すことに失敗すれば、宿主である蟻は幼虫が偽物であることに気づき、食ってしまう。イギリスでは青いチョウを育てる蟻の種は、短い草の生える場所に生息し、これは野生の鹿がたくさんいた中世にはよくある草原の状態であった。鹿は徐々にノルマン人がもたらした兎にとってかわった。しかし、1960年代にイギリスの兎の数は疫病(myxamatosi)によって急激に減少し、草は深くなり、自然保護活動家が気がつかないうちに、青いチョウを育てていた蟻は、青いチョウに敵対的な種にとってかわっられてしまった。

 1979年、イギリスにおいて青い大きなチョウは、正式に絶滅が宣言された。これが持つ意味は、あなたたちにはわかるであろう。1979年とは、そう、国際チベット学会が創立した年である。

 若手チベット学者の象徴となるチョウがあるとすれば〔冬虫夏草や青いチョウではなく〕、アポロ(学名Parnassius apollo)であろう。アポロは雑菌のあふれる地中ではなく岩の上で、きまぐれな宿主にたよることもなく、何冬も越冬する。アポロは50種以上を数え、アルプスから高度5600mのチベット高原に至るまでひろく分布している。一つの種の中ですら、多くの異種が確認されている。
apollo-butterfly-xxximg_4753mw.jpg

  アゲハチョウ科メンバーとして、アポロはイギリスのスワロウテイルというアゲハチョウとラージャ・ブルック・バードウィングの一種とも親戚関係にあるものの、後者の派手さはない。アポロは過酷な環境にあっても完璧にリラックスしている。アポロの一種は太陽から熱を得るために羽の色は暗く、氷河のさむさに対抗するために脂肪と体毛が豊富に備わっている。

 にもかかわらず、アポロは注意深い〔ので〕、飛んでいる姿は明るい太陽の中でしか見られない。アポロの一種の成蝶が何千ドルもの高値で売られていることを考えると、世間でかなり話題になった冬虫夏草の高値は無意味となっていく。

 儚さは、より頑丈で精力的で世の中に適合した姿で現れたことは決してなかったし、輝く未来が約束されることもなかったのである。


 つまりこのスピーチが意味することは、若手チベット学者よ、今はいもむしだが、アポロのように寒い冬を誰にもたよらず、たくましく生き抜け、ということ。あまり土の中にながくいすぎて冬虫夏草にならないでね、とも(笑)。
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