白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/09/21(金)   CATEGORY: 未分類
死者の数(下)
 ちょっとゼミ合宿とかいっていたので、更新が遅くなってすみません。前回の続きをやっとあげました。

 要は、亡命政府のいう120万人は統計的な基礎に乏しいが、それを批判するなら中国側は人口統計資料を開示せよ。しかし、中国が史料を開示しないのは、自分にとって都合が悪いからであるとする。

 そして、チベット高原において大量死があったことは事実であり、それを証明する手段として、本土チベット人の回顧録や、公開されているデータにおいて1982年当時チベット高原の男女比率が著しく男性が少ない不均衡を示していることなどによって裏付けられる。

 死者の規模はできる限り、正確に把握する努力をせねばならない。それと同時に死者をたんなる数字にしてしまうのではなく、一人一人の顔と名前を取り戻す試みも必要である、という主張である。

(続く・・・)
 2008年にダラムサラで出版された『ナクツァン・ヌブロの回顧録』は以上述べた批判の類に耐えるものとなっている。

〔中国政府に好意的な〕ソートマンやグリューンフェルドたちなら「典型的な誇張された亡命者の話」とみなすであろう一節において、ナクツァン・ヌブロは荒廃の年1958年に、玉樹地域(前述した人骨のでた地域である)で目撃したことについて記す。この年より前に、彼の父親は殺され、その後彼は収容所に入れられた。

川に沿って走っていると、何かが腐った臭いがたちこめ始めた。さらに進むと、川の両岸に遺体がちらばっていた。

遺体はみな裸で、青黒く変色していた。・・・遺体が怖くなくなってきた。さらに進むと、たくさんの子供の遺体と、子供を抱いた母親の遺体があった。そこには全部で26から27人の遺体があった。髪型から察するにほとんどは母親と子供であった。・・・山の麓に高い岩棚と低い岩棚があった。

高い方の岩棚には父親とロチュ(Lochu)が座っていた。ここについた時、みなは激しく驚いて、口々に「ああ、観音様ご覧ください」と叫んだ。大地は完全に男、女、僧侶、ヤク、馬の遺体に覆われていた。見渡すかぎり、そこには死があった。・・・

〔ナクツァンは〕ついに捕まり、チュマルレプ(Chu-dmar-leb)の街の収容所についた。

街を歩くと、自分の足音以外何の音も聞こえなかった。門を通り抜けると、高い壁が目の前にそびえ立った。・・・・軍人が囚人を隊列にして行進させていた。しかし、壁の真ん中まで進むと囚人は消えたように見えた。私は思った。不思議だな、ここでは何がおきているんだろう。・・・ ・・・壁の真ん中のところにつくと、中国人の軍人が地面に開いた深い穴を覆った戸をあけた。暗闇からひどい臭いがした。軍人は囚人にその孔に一人ずつ飛び込むようにと命令した。

囚人たちが孔の下の地面に着地する音が聞こえた。孔の底からは痛みで叫ぶ声が聞こえた。・・・「ひどい。まだ子供だぞ。」ずっと下にいる誰かがいった。彼は手を伸ばしてわたしを下に降ろした。・・・・開けた場所にでた時、中庭が何百人もの囚人でい一杯なのを見て驚いた。・・・あたりを見渡すと、別の孔があり、そこには複数の死体があるようだった。・・・・

タクパは「男子囚人は2300人いる。」と言った。「女性囚人は1600人だ。」料理人は囚人が何人いるかをつねに正確に知っている。・・・中国人の軍人に残忍に殺された死体が、毎朝、門の外に運ばれていった。二人の囚人がかつぎ棒に死体をくくりつけて、壁の外にある死体捨て場へと運んでいった。


 この報告は典型的なもののように思われる。ここで詳述されている死と苦しみの大きさは、ダラムサラで出版された中国支配下の生活を描いた作品を読んできた人にとってなじみない規模であろう。

 そう、これは亡命者の証言ではないのである。〔著者のナクツァンは〕は引退した元官僚で、彼がチベット本土にいながら書いた自叙伝なのである。1948年生まれのこの官僚は自分が子供の頃みたものを描いたのである。

 ナクツァン・ヌブロは前述した囚人孔から引き出され、社会主義体制の中で再教育されることとなった。結局ヌブロは司法警察官となり、最終的にはチュマレプの副県知事の地位にまでのぼりつめた。チュマレプは彼が子供の頃、つれていかれた囚人孔があった地である。


 ナクツァン・ヌブロの回顧録は2006年に西寧において、アムド方言で出版された。その後、標準的なチベット文語へと翻訳されてダラムサラで出版された。

 わたしが先ほど引用した文章は、アムド語の元テクストから英訳された英語版である。本書は出版元がみつからないため未出版であるが、この本の出版のために努力した著者と翻訳者にはそれだけの価値があるので、早く出版元が見つかってほしい。

 いかに牽強付会をしようとしても、このナクツァン・ヌブロの証言を「亡命政府を喜ばすためにねつ造したもの」と片付けることはできまい。

 このような回顧録に以外にも、抑圧された虐殺の歴史を明らかにすることによって、中国政府が人々に強いてきた沈黙の壁を打ち破る方法もある。ここに挙げたのは、1999年に北京で発行された『中国蔵学』の論文から抜粋したものである。
論文抜粋

 この抜粋記事は、玉樹にあるラプゴン(lab dgon)僧院で行われていた伝統的な経済構造と経済状態について論じた論文からの引用である(前エントリーの地図はチュマルレプの街と県の中心にある玉樹の街とラプゴン僧院の位置関係を示している。)。

 大きな僧院は内部にそこに拠点をもつ複数の高僧たちの館 (ラブラン=その高僧とその弟子たちの生活を支える人的・経済的組織)を抱えているが、この論文はこれらの館の主なもものをあげ、その後、館の主である高僧たちについても言及している。

 この論文の著者も、この論文を査読した人も、編集した人々も、この無味乾燥な論文記事が示す事に気づいていないようだ。たしかに、ほとんどの読者は何の感慨もなくこの情報を読み飛ばしていくだろう。

 しかし、一呼吸おいて、ページから目をそらしてみよう(これには文語チベット語の知識は必要ない)、すると過去が流した血が、紙の上にしたたり落ちてくるのがわかる。ここで名前の挙がっている僧院内の高僧たちは、1958年当時生きていた人間は1958年のその年にすべて死んでいるのである。ナクツァン・ヌブロが旅をした土地に散らばっていた死体と同じく、彼らはこの年に死んでいるのである。


 さらにもう一つの画像が、チベットでおきた大量殺人についての証言や報告を無視することをより難しくしている。

 1980年代に中国が最初に行った比較的信頼できる人口統計(1982年の人口統計から引き出されたデータ)を照合し分析した結果、加工されていないデータからすぐには見えてこなかった絵が見えてきたのである。

 背筋が再び寒くなる。統計がとられた1982年、チベット高原では男性と女性のバランスが極端に悪いのである。この不均衡はただ暴力闘争によってのみ説明することができるものである。

以下の地図の中で赤色に示されている部分は女性の数が恒常的に男性の数をしのいでいる部分である。この地図が明らかに示すように、中華人民共和国全体を見渡しても、チベット高原は最大の規模で、男女比の不均衡の大きさを示す赤色がめだっている。
男たちが少ないことを示すこの赤色て示された地域の中に玉樹がある。
TBC-7-570x368.jpg

 まさに現時点で、チベットでの大量殺戮が実際にあったことを否定するのは、悪意のあると見なさなければならない。ホロコースト否認事例の多くもそうであるが、それは統計的方法論に基づく客観的な否定ではないのである。

 これは究極的には政治的な課題にねざしている。然り、関連する中国の記録に誰も公的にはアクセスできないのである。然り、亡命者の証言は誇張されがちである。然り、ダラムサラからあがってくる数字には信頼すべき統計的な基盤はない。これらはみな事実である。しかし、われわれが得た証言の背後に、むごたらしい恐ろしい真実があることも明かな事実である。

 中華人民共和国はここ数十年来、高度に官僚化した国家となった。この官僚国家は1950年代から60年代にかけてチベットで起こった大量死の輪郭を人々が決定的に知ることがないように、無数の文書を結局は隠さずにはいられない。このような記録へのアクセスを国家が否定していることが、その文書の内容から分かることが、その国家にとって不利なものであることを雄弁に物語っている。

 しかし中国政府が自らのもつ記録・文書類をかたくなに公開しないことよりも、チベット人が悲劇の規模をきちんと統計的に証明することができていないという点にばかり目を向ける人がいる。また、チベット人の努力が、「何人の人が死んだのか」という疑問に答えをだすことにとって悪意のある障害だとみなす人もいる。しかし、〔チベット政府の死者数の証明の不備についてのみ糾弾する〕このような姿勢には、悪意ある先入観があることは明かであろう。

 結局、日の光の下にさらされるべきは、中国がもっている記録である。個人の証言から直接的にであれ、他の史料からの間接的な引用であれ、ただ「何か残忍で恐ろしいことがチベットでおきた」と知るだけでは十分ではない。確かに、その残酷な時代の中で具体的に何人の人が亡くなったのかを知るべく、あらゆる手段をつくす必要がある。

 しかし、ここで私が最初に引用した文章に話を戻そう。そう、何人が亡くなったかを知ることと同時に必要なことは、それら亡くなった人たちを統計上の数字としてとらえるのではなく、名前と顔のある「人」として扱ってゆくことである。

 そうしなければ、大量殺戮の実行者が我々の「人間性」を作り出すことを許すことになってしまうであろう。

 中国側の記録が開示された暁には、我々はジャムヤン・イェーシェー・ソナムチョクドゥプ(’Jam-dbyangs ye-shes bsod-nams mchog-grub)がどこにいたかを正しく知ることができるだろう。

 ジャムヤンはラプゴン僧院のアテン三世(a brtan)すなわち、転生僧として『中国蔵学』の論文にその名前がはっきりと記されている。

 ジャムヤンはその生涯をアムド地域における仏教の布教に捧げ、前世者たちと同じくラプゴン僧院の支院に入門しそこで教育を受け、多くの弟子たちを得た。そして、24才の時に、1958年に、それ以上のことは何もなくなった。

 彼は死んだのである。
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