白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/09/22(土)   CATEGORY: 未分類
宮沢賢治と多田等観
 今年のゼミ合宿の目的地は花巻市。花巻といえば、「己を無にして人のためにつくす」法華経行者・宮沢賢治(1896-1933)の出身地。さらに、花巻にゆかりの仏教者としては、ダライラマ13世の時代、チベットの僧院に10年もの間留学した多田等観(1890-1967)がいる。多田等観は残念ながら日本でチベット仏教を伝える機会をもてず、東北大学や東洋文庫やアメリカの大学で教鞭をとりながら、チベット学に裨益することでチベットを日本に広めた。花巻には多田等観がチベットから将来した数数の品と、彼が愛した観音山とその頂上にたつ彼の住居一燈庵がある。

旅程の概要は、初日に宮沢賢治関連、中日に多田等観関連の史跡をたずね、最終日は宮城県の閖上において、三日間かけておりあげた千羽鶴をもって慰霊。

初日 

 高田馬場Big Box前からバスで花巻に向けて出発。

 バスのマイクを握り「みなさん、こんにちは。これからみなさんと花巻までお供をさしていただく●シ×マです。花巻は宮沢賢治の故郷として知られます。宮沢賢治の生き方と作品には、「本当の幸せとは、人のために生きること」という思想があります。

 かつてこのような生き方は軍国主義の滅私奉公に重ねられ、不当に過小評価されていました。しかし昨今あまりに自分のことしか考えない風潮が蔓延し、社会に様々な問題が現れているため、賢治の思想はみなおされています。
 賢治は法華経行者であり、彼の説く利他は「一切の人を幸せにするまでは自らの幸せを求めない」という大乗仏教の理想の人間像、菩薩の生きかたです。
農学校

 みなさんにとって、「本当の幸せ」は何ですか? お金がたくさんもうかること、美味しいものを食べる、好きな音楽を聴く、など自分を楽しませることを幸せだと思っていませんか。

 しかしそれは違います。単なる気晴らしにすぎません。その証拠に続けているとすぐに飽きてしまいます。さらによく考えて見ればこの世の様々な問題は、人のことをかまわず自分のことだけを考える人によって生じています。自分、自分の家族、自分の国、自分の宗教、と自分のためには他人をかまわない人がこの世にトラブルをおこしているのです。しかし、みながエゴを鎮めようと努力し、人のために生きようとしたらどうなるでしょう。理想郷が出現します。

 賢治はまさに「人のために生きること」が本当の幸せであると思いました。賢治は仏教徒です。仏教はエゴを鎮めるトレーニングの集大成です。ダライラマが心底幸せそうに人のために生きているように、人のために生きることはじつはは決してつらいことではありません。人を喜ばせることができた時、人を幸せにできた時、思考が自分のみに向いていた時には僧像もできなかった幸せを感じることができます。みなさんも人のことを喜ばせることによって幸せを感じられた時、大人になったということです。今から賢治についてのパワーポイントがはいったパソコンを回すので、現地につくまでみてください


 学生A「センセ~、なんでパソコンの画面がこんなに指紋だらけなんですか」
 「ふいといてください。ところで安いパソコンのロゴも葵のご紋シールって隠すと高級そうに見えるでしょ」
 学生B「いえもっと安っぽく見えます」
 「多田等観についての本(高本康子先生の本)もまわしますので、興味ある方はよんでください。ちなみに、最終日までに一人20羽の折り鶴をノルマとして課します」
 学生C「折り方わかりません」
 「オリガミは日本を代表する文化の一つです。折り鶴くらい折れないと、女の子にももてないし、子供に伝統文化を伝えられません。この機会に覚えましょう。折上がった鶴はレジ袋へいれてください」

 午後三時に花巻に到着。

 土地の人によると、宮沢家は花巻の名家であり、花巻中の土地がかなり宮沢家のものだそうで、現在の商工会の会頭も宮沢家の人。議会で決まったことも彼が首をタテにふらないとひっくり返るのだそうな。

 バスは賢治の墓、生家などの前を通って、宮沢賢治記念館につく。記念館の壁には名作の生原稿の一ページ目がずらっとかかり、銀河鉄道の夜にちなんで部屋の真ん中にはプラネタリウムが設置されている。そして、賢治の童話を各ブースで聞くことができる。

 見れば館内には中央アジアの沙漠の写真や地図、さらには何とチベットのマナサロワル湖の写真やチベット地図も掲示されている。宮沢賢治は一度も日本から出たことはなかったけれども、経典に説かれるインド由来のイメージと当時一世を風靡した大谷探検隊とかに影響を受けたのか、なぜかインド・中央アジア色がみられる。

 そこでふと、宮沢賢治はチベットに行った多田等観と交流があったのかどうか気になった。多田等観は秋田の出身で、東北大学にも奉職していた。花巻とも縁が深い。会いたいと思えば両者は会えたのではないか。そこで、記念館の学芸員さんを急襲すると、両者の交遊はなかったとのこと。しかし、金子民雄先生が「宮沢賢治とチベット」という本をだしていらっしゃることを教えて頂いた(『宮沢賢治と西域幻想』のことか?)。金子民雄先生は本記念館とご縁が深く、「アラビアンナイトと宮沢賢治」という企画展の監修をされている。

 記念館をでたあと、賢治が農民のために開いた学校、羅須地人協会(一青窈がここで歌歌っていた 笑)を訪れ、その後、イギリス海岸のモデルとなった有名な北上川の河岸へ。今年は水量が少ないため、あの有名な岩が浮き上がってイギリス海岸らしい趣になっている。折しも夕暮れ。JRの「イーハトーブ岩手」の宣伝そのままの風景が目の前にひろがる。そこいらに吉永小百合が歩いていそう。
イギリス海岸

 ホテルは「渡り温泉 さつき」。幹事がものすごく有能であるためこの高級ホテルに格安でとまれているのだが、東北を応援しようとして東北にきてみたものの、これでは搾取である。このような団体にはサービスは無用であるのに、わたしたちがバスででかける時は従業員の方は並んでお見送りしてくださり、かなり居心地が悪い。
 
二日目

 午前に、花巻市博物館の収蔵庫を訪れて、多田等観がチベットから持ち帰った仏画、仏像、日用品、経典、錫杖などをみせていただく。中でも、釈迦牟尼の伝記を描いた25枚セットの仏画は圧巻。こういうチベットの僧院常備の仏画が将来されていることをみても、多田等観は日本にチベット仏教を伝えることが期待され、また本人もそう思っていたであろうことが推測される。

 多田等観がチベットで学んだ仏教は、日本の誰にも伝えられることもなくやがて仏像や仏画は博物館の持ちものに・・・。戦前の軍国主義から戦後物質主義へと日本社会は流れ、その中で多田等観が有していたチベット仏教の智慧はたえて日本に根付くことがなかったのである。

 多田等観の将来品の中で歴史性のあるものといえば、ダライラマ13世の手形とラサの中心にある釈迦牟尼尊の手形。ダライラマ13世の手形は合わせてみると、私とほぼ同じ大きさで、釈迦牟尼尊はありえないくらい指ながい。ダライラマのハンコ(持金剛仏ダライラマ印)もちゃんとおしてある。

 余談であるが、多田等観の将来品について研究していたことで名高い寺澤 尚学芸員は去年の十二月急逝されていた。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 博物館を後にして、次は多田等観の甥御さんが住職をつとめられているという光徳寺へ。このお寺の境内には1951年に多田等観のもってきたチベットの経典類を収蔵する蔵修館があったはず。お寺を訪れてみると、多田等観そっくりの人が現れてびっくり。副住職であるというこの鎌倉さんは、多田等観と血はつながっていないというが、生まれ変わりかというくらい似ていた。副住職によると、蔵修館は老朽化によりとりこわされて、現在は跡形もないという。

 お昼ごはんは仙台のWさんオススメのマルカン食堂へ。この食堂、マルカンデパートという地場デパートの六階に入っているのだが、ウエイトレスさんの服装や、メニューの内容が、高倉健が座ってそうな昭和の大衆食堂そのまま。しかも、意識してレトロをオサレに演出しているのではなく、そのままでレトロになってしまっていたという感じ (笑)。

 このマルカンデパートを代表として花巻の駅前にある地元資本のデパートと商店街は寂れていく一方、郊外には大手資本のマックス・バリューや「銀河モール」がたち車でのりつける客を集めている。人文地理の先生によるとこのような商店街やビルは土地と建物の持ち主が別々である場合が多く、権利関係は複雑で、なかなか建て直すこともままならず、国からの補助金があるため、このままにしていても暮らせてしまうのでどうしようもないのだという。

 そして、午後一時花巻の観音山(花巻市西郊外)の頂上にたつ一燈庵にむかう。迎えてくださるのは、観音山と多田等観の史跡をまもる郷土史家の畠山さん、岩手県議の名須川さん、先ほどもお会いした多田等観クリソツの光徳寺の副住職・鎌倉さんのお三方である。
絶景

 観音山の頂上からは花巻と北上山地がみわたせる。「花巻八景」の一つに数えられるだけのことはあり、美しい。県議の方も「この山からみる花巻の美しさは格別。田んぼに水がはられる季節には、たんぼに点在する屋敷林が、湖に浮かぶ島のように見える。四季折々に見にきてほしい」とのこと。

 観音山の頂上には八坂神社と円万寺があるが廃仏毀釈で荒れたまま。多田等観は花巻にきた際にこの観音山を気に入り、本尊が失われていた円万寺の観音堂に、ダライラマ十三世から下賜されたロンドルラマの千手観音を献上した。ロンドルラマ(1719-1794 klong rdol bla ma ngag dbang blo bzang)は18世紀のゲルク派の学僧で、歴史・哲学・天文学など様々な著作を残したことで名高い。ロンドルラマの千手観音というからには、ロンドルラマの念持仏をダライラマ13世経由で下賜されたのであろう。
観音様

 観音像は金箔を貼った磚仏で、「観音山を守る会」が購入した耐火金庫の中に保管されている。地元の人々が多田等観がこの寺に本尊を奉納してくれた恩に報いて、この円万寺の境内に、戦後まもない物資の少ない1947年に、一燈庵を建設した。畠山さんによると花巻も空襲を受けたそうで、そのような物資欠乏の折り、多田等観のファンの人々はこの山の上に彼の庵を建てたのである。ご厚意で、普段は開いていない庵の中も拝見させていただいた。

 観音堂にはこの他にも、多田等観が高村光太郎の弟子にほらせた聖観音像、観音堂にまつわる出来事を記した等観筆の観音山記録、多田等観がチベットからもってきた紙に、高村光太郎が揮毫した団扇などがある。

 本尊の横にはカター(チベット仏教圏で高僧や仏像に捧げる白い絹のスーフ)がかけられていて、これ以前にチベット関係者が何度も訪れたことを示している。カターの一つにはモンゴル語が入っている。このカターを持ってきそうな方といえばアキャ・リンポチェ。リンポチェは石巻に慰霊にこられた際ここにも足を伸ばされたのかなとちらっと思う(ちがった仙台のWさんの寄進だった 笑)。

 この他にも境内には、観音山の歴史を刻んだチベット語銘文入り梵鐘、一番新しいところでは多田等観の生誕120周年を記念して一昨年建てられた業績碑文がある。この碑文の落慶に際しては渡辺一枝さんがお見えになったそうである。碑文は多田等観の出身の秋田の石と、インドの黒い石で作られている。これも畠山さんの熱意によって回りが動いた結果のものらしい。

 廃仏毀釈でダメージを受けた円万寺は今は無住の寺である。一燈庵も老朽化がはじまっている。畠山さんはこの山を地域のシンボルとして護ってきた方で、水をひいて山上に水洗トイレをつくり、道を整備してきた。しかし、このような状態であるため、観音山が多田等観にまつわる史跡も含めて、いずれ護る者もなく荒廃していくのではないか、と心を痛めておられた。

 山から下りてバスにのると、学生の一人が「畠山さんって無償であの活動をやっているんですか」と聞いてきた。地域の歴史遺産をまもり、郷土の偉人の業績を記録しようという情熱は、学生にもほのかに伝わっているよう。

 夜、みなでおった折り鶴を女の子たちが糸にとおしていく。30羽ずつ通して10本で300数十羽。思い切り千羽にたりん。やはり人手がたりなかったか。

三日目 

 東京まで距離があり、なおかつ、夕方の渋滞を避けるため出発は朝早い。今回東北にいくということで帰路、被災地に一か所よるつもりであったが、東北自動車道からあまりはずれずにいける被災地ということで、名取市の閖上地区にいく。

 仙台のWさんの指示で東部自動車道を通るが、海側にでた途端、道路の左側が一面被災地となった。右側は収穫を待つ稲が黄色く波うっているのに、左側は荒野である。
被災地2

 震災当日つけっぱなしのテレビが、NHKのヘリからおくられてくるこの地域の津波の映像を流していた。津波は仙台平野をなめつくし、名取川を遡り、東部自動車道路でやっととまった。あの映像の結果が今目の前にある。
被災地3

 ここ閖上は人口密集地帯であり、かつ、高速道路以外高台がなかったため犠牲者が多くでた。Wさんの案内で閖上中学校にいく。学校の正面にかかる時計は震災発生時刻で止まっていた。Wさんによると震災発生当日はこの中学の卒業式の日で、三階の黒板にはいまも「祝 卒業!」のハッピーな板書が残っているという。一階と二階は震災後、自衛隊が入り、連絡事項が書かれたため元の板書は消されている、その落差をみるのが悲しいという。
被災地1

 震災がおきた時に卒業式は終わっていたので、ここで犠牲になった学生は14名。あとの犠牲者はこの中学校に避難してきた一般の方である。学校の前は何もない荒野がひろがっているが、かつては住宅密集地帯であった。入り口付近には慰霊碑とお供えをおく台が置かれている。Wさんは準備していたお線香をお供えする。

 ここでWさんは昨年、アキャ・リンポチェがこの地に慰霊に訪れた際の話をした。リンポチェが校舎からでてくると、赤い傘をさした女性の方がいた。その女の人はリンポチェに「この校舎にむかって、津波から逃げようという人がいまも駆け込んでいる。何度も何度も同じことを繰り返している。『もう逃げなくて良いんだ』と彼らに伝えてくれ」と。

 その方はこの校舎で息子さんを亡くしたお母さんであった。年をとって円満に迎える死ではなく、まだこれからの中学生に訪れた死。痛々しい話である。

 次に、日和山に向かう。日和山といえば石巻の日和山が有名であるが、ここ閖上にも人工の小さな築山、日和山がある。Wさんによると、漁師が漁にでるかでないかを判断するために海の状態をみるべくのぼる山がなべて日和山と呼ばれるという。

 閖上は平野なので、この小さな日和山からでも被災した地域がみわたせる。震災から一年半たった今も、人の気配がない荒野がひろがる。Wさんによると、政治がもめているので復興計画がストップしているとのこと。折しも、中国で反日暴動が起きていたので、震災時の略奪について伺うと、石巻はとくにひどくて、県外ナンバーで乗り付けたバンダナ無頼漢が「ヒャッハー!」で北斗の拳状態であったという。人間のクズは民族区分に関係なく普遍的に存在することをこのエピソードは教えてくれる。

 山の上には震災でなくなった二万人を弔う卒塔婆がたつ。

「みんなは死を年をとってからやってくるものと思っているだろうけど、若くても病気や災害によって死ぬことはある。人はいつ死ぬか分からないのだから、それを肝に銘じて、毎日を丁寧に生きていけ」と述べる。

 ここで三百羽鶴をお供えして読経。

 突然の死を迎えた魂が少しでも安らかになりますように。

 そしてWさんと別れを告げ東京へと帰還。平日は東北道は工事が多いので行きよりも時間がかかるとのことだったが、スムーズに東京へ。

 お疲れ様でした。
[ TB*0 | CO*0 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ