白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/12/03(月)   CATEGORY: 未分類
真言宗とチベット仏教
 シンポジウム(内容については後述)の後、同じシンポにでていたMさんと待ち合わせているUさんとお茶した。

Uさん「実は昨日もMさんと食事してたんです。Mさんが『矢島保次郎(明治期にチベットに潜入し、チベット人の妻もいた有名な探検家)をテーマに語ろう』ということで、席も『矢島』で予約しました。」

「なんじゃそりゃ」

Uさん「で、私が店の人に案内されて席についたら、まだMさんは来ていなくて、しばらく待っていると、衝立の向こうから『ダラムサラ』とかいう声が聞こえてくるんです」
 私は今まで数々の空耳を聞いてきて、恥をかいてきたので、最初は動じませんでした。あっちで「チベット」って聞こえたからみると、ベッドの話だったり、こっちで「チベット」て聞こえたら,「ペット」の話だったりしたから」

Kさん「ぶはははは」
Uさん「『タンカ(チベットの仏画)をやっています』っていうから、絵の話かと思ったら短歌だったりしたこともあります」

「ぶはははは」

Uさん「でもやっぱりチベットの話が聞こえてくるので覗いてみたら、そこにマリア・リンチェンさんと、ダライラマ法王事務所のボランティアの方がいらっしゃって、そこにこっちにいるはずのMさんもいるんですよ。」

「話が見えない」

Uさん「つまり、たまたま別のチベット関係者の集まりが衝立一つ隔てて隣の席にきたんです。あの何万人もが食事している広い新宿で、チベット料理でも何でもない火鍋屋で、しかも初めて使った店で、70席はあるのに、偶然隣り合わせになったんです!!!」

「そいえばあなたとカチン料理屋(ビルマの少数民族)でばったり会ったことあったよね」

Uさん「あそこで会うのは普通です」(普通なのか?)

「では、やはり前世の因縁なのか?」

Uさん「それにしてもMさんなんで向こうのグループにはいっていたのか、少しは疑問に思ってほしかったです。自分が呼んでない人がたくさんいることに疑問を感じなかったんでしょうか」

 笑い話はここまでにして、゙本体のシンポジウムをレポート。例によって手書きメモと記憶とパワーポイントの画面写真に基づいたものなので、裏は自分でとって。

 シンポジウムのタイトルは「戦時期日本の喇嘛教(チベット仏教)・回教(イスラーム)工作」わたしは前半の日本とチベット仏教の関わりの部分だけ聞き、イスラーム工作はパスさせて頂いた。

 このセクションの発表者は二人いて、一人はこの前の内陸アジア史学会の発表者でもあった高本康子さん。演題は「満州国における『喇嘛教』工作」について。明治初期からの日本とチベットの関わりを概説し、特に、満州国については詳しく、熱河省承徳と興安嶺省における日本軍部の行ったチベット仏教へのコンタクトならびに庇護策などについて述べた。

 で、二人目の発表者がナラン・ゴアさん(オーストラリア国立大学)。
 彼女の演題は「内モンゴルにおける日本の仏教者たちの活動」(当初英語でやるはずが日本語で発表。この方ドイツ語で博士論文書いているし、モンゴル人は本当に語学に堪能!)

 日本は大陸に侵攻する中で、清朝やモンゴル・チベット地域において広く信仰されていたチベット仏教と出会う。そして宗教を否定する社会主義ソ連や、民族の文化を尊重しない中華思想の漢人と対抗するべく、満洲・モンゴル地域において民族の文化を尊重し、その一環として、チベット仏教の復興を行った。
 
 当時の日本仏教の諸派は、大陸に布教使を送り込んで、布教所をたて、「西洋がキリスト教によって一大勢力を結集しているのだから、アジアも仏教によって一致団結して西洋帝国主義と戦わねばならない」みたいなPan Buddhismな宣伝をチベット仏教徒たちに行っていた。

 で、アジアの仏教者が同盟する、ということになれば、当然、重要となるのは、チベット仏教世界のトップ、ダライラマ。このような流れの中で、東本願寺の僧、寺本婉雅が暗躍して、ダライラマ13世と東本願寺のトップ(代理)との会見を成功させたりしたのは有名な話。

 ナランゴアさんは、日本仏教各派の中でも真言宗は、単純に国策にのった以上の働きをしていたこと、チベット仏教自体に興味をもってチベット仏教徒と接していたという点を指摘された。

 その根拠としては、真言宗はチベット仏教自体を学ぼうとしていること、チベット仏教を学術的に研究していること、戦争末期に日本の国策が南方工作に向かう中、真言宗が東南アジア布教に割いた費用は微々たるものであった一方、モンゴル地域のチベット仏教振興に対する予算は増え続けていたこと。また、高野山は満洲国から多くの留学僧(モンゴル人)を日本に受け入れ、「日満親善」ではなく「日蒙親善」と銘打っていたことなどを挙げた。

 真言宗がなぜ他の宗派よりもチベット仏教と深いつながりをもつようになったのかの理由について、ナランゴアさんは「真言宗の教学である密教はチベット仏教と重なる点が多いからではないか」と言う。

以下、高野山とモンゴルのチベット仏教徒との具体的な関係を箇条書きにする。

●真言宗高野山派は1938年、北京の報国寺に高野山別院を建てることを始めとして、各地に布教所をたてて布教使を送り込んだ。大陸に送られる人は、大陸布教講習会、蒙疆派遣僧訓練道場などにおいて、モンゴル語・チベット語・中国語を勉強し、さらに医療知識を身につけさせられた。

●1941年10月 東京智山専門学校で、五ヶ月間研修を行った14人の内、六人がチベット仏教を学ぶためにモンゴルへ送られた。

●大陸に送られた真言宗徒の中でも高橋大善はフフホト(当時は厚和といっていた。今の呼和浩特)において、日本から送られてくる研究生の世話役として活躍した(1941年に大酒飲み過ぎて死ぬ)。

●一方、高野山には、興安密教学院を設立して、ここにはチベット仏教の僧侶を集め、日本語・歴史・地理などを教えた。ここで教師をしていた田中千明さんによると、チベット人は一人、漢人が一人で、あとはすべてモンゴル人僧だったという。

●1941年10月に、東京に、真言宗によるチベット仏教の研究所、東京真言宗喇嘛教研究所がたつ。研究所長は倉持秀雄、顧問(交渉中 笑)は、河口慧海、青木文教、矢島保次郎、栂尾祥雲、などそうそうたるメンバーが名を連ねている。

 
 このように、真言宗は、チベット仏教の僧院に日本人の研修生を送り込み、高野山にチベット仏教僧に近代教育を施す施設を作ったり、東京にチベット仏教の研究所を作ったりと、明らかにチベット仏教自体を理解しようとしていたのである。

 以上の発表に対してコメンテーターは新潟大学の広川佐保先生は

 日本人がチベット仏教に対する時、仏教の源流を求めるという意識があったので、西洋人の宣教師が未開の人々にキリスト教を伝えるといったような、上から目線の布教ではなかったのではないか。「チベットから教えていただく」という感じであったのではないか。

 長尾雅人(広川先生は長尾先生を宗教学者といっていたが、彼はチベット仏教学者)の『蒙古学問寺』を見ると、『チベット仏教はあまりにも深淵で、チベット仏教僧はそれを日本人に教えてくれないと』書いてある。そんな状態でモンゴルに布教することに、日本側は矛盾を感じなかったのか。また、清朝の庇護を失ってモンゴルのチベット仏教は経済的にも人的にも衰退していた。モンゴルの側には、チベット仏教を改革せねばという危機感があったのではないか。

などのコメントを述べられた。

次に質問タイム

 まず中見先生。
 『成吉思汗傳』などの著者として有名なモンゴル史の研究者小林高四郎(1905-1987)先生は、外務部の調査部にいて、ようはスパイだったんだけど、まあ見識がある人で、あの橋本光宝(外務省でモンゴルのチベット仏教担当して、チベット仏教史の基本的な文献を和訳している)が「河口慧海を青海省にパラシュートで降下させて、現地の工作にあたらせろ」といったのを聞いて、「あれはどうしようもないバカだ」といっていた。

 独立後のインドで首相にまでなったRaghu Biraは、子供の頃に高野山につれてこられている。彼の息子がシャタピタカ・シリーズ(チベット仏教の基本的なテクストを影印したシリーズ)をだしたLokesh Chandraで、あのシリーズにモンゴル大蔵経が入っているのは、父親が〔高野山で〕モンゴルのツェデンバルと交友関係があったので、後にウランバートルにいった際、大蔵経を撮影する許可がとれたのだ(このあたりメモが読み取れないのでシャタピタカのモンゴル大蔵経の序文を確認する必要あり)。

 当時、ナチスドイツもイタリアのファシストも西洋文明の起源としてチベットへ興味をもっていた。ドイツ・イタリアのチベットブームは日本には影響を与えていないのか、それだけ聞きたい。
 

 などのモンゴル近現代史の研究者ならではのトリビアが炸裂していた。私は面白かったのだが、司会者は先生の話を露骨にさえぎって「あとで三人で話してください」とまとめたのにはわろた。

 で、私の雑感。
 このお二方の発表はモンゴルを舞台にしているものの日本語史料のみを用いて日本人の視点からみたチベット仏教との関わりを述べている。つまり日本史である。で、その日本人の視点から見ると、真言宗以外の他の宗派の僧侶たちは、やはり国策にのっとった布教を大陸で行っていたわけで、チベット仏教の振興を行ったといっても、純粋にチベット仏教自体の価値を理解して支えようと思っていた訳ではなく、どこか国益臭(日本人のエゴ)がただよう。

 当時の日本の史料には喇嘛教(チベット仏教)、活仏(転生僧のこと)などのチベット語に対応する概念のない言葉を常用していたことなどが、日本人や漢人のチベット仏教に対する理解の限界をよく示している(むろん発表者はそれを認識した上で、当時用いられていたから便宜上これらの言葉を用いる、と前置きしている)。

 そして思うのが、現在のこと。チベットは中国に占領され、仏教文化はかろうじてインドのチベット難民社会で保持されている状態である。しかしこの土俵際において、チベット仏教にふれる機会を持った先進各国の人々は、チベット文化そのものの価値に気づき、その文化の存続を強く願い始めた。しかし、今度は「中国に対する配慮」という各国の国策が邪魔をして、チベット支援が自由に行えない状態となっている。
 皮肉な話である。

 そして注目すべきは、今に至っても、チベット仏教文化に対して理解と尊敬と支援を行ってきた人々の中には、真言宗の関係者が目立つことである。

 昨年、真言宗高野山派の高野山大学がダライラマ14世をお招きして胎蔵界の灌頂を行ったこと、東京では真言宗豊山派の護国寺様がダライラマ14世を何度かお招きしていること、成田山で国際チベット学会が行われたこと、などが象徴的であろう。ラダックやスピティのマンダラ調査も智山派・高野山派など真言宗系の研究者の活動が目立っている。

 敗戦を境に何もかもがリセットされたように見えても、真言宗とチベット仏教の教義の共通点が、いまもほそぼそと両者の関係を続けさせているとも言える。思えばウチの父方も真言宗高野山派である。自分では意識しない内に自分も歴史の系譜の中にいたんだなあ、と、何か感慨深かった。
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| | 2012/12/03(月) 18:26 [EDIT]
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● ありがとう
シラユキ | URL | 2012/12/03(月) 18:29 [EDIT]
>センくん
治しといた。ありがとう

ZIMA | URL | 2012/12/05(水) 22:41 [EDIT]
同じ矢島でそんな立派な探検家がいたとわ知りませんでした。どこの矢島さんでしょうか。諏訪の神官系か。
こないだ中国に行ったら西蔵放送がずーっと時計やアイフォンのテレビショッピングを流していました。
さすがに世は末期だ。。と思いました。
● 矢島さん
シラユキ | URL | 2012/12/06(木) 00:27 [EDIT]
>zimaくん
ここのところ、いろいろとありがとう。矢島は前橋生まれです。今年生誕130年ということで、前橋で記念写真展が開かれました。日本最初の無銭旅行家とかわけのわかんないタイトルもありますよ。矢島保治郎で調べたら結構でてきますよ。
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2012/12/06(木) 08:17 [EDIT]
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| | 2013/01/01(火) 23:24 [EDIT]
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