白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2012/12/19(水)   CATEGORY: 未分類
最新研究による百年前のチベットとモンゴル
 最近チベット近現代史の知識強化を行っている。そのため、土曜日は早稲田大学の「中央ユーラシア歴史文化研究所」主催のシンポジウム「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」に行き、日曜日は北大スラブ研究所主催のワークショップ「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」と立て続けに行ってきた。

 しかし、「まじめに座って勉強する」をやりすぎたせいか、日曜日の晩に20時きっかりに激しい悪寒に襲われど派手に体調が崩れた。状況から察して知恵熱かと思われる(おい)。

 教訓: わたしはまじめに勉強すると死ぬ。

 さて、こんな肉体的な苦労をともなったシンポジウムなので、一般人にも分かるように適当な報告して元を取ろうと思う(正確かつまじめな文作をする体力はまだない 笑)。

●●●「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」●●●

 まず、早稲田のシンポジウムの方は発表者は以下の三人で、最初のゲストをのぞく残り二人は自分の後輩。古巣でシンポちゅうわけ。

(1)オーホノイ・バトサイハン(モンゴル科学アカデミー国際研究所)「20世紀初頭のモンゴル人がモンゴル史に対して取った姿勢」
(2)橘誠「モンゴルの国史編纂と翻訳事業」
(3)青木雅浩「モンゴル人民党におけるモンゴル帝国史」

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○チベット史の自分にとって一番興味深かったのは、最初のバトサイハン先生の研究。しかし、この人のみ遅刻して聞けなかった(爆笑)。でもレジュメがあるので大丈夫。バトサイハン先生の話を背景から説明するとこんなカンジ。

 清朝は満洲人が漢人征服して作った国家である。そのため、モンゴルは同盟者として、またダライラマは師僧として尊重されていた。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、清朝が弱体化し、満洲人が力を失い漢人官僚が力をもち始めると、「チベットやモンゴルは植民地化しちまえ」という政策が順次行われるようになる。そこで、チベット・モンゴルの王侯層たちは自分たちを護るため、地域、立場によって様々な行動をとりはじめる。

 モンゴル高原の王侯たちは、1911年12月29日ジェブツンダンパ八世(モンゴル最高位の転生僧)をモンゴルのハーン(王)位につけ、清朝からの独立を宣言した。で、バトサイハン先生はこのジェブツンダンパ八世の即位式に焦点をあて、即位式の際に何が献じられたのか、印璽には何が刻まれていたのか、元号は何なのか、国号は何なのかを文献に基づいて明らかにした。

 以下自分コメント。

 即位の際にジェブツンダンパには、杯、「政教一致の権力を握る者・日光ボクド・ハーンの印璽」(mongGul ulus-un ejen shasin toru qoslon bariGci naran gereltU qaGan)と刻まれた印璽、冊、マンダラ、佛像・仏典・仏塔、輪王七宝、無量寿仏、長寿の祝辞などが次々と献ぜられた。

 これ、微妙な違いはあるもののダライラマの即位式と全く同じ。

 そして、元号の「共載」(「多くの者に推戴された人」という意味)であるが、これは、仏典に説かれる人類最初の王「マハーサマンタ? 王」のこと。
 『阿毘達磨倶舎論』(か『彰所知論』)には人類の歴史についてこう述べられている。人類が発生してしばらくは、人々は穏やかに暮らしていたが、「私有」という観念が生まれると争いが生じるようになった。この時、人々は人格者を選んでみなで推戴して王として争いを収めた。この人類最初の王がマハーサマディー王である。

 アウンサン・スーチーさんが、軍事政権から「民主主義は西洋人の思想であり、ビルマには合わない(スーチーさんがイギリス人と結婚したことを揶揄している)。」と批判された際に、「民主主義はビルマの固有の思想である」ことを示すためにこの王の故事を引いたことからも分かるように、この王は仏教徒の王権観を語る際には転輪聖王と並んではずせないものである。しかし、会場には仏教に理解のあるものが皆無であったため私の感じている「ああ、分かる分かる」という感じは全く共有されていなかった。なんなんだろうね。

 大半の研究者は、人の動き(政治)とか制度とか経済とかで社会を見て、文化面からみる人は数少ない。当時の人はこう考えていたからこう行動した」という思考回路は大切なんだけどね。

 ちなみに、ジェブツンダンパ八世に捧げられた祝辞も、仏典の修辞が凝らされており、この時、彼の尊称として用いられたヴァジラダラ(持金剛仏=密教の根源仏)はダライラマの尊称と同じである。

 ダライラマの即位と異なる点をあげておけば、ジェブツンダンパには妃がいたので、妃の即位式が伴った点、またこれらの吉祥の品を献ずるものたちがチンギス・ハーンの子孫の王侯たちであることから、チンギス・ハーンの子孫たちの国であることが強調された点である。

 ボグド・ハーン(ジェブツンダムパ)政権のモデルがダライラマ政権であったことは明かである。この後モンゴルは1921年のキャフタ条約によってソ連の後援の下、自治を獲得し、現在にいたるまで国として存続することに成功した。一方の本家のダライ・ラマ政権は清朝の影響力はモンゴルに比べればはるかに小さかったのに今は中国に占領されている。

 来年はちょうどチベット・モンゴル条約が結ばれて100年。しかし、心ないモンゴル人の中には「チベットは国がないから、記念する意味もない」みたいなことをいう人もいるらしい。それ聞いて、ものすごい腹立ったが、ここで私が腹を立てても百劫にわたって積んだ善業が焼けてしまうので、「チベット仏教は国がなくとも世界平和に貢献しとるわ。その上仏教哲学は世界中を敬服させとるわ!世に数ある失敗国家に比べればチベット人はよほどちゃんと世の中に貢献しているわい」と毒づくにとどめることとする(怒ってはいない)。

○二番目の橘君の発表は、1934年に社会主義モンゴルの国史として編纂されたアマル著『モンゴル略史』において、資治通鑑などの中国の史書が参考にされていたことを示した。

 この発表で自分びっくりしたのが、アマルの国史の参考文献の一つである1927年編纂のバトオチルのモンゴル史には、匈奴から鮮卑まで、モンゴル高原に勃興した遊牧民は何から何までモンゴル人になっていること。こりゃ中国の史書でも使わないと確かに記述できないわな(笑)。

 そしてワロタのが、この同じ人の史書では、モンゴル帝国以後の歴史は、チベット仏教の影響を強く受けた構成となっていること。たとえば、最後の三つの章(26-28章)のタイトルとなっている三人のハーン、グシ・ハーン、ガルダン・ボショクト・ハーン、アユキ・ハーンは三人ともダライ・ラマ政権が仏教の護持者として称号を授けた三人である。

 ちなみに、この三人の出身部族はホシュート、ジュンガル、トルグートと、今のモンゴル共和国の主力を形成するハルハの人々とは異なる。これだけ見ても、帝国以後のモンゴル史においてチベット仏教の存在感の大きさを知ることができる。社会主義に伝統を破壊される前のモンゴルは、自分たちの歴史を、中国由来とチベット由来の史観によって見ていたことが、社会主義モンゴル発足直後のモンゴル史から見て取れるのである。

○三番目の青木君は、1920年代の社会主義モンゴルでは、世襲王侯を否定し、民主制を礼賛するために、チンギス・ハーンを引き合いにだすことを行っており、後のようにタブー視していなかったことを発表。たしかにチンギスは世襲でなく実力でハーンになった人だよ。後にソヴィエトはチンギスに虐殺者の烙印を押して、何であれその肯定的な評価を行うことを禁止した。ロシアはロシア平原を支配したチンギスの長男の家系(ジョチ・ウルス)と戦いながら国を拡張していったから、チンギスをまじめに研究されると自分のお里がしれてまずいよね!

●●●「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」●●●

体力がつきてきたので、ややザッパになるのを許して。
(1)杉山清彦「ユーラシアの中の大清帝国」
(2)小林亮介「チベットから見た清朝の変容過程」
(3)阿部由美子「中華民国と北京政府と清室との関係から見る清朝・中華民国の連続性と正当性観」


○ まず最初の発表は流行の「帝国論」を清朝にあてはめたもの。彼によると、モンゴル、ウイグル、チベットの王侯と清朝皇帝は個人的な主従関係にあり、清朝はそれに満足してそれぞれの地域を直接支配しようとは思わなかった。だから、清朝が崩壊して満洲皇帝がいなくなると、キャップがとれてみなバラバラになった。という話。

 この話によると、ダライラマと清朝皇帝の間には、モンゴルやウイグルと清朝皇帝の間にかわされていたような主従関係があることになるけど、最盛期の皇帝乾隆帝ですら、チベットno2の高僧、パンチェンラマの前で叩頭していること(しかも儒教官僚の面前で)、清朝にとってチベットはあくまでもチベット仏教の聖地として尊敬の対象であったことを思うと、これを主従関係と呼ぶにはあまりにも実体と乖離していると思われる。

 そもそも「帝国」って当時存在しない概念を過去にあてはめても、ただ言葉があるからそこに実体のようなものを見いだすという、中観帰謬論証派のいう空でしかないのでは。現実を見るより概念がお好きな方は、中観帰謬論証派について学ばれることを強くお勧めする。

○二番目の発表は、私のお目当て、小林亮介くんの「チベットから見た清朝の変容」。
 簡単に言うと、19世紀後半、東チベットにおいて清朝が現地勢力から実権を奪い直接支配下にいれようとし始めると(改土帰流)、清朝はダライラマからの直接の抗議を受け付けず現地の官僚を通すようにさせた。そのため、ダライラマは清朝の行動に対して不信感を持ちつつも直接皇帝と接触できれば状況は改善すると望みを抱いていた。しかし20世紀初頭に入り、ダライラマ政権と清朝を結んでいたちゃんねるの一つ成都将軍の権限が縮小され、東チベットに省を建てることすら建議されるようになると、ダライラマの清朝に対する期待・信頼は低下していく。

 興味深かったのはダライラマが1912年にイギリスにあてた以下の書簡。

「中国とチベットは僧と施主の関係であり、〔チベットは中国の〕支配下にあるということはないなどの前後のいきさつを何であれ文書にしたためてあることはご存じの通りです・・・チベット国家の仏教に基づく政治に関する権限の独立(rang btsan)の上に、制度が発展していくために、ラサに、ロシア・英国国家の交渉をされる代表(駐在官)をそれぞれ配置して頂きたい。そうでなければ、中国人によりチベットが害されないように、実質的な意味〔において〕はチベットの自主独立(nang don bod dbang rang btsan)となるように、各外国に交渉して〔頂きたい〕。〔各地各国の〕人々に対しては、〔チベットの〕状況についての援助・保護を求める」

1913年のいわゆる布告文よりも前に、rang btsanという言葉が用いられており、中国との関係も対外的にはっきり師僧と施主の関係と主張している(清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代も両者の関係は師僧と施主だったことは、拙ブログのここ参照)ことは、非常に興味深い。

○三番目は、清朝が崩壊した後も清朝の皇室や満洲・モンゴルの王侯たちの地位は保全されていたため、旧社会は続いていた。たとえば、退位した宣統帝溥儀の下にも独立したモンゴルの王・ジェブツンダンパの使者がやってきたり、溥儀の誕生日にチャンキャ・フトクトがやってきたりとか。この社会が決定的に壊れたのは1924年の優待条項の廃止によって、清朝宮廷が消滅した時である。これにより、宮廷で働いていた職員・宦官・宮女・八旗人は無職となり、「一方的に切られた」という思いをもつ人々が、後に日本が背後にある蒙古自治政府や満洲国の成立へ協力するようになっていく。
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