白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/02/02(土)   CATEGORY: 未分類
仏のお言葉により
 二月に入って最初の日は、若手研究者二人と勉強会を行った。
 100年前のチベット・モンゴルの状況について、お互い得意ジャンルで報告しあい、情報を交換・共有する目的だったのだが、情報が共有されていくうちにそれぞれの提示したビジョンが合体・立体化していき、当時の時代状況が見えてくるという非常に有意義な体験となった。

 二人とも頭がきれる。なので彼らのいうことも納得できるし、こちらの話に対する理解も早い。

 ここのところ、学問以前のものすごく低いレベルの学生指導に明け暮れていたので、「ああこんなスマートな世界もあるのか」となごみまくった。たった三人の研究会だったけど、間違いなくこの時代、このジャンルの研究では世界一のレベルであったと思う。いや誇張でなく。

 彼らのような優秀な人材がもっとわんさかいて日本国内であれアメリカあれどこでもいいから研究者の職についてくれれば、チベットも安泰なのだけど、いかんせん人数が少なすぎ。

 中華世界、イスラーム世界には売るほど研究者がいるのに、チベット仏教世界のマンパワーの少なさは壊滅的。数の少なさを質で補うしかないので、英語で発表することも含めてがんばる。インターナショナルな評価を得られたら、少数でも影響力を増すから。

 そして特殊な話を続けた最後に、以下の概念的な三項目を何となく相互に確認。

 (1) 蒙蔵条約にしてもシムラ条約にしても、これらを後世になって生まれた概念で云々することは不毛である。たとえばこれらの条約が有効か無効かという議論は学説が変われば有効無効のラインも変わるので無意味。むしろ、当時どのような背景によってそれらの条約が締結されることとなり、条文は当時どのような意味合いで理解されていたかを確認することから始めるべき。

 (2) チベット・モンゴルも漢人政権である中華民国を拒否するという点は共通していた。

 (3) 1911年(辛亥革命・モンゴル独立の年)、1913年(蒙蔵条約・13年ダライラマ布告)は確かに、それを境にチベットやモンゴルに近代が始まる節目であったが、ただ、この年を境に突然上から下まで近代が始まるわけではない。過去の延長として理解すべきものも多く、1911年や1913年以後の言葉に一気に近代的な概念を読みとろうとするのはムリがある(モンゴルは即座に国際法をモンゴル語訳しているが、チベットはしていない)。

 わたしはここのところダライラマ13世の布告文について調べているので、その話をした。マクラの話はこんな感じ。

 ダライラマ13世の布告文や仏画や仏像の中に書いた祈願文などの文面の変遷をおっていくと、やはり1913年を境に政府に対する言及の仕方、自称表現などが変わっている。

たとえば、1899年にダライラマがだした布告の冒頭には、自分の称号を

大皇帝(満洲皇帝)の勅命によって、西方の最勝に善なる地の勝者王・地上の勝者の教えの主たるもの・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれる者の勅。

gong ma chen po'i bka' lung gis nub phyogs mchog tu dge ba'i zhing gi rgyal dbang sa steng gi rgyal bstan yongs kyi bdag po thams (2) cad mkhyen pa badzra dhara t'ala'i bla mar 'bod pa'i gtam(ji帙1a)

と名乗っている。これは1578年にモンゴルのアルタン・ハーンがダライラマ三世に奉ったヴァジラダラ・ダライラマ号に、1653年に清朝の順治帝が「大善・自在仏・所領天下之釋教」という称号をたしてダライラマ五世に送ったもののチベット語訳である。

 ちなみに、祈願文の中ではダライラマは中国の政とガンデンポタン(チベット政府)の政を並列に讃え、前者を王、後者を仏教集団として、両者一体となって非仏教徒に対抗すべしという文章をよく作っている。つまり、中国との関係は政治レベルでは対等で、仏教界では施主と高僧一体化して仏教界を護持するものとみなしていた模様。
 
 一方、清朝が崩壊すると、ダライラマの文章の中から中国の名前は消え、1913年の布告文の冒頭でダライラマ13世はみずからを

 聖地から仏のお言葉により、勝者王・三界の依怙尊たるもの・三時の地上のすべての主・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれたものの勅
'phags pa'i yul nas sangs rgyas kyi bka' lung rgyal dbang 'jig rten gsum mgon dus kun sa steng yongs rzogs kyi bdag po thams cad mkhyen pa rdo rje 'chang rgya mtsho'i bla mar 'bod pa'i gtam


 と述べ、自らの名を仏から授かったものと規定している。13年を境とした自称の変化は、シャカッパを始めとする学者に指摘されてきたこともあり、読み飛ばしていたけれど、よく考えると「仏のお言葉により」とは、不思議な表現である。

 しかし数日前、腑に落ちた。12世紀くらいから、チベットには、「チベットは観音様の教化する地である」という思想が広まり始めるが、その際によく引用される典籍の『函経』(za ma tog bkod pa , 北京版 No. 785)の中に、以下のようなエピソードがのっている。
 
御仏が涅槃に近づかれた時(なくなる間際)、
『〔御仏が〕まだ足を運ばれていない、御言葉によって守っていない、北方・有雪国(チベット)の者たちのために、〔御仏よ〕もう少しこの世に留まって下さい』とお願いすると、世尊曰く『私の所化(教化対象)は尽きた。今所化となるものはないので、怠けものを仏法に導くため、常見論者を批判するためにも、涅槃に入る様を示す(死ぬ)。
 北方・有雪国の有情は今は畜生なので、人の名のつく有情はいない。真っ暗闇になっている。一切の死を退けることができず、海に雪がふるごとくに悪趣(地獄・畜生・餓鬼)の世間に向かっている。従って、未来に私の教えが力を失っていく時に、菩薩よ、汝の所化とするがよい。まず菩薩の化身は人の生を生みだす。それから物によってその人をまとめる。それから法によってまとめる。衆生の利益となるであろう。』

 つまり、仏様が亡くなられる直前に、チベットの地の教化を、観音菩薩に任せたのである。この伝説を受けてチベットでは7世紀の開国の王ソンツェンガンポ王から、現在のダライラマ14世に至るまで、チベットの支配者は観音菩薩の化身と讃えられている。ダライラマ13世は布告文の中でもチベットを「自らの護るべき地」と記しており、観音菩薩としてチベットを治める旨を明記している。

 つまり、冒頭の仏の命令とは、『函経』などに記されている、「チベットの地を観音にまかせる」としたこの仏の遺言を指すものか。

 満洲皇帝というパトロンがいなくなって、満洲皇帝を施主とするチベット仏教界最高位の僧という立場がなくなった時、ダライラマは、チベットの地を教化する観音菩薩という原点に立ち返って、チベット人たちに自立を説いたのである。
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