白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
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DATE: 2013/02/09(土)   CATEGORY: 未分類
法王の帰還
 チベット暦の元旦は、今年はたまたま日本の建国記念日と同じ日となった(チベットは太陰太陽暦なので太陽暦にあわせると毎年日付は変わる)。

 かつてのチベットでは元旦から15日の満月までの間、国をあげての一大ページェントを繰り広げていた。ラサの中枢にあるトゥルナン寺では一切の生き物の平安を祈る法要(モンラム)が行われ、寺の東広場では僧侶の最高学位をだす論理学の試験が公開で行われ、15日にはダライラマ自ら民衆の前にたち仏典講義を行うため、ラサには地方からも多くの人が訪れた。正月は一年で一番ラサがもりあがる期間であった。

 現在も、チベットの難民社会は法王のお膝元であるダラムサラではもちろんのこと、各僧院で新年の祈願会(モンラム)を行っている。しかし、中国占領下のチベットでは中国政府が「伝統的な行事でたくさんのチベット人が集まれば、抗議行動に変わっちゃうかも」と疑っているため、各僧院の高僧を予備拘束したり、ラサから遠ざけたりして、伝統的な新年の祝いを陰に日向に妨害してくださっている。

 実際、お正月の期間は一年で一番人が集まってもりあがるので、チベットの歴史において様々な国家的な重要な出来事や事件が新年の行事の間、あるいは直後に起きてきた。

 たとえば、ダライラマ13世があの有名な布告を発布した(翻訳は年頭のエントリーを見てね! )のも、百年前の1913年の正月であった。

 20世紀初頭、清朝はモンゴルとチベットに露骨に植民地化の触手を伸ばし始めたため、チベットとモンゴルはつくづく中国との関係にいや気がさしていた。さらに、1911年、辛亥革命がおき満洲人王朝であった清朝は崩壊し,さらにヤバい漢人政権となったため、チベットもモンゴルも全力をあげて中国と絶縁することとした。モンゴルはさっさと独立宣言を出しロシアに後援を求め(袁世凱は旧社会を護ると約束したので袁世凱についた人もいるけど)、チベットにおいても清末期にチベットに侵入してきた中国軍を全土で駆逐しはじめた。

 ダライラマは亡命先のシッキムから道々人々に祝福を授けながらゆっくりとチベットへ戻り、中国軍の完全撤退を確認した後、吉日であるチベット暦の12月16日(満月)にラサ入りした。

 このときのダライラマ13世伝の記述は以下のように昂揚した人々の姿を伝える。


 それからラサ(lha ldan)において中国人とチベットの間に平和条約が結ばれて〔清朝から送られてきた〕二人の大臣も軍隊とともに中国へと戻り、平和になったので、〔ダライラマ法王は〕12月6日にチューコルヤンツェ僧院から出立してニェタンのターラー堂に供物を捧げて、聖地拝観をされた。

 翌日デプン大僧院の高僧たち、ネチュン学堂(国家の行く末について託宣する神託官の寺)の僧官などが、法王のお出迎えに整列する中、ツァグル苑に向かわれた。法王は政府の官僚を始めとする何千人もの貴賤の人々に謁見し、手灌頂(払子の先ですらっと頭をなでる略式灌頂)を授けた。

・・・・それから、摂政ツェムリン・フトクトを初めとする聖俗のすべての人々と三大僧院の高僧と化身僧たち、僧官たちなどがお供のものたちとともに整列する中、政教一致の地・かつて観音が現れた地・聖なる無量宮(ポタラ宮)におみ足を止められた(ようはポタラ宮に帰還した)。

 「日光殿(ポタラ宮の白宮最上階のダライラマの居間)において、焼き菓子をそろえた歓迎の宴席をしつらえています」と申し上げると、お喜びになって〔宴会を〕楽しまれた。

 その前後に中国軍を駆逐する戦いを始めた時、危険を顧みず雪の国(チベット)の政教一致の体制を大切に思い敵(中国人)と戦って勇敢で軍功を挙げたものたちに対して、ある者(僧侶)には仏の教えを供養するための基金を授け、ある者(俗人)には昇任を行い、或者には現金を授けるなど、その人に適した褒美を順に授けるなど、論功行賞を綿密に行われた。

 「勝者王一切智者猊下(ダライラマ13世)がインドから涼しき地(チベット)の人々の守護尊として障りなくお戻りになられた」という感謝の品が届き、さらに「旧年の厄を祓い、法王様が長寿を授ける仏たちと同様に百千万劫にわたって健勝であるように」と祈るための資を、政府の恩給で暮らしている聖俗の人々が〔ダライラマ法王の〕順次献じてきた(KA秩 117b1-118b4)。

 この時に供物を捧げてきた人々の内訳をみると、当時のチベットの紳士録を見るかのようである。具体的には三大僧院(セラ、デプン、ガンデン)の高僧・化身僧、有力学堂、タシルンポの宗務庁、〔タシルンポの高僧〕パンチェンラマ個人、ラル、ヤプシなどの有力貴族、他宗派ではディグン派、カギュ派、ニンマ派、サキャ派の主要な高僧たちが、それぞれの経済力にみあった献上品をだしている。

 こうして、暮れも押し詰まってラサ入りを果たしたダライラマ13世は、新年の開始とともに臣民に自立を説くあの布告文を発表したのである。

 この百年前のダライラマのラサ帰還は、現在ダライラマが亡命中のチベット人にとっても非常に感慨深いものがある。まず、ダライラマ14世が1959年にインドに亡命したのも54年前の正月の行事が終わった直後であった。

 ダライラマ14世はこの年の正月、僧侶の最高学位をかけた論理学の試験に合格し、その直後、にらみ合うチベット人と中国軍との直接衝突を回避すべく、亡命を余儀なくされた。つまりダライラマ14世はラサで伝統的な教育を受け、最高学位を獲得した最後の最後の世代なのである(以後ももちろん僧院の教育システムは健在であるが、やはり昔にくらべると「ゆとり」になっている 笑)。

 現在の本土チベット人にとって、中国軍がチベットから出て行き、ダライラマ13世がポタラ宮に帰還した百年前の出来事は、今すぐにでもダライラマ14世においても実現してほしい声にだせない希望である。焼身自殺をするチベット人たちの多くは「法王のチベットへのご帰還を」を最後の言葉としている。チベット人が自らの尊敬する人が本来の地に帰還することを公言できるのは死の間際というのが今のチベットの現状なのである(厳密に言えば死後も焼身者の家族は迫害を受ける)。

 ダライラマ13世が1913年にチベットに帰還した後、1951年の人民中国の侵入までの間、ダライラマをトップとするチベット社会は事実上の独立状態で推移した(ちなみに、この時はじめて独立したわけではない。1910年に帝国主義化した清朝は、その前はチベットを実効支配してない)。

 今週木曜2月14日のイベントでは、今はなき伝統的なチベットの写真をたくさんもっていきますので、期待してね! なんか会場、交通不便なところみたいだけど、話は面白いから、来てね!
詳細はここ

お待ちしております。
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