白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/03/02(土)   CATEGORY: 未分類
キリング・フィールド
 ここのところあの悪名高いポルポト時代(1975-1980)の日本での報道のされ方が、チベットの場合とかなり似ていたことに気づき、身につまされている。なので思ったことを備忘に記しておく。

 まず、ポルポトって誰? という幸せな人のために簡単に説明。ポルポトは一言でいえばカンボジア共産党の長。彼は都市の住民を嫌い、資本主義を憎み、首都プノンペンを陥落させると、貨幣制度を廃止し、都市の住民を追いだして農村に送りこんで強制労働に従事させた。さらに知識人は体制に批判的ということでみつけ次第殺害。外国人、元教師、元役人、元軍人、果ては、色が白くて美人だと中国系=有産者階級ということで、美人まで殺された。

 ポルポトは隣国ベトナムに対して挑発的な軍事行動を繰り返し、ベトナムが攻めてくると、食料を中国に送って代わりに武器を買ったため、国民は飢えた。空腹な人々は虫でも草でも何でも口にいれたため、餓死はムロンのこと、食中毒や腸チフスで命を落とすものも多かった。虐殺や飢えで親を失った子供たちは少年兵としてキャンプに集められ、毎日「〔ベトナム人を〕殺せ、殺せ」のスローガンを叫ばされ洗脳された。少年兵になることによって生き延びた人々は、今五十才前後になっているはずである。

 ポルポト率いるクメール共産党がカンボジアを支配したわずか四年の間に、カンボジアの人口は半分あるいは三割が死んだ。当時カンボジアにいた七人の日本人のうち、脱出に失敗した五人は死んでいる。カンボジアの人口構成を見ると、若い世代が多く、ある世代がごっそりぬけおちて、年寄り世代が極端に少ない。今の日本の人口ピラミッドのほぼ逆である。

 この抜け落ちた世代は、むろんポルポト期に生まれるはずだった子供たちである。栄養的にも精神的にも女性が子供を産めるような状況ではなかった。また年寄りが少ないのは、洗脳が難しく反抗しやすい大人が、重点的に殺されたからである。

 ポルポトの事績は今でこそよく知られているものの、それが起きた当初は文化大革命同様、擁護する人が多数いたらしい。たとえば、朝日の記者である本多×一はポルポトの虐殺について述べる人を罵詈雑言で批判し、否定しようがなくなると批判側に回ったという。さらに、1984年にプノンペンから脱出したニューヨーク・タイムズの記者シドニー・シャンバーグ(Sydney Schanberg)の体験が『キリング・フィールド』で映画化されると、月刊『潮』に「無知な人々だけが感激する『キリングフィールド』」という一文を寄せ、この映画を「西洋人の視点」とこきおろした。

 これに対して、プノンペンに駐在経験があり、かつ、ポルポト敗走直後のプノンペンに入った同じく朝日の井川一久記者は、「ここに描かれていることは自分の体験とも一致する。事実である」と以下のように断言した。

 かつてのカンボジアは、世界でもっとも豊かな農業国の一つだった。1960年代のこの国を、そのころ国家元首だったシアヌーク現国王は「生きる喜びの国」と呼び、欧米のマスーメディアは「インドシナの平和のオアシス」と呼んでいた。

 その楽園は、しかし70〜75年の戦乱で半ば壊され、75〜78年のポルーポト独裁時代に完全に失われた。私は79年と80年にこの国で何度も目撃した光景を、20年後の今でもしばしば夢に見る。

 炎天下の荒地に直径3〜4メートルの穴が並び、穴の一つ一つに数十体の白骨または腐乱死体が、緑色の汚水にひたされて詰まっている。猛烈な臭気。地面に散らばる死者たちの衣類。ふと濯木の茂みを見上げると、人間の毛髪だけでできた小鳥の巣が……

 私の訪れた村々には、たいていこういう大量殺害・埋葬地があった。町村の多くは消滅し、人々は飢え、病み、疲れ果てていた。そして誰もが家族の非業の死を語るのだった。

 ポル・ポト時代のカンボジアは、全土が血と涙にまみれた地獄だったのである。二〇世紀は空前の流血と破壊の世紀だったが、わずか四年間に総人口の何割かが自国の奇怪な権力装置によって直接間接に殺され、生き残った人々もおおむね心身に深い傷害を負った国は、この時代のカンボジアのほかにない。

 本書はポルポトの地獄を生き抜いた一女性の、痛恨に思いに満ちた体験記である。そこには嘘も誇張もないと断言しておこう。彼女の記述のすべては、私の、また多くの研究者やジャーナリストの調査結果と一致している。


 この文章は『最初に父が殺された』(ルオン・ウン著 / 無名舎、2000年、今はもう絶版だから図書館か古本でどうぞ)の解説として記されたもので、著者のルオン・ウンは、5才でポルポト時代に突入し、母と父と妹を失いながら飢えにさいなまれ、ポルポト時代が終わった後アメリカに移住した。つまり、この体験記も『キリング・フィールド』もカンボジアでおきたこと体験したことの記録であり、「西洋人の視点」が入る余地はないのである。有り体に言えば「事実」である。

 本多×一が映画『キリング・フィールド』を評する際に、シドニーがカンボジア人助手であったブラン一人の救出ばかりに熱心で、あまたのカンボジア人(人民?)を考慮しない、と批判したことに対し、井川氏は「あのような状況でまず自分の知人を救おうとするのは理解できる。当時プノンペンには多くの外国人記者がいて、同じようにカンボジア人の助手や運転手を雇っていた。しかし、日本人記者の自分も含めて、シドニーほど熱意をもってカンボジア人の助手を救出する努力をした人は他にいなかった」と述べている。また、キリング・フィールドに描かれたポルポト時代の惨状は実際の三割程度で、実際はもっとひどいと生存者は口をそろえていっている(幅広い層に見てもらうために映画は残酷表現を押さえたから)。

 また、前述したルオンの体験記についても、生存者たちは「ポルポト時代の自分たちの体験をもっともよく代弁してくれている」とのこと。

 それでは、事実を証言した側(シドニー、ルオン、井川氏)、事実を直視せずにクメール共産党を擁護しようとし、事実を認めた後も西洋人の視点を糾弾し続けた人(×一氏)、どちらの言い分が当時世の中に広く知られていたのであろうか。これが、後者の方が圧倒的に存在感があったのである。わたしがカンボジア史に疎いこともあるのであろうが、この解説を読むまで井川一久記者の存在を知らなかった。一方の本多×一の名前は記憶もできないくらい昔から自然と耳に入っていた。『最初に父が殺された』は失礼ながらタイヘンに小さな出版社からでている一方、×一氏の本は当時大出版社から数々上梓され当時の世論に大きな力をもっていた。これらのことがその存在感の違いを如実に物語っていよう。

 事実に基づいて報道・表現・証言をする人の声は限りなく小さく、一方、自らの主張を通すためには事実の確認すらせず目をつぶろうとする人の方が遙かに声が大きい。

 実はチベットについても事情は同じである。1951年に中国がチベットに侵攻した後、中国政府は世界中から左翼メディアを集めて官製チベット・ツアーを行った。「中国によって解放されたラサ」のイメージを効果的に世界に拡散するためである。これらのジャーナリストたちはその期待にこたえて官製ツアーのルポを自国で出版し、それらはものすごい早さで日本語に翻訳された。

 以下にざっとこの時代のチベット関係書籍をあげよう。ちなみに、カッシスとウィニントンとオフチンコフは、1955年の同じツァーでチベット入りしている。

(a) ヴェ・カッシス『チベット横断記』(1956, ベースボール・マガジン社) ←ソ連の記者。

(b) アラン・ウィニントン『チベット 上・下』(1957 岩波新書) ←イギリスの左翼系新聞Daily Workerの記者。1950年唯一の外国人特派員として北朝鮮側から朝鮮戦争に従軍。板門店会談の終わりまでとどまる。

(c) オフチンニコフ『素顔のチベット』(1959 講談社) ←ソ連共産党の機関誌『プラウダ』の記者で、執筆当時は北京駐在。

(d) A.L.アームストロング(1885-1970)『チベット日記』(1960 岩波新書) ←アメリカの左翼系ジャーナスリスト。著書に『中国人は中国を征服する』(1949)、『中国からの手紙』(1964)、『人民公社は拡がり深まる』 (1959)、『転換期支那』(1928)、『サマルカンドの赤い星 : 中央亜細亜黎明紀行』(1929)、『スターリン時代』(1956)

(e) 高野好久『今日のチベット;新日本新書20』(1966 新日本出版社)←ご存じ赤旗の北京特派員

(f) ハン・スーイン『太陽の都ラサ』(1977 白水社)←1917年生まれ。父は中国人・母は
ベルギー人。21歳で中国に戻り、国民党の青年将校と結婚。しかし国民党の腐敗に気がつき夫と別れ、香港において医療活動に従事する。半自伝的小説『慕情』が1955年に映画化され一躍有名に。晩年は新中国の擁護者として評論活動に邁進。著書に『2001年の中国』(1971)、『不死鳥の国』(1986)、『中国の目・アジアの目』(1971)、『毛沢東』 (1973)、『自伝的中国現代史』(1970)。

 
 以上の出版活動の結果、多田等観・河口慧海・寺本婉雅などの旅行記で形成されていた「ダライラマの統治する仏教国家」というチベット・イメージは一気に、「中国に解放されて喜ぶ未開の民」へと塗り変わった。少し考えれば、征服者による歴史の改ざんに乗せられたことは自明なのであるが、当時それを疑う人はいなかった(ちなみに、チベット人には今本音を話す自由はない。「幸せです」と言わなきゃ投獄)。

 1997年にハインリッヒ・ハラーの体験したチベット最後の日々を映画化した『セブン・イヤーズ・イン・チベット』がでた時も、「知識人」はそれはまあ冷たい態度をとった。当時チベット通と言われていた〔チベット語も読めない〕研究者は、例によってこの映画を「西洋の視点で描かれたもの」とほのめかし、ラサの中国の代表處の官吏の服装が清朝風であることを指摘し、時代考証ができてない=西洋人の視点、という口調で揶揄した。

 あの映画の中国に関する時代考証はずさんである。しかし、それが西洋人の視点には直列しない。日本で「暴れん坊将軍」を映画化する時、既婚の女性の役をする女優さんにお歯黒強要しますか? 服装とかも江戸時代のものをちゃんと着せてますか?  さらにいえば、現在中国国内であまた作られている清朝時代のドラマも時代考証ガン無視。

 つまりある映画で時代考証がなっていないのはスタッフの怠慢を示すものであっても、西洋の視点うんぬんは関係ない。ちなみに、あの映画ではチベット側の服飾とか髪型とかはよく再現されていた(笑)。なんたって、ダライラマの母親役を現ダライラマの実妹が演じるというリアルさだし(笑)。

 で、問題なのは『キリング・フィールド』を揶揄した本多×一にしても『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を批判した中国学者にしても、これらの映画のテーマは、一つの伝統ある共同体が、暴力によって破壊されていく悲劇を描いたところにあるのに、その肝腎なところには全く言及していない点である。なのに映画に感動する人を「無知」な人々と揶揄する点も共通している。

 それは現在も続いていて、チベットを研究していると、なぜか右からも左からもアメリカ帝国主義とかレッテルを貼られる。レッテルを貼る人々にとっては、絶対平和主義やナショナリズムが最優先事項であるらしく、レッテルを貼る対象について正確に理解する気は端からない。「このマターは利用できる」と思えば賛成にまわり、不利だと思えば揶揄・批判に向かうだけで、彼らの思考は徹底してパワーバランスに固定している。レッテルを貼る対象の中身は考えたこともない。スルー。

 一方、わたしはその中身を研究しているのである。私がチベット史を研究しているのは、アメリカをまもるためでも、中国を非難するためでもなく、ただ当時の認識に基づいて予断のないチベット史を解明しようとしているだけ。それにレッテル貼られるんだから、まじめな話、最初は批判者が何を言ってるのかすらわからなかった。あまりにも価値観=波長が違いすぎて。

 で、ここで思った。アメリカが嫌いで、中国と手を結ばなきゃと思っているレッテル貼りの人たちも、その反対の主張をするレッテル貼りの人たちも、自分が生きているこの平和な世界を失いたくないという点では共通していますよね。昨日と同じ生活を明日もしたいとおもっていますよね(この世界なんか滅びてしまえと自暴自棄になっている人はここで便宜上省きます 笑)。だとするなら、レッテルをはり、思考停止することをまずやめないと。レッテル貼りという行為自体が、じつはあなたたちが護りたい世界を壊すもの。あらゆる憎悪も戦争もレッテル貼りからはじまるのだから。

 問題を解決するためにレッテルを貼るよりまず先にすることがあるはず。まず、両目をあけて現実・事実を直視すること。現実をみることによって問題を解決するための策もうまれてくるし、そこに自分の才能なり力なりを具体的に注入する道もみえてくる。

 事実(但: 妄想によりゆがめられたのを事実とするのは不可)の正確な把握こそが道を示してくれる。ちなみに、「事実なんて立場によって変わる」という人には、「そこに座れ」と言いたくなるのでまた今度。
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COMMENT

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● 左巻きって怖い
まりも | URL | 2013/03/12(火) 03:24 [EDIT]
私も昔学生時代に本多×一さんの文章の書き方についての著作をよく読んでいたので驚きました。本多×一さんはポルポト直後のカンボジアを取材した旅行記を出版しているようです。左巻きの思想って怖いですね。

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