白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/03/20(水)   CATEGORY: 未分類
カンボジアのポルポト史跡
 今年はカンボジア独立60周年、日本とカンボジアの外交樹立も60周年。また、アンコールトムの中核をなす12世紀の遺跡、バイヨンは観音菩薩に捧げられた大乗仏教の寺院であり、同時代のチベットの観音信仰ともリンクしていることから、今年の卒業旅行の目的地はカンボジアとなった。

 日本からカンボジアにいく時どこで乗り継ぐかによってフライト料金は様々であるが、学生を苦しめないために、その時の底値の東方航空を使った。そしたら、安いだけのことはあって、上海の乗り継ぎでは三時間から四時間の待ち時間があり、映画サービスもなく、帰国便の座席に毛布がおいてなかったため、お手洗いにたったついでに中国人のCAに毛布を所望したところ、CA、あたりをみまわして、自分のお尻の下にある毛布を手渡してくれるという素晴らしいサービスであった。しかし、安いし中国なので最初から期待していないので腹も立たない。成田発が強風で二時間以上遅れたので乗り継ぎ三時間もモーマンタイ。

 プノンペン初日

 午前は、日本のNGOのFIDRの事業を見学させていただく。そこで聞いたお話。ポルポトが僧侶、知識人、技術者を殺しまくったため、ポルポト政権が崩壊した後、カンボジアに医者はたった20人しかいなかった。海外に留学中だったり、身分を隠し通したりして生き残ったたった20人である。
 当時のカンボジアには当然、子供に特化した医療や、病気にあわせた食事をつくるなどという概念がなかったところ、FIDRはカンボジアではじめて国立の小児病院をつくり、病院給食を開始したとのこと。

 ここで、カンボジアにおける日本の存在感について簡単にふれる。

 私たちが訪れた外科病棟は日本の援助によってたったものである。にも関わらず〔例によって〕日本を想起させるものは何もない。一方、その向かいの病棟には韓国の名前がバリバリ掲げられていて、カンボジア唯一の高層ビルもヒュンダイだし、帰りのプノンペン空港にもそろいの制服で韓国に働きにいく労働者集団がいたりして、韓国の存在感はかなり感じた。

 また、中国の存在感については、アンコール・エアラインの機内誌からプノンペン・ポストに至るまで、中国様をあがめる記事が多数あり、カンボジア的には中国の投資を歓迎している模様。後に訪れたアンコールワットでも、大型バスでのりつける観光客は圧倒的に中国人と韓国人。日本人観光客はいるにはいるけど、夫婦とか、少人数でガイドさんつれて移動する静かな旅行で、あのい×ごの群のようなパワーは全然ない。

  まあお金持ちのカンボジア人は〔平地しかないのに〕四駆のレクサスとかのっているし、アンコール遺跡の保存に上智大やイオンがかかわっているし、イオンの植林事業の看板もあったし、どこにいっても「アジノモト(日本人)」と言われるので(笑)、日本が空気になったわけではない。日本は全体大人な存在感をもっていると言えよう。

 FIDRの見学のあとは、トゥールスレン博物館に行く。ここはポルポト時代に諜報機関の収容所であり、ここに送り込まれた知識人や技術者や軍人や役人たちは凄惨な拷問をうけ、友人や家族の名をスパイとしてしるした供述書にサインをさせられ、その後殺された。その供述に基づいてまた別の誰かが逮捕されてここに引き立てられて殺されるのである。
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 パンフレットによると、文書で裏付けられる囚人数は、ポルポト支配の四年間で以下の人数に及ぶという。

 1975年 154人
 1976年 2250人
 1977年 2350人
 1978年 5765人
 
 建物の部屋には当時の独房や拷問部屋や拷問用具や殺されたひとたちの白骨がそのまま展示されており、そこで殺された人たちのファイルや(女の人の髪型が中国の文革時代の紅衛兵と全く同じなのが印象的)、ポルポト派の幹部四人(現在国際法廷で審理中。『自分悪くない』と主張しているという)の履歴などが展示されている。

 中庭には白い石棺のモニュメントがある。これはベトナム軍が解放した時に所内にころがっていた、13体の遺体を象徴したもの。そしてたった七人だけ生存者がみつかった。このうちポルポトの画家をしていたために生き延びたボウメン(Bou Meng)さんとチュムメイ(chum mey)さんのお二人が、中庭で自著を販売していた。本を買うとサインしてくださり、記念撮影にも気軽に応じてくれた。クメール語ができたなら、体験談とかを直接伺えたかも。
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 午後は、その収容所から送られた人々が殺され、埋められた場所、チュンエク・大量虐殺センターに行く。トゥールスレンからここにうつされた人たちはまず自分たちの埋められる穴を掘らされて、一日から三日以内に喉をかききられたり、斧で叩き殺されたりして殺された。クメール共産党にとって銃弾はあまりにも高価であったため、殺戮の道具は普通の農耕機具なのである。
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 境内には遺体をとり出した後の孔がいくつもあき、とり出された大量の遺骨は中央にある納骨堂に納められている。この納骨堂がガラス張りなので、ドクロタワーの趣を呈している。入り口でイヤホンをわたされて、番号にそって機械を操作すると、その地点で行われた凶事を知ることができる。たとえば、ある木の前にたってイヤホンのボタンをおすと、

これはキリング・ツリーです。チュンエクが明るみにでた時、この木には脳漿や頭髪がついていました。かつてこの木は赤ん坊をたたきつけて殺すのに使われていたのです。」とこんな感じ。

 埋葬地は当時の姿を思い起こさせるため、今もあちこちに人骨がころがっており、遺体の服の切れ端も地上に姿をみせている。私は乾期に訪れたが、雨期になるともっとすごいことになるだろう。

 埋葬地の奥には水路があるのだが、
この水路の下にも多くの遺体がありますが、納骨堂が一杯なのでもうそのままにしてあります」みたいなことをイヤホンの中の人がいう。

そして「この道を散策しながら、生存者の証言をお聞きください」と、いろいろな立場の生存者の話が流れてくる。あとで学生に聞くと、それぞれ印象に残った話は違っていた。イヤホンを耳にしてそれぞれがすきな場所ですきな証言を聞けるという、この展示方式が人をきわめて効果的に内省的にしているようである。

 私が一番印象に残った話は、このセンターを作ったユック・チャーンの話。うろ覚えだけど、大体の筋はこんなところ。

 ユックはこの地にきた時14才だったという。同房のおじいさんは、『ユックがここにいるには若すぎる、何もしていないだろう、だしてやれ』とクメール共産党に必死で命ごいをしてくれた。
 結果、ユックは釈放され、おじいさんは殺された。あまりにも執拗にユックの釈放をせがんだからである。

 ユック「私はあの時何が起きたのかわからなかったから、おじいさんの名前も聞いてなかった。しかし、今なら分かる。おじいさんは私の代わりに死んだのだ。もし名前を聞いていたら、おじいさんの家族にお礼を言えたのに。
 私はあの時代でも、死ぬなどと考えていなかった。生き延びて絶対これを告発するんだ、そればかり考えていた。
」ユックは後に母の力でベトナムからアメリカに亡命し、意志を貫いてカンボジア文書記録センターを立ち上げる。

 うん、わかるわかる、その気持ち-。

 そして、トゥールスレンのような収容所も、このような遺体の埋葬地も、ここだけではなくカンボジア全土にある。カンボジアを歩いていると、お年寄りの姿が本当に少ないことにすぐ気づく。上の世代がとれほど徹底的に殺されたのかもう体感でわかる。

 50才より上の人をみると、彼らが生きているのは●×であったか、ポルポト派だったかと考え、後者であるとするとひょっとするとこの人は過去に人を殺しているかもしれない、とつい考えてしまう。実は中国で文革で暴れ回った世代の人たちにも同じような感覚を感じることがある。この人は「国民党だ、外国人だ、資本家だ、反革命だ」とかつては叫んでいたのだろうかと。
 
 このような虐殺がポルポト派を原因としていることは自明であるが、殺人の実行者は一人一人の人間である。ある一つの思考にこだわる人々が、その思考に基づいて敵・味方のレッテルをつくり、敵レッテルをはった人間を組織的に排除していく。これはどこの国でも、どんな民族においても、どんなイデオロギーの下でも起こりうることだ。

 なので、ポルポトの虐殺も中国の文革も中国が今行っているチベット政策も、みなレッテル貼りの狂気という共通の構造を持つ。レッテルをはった対象に対する憎悪と排除だ。

ダライラマ法王が、「すべての愚行のもとには煩悩=分別智=レッテルを貼る意識、がある。従って,一人一人が心の武装解除を行い、慈悲心を持つことによって、あらゆる人間の争いはやむ。なので〔人格〕教育は大切だ」と説かれていることは誠に真理である。

 なので、そのことを実感するためにもこの地には多くのひとが足をむけて内省してほしいところだが、チュンエク虐殺センターを訪れているのは、課外学習と思われるカンボジア人の学生と白人ばかりであった。中国人・韓国人・日本人もみなここにきて、自分も含めて普通の人がいかに愚かなことをしでかすものなのか、また、その愚かな事が自分の身にもふりかかりうることを感じた方がいい。

 ちなみに帰国した翌日チベット語の勉強会があり、人が人を殺すことについて論じているうちに「被害者であること、弱者であることは、道徳的な善とイコールではない。にもかかわらず、『自分はひどいめにあったから、自分は悪くない』と自分が加害者であること、また加害者になりうることを忘れている人が多い。〔日本人も含めて〕アジアには自分を弱者認定することによって、あらゆる責任を回避する傾向がある」という話がでた。

 トゥールスレンやチュンエクにアジアの観光客の姿が目立たないのも、そのあたりが関係しているのかとも思った。

 夕食はポルポト時代直前まで外国人記者クラブが入っていたFCCレストランで食事をする。映画『キリング・フィールド』でシドニー・シャンバークがたまっていたリアル記者クラブの建物である。

 一夜あけて、学生たちはとくに悪夢をみた気配もなく、ほっとする。しかしIくんが「先生これ」と差し出した新聞にはなんと、イェン・サリ(ポルポト幹部四人組の一人)の死去を告げる記事が一面にあった。彼が死んだ調度その日にわたしたちはキリング・フィールドいたのだ。
 
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鉄血宰相 | URL | 2013/03/23(土) 12:14 [EDIT]
ご無沙汰しております。

ダライ=ラマのお言葉

「一人一人が心の武装解除を行い、慈悲心を持つことによって、あらゆる人間の争いはやむ」

につきまして、最近老子思想に興味を持っているんですが、

老子第三十一章の

戦勝以喪禮処之
(宰相流の訳:「戦いに勝ったときは、葬式に臨むような態度をせよ。戦いという恥ずべきことをしなければいけなかったことを悲しめ」

という一節をふと思い出しました。


シラユキ | URL | 2013/03/23(土) 12:33 [EDIT]
>宰相くん
そうだよね~。あの孫子ですから、実際に戦いはいることは下策といって、その前でやめる外術を推奨しているからね~。
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| | 2013/03/23(土) 19:56 [EDIT]
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