白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/03/26(火)   CATEGORY: 未分類
カンボジアとチベットに通底するインド文化
 シェムリアップ編いきまーす。

 インド文化バリバリのアンコール遺跡群が示すように、カンボジアにはまずヒンドゥー教を信仰する王たちが現れ、アンコール朝の最盛期に大乗仏教徒ジャバルマン七世が現れて、どかどか大乗仏教寺院を建てたけど、その後ヒンドゥーが復権し、そのヒンドゥーも15世紀くらいから上座部仏教にとって代わった。ヒンドゥー教も仏教もインド由来の文化であるから、つまりはカンボジアはチベットと同じくインド文化圏なのである。インド文化を介してチベットとカンボジアには文学・宗教思想・価値観などに多くの共通点を見いだせる。
IMG_0531.jpg

 たとえばチベットとカンボジアの最初の王はいずれもインドからきた人とされる。

 現在カンボジアの人口の90パーセントをしめるクメール人は、西暦前後に今のカンボジアにあたる地域に存在していたフナン(A.D.一世紀-550)を自らの起源とする。フナンの建国神話によると、カウンディニヤという名前のインドのバラモンが、東方に向かって船出するように精霊に告げられ、航海のはてにカンボジアの岸にたどりつき、そこにいた美しい龍(ナーガ)の娘と結婚した。二人の間に生まれた子供がフナンの初代王である。これはインドから渡来した文化が土着民(龍王の娘)を啓発して国家を誕生させたという事実を物語化したものであろう。
 
 一方、『カチェム=カクルマ』などのチベットの年代記においても、初代チベット王はインドからの渡来人である。一説には初代チベット王の出自は、インドの叙事詩『マハーバーラタ』に描かれる百王軍の一人。百王とパーンドゥの五王子の最終戦争の結果、百王が負け、そのうち一人が女装してチベットの地に敗走し初代チベット王ニャーティ・ツェンポになったという。ついでにいえばチベットの一般人の起源も、インドからきた菩薩の猿とチベットの岩猿との結婚に求められているので、上から下まで父方はインド起源ということになる。

 ちなみに、ガイドさんによるとカンボジア人は神話で自民族を「赤い顔の民」というそうだが、チベットも別名「赤い顔の人」(gdong dmar can)というので、このあたりも不思議なシンクロをしている。

 カンボジアに話を戻そう。最初の国家フナンは西暦550年頃、メコン川の洪水により弱体化し、同じくフナン王の傍系で現在のラオス国境あたりにいたチェンラ人(カンボジア人)がフナンの首都を陥落させた。その後混乱が続くも、802年頃に現れたジャヤバルマン二世は、ジャワからの独立を宣言すると、自らをヒンドゥー三大神のうち破壊神シヴァに神格化させ王権を確立した。神王(God King)による統治である。有名なアンコールワットもスールヤ・バルマン二世(1113-50)王をヴィシュヌ神の化身として祀るヒンドゥー寺院である。

 アンコールワットはフランス人の宣教師アンリ・ムオーによってジャングルの中から「発見」されたと言われるが、元朝時代、周達観が訪れて有名な『真臘風土記』を書いているし、江戸時代初期に日本の森本さんもここを訪れて祇園精舎と勘違いしている。また、大回廊部分はジャングルに埋もれず、仏教徒の参拝者が途切れなかっため、現地の人はむろんこの遺跡の存在を知っていた。だからアンリ・ムオーはアンコールワットを「発見」したというよりゃ、最初に西洋に紹介した人というのが正確。

 アンコールワットの大回廊には、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバラタ』のクライマックスの戦争シーンや乳海撹拌神話など、インド神話の定番が壮大なスケールで刻まれている。この二大叙事詩の内容はむろんチベットでもよく知られている。

 そして、アンコール王朝最盛期に現れたのが、ジャヤバルマン七世(1181-1219)である。この人は大乗仏教を信奉し、大乗の精神に則って広く人々を救うため慈善事業を行い、たくさんの仏教寺院をたてた。ガイドさんによると、カンボジアで今も最も人気のある王だという。言われてみれば、確かに彼の名を冠した公共施設が目につく。

 で、このジャバルマン七世が建てたのが、アンコール・トム(王都)の中核をなす観音の寺バイヨン、母のためにたてたタ・プローム、父の偉業を称えて作った僧院プリヤ・カーン、ミニバイヨンとして知られるバンテアイ・グティ、ニュック・ポアンなどである。ジャヤバルマン7世はアンコール王朝最盛期の王であるため、これらの仏教遺跡はみな壮麗である。

 中でもバイヨンは圧巻。51本もの塔がそびえ立ち、各塔の東西南北の面には一つ一つ観音の顔が刻まれている。つまり、この遺跡は今までのヒンドゥー寺院の大乗仏教版で、ジャヤバルマンを観音菩薩の化身としてあがめる聖地であった。ちょっとチベットをかじったことのある人なら、このバイヨン遺跡に立てば、チベットのマンダラやギャンツェのペンコルチューデとの親近感じることができよう。
アンコール見取り図

 ダライラマ14世が観音菩薩の化身と言われていることからも分かるように、チベットには高僧や聖王はみな観音の化身との歴史観がある。この思想はじつは12-13世紀頃から文献に記され始めるので、見事にジャヤバルマン14世の時代とかぶっている。チベットとカンボジアは同時代に南アジアに広く流行していた観音信仰をそれぞれ北と南で共有していたのである。

 観音は大乗仏教を代表する菩薩である。大乗仏教のエッセンスとは、「すべての命あるものを偏りのない慈悲心によって救おう」という菩薩の誓いにある(つまり、好きな人は救うけど、嫌いな人は救わないとかいうのでなく、あらゆる命あるものを平等に愛し哀れむこと)。観音菩薩はとくにこの救済の能力に優れた菩薩であり、時間・空間をこえて大量の衆生を救うパワーを示すため、千手千眼などの姿で表現される。無数の観音の顔が睥睨するバイヨン遺跡も、この観音の救済力を示しているのは明か。
 
 ところが今、ジャヤバルマンの建てた僧院を訪れても遺跡の中に仏の姿はない。たまにあっても顔が削り取られていたり、首を切り取られている。そして柱に刻まれた立て膝・長髪のヨーガ行者をよくみると、結跏趺坐をする仏様の姿を上書きしたものである。また、かつて大乗の仏菩薩が祀られていた僧院の中心点には、シヴァを象徴するリンガ(シヴァ神の男性器の象徴)が祀られている・・・。

 どうしてこうなったのかというと、七世の死後四半世紀くらいして即位したジャヤバルマン八世がヒンドゥー教徒であり、仏教徒である七世の偉業をすべて否定したから。

 仏像の破壊に手を下したのはヒンドゥー教徒の王だけではない。一般の民衆は、じつは今にいたるまで恒常的に遺跡の破壊を行ってきた。「遺跡には金が埋まっている」という噂がたちゃ遺跡を掘り返し、石と石を繋ぐ鉄製の金具が欲しいといっては石組みを壊し、骨董品として売買するために仏の顔をけずったりもした。このような人々は寺院に対しても仏に対しても恐れの気持ちも崇拝の気持ちも当然ない。この人たちは遺跡の近くに住んでいても、アンコール文明をつくりあげた人々とは遠く離れたところにいる。

 はっきりいえば、今のカンボジア人にアンコール文明を築いた人々の心性との連続性ははみいだしづらい。

 昨年カンボジアを訪れた観光客の数は300万人である。当然、多くの人が観光業に携わっているから、アンコールワットは彼らにとって大事で特別な存在である。しかしそれはあくまでも商売のネタというだけで、そこに祀られている神々や王を尊敬して大事にしているわけではない。

 象徴的な言動はわれわれのガイドさんの口からも聞けた。アンコールワットの大回廊で天人(神)と阿修羅の戦闘シーンを解説している時、彼は我々にこう言った。

 「私はねカミサマを信じていません。カミサマは人間がどんなに困っていたって見ているだけ。いろいろお供えしなきゃお願い聞いてくれない。」

 確かに、ヒンドゥー教においては神は供養(プジャ)して願いごとをする。また、ガイドさんによると今のカンボジアの仏教もヒンドゥー化していて、現世の頼みごとを仏様にしているだけで、仏教の修行をするためにお寺を訪れる人はまれだという。

 ガイドさんの神や仏に対する不信感を聞いていると、キリング・フィールドに「マジック・ツリー」という木があったことを思い出した。その木の前にたってオーディオをつけると、「この木は菩提樹といい、仏がその下で悟りを開いた聖なる樹木です。この木にはポルポト時代拡声器がとりつけられており、革命歌を流したり朝礼の音楽を流したりしてしていました。それはこの場所では処刑ではなく普通の集団生活が行われているかのように外部の人にたいして偽装するためでした」という解説が流れた。
 
 あの地獄のポルポト時代、処刑されていく人はこの菩提樹を見ながら、自分が殺されようというのに、神も仏も何もしてくれないと思っていたのかもしれない。今のカンボジア人の神仏に対する不信はポルポト時代の地獄が生み出したもののような気がする。

 しかし、人と仏の関係は、人がお願いして仏が救済してくださるといった単純な関係ではない。仏様はそれに近づくために努力する目標であっても、われわれのいいように使えるような対象ではない。お釈迦様が自分の生まれた国がコーサラに滅ぼされるのを見送ったというエピソードが示すように、仏教の真理は世俗の事がらとは別次元にある。涅槃や解脱の側から世俗に近寄ってくることはなく、世俗の側から近づいていくしかない。人が世俗の自我意識(オレがオレがという意識)を克服し、利他の心をもって初めて、近づくことができるのである。利他の菩薩行ぬきで、ただ「自分を助けてくれ」と叫んでもその叫びはどこにも届かない。

 ポルポトの地獄は仏様や神様を否定した不信の社会から生まれたものだ。「殺すなかれ」を説く知識人や聖職者が存在する社会には、惨劇はおきない。利他の気持ちが消えた時に、地獄が生まれたのだ。

 カンボジアに二年お住まいのAさんはこういっていた。「聖職者が消えた後に、虐殺が起きました。私が知らないだけかもしれませんが、今のカンボジアには、心をうつような話をする僧はいません。カンボジアの人と仲良くなっても、「お金持ちになりたい」とかいう話ばかりで、何かチベット人のような深みのある話がきけないんですよ」とのこと。
DSC01267.jpg

 ポルポト以後のカンボジアはそれ以前の社会と断絶し、今のカンボジアの人たちインド文化に帰依した先人たちとは異なるものとなってしまつた。今のカンボジアはむしろチベットよりも日本により近いだろう。日本も敗戦とそれに伴う焦土化で、古い社会とのつながりを完全に失いモラルの崩壊と宗教心の消滅を経験し、物質主義一辺倒となった。ワビサビ、茶道・華道などのスタイリッシュな日本文化に憧れて、日本にやってきた外人は今の普通の日本人と話をしても、伝統と何の連続性もみいだせずがっかりすることだろう。

 さてそれでは、以下に自分のめぐったアンコール遺跡群の備忘メモ。

●バイヨン(12末)ジャヤバルマン7世。マンダラ状の建物であり、中央の本尊にむけて東西南北が四通している。その間に小部屋があり、上からみると法輪状に部屋が配置されている。

●パプーオン1060年頃、寺までは地上から数メートルの欄干の上にしつらえられた桟橋状の参道を歩く。学生Iくんは「この欄干をもって帰りたい」と心酔していた。パプーオンのてっぺんには蓮が花開いていて、ステキ。

●象のテラス 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立。ガイドさんによると、アンコール・トムを作るために石を運んだ象を顕彰しているとのこと。

●クリアン 11世紀初、ジャヤーヴァルマン5世、スーリヤヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教。

● バンテアイ・グティ  12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立。あたかもミニ・アンコールワット。上智大学が井戸をほっているうちに、首のない仏様多数をみつける。ジャヤバルマン七世の息子による仏教弾圧の結果。イオンがこの博物館をつくって国王に寄進したとか。

● プレ・ループ : 961年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)の寺院。アンコール遺跡群は古層のものはレンガ作りで、後にラテライトに移行する。ここは古いレンガ作り。王家の火葬場であり、焼き場となった部屋と焼き上がった骨をココナッツミルクで洗う場所がある。洗骨の習慣って南方系だわ。

● 東メボン  952年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)の寺院。ここは昔は東バライ(貯水池)の中にある島で、船でわたって祭りをやる場所だった。建物の四角に象がいる。遺跡はかつてしっくいに覆われていた。しかし漆喰は全部はがれおち、漆喰をとめるための穴がぼこぼこ残っている。

● ニャック・ポアン ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。観音菩薩の化身した馬バラーハを祀る。中央の山を中心に東西南北四つの池があり、その四池はそれぞれ中央の池から馬(風)・人(水)・象(土)・獅子(火) の口からそれぞれ流れでる水によって作られている。ガイドによると、昔は病気になるとその病気の性質により、それに応じた池の水を飲んだという。二年前のタイ水害の時、ここは水につかり、なかなか水がひかないため観光禁止になっていた。最近、遺跡の全体が見える位置まではいけるようになったがまだ中には入れない。

●プリヤ・カーン : 1191年、ジャヤーヴァルマン7世建立。チャンパとの激戦地後に建てた僧院大学。中央にはジャヤバルマンの父王の骨をおさめたストゥーパが君臨し、父王は世自在(観音)として祀られている。

● タ・ケウ1000年頃、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。王の死去のために未完成のまま。石の角がよくのこっている。
胡錦涛がカンボジアにきた際に、この遺跡の修復代をだすことを宣言し、中国の国威発揚の場となっている。しかし素朴な疑問なのだが、中国は自国内の文化財をつい近年文化大革命に破壊し、その後も修復を適当にしたため国際機な批判にさらされているのに、他国の文化財を復元する能力はあるのだろうか。

● タ・プローム 1186年、ジャヤーヴァルマン7世が母に捧げた寺。母般若波羅蜜多菩薩として祀られている。ここはインドが国威発揚して遺跡の修復にあたっている。


●ベンメリア 12世紀、おそらくスーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。ここはまだ修復をしていないので、発見された直後の遺跡の状態を知るにはいい。足場がめちゃめちゃに悪く、ねんざとこぶに注意(わたしは両方やった。次の日マッサージでそこを揉まれて飛び上がった)。ガイドが「ラピュタ」「ラピュタ」というのでついていくと、本当にラピュタな場所があった。二年前には訪れるものも少ない遺跡だったが、今は中国人観光客で一杯。

●バンテアイ・スレイ 967年、ラージェンドラヴァルマン2世、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。
 アンドレ・マルローがここから天女像を盗んでプノンペンの刑務所にはいったのは有名。天女像はもとの位置に戻すことを条件に半年後に釈放された。この時の体験を彼は「王道」という小説にしている。小説ではこの遺跡は密林に囲まれてるのに、実際いってみたら水牛がのどかにみずにつかる平原の中にあって、ムードなし。マルローの天女像より膝をついて合掌するガルーダ像の方が逸品である。

※ 私はカンボジア史は素人なので、カンボジアの歴史や考古については原典に基づいて裏を取っていません。そこのところよろしくお願いします。
[ TB*0 | CO*0 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ