白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/08/04(日)   CATEGORY: 未分類
チベット・イン・モンゴル(街歩き編)
 ウランバートルの街歩きは中心にあるスフ・バートル広場から始めよう。見所は大体この広場から歩いていける。北京の天安門前広場、モスクワの赤の広場同様、社会主義政権時代の国家儀礼が行われた場で、中心にはモンゴルの人民革命の立役者スフバートルの像がある。
13チンギス
↑スフバートル広場のチンギス像

 この街はもともとチベット仏教の大僧院、ガンデンの門前町であり、"モンゴルのダライラマ"ジェブツンダンパの所在地として有名であった。ハルハ(今のモンゴル共和国の地にあったダヤン・ハーンの第十子の子孫である四人のハーンの君臨する地域)が、ジュンガルとの抗争に敗れて、1690年に清朝に服属すると、この街には清朝風味も加わった。

 それは三百年つづいたが、20世紀に入って人民革命がおき、モンゴルのスターリンチョイバルサンが現れると街の姿は一変した(ちなみに広場の南に政治粛正博物館もあるが、Openと書いてあったのに開かなかったので残念ながら閲覧できず)。中国の影響を思わせる清朝時代の建造物はソ連によって破壊され、宗教を理解する頭をそもそも持たない社会主義はチベット僧院を破壊した。遊牧王侯もチベット仏教僧たちも粛正された。

 町並みはソ連的・ロシア的なものへと激変した。

 チンギス・ハンの長男の家系はかつてロシア平原を支配しており、ロシアの起源となったモスクワ大公国も、現在ロシアの領域にある数多くの地域も長男の末裔たちに支配されていた。この事実はモンゴルを子分と考えるソ連には大変に都合が悪かったため、チンギス・ハン研究は御法度となった。今回あったモンゴル人も、祖父が収容所に入れられていたという。歴史を知っている人=モンゴル人としての誇りをもっている人=収容所と、当時のモンゴルは今のチベットのような状況だったのだ。

 潮目がかわるのはソ連が崩壊した1991年以後。、モンゴルが民主化するとその反動でどばーんとナショナリズムが勃興し、チンギス・ハーンが大復活を遂げた。今やスフ・バートル像を高見から見下ろしているのはチンギス・ハーンの巨像である。郊外にはチンギス・テーマパークもあり、土産物はソヨンボ(モンゴル国旗)にチンギス・グッズといった具合に、モンゴルはチンギスまみれである。

 それでは社会主義時代の巨大な建造物、韓国・中国資本による近代的な高層ビルは華麗にスルーして、モンゴルの街角に残るチベット世界へとご案内いたしましょう。

ボグド・ハーン宮殿博物館
 まず、足を運ぶべきは広場南にあるボグド・ハーン宮殿博物館。ここは最後のジェブツンダンパが晩年を過ごした宮殿である。ボグド・ハーンは1911年にモンゴルが清朝から独立した際にモンゴルの政教一致の君主の座に推戴された僧侶であり国王である方である。
13冬の宮殿1

 この宮殿には彼と妃の王座(チベットの佛像の台座と同じデザイン)、ベッド(満洲王室のものと同じデザイン)、正装(これは満洲王室そのまま)、彼が使用した印璽類(ダライラマの印璽と箱のデザインと称号内容がほぼ同じ)などが並んでいる。ちなみに、正殿は清朝風だが、冬の宮殿の建物はT君によると、当時のロシア領事館と同じ設計図で建っているそうな。ジェブツンダンパは新しがりだったらしい。
13冬の宮殿2

 ダライラマがノルブリンカ離宮に珍しい動物を集めて愛でていたように、ジェブツンダンパも多くの動物を冬はマイナス30度になるこの地で愛でていた。一階にある多数の剥製はそれである。ペンギン以外は大変につらい思いをしたことだろう。寒さに弱いオウム類などはどうしていたのだろう。

 チベットのような、満洲のような、ロシアのような不思議な空間である。

チョイジンラマ博物館

 さて、宮殿博物館を堪能したら、今度はジェブツンダンパの弟さん(1871-1918)がシャーマンとして駐在していた寺へ。今この寺はチョイジンラマ博物館という名に変わっている。

 寺としてはもはや機能していないが、中身が破壊されずに当時のまま残った唯一の寺院である。中身は一言でいえば、ラサにあるお寺をそのまま見ているような感じ。シュクデンの像もどばーんと飾ってある。ちなみに、チョイジンラマのチョイジンとはチベット語のチューキョン(chos skyong=護法尊)がなまったもの。ダライラマ政権にはネチュン祀に駐留するシャーマンがチューキョンをおろして政治のアドバイスをしていたが、同じように、ジェブツンダンパ八世はこの寺に駐留するシャーマンにチューキョンを降ろして託宣を獲ていた。シャーマンの装束も全く同じである。13チョイジンラマ

 このように、中身はチベット風なのだが、外見は清朝のチベット僧院建築。
 北京の雍和宮をはじめとし清朝資本が入ったチベット寺にはお寺の名前が、満洲語・モンゴル語・漢語・チベット語の四体字で記されるが、この寺も清朝から興仁寺という漢語名をもらっている。建物のデザインは清朝風で、ちょっと北京の西苑にいるような感覚である。
 
ザナバザル美術館

 はいお次は広場の西から歩いてすぐのところにあるザナバザル美術館。ザナバザルってサンスクリット語のジニャーナバジラが訛りたおして結果で、ようはジェブツンダンパ一世の幼名である。モンゴルではジェブツンダンパ一世は"モンゴルのダヴィンチ"というキャッチがついており、彼の名前を冠した佛像の様式がザナバザル様式として知られており、21尊ターラー像などがとくに有名である。

 私は前々からこの"モンゴルのダヴィンチ"説には疑問をもっている。ジェブツンダンパがチベットからモンゴルに帰国する際、ダライラマ政権は僧院運営にたけた僧侶や僧院内に安置する仏画や仏像をつくるための技術者をつけたと同時代に記されたジェブツンダンパ一世伝に描かれている。しかし、この伝記には彼自身が仏像制作をしたとの記述がないのだ。彼の著作をみても仏像制作にかかわるものはみられない。ここから推測するに、チベットからきた仏師集団がジェブツンダンパの宮廷内にモンゴルに新しい様式をもたらし、それが彼の名前を冠して伝えられるようになったのではないかと。ちなみに、仏教美術は二階のみで、一階は突厥碑文など古代の展示物が並ぶ。

 帰国後、唐の歴史を研究しているI先生から「石濱さん、ザナバザル美術館いった? あそこに突厥の墓誌あったでしょ。あれ出土地点ともども見に行きたいんだよね。」と言われた。私は「え?墓誌ですか?少なくとも展示はされてなかったですよ」と答えたが、よく考えたら、古代の展示が行われている一階をスルーしていた。
 なので、「ごめんなさい。そもそも一階行ってませんでした」と訂正をいれる。でも私は知っている。彼がもしモンゴルいったら絶対二階には行かない。限られた時間で専門の情報を集めるとなると、どうしてもこうなるのだ。

モンゴル国立博物館

 さて、広場の北西にはモンゴル国立博物館がある。この門前には陰気なモニュメントがあり、キリル文字を読むと「モンゴル人たちよ! あの暗黒の日々を忘れるな!」との、文字が刻まれている。チョイバルサンの粛正の嵐が吹き荒れた日々に命を落とした人達への鎮魂碑であった。ここにくれば、モンゴルの歴史が古代から、20世紀初頭のジェブツンダンパ八世を国王に推戴した独立までの歴史が一覧で分かるようになっている。今回国際チベット学会が開催されている間、三日間だけ「モンゴル人たちがチベット語で記した文書遺産」という展覧会が開かれていた。この展示品はチャンバ師(BYAMBASA Ragchaa)というこの博物館のチベット語セクションで働く僧侶の方の個人的なコレクションで、このコレクションをポーランドのアガタ氏がアレンジしてこの展覧会の開催に至ったのだ。13国立博物館

 会場で目を引いたのは、ダライラマ13世が、ジェブツンダンパ8世におくった別れ(イフフレー=ウランバートルをさる)の手紙。Kくんが、「これ、ダライラマ13世の筆跡で、印璽も同じだ」と目を輝かせていた。じつはダライラマ13世がモンゴルに滞在していた折の史料集The Thirteenth Dalai Lama on the run (1904-1906) が丁度ヨーロッパの出版社ブリルから出たばかりなので(ちなみに、この史料集一冊で300ドルというすごい値段なのだが、会場では150ドルになっていたので私も買った。)、論文化できる確率が高い。K君がんばってくれい。

 博物館の売店には、この博物館のカタログがモンゴル語と韓国語で並んでいた。日本語はない。モンゴルにも韓国のプレザンスは大きい。モンゴル語版のカタログをかって領収書をと請求すると、「丁度きれたばかりでない」と断られた。Kくんに買ったばかりの博物館のカタログをみせると、「僕も欲しい」と彼も売店に買いに行った。戻ってきた彼をみると、彼のカタログはちゃんと袋にはいって手に提げられるようになっている。微妙にサービスの差を感じる。そいえば会計は若い女の子だった。Kくんがイケメンの日本人なのでサービスしたのかも。同じことをTくんも考えたのか、「Kくんがいったら領収書きってくれるんじゃないの?」と冗談でいったので、私も冗談で「Kくん、領収書とってきて」と頼むと、たぶんKくんもネタで交渉にいってくれた。しばらくすると、本当に領収書がでてきたのである。会計の女の子は二階までとりにいってハンコまでついてくれたのである。なんなんだこの待遇の差は。それをみたTくんが「じゃあぼくも結構買ったから領収書もらってこよう」といってしまった。

 交渉相手が若い女なら若い男を送り込め、男なら若い女だな、これが私が今回モンゴルで学んだ教訓である。
 
 ルーリヒ博物館

 さて、みなさんはニコライ・ルーリッヒ(1874-1947)の名を聞いたことがあるだろうか。神秘主義者・歴史家・画家として著名で、世界に先駆けて文化財保護活動をはじめた人としても名高い(加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』)。20世紀初頭に中央アジア・チベットを探検し、チベット仏教の聖地シャンバラを題名にした本も出版している。実はこのニコライ・ルーリッヒが中央アジア探検に旅立ったベースとなった建物が、今もウランバートルの東部に残っていてルーリッヒ博物館となっている。 これは日本資本で開館したものらしく、館内には日本語の標語がはってあったりした。新興宗教かなと思いスタッフに聞いてみたが、この博物館を支援している日本の団体名は言わなかった。ウランバートル唯一の正教会を目印にしてタクシーにのるとみつけやすい。庭先にはチベット式チョルテンと管理棟のゲルがある。
13ルーリッヒ

ガンデン大僧院(dga' ldan theg chen gling)

 トリを飾るのはやはりウランバートル西部にあるガンデン大僧院でしょう。この寺はハルハでもっとも古いチベット僧院であり、街はこのガンデンを中心に形成された。いわば中核である。社会主義の時代にはほとんど更地にされてしまったが、今は復興の象徴となっている正面の観音堂を中心にぼちぼち諸堂の再建が進んでいる。目に付くのは観音堂のむかって左手にある大きな建設中のお堂である。集会殿や僧の生活房や図書館が一体になった建築物らしくダライラマ14世の資金で建設中とのこと。正門をはいって右手にある塀で仕切られた区域は(オンマニペメフンの掲げられた門を入る)、俗人対応の法要が行われる建物が並ぶ。私が訪れた時は丁度ラマが曼荼羅をかかげて、その曼荼羅にむすびつけた赤と青のリボンをみなでつかんで加持をうける儀式をやっていた。もぐりこんで加持をうける。
13ガンデン法会

 お加持が終わると、諸堂をコルラ(巡拝)して、経典を頭にのせて頂く。悩みのある人はラマにカウンセリングもしてもらえる。この俗人むけ区域の北側には僧侶が修行と学問に励む学堂が四つ、デチェン・カルパ学堂、タシ・チュンペー学堂、イガー・チュージン・リン学堂、クンガー・チューリン学堂、左手には密教学堂と並ぶ。中での仏像の陳設の仕方、ゲコ(dge sko)が若者僧たちを管理するやり方は南インドのチベット難民社会の僧院の風景を彷彿とさせる。それもそのはず彼らはみなダラムサラや南インドで勉強してここに戻って後進の指導にあたっている。ちゃんとゴマン学堂もある。西洋人観光客とともに彼らの勉強を邪魔しないようにのぞき魔のように学堂の入り口から中を見守る。

 このように、ガンデン大僧院にはなにげにダライラマ法王のプレザンスが感じられる。学堂の本尊前の導師の座には、ダライラマ14世のご真影が飾られているし、境内のあちこちにはポスターが貼られ、年末にダラムサラで行われるダライラマ法王を導師とするカーラチャクラ灌頂への参加を呼び掛けている。

 俗人の世界は中国と韓国とつながっているが、ここガンデンはインドの風が通っている。

 ガンデンの拝観が終わったなら、東門からでて、スラム地帯をぬける道を東にずっといくことをおすすめする(治安が悪いので自己責任で)。大通りにつきあたった左手にはペカル廟がある。ここの本堂はカウンセリング場となっており、悩める人々が一人一人僧侶の指導を受けることができる。ペカル堂の道をはさんで向かいはバクラ・リンポチェの僧院である。デザインは完全に南インドのチベット僧院と同じ。

 ウランバートルの街は狭いが、東のルーリッヒ美術館から西のガンデンにいくにはやはり距離がある。この場合タクシーがおすすめだが、モンゴルのタクシーは日本のタクシーのように車に特別の目印はない。あえていえば「独りでのっている車はみなタクシー」(見方を変えれば白タク)。ふっかけられるのではないかとタクシーを敬遠する人も多いが、私は気にせず乗った。それは、スリやよっぱらいに絡まれたり、マンホールにおちたり、車にひっかけられたりと歩く方が危険が大きいからである。 ホテルで大体の値段を確認して、行き先だけモンゴル語で言えれば、あとは無口なふりをしていればたいがいぼられることはない。

 ただし、時間帯によっては渋滞がひどいので、その際はやはりタクシーではなく歩く方がいい。渋滞の原因は道を封鎖して行う非効率で長期間にわたる工事や、昨今の人口増をうけて、街のインフラがおいついていないことがあげられる。かててくわえて、モンゴル人の交通ルールがカオス。 T君がいうには「モンゴル人は馬にのる感覚で車にのるので、一人で一台にのって、公共交通機関を使わないので車の台数が増えるんです。また、日本だと、横道から入ってくる車がいると、暗黙の了解で一、二、一、二といれていくじゃないですか。でもモンゴルだと、いつまでも入れてもらえないので渋滞するんですよね。前の車がゆずってやろうとすると、後続の車がいれるなとクラクションならしたりするし。だから渋滞が減らないんですよ」という。

 その話を同じホテルの関西からきた若手研究者にしたら「センセ、それは関東の話ですよ。関西ではやっぱり道をゆずりませんから。」と言われた。

 食事については1000円くらいはらえば、タイ料理でも韓国料理でもウクライナ料理でも結構美味しいものが食べられる。カフェもおしゃれな内装な店がいろいろなところにあるので、町歩きにつかれたら入ってお茶もできる。ウランバートルはあるいて丁度いいサイズの街である。ただし冬は激しく寒いので、街歩きするならやはり夏の三ヶ月をおすすめする。草原も夏の方が美しい。

 最後に、モンゴルらしい写真ということで、夕飯にお呼ばれしたIさんの別荘の近くの風景。流れているのはあのトゥーラ河。
13モンゴル別荘
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