白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/10/15(火)   CATEGORY: 未分類
アキャリンポチェとモンゴルの小児ガン病院
 アキャ・リンポチェはモンゴルにおいて小児ガンの子供を治療するための病院をたてるべく奔走していらっしゃる。
 モンゴルの冬は長く厳しいため、コンクリートが固まらない冬期は建設作業はストップする。リンポチェはこの夏の建設作業を監督するために、モンゴルに四ヶ月滞在され、十月の初めに帰国の途につかれた(実は六月に早稲田にリンポチェをお迎えしてお話をして頂いた際は、リンポチェはモンゴルに向かう途上であった。)。

 10/16日、日本の支援者と懇談の場を設けられたものの、いきなり決まった会食であったため、私は予定が合わず失礼させて頂いた。にもかかわらず、リンポチェは私とダンナのそれぞれにモンゴル・カラーの青いカターとお数珠を人づてに渡してくださった。その会の席上で、リンポチェは

「2011年からモンゴルの子供がん治療センターの建設に着手し、今年(2013年)9月21日に7階建ての外装工事が終わりました。建設中の病院には、75台のベットが用意され14人の医師が治療に携わる予定です。 モンゴルの11局のテレビが病院建設の様子を伝えました。 建設資金としては、建物の外装、内装、諸設備で約200万ドル掛かる見込みです。今回までに80万ドル集まりました。まだ120万ドル不足しています」と話されたそうだ。

ちなみに病院建設に冠する英語のサイトはここ。モンゴル語のページはここ

 前のエントリーの殺害されたアコン・リンポチェも、このアキャ・リンポチェも、高僧としての知名度によって基金をつくり学校や病院を建設してチベット人やモンゴル人の福利につくしている方たちである。チベット仏教が重視する一切の生き物に対する慈悲心が慈善活動という形になっていることは言うまでもない。彼らが必要であることはチベットやモンゴルの状況を考えると明かである。

 中国政府はチベット人の住む地域に漢人を制限なしに流入させているために、1959年以後、チベット人はものすごい早さで母国語とその文化を失っている。また、チベット人は二級市民扱いをされているため、経済的に漢人よりも厳しい環境下にあり、弱肉強食の中国社会では病院にかかる、学校に行くことさえままならない人も多い。このような状況をみて、亡命した高僧や外国の支援団体が、チベット人向けの学校を作ろう、病院を作ろうなどと考えるのは当然であろう。

 しかし、それをやった人々がどうなったか。欧米発の支援団体は様々な理由をつけて追い出され、追い出されなくともアムドの遊牧民のための診療所などを開いても、中国政府が牧民たちを強制的に別の地に定住させたり、村ごと移住させたりするため、支援対象が目の前から消えていく。

 また、支援者が中国国籍だとさらに悲惨な結末が待ち受けている。テンジン・デレク・リンポチェはチベット人居住域に学校や病院をたてる活動を行っていたところ、2002年に成都における爆弾テロにかかわったという容疑で逮捕されて死刑判決を受けた。ダライラマの非暴力の教えを奉じるテンジン師がテロリストってありえないだろ、との国際的な非難をうけて、判決は無期にまで後退したが、彼はまだ牢獄の中である。

 そして、彼のたてた小学校は今は漢人の移民が住み、養鶏場・屠殺場となっている(本当)。今回、アコン・リンポチェについて暗殺説が飛び交うのも、テンジン・デレク・リンポチェが無実の罪で刑務所に入れられているという背景があるからである。

 これまでの経緯をみると、誰がみても、中国政府はチベット人が望むことに応えるよりも、彼らが望んでいない「早く漢人に同化して、チベットを名実ともに中国の不可分の一部にする」ことに熱心なように見える。

 さて、アキャ・リンポチェに話を戻す。アキャ・リンポチェのフィールドはなんといっても民主国家のモンゴルであるため、今のところ障害はない。なぜモンゴルで支援を行っているかについてはアキャ・リンポチェの自伝「竜(=中国)を生き延びて(Surviving Dragon)」の冒頭にのせられたダライラマ14世の序文が参考になる。

 アキャ・リンポチェは亡命前にアムド(現青海省)のクンブム大僧院の僧院長をつとめていた。このクンブムはゲルク派(チベット最大宗派)の開祖ツォンカパが生まれた地に、1588年にダライラマ3世が建立した僧院で、アムドの僧院の中では最大規模のものであり、格式も高い。このクンブムはとくに13世、14世ダライラマと縁が深い。
ダライラマ13世は1904年に英軍に追われてチベットから出た後、モンゴル、北京を経由して1909年にチベットに帰国するが、その間、クンブム僧院でかなりの日数を過ごし、クンブムの寺規なども編纂している。

 そのせいかどうかダライラマ14世はクンブム大僧院の近郊の村に生まれ、ダライラマの長兄は法王が生まれる前にすでにクンブムでタクツェル・リンポチェ(トゥプテン・ジクメ・ノルブ)という化身僧として迎え入れられていた。ダライラマ14世は中央チベットに迎えられる前にここクンブムで過ごし、法王は「自らの僧院生活はこのクンブムに始まった」と述べている。
 つまり、アキャ・リンポチェの僧院は歴代ダライラマ法王ゆかりの寺なのである。

 よく知られているようにダライラマの長兄は法王よりも先にアメリカに亡命して、法王亡命の地ならしをhttp://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=690#した。長兄はその後還俗し、アメリカで教鞭をとる傍ら、インディアナ州のブルーミントンにチベット文化センターを開いた。あの激動の時代、多くの僧侶がいろいろな理由から僧衣を捨てたが、ダライラマの長兄もその一人であった。この長兄が病に倒れ、センターの運営に支障を来した時、ダライラマはアキャリンポチェにこのセンターの未来を託した。

ダライラマ「私の兄もクンブムの僧院長だったから、〔同じくクンブムの僧院長であった〕彼がブルーミントンにくることは適当だと思われた

私はこの法王の言葉を見て、アメリカのセンターの後継者ですら、伝統的な人脈を考慮して決めていることに感銘を受けた。まるで共産党や中国のもたらした災禍か何もなかったかのようにすっと引き継ぎが行われている。

 アキャ・リンポチェは幼い頃にチベットが失われ、青年期は文革に翻弄され、成人してからは中国政府の機構内で政治利用されながら、チベット仏教の復興に携わるという、伝統に則った生き方をできなかった方である。アキャ・リンポチェの若い頃の写真をみると、人民服であり、長じてからもチベットの俗人の衣装の姿が多い。ダライラマの長兄タクツェル・リンポチェ同様、俗人の服をきることを余儀なくされた人生だったのである。彼こそまさにタクツェル・リンポチェのいろいろな思いを一番理解できた人物といえる。アキャリンポチェが高いモチベーションをもって法王の命令に従ったであろうことは想像に難くない。

法王曰く「結果として、今やこのセンターは西洋におけるクンブムの伝統を象徴するものと考えられている。アキャ・リンポチェはモンゴルの牧民の家に生まれていることを考えると、センターの機能はモンゴルの仏教徒にまで及ぶのが適当だと思われた。今、このセンターはアメリカにおいて、チベット人のコミニュティばかりか、モンゴル人コミニュティに利用されているので、チベット・モンゴル仏教文化センターと改名した

 伝統の力がじつにうまく機能している。
 リンポチェはもう法衣をぬぐことはないであろう。六月にリンポチェが来日された折、英文版の自伝にサインをして頂いた。そして、これはもっていないでしょうといって、モンゴル語版の自伝を下さった。自伝の和訳については某Mさんが英文版のもとになったより情報量の多い原稿から和訳しようという計画があるらしく、調整中とのこと。

 しかし、すぐに出版というわけではなさそうなので、次のエントリーで私の興味をひいたアキャ・リンポチェの自伝中のエピソードをご紹介します。
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